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Essay 987:こぼれ落ちる雑魚リアリティ

 〜悪魔とは正義を唱える者である(旧約聖書)
 〜戒律調教派と自然共生派という人類の二つの系譜


2021年04月25日
 写真は、たまには毛色の違った写真で、プリプリ海老のラクサ。オーストラリアのエビはなにげに美味いですよ。ビーフよりも美味いんじゃないか。
 ところで、このエビをみて「プローン」(Prawn)と口をついて出るようになったら、君も立派なオージーだ。"G'day Mate"と口にするよりも信憑性あります。ここでシュリンプとか言ってるようではまだまだ(笑)。
 場所は、Thai Paragonとかいう店で、Marrickvilleにあります。Marrickville RdとVictoria Rdの角付近。同じくThai Pothon(有名なニュータウンの店の姉妹店かな)もあります。どっちもランチは安くて美味いし、NSW版のGo to Eats25ドル券(Dine NSW)がつかえます。



 今週はちょい趣向を変えます。ネタの素をそのままゴロンと転がします。

 1976-7年という、今はから半世紀くらい前の時代(田中角栄のロッキード事件後くらい)の文藝春秋の対談(司馬遼太郎氏と山本七平氏)から抜き出したものです。雑誌から本に編纂され、僕が持っているのは司馬遼太郎 八人との対話(文春文庫) でした。

 かつての引っ越し断捨離・1700冊見境なしにスキャンした一冊ですが、ときどきタブレットで読んでます。スキャンしたほうが読みやすいですね(字も大きくなるし)。


 亀の甲より年の功なのか、昔読み流してた部分も、今読むと「うわ、めっちゃ鋭い」とインスパイアされます。今度のエッセイのネタにしよっととかメモったりするんだけど、だんだん量が多くなってきて収拾がつかなくなってきたので、面白いなーと思った部分(の一部)を切り取って、ここにゴロンと転がしておきます。

 なんで面白いと思ったか?は並列して書きますが、まずは並べておきますので国語の試験問題みたいに読んでみて、続いて大学の学内試験みたいに「この所論について思うところを論ぜよ」とご自身で書かれてみると面白いかも。いい考えのネタになりますよ。


こぼれ落ちる雑魚リアル


 70年代の対談ですから、皆さん当たり前に戦争体験があるのですよね。今から思うとすごいんだけど、当時はそんなに凄い話でもないから、普通の思い出話や雑談として語れる。

 時が下るに連れて、戦争は特別なものになっていって、戦争体験を語り継ごう的な(それ自体は良いことだと思うけど)、なんかしら思惑が入るんですよね。こんなに悲惨で、こんなにも愚かであるという啓蒙的な側面。あるいは、人間愛など大きなテーマにまとめていく映画大作的な方向、戦争マニアックな方向で、ゼロ戦は三菱だけど飛燕は川崎重工で〜みたいな方向、あるいは政治的な方向。

 それらについて不満も異議もありませんけど、ただ、こぼれ落ちるリアリティというのはあるだろうなーと思ってます。あまりにも地味で、あまりにも普通すぎて、だから物語とか「売り」がないから語られない。語られないから伝わらないまま消えていき、超大作的なとんがった部分だけが残っていくという。

 それについてはちょい疑問があるのです。リアリティがないんじゃないか。リアリティがなければ、正味のところ僕らは何も感じないし、学べないんじゃないか。

 例えば、高校野球について語ろうといえば、甲子園の名場面集とか、悲劇の投手とか、そういう方向にいきがちでしょう。まあ、面白いしね、感動するしね、当然だとは思います。スポーツ選手といえば、全国的に有名とか、オリンピックレベルの話でしょ。

 だけどさ、高校の体育会系部活のリアルでいえば、99%以上の人達がそんな華やかな舞台とは関係ないです。地区予選だって、一回戦で負けて終わってしまうのが50%もいるのですよ。数学的にそうでしょ。その一回戦負けだってレギュラーだったらまだしも、3年やってて全部補欠って人だって結構な数いるわけでしょう?そもそも地区大会すら出場できない(人数が足りないとか)というレベルだってあるわけです。

 つまり、この世の99%以上は、言ってしまえば「語れることのない雑魚レベル」であり、しかしリアルという意味でいえば、この雑魚レベルに焦点を合わせないと、本当のニュアンスってのはわからないんだと思います。それを甲子園名勝負だけにフォーカスしていると、そのあたりが見えなくなる。後の世代に、高校で野球部だったら、皆がみんな甲子園で名勝負をしてるかのように伝えられてしまう。

 僕も高校で柔道部やってましたけど、よく描かれるような「鬼より怖い先輩」なんか一人もいませんでしたよ。進学校のぬるい部活であったとはいえ、ちょい上の世代は都大会で個人戦ベスト8までいってるから、まんざら弱いわけでもない。でも先輩たちはみな紳士的で優しかったです。そりゃ練習はきつかったですけど、へばってると竹刀でビシバシと、なんて漫画みたいな世界じゃないです。今思い出しても楽しかったし、一番覚えてるのは、部活が終わった後、夕陽に照らされながら、皆で連れ立って駅まで帰る途中、コーラのホームサイズをがぶ飲みしたり、買い食いしてバカ話をしてるときの楽しさです。これが高校部活の雑魚レベルのリアルだったと思うし、雑魚でごめんねーって感じだけど、雑魚は楽しいですよ。講道館の都大会に出て、国士舘とか拓大系の、もう旧帝国陸軍的な、極道一直線的な物凄い雰囲気を見て、「こんな人達本当にこの世にいるんだー」と思って、そんな柔道部に入らなくてよかったと心から思いましたもん。

 そんなもんすよ、リアルなんて。だから戦争だってそうなんだろうなーってうっすら予想はしてました。

 そこでこの文章にぶちあたって、「なるほど」とすごくリアルが分かった気がしたのですよ。なるほどね、当時兵隊さんになるというのは、今の就活、特に公務員就活とほとんど似たような感じだったんだなーと。あと、日本人の8割が農家だったというし、次男坊以降は浮浪者予備軍的な宿命をもっていて、食うために必死的な背景もあったと。

 ここにも書かれてますが、内部昇進試験でクソ勉強して受かる、准尉になったら退職金が出る。そのあとの準老後みたいな人生設計が「少し田畑を買って、恩給で最低限の食費をまかない、女房は少しばかりの畑を耕し、自分は役場の書記か体操の教師になり、朝晩ニワトリの世話をする」「それが夢」だというのは、ものすごいリアリティあります。てか、「いいなー、それ」って思いますもん。あなたもそう思わないか?現時点で、公務員になるよりも良いじゃないか。

 それをもって「軍国主義が日本の社会に浸透し」とか表現するのは、ちょっとニュアンスが違う気がします。もちろん、こんなんばっかではないんでしょうけど、当時の日本人からみた兵隊さんや軍隊というのは、そういう見られ方や使われ方をしていたんじゃないかなと。

 そのあたりのこと、つまり物事のリアルとは何かというのを、この下りを読んで考えさせられました。

日本の定型フォーマット〜上が馬鹿で、下の現場が帳尻を合わせる


 このあたりは有名な命題なんで多くを語る必要もないでしょうけど、しかし、今のコロナを見ててもそう思いますね。日本だけじゃないような気もするけど、特に日本は上と下の対比が鮮やか過ぎる。

 日本のエリートさんがともすれば「型」「不文律」「掟」に縛られて、非合理的で愚劣な方向に走りがちなのは、ことあるごとに指摘されてます。僕が物心ついた頃から言われてたんじゃないかな。

 この理由は、このあとに出てくる日本社会の原型は何か?論に関係すると思うのですが、要は「村社会」なのでしょう。村社会の頑迷さ、愚かさ、息苦しさはつとに指摘されますが、プラスの面もあるからこそ続いているのでしょう。それはなにかといえば、相互補償ではないか。村社会の一員になっていれば、最低限生きられる、食うには困らないというシステムがある。「村人はひとりも残さず皆で助けよう」という麗しい部分がある。ぬるま湯ではあるんだけど、人生レベルで考えるとそれは中々魅力的。真正の実力主義はスッキリはしているんだけど、裏を返せば、無能な奴は死ねということでしょ。そして99%が雑魚である現実からして、それはきついんですよね。だから、ムラ社会に帰属したいと思う人が過半数になっても不思議ではない。そして村社会でやっていこうと思ったら、全体の秩序を乱してはいけない。どんな秩序であろうが、そういうシキタリになってたら、守らないといけない。

 お役所、特に高級官僚になるほどのその種のシキタリがある。最終的な天下りまでのシステムがあり、村社会で異端になってしまうとその恩恵が得られない。なまじ位が高いから、その差、生涯年収の差が数千万から億単位で違ってくるから、圧倒的ですよね。その意味で若手官僚がどんどん退職しているという今の傾向は合理的でもあります。若手のうちは、まだ投下資本が少ないから撤退するなら今のうちですもんね。

 旧軍内部でも、上の参謀やら、もっと上の連中が過去に確立した作戦やら「型」があると、その型を使う以外の選択肢はない。「あんなの時代遅れ」「使い物にならない」とか批判しようものなら、上の感情を害するから干される。大学内部だって、権力のある教授ということは絶対だし、どうも間違ってるんじゃないかなー、ここで抗がん剤なんか使ってもしんどいだけで意味ないんじゃないかなーと思っても、およそ言える雰囲気ではない。それを言うやつは居場所がなくなって干されるか、能力ある奴は馬鹿らしくなって海外に行ってしまう。民間会社だったら、あまりにも間抜けなことをしてるとぶっ潰れるからそこそこ自然淘汰はあるけど、国はなかなか潰れませんからね、温存しちゃうんでしょうね。

 だからもう宿命的に、おかしくなるんだと思います。今回のコロナでもつくづく思いますけど、なんで感染研とかああも非合理的なのだとか疑問は山程あるんだけど、そういうことなんでしょう。かなり時間がたたないと、あれは間違いでしたって認めないでしょうね。原爆被害者にせよ、癩病患者にせよ、半世紀くらい経たないと(感情や利害を害する人が死に絶えて居なくならないと)、それは認めない。

 と同時に、こんなにも上がスカタンなのに、なんで世の中は廻っているのか?といえば、下々の庶民の力、現場の力でしょう。これは本当にそう思いますよ。現場のことを鬼のように知ってる人が沢山いて、その職人芸が不可能を可能にしている。なんかかんか帳尻を合わせてしまう。また、どんな会社、どんな部局、どんな現場でも、常にとは言わないが、一人か二人くらいはすっごく切れる人がいて、現場の人望も厚いし、その人が仕切ってこなしてしまう。

 思うんですけどね、くだらないロスを避けて、誰にとっても努力と果実が釣り合うような社会にしたいなら、上を廃止すべきですよ。どうしてもアホになるから。誰が悪いとかいう個人的な資質を抜きにしてもう構造的にそうなるように出来ているから。だいたい百人に一人くらいの確率でいる、わりと切れる人を中心に各現場で集団を構成し、その集団の代表による合議でやってった方が効率いいです。ちょうど文化祭の実行委員会みたいなもん。ここに教育委員会とか、地元の議員とか、文化省とかが出てくると、話が濁るし、非合理的になる。

 この文章でも、「日本に自動車は蒸気で走るのかと皮肉を言われるくらい」ってところで笑いましたけど、そのくらいラジエーターがダメダメでも、それでも糠を入れて固めたりして、実際に走っているという。だから、今のコロナの現場だって、医療機関や保険所、役所の現場は大変だろうなーと思いますよ。上の利権やら、見栄やら、カッコつけのために振り回されて。そういえばコロナ初期のクルーズ船の下船の際のあれこれの段取りで、お役人の一人が自殺しませんでしたっけ?記憶違いでなければ、もう可哀想でたまらん。あんなもんで我慢して死ぬくらいなら、オーストラリア来いよっていいたいわ。

徹底的に人工的なユダヤ国家観と、自然物のような日本


 旧約聖書のユダヤ教の原型部分、十二支族のどうしたこうしたとかいう知識はそんなにないんですけど、ここで出てくる指導者サムエルの言い分が面白いです。

 ゆるやかな連合体のような感じでやっていたのが、外敵との戦争で強力な国家を作ろうという話になったとき、この指導者は「国家なんかやめとき」と反対する。国家なんてなあ、作るもんやないで〜、結局あれしろこれしろ命令されまくって、国王とかいう奴の奴隷になるだけやで、そんときに悔やんで神様に助けを望んでも、神さんなんもしてくれへんで。こんだけゆうても、まだ国作りたいゆうなら、作ったらんこともないけどな、せやけどな、覚悟しいや、みたいな話です。

 こんなのが建国神話としてあるのが凄いんですけど、もう最初から必要悪として国家を規定している。本当は無いほうがいいんだけどなーというのが大前提になっている。その意味では、ロックやルソーの西欧啓蒙思想や国家契約説よりも2千年くらい先を行ってる。

 原点がそこだから、国家のやることにいちいち監視が目が光る。なんで国がこんなことすんねん?どんなメリットがあるんや、言ってみいって感じでやる。それが「聖書」レベルで言われてるんだから、民族の心構えも違うでしょうよ。

 これに対して日本の場合は、なんで日本なんて国があるんだ?という大原点は無視されている。


 この下りで面白かったのは、律令体制→武家政権→明治維新という日本史の流れで、鎌倉以降(江戸時代まで)の武家政権の頃の方がまだ合理性があった、国や政府がなぜ存在するのか、どういう約束でどういう役割を果たすのかという意味があった、だけど明治の新国家の際に律令体制に戻ってしまったという指摘です。

 ほお、そうなんか?と思いましたけど、でも、たしかに。
 律令時代、とくにその初期の大和朝廷の頃とかよくわからないんですけど、かなり強力に民衆に支配していた感じがしますよね。もちろんそれには強大な軍事力があったんでしょうけど、もう逆らえない感じ、あるのが当たり前という感じ。当時の租庸調の重い課税、防人などの厳しい徴兵制度など、「おおらかな万葉時代」とかいって美化されがちだけど、結構きつかったと思います。だからこそ、施薬院とか普通の医療福祉をちょっとやっただけでも仏様のように感謝されてますから。

 それが平安貴族まで続いて、羅生門で民衆が餓死しているのに、なんで貴族は優雅にナンパとかしてるんじゃという疑問が疑問として出てこないくらい強力に圧殺されていた。それが律令時代。ところが、「なんでやねん」という不満が徐々に出てきて、将門・純友の乱と前兆があり、平氏、源氏と武家政権になります。そこでは「強いからえらい」という実質的な基準があった。その合理性は、将軍家でも実力が衰えるとひっくり返されるという事実に裏打ちされ、政府の正当性も南北朝時代に分かれるくらい議論になり、戦国時代にかなり合理的になっていく。

 ところが、明治維新のときにまた国家絶対体制を敷いてしまった。これが本文にいう「先祖還り」です。絶対逆らえるわけがない、もう自然現象のように国家や政府はあるもんだという刷り込みをしたと。

 あらゆる革命は先祖還りの要素を含むというのは、なるほどそうかなと思います。てか、理論構成上、そうせざるを得ないんだと思います。徳川政権を打倒する、従来の秩序と価値観をひっくり返そうとしたら、それ以前、より価値の上流に遡って正当化する。将軍家といえども征夷大将軍であって、そもそもその役目を与えるのは天皇である、だから天皇が一番えらい、一番えらいやつが徳川はけしからんといっている(ことにして)、だから潰すという理論構成ですよね。

悪魔とは正義を唱える者である


 個人的には、ここが一番面白かったです。
 旧約聖書がよく出てきますが、僕は全然というくらい知らないのですが、そう書かれているらしい。「悪魔とは、神の傍らに立って人の悪を告発するもの」だと。

 そのココロは、人が普遍的な正義を口にして他人を攻撃しているとき、その動機は憎悪であり、悪である。ゆえに正義は悪であるという。

 けっこう論理が飛躍してるんだけど、頷けるものはあるのですよね。
 飛躍してる部分は、他人を告発する場合のすべてが憎悪に基づくものでもなかろうし、また親兄弟を理不尽を殺された者が殺した者を告発するのに当然憎悪は伴うだろうけど、それが悪魔なのか?というとそういうもんでもないだろうって思いますから。

 ただ、それはそれとして、「正義」が持ってる本質的な胡散臭さというのは確かにあります。また、邪悪な意図で語られる正義は、そうではなく純正に語られる正義よりも多いんじゃないか、だから正義=悪というのも、乱暴すぎるんだけど、でも一理はあるなと。

 だいたいどんな戦争でも、利害まみれの選挙でも、ヤクザの出入りですら「正義」は語られます。もっともらしい大義名分を掲げて、反論を許さないくらい強力に正義を押し付けようとするもんです。会社内部の会議だって、本当は自分の保身や利権が第一にくるんだけど、そこは隠して「我が社のためを思って」という正義を語りますから。やましい部分、後ろめたいところがある人ほど大声で正義を唱える。

 世界レベルでも、さきのアメリカの不正選挙疑惑に関する、民主党、メディア、ビッグテックの「正義」はかなり嘘くさいですし、嘘くさくなればなるほど大声で圧殺し、強硬手段に出ようとする。

 正義とか人権という言葉は、弁護士にとって商売道具みたいなものですけど、それだけに取り扱いは慎重に、です。まず具体的な事実、具体的な事案があり、これこれこういう事情で、こういう部分がおかしい、あんまりじゃないかって形で、かなり限定的に使います。てかさ、実際の事件で、「正義」なんて言葉を使うのは滅多にないですよ。正義という言葉を使ったからといって、誰も恐れ入ってくれないですからね。現場においては、このくらい実効性のない無内容な言葉もない。長い長い弁論の、最後のまとめ部分に修辞的に使うくらいですね。一般のスローガンやプロパガンダとして使うこともあるけど、それとて膨大な個別事案の集積の上に立ってやります。事実や具体性から離れて、抽象的に正義を言うのは、ある意味ものすごく危険なことだし、いくらでも悪用できるし。で、実際にも悪用されている。

 後段部分は、「正義とはなにか」で、正義の意味内容がちょっと違う。きわめて厳格に定められた「戒律」のことを正義といい、僕らが自然の情として感じる正義とは違う。ほとんど校則や法律に近い。ユダヤも、イスラムもそんな感じがしますが、宗教とはいいつつ、あれは法律ですよね。宗教の「信じる」という情緒的な要素が少なく、「規則はそうなっているので、従ってもらいます」という感じ。

 とにかく細かく決めたがる。そして臨機応変に変えることは「しない」。絶対変えない。なぜなら、正義という尺度が変わってしまったら世の中ワヤになってしまうから、1センチの長さがこのくらいというのは絶対に変えてはいけないように、彼らの戒律やうるさい規則も変えてはいけない、らしい。

 まあ、ここはツッコミどころもあって、そんなに実際守ってるもんなんか?という現実的なレベルです。いわゆる「敬虔な」人はそうかもしれないけど、人間のリアルとして、そこまで皆が厳格にやってるとも思いにくいし、実際には結構ザルだという話は聞いたことがあります。

 それでも根っこにある人間観、世界観は、日本人の僕らとは違うんでしょうね。

 もう一つのツッコミは、うるさい規則を作って、それを破った人を非難するとしても、さきの定義からしたら、非難する人は悪魔になってしまうのですよね。だから事実上誰も非難できないんじゃないかって気もするんだけど、でも非難してるでしょう。じゃあ、悪魔なのか、その自覚や指摘はあるのか?というと、そうでもなさそうだし、そのへんはどうなの?です。

 で、話はなんでそんなに事細かに決めたがるんだ、この人達は?って疑問が出てきます。

野獣人間の調教

 

 この下りもよく語られますね。ユダヤ系や西欧系がどうとかいうよりも、それが世界人類のメインストリームであり、むしろ日本系の方が例外なのかもってことです。

 なんでこんなに世界の人々は「人たるものこうすべし」と「型にはめたがる」のか?です。
 かつてキリスト教を調べて書いているとき、なんでローマ帝国は末期になって手のひらを返したかのようにキリスト教を採用したのか?また(西)ローマ帝国が滅亡したあともキリスト教が権力者にとって重宝されたのか?ですが、野獣のようなゲルマンを調教するため、というのが大きな理由だったそうです。力でねじ伏せるのが原点だとしても、それをずっとやっていくのも大変だから、もっとおとなしい人間になってくれい、そのためには心を打つような物語とか、思わず感動するような舞台装置とか(ステンドグラスとか宗教画とか賛美歌とか華麗な儀式様式とか)、そういうので信じさせて、おとなしくさせるのだと。

 それは別にゲルマンだけの話ではない。ここにも書かれているように、中国文化圏の儒教にせよ、インドのカーストにせよ同じ路線でしょう。古代中国の原始儒教みたいなシキタリはやりすぎなくらいで、親が死んだら遺体を掻き抱いて、悲痛の泣き声を三日以上も上げ続けなければならないとか?ドライアイスも何もない時代、死体はたちまち腐乱し、とてつもない腐臭を放ち、ウジ虫もぼろぼろこぼれおちるような状態なんだけど、でもやらせる。3日間大声で泣き続けるなんか不可能なんだけど、でもやらせる。しまいにはそのための専門の「泣き屋」というプロが出てきたくらいだと。孔子という人は、儒教を創始開発した人というよりは、やりすぎな原始儒教を実行可能なレベルに整理簡素化し、さらに人間&政治哲学にまで抽象化・昇華した点が偉大なのだとか。詳しいことは分からんのですけど、昔、読んだ本にはそう書かれてました。

 中東のユダヤとイスラム、西欧のキリスト教と近代以降の人権主義など、非常に強力に理屈や戒律で人を型にはめていこうとするのは確かだと思います。そこには、徹底的に調教して牙を抜いておかないと、元来人間というのはおっかない存在であるという野獣的人間観が横たわっているのではないかと言われます。性悪説以上に、性獣説みたいな感じ。

 では、なぜ日本人の場合は、そこまでかっちりしていないのか?日本にも宗教的な戒律らしきものはありますけど、それは「精進料理」「柏手をうつ」とか儀式化、習俗化したものが多く、成文法みたいになっていない。そこそこ「人の道」「教え」は数多くあるんだけど、でも「人を呪わば穴二つ」とか「一寸の虫にも五分の魂」とか、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とか、いろはカルタや川柳みたいなカジュアルな形になっている。成文化したとしても、せいぜい十七条の憲法やら武家諸法度程度でしょ。煩瑣なくらい細かい決め事があっても、それは有職故実など儀礼式典的なものや、茶道の作法とか限定的なものでしかない。

 日本人の場合、もともと体格的に虚弱だから、そこまで必死こいて調教しなくても良い、自由に暴れさせても限界あるから、飼いならす必要はないのだと言われているのですが、本当にそうなのかどうかは分からんです。儒教中国だって体格的には似たようなものだろうし。さきの戦争で東洋鬼と呼ばれ、時代を遡れば倭寇という海賊集団として東シナ海を暴れまわり、戦国末期には呼ばれもしないのにわざわざシャム(タイ)まで出かけていって現地の戦国大名みたいになった山田長政など、どこが虚弱やねん?って気もします。だけど、あんまり人を調教しようという感じはないよね。その感覚(人間観)は現在でもそうだと思います。

 前にも書いたけど、僕ら日本人は、比較的思想やイデオロギー、理念について節操がなく、あっけらかんとするくらい現実的なのは、そのあたりのルーツがあるのかもしれないです。それは虚弱だからではなく、多分(これもちょっと前に書いたけど)、野獣化してまで頑張らなくても生きていける程度に自然の実りがあり、且つ適当に分散共存できるくらいに複雑な地形だったからなのかもしれない。

 そしてそれは日本人だけではなく、同じ日本のアイヌ文化などもそうかもしれない。ゴールデンカムイという漫画が人気ですけど、あれ、面白いですよね。日露戦争直後くらいの時代の北海道のアイヌ文化が、綿密な資料ととも豊富に書かれていて、北海道アイヌと樺太アイヌの違いとか。あれを読む限り、アイヌ文化の本質は徹底して自然との共生です。八百万の神と同じく、自然のすべてがカムイ(神)であり、どう敬うか。それがそっくりそのまま自然環境でのサバイバル技術になっている。それはオーストラリアのアボリジニの文化も同じで、あそこの教えや文化は、そのままサバイバル技術。詳しくは知らないけど、ネィティブ・アメリカン(インディアン)も、イヌイット(エスキモー)も、あるいはニライカナイや聞得大君(きこえのおおきみ)という独特の体系をもつ琉球文化なんかも同じなんじゃないか。

 つまり人類の生き方作法には、戒律調教派と自然共生派のニ系統があり、前者は事細かに人を調教、洗脳するから巨大組織を作りやすくなり、ゆえに昔から大帝国が出来る。一方、共生派はサバイバル自足方向で非常に洗練されているから、小集団でやっていけるし、むしろ小集団の方が良い。大集団を作る必要がない。だから大集団を統治する技術(詳細な戒律と調教)も必要なかったのかもしれないです。

 上に書いた日本史の変遷も、それにあてはめてみると面白いです。大和朝廷から平安時代までの律令制は、中国大陸の大帝国の統治体系がベースになってるでしょう。大陸系の高度な文化と軍事力で古代日本を征服し、以後、中国制度の直輸入でやっていた。だけど千年くらいたってくると、土着の文化=自然共生派が強くなってくる。共生と言っても別に平和主義でもなくて、要は人工的な戒律よりも、ナマの現実(自然)を重視して処していく感覚だと思うのですが、そこから素朴に「強いやつが勝つ」「田んぼを開拓したやつが収穫する権利がある」という感覚になっていったんじゃなかろか。鎌倉幕府の政治的成立要件は「一所懸命」(自分の田畑を守る権利)だといいますし。武家の先祖は、坂東武者なんかもそうですけど、武装した農民ですから。だんだん中国様式から離れて独自の日本文化的なものが出来てきた。だけど、明治維新でリセットされちゃった。その際に今度は西欧大陸の戒律系(プロシアなどのエンペラー主義とか)を直輸入したから、また戒律絶対社会になった。だけど敗戦でまたリセット、、、面白いね。

 昨今の世界のコロナの対応とかみてても、コロナ危険ロックダウン万歳派は戒律調教派でしょう。だから大体理屈の大好きな西欧系が盛んにそれをやる。自由だ人権だとかいう割には、人を縛り付けるのが実は好きだし。だけど自然共生(現実路線)派は、なんとなく釈然としない。しかし共生派は、戒律派のように素朴な感覚を言語化→理論化→体系化することにそんなに興味がないから、漠然と思い、行動するだけ。日本はその両者が混在しているから、緊急事態宣言をはよ出さんかいという戒律派に対し、共生派は意味あんのかい?と懐疑的。てか同じ人間の中にこの二つがせめぎ合ってる感じもする。

 だけど、疑問を感じても、ヨーロッパみたいに大規模な反対デモをするわけでもない。そのいうやり方(主義主張を大声で叫び、理屈で是非をつける)をあまり好まない。じゃあどうするの?というと、黙ってシカトするだけ。だからお天気の休日、絶好の行楽日和になったら、楽しげに皆さん出かけてしまうという。要は聞いてるようで聞いてない、守ってるようで守ってない。それに僕ら村社会の村民の処世術は、小集団での秩序ですからね。周囲にマスクをしてる人が多かったらマスクをし、してない人が多かったらしない。ただそれだけ。そう言ってしまうと身も蓋もないし、馬鹿みたいだから、なんだかんだ理屈をいうだろうけど、でもその理屈を本人自身があんまり信じてない感じはしますね。







文責:田村


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