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Essay 986:自己ダメ認識は「誇り」ですらある

 〜現実遊離の自分ダブスタ「鬱の素」
 〜ローマ軍的な「普通」自我の脆さと傲慢さ


2021年04月18日
 写真は、ド定番のオペラハウス。つい先日、よく晴れた日に。



なんで鬱になりにくいのか?

 Blogの方の記事で、吉田さんが鬱になりかけて誇らしげだったとか、しかし、なんで俺らは鬱になりにくいのか?とか話してましたけど、その部分から始めます。

 そのときの話では、「たぶんセルフ・エスティームが低いからじゃないの?」とか言ってました。

 これを「セルフ・エスティーム」と呼んで良いのかどうか微妙なんですけど(多分正確には違うと思うけど)、「自分はこの程度の人間」という部分にそんなにブレがない。それもわりと低いところで安定していてブレがない。

 簡単に言えば、ぶっちゃけ自分なんか、そんな大した人間じゃないしねー、実際ダメだしねーってところで腑に落ちているから、他人や世間からお前はボケだのアホだのディスられても、「いや、もう、ほんとそうですよね」と真剣に頷いてしまう。だからそこではあんまり凹まない。ゆえにあまり鬱にならないのでは?という仮説です。

 もちろんディスられて腹が立つこともありますが、それは相手の言い分が明らかに事実誤認だったり、ことさらに貶めようという悪意が感じられたり、自分を棚にあげて上から目線で人を裁断する傲慢さであったり、そういう部分でムカつくに過ぎない。自分が未熟で欠点があるという命題そのものについては、あまり心が揺れない。自分の未熟さによって誰かに迷惑をかけたとかいうなら、その部分で凹んだり反省したりはするけど、自己評価そのものは大した問題にならない。あるとしても、思ってたよりも自分はもっと馬鹿なのかもしれないなー、ちょっと修正せねば、てな感じです。

 一方、世の中でわりと凹みやすい人達の場合、どっかしらダブルスタンダードというか、すごく自己評価の高い自分と、すごく自己評価の低い自分が同時存在してて、そこにギャップがあるから、それがしんどいんじゃないかという気がします。

 これは矛盾でもあるし、相互補完でもある。なぜなら自己評価を高くすれば高くするほど(このくらい出来なきゃダメだというハードル設定)、そんなことも出来ない自分に対するダメ出しがきつくなる。山高ければ谷深しっていうけど、まさにそんな感じで、高いからこそ低くなる。

 かといって、鬱のメカニズムはこうなのだとか、そこまで広げたり決めつけたりするつもりは毛頭ありませんよ。器質的な原因だってあるでしょうし、無限に要素はあるでしょう。ただ、自分についてのダブスタがあるかのように見受けられる人々と、僕や吉田さんのようにあんまりズレがない人達がいるわけで、面白いなあ、不思議だな、どうしてそうなるのかな?ということを考えてみようと思ったわけです。

 なんでこんな違いがあるの?自分が馬鹿であるというダメダメ査定でどうしてそんなにノホホンとしてられるの?とか、なんでそうなったり/ならなかったりするの?とか、考え出すとなかなか面白そうなので、書いてみます。

生存のための自己査定

荒っぽい環境の方が鬱になりにくいのでは?

 思いつきの素人考えでいえば、生まれ育ってくる過程で適当にザラザラと荒っぽい現実に晒されていると、わりと安定的な自己評価になって、自己評価ギャップは生じにくいのではないか。

 なんとなくのイメージでしかありませんけど、大体において上の世代になるほど鬱の人は少ないイメージがある。つまり、上の世代になるほど、戦争をはじめとして荒っぽい世相・ラフな環境のなかで育ってくるほどに鬱も少ない。なんか相関関係があるのかも?

 また、同じ世代においても、不良とか暴力団系の人達には鬱が少ないイメージがある。そりゃいるのかもしれないけど、「ひきこもりのヤクザ」とか、なんかイメージしにくい。

 あるいは、国や社会別でみると、治安どころか治世が乱れているような、戦争や内乱が日常生活に普通に同居しているような国の方が鬱は少ない気がする。ブラジルのリオデジャネイロの広大なスラム街では、それはもう荒っぽいらしいけど、人々は活気に溢れているとか行ってきた人が言ってた気がする。発展途上国だから皆打ちひしがれて暗い顔をしてるかというと、意外とそうではなく、打ちひしがれている人はむしろ先進国に多いような感じもする。

 こういうラフな環境、どうかしたら今日にでも死ぬかもしれないかのような環境においては、他人からの罵倒なんか日常茶飯事でしょうし、いちいち気にしないのかもしれない。昭和中期に育った僕らの頃でも、褒められる:罵倒されるの割合は、1:10以上の比率で罵倒の方が多かった。てか褒められるとか滅多になかった。それに、現在だって、気のおけない友達同士の会話って、気兼ねなく罵倒しあってますよね。「だからお前は馬鹿なんだよ」とか平気で言うしね。それでも傷つかないし。

 一般に、ラフな環境の方が、言葉の暴力、物理的暴力、他者からの悪意や攻撃を受ける機会は多いんですけど、それでもあんまり傷つかない感じがします。多いから慣れてしまう、耐性がつくという点もあるでしょうし、そもそも最初からそういうもんだって思ってるから、そこは当たり前になってしまうのかもしれません。

 ただそれだけでも無いような気がします。

生存のための自己査定

 僕はやってなかったですけど、学生時代に「不良」やってる人って大変だと思うのですよね。それなりにスキルが必要。だって、初対面で出会った相手が、自分よりも喧嘩が強いのか弱いのか瞬時に正確に査定する必要がありますもん。あの世界は、喧嘩が強いか弱いかが全て、弱いやつは人権ゼロで、強いやつは弱い奴に何をやっても許されるのがルールですから、一般社会よりもはるかに厳しい。そこで、うかつに強い奴に舐めた口をきいたり、喧嘩売ったら身の破滅です。

 したがって、自分がこの世界でどのくらい強いのか、誰に逆らってはいけないのかの自己能力の査定は、生存に関わる重大な問題になります。

 そこでは、自己査定と現実とはかなり近接しています。むしろ測量図面のようにきちっと現実をトレースできてないといけない。また現実とズレがあったら、速攻で修正される。仮に「俺はこのくらい強い筈」という独りよがりの思い込みがあったとしても、一歩現実に出ればあっという間にボコボコに粉砕され、踏みにじられる。現実から離れて「俺は実は強いんだあ」とファンタジーに遊んでる余裕はない。そんなことで遊んでたら、下手したら殺されちゃいますからね。

 でも、これは不良とか裏社会に限らず、なんだってそうでしょう。

 受験だって、「俺は本当は出来るんだ」とか脳内妄想してても、現実問題点が取れなかったら「この程度の点しかとれない俺」という現実を否応なく突きつけられる。スポーツや芸術だともっと残酷にわかる。柔道でも組み合ってみたら、相手がどのくらい強いのかどうしようもなくわかる。部活の対抗試合に出ただけで、世の中にはこんなバケモノがいるんか?と打ちのめされて世間を知る。絵でもピアノでも他人のをチラとみたら、どのくらい上手いかがわかる。その世界でやっていこう、なにかチャンレンジしようと思ったら、正確な自己査定は非常に重要なポイントになりますし、そんなことは言われるまでもなく誰でも知っているでしょう。

 そういえば僕がオーストラリアで一括パックをやってるのも、海外という現実に接する導入部のサポートですが、それは「俺は英語が出来る」「なんとかやっていける」という淡い願望妄想が、往々にして木っ端微塵に粉砕されるからです。いきなり初日からトラウマになって、あとは避けて通るような感じでひきこもって終わりみたいなパターンに、いかにならないでやっていくかです。

 現実に触れてないと、自己査定というのは願望というターボエンジンによって果てしなく広がりますし、現実に接すれば、「鎧袖一触」という四字熟語のごとく、一発でへし折られる。

 子供の頃からこういう「現実に叩きのめされる」という経験を日常的にしてる人は、そういうことに慣れてるから、いっとき多少凹んだとしても、しかし鬱になるほどこじれることは少ない。泣いても笑ってもその現実でやっていくしかないもんね。かちっと自己査定を補正して、さて、それからです。

 何を言ってるかといえば、こういう環境においては、自分はこれだけ出来るはずという現実から遊離した自画像を描いたり、それを後生大事にキープしておける余地は少ないってことです。

「鬱の素」=脳内妄想の発生原因

 この現実遊離の脳内妄想は何故生じるのか?
 一つには、なまじ中途半端に才能がある場合です。生まれてこれまで自分よりも凄い奴に会ったことがなかった場合。あるいは、現実との接触機会が非常に乏しく天狗の鼻をへし折られる機会が少ないまま来た場合。

 そういう人が、いい年してから(十代半ばくらいになって)厳しい世間を知る場合はちょっとやばいかもです。なんせ、それまで井の中の蛙で調子こいてた時期が長いだけに、その誤った自己認識がアイデンティティにまで食い込んでしまってるから、なっかなか修正がきかないって場合もあるでしょう。そこで「修正がきく人」というのは、生まれて始めてすごい世界に接して、俄然燃えてきて、ものすごいポジティブに転じる。

 でも「修正がきかない」場合、その逆にネガ峡谷にあーっと墜落していくかもしれない。
 幼い頃からのエリート意識(勉強に限らず、喧嘩が強いでも、絵がうまいでも)がなかなか抜けずに、「それでも俺は本当は凄い」というファンタジーを捨てきれない。もう自分を支えるためにも、その高い自己査定は下ろすわけにはいかなくなっている。しかし、同時に、そのプライド(虚栄心)がぶっ潰された現実がきついトラウマになってて、自己卑小感や恐怖感も拡大されて強くなっている

 かくして、自分内部にダブルスタンダードが生じる。「自分は本当はすごいんだ」という気持と、「自分のダメさでこれ以上傷つきたくない」という気持ちが同時に存在し、かつそのギャップはどんどんが激しくなり、それが辛くなる。

 つまり鬱の構造には、現実から遊離した自画像、脳内自己妄想を作り出す過程があって、それが「味の素」みたいな「鬱の素」になるのかもしれない。

 その鬱の素は、上に述べたたまたま世間知らずで勘違いしてましたってシンプルな場合もあるだろうけど、人より場合により、もっと複雑だとも思います。

 例えば「親の過剰な期待」はよく聞きます。一家揃ってエリート家族だったりしたら、生半可な優秀さでは許されないし、「期待はずれ」の烙印を押される。だからそれが絶対クリアせねばならないハードルになってしまう。現実との遊離がそこで生じる。

 また宿命的なものもあるでしょう。身分社会では武士の子として生まれたら、それなりにハイレベルの生き方や能力を要求され、そこから落伍することは許されない。現実にそんな厳しい武士倫理を体現できる人間的資質があるかどうかは問わず、そこに生まれたら、そのレベルの振る舞いをしないと人として認められない。だから現実遊離の自画像が出来てしまう。

普通というローマ軍的な鬱

 ほかにもパターンはいろいろ考えられます。上に述べたのは平均よりもかなり高めの自己ハードル設定、それも絶対的なレベルでの設定でした。しかし、レベルはそんなに高くなく、相対的な設定というのもあると思います。これまで「私は周囲の人達と同じ」であることで快適にやってきた人がいて、どんな事でも大体他人が出来ることは自分も出来て、自分が出来ないことは他人も出来なくて、自分が感じるのと他人が感じることにそんなにズレがないという環境で自我形成しちゃった人です。

 まさに金太郎飴社会日本の申し子のような自我で、私=普通。これはある意味では特権階級的なニュアンスもあって、私=マジョリティでもあり、私が世界の中心にいて、世の中は大体私の感じたり望んだりするのとシンクロしており、「普通軍」というローマ帝国軍の一員としての万能感もあったりすると思うのですよ。自分=普通と信じ切っている人だけがもつ特殊な傲慢さ、「普通でない」他人を情け容赦なく否定する傲慢さ。

 そういう人にとってみたら、相対的に周囲から一人だけ落ちこぼれるという状態は、かつてなかった異常事態になります。それだけ激しい不安や恐怖を感じるでしょう。だから「なんとか人並みに」というのが強迫観念のようなハードルになる、そこで現実から遊離したあるべき自分が作られる。

 しかしですね、遠足の帰り道の法則じゃないけど、集団ダンゴでまとまっていても、学校で解散して小集団になり、あそこの角で誰かが去り、ここの辻で誰かが去り、最後は一人ぼっちですよ。私立文系というマジョリティにいても、大学ごとに分散し、さらに大学のなかでも就職時点で一人ぼっちになる。

 多くの場合、そういう進路選択などによって個として自立していくもんだし、普通とかいいながら差別化願望もあるし=「私ってちょっと変わってて」というのは普通っぽい人ほど言う、誰が見ても変わってる人は逆に「いや、俺って全然普通ですよ」と強調する傾向があるでしょ。

 だけど、個の自立が不十分な人は、なんだかんだいって普通というローマ軍に帰属して心の安定を図るというやり方から抜けきれない。だから、いわゆる普通や世間と自分が違ってしまったら、「普通であるべき自分」と現実の自分とに遊離が生じてしまい、はい、鬱の素が化合されました〜ってことになる。

 おそらく日本人に鬱が多いのは、このパターンかもしれないですね。「普通」であることが、どっかしら自分の拠り所になってる人、です。

 それでも全体からすれば鬱になる人はとても少ない。多くの人はならない。潜在的予備軍という意味でいえば全員そうだとも言うけど、とりあえずはやっていけている。なぜなの?といえば、圧倒的大多数の僕ら凡人は、幸か不幸か、人生の早い時期に、自分の力はこんなもんという限界を思い知らされているからじゃないかな。鬱の素があまり発生する機会がなく、それゆえ自己評価が高すぎて現実とクラッシュして人格大破という被害は一般には少ないのかもしれないです。

自分の場合

実り多きダメダメ期

 ここで頼まれもしないのに自分の軌跡を振り返ってみたいと思います。なんで俺は鬱にならんの?という自己検証としても。

 昔書いたことがあったと思うけど、僕の場合、小学校低学年の頃が暗黒時代で、担任のおばはんの先生になんかやたら目の敵にされてました。ま、客観的に振り返ってみると、小生意気に見えたのかもしれないけど(笑)。なんか事あるごとに因縁つけられるみたいに言われて、なにをやってもダメで、算数から図工から音楽から体育までオール1つけられてましたもんね。教師がそれだから、クラス内も、こいつはイジメてもいい奴になってしまって、全世界が敵みたいな、生き地獄みたいな状況がしばらく続きました。

 それが何らかの形でトラウマになってるとは思うんですけど、でも同時に多くの学習機会でもあり、トータルで言えば赤字どころか大黒字だと思ってます。料理上手の奥さんが一匹の魚を余す所なく調理してしまうように、あの時期のすべての体験が栄養になっている。

 そういえば、「すべての食材は死体である」というのは、今僕が考えた言葉ですけど、でも事実やん。過去の暗い記憶でも、それを死体だと思うと忌まわしいけど、食材だと思えば料理意欲も湧くのですよ。きちんと調理すれば美味しいんだよな。

 これを一般化すれば、人生なにが幸いするかわからんし、人生全体の視点に立てば、ダメダメ期や不遇期というのは、かなり実り豊かな時期です。とてもとても多くのことを学べますし、僕自身も気づかぬうちにいろいろと学んだと思いますよ。

 まずひとつは、ハードな時期だったので、最初に述べたように荒っぽい環境にいると現実に接する局面が多く、現実から遊離した自画像が生じる余地は少ない、の法則です。まずここで、遊離自我による鬱病というものの予防接種を受けているようなものだと思います。6-7歳くらいで受けているから、いいよね。

 あとの学習事項ですが、とりあえず現実のハードさはよーく教えて貰いました。なるほどね、甘くないのね〜、と。特に今から思うと、個人と集団の関係性とか人間力学みたいなのは、結構そのときに覚えたような気がします。集団のなかでいじめられるとかいっても、均一にそうだったわけでもなく、結構仲がいい友達もいたし、時期により温度差はあるのですよ。だけど、なにかの拍子に仲のいい友達連中も敵方にまわるというか、実際には廻って無くて、単に「事なかれ」的に沈黙してるだけ、気遣わしげに窺ったりしてるだけ、だから別にいつもと変わらぬ心優しい人達なんだけど、構造やら全体の空気がそうなってしまうと、自分から冷たい壁のように見えるとか。そのあたりの不思議な化学反応みたいなものはリアルに見えました。

 この感覚は、大人になってから差別問題とか考えるときに役に立ちました。差別する側である一般大衆と呼ばれる人達だって、別に好きで差別してるわけでもないし、差別してるつもりもないし、そもそも差別それ自体は問題だと思ってる人も多い。だけどそれをどう表現していいのかわからないから、単に傍観するしかなくて、それが差別されてると感じる人からみたら、「冷たい世間」に見えてしまう。人々が戦争に向かうとか、魔女狩りとかをやってしまうとかいうのも、多分似たような集団心理の綾みたいなものがあるんだと思います。ある日を境に、全員が邪悪な人間と化するってもんではない。

 あるいは、「世間の目」といわれるものの内実の空虚さ、あるいは世間の視点中心に自分を処していこうとすることの愚かさも理屈抜きにわかったし、100人の人間がAを選ぶときに、一人だけBを選ぶことに、そんなに躊躇いも葛藤もなくなる。だから弁護士やめてオーストラリアに行くことに、世間的にはどうこうとかいう視点や価値観はほとんど気にしなかった。反発心や力んでそう思うのではなく、ごく平然と無視できる。世間と違っていても、世間から非難されても、そこはあんま気にしない。やりにくくなったな、面倒くせえなとは思っても、それで自分が悪いとは思わない。

 なぜって、つきつめていえば世間なんか存在しないというのが理屈抜きに体感したからだと思います。あんなものは虹と同じで、遠くからみたらいかにも実在しているように見えるけど、近くに寄ったら消えてしまう。つまり実在するのではなく、「そう見える」のが世間であり、他人であり、「皆」であり、「平均」なんだと。そういうことって、世界が敵に見えるようなダメダメ時期に学びやすいですし、そういうプロセスの中で物事の見方が深くなったり、大人になれたりするのだと思います。

 あと、言い忘れたけど、集団の場がつまんないと、一人ぼっちがむしろ快適になって、それが多くの恵みを与えます。なぜって、一人でいると(とくに子供の頃)、自然や環境が身近になります。「空が友達」になったり、木立や草花、虫なんかも友達になり、それへの観察眼も深くなるし、囲まれていると孤独感も別に感じない。孤独耐性が強くなるというよりも、孤独であるとは思わないし、満たされる。あと、絵でも読書でもなんでも、アート系の発酵培養としてはひとりぼっち環境はいいです。絵の上手な人とか、小説書いてる人とか、たぶんどっかで一人ぼっち培養時代があると思いますよ。

 多分に生まれながらの資質もあるとは思いますけど、僕の場合は、物心ついて、学校デビューした途端、暴虐の現実社会といかにつきあうか、いかにジャングルみたいなところでサバイブするかでしたし、それは一生の財産になってると思いますよ。オーストラリアにぽーんとやってこれたのも、それがベースになってますしね。

オール1から司法試験合格まで全フロア通過体験

   ところで自分の能力的な査定については、さすがに子供心にも、いくらなんでもその評価は不当に低いんじゃないの?という疑問はありました。ただ、反発とか拗ねるとかじゃなくて、純粋に「ほんとにそうなの?」はあって、以後、実験実証という展開になりました。

 漫画の「どろろ」の百鬼丸みたいに、目玉から腕から全部もがれてしまったのを、あとから戦って取り返すみたいな話で、オール1だったのも、徐々にあがっていって、中学の頃にはクラスで上位数人まであがり、高校(進学校)に入った時点ではクラスの真ん中だったのが卒業する頃にはそこそこ上位になり、大学にいっても、最初はへらへらギター弾いてたのが終わる頃には学年で一番早く司法試験通ったわけで、そのあたりで実証完了。「ほらあ、そんな馬鹿なわけでもないじゃん」って(もっとも実務に入ったらまた最下層からやりなおしだけど)。体育でも柔道部やって黒帯取って、音楽でもバンドやったりして、「ほらね」って。そんな言うほどダメじゃないじゃんって。その種の実証過程みたいなものです。

 んでも、その過程での自己評価は、そんな葛藤にまみれてって感じではなかったですよ。自分をぽんと現実にぶつけてみて、どこくらい勢いよく跳ね返ってくるか?って感じで測っている感じ。かなり純粋に好奇心が勝ってたと思います。単に「ほんとにそうなの?」「どこまでいけんの?」という。ここが分かりにくいと思うのですけど、コンプレックスがバネになってとか、畜生今に見てろ的な反発心がエネルギーになってとかいうのは、実はあんまり無かったんですよ。

 なぜって、ダメならダメなりに世の中わたってく処世術みたいなものは身についてたと思うのですよ。てか、別にダメであってもそこそこ愉快に暮らすことはできたわけだし、その後、上昇していってダメからデキる人になっていったとしても、それによって居心地が良くなった感は実はあんまりないんですよね。

 オール1の最底辺からほぼ頂点まで全フロア見て回った人は少ないだろうから、これは貴重な証言になるのかもしれないけど、どのレベルであれ、似たりよったりに幸せになれますよ。てか低いくらいの方が気楽に幸せになれる感じがします。皆揃って不合格〜、ガハハ、てめー馬鹿すぎんだろ?お前だ、お前、みたいな世界、ダメダメ連帯感みたいな世界って、けっこう楽しいんですよ。

 なので上にあがらなけば生きていけないとは、ちっとも思わなかったです。その感覚は今もあって、社会的階層なり保有資産のレベルなりについて、そういう固定的な階層感覚は全然ないです。貯金ゼロ円の人も、資産1000億の人も僕からしたら等距離だし、その差が意味あるとも思ってないです。むしろなんでそう思うのかな、蛸壺みたいな村にこもって、社会勉強が足りないからじゃないの?とすら思いますね。

 ともあれ、自分が凄くないと自分が成り立たないという危機感はなかったから、どんどん上にあがっていくのは、興味本位の実験みたいなものだったのですよ。

常に流動する〜このくらいやるとこのくらい感覚

 それに成績とかいっても、狭い世界でのあれこれですから、ほんのちょっと努力したら結構変わります。今でも印象的だったのは、中一のときの身体測定で懸垂やらされて、腕力が弱くて一回もできずにクラスの最下位集団で笑われて、くそおとか思って、住んでたマンションの屋上の物干し台の鉄骨にぶら下がっていたわけです。屋上の眺めが好きだったんでしょっちゅう行ってたんで、行く度にそれをやってたら、翌年の身体測定ではクラスで2番(1番はのがした)だったんですよね。「え、こんなもん?」と思った。別にそんなに苦労したわけでもなく、屋上いっちゃ景色を眺めて、ぶら下がってぶらぶらやってただけですよ。それでも1年やってると、クラスのドベからトップまでごぼう抜き出来てしまうんだって。

 へえ、こんなもんなんか、こりゃ面白いわってことで、自分がどれだけ出来るのかに加えて、このくらいやるとこのくらい伸びるという変化率測定もテーマになってきます。今がクラスのドベであっても1年あったらガラッと変わるわってことで。喧嘩や腕っぷしだって、まあ普通ってレベルだったのが、高校で柔道部で1年しごかれただけで、格闘技やってない素人相手だったらまず負ける気はしなくなるくらいまではいける(相手もやってたらダメだけど)。

 大体1年あったら、普通レベルから見て見上げるくらいの存在にはなれますよね。英語全然ダメダメの人だって、1年こっちでワーホリやって、日本人同士つるむのではなく揉まれていれば、1年後には、平均的な日本人からみたら別世界レベルの住人にはなれるでしょ。まあ、本当のガチの実力という意味でいえば、上には上が山ほどいるというか、実はほとんど何も変わってないくらいの距離移動でしかないんだけど、それでも平均レベルの世界からみたら、ひとつ次元が違うところにはいけますよね。

 これも世間と現実と自己認識の関係に影響を与えます。現状はあくまでテンポラリーな現在位置でしかなく、固定的なものではないという認識になります。難しくいえば、自己認識が静止的なものから、流動的なものになります。

 そこで現実における観察はいっそう精密になります。あたかも戦場において砲兵が三角測量をして敵陣の距離を算出し、それから割り出して仰角○度でぶっ放すと当たるぞみたいな感じ。自分と現実は正確にこのくらいの距離があり、その距離を埋めていくのは、このくらいの能力差があり、それを自分を得るためには、このくらいハードな練習をこのくらいの期間続けるといいんじゃないかとはじき出す。これはなかなか面白いです。

 俺みたいな馬鹿が、天下の秀才達がほとんど全員討ち死にするくらいの司法試験に合格しようと思ったら、平均28歳(大学でてからさらに6年)で、勉強時間合計1万時間でようやくスタートラインと言われるならば、まあ自分だったら35歳までに受かれば御の字だよねって感じで計画を立てるわけですよ。高校くらいになってくると、もう10-20年スパンで考えられるようになってましたし。


現実=自己=生きること

 以上長々と書いてますけど、意味するところは、現実と自己認識は究極的には同じことであり、そこにそんなにズレはない。というよりも、ズレが生じるような構造にはなってないってことです。

 現実以外に考える対象はないわけだし、現実と取っ組み合って、現実と抱き合って、じゃれ合ってやっていくしかないわけで、現実=自分です。もちろん、やったことないエリアに関しては、見込みが外れることはよくありますよ。やってみたら意外と難しかった(簡単だった)はありますけど、それもじゃれ合いの一環ですよね。海水浴でビーチについたら、とりあえず海にじゃぼじゃぼ入りますけど、そんな感じでじゃぼじゃぼ現実に入るだけのことです。入りもしないで、俺はこのくらい泳げるはずとか考えてても仕方ないし、そんなことする人いないでしょ?それと同じことです。

 別に僕だけが特殊なわけではなく、形は違うと思うけど、誰だって似たような過程を経てくると思います。この世に生まれ落ちて、まず知るべきは、この世界はどうなっているかという正確な知識であり、だからこそ赤ちゃんは目の前にあるものを何でもつかもうとするし、ほっとくと口にいれて食べようとしたりもする。知りたいから。現実環境を知ることが生存のための第一条件だから。生存するということはそういうことであり、生きるということはそういうことなんでしょう。その現実認識のなかで自己認識も出来てくるわけで、一生その繰り返しでしょう。多分一番最後にくるのは、「ほお、話には聞いていたが、死ぬというのはこういうことか」というのを学んで終わりなんだろう。

 以上、現実=生存=自己というリアルで素朴な構造があるわけですけど、世の中が進むにつれて、鬱と呼ばれる人が増えてきた。なぜなんだろう?

 一つの考えは、世の中豊かになりましたから、そこまでザラザラに粗い現実というのが、わかりにくくなっているのかもしれません。それは誰のせいでもなく、豊かになった代償みたいなものでしょう。靴を履くようになったので足の裏の皮膚が弱くなったようなもの。

 現実のゴツゴツしたありようを理解するためには、ぽんぽんダメ出しされてた方がわかりやすいんですよね。お上品なテニススクールで、「はい、ナイスですよ〜」とか褒められてるよりも、ガチな部活でやれ「出足が遅い」「もっと予測して動け」「手打ちになってるぞ」とかほとんど終始一貫罵倒のようにダメ出しされてる方が、どんだけダメで、どこにどれだけ課題があるかわかりやすいです。

 世の中全体がソフト&マイルドになって、そこまでキツく言わなくなって、なんでもかんでも「人それぞれだし、いいんじゃない」で終わってたら、現実の残酷なまでの凸凹はわからんですよ。それにいくら真綿でコーティングしても、いやそうするほどに、人の悪意や醜悪な部分というのはいやらしい形で見え隠れするから、実像以上に怖く感じたりもするもんしょう。

 現実と自己が遊離し、その自己認識が理想と卑下とにさらに分離するというややこしい事態は、そうなって当然という構造的なものはあると思います。


ダメ認識は誇りでもある 


 あ、冒頭に書いたように「わりと低い自己認識で安定している」って部分ですが、なんで低いの?ですけど、それは当然の話だと思います。

 僕はギターも英語も出来ますけど、しかし、「出来るぞ」という自負よりも、「俺なんか全然ダメ」というダメ認識の方がはるかに強いです。出来るか出来ないか二つに分けたら、俺なんか出来ないの部類に入るんじゃないかなとすら思います。

 なぜか?といえば、そりゃ自分よりももっと出来る人達の世界がよく見えるからですよ。そこまで行けなくても、見えますからね。楽器やってる人ならわかって貰えるだろうけど、自分よりも上手な人達が、もううんざりするほどいるわけですよ。頂点のプロなんかはるか彼方のヒマラヤ山頂みたいなもので、それよりもずっと山麓エリアであっても、自分には到底届かないバケモノ達がひしめきあってるわけです。そんなのはやってみたら分かる。そして、弾ける人はすべてそうだと思うけど、とりあえず自分の限界まではいきます。そもそも練習がそうだし、ここまでは出来るけど、ここから先は出来ないという国境のような境界線で頑張るわけでしょ。とりあえず波打ち際というか岬の先端までは行く。そこに立ってはるか彼方に見える世界、ため息が出るほど素敵な世界を臨み、ちょっとでもそちらに近づこうとするでしょう。1センチでも境界線を進めたいでしょう。

 英語だって、現地で働いている人だったらわかってもらえると思うけど、日本人ではない現地人集団のなかでやってたら、それが例えUberであろうがなんであろうが、このなかで一番英語が下手なのは自分だという最下層意識は常にありますよ。いやもう事実だもんね。

 自分の国境線まで進んで、そこで戦うこと、さらにその先に行こうとすることは、取りも直さず「生きていくこと」そのものだと思うし、そこが国境線(自分の限界線)であるならば、そこでの体感は常にダメ意識ですよ。自分の限界にいるんだから、ここから先はダメです、今の自分には無理ですっていうのが日常の感覚になりますよね。ずっとそういう地点に身を晒してやってくれば、自分がダメダメだというのは当然過ぎるほど当然の感覚であり、だから安定もする。

 逆に言えば、ぶっちゃけ、自分なんかダメダメだよね〜って思うのは、それだけ戦ってるんだよ、それだけ常に現実に接してるんだよ、常に限界レベルでやってるんだよってことでもあり、ある意味では「誇り」ですらある。

 だからあっけらかんと、いや、ほんとダメっすよね、俺、って言えてしまうのだと思います。





文責:田村


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