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Essay 983:企画話(その3)〜外部環境と個人の生き方

 〜蟻地獄の斜面角度と価値観の洗い出し
 〜オーストラリアの問題〜英米覇権凋落と正常化バイアス


2021年03月28日
 写真は、Balmain



タイムフレーム

 講座とかサロン企画話ばっかでいつ実行するのよ?と思う人もいるだろうから、漠然とタイムフレームを示しておくと、今年の後半(7月以降)に思ってます。

 なんで?といえば、さしあたっては講座動画のコンテンツ作りに励みたく、それが3ヶ月位かかるだろうなーということです。もともと、6月まで免停になる予定(結局ならなかったけど)だし、オーストラリアの年度末(6末)までは、JobKepperと税金との微妙な調整をしなきゃなので、それがちょっと忙しいかも(6末までに駆け込みでPCを買って経費を増やすべきかとか)。また、本当はこの時期、帰国して〜と思ってたのがオーストラリア政府に拒否られて、また申請してもいいけど、多分今のタイミングでは「ワクチン射ってからにしてね」って言われそうな予感がすること。

 なのでここしばらくは異様に時間がかかるコンテンツの動画作りをしておこう。サロンやると、どれだけ参加者がいるかしらんけど、掲示板にレス書いたりとか忙しくなりそうで、どっちつかずになるのもイヤなので、先に動画だけ形にしてしまおうと。

 観点を変えて、外部環境との関連ですが、前々から言ってるけど、本気でしんどくなるのは日豪ともに今年の後半以降だと思ってます。実体経済のドミノ倒しが進んでいくと思うから。オーストラリアでは3月末でJobKepperも切れますが、それに連動してクビになる人が増えるだろうと言われてます。また家賃不払い強制退去の凍結も切れてホームレスも増える、真剣に困る人がそこそこ増えるだろう。そして、それらが統計数値的に見えてくるのは、四半期後の7月以降でしょう。表面的には世界的なEQマネーの金余りでバブルがますます膨らむだろうし、ポストコロナの反動もあるから、ぱっと見には良さげに見えるかも知れないけど、足元の浸水は深まっていくでしょう。

 他方、オーストラリアの国境ですけど、この6月にまた閣議をやるみたいだけど、困窮者が増えることもあり、ダラダラ無期限閉鎖はしにくいだろうし、雰囲気的にも「もうコロナは終わり」にもっていきたいだろう。すぐには開けないにせよ、開ける方向に進むとは思う。仮に来年からだとしても開ける可能性がかなりの確実さで予想できるなら、半年前からビジネスは活性化していきますからね。物事動き出すだろう。

 今回の後半にも書くけど、今は世界史の曲がり角で、すっごい面白く、3ヶ月先にどうなるのかも全然わからない。また3ヶ月先になったら、そこそこ見えてきそうな気もします。

 それと全く違った観点でいえば、このエッセイももうすぐ1000回になるのですね。まさかそんなにやるとは思ってなかったけど、もういい加減やめる、というか一段落しようかと。なんせ"Thisweek"というフォルダーの下に各回のフォルダーが1000個近くあるので、管理の関係でもしんどすぎる。なので仕切り直し。名前なんか「エッセイ2」とか何でもいいけど、シリアスで生々しいのはサロンの方でやって、もっとほよよんとしたのを不定期で本家でやるのでもいいかも。いずれにせよ、あとしばらくしたらとりあえず打ち止めで、それがこのタイムフレームにシンクロしそうな感じです。

 

世界動向予測と個人

 ということで、今週は、世界やら外部環境の変動と、個々人のライフスタイルの関連について書きます。

 日本もそうだけど、世界的にみてこの先何がどうなっているのか?よく分からない感じがしますよね。前からそうだったけど、ここに来て一層混沌としてきてます。というか、大きな流れに逆らおうとしてポーズボタンを押したつもりが、結果的に早送りボタンを押してしまって、物事が急に進んでしまった、という感じ。

 といって、ここでは世界経済予測とか、どっかのシンクタンクがやりそうな話をするつもりはないです。そんな能力もないし。あくまで、自分がハッピーであるために必要な限度で、多分こんな感じじゃないの?という、漠然とした話です。

 このあたり、分かりにくいと思うし、うまく説明できる気もしないんだけど、うーん、そうだな、なんで今から30年前、つまり90年代初頭(バブルが弾けた頃)に、日本を出て海外に目を向けたのか、その中でもなんでオーストラリアを選んだのか、そのときどういう「予想展開図」を感じていたのか、そこから話しましょうか。

30年前に何を思ってたのか

 まず思ったのは、日本ではキャンバスが狭いということです。そのときは現役バリバリで弁護士やってたんですけど、それが逆にすごい首枷になっていて、オーストラリアでやってきたようなAPLaCのような趣味なんだか実益なんだか、ボランティアなんだかビジネスなんだか分からない、そういう次元ですらないような活動を、日本で弁護士資格を持ちながらやるのって現実問題として無理だなと感じたのですよね。つまり、「よくわからない活動」「いい感じでゆる〜い動き方」というのが、当時の日本社会で、ある程度の看板と実働をしながらやるのは現実的ではない。少なくとも30年前の日本で、30代バリバリでそれをやるのは難しいと思ったのですよ。

 あ、いま「活動」とか書きましたけど、そこまで具体的に煮詰めたプランがあるわけでもなく、「活動」というよりも「生き方」といった方が近いと思います。もっとのほほ〜んと、という。そういうのって、ロックバンドやってるとか、漫画家志望とか、サブカル界隈には普通にある生き方です。ある意味、司法試験浪人なんてのも同じです。僕が過ごした十代、二十代の出身母体からすれば、そんなに珍しくないんだけど。いわば「世間の士農工商に入ってない」というか、「職業別電話帳にカテゴライズされていない」というか、社会的にほとんど認知されてなくて、めっちゃアゲインストもあるんだけど、でもそれだけにすごい自由であると。そういった「世間からほっておかれる自由」みたいなのが、どうも自分はすごい好きみたいで。

個人の価値観の洗い出し

 このあたりを書き出すと長くなるのですが、先週にちょびっと触れた「個人の価値観の洗い出し」に関連します。何がしたいの?どうなりたいの?どういうのが好きなの?という、自分の生き方の核になるべき好き嫌いです。

 これはかなり重要なポイントで、単に「お金持ちになる」とか「出世する」とか「一人前の社会人になる」「正社員になる」「結婚する」「子供を生んで育てる」とかいうのは、まだ洗い出しが足りないと思います。なんで金持ちになりたいの?なんで正社員になりたいの?です。もっと中核的な価値観があるはずで、それを実現する手段としてお金だの正社員だの一人前だのがあるわけでしょ?

 親や教師や世間やメディアから押し付けられたり、洗脳されたりして、10代後半から20代前半のいわゆる進路決め段階で、その種の「幸せパッケージ」みたいなものに手を出す人が多いでしょう。だけど、そのパッケージは「おすすめ商品」であって、あなたの価値観ではないよね。逆にひっかからない人は、もう十代半ば頃には、「プロになるんだ」とか実践を始めてるし(金メダルなんかでも十代に取れなかったらもう取れないとかいうのもあるし)、自分と世間は百万光年くらい離れているという諦めも覚悟もできてるでしょう。本当は全員が百万光年離れてるんだけど、そこまで踏ん切りがつかないとパッケージに手を出す。でも、それって本質的に何の解決にもならない。達成されなかったら、それがまたルサンチマンやらトラウマになり、達成されたらされたで「こんなもんか」と虚しく思う。

 いずれにせよ、「ほんとは何がしたいの?」「どうなりたいの?」はどっかで徹底的に詰めておくべきだと思います。ワーホリでやってきて、360度全部地平線みたいな風景のなかにポツンと一人でいたりすると、わりと考えやすいと思いますけど。

 ともあれ、個々人の価値観をある程度洗い出しておかないと、世界の動向や外部環境の予測やっても意味ないと思うのですよ。「自分がゴキゲンに生きるために」という視座があれば、ああ、日本はだんだんやりにくくなりそうだなとか、この国の感じはピンとくるな、とか判断ができます。でも視座がなかったら、判断のしようがないでしょ。

 僕の場合も、すっごい不愉快なことはしたくない、という当たり前の原点があって、ほとんどそれに尽きます。「すごい不愉快なこと」とは何か?といえば、中学の頃から確立しているのは「めちゃくちゃ眠たいのに眠れない」ことです。朝無理矢理起きるのがイヤ。寝たいときに好きなだけ眠れるのがいい。あと、「納得できないことをやらされる」のがイヤ。同じことだが、頭ごなしに指図強制されるのがイヤ。ま、個別事例は、ケースに寄って千変万化するんだけど、総じて言えば「不愉快なことはしたくない」ということになるのかな。それを「自由」といってもいいし、なんといってもいいんだけど、それはもう言葉の問題です。

 それと同じことなのか、相対立するのかわからないけど、面白い、楽しいという価値観も非常に強いです。前者をのほほん系価値観としたら、これはワクワク系価値観とでもいうべきもの。不作為や静止的なのほほん系と、瞬発的な活動のワクワク系は、一見対立するんだけど、自分の中では溶け合ってます。そんな難しい話じゃなくて、五歳児の遊びと同じです。面白かったらやりたいし、つまらなかったらやりたくない、というだけのことです。

蟻地獄の斜面の角度

 さて、話を戻して、30年前の日本はやりにくかったという話ですけど、いや本当に、エラそうな肩書って、何かに付けて有利な面もあるんですけど、逆に制約も多いです。実際、有利とか言われても、そんなの大してうれしくもないのですよね。これって、社会的にあれこれ肩書がついてしまった人ならわかると思うけど、メリットよりもデメリットのほうが多い。大して親しくない人の結婚式にもいちいちお呼ばれされて(多分知人に弁護士とかいるとカッコよく感じるかしらんけど)、たまの休日はそれで潰れるし、お祝い出費も重なると馬鹿にならないし。肩書だけで人を判断する人達には受けはいいだろうけど、今度はこっちがそういう人達とは出来るだけ近くづきたくないし。特にのほほん系にとってはメリット少ない。なんもしてないと「無職」とかウザいレッテル貼られてしまうし、世間用にいちいち理論武装というか、もっともらしいタテマエを用意しないといけないし。それがもう面倒臭えのなんの。

 また、日本って、今ほどではないにせよ、生存してるだけ金がかかる。一応弁護士事務所なんか構えようもんなら、どんなに小さくても月間百万は経費で消えるから、もうそれだけで馬車馬人生確定で、のほほんなんてやってらんない。とにかく何もしてなくても自動的に金がかかるというのは状況としては最悪で、よほど資産が有り余ってるならともかく、せめて月々の経費分だけでもとか働こうとか思ってしまうのでしょう。しかし、そういうバイト的な仕事って稼ぐにあたって歩合が悪い。どっぷり浸かるとコスパがいい。しかしどっぷり浸かったら人生かっぱし型にはめられてしまう。

 このあたり、なんというか、蟻地獄の斜面みたいに設計されていて、普通にしてると、あーっと斜面を滑り落ちてしまうから、頑張らざるをえないし、頑張ってるうちに何がしたいのか忘れてしまう

 エラくなったり、あれこれ装備を増やすと、固定経費や固定義務が増えてきて、蟻地獄の斜面はきつくなりますよね。へたに不動産でローンとか組んでしまうと、なにがなんでも月々の返済額は稼がないといけないから、それだけ斜面はきつくなる。なんかの拍子にえらい人になってしまったら、世間体を維持するための費用もかかるし、猛烈に多忙になって時間をどんどん取られる。かなり全力で頑張ってないと、あーっと斜面を滑り落ちていきそうになる。そして過労死寸前状況だったり、借金まみれになっていくと、斜面というよりは断崖絶壁になっていって、ちょっとでも気を緩めたら、真っ逆さまに墜落するようになる。ウシジマくんレベルになると、もうオーバーハング状態。

 「お金が欲しい」という価値観も、多くの場合はコレじゃないですかね。ある程度資金的なゆとりがあったら、斜面角度がゆるくなってきて、選択の余地も広がる。お金のために、イヤなことをやらざる得ないという局面が減る。日々の不愉快を減らすためには、斜面を緩やかにしなければならず、そのためにはある程度のお金は非常に有効である、だからお金がほしいって形になるのでしょう。だったら、お金がなくても、不愉快度が減ればそれでもいいんでしょ?ってことですよね。

 ともあれ、サロンでなんらかの場なりシステムなりを作ろうとしたら、基本的な設計思想として、この斜面角度をゆるやかにすることが一つの指針になりうるでしょう。断崖絶壁みたいになったら、もうかなりヤバいですから。だけど一定レベルを超えてしまうと、利息が利息を生むように、どんどん斜面がきつくなるので、そこはなんか外部的な手当がいるのではないかと。ある程度一息つけたら、態勢を立て直すこともできるだろうし、巻き返しもできるでしょうし。

 

海外という強制切断の場

 で、日本でのほほんとしようと思ったけど、なかなか無理っぽい。あかんわ〜「場」が悪いわって思った。日本だけのキャンバスで人生設計してても、無理ゲーぽいなと。だからもっと自分がノーバディでいられるところ、何もしなかったら、特に費用も義務も発生しないという斜面度ゼロのフラットでニュートラルな環境にしなきゃ、のんびり昼寝もできないわ。

 ま、そこまで明確に言語化したわけじゃないけど、当時の(今もだろうけど)日本では、海外というのは、もう「死後の世界」みたいなもので、そういったウザウザを強制遮断出来るからいいんです。で、行った先の国ではどうかというと、そこでは「外国人」という立場、士農工商に入らない気楽なポジションニングなんで、それも楽そうだと。そりゃ外国人という立場であれこれ割を食うこともあるけど、しかし、ガッチガチに組み込まれるしんどさと比較すれば、「部外者」ってのは楽なもんですよ。のほほん価値観に立つならば、ですけど(エラい人になりたい価値観からしたらアゲインストだけど)。

 まあ、実際には、それ以上に「暴挙がやりたい」「なんか、こう、ぶわーっ!と」という、上で書いたようなワクワク系の願望の方が強く、そんな日本ののほほん系環境分析だけで話を決めたわけではないですよ。でも日本でワクワク出来るんだったら、別に海外なんか行かなくてもいいわけですから、あれこれ考えたけど、やっぱ日本では無理だな、ワクワクものほほんも難しいな、少なくとも一回海外にいって流れを切断しておかないと難しいなとは思いました。プロレスでいえば、なんか流れがまずいなと思ったら、リングの場外に逃れて、20カウントの間にぐるりと一周して仕切り直しをするみたいな感じ。もっとも、その頃に比べれば、今は日本もだいぶゆるくなってきたので、状況は違うと思いますけど。

 海外のなかのどこの国にするかは、実はそんなに重要ではなかったです。まず「行く!(日本から離脱する)」というのがガーンとあって、それで半分以上燃焼してて、そこから先はメインではなく、事務手続というか、補助的なものに過ぎなかったです。「旅に出る!」と決めた人が、いざ切符を買う段になって、「あ、行き先決めなきゃねー」というくらいの。

なぜオーストラリア

マルチカルチャリズム

 それでもそこそこは考えましたよ、もちろん。最後はイタリアかオーストラリアの決選投票みたいになった。これも過去に何度も書いたけど、どうせ行くなら日本では学べないもの。イタリアは、人生を楽しむという本格的なラテン的な生き方が日本の真逆をいっててよかったから。オーストラリアはマルチカルチャリズムですね。世界中の民族文化が博覧会みたいに勢揃いしているのが魅力で、しかもそれで不協和音にならないという点。

 それもアメリカ式の坩堝(メルティングポット)型ではなく(何でも溶かして「アメリカ人」という鋳型にしてしまう)、オーストラリアのそれは、サラダボウル型という出身カルチャーをまるっぽ受け入れ、それを不愉快に思わず、色々あった方が楽しいじゃんという発想には共感を抱きました。また、その種のセンスや実践感覚というのは、金太郎飴で同調圧力の強い日本では学べないことでした。あ、「学ぶ」というのは本で読んだり知識を得たりじゃないですよ。実際に住むことによって皮膚感覚で馴染ませることです。90年代から将来的にはグローバル化するのは見えてたし、それが企業とかビジネスレベルではなく、個人の生き方レベルでいかに咀嚼できるかがキーポイントになると思ってたんで(実際そうなったし)、それが決め手でした。

 今でこそ日本でも「ダイバーシティ」とかいう言葉が広まってますけど、まだまだ本当の意味では広がってない感じがします。ダイバーシティって、多くの場合、外国人やら違った人(考え)が沢山あって、大変なんだけど、それは「いいこと」なんだから我慢しましょうみたいなニュアンスがどっかにある。違ってるけど頑張って調和しましょう、クソ不味いんだけど身体にいいから食えって言われてるみたいな。

 でもオーストラリアのダイバーシティやマルチカルチャリズムは、「違ってるからこそ調和出来る」という、違うことがむしろ調和の原動力になるんだって発想です。そこには自分と違う考えや文化を、「面白がる」「楽しむ」というプロセスがあってこそで、それがポイント。「良い・悪い」のレベルの話にしないで、「面白いかどうか」というレベルの話にしてるところがミソなのですよ。

 この感覚は分からないようでいて、すぐ分かると思います。例えば、ゴレンジャーとか戦隊モノがありますけど、ゴレンジャーは5色あるから面白いわけでしょ?ゴレンジャーが全員同じ色、同じコスプレ、同じキャラだったら、面白くないでしょ?違っていること(ダイバーシティ)が豊かな化学反応を起こして、次の次元にいくわけで、それが面白いという。バンドだってメンバー全員の楽器が違うから意味あるのであって、全員がベースのバンドなんかありえないでしょ(それはそれで面白そうではあるが)。

 オーストラリアのマルチカルチャリズムは、この間にも着々と根付いていって、もう政府広報とか、そういう呼びかけすら必要ないくらいに定着してると思います。当たり前の普通の環境になってしまって、それ自体が政治的論点になることもないってくらいですね。

 僕自身、オーストラリアに行きたいというよりは、「世界(海外)に出たい」わけで、世界が一つところに集まっててくれるのは好都合でもありました。

ギラギラしたお兄さんが普通のサラリーマン親父に

 なんでオーストラリアはそうなんだ?ってところで、まだ国が若くて、自由で、野心的で、実験精神に富んでいるところが一番の魅力だったのですよ。なんせ僕が行く10年くらい前だったかな、国民投票で国歌も変えてしまったし。当時の自分には「国歌を変える」って発想がなくて、そんなことをやってしまうオーストラリアの精神の柔軟さはかなり魅力的に映りました。だからこそ、最初はぎくしゃくしていたマルチカルチャリズムも、次第に根付いていったのでしょう。そこが一番大きかったです。前回書いた年金的に有利なんてのは、オマケの理由でしかないです(なんせ40で死ぬとか思ってたから関係ないしね)。

 しかしね、オーストラリアが面白かったのは、僕が来た頃がピークだったような気がします。イケイケのポール・キーティングが選挙で負けちゃって、以後、地味でつまんないジョン・ハワード政権が延々続いて、オーストラリア人もどんどん保守化の一途を辿ってる感じがします。国旗も変わるかと思ったけど、否決されちゃったもんね。いつまでイギリスのユニオンジャック背負ってマザコン国家やってんだよ、かっこ悪いじゃんって思うんだけど。なんというのか、最初は、若くて、ヤバいくらいにギラギラしてて、それがカッコ良かった先輩が、就職して、さらにたまたま入った中小企業が成長して大企業になっていくにつれて、どんどん普通のサラリーマン親父になっちゃった感じ。まあ人柄の良さは相変わらずで憎めないんだけど、ギラギラした魅力はない。

 それは今もそうだし、将来性に関していえば、そこが非常に気になるところです。
 そしてここからが将来展望になります。

 と、書き出すと、ここから凄く長くなるんですよね。今回は短めに切っておきましょうか。
 一応サワリだけでも書いておくと、オーストラリアに関して懸念する諸点は、まず今書いたような政治的な先駆性がなくなってきていること。これに加えて昨今気になる現象としては、アメリカ主導の覇権ビジネスの使いっぱしりになってる傾向があることです。これはいわゆる陰謀論とか呼ばれる領域も含むのだけど、アメリカがどうにもおかしい。もっと遡れば、大英帝国以来のアングロ・サクソンの世界覇権の終焉期におけるジタバタであり、さらに遡れば大航海時代や植民地時代から続いてきた西欧覇権の終焉。あるいは先進国の凋落と逆転です。この時期の舵取りはすごい難しいと思うのだけど、今のオーストラリアの政府の方向性を見てると、いいように使いっぱしりになってるだけで、その点では展望や将来性は感じられない。

正常化バイアスの強さ

 もう一点は、オーストラリア人(移民も含む)の正常化バイアスの強さです。先進国唯一といっていいくらい長期経済成長を果たして、さして問題なくここまで来ていることから、昨日まで上手くいったんだから、明日もうまくいくさというバイアス。真剣に考えればかなりヤバいことが目に見えて起きていたとしても、そうは考えたくない、という意識が非常に強いことです。それが現実対応力を失わせている。

 端的に見受けられるのは、コロナやワクチンへの対応で、ロックダウンやワクチンの有効性について、人口の一定比率の人が疑問を持つことは、意見や感性の多様性を反映しているわけで、健全なことだと僕は思う。不確知なものに対して全員が同じように感じる方が気味が悪い。実際欧州では激しいデモもあるし、ワクチンについて一定の慎重さを示しているし、日本でもそれは同じ。

 だけど、オーストラリアに関して言えば、そこまで真剣に疑義をもっていない。ワクチンにおいては、疑義を許さない政府やメディアの姿勢はちょっとファシズムっぽいくらいで、当の保健大臣のグレッグハントがワクチン射った速攻ぶっ倒れて入院しちゃったんだけど、それがどんな病気でどういう症状なのかを一切書かないまま(感染とかなんとか)、「ワクチンによるものではない」と同じ記事で次のセンテンスで書いている。そんなすぐ分かるの?嘘くせえなあって思うんだけど、オーストラリア人的には無邪気なくらい信じ切ってる感じ。少なくともメディアで表現される限りではそう。なんでそんなに無邪気なの?決して馬鹿な人達ではないのにって不思議なんだけど、やっぱこれまでの慣性というか、正常化バイアスが強いんだろうなーということです。

 健康な懐疑精神・批判精神は社会に欠かせないものです。「いや、待てよ」「本当にそうなのか?」という疑り深さが、現在する傾向やら政策やシステムについて常に精密な検討につながり、ひいては改善改良につながっていく。だけど、正常化バイアスは、何も問題なーしって思い込むことで、批判精神を眠らせることになるから、回りまわって社会の停滞を招く。

 オーストラリアの高い生活環境は、鉄鉱石などの鉱山、農業、留学、観光、そして製造業の5本柱ですけど、留学と観光がほとんど壊滅的に打撃を受け、農業部門は、ワーホリや季節労働者が入ってこない人手不足、そして中国に喧嘩売って輸入禁止や関税など報復を措置を受けていることからかなり厳しい。そして基礎を底上げするのは、年々優秀で富裕な消費者(労働者)を輸入しているという移民政策であり、人口ボーナスで上がっている。あとのバブルはアメリカの際限のないQEの余波で浮いてるだけの話で、要するに地に足がついた経済基盤なんか大してない。だから砂上楼閣だといっていいし、その砂を、農業、留学、観光、移民という大きな部門で激しく毀損してるわけで、かなりヤバいんですよね。経済専門誌や、そのあたりからは、ガンガン警鐘を鳴らされているんだけど、とにかく日和見のスコモは何もしないし、オーストラリア世間もそれほど危機感がない。やっぱ舐めとるわ、平和ボケしとるわって思いますもんね。

 もっとも、オーストラリアの場合は、まだまだ一過性のことで修正はききます。遅かれ早かれリバウンドするとは思う。
 また、修正でいえば、世界的に修正を裏から施すかのような動きもあります(世界各国でスキャンダル失脚が不自然なくらい増えてることなど)。

 オーストラリアの良い点としては、制度それ自体は良いものをもってるし、健全なバランス感覚もまだ健在。なんというか、良きにつけ悪しきにつけ、健やか過ぎるのかな。健やかだから無邪気に信じちゃうんだけど、健やかだからバランス的に回復もできる。コロナに対する疑問は他の先進国に比べて異常なくらい少ないのだけど、マスクについては最低限にしようとしたり、体質的に合わない人のことも考えようとするし、ワクチンだって圧倒的大多数が肯定していながらも、射たない自由はちゃんと認めようとするわけで、そのあたりはしっかりしてるなと。

 あと、政治とかではなく、社会レベルにおける多様性の承認はかなり浸透してきてて、これはもう悪くなることはないような気もしますね。移民についての排斥的な感情もあんまりないし(移民を増やすことに肯定か否定かという調査をしてもポジでもネガでもない)、順調に増えつつある移民層、特にアフリカ系が目立つようになってきてることもあり、そういう広がりは進んでると思います。少なくともカントリーリスクという点で言えば、国内的にすごい不協和音が生じるということは少ないと思われます。これは世界的にはかなり珍しい部類に属するかと。

 そして、オーストラリア人の開拓民的遺産として、仮にバブルが弾けて、皆が破産して、貧困になったとしても、それで心が折れてしまうようなことはないと思います。なんというのか、経済的成功やら、競争社会で勝ち抜くエリート主義が価値観の中核に位置していない。日本やアメリカほど強くはないね。傍証になるのかどうか、オーストラリア国内では大学のランキングみたいなものは、あんまりないです。そういう本もあるんだけど、それは論文数の多さとか、学生一人あたりの教員の数やキャンパスの広さとか託児所があるかとか、そういう観点でのランキングであって、いわゆるエリート度ではない。そもそもオーストラリアにおける「エリート」とはなにか?というと、意外とこれがわからない。政治家やビジネスマンよりも、むしろ優秀なスポーツ選手の方が、知名度、尊敬度、経済面などでエリートなのかもしれないって思えるくらい。

 そういう意味では、オーストラリアの一般社会の文化や人的資源の豊かさに比べて、政治やメディアの薄っぺらさが逆に目立つし、それだけが懸念要因だということです。ま、それは日本でも、どこでも同じかもしれないけど。

 サワリといいながら、結構書いてしまった。またもう少し、敷衍して書きますね。
 そういえば、冒頭に書いた「ポーズボタンを押そうとしたら、早送りボタンになってしまった」という意味も書いてないけど、それは次回書きます。






文責:田村


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