★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
Tweet このエントリーをはてなブックマークに追加

978 ★背景デカ画像


  1.  Home
  2. Essay目次
このエントリーをはてなブックマークに追加


Essay 978:悪いから良い(日豪比較論 その2)

 〜理念にこだわって無理矢理感満載のパラノイアになりがちな欧米
 〜理念にかぶれない多神論アミニズム社会の日本


2021年02月20日
 写真は、前回からひきつづき宵の口のThe Rocks


 


 「良いから悪い、悪いから良い」の二回目。前回は、「良いから悪い」で、オーストラリアはじめ欧米系のシステムは、よく出来ているんだけど、出来ていることが逆にコロナ対策などでは裏目に出ているのではないかという話でした。ともすれば非現実的なまでに理屈主義にいくので。

 今回は逆に「悪いから良い」ということで、欧米と対比させつつ、日本の状況を書きます。

制度が良くても運用がダメ

 日本のメジャー部分、つまり正式の政治や経済システムは、ほんとダメダメです。政治家の質にせよ、政治の決定過程にせよ、財界との関係にせよ、労働環境にせよ、もういちいち指摘できないくらいダメ。なにがダメかというと、運用がダメだと思います。

 日本の法制度やインフラは、そんなに駄目なわけではないです。明治の頃から諸外国の制度はよく勉強して取り入れているし、骨格としてはそんなに悪いものではない。憲法なんか本家のアメリカよりも良く出来ているくらい。だけど結果としてえらい差がついている。

 例えば、働く環境(労働者の権利)において、日本と諸外国(特に欧米)とはかなり違います。働くストレスも段違い。年休だって、オーストラリアでは誰もが当たり前のように全部取る。取りたくなくても取らされる。でも労働法の骨子そのものは、日豪でそんなに違うわけではない。何が違うかといえば運用の実態です。日本の場合、制度や権利があっても利用できない。年休や病休などの諸手当も利用させまいとするインフォーマル(非公式)な力があるし、また人々も利用しようとしない。

 この現象を別な側面から言えば、人々(社会の構成員)のシステム参加度、寄与度が低い。せっかくいい制度があっても、政治家も企業も国民も、それをどんどん利用しまくり、使い勝手が悪いところや駄目なところは皆で指摘しあい、良いものにしていこうという意欲も行動も乏しい。だから労働法上の権利にせよ生活保護その他にせよ、システムがちゃんと稼働していない。むしろ皆揃って錆びつかせて、動かないようにしてる。よってたかって「絵に描いた餅」にしている。

 小選挙区制に変えたときは、民意をビビッドに政治に反映させることが目的だったけど、構成員の政治意識の低さ(投票率の低さ)、常日頃からのシステムメンテ責任意識の欠如(社会を維持するのは主権者たる自分の責任だと思ってない)、それらの基礎になる中立公平な情報を提供しないメディアなどによって、本来の意図とはかけ離れて一党独裁になってしまっている。小選挙区制は、選挙民が常に厳しくチェックしてないと既得権益を温存させるだけになる真逆のデメリットがあるのですが、まさにそうなっている。

 それは多くの人が指摘していることだし、みなさんも耳にタコでしょう。
 だけど、思うのですけど、だから日本の政治家は駄目で、日本人の国民としての意識・能力が低いとばかり批判してても、はじまらないのではないか。遡れば明治七年の自由民権運動の頃から同じようなことを言っているのに、あれから数えて150年たっても変わらない。だから百年後も変わらないのではないか。

 そういうと絶望的な感じもするのですけど、そもそも問題の立て方が違うんじゃないかという気もするのです。

日本社会を本当に動かしているのは、国以外のなにか

 日本における日本人の人生の舞台となり、支配しているルールは、国や政治など建前的な表舞台とは全く違った別のものではないか。

 端的に証明するならば、今の日本でもっとも多くの日本人がきちんと守っているルールは、公共場所でのマスクだと思います。だけど、マスク着用は国や政府が義務化したものではない。推奨はするけど、オーストラリアや欧米のように、「何月何日何時何分からこっからここまでのエリアで、こういう状況においてはマスク着用を義務化し、違反者には罰金いくらを課す」という形で明確に決めているわけではない。その代わり、国や政府が決めたことに関しては、守ってない人は全然守ってない。そもそも政治家が全然守ってない。

 ではなぜマスクだけ守ってるのか?そこが日本のイヤな同調圧力だとかいわれるし、同感ですけど、ここで言いたいのは、日本人が守る規範(ルール)は、国や政府や法律が決めて「いない」という事実です。なんかもっと別のところからルールが来ている(”法源”っていうんだけど)。同調圧力であれ、世間の目であれ、アラ探しバトルロイヤル環境におけるサバイバル戦略であれ、慣習、暗黙の掟、文化、風習、、、いくらでも説明はありますが、とにかく国家ではない。それはお盆は国民の祝日になってないけど皆基本的に休むし、正月三が日は休日扱いが普通である(法律上は元旦だけが休日)のと同じです。

 つまり日本社会と日本人を規律しているのは、国家や政治ではないってことです。
 国や政府や法律というのは、たしかに自分らの生活に影響を与えているけど、それが全てではない。全てどころかほんの一部に過ぎない。現実には、もっと別の集団原理があり、そちらに支配されている場合が多い。だから、多くの日本人は、本気でこの国家&国民ゲームをやってない。いわば「つきあい」でやってるに過ぎない。「心ここにあらず」でやっており、ゆえにコミットメントがお座なりなものになっている。

 例えていえば、中高時代の僕らからみた、学校の校則やら、先生や生徒会の世界が、今の僕らの国や政府のようなものです。確かにそれらに束縛されるし、大きな影響も受けるし、それなりにベネフィトも受けてはいる。だけど学校の校則や先生のいうことが自分らの人生や生活の全てではない。では自分の人生はどんな要素で決まっているかと言えば、たとえば家庭内の環境であったり、部活やクラスメートなどの交友関係であったり、不良やったりバイトやったりバンドやったりという課外活動であったり、そちらが自分の人生の舞台であり、行動論理になる。とある行動を取るべきか悩んだ時、気にするのは「友達にどう思われるか」「仲間内で許されるか」「バイトをクビになるか」であり、校則や先生がどういうかではない。校則とかそこらへんのものごとは、読んだこともないし、興味もない。

 同じように平均的な日本人の人生の舞台や原理は、自分をとりまく人間関係であり、経済的現実であり、国会がどうなってるかなんてそんなに興味もない。ましてや法律がどうなってるかなんか、考えたこともない。あなただって法律の原文なんか滅多に読んだこともないでしょう。

 大体、幼児の頃は、世界の支配原理と自分が一致してます。まず親や家族がこの世界の全て。だけど、幼馴染が出来て友達との世界がひろがり、好きな遊びなど趣味の世界が出来、学校にいくにつれてそれは部活やら交友やら恋愛やらでさらに広がり、大学から就職になるにつれ、親や家族の支配力や原理というのは、どんどん薄らいでいく。

 日本人にとって、国家のような大きな人間集団のあれこれは、リアルであって、リアルではない。間接的には大きく影響を受けるのだろうけど、間接的すぎてピンとこない。いわば「お天気」「季節」のようなもので、どうこうできるものではないし、逆にどうであれ通情の範囲内であれば対応はできる。

 もっとも、これは日本人に限らず人類一般に共通することです。人間ひとりのミクロな生活リアリティと、大きな国家社会というマクロとの差。あるいは国法体系と文化慣習の二重構造。それは、どんな集団にもあります。

 しかし、ここではそんな当たり前の一般論を述べているのではない。今回、日豪比較、あるいは東西文化の比較という形でいうなら、コロナを契機にして、結構大きな濃度の差、パターンの違いが目に見える形で現れてきているように思います。それについて、さらに書きます。


個人の人生と国家社会の重なり合い

 オーストラリアなど西欧諸国は、基本、大きな国家社会と個人の人生とが重なり合うところが多い。これに対して、日本の場合は重なり合う部分が少ない。これは民主制の浸透度とパラレルであり、民主制が浸透している欧米は個人と国家の一体感が強く、さほど浸透していない日本(アジア諸国)は個人と国家がそれほど一体化していない。

 日本の場合、自分の人生のあれこれと国家政治の物事(新聞の一面記事の世界)は、別次元の世界のように感じてると思う。しかし、欧米においては、個人の人生上の問題を解決するにあたって、国家社会を改良することで解決しようとするのですよ。ここがちょっと日本人的な感覚では理解しづらいところだと思うのですが。

 日本人の場合、個人の問題を解決するには、まずもって個人の努力と才覚でやろうとする。国や政府に頼るのは、救命ボートのような最後の手段として捉える。ところが欧米系は、あたかも路線バスのように、、個人の生活のために国家が存在していると思ってるから、個人努力と並行して国家システムを利用するし、システムの使い勝手が悪かったらすぐに変えようとする。

 今の日本の生活保護の数は1.2億の人口に対して、1%である120万かそのくらいです。でも、日本人の脳内がオーストラリア人みたいになったら、おそらく受給者は数倍以上に増えるでしょう。まったく悪びれずに、当然の権利として要求するし、利用するでしょう。青信号になったら渡るのが当然というくらい当然にそう思うだろう。だってそのためのシステムなんだから利用することこそ正義。社会に貧困層が出てるのは、全体の金の巡りが悪いから=システム不調から生じることであり、個人の問題ではない。福祉その他はシステム不具合の際の修正メカニズムなんだから、これらを利用することは、大きな意味で社会正義を回復させることでなり、いわば「いいこと」であり、正義である。また金がないとか、生活が苦しいだけで人格的に問題があるとか屈辱だとも思わない。それは、盲腸になったときでも、「自助」が尊いのだ、どんなに痛くてもじっと我慢して死んでいくのが美しいのだ、病気になるのは恥であり、病院を利用するのは屈辱である、、とは考えないのと同じことです。

 一方、日本の場合は、国家政府にリアリティがないから、個人の人生問題を解決するために国家社会を使おうとはあまり思わないし、期待もしていない。また期待できるような実質もないし、その実質を作り上げるだけの不断の努力もしていない。要するに、舞台の背景の書き割りのようなものとして国家社会を捉えており、そんなに使えるものだと思ってないから、手間暇もかけない。選挙にいったり、支持者をサポートしたり、諸問題を勉強したり、寄付やボランティアに参加したりということを(オーストラリアに比べれば)あまりやらない。

 西欧の場合は、民主政なり人権保障なりは、もともとが市民革命など血みどろの闘争を経て勝ち取ったものであり、それこそが大事なご先祖様の遺産。イェーリング「権利のための闘争」という古典がありますが、権利というものはボケッとしてても与えられるものではなく、また理想社会もなんとなく出来てしまうものではない。常に常に戦い続けることでようやく得られるものだというバックボーンがある。国家社会にリアリティがなくなったら、あるいは自分の国家社会が理想的なものでなくなったら、それは自分個人にとっての敗北であり屈辱でもあるとも考える。つまり個人の人生と国家社会を重ね合わせようとする傾向が強い。

 なので、表社会的には、オーストラリアなど西欧は比較的よく出来ているし、よく廻るように人々が頑張る。日本の場合もそういうことに意識的な人たちは沢山いるんだけど、そうではない人がその数倍以上の数でいるから、一部が頑張っても全体はなかなか動かない。その点、西欧はわりと動く。

 その意味で西欧やオーストラリアの方が「良い」のですが、コロナのようなケースになってくると、それが逆にネックになって、「良いから悪い」という前回書いたような弊害も起きるわけです。

国家が暑苦しくのしかかってくる

 前回とやや重複するけど、欧米、身近にはオーストラリアですが、実際に暮らしていると、個人の人生と国家政府の一体度が高いので、個々の政策がビビットの個々人の人生に影響します。たとえばロックダウンをするにしても、ガチにやるわけですよ。シドニーではそれほど強力なことをやらなかったですけど、それでも例外(けっこうあるが)を除けば、戒厳令みたいなもので、うかつに自宅を離れられない。正当な理由なく外出していると、そこら中にいる警官にバシバシ切符来られます。一回2万円とか結構きついし、いわゆる密状態のパーティなどをしようものなら、もっと厳しい。お店などの罰金も50万とか100万円とか、桁違いに厳しい。

 厳しい分だけ補償も厚いです。また、かなり厳しい批判もありながらも、それでも日本に比べればはるかに合理的で、お店の支援ではなく、人々の職の支援であるという原点(だからJobKeeperと呼ぶ)、雇われている人数に応じて支給がなされ、雇用者がこれをピンハネしないような工夫もしてある(それでも大企業などが悪用してCEOに巨額なボーナスを払ったりして問題になってるけど)。

 つまり本気で国のありようと個人の人生が重なり合ってる分、手厚いといえば手厚いけど、息苦しいっちゃ息苦しいのですよ。オーストラリアは比較的制約が少ないですけど、欧米とか見てると結構キツいところも多く、これだけやられたら、そりゃ市民的自由を侵す違法だというデモも起こるし、最近オランダの裁判所も、コロナ対策で政府が出した夜間外出禁止令を違法だとする判決を出してます(Court orders Dutch government to scrap coronavirus curfew )。欧米でものすごい対立が起きるのも、それだけ国家政策というのが実質的に意味があり、且つ直接的に影響するからでしょう。

 これに対して、日本の規制は、一般的に言えばほとんど何もしてないに等しいです。個々の小さな自治体では、非常にしっかり対応しているところもありますが、大きなところ(国や大都市)では、形だけの規制です。見てても本気で考えてないなーというのが丸わかりで、基本イヤイヤやっている。うるさい人達がうるさいことを言うから、面倒くせえなあって感じで、テキトーにやってる。だから対象になる業界にせよ何にせよ、思いつきでやってる感じですよね。だから補償なんかもいい加減だし、それ専用にシンプルなクリック一発系のサイトをつくるわけでもないから手続が複雑。こちらのJobKeeperのようにオンラインでちょこちょこっとやれば、経営者ではなく単に雇われてるだけの人でも月に25万円くらい貰えるような実質的保護はない。

 日本の場合、いい加減に対応しているから、その分取締りもいい加減です。そこら中に警官がうようよしていて、正当な理由がなかったらその場でいきなり数万円罰金を食らうということも殆どないでしょ。だから、自粛だなんだ言われていても、気にしなかったらそれまでだし、それ以上の強制力はない。オーストラリアの空港についたら、いきなり迷彩服をきた軍人にエスコートされてホテルに強制収容だけど、日本の空港ではいいとこ検査どまりでしょ。

 簡単に言えば、日本の場合、本腰入れてやってないので、だからこそ市民的自由もほとんど侵されてない。こっちから見てると、日本はフリーダムというか、自由ですよね。そこが、見方によるのですけど、「悪いから良い」ところでもある。

コロナ・ワクチン・不正選挙と陰謀論

 この良い悪い逆転現象に拍車をかけているのが、コロナ騒動の不透明なところです。僕は最初から、なんでこんな大騒ぎするのか不思議でしたし、そう書いたけど、1年経っても収束しないことから、(最近様変わりしたヤフコメとか見てると)同じように感じる人も増えてるように思います。仲間が増えてうれしいですけど。

 そしてワクチンです。本来10年スパンで開発するワクチンを半年かそこらでやって、しかも人類初めての遺伝子ワクチン、絶対安全なんて誰にも言えないでしょう。そもそも製薬会社が販売するに際して、薬害に伴う賠償はしないという、普通だったら考えられないような無責任な特約付きで各国に納入してるんですから。

 そうは言っても、コロナで大風呂敷広げた以上、小さく畳まねばならない、出口戦略を目指さないといけない。だから何がなんでも皆にワクチンは射ってもらって終わりにしたい。そういう意向があるから何がなんでも大丈夫ってことにしないといけない。ワクチンに関する素朴な疑問を言おうものなら、"misinformation"(誤った情報を撒き散らす、デマ)とレッテル貼りをされておしまい。だから、ますます疑問は募り、話はどんどん不透明になる。

 一方年末年始のアメリカ不正選挙祭りですが、あれがまた不透明なのに「何の問題もない」と強引に押切り、疑問の声を上げてもシカトされ、ビッグテックから削除されてしまうという状況が続いてます。これもあれだけ具体的な証拠や証人がでて、中にはかなり信頼すべき社会的学問的立場にある人がいっても、全部「根拠がない」の一言で終わり。アメリカ国内で不正に関する訴訟が起こされ、すでに十数件裁判所でなんらかの(不正について)肯定的な判断が示されているにも関わらず、「全敗」とか大嘘をつく。つい先日も、ミシガン州で再度チェックした結果、17万票を排除すると州政府が述べています(Michigan Just Removed 177K Voters From Its Voter Rolls)。ミシガンは15万票差でバイデンが勝ってるんだけど、この17万票を差し引くとどういう結果になるかは発表してません。いずれにせよ少なからぬ量の不正らしき現象が当局によって確認されているんだけど、それでもメジャーは「デマ」と呼び、検索してもろくに出てこない。そして疑問をもつだけで非国民扱い。非国民といわず陰謀論というところが新しいところですが、なんでこんなもんが陰謀論呼ばわりされるのか。

 でも、今回のことで世界中で「陰謀論者」は10倍にも100倍にも増えたと思いますよ。通常だったら普通に議論すべき物事を、言うだけで陰謀論ですからね。しかし、なんでもかんでも陰謀論で済ませられたら、それは楽ですよ。どんなに自分がヤバいことをやってても、それを正しく指摘する人に対して「それは陰謀論だ」で済ませればいいんですから。これが通るならやり放題です。いくら浮気をしようが、奥さんから「あなた、ひょっとして他に女の人がいるんじゃない?」とか言われようが、「それは陰謀論だ」といえばいい。会社の金を使い込んで、どうにも帳尻が合わなくなって、どう考えてもお前が取っただろうと言われても、それは陰謀論だと言えばいい。楽だよね。

 新規参入で陰謀論者にされている世界の多くの人が言ってるのは、真実はコレだとかいうトンデモ話ではない。「ねえ、もっと普通に議論しましょうよ」ってことでしょう。でもメジャーメディアは半分くらい情報をカットするから、あと半分を探すと、いわゆる陰謀論界隈のサイトの方がその手の情報は早いし豊富にあるからそっちに流れるのですよ。まあガセっぽいのも多いし、結論が牽強付会に飛躍してるのもあるのですが、そんなのは自分で出典調べたりすれば選別かけられる。何も知らされないより、よっぽどマシです。

 しかしことの真贋を質す以前に、ちょっとでも疑問や異論を唱えたら頭ごなしに全否定され、狂人扱いされるという現実そのものが、なにごとかを雄弁に物語っている。これでは、なんかおかしい→ますます怪しいってなるだけで、どんどん疑問を感じる人は増えます。もう完全に逆効果で、アメリカの最新の調査では、今や7割の人が今の二大政党制や政治システムに不信感を抱いているらしく、選挙のときよりもひどくなっている。

 繰り返しますが、その是非や真偽はここではどうでもいいです。言いたいのは、(前回の部分とつながってくる部分ですけど)欧米の場合、なんでも理屈や理想で固めたがる性癖があるから、変な話がエスカレートするいう点です。そして、今回述べたように、個々人の人生のために国家があり、国家は可能な限り理想的な状態でなければならないというドグマを本気で信じてるから、リアルと建前のギャップが益々ひどいことになる。

 いろいろな大人の事情やらで政治的にやむなく言い切らないといけないことは、それが仮に証拠上明々白々に大嘘であったとしても、言い切ってしまった以上、半永久的にその嘘を突き通さないとならなくなる。なにがなんでも今が最高の理想状態なんだっていい続けないといけない。離れてみてるとアホアホで滑稽な状況なんだけど、そういうことはありますよ。だけど程度の問題ってこともあるでしょうし、リアルタイムの目の前で、ここまで堂々とやられると、なんだかなあって思いますよね。

 この「何がなんでも」の無理矢理感が、理性的な人々を陰謀論に押しやるわけですよ。理想を言い過ぎるがゆえに宗教的になってしまってる。

 キリスト教でも、マリア様の「処女懐胎」なんて「どう考えても嘘だろ」って思うのだけど、そこは絶対譲らない。それに似てる。別に処女懐胎じゃなくても、普通に愛のあるセックスで生まれたとしても、キリストが言ったことの価値が下がるわけでもなかろうに、ドグマ(教義)として設定してしまったら、殉教的に破滅的に盲信する。キリスト教くらい殉教者の多い宗教はないと思うのですけど、人を幸福にするため宗教で信者に自殺行為を称揚してどうするんだ?と思いますよ。その点(日本)仏教なんか「嘘も方便」とか、いい加減というかプラクティカル(実践的)なんですけど(笑)。

 総じて言えば、欧米人の心象の根っこを考えると「なあなあ」「玉虫色」の解決がしにくい人達に思えます。それは美徳でもあるけど、面倒くさくもある。また現実的にどうにも割り切れない問題が出てきたときに機能停止してしまう。実際には、その種の「高度な取引」は行われているんだけど、まかりまちがっても表舞台に出せないから、形としては本当の陰謀であるかのようになってしまう。ギャップが激しすぎてそういう構図になってしまう。

 でも、実際の人の世においては、白黒ハッキリつけるとしこりが残る場合もあるし、大人の事情による大人の解決が望ましい場合もあるわけですよ。また、両論併記のように、どちらにも花を持たせてシャンシャンという解決もあります。何が正しかったのかというのも、「そんなことは、もうどうでもいいじゃないか」「大事なのはこれからだ」「一緒に協力してやっていきましょう」とかいってね。日本人はこれが出来る。「水に流す」という「これまでの戦いは何だったんだ」みたいなことも平気で出来る。

 でも理念シロクロが強い人は、そこらへんが下手だから、もう強引に押し切ってしまって、ものすごいシコリを残す。だいたい理念理想(新しい価値観)は欧米発です。人権も、民主も、共産主義も、環境もそうです。理想が昂じて宗教的に狂ってしまうのは、題目でなんであれ同じことです。日本発の「理想」ってあんまりないですもん。せいぜい「和を以て貴しとなす」くらいでしょ。あとは儒教的な徳、仁、義、礼、忠、信、孝などの概念だけど、抽象的すぎて理論化しない。

 陰謀論が欧米発であり、日本発の陰謀論はあまり多くないのも、そのあたりに関係してると思います。日本をはじめアジア諸国の場合、政治家や権力者が悪いことをするのは、ある意味「当たり前」「日常風景」だから、うんざりしつつも、そこまで大問題にはならない(それはそれで問題なんだが)。結局白なのか黒なのかよく分からないまま時とともに忘れられていくという。もう解決になってるんだか、なってないんだかわからないことが多い。そこでは「陰謀論」とかいっても、「実は!」という意外性がないから、日本やアジアで陰謀論がそんなに発達しないのだと思いますね。

 

理念にかぶれない日本の多神論世界

 日本人の精神世界において、誰だったかな(遠藤周作だったかな)、面白いことを言ってて、どんなに布教をしても、日本人のなかのキリスト教信者はだいたい3%で頭打ちらしく、それ以上増えない。また全共闘時代に燃え上がった共産主義思想にしてもいいとこ3%で頭打ち。つまり、日本人には、理念や思想という精神的な薬物(毒物でもある)に対する免疫が強い。なんでかわからないけど、思想や理想に「かぶれる」率が低いと。これは司馬遼太郎も言ってた記憶がある。

 これは僕としても非常に頷ける話です。
 過去のエッセイでも何度も書いてますけど、日本人というのはめっちゃくちゃ思想に対しては無節操です。あれだけ熱狂しながら、一夜あけたらけろりと忘れている。あれだけ尊皇攘夷だとか大騒ぎしたのに、自分らが権力とったら文明開化だ西洋化だ鹿鳴館だでやっている。その無節操ぶりは、濃厚な儒教国家であった中国や韓国からは軽蔑の対象であり、もう人間としての誇りすら失ったとか厳しく罵倒されたらしいのですが、そんなこと言ってるから中韓は近代化が遅れて日本の植民地にされてしまった。戦時中の軍国教育にせよ鬼畜米英にせよ、終わってしまえば、「あ、あれは間違いねー」「ということで、今日からコレでよろしく〜」で済ませている。もう、およそ人間の精神構造としては、ありえないレベルでのサバサバしてる。

 それは日本人が馬鹿だとか思想的に低劣だからだとかいうのではなく、基本となる世界観、ミームみたいなものが違うからでしょう。つまり、思想や理念というのは、この世に真理(ないし最高に合理的な発想)が一つだけあり、あとは全部その応用なのだというものですけど、日本人の場合、そういう真理の存在それ自体を認めてない気がします。別の言い方をすると、真理なんかいくらでもある。真理を神様に置き換えれば、キリスト教などの一神教ではなく、八百万の神々というくらい神様なんか山程いる。八百万ですよ。話半分としても、800万なんだから、下手すれば当時の人間の人口よりも神様の方が多い(笑)。

 だから、理屈や思想にはかぶれない。腹の底ではどうでもいいと思ってる。皇国史観もなんでも、熱狂する「ふり」はするけど、「つきあい」でやってるだけ。だから戦後に天皇が人間宣言をしたら、日本の人口の半分が世界観が崩壊して発狂したり自殺したりしたかというと、ほとんどが「あっそ」と受け止めている。最初からそんなに思い入れがなかったとしか思えない。

 ゆえに、国家や社会に対しても、口ではあれこれ言うけど、そんなに大したものだとは思ってない。原始的な多神論アミニズムの影響が強い日本の場合、国家も政府も、八百万の神のうちの一人に過ぎない。

日本人の精神原型を作った聖徳太子

 では、なんで日本の場合、そんな原始の心象を今なお残しているのか?ですが、これは本題から外れるから又別の機会にしたいのですが、一点だけ、日本人の思考パターンを強烈に型にはめてくれたのは聖徳太子だと言われているし、僕もそう思います。日本史二千年のなかで最高レベルの天才は聖徳太子と空海の二人だと思うのだけど、まさに千年に一人の天才。

 聖徳太子がなんで凄いかといえば、「異なるものの同時併存」という精神フォーマットを最初に作ったのがこの人だからです。2つあって、一つは権力構造の分離。権威と権力をわけた。いくらでも天皇なれたはずなのに、そうはせず、自分の上に推古天皇をおき、死ぬまで摂政のまま執政をした。権威と権力を二人の人間に分散させることにより、政治的に柔軟かつやりやすくした。「エラい人」「強い人」を分ける発想は、その後イギリス議会の権利の章典で「王は君臨すれども統治せず」で二分化が行われましたけど、聖徳太子はその千年前に一人でそれを思いついて(思いつくところが天才)、実行している。もうひとつは、仏教と神道をごちゃまぜにしたことです。全然原理が違う2つの宗教、そのために蘇我物部の宗教戦争すら起きているのに、「あれは究極的には同じものだ」とトンデモ論を展開し、意訳をすれば、自然に対する謙虚な畏れは神道で、人の道や学びについては仏教で、でもいずれにせよ我々を豊かにするありがたい教えなので等しく敬えという発想。後年の本地垂迹説ほど理論化はしてないものの、「違うけど同じ」「だから同時にあっていい」という凄い発想をした。

 聖徳太子の革新性は「冠位十二階」「十七条憲法」ほか、瀬戸内ルートの整備など色々ありますが、彼の執政期29年間だけ、不思議となんの争乱も起きずに収まっていたのも、多分凄すぎて誰も逆らえなかったのだと思います。彼が摂政になる直前には、崇峻天皇が宮中で堂々と暗殺され、しかも死体は犬の死骸のように裏に放置されてたんですよ。そんな殺伐とした時代に、戦乱を起こさせなかったというだけですごい。聖徳太子は実在したかという議論がありますが、僕は実在したと思います。なぜなら、このレベルの仕事をグループでやろうとしても、そんな天才が同時に出現するとは確率的に思いにくいからです。秀才を百人集めても天才の仕事は出来ない。

 ともあれ、聖徳太子の遺産なのか、我々には「原理の違うものが複数あっても全然気にしない」という、やや精神分裂気味な、それだけにものすごくプラクティカル(実戦的な)な思考方法になっている。まず現実をそのまま歪曲せずに受け入れ、その上でどうしたらいいかを考える。理念や理想にとらわれると現実を素直に受け入れるということができなくなるのですが(ガリレオの地動説を受け入れられないとか)、日本人にはその傾向が意外と少ない。だから明治であれ戦後であれ、天地がひっくり返っても、「ふーん」と受け入れ、じゃあ俺はどうしようかなと、すぐに対応できる。そういえば織田信長は、バテレンの宣教師から地動説を聞いたとき、「なるほど」と瞬時に理解して宣教師を驚かせたらしいですね。彼らの本国西欧では地動説を納得出来る人がなかなか居なかったらしい。

肥沃なサブカル世界

 日本人の何でもアリ的な汎神論的世界観は、社会においても大きな影響を与えていると思います。それが例えば、カウンターカルチャーであり、サブカルチャーと呼ばれるものです。

 表の社会に受け入れられているのか、受け入れられてないのかよくわからないグレーな領域が、日本の場合には非常に多いと思います。

 例えば、昨今のLGBTの運動ですが、西欧社会ではお得意の理念やら理想に祭り上げます。そして国家の方針として受け入れるとか受け入れないとか議論になります。オーストラリアでも、昔は同性愛が犯罪にされてたと思うけど、そんなもん一々犯罪にするとか、解放するとかそこらへんの「真理は一つ」的なところが欧米なのでしょう。でも日本の場合は昔からグレーです。古い日本語で「陰間」というのがあり、男娼で、普通にお座敷などで営業活動していたし、陰間茶屋なんてものもあったらしい。一般に美少年がなったので、ペド的な意味合もあったのでしょう。稚児文化もあるしね。昭和の昔からゲイバーは普通にあったし、言うまでもなく新宿ニ丁目はそれで有名。ではゲイやLGBTは昔から市民権を得ていたのか、差別はなかったのかといえば、そういうわけでもない。普通に気持悪がられたり、差別もバンバンされただろうし、今でも差別されたりもするでしょう。でも堂々と存在している。受け入れられているっていえば受け入れられてるような、受け入れられてないっていえば受け入れられてないような感じでしょ?よくわからないグレー状態です。

 暴力団などの反社会的勢力についても、実のところ境界線は微妙だったりします。大阪なんか、普通の市民が普通につきあってたりしますからね。善か悪かという二元論とは別の次元で人間関係があったりするわけですよ。幼馴染が不良になったり暴力団になっても、「おう、困ったことがあったら何でも俺に言ってこいや」とか。クラスの中のツッパリくんでも、真剣にヤバくて怖がられている人もいれば、妙にクラスの人気者になってる人もいる。つまり、法律が決める善悪の基準と、自分らが決める良し悪しはまた別なんですよね。

 そもそもですね、不良文化を全部否定してしまったら、少年青年マンガの世界の半分は消滅しますよね。男一匹ガキ大将の昔から、現在にいたるまで、不良・ワル→ツッパリ→ヤンキーと呼び名は変わろうが大きなジャンルとして今なお健在。実際、面白いしね(笑)。映画でもそう。国民的に人気の高い高倉健さんなんか、基本ヤクザ映画で人気が出たわけで、犯罪者の話ですよ。また、リアルな暴力団の動向については、極道ジャーナリズムで週刊実話や朝日芸能があったりする。こんなのオーストラリアでは考えられないですよ。そもそもマンガとかそのあたりのサブカルが極端に少ないですもん。

 芸能界は基本的に裏社会とつながらないとビジネスできないし、それは政治世界も、一般の企業も実は似たりよったりです。だから「反社勢力とのつきあい」があったとか大騒ぎされますけど、あんなの普通にあるでしょう。たまたま運が悪かったか、ハメられただけの話。そんなの普通の社会人の日本人だったら普通に知ってるでしょう。

 つまり国家なり法律なり世間的なタテマエ善悪論とは、全く別の善悪秩序が日本にはある、ということです。そこでは誰が善玉で誰が悪玉かもわからんし、その基準が何なのかも実はよくわからない。しかし、わからなくても問題ではないし、分からなくても良い、わかるはずがないだろうとすら思ってるフシがあります。森羅万象=神々の世界=何でもアリ=あるがままにそのまま素直に受け入れ、それ以上小理屈で分類しないのが日本流なのでしょう。

 風俗なんかでも、オーストラリアの場合は、売春宿が合法化されてますし、セックスワーカーの権利保護というNPOもあるし、政府のサポートもある。だけど、シロクロはっきりしすぎてて、模範的な社会生活かセックスかの2つの選択肢しかない。バリエーションとしては、せいぜいパブのバーメイドとか、ストリップやりながらビール飲んで(アメリカの映画によく出てくる)とか、ストリートのフッカーくらい。しかし、日本の風俗は大宇宙のように広い。普通の飲み屋に可愛い女の子がいて、水割り作ってお世辞いってくれてちょっといい気分という軽いものから、身体を触りまくるというセクハラが第一目的のキャバレーやピンサロもあり、もっとセックス指向になったとしても、ガチでやるソープから、本番禁止の各種風俗もある。なかには風俗なんだかすらよく分からない耳かき喫茶もある。よくそんなの思いつくなーというくらいある。思いついたら即営業できるし、それをなんだかんだうるさく糾弾する人も少ない。

 こんな類例をあげればいくらでもでてくるけど、日本社会の表タテマエの秩序なり善悪なんか、日本社会がもっている膨大な厚みと広がりを考えたら、ほんの一部でしかない。それは言ってみれば、クラス40人のうちの成績上位一人か二人のガリ勉くんの世界観でしかなく、圧倒的大多数は違う原理、違う社会で生きている。しかし、表社会は、官僚にせよ、ジャーナリストにせよ、大企業正社員にせよ、その数%のガリ勉社会ですよね。彼らが表に出てきて、とりあえずタテマエであれこれ言うわけですけど、それだけの話です。

 それが日本の後進性だという人もいるけど、僕はあんまりそうは思いません。欧米メジャーメディアも、欧米のガリ勉くんのいうことだしね。メイン(タテマエ)カルチャー以外の領域が広い社会は、住みやすいですよ。誰でもどっかには「居場所」がありますから。

 僕が何でこんなにサブカルを推すかといえば、自分自身の経験です。司法試験やってガリ勉村にいた反面、十代の頃は、ロックやら、マンガやら、小説やらに救われてきたわけですよ。そこに居場所があったし、弁護士やってるときですら、弁護士というアイデンティティよりも、ロックギタリストというアイデンティティの方が強かったですもんね。本来の自分に近いという意味で。


 コロナに対する国家的対策とか言われますけど、ハッキリ言えば、日本人にとって国家や政府なんか要らないと思いますよ。消費税とかさ、迷惑ばっかりかけてくる存在でしかない。(大きな)政府なんかなくたって、自分らでやっていけるでしょう。コロナだって民間オンリー、ないし最小の行政単位(市町村)レベルでやったほうがよっぽどマシだと思います。これは世界的にそうで、国家が出番だ!と、無能なくせにしゃしゃり出てきて、大騒ぎして自己アピールして、でも無能だから収拾がつかなくなって困ってるというのが、今の世界的な状況じゃないんですか。そう見えますケド。

 過去にもさんざん書きましたけど、江戸時代の文化文明の発達だって、武士階級はほとんどなにもやってないです。庶民が全部作りあげた。歌舞伎にしたって、もとは河原者という士農工商の身分制度にすら入れなかった下層賤民。でも名もない庶民が歌舞伎芸術を作り上げ、興行というエンターティメント産業を作り、蔦屋(つたや)が浮世絵ポスター(役者絵)販売してメディアミックス戦略を仕掛け、その浮世絵の斬新さは西欧の印象派の画家達に強烈なショックを与えた。そういった文化発展に国はどういうサポートをしたかといえば、華美禁止とかいって蔦屋の営業禁止をしてたわけで、邪魔ばっかしてる。現在の先物相場取引と同じことを大阪の市場は独自に開発してやっていたし、沖縄の郷土料理に昆布が好まれるのだけど、それは北海道から延々運ばれた昆布であり、その頃から全国物流システムが出来ていた。だけど、そんな高度な経済システムを経済=米でしかない頭の固い江戸幕府ができるわけがない。江戸時代の知識人は全国各地の城下や村で培養されていて、それが明治維新の際の大きな人材供給源になった。

敗戦国の恩恵 

 もう一点。日本は戦争で負けましたけど、あれが大きな財産になってるなと今にして思います。
 なぜなら民族の遺伝子に、「国家は間違える」「鵜呑みにしてるとえらいことになる」ということが付記されたからです。

 村上春樹の「やがて悲しき外国語」だったかな、「戦争に勝つのも考えものだな」という下りがあった記憶があります(記憶だけで確認してないですけど)。その意味するところは、アメリカは戦争に負けてないので戦勝記念日とか大騒ぎしてて、何がなんでも勝たねばならない、自分らの国は常に正しくなければならないという気負いが凄くて、これは疲れるだろうなーという感想を抱いたということです。また、ベテランと呼ばれる退役軍人にも手厚く補償しないといけないし、発言権も強いし、面倒くさいのですよね。実際にはベトナム戦争では負けたようなものものなんですけど、それが受け止めきれずに屈折してしまったりもする。

 オーストラリアも、第二次大戦ではボコボコにされて、アメリカが勝ったから自動的に戦勝国になっただけだし、ベトナム戦争でも派兵して黒歴史になってるし、アフガンでも戦争犯罪犯したとか指摘されて黒歴史になってるけど、一応、国は常に勝っていたし、国は常に正しかったというタテマエがあります。そうなると国家の存在がデカいし、期待も高くなってしまう。

 その点日本は、昔からそんなに国家絶対じゃなかったし、国によって自分の人生が指導されているとは全然思ってない。ただウザい存在でしかなく、ときには軽蔑し、馬鹿にする対象ですらある。国の存在が軽い。国家政府側も、それに対応しているのか、なにがなんでも国民の模範となって、国民を幸福に導く重責があるとも思ってない。

 それが、コロナのような微妙なトピックになると、国絶対系の欧米だと解決が難しいんですよね。通常時だったら、それでも有効に機能したりするけど、ちょっとミスったり、理想正論では割り切れない微妙な案件になると、手に負えなくなって、あとは強弁ばっかするようになる。

 本当のことをいえば、「いやあ、思ったほどヤバくないっすよ、コロナ」「インフルよりも、ちょいヤバくらい?みたいな感じ」「そうは言っても体調崩したりしたら大変だから皆様もお体を大事にしてねー」とか言って、はい、終わり終わり〜、次いこ、次〜っていきたいんだと思います。だけど、欧米ではそれが言いにくいんでしょうね。今更そんなこと言えるか状態で、「なんがなんでも病」が出てくる。そして、今はなにがなんでもワクチン絶対安全!と言い切らざるをえなくなっているという。


結局、日本の方が軟着陸しやすい

 欧米社会では、いまドグマ戦争、理念戦争、宗教戦争みたいな感じになってると思います。コロナはそこまでヤバいのか論、ロックダウンは本当に効果あるのか論、不正選挙に垣間見れたメジャーメディアや理想主義の無理やり感、ビッグテックの問題、、、結構、潮の分かれ目みたいなところに来てると思います。ビッグテックについては、あまりにも傲慢だといって世界でタコ殴りにされつつあります。オーストラリアとFacebookの喧嘩もそうですけど、ロシアやポーランドは彼らが検閲をしたという事実だけで、一回いくらの多額な罰金を課するようにするし、アメリカもそういう話をしている州もあります。

 アメリカ自身、国際的に当事者能力が危ぶまれているようで、ロシアに心配されてます。あまりも行き過ぎているトランプいじめ(今度は墓地にいれないとか)について、「やりすぎは良くないですよ」とか言われちゃってるし(Russia Blasts Biden Regime For ‘Persecution’ Of Trump Supporters, Political Dissidents)、そもそもアメリカやばいので、ドル体制=ひいてはロスチャイルドのユダヤ金融体制から離脱したいですとか言ってますからね(Putin Announces Total Independence from ‘Rothschild-Controlled’ US Dollar )。


 その是非や経緯はまた別の話なんですけど、いずれにせよ「どっちが正しいか」という理念型からは抜けきれてないのですよね。宗教会議でなにが「異端」かを決めるという空中論争みたいな感じ。

 その点、日本の場合は、最初っから終始グダグダだから、もう何が正しいかという宗教的な論議にならないです。コロナでも最初の段階から、政府やる気なかったですし、やる気ないほうが良かったのかもしれないのですよね。タンザニアなんかも最初っからやる気ないし、感染数のカウントすらしてないですけど、大した問題にもなってないようだし。日本も「えー、それほどのもんなの?」「別にいいんじゃない?」「いや一応形だけでも」「そう?」くらいの感じではじまり、感染爆発とか騒がれても、なんか及び腰。では国民は?というと、GO TOでどっと旅行に行ってるんだから、実はそんなにヤバいと思ってなかったんでしょ。GO TOで感染が広がったかどうかは議論のあるところだし、究極的にはわからんでしょうけど、とにもかくにもそれだけ利用する人が多かったというのは、気にしない人がそれだけ居たということでしょう。

 日本の場合、政府と一般庶民との間で、実はそんなに認識のズレは無かったんじゃないかという気もしますね、僕は。ただ、その中間に、(こういう言い方は失礼なんだろうけど)とにかく騒ぐ系の人達(+それで儲かるメディアも)がいて、それが欧米のメジャーメディアとリンクする西高東低傾向があって(なんでも西側メディアの言うことが正しいという傾向)、それに引っ張られてグダグダになってる感じはしますね。

 緊急事態宣言だって、飲食店など貧乏くじひかされてるけど、一般には「言ってみただけ」でしょ、正味の話。地方をドライブしてどっかの町に入るときに「交通安全宣言都市」とか看板が出てくるけど、そんな感じ。それだって、宣言を出せば遅いとか叩かれ、出したら出したで経済をどうすると叩かれ、延長するかも、しないと叩かれ、すれば叩かれる。もうグダグダだけど、どっちもどっちですよね。

 でも、それが日本だし、それでいいのだ、って気もしますね。良くないんだけど、理念を高らかに唱えすぎて収拾が付かなくなって、無理矢理感満載のままパラノイア(偏執狂)化していく欧米よりはまだマシだという気がします。欧米は一般に(オーストラリアもそうですけど)、高い木の上に登って降りられなくなってしまった猫みたいな感じがします。

 それに比べて、日本の場合は、最初から登ってないです。ちょっと登ってはまた降りて、また登って、降りてと、その一挙手一投足を激しく叩かれるんだけど、トータルでいえば、被害程度、国民の私見制限による被害、経済や失業、メンタル、、、それらを総合的に見ると、意外とそんなに悪くはないです。別に良いとは言わないし、もっともっと出来る部分は山程ありますし、マスクだの事務外注だの焼け太りだのムダも不正も多いですし、批判は大いにやるべきですけど、それでもトータルでみると、他に比べたらそんなに悪くはないと思いますよ。

 なにがって、出口戦略が楽というか、出口戦略自体が要らないんですから。「なんとなくフェイドアウト」という日本流の解決ができるから。

 昔ながらの原始的なアミニズム的世界観〜あらゆるところに色々な神様がいるという世界観、まるで新宿駅の改札のような雑然とした世界観〜がまだ濃厚に残ってるように思われる日本においては、自分自身が理念やら、型にハマった考え方や生き方から離脱しさえすれば、結構自由領域は広いように思います。逆説的な意味で。簡単に言えば、血液型A型的にやるとしんどいんだけど、B型的にやると付け入る領域はまだまだあると。

 だけど、現実に落とし込んでいくに際して、ダメ国家のダメ規定がけっこうヘビーなんで(特に低所得者に対する負担の重さ)と、そのあたりをどう考えていくかが現実問題の課題になるでしょう。





文責:田村


このエントリーをはてなブックマークに追加

★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのBLOG
★→APLACのFacebook Page
★→漫画や音楽など趣味全開の別館Annexはてなブログ