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Essay 977:良いから悪い、悪いから良い〜日豪比較論(1)

 〜オーストラリアのメジャー部分の底が浅くて「ぬるい」部分
 〜オーストラリアに見切りをつけて出ていったオーストラリア人の感想
 〜なんでも理屈がないと気がすまない西洋系の性癖


2021年02月14日
 写真はThe Rocks
 夕方から宵にかけてが意外と良かったりしますよ。

 


 最近思うのですけど、「いい加減でも良い」を通り越して、「いい加減だからこそ良い」のではないかと。

 何の話かといえば、日本とオーストラリアとどっちが住みやすいか?という現実的な比較論です。あるいはそれぞれの「使い方」の研究です。しばらく国境が閉ざされるなら、しばらく日本に帰って親の介護でもするかという段階で、どっちがいいかを詰めて考えてたのですよ。結局、出国許可が降りずに足踏みしてるけど(英文の診断書をリクエストして再度挑戦するつもりだけど、移民局がちょっとナーバスになってる感じもする)。

 一般論でいえば、オーストラリアの方が住みやすいです。もう「圧勝」といっていいくらい。だけどコロナを通じて見えてきた国や社会のあり方でいうと、「良いから悪い」「悪いから良い」って逆説的な面もあるなと。

 オーストラリアはもっぱら「良いから悪い」パターンで、日本は「悪いから良い」パターンです。

良いから悪い

 「良いから悪い」というのは、全般的には良いのだけど、かといって完璧ではない。ダメなところもいくらでもあるし、行き届いていない部分も多々ある。しかし、なまじ全般において良いだけに、そういった「ハミ出した部分」の棲息領域が少ない。メインカルチャーが支配過ぎてしまって、カウンターカルチャーやサブカルチャーが育ってない。

 ある意味、社会に「厚み」がない。日本の場合のほうがよほど厚い。お勉強頑張って→健全な社会人とかいうメインルートに対抗するサブカルチャーは日本の方がはるかに豊かです。アンダーグラウンドや反社会勢力もそうですけど、風俗業界やら、漫画をはじめとするアート系サブカルも日本の方がずっと広くて深い。オーストラリア人でマンガ描いて食ってる人、目指している人って聞いたことがない。スポーツなどは盛んにやってるんだけど、ちょっと本流から外れた、ちょっと不健全な、ちょっと陰キャな人たちの棲息領域が日本に比べてすごく少ない。アンダーが少ないのは、僕も最初に来た時びっくりしたんだけど、ほんと少ないですね。バイキーくらいかな。

 あるいは、全般に良いというのがスタンダードになりすぎてしまって、建前が強くなりすぎている。社会の柔軟性が乏しくなっている。コロナやアメリカ不正選挙の見方でも、欧米では甲論乙駁してるし、かなり社会的地位のある人でも反対意見はいう(アカウント削除されたり、弾圧されたりするけど)。デモも激しい、日本でもいろいろ言われている。陰謀論と呼ばれようがなんだろうが、自分が思うことを表現できることは大事なことで、今のように社会の過渡期、動乱期、不透明期においては、統一的なフォーマットでやらずに、ある程度自然なカオスを受け入れつつ、ナチュラルにバランスをとっていった方が良いと思うんだけど、オーストラリアではそういう反対意見が実に少ない(取り上げられない)。今まで統一的ルールでやってきてるだけに、そういう土壌が少ない。

 なるほどオーストラリアは、政治制度や民主的な進展度は日本よりも優れてます。流動性が高い社会なので、人々が業界や地域にタコツボ化しにくく、それがゆえに風通しも良い。汚職腐敗もあるけど、日本の宿痾のような構造的になっているわけではない。それほどギスギスした競争社会に生まれ育ってもいないし、また国の成り立ちが囚人流刑地から始まってるだけに妙なプライドも虚栄心ないから、人々がそれほどスレてないし、素朴に善意な人が多い。素直に人々が幸せになればいいよねって原点がまだ生きている。義務投票なので投票率は100%に近く、それだけ民意を反映しやすいし、国際比較をすれば反映している方だと言えます。

 良いんだけど、完璧ではない。70点は取れるけど100点ではない。つまりオーストラリアにも汚職腐敗はあるし、実は意外と自殺率も高い。労働法が完備しているようでブラックも搾取もあるし、増えている。目に見えるようなところでは性差別は少ないようでいて、全体の統計を取ると生涯年収や所得を比べると歴然と女性の方が大損している。難民に対する扱いはひどいものだし、アボリジニ対する扱いも国連から何度も警告されている。国民の政治家やメディアに対する信頼度も年々下がっていると言われてます。実は結構ヤバい部分もある。でも真剣にアドレスしない。

 つまり大まかには良いのだけど、細かいところ、あるいは巨大な抜本的なところには行き届いていない。概ね良い→全て良いみたいな飛躍がある。70点取れたら100点だみたいなアバウトな感じで、足りない30%についての前進努力がない。そういう問題は無かったかのごとく扱われる。例えば、なまじ経済的に成功してきたので、貧困に追いやられる人々が居ても、それが急速に増えていても、NPOとか政府機関の現場の方がからガンガン警鐘を鳴らしても、聞こえないふりをしている。

 感じで言えば、地方のそこそこ優秀な進学校というか、幸せっぽくみえる中産階級のファミリーみたいな感じ。そんな問題山積して荒れてるわけではないし、パッと見には良いのだけど、実はあちこちに亀裂が走ってる。でも見てみないふりをする。

オーストラリアに見切りをつけて海外に出ていったオーストラリア人

 'A spoilt brat country': the Australians overseas who decided not to come homeという今年の1月2日付けの面白い記事があります。

 オーストラリア国民のうち、常に100万人はオーストラリア国外で暮らしていると言われてます。コロナを機会に40万人くらいは戻ってきたけど、もうオーストラリアには帰らんって思ってるオージーも実は多い。なんでそんなにオーストラリアがイヤなの?ということを個別に聞いて取材したものです。

 読んでいると、なるほどねって思うけど、総じて言えば、オーストラリアが「小成に安んずる」というか、つまんない国(人々)になってるってことなんでしょう。”“It feels more and more like the States- angry, corrupt, terrible treatment of minorities. Why on earth would I want to expose my children to that unnecessarily?”(なんかどんどんステイツ(アメリカ)みたいになってる。皆怒りっぽくなってるし、腐敗はひどいし、少数者に対する扱いはひどいし。あんな環境で子供を育てたくはないね(と東南アジアに20年住んでるオージー)。‘Australia is a spoilt brat country’(甘やかされたガキみたいな国)で、欧州からすれば気候変化に対する取り組みも、やるやる言ってて何もしてないといっていいくらいだ(パリ在住の起業家)、アフリカからの難民受け入れももっと出来るのにやらない(南スーダン在住)。

 世界を股にかけてステージプロダクションをやってるオージーは、オーストラリアではどうやってビジネス展開すればいいのか見当もつかないね、という。ロンドンでプレイしているジャズミュージシャンのオージーは、オーストラリアに帰ってくると、「で、仕事は何をしてるの?」と聞かれる。音楽だけで食っていけるとは誰も思ってないのに愕然とする。ヨーロッパではアートで人生やるのが当たり前なんだけど、オーストラリアでは全然違う。”“The country is way too conservative in how it views risk,” (リスクの負い方において、オーストラリアはあまりも臆病(保守的)だ)。”“Nobody supports you until you actually make it.”(オーストラリアでは、現実に成功するまで誰も助けてくれない)。”Australia is “light years behind the US and UK where the startup scene is concerned”(イギリスやアメリカに比べるるとビジネスをやろうするスタート地点が、何光年というレベルでオーストラリアは遅れている。せいぜい不動産か農業か鉱業関係くらいだ。

 パリで弁護士やってるオージー女性は、かなり長いこと法学部では女性の方が成績が良いという状況が続いているのに、未だにオーストラリアの弁護士事務所は2023-5年までにパートナー女性比率を35-40%まで引き上げるとか言ってて、もう話にならないという。 アメリカ人の旦那と香港で働くオージー女性は、こっちの方が「働く女性」としてはるかに尊敬を受けるし、チャイルドケアの費用も格段に安い。オーストラリアでこれをやろうと思っても、シンプルに不可能だという。

 ただそうはいっても、"If Australia were in Europe I’d live in Australia’(オーストラリアがもしヨーロッパにあるんだったら、僕はオーストラリアに住むよ)。というのは、イージーなオーストラリアスタイル、階級社会もなにもない平等な感覚がヨーロッパではなくて、TPOファション的にミスったらもうそれだけで誰も口も聞いてくれないし、かまってくれたのは万引犯だと疑った警備員だけだよ。そういう意味ではオーストラリアは良かったよなーとも言う。

 良くも悪くも、オーストラリアは「田舎の善良な村人」的で、ぬるま湯的。特にコロナやら、アメリカを始めとする世界的な覇権移動、今、あらゆる二分化が起きつつあるという世界史的にも珍しい激動期に入っているのだけど、オーストラリアには全然そのセンスがない。昔のやり方をそのままやれば成功できると思ってる甘さがある。問題点についてガシガシ対立して戦うという感じでもないし、自らの人生や社会の至らぬ点をシビアを見つけて少しでも向上していこうというアンビシャスな感じでもないし、つらい思いをしている人に対する援助も乏しい。つまりは、平和ボケして、ぬるま湯の中で自閉化している。その意味ではアメリカ化というよりは、日本化に近い気もしますね。

 僕もオーストラリアに生まれ育ったら、多分オーストラリアを出たと思いますね。ぬるすぎてやってらんない気がする。オーストラリアの政治や経済がぬるいのも、どうしようもない田舎性にあるようにも思います。こんな例えがいいのかどうか、例えば、九州出身で勉強ができる子は九大、北海道だった北大にいって、そのまま地元の商工会議所や議員になったりするんだけど、もっとアンビシャスな子は東京や大阪に出ていき、そこで全国レベルで揉まれていく。オーストラリアを出ていった連中は、東大とかに行った連中で、地元が懐かしくもありウザくもあるんでしょう。

オーストラリアの二重構造

 ただし、それはオーストラリア生まれのオーストラリア人に限っての話で、僕らのように移民でやってきた世界はまた違う。それもまだ永住権取れてない連中は、野心ギラギラに飢えているし、人生かけての大博打を打ってでも、自分の人生を充実させようとしている。

 僕もオーストラリアに来たのは、そういうアンビシャスな移民のカルチャーがいいなと思ったからです。自分自身そうだし、仲間が多いぞと。最初からオーストラリア人そのものよりも、オーストラリアに来ている世界の連中に興味があったし。まあ、オーストラリア人は好きだし、受け入れる懐の深さを尊敬はするのですけどね。

 そういえば、副業でコールズとかUberとかやってて妙に居心地がいいのは、現場仕事が風通しが良いってこともあるけど、周囲の連中が移民系が多いからだと思います。こっちにいる日本人でも、永住権とってしまった人よりも、まだ取れてない人の方が話が合う。落ち着いちゃった人にはそんなに刺激は感じないのですよ。別に嫌いなわけではないんだけど、僕自身の好みの問題として、アンビシャスなギラツキが好きなんですよね。いっぱいいっぱいでもがいている人の方が面白い。

 オーストラリアは経済的に移民で持ってる国だというのは過去に何度も書いてますけど、単に経済的なだけではなく、精神的、カルチャー的にもそういう部分はあるような気がしますね。不屈の精神力とか、土壇場のしぶとさとかは、移民の連中のほうが強いですからね。

 ただ、書いてて気づいたんだけど、百花繚乱のマルチカルチャル世界の内面部分は、表の政治経済社会にそんなに浮上してきてないですね。昨今の中国との対立状況においても、在住チャイニーズ系の連中にはそれぞれに言い分はあろうし、なかにはかなり面白い意見をもってる人もいるだろうけど、そういう声が全然聞こえてこない。10年以上前、湾岸とかアフガンやってる頃に、イスラム=テロリストみたいなメチャクチャな偏見があったときも、イスラム系の人たちの意見もメディアには載ったけど、しかし、メジャーメディアのお眼鏡にかなった意見、先にストーリーありきで取材してるのがモロに見えてて、クソだなーとは思った。

 だもんで、オーストラリアの場合、メジャー部分は健全で透明でいいんだけど、薄っぺらくて底が浅くてぬるま湯でつまらん。本当に面白いのは、暗黒大陸のように下に沈殿している200カ国以上の世界カルチャーなんだと思います。それもまだ永住権取れてない数十万かそれ以上の規模の短期ビザの連中が面白い。でも、彼らはJobKeeperの対象にならないように、メジャー部分からは一人前に扱われていない。

 日本における肥沃なカウンターカルチャー、サブカルチャーの世界は、オーストラリアにおいては世界各国からきた移民の国別コミュニティという形で存在しているのかもしれませんね。メインにどうにも馴染めない人の「居場所」になるのがサブカル世界なんだけど、オーストラリアの場合は、各国カルチャーがサブカルとして機能しているってのはあると思います。

 この先、どうしようもなく膨れ上がった不動産や株の資産バブルがはじけ、下手すれば中産階級は壊滅的な打撃を受けるかもしれない。今、アメリカや欧州でそうなっているように、日本でもそうなりつつあるように、真面目に普通に頑張ってた人たちの人生破壊が広がるかもしれない。オーストラリアがそうなった場合、上部メジャー部分は激しく打撃を受けるだろうけど、それを支えて復興していくのは下部構造の力だろうなーと思います。なんせそういう修羅場をあえて選んできた連中だから、そういう局面では強いと思います。

 と同時に、オーストラリア人本来の強さ、なんもなーい赤茶けた大地でやってきた開拓民精神、楽天的でパワフルな強さが、そうなったときに発揮されるという気もします。逆に言えば、今の妙に金満バブルのオージーの不動産投資ブーム、2000年くらいから始まった「greedy is virtue(強欲は美徳)」カルチャーなんですけど、なんか「らしくない」ことやってるな〜って気もしますね。ほんとはそういう人じゃないでしょうに。

理性主義の西欧系

 オーストラリア云々以前に、西欧系がもともと持ってる理性主義的な部分が長所にも短所にもなります。

 西欧系は理詰めに考える傾向があり、「この世界はこうなっている」というのも理屈で決めていきたがる性癖がある。理性による明晰化を進めるので、あらゆる分野で発展はします。学問や科学技術、国家と個人を規律する法体系とか、原理原則から末端の細則までビシッと一本論理が通る。それはそれで素晴らしいんだけど、弊害もある。

 なにかというと、ともすれば理念が先走りすぎて、理想に振り回されすぎる点です。一歩間違えればドグマテック=教条主義的=宗教上の教義のように疑うことを許さない絶対真理があり、それが全てを決めるという感覚。それがすぎるとファシズムになる。

 ものすごい理屈っぽいからこそ、ものすごく宗教的になるというのは矛盾しているようで、矛盾してないです。あの理屈っぽいゲルマン民族のドイツが、もっとも激しいナチスのファシズムに陥ったことからもわかるでしょう。ナチスはナチスで理屈がビシッと通ってるんですよね。ただ原点原理が狂ってるだけで(民族に優劣があるとか)、そこさえ目をつぶれば、あとはスパッと理屈が走る。気持ちいい。だから騙される。

 そのヤバさは、例えば、99%がそうだったら100%そうだと塗りつぶす怖さです。1%は違うし、その1%を大事にすることこそ真の民主主義なのだとわかってるくせに、なんか100%そうだってなってしまいがち。この世に真理は一つしかないみたいな

 例えば、オーストラリアでもそうだけど、西欧系は得てして体罰は絶対ダメ系です。DVでも絶対ダメ系。でもね、99%はそうだしても、「ぶん殴られなきゃわからんクソガキ」だっているだろうが、時と場合によりけりで、ちょっとでも体が触れたら即アウト、問答無用で刑務所っていうのは行き過ぎじゃないか?ってこともあります。

 キリスト教の強烈な排他性もそうです。異教徒は人間じゃないから殺してもいいとか、同じキリスト教内部でも宗教会議で異端とされたら殺してもいいとか無茶苦茶なんだわね。でもその無茶が理論的に肯定されたら、良心の呵責もなくひどいことをする。アフリカで大量の無辜の人々を拉致って奴隷売買するとか、あそこまで大規模な非人道的な行為を、あそこまで長期間、システマティック且つビジネスライクにやり続けたのは世界史的にも西欧系だけでしょ。


 多分、西欧系以外の民族だったら、ある程度柔軟性はあると思うのですよ。「場合によっては」という余地を残す。でも西欧系は、100%塗りつぶす傾向があります。それがまずいのよね。

 で、結果としてどうなるかといえば、西欧系でも児童虐待はあるし、DVだってある意味日本なんかよりもひどいかもしれない(本当のところはわからんけど)。だから100%絶対ダメとか言い切ったところで、実はまったく問題の解決にはなってない。

 それが今回のコロナ対策でも、アメリカの不正選挙をめぐる国論分裂でも顕著にでてくるのですが、本来真実が何かなんか、人間の英知をもってしてもわからん部分はあるはずです。だからこうも言える、ああも言える、こういう立場もあるし、ああいう立場もある、突き合わせて検討しましょうねってなってもいいんだけど、コロナ凶悪、ワクチン絶対とかいうドグマが出来、トランプ絶対悪で、そこでもう少し検討したらとか言ったら陰謀論のレッテルはられる珍現象が起きる。なんかこの森羅万象に対して謙虚じゃないね。絶対自分たちは理解できる、真理はこうだと決めつけたがる、そして他人に押し付けたがる傲慢さがあるよね(クジラを食うのは野蛮だとかさ)。

 あまりにも絶対理論を求めすぎて、逆に非理論的になってるんだけど、それがわからんのか、わざとやってるのか、意味不明なんですよね。そのあたり、ちょっと限界あるよなーって思いますね。彼らもそれがわかるのか、やたら「ZEN(禅)」とかいってありがたがったりする人がいたりして、僕らからしたら、それのどこが「禅」なのかようわからんし、言ってるだけじゃないの?って感じだけど。

 長くなったので一旦ココで切ります。

 

文責:田村


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