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Essay 974:ブータレてたからこそ、やってこれた

 〜軽い愚痴・弱音・泣き言・罵倒は心の掃除、どんどん言うべし


2021年01月24日
 写真は、Hodgsons Lookout Parkと言われているところで、Neutral BayやらCremorne Pointやらの海沿いの先っぽの公園。正確には(今調べて僕も知ったのだが)、Kurraba Pointというサバーブらしい。サバーブとして独立したのが2010年だから、そんなに昔の話ではないです。
 まあ、写真を見れば大体どのあたりかわかると思いますけど。
 


コロナメンタルやばいかも

 昨日は、近所(Glebe)の旧YHAに寝泊まりしているカメラマンの前田くんと雑談してました。

 彼もまた(本業のカメラマンの傍ら)僕と同じくデリバリー仕事(UberではなくMenulog)やってて、僕が合計2300回、彼も1300回越えてることもあって、デリバリー「あるある」話で盛り上がってしまいました。皆、同じようなところで苦労するんだよねー。

 しかし、他愛のない話でギャハハと笑って、いい気晴らしになりました。

 でも、話にも出ましたけど、やっぱコロナやばいですよ。病気そのものではなくメンタル面で。自粛でもない、ロックダウンでもないんだけど、なんか引きこもりがちだし、陽性にパーッと吐き出す場面がないので、それがヤバい。僕はメンタル的にはそこそこ強い方だと思うんだけど、その僕でさえ、うっかりしてると引きずり込まれるような時もあって、けっこう危ないなって思いました。

 他の方(語学学校業界の人)と話してたときも話題になりましたけど、「いい加減国境開けろよ〜」「殺す気かよ」「一人ふたりの感染でイチイチ大騒ぎしてんじゃねえよ」って盛り上がりましたけど、そういうことを言うのが結構大事かなと。

 何を言ってるかというと、しんどい時期、煮詰まりそうなとき、気が塞ぎ込むような場合って、そういったネガの気を発散させるのは、ブータレることだと。そんな明るく清らかに「励まし合って」「希望をもって」ってポジじゃなくて、「いい感じにゆるいネガ」の方が効果あるんだってことです。

 深刻に重いネガは、言えば言うだけ落ち込むからアカンのだろうけど、もっと軽い感じの、まさにブータレるくらいがいい。

ブータレたからやってこれた

 考えてみれば中高生時代とか、年がら年中ブータレてましたもんね。

 ヘビーな宿題とか、なにそれ?という決まりごとを押し付けられたりとか、試験とか、それなりに不愉快なことが日々あったわけですけど、その都度みんなでブータレてましたよね。

 先生が「じゃあ、来週小テストをやるから、しっかり準備しておくように」とか言うだけで、「え〜〜!?」って大合唱して(笑)。休み時間や、下校の道すがら、「ふざけんじゃねえよ」「やってらんねーよ」とかわいわい吠えまくってましたもんね。

 でも、あれがいいストレス発散になってたと思うのですよ。

 ブータレている方としても、別にそこまで真剣に反抗してるわけでもないし、相手の間違いを論証しようとか、より生産的な対案を出すとか、そういうわけでもないです。なんだかんだ不満をいいながらも、言われたとおりやるっきゃないし、それなりにひどい目に合うしかない。だから現実は変わらないのは百も承知で、でも感情的におさまらないから発散するだけです。

 だからこれは議論でも討論でもなんでもないです。異なる意見をぶつけて理解を深めてより良い〜とかいうご立派なものではない。ただ単に「やだよー」って言ってるだけ。

 その意味で全然生産的ではないのですが、しかし無意味ではない。というよりも、ある意味、このくらい生産的なことはないかもしれない。「生産」という言葉の使い方次第だと思うのですけど、掃除をすることは「生産的」か?みたいな話で、掃除というのは単に整頓したりゴミを捨てたりするだけで、なにかを「生産」するわけではないです。だけど、やると気持ち良いし、明らかにプラスです。いわば生産の準備活動みたいなものですが、それをもって生産的というか言わないかは、言葉の問題に過ぎない。

 同じように、こういったブータレ、愚痴、弱音、ばっきゃろー的な罵倒も、掃除的な意味で生産的だと思うのですよね。下手にしょーもないものを生産してるよりも、よっぽど生産的かもしれない。


 学生時代、特に日本の教育制度の場合、あれ自体が全体主義ファシズムみたいな世界で、生徒は常に被抑圧者であり、ひたすら命令されるだけの受刑者みたいな立ち位置になったりします。だから常にフラストレーションが溜まるし、吐き出したくなる。

 その発散&解毒行為が、休み時間などのブーブー大会だと思います。部活で先輩にしごかれたあととか、新入生同士でなんだかんだ愚痴を言う。教室で先生のエコヒイキ的な言動にカチンときたとき、違うだろってことを頭ごなしに押し付けられたとき、あとで愚痴やら悪口大会になるのもそうです。

 あのブータレが出来なかったらドロップアウトしてたかもしれないですよ。
 同じように感じる仲間がいるから救われている。
 自分と同じ感情を他の人が発散してくれると、自分も気持ちよくなる。
 自分ひとりじゃないんだってことで元気づけられるし、メゲないで済む。

 思えば学校は良かったんですよ。同じ立場の連中が沢山居たから、自分と同じように皆でブーブー言うことでかなり発散できたし、孤独に陥らずに済んだし、救われていた。

 同じように、面従腹背とかサボりもあります。
 修学旅行で、先生が見回りが来たときだけシーンと暗くして寝てて、行っちゃったら、わらわらと起き出して遊び始めるとか。自習時間になると、遊び時間だあと割り切って、教室の隅っこで将棋やったり、麻雀やったり、ダベったりとか。「やってらんない」ことを皆でサボって共同正犯みたいなことをしてたから、これも救われたと思います。

大人になるとブータレられない

 でも大人になるとそれも難しいです。大きな会社で新入社員が複数いるようなところでは、部活的にブータれることができますけど、だんだん一人になってしまうし、仲間がいなくなる。

 上司から無茶な仕事を押し付けられた時も、仲間がいないから、一人で「わ、わかりました」と飲み込むしか無い。でもこれって、学生時代先生から無茶な宿題を言われたときと同じなんですけど、学校のときは皆で「えー!」って騒いで、休み時間に「なに考えてんだよ?あの先公よお」「ばっかじゃねーの?」「出来るわけねーっつーの」って口々に言い合って、憂さ晴らしができました。でも、会社や社会人になると、一人だから、これが出来ない。

 これ、キツいですよ。
 全然ストレスが発散しないんだもん。

 想像して欲しいのですけど、あなたが仕事で日々感じる「ふざけんな」的局面で、素直にそれが言えたら、学校時代のように思う存分ブータレられたら、ずいぶん気持が楽になるとは思いませんか?

 この種の日常不快なんて、生きてれば不可避的に生じるもので、あたかも喉にからんだ痰みたいなものです。その都度ペッと吐き出してしまえばいい。ブータレとか愚痴というのは、この痰みたいなものです。痰そのものに生産性はないのだけど、吐き出すことに意味がある。いちいちごっくんと飲み込んでたら気分悪くなるし、永遠を飲み込むしか無いとか思うと絶望的な気分にもなりますよね。


コロナになるとさらにブータレられない

 コロナの不満だって、皆さんあると思います。マスクが鬱陶しいってのは絶対あると思うし、「やってらんねーよ」とか思う時もあるでしょう。それを言い合える相手がいる人はラッキーでしょう。言える相手がいない人はお気の毒です。

 でもなんか、日本のみならず世界的に、いい子ちゃん的、偽善的なムードが漂ってて、なんかしらんけど、エレベータの密室のなかで誰かがしたオナラみたいに漂ってて、それがウザい。

 先日、コロナに伴う飲食店の操業短縮に関して、サイゼリアの社長が「ふざけんな」って荒い言葉で語っていて、それが反発を招くどころか、むしろ拍手喝采を浴びているというのは、やっぱ「ふざけんな」くらい皆言いたいんだと思いますよ。


はっきりさせよう、地に足をつけよう

 この際、ハッキリさせた方が良いと思うんですけど、愚痴は言うべし、です。

 愚痴しか言わない、愚痴ばっか言ってる、聴きたくない人に延々聞かせるというのがNGなのは当然のこととしてわきまえますよ。愚痴をいうTPOも勿論知ってますよ。本気で論理的&建設的な努力をすべきことも当然だし、それはそれでやりますよ。

 それを前提にしつつ、それでもなお、愚痴(ブータレ)は、心の掃除という意味でとても大事なことだと再認識すべきだと。それが「愚痴」だと自分でもわかっている時点で、基本的に問題ないですもん。

 もう一点。僕らはそんなに品行方正ではないことも再確認すべき。スキあらばサボりたいし、ズルもしたいんだよ、100%真面目にやることなんか出来ないよってことは、相互に確認すべき。

 なんだかんだブータレながらも、基本的なラインはきちんと守る人が大多数なんだし、だからそれでいいじゃん。必ずしも常に百点である必要はないし、そんなの無理だし、無理なことを自分にも他人にも押しつけるべきではない。

 学校時代は、修学旅行の部屋的に、そのあたりが素直だったもん。平気で先生の言うことを守らなかったもん。宿題は写させてもらったり、夏休みの絵日記は最後にまとめて覚えてないのに適当にイベントや天気をでっち上げて書いたり、大学になれば代返とか頼んだり。「宿題やった?」「やってくるわけ無いじゃん」「あ、俺もやってねーや」って。

 テキトーに誰だってズルやってるんであって、ある程度の範囲だったらご愛嬌ですよ。法律だって税金だって、会社のボールペンで私用の手紙を書いたら業務上横領だし、日常的なちょっとラッキーは税法上の雑所得になり、申告漏れの脱税犯になってしまうんだけど、ある程度だったら、目くじら立てないでしょ。

 人間というのは結構だらしなくて、さして建設的でもない愚痴やら悪口やら言う生き物だし、常に品行方正ではないし、適当にズルやらサボりやらするものです。だからこそ人間は可愛いのであり、それは他人にも認めてやるべきだし、なによりも自分に認めてやるべき

 もっと踏み込んで言えば、カッコつけない、ってことだと思います。
 愚痴なんか言ってるとカッコ悪し、ズルな自分とかを知られるのは恥ずかしいです。またある程度節度あるダンディズムは必要だと思いますよ。でも、時と場合によりけりでしょう。

うつになる道程 

 思うのですけど、カチンときたときに、その場で「ふざけんな」って発散できてたら、そんなに神経病まないでしょう。それを全部飲み込んで、どこにも発散できずに心の中に閉じ込めていくと、ただの不快感が妙な具合に発酵してきて、鬱につながる毒素をつくっていくと思うのですよ。

 そのたびにギャーとかワーとかいってりゃそれで済むものも、発散できなかった怒りエネルギーが体内に留まる。それがまた不愉快だし、そういう状況自体に悲しい気持ちになり、一生このままかよとか思うと、さらに絶望的な気分になる。

 いずれにせよ良くないですよ。
 だもんで、罪もない愚痴やブータレを言える場が必要だと。
 早期発見、早期治療です。

 精神科とかその界隈の話を仄聞するに、当然表現すべきネガな感情(悲しいとか怒りとか)を心の奥底にしまい込んでしまうことから問題が始まる。戸棚の奥に腐った食糧を置いておくから、なんとなく部屋全体に腐臭が漂うように。

 大体ですね、真面目な人の方が鬱になりがちで、逆にヤクザとか政治家とかあまり鬱にならない(っぽい)のは何故か?です。真面目な人は、自分に対する要求水準が真面目に高い。こんなことで愚痴を言うのは甘えてるよな、もっと人間的にしっかりしなきゃとか思う。真面目でいい人なんですよね。だけど人間なんだから、なんらかの老廃物は出ますよ。立派な人でも排泄物は出るのと同じように、心にだって老廃物は生じる。でもそれが汚い、醜い、好ましくないとかいって戸棚の奥に隠しちゃうからヤバいんじゃないんですかね。

 その意味で、学校時代に、皆でブーブー言ってるのは幸せな形態です。皆そうだからカッコつけなくて済むし、一緒にブーブーいって発散してればいいから楽です。宿題サボっても、「俺もやってねーよ」「出来るわけねーじゃん、あんなの」とか共犯者がうじゃうじゃ居るから楽。「俺もお前もみーんなダメ人間〜」とか能天気にやってられたら楽ですよ。かなりストレス発散には理想的な環境だったと思います。逆に、学校時代に行き詰まる人の場合、どっかの時点で友達(共犯者)がいなくなってしまったんじゃないかな。一人で抱えきるのは難しいですから。

愚痴の技術

 反社の連中や、政治家とか打たれても打たれても出てくる杭のような人、英語でoutspoken(あまり躊躇わずにズケズケものを言う)な人(僕もそうかと思うけど)、わりと我慢しないですぐ出しちゃう。政治的に出してはいけない局面ではオクビにも出さないけど、出すときには出す。子供の頃から年柄年中出してるから自然と出し方もうまくなるし、出せる場も構築するし、出しながらも周囲に受け入れられるようなキャラに作り込んでいける。

 愚痴を言いたいときは、自分に降り掛かった不幸話ですけど、聞く側にとっては、他人の不幸話って面白いです。自慢話を聞くよりも、失敗談を聞くほうが面白い。「全ての喜劇は悲劇である」というけど、立派な紳士がバナナですってんころりんという古典例でも、その紳士にとっては屈辱であり悲劇です。でもはたから見たら喜劇です。

 「出し方がうまい」(愚痴の言い方がうまい)のは、自分は愚痴を言ってサッパリするんだけど、同時に聞き手にとっては不幸喜劇を聞いて笑えて楽しいって形に料理するのがうまいんだと思う。また、他人がフォローしやすい、助けやすい形でフィニッシュさせるのが上手い。

 前職における僕のボスは、バブル最盛期に銀行と証券会社の支店長クラスがタッグを組んでスキップしながらやってきて、口車に乗って、NTT株を買って、最終的に8000万円損をしました。最初聴いた時、話がぶっ飛んでるので笑ってしまったけど、ボスいわく、「この話をすると皆喜んでくれるんだよ」「なかには向こうの席からわざわざ立ち上がって握手を求めに来た人もいたもんなー」とか言ってました。初対面の人にいきなり胸襟を開かせる(フランクに親しくなる)最強兵器を8000万円で買ったと思えば、いいかとか(笑)。

 そういえば聞いた話ですけど、大企業に入った直後、新入生歓迎宴会で、今日は無礼講でいきましょうというのを真に受けて、社長をぶん殴ってしまった人がいて、しっかり島流し左遷食らって、それで舞い戻ってきた人が本当に実在するらしいんだが、このエピソード一つで会社人生どこにいっても誰とでも仲良くなれたそうです。「こいつ、いきなり社長殴って島流しされたんですよ」「ぶははは」って誰が聞いても大爆笑するし、親近感が湧くのでしょう。

 似たような話はたくさんありますよ。これはフィクション(漫画)だけど、一家揃って馬鹿がつくくらいお人好しで、オレオレ詐欺に3回もひっかかって800万円くらい騙されたという人がいて、それを慰めるんですけど、「ほんとお前の家って馬鹿だよなー」「だけどそんなにすぐに他人を信じてしまう馬鹿なお前を、信頼しないヤツはいないぜ」って。つまり騙されるというのは、「いい人証明」みたいなもので、それ一発で人の信頼を得られる。

 愚痴というのは料理の加減によっていくらでも美味しくできます。特に初期の段階だと料理しやすいです。だから、ちょっとムカついたり、落ち込んだりした段階で速やかに言うべし。これが溜め込んで、煮詰まりまくって、濃厚な毒汁みたいになってしまってからだと料理しにくいです。「いや、もう僕生きてる意味ないですから」「かといって自殺する勇気もないから、心配しなくていいですよ、はは」とかボソっと言われたら、フォローしようもないし、助けようもないですから。

無理ポジ・リア充ではないSNS

 ところで、話は変わりますが、これも前田くんと喋ってたんだけど、最近Facebookやる人減ってきてない?と。激しくやってる人はやってるけど、コア的な人だけになっていって、のほほん的にやってる人が減ってきた感じがする。

 なんでかな?と思うに、多分、FBとか、インスタでもそうだけど、SNSって基本ポジティブなんですよね。でもポジティブって疲れるんだよね。いつも明るく、前向きに、インスタ映えしてって、そんなの本質的に嘘だから、だんだん疲れてくるのよね。

 「ばっきゃろー」的な経験をしたときに、「これもいい経験です」「勉強になりました」とかいうのは、ばっきゃろー!とひとしきり叫んだ後の話です。とりあえず絡んだ痰は全部吐き捨てて、うぎゃーっと発散して、スッキリして、それから「まあ、これもいい経験」みたいになると思う。でも、うぎゃーをやらないで、無理ポジに「いい経験」とかいってると、なにかがぶっ壊れますよ。

 まずゴミは出せ、です。
 でないと、心のなかがゴミ屋敷になってしまう。


 そんな罪もない愚痴、ブータレばっかのSNSって無いのかしら?
 あまりにも重くて深刻なのは別として、建設的な提言や政治論はまた別として、とりあえず日常的なゆるいネガOK、愚痴OK、弱音OK、泣き言OK、、、「言ってはいけない」的にカッコつけなくても良い場というのはあるべきだと。

 ちょっとゆるキャラ的なネーミングで、新しい愚痴系SNS「グッチー」登場!とかないのかな。「ネガりん」とかさ、「よわネン(弱音)」とかさ、「いい加減に白サイ」とかさ、「The KENNA(ふざけんな)」とかさー。コロナ時代の今だからこそ必要とされているのかも。

 そんなの他人に待ってたって仕方ないから、また掲示板で作ろうかしら?
 需要ありますか?




 再び写真。
 トップの部分は平坦な公園。
 下に降りていくと緑の芝生と海がひろがってます。
 海辺ギリギリまでいけます。
 なかなかいいところなんですけど、車でいくと駐車場所(路駐しかない)の競争率がハンパなくて、結局駐められずに帰ってきました〜ということが何度かあります。


文責:田村


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