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Essay 968:「面白さ」と「お金」がリンクしにくくなっている理由


〜リンクしないなら最初から別系統でやった方が良い
〜エッセンスの一滴は感性と創造性
〜非常にわかりにくいフリーや自営のお金の稼ぎ方


2020年12月28日
写真は、Cronullaの夜明けの海。

つまんなかった2020年

 2020年ももうすぐ終わりますが、今年は皆さんと同じく、コロナに振り回された一年でした。特に、留学生・ワーホリさんを相手にする僕の本業の場合、国境閉鎖が延々続くというのは、完全に商売あがったりでした。これはもう漁師に海に出るな、棋士に将棋駒に触るなと言ってるのと同じようなもので、殆どなんにもできない。その挙げ句、Uber Eatsをせっせと(といっても1日3−4時間程度だけど)やってるだけの1年になってしまいました。

 お金的な問題や、親に死に目に会えない問題とかもあるんだけど、よくわかったのは、「新しい人が来ない」「新しい出会いがない」というのが一番つまらんかったですね。

 先日、ひさしぶりに着いたばかりの人(14日検疫をやってまで入ってきた人)とお会いして、お話したんだけど、やっぱいいなあ〜と痛感しました。特に来たばかりの人はいいです。

非日常の凄味

 何が良いかというと、やっぱ一世一代に近いくらいの決意を秘めて来られるわけですから、まとっている空気感やオーラが違う。空気感が澄明で気持ちいい。何によらず真剣に行動してる人は、ただそれだけでインパクトあります。新車のスポーツカーのような心地よい緊張感とエネルギー。これが相も変わらぬ日常を送ってて、「もうかりまっか〜」「ぼちぼちでんな〜」というゆる〜い空気感やら、「あ〜あ」とため息ばっかついたり、「どうせ○○でしょ?」ばっかり言ってる人と新たに出会っても別にエキサイティングではない。心が洗われるようなリフレッシュ感はない。

 でも、来たばかりの人は違う。清水の舞台から飛び降りて、まだ空中で落下中みたいな感じだから、非日常の凄味がある。

 その非日常に接する感じは、例えば近所のコンビニに買い物にでかける路上で、これから討ち入りにいく赤穂浪士の一団にすれ違ってしまったくらいのものがあります。そして単にすれ違うだけではなく、「ちとモノを尋ねるが」と道を聞かれて、「こちらですけど、わかりにくいから途中まで案内しますよ」「かたじけない」とかいって一緒に赤穂浪士達と歩く感じ、そして一緒に歩いてるうちに自然にこちらも肩をいからせて、威風堂々と歩いているような感じ。伝染るんですよ。着いたばかりの人々の非日常の凛冽感が、自分の中にもあった大昔の原点部分を刺激する。「何のために自分はオーストラリアに居るのか?」という原点を毎回確認し、その都度新鮮なパワーが出てくる。それが良いです。

 そういう非日常と接するのが僕の本業で、しかも空港出迎えなど「とりたてピチピチ」を堪能していたわけですから、とても楽しかったのです。だからそれが無くなると、すご〜く詰まらない。いや〜、こんなに詰まらないとは思わなんだ

 Uber Eatsだって、ほんの数秒ではあるけど、短切な出会いはありますし、数秒短切だから良いというのもあります。毎回毎回違ったところに行くからルーチンに陥らない面白さもあります。だけど、こればっかの日常が死ぬまで続くなら、あまりの詰まらなさに絶望するかもしれないですね(笑)。ATM(必要な金銭を社会から引き出してくるシステム)としてはいいんだけど、その程度。もっとも、そのときはそのときで、なんか又新しく面白いこと考えるでしょうけど。

 そして思うのは、「本業」というのは、やっぱそういうことなんだなあってことです。
 「そういうこと」って何よ?といえば、「やってないと詰まらないと感じるようなこと」であり、お金が儲かる・儲からないなんて、あんまり関係ないってことです。いっそ全く関係ないと言い切ってもいい。もともとAPLaCというサイトは儲けようと思って立ち上げたものでもないし、このエッセイだって儲けようと思って書いてるわけでもない(儲けようもないしね)。面白かったらやるし、面白くなかったらやらない。

 ということを痛感しつつ、ここを起点にして話を広げてみましょう。

本業や仕事の意味

 何度も書いてて「またか」と言われそうだけど、将来の方向や人生の指針を考えるときに、あまり「生計を立てる仕事」ばっかを基準に考えない方が良いと僕は思ってます。お金が儲かるかどうかはさておき、何をやりたいかという純粋に面白味や興味をメインに考えた方が良いと。そしてそれは「仕事」というカタチになっていないかもしれないし、むしろそういう場合の方が多いかもしれないけど、そうであっても面白さ重視を心がける方がいいです。

 なぜかというと、一般に職業として成立している既存の職種であっても、実際にそれをやることで充実している人はお金以外の部分がモチベーションになっていると思われるからです。そこに「なんか」あるから、金銭的に報われている気がしなくてもやってられる。

 例えば、教職や教えることに生きがいを感じる人は、僕と同じように、教え子という「非日常」に会って刺激を受けているのではないでしょうかね?

 進路にせよ、勉強にせよなんにせよ、「先生、ちょっと、、」と相談にくる教え子は、生きるということの真剣さにおいては、いい大人になって定職についてルーチン日々の自分からしたら、それは非日常レベルの感動があるのではないか。思いつめた子供や生徒は、自分と同世代・同立場の連中とはかなり違った新鮮な存在でしょう。「俺は、ここまで真剣に思いつめて考えてないよな」「この子達がここまで真剣に思い詰めるってことは、逆にいえば自分の将来には無限の可能性があると信じてることでもあるんだけど、自分はそこまで自分の可能性を信じきれてないな」とか、教えられることがあるんじゃないか。いやあ、もっと真剣にやらんとあかんな、と。

 「教えることは教わること」といいます。教えているようで、実は一番教えられているのは自分だと、優秀な教師や師匠ほどそういう言い方をします。「”教える”とか特別なことをしてるんじゃなくて、ただ一緒に学んでいるんです」って。わかるような気がします。あれって別に謙遜で言ってるわけではなく(それもあろうが)、素の実感としてそういう部分はあるんだろうなーと。

 技量や経験では自分の方がずっと上なのかもしれないけど、こと「真剣に生きる」という点に関しては、教え子たちの方がずっと上だと。そりゃあ不器用だし、無駄も多いし、トンチンカンな方向に行ってたりもするけど、その刃物のような切れ味、振り下ろすときの魂の込め方みたいなものは、到底自分の及ぶところではないわと。

 だからそれが励みにも、刺激にも、勉強にもなるし、とりあえず接していて生理的には楽しい。だからこそその仕事を楽しんだり、価値のあることだと感じることが出来るのではないか。こと給与面だけでいえば、もっと儲かることだってあるだろうし、また日常であれこれ苦労することが金銭的に報われるという関係は全くない。放課後の時間を割いて子どもたちの悩みに必死につきあっても、だからといって残業手当がでるわけでもないし、ボーナス査定に有利になることもないでしょ。それどころか、クラスのいじめ問題に真剣に取り組んで逆に浮いてしまったり、窮地に追い込まれたりもするでしょう。周囲には、「適当にやっておきゃいいんだよ」というクソ達観しているヘタレ大人も多いだろうし、それで四面楚歌になったりもするでしょう。それでも、若い魂を傷だらけにして、今まさに、生きていくにあたって「なにかとても大切なもの」を諦めようとしている子供を見たら、これを見過ごしておいて何が教師じゃ?って気分になったりもするでしょう。

 他の仕事だって同じだと思う。どんな仕事だって、なにかしら面白味ややり甲斐はあるでしょうし、それがその仕事を続けているメインの理由になる。莫大な遺産が転がり込んだり、宝くじがあたったりして全然働く必要がなくなったとしても、それでもやるんじゃないか?純粋に面白いから。

 もちろん、全ての人、全ての仕事がそうだとは言わないですよ。なんの面白味もなく、何のやり甲斐もない仕事もあるでしょう。たくさんあるかもね。そういうときは、ひたすら仕事=金ですよね。全然楽しくないけど、金がないからしょうがないって。

 ボクサーや役者さんが、それだけでは食えないからせっせとバイトするとか、他にやりたいことがあるのでその軍資金稼ぎというなら話はわかります。しかし、それもなく、人生=仕事=金と、惑星直列みたいに全部きれいに等式で結ばれてるときというのは、長い人生においても、かなり不幸な時期ではないか。生きてて詰まらんやん、それじゃ。

ちょっと実践論

発見ではなく創造

 かくしてやり甲斐のある、面白いことを目指すといいよってことになりますが、実はこれが難問です。というかね、そういう形の問題の立て方をしてしまうと解きにくくなってしまうんじゃないか。そこで、実践においては、多少考え方をアレンジした方が良いと思うので、それを書きます。

 まず、その仕事の本当の面白さなんか、やってみるまでわからないことが多いです。
 全国出張の多い仕事だったとして、やる前は、体力的にハードそうだなとかそのくらいしか想像できないでしょう。でも、実際にやってみたら、出張費で旅行ができるのが楽しい、行き先を自分で選べないから逆に見聞が広がって楽しい、全国各地の駅弁を食えるのが楽しい、夜の接待なんかもで全国各地の盛り場を体験するのが面白い、、、などなど、あるかもしれない。だけど、そんなことはやってみないとわからない。あまりにもそれを期待しすぎると、メンテ保守の仕事だから、車で行って夜中に着いて夜中のうちに仕事を済ませて帰ってくるだけで、旅情もクソもないし、ご当地名物もなにも無縁のままってこともあるでしょう。だけど営業車に乗って深夜の高速をぶっ飛ばすのが意外と快感だったり、途中のサービスエリアで缶コーヒーで一服する時間がけっこう楽しいと感じるかもしれない。

 また、その仕事固有のやり甲斐があったとしても、いざ自分が入る会社や職場でそれが実現できる保障はどこにもないです。教職のやりがいを書きましたけど、そのとおりにやらせてくれる環境の良い学校もあれば、そういうことに全然理解のないクソ学校もあるでしょう。また上司同僚によっても全然違うでしょう。そのへんは水物だということです。ふたをあけてみるわけわからんと。

 逆にどんな仕事、どんな立場だって、そこに自分だけの工夫、自分の視点を織り交ぜることで、楽しくしたり、やり甲斐があるようにしたりすることは可能です。だいたい「仕事ができる」人って、これが上手ですよね。他の連中が死んだ魚のような目で仕事をしてるなかで、何故かそいつだけが嬉々としてやっている。楽しいから能率が上がり、だから成績もあがる。

 つまり、楽しく、やりがいのある仕事を探すのではなく、今目の前にある現実から、いかにして楽しさややり甲斐を創造するか、です。それが上手にできるようになればなるほど、仕事は選ばなくて良くなります。何やっても楽しい方向にもっていけるんだから。でもそれが下手クソだったら、何をやっても楽しくならないわけで、正解なし=絶望みたいな方向にいってしまう

 ならば一般の就活とか仕事探しで言えば、予めわかる範囲も乏しいので、ぶっちゃけ適当に決めたらいいんだよって気もしますね(笑)。まあ将来性とか、潰しがきくかとか、別の視点もあるけど(それにしたって想定外の連続だしね)、こと面白いかどうかってレベルにおいては、蓋を開けなきゃわからないし、蓋を開けてからが腕の見せどころでもあるわけだし、だったら別にどんな「蓋」でもいいんじゃない?ってことです。よっぽどヒドイものじゃなければ。そこで悩んでもあんまり答はでそうにないし、なりゆきとか、適当に決めたらいいんじゃないの?と。それに真剣に決めようとしても、相手さんあっての就活なんだから、結局のところ「なりゆき」になってしまうしね。だもんで、そこはそんなに真剣に考えなくてもいいかもよ。

後付アリ、お金と面白さの順番はどうでもよい

 逆に、面白いことをやってて、そのうちにそれで稼げるようになるというパターンがあります。プロ選手とか音楽家とか大体そうですし、ゲームばっかやってるうちに突出した実力をつけて開発方面になるとか。だけど、そんなことは稀です。滅多にない。なぜなら、既存の商業的成功ルートがあるような領域は、ライバルもめちゃくちゃ多いので、ごく一握りの天才とか化物クラスでないと話にならないって場合が多いからです。

 僕がいってるのはそうではなくて、例えば僕のAPLaCのように、大した動機もなく、ちょっとやってみっか程度のノリで始めて、やってるうちに色々な人と知り合って、ひょんなことから結果的に学校のエージェントみたいな事をやってしまって、へえ、そんなマネタイズのやり方があるんだ〜と逆に知ったというパターンもあるですよね。え、そんなもんでお金が入ってくるの?って。

 実際、フリーや自営のお金の稼ぎ方って、非常にわかりにくいと思います。例えば、以前弁護士時代に、地上げ(される側)の代理人をやってて、ヤクザめいたのがガンガンやってくる防波堤になってたことがありますが、立ち退き料をたくさんぶん取ることが出来ました。それで一件落着なんだけど、立ち退いた後他にどこに住むか?というアフターケアというか、そういう話になったときに、大学時代の友達が家の跡をついで同じエリアで不動産屋やってて、あいつだったら人柄的に間違いないってことで紹介しました。その後すっかり忘れた頃に、紹介した不動産屋の友達から話がまとまったのでありがとーってお礼がきて、「紹介料」受け取ってくれって言われました。そんなの予想もしてなかったので、え?って戸惑ったのですが、そういうこともあるのですよ。

 「紹介料」「コミッション」「ロイヤリティ」「相談料」「謝礼金」「手間賃」、、、名目はいろいろあるんだけど、これって、八百屋さんの大根一本百円みたいなカチッとした世界ではないです。特に日本の場合、「お礼」感覚が強いです。習い事の授業料でも「月”謝”」とかいいますからね。「謝礼」なんですよね。そして「礼」というのはフォーマットがあるようで無いです。葬式の戒名料みたいなもの。どういう場合にどのくらいの額が社会的に相当か?というのは、ケースバイケースだし、人によりけりだし、場の空気で決まる。ある意味、虹みたいなもので、条件が整うときれいに虹がかかって、整わないと口頭だけのお礼で終わってしまう

 このあたりのニュアンスは、これから副業やらフリーでやろうという方はわきまえておかれるといいです。あまりにもカチッとフォーマットを作りすぎると逆に商機を逃す場合もあるしね。なにか形になりやすいものを作っておくとお金の話になりやすいとか、演出すべきは演出すべき(ちゃんとスーツ着ていくとか)で、あれこれ考えるべきは考えればいいです。ここで「日本社会では知的労働に対する対価性認識が薄いから〜」とか、そんな文化論をぶってたって一銭にもなりませんから。でも、本質的には「虹」ですから、そうなるときもあるけど、そうならないときもある。「なるようになるさ」でゆったり構えていた方がいいでしょう。

 そういうマネタイズ現象にぶち当たらず、やってもやっても一銭にもならず、手間暇ばっか、お金も出ていくばっかってことでもいいんですよ。もともと好きでやってるんだし、それでやめたいとは思わないなら。大体、儲からないとやる気がしないようなことは楽しくないのですよ。「せめて金でも貰わなきゃやってられない」ってことですから。

 温泉が好きすぎて、ヒマさえあればせっせと全国の温泉行脚をして、ついには温泉博士みたいな知識経験を蓄えて、だんだん有名になって観光業や出版社の取材のための問い合わせがきたり、なんかの企画のアイディアとかロケハンの仕事が来たり。あるいはどっか鄙びた温泉に通ってるうちに、地元に馴染んで、どっかの温泉宿が後継者いないので廃業するんだけど、良かったら継いでくれないか、あなただったら悪いようにしないだろうしって見込まれたり、、、なんてことがあるかもしれない。わからんですよ、そんなの。

 だけど、キモになるのは、最初から金を狙わないほうがいいということです。面白さの純度が下がる。下がった分、面白くないのにやることになる(儲かるかもしれないからやるという不純な)。それはあかんですよ。一銭にもならなくても、これが生きがいじゃってくらい楽しくなければ意味ないですからね。だから、最初は普通に趣味でいい、気まぐれでもいい。そんなに計画立ててやるようなものでもない。好きだという感覚、こうするともっと面白そうだという直感、そういう感性こそが一番大事で、それだけです。あとはなりゆきです。

 でないと、あとでどんどんしんどくなります。面白いから始めた筈の物事が、段々面白くなくなるし、お金に追われるようになるし、そうなるとジリ貧になってきて、やることなすこと裏目に出たりするし。

感性と創造性がキモ

 ということで、普通の仕事から入っていっても、趣味系から入っていっても、結局同じことなんだと思うわけですよ。

 何が同じかというと、どっちから行っても途中には必ず、

(1)面白い!と感じる優秀な感性センサーと創造力
(2)「なりゆき」という偶然ブラックボックス

 この2つが入ってくるからです。
 こんなのが入ってたら、考えても無駄です。てか、考えるほどに(1)のセンサーが悪くなる。
 そんなところで無駄有害に考えを巡らせるくらいだったら、とりあえず動いてなりゆきドラマを始動させろです。サイコロ振らなきゃ何も始まらないよ。歩いていない犬は棒にも当たらないよ。

 そして、ヒマさえあればアイディアを出せ、創造力を働かせろです。それを煎じ詰めていけば、今のこの場が勝負なんだよってことです。今この瞬間を面白くすることが出来ないなら、この先も出来ないですよ。現環境のあれこれを仔細にみて、どっかに面白いことはないか、この角度からみると面白かもとか、自分の心の奥底にピピと微弱な「あたり」があるんじゃないかとか、そのあたりのことです。

 創造力のある人というのは、一般にそのあたりがスゴイ。
 それで思い出したけど、ずっと昔、井上陽水奥田民生というコラボがあって、奥田民生のインタビュー記事を読んだのですが、彼いわくは「陽水さんってスゴイんですよ。収録のときに、二人でどっかの定食屋に入って丼モノかなんかを注文して食べたんですけど、もうそれだけで陽水さん、一曲作っちゃうんですよ」って。

 井上陽水の昔の曲に「ミスコンテスト」というのがあって、全編ミスコンテストの華やかなステージの描写が延々続くのです。が、最後の方、いよいよ優勝者発表というファンファーレが鳴る段階で、「順番を決める封筒が届いた」「審査委員長はムツカシカッタと言う」の次に「誰も見ていない舞台の裏で 何も決めてない掃除婦が働く」という一節がさりげに歌われてて、最初聴いたときに爆笑しました。でも、この「何も決めてない掃除婦」という一言が入るからこそ曲として成立している。これがないと、ただコンテストの様子を麗々しく描写してるだけの、あまり意味のない曲になってしまうのだけど、これが入るとこういったコンテスト全体の絵空事みたいな嘘臭さみたいなものが浮き彫りになるし、その対比ビジュアルを思うとえも言われぬ可笑しさ出てくる。しかし、この諧謔味のセンス、面白センサーは凄いなと思った。よくこんなこと思いつくな、そしてそれを一曲にしようと思うよな。

 考えてみれば、そういった獰猛なまでの感性一発の世界こそが生命力なのかもしれない。子供なんてその点が凄いですよね。さっきまでの流れとか、これまでの整合性とかなーんも考えずに、面白かったらダッシュで飛びつく。また、どっからそんな発想が出てくるんじゃ?というくらい天衣無縫のぶっとんだことを言うし。だからこそ、あんな変哲もない積み木で何時間も遊べるし、何もない砂場や原っぱで1日中遊んでいられるのでしょう。大人だったら5分も保たないでしょう。創造力が枯渇してるから、すぐネタ切れになってやることがなくなる。そして感性が干からびた大人ほど、テレビや雑誌やネットを巡回して「出来合いの面白さの正解」みたいなものを無駄に探すわけでしょう。

 先程教師の例を書きましたけど、子供達とつきあってる仕事、それは子育てなんかもそうですけど、これだけ新鮮でパワフルな生命力を浴びてたら、どっかの温泉に入ってるよりもよっぽど効能ありそうです。それが良くてやっておられるのではなかろうか。てか、効能ありすぎてアテられてしまったり、疲れてしまうんだろうけど。


 以上長くなりましたが、「とてもやり甲斐があって、しかもお金が沢山入ってくる仕事」なんか探しても無駄ですから。いまどき医者でも弁護士でも破産倒産してるの結構いるし。生計のためのお金と、楽しくて充実すること、その2つを同時に得ないとダメだとかやってるからしんどいんだと思います。そんな「王手飛車取り」みたいな、一石二鳥しかダメみたいにやってたら、すぐに手詰まりになりますよ。

 そんなお金がほしいなら、とりあえずバイトでもなんでもやればいいです。どんな時給の安いバイトでも、フリーや自営でやって稼ぐよりははるかに労働効率はいいです。フリーで1万円稼ぐのがどんだけしんどいか。企画して、試行錯誤して練って、広告して、動いて、でも鳴かず飛ばずって長い時期を乗り切って、、とかやってるくらいなら、バイト1日頑張ればいくらかは入ってくるし、よっぽど手っ取り早いです。僕も日本全体が落ち目になってきて本業だけでは心許ないからバイトやり始めたんですけど、もう感動しましたもんね。こんなに簡単にお金が入るんだーって。

 じゃバイトを充実させて本業なんかやめればいいじゃんってことになるけど、そうすると冒頭に書いたように、あまりの詰まらなさに絶望してしまうのですよ。お金にはなりにくいけど、本業の方が百倍面白いです。また面白くなるような方向にやっていますしね(しかし往々にして儲からない方向だったりもするのだが)。

 だもんでお金はお金、面白さは面白さで切り離して考えた方がいいです。そのうえで、基本金のためにやってることなんだけど、でも、これ面白いよな、やり甲斐あるよって思えたらいいわけでしょ?あるいは、趣味系から始めて、十分面白くてそれで満足なんだけど、やり方をちょっと工夫したらお金も入ってくるようになったということもありえます。いずれにせよダメ元なんだから、それでいいでしょ。

 そうやって経験値を積んでいくうちに、ここは金オンリーでいことか、これはもう面白さ一択でしょうとか、これはうまくするとミックスできるかなとか、状況に応じて変幻自在に組みあわせていけばいいんだと思います。

 一方、詰まらないと感じる本業(生計仕事)を、無理やり価値あることなんだ、まっとーに働くからエライんだとか、どことなく強弁するようになったら、ちょっと問題だと思う。世間にはそういうパターンは多いのではないか。結局、創造性がないのかな?それが足りないから、今やってる仕事の面白さに気づかないとか、仕事を離れて夢中になれるものを作り出せないとか。だから「つまらないけど価値がある」という論理構成(正当化)になっていくのかも。

 あ、書いてて気づいたけど、仕事自体は大して面白くないけど、愛する家族のために金を稼がなきゃ!ってやってる人の場合は、トータルで「面白い」のだと思います。「面白い」って言葉に違和感があるなら「価値(or 意味 or 生き甲斐)を感じる」と言い換えてもいいですけど、ともあれ家族という大きな生き甲斐プロジェクトを日々やってるわけで、その時点で既に面白いですよね。そして、そのための事務の一環として仕事をしてるという関係になる。だから仕事それ自体に面白さを見出す必要すらない。それで仕事も面白かったら儲けもんくらいの感じ。

 そういえば、暴力団の企業舎弟系とかメチャクチャ儲けるのは上手なんですよね。アコギなことをしまくるから当然なんだけど、で、その金で何をするのかといえば、夜の街の刹那的なことにパーッと使ってしまう。つまり、仕事それ自体の面白さなんか全然考えてないし、愛着もない。金さえ儲かりゃそれでいいんだって。他人を地獄に叩き落とそうが儲かりゃいい。でも、反面楽しいことやるにあたっては、出来合いの商売系の女や酒で終わってしまって創造性のカケラもない。どことこなく面白さや人生の充実っていう点に関して言えば貧しいんじゃないのか、根本的な部分で何かが欠けてるような気がします。

 同じく、貧困やドツボ状態から抜け出せない人の場合、お気の毒なケースも多々ありつつも、なんか違うんじゃないかってケースもあります。稼いだそばからパチンコや競馬で使ってしまう、酒やドラッグに使ってしまう。生活保護や借金などで入ってきたら、右から左にそっち方面に使うから全然残らないし、むしろ借金が嵩む。これじゃ抜け出せないよってケース。ほかにもホスト通いがやめられないから、会社のお金を使い込むとかもある。なんでそうなの?といえば、真面目に働かないとか、節度ある生活態度とかいうことではなく、本質的に面白さを創造することができないからじゃないか。自分では創造できないから出来合いの面白さに走る、それも手っ取り早く刹那的なものに走る。つまりは快楽依存度が強い。なぜ依存度が高いのか?といえば、自分で創造できないから。自炊が全然出来ない人が外食ばかりになるように、自分でオリジナルな面白さを感じたり、作ったりできない。それが根本的な問題だと思うのです。

 それらのことを、つらつら煮詰めて考えて、凝縮して絞り出したエッセンスの雫一滴はなにかといえば、結局は面白いと感じる感性の問題に行き着くのかな?と思うのです。そこが瑞々(みずみず)しかったら、多分、何をどうやってもそこそこ上手くいくでしょう。そこがダメなら、なにやっても心から楽しくならないし、いつもイライラしたり、不満だったりするでしょう。うつ病だって、あんまり笑わなくなったらヤバいとかいうでしょ。感情の弾力性がなくなって、空気の抜けたゴムまりみたいになっていく。一日一回も笑わない日が続いたりしてたら、ヤバいでしょ。

 逆に、日々の仕事やらのストレスなどで、その御本尊のような感性が擦り減ってきたり、削られたり、摩耗してきたら、そんなのすぐに辞めるべき。いくら高収入だろうが、ステイタスだろうが。それを辞めたあとの人生がまるで考えられないってなってたら、尚のこと。だって、その後の人生の可能性なんか無限にあるんだけど、そんなことすら想像できない、視野狭窄でわからなくなってるんだから、魂にヒビが入ってますよ。機能してないもん。

人間相手のあれこれは資本主義になじまない

 最後にちょっと違った観点でもう一つ。

 何が面白いのかっていえば、やっぱ人間相手のあれこれです。喜んで貰えた、人助けができた、あの笑顔がたまらないとか、そういう充実感ってスゴイですから。

 でもやってわかるんだけど、そういうのってお金になりにくい。経済の数値やフォーマットに載せにくいのですよ。もともと精神性の強いものであり、かつ人の精神というのはカタチがない融通無碍な存在だから、定数定量化しにくい。本質的に無理だといってもいい。それは田中さんご夫妻の愛情度が75点で、鈴木さんご夫妻は82点でってつけるようなもので、そんなもん無理。幸福に点数つけるのが無理なのと同じく、無理。

 先程の教師の事例でも、どれだけ真摯にその教師が向かい合ったかとか、それでその子がどれだけ生きる希望を得たのかとか、何十年も経ってから同窓会で、「あのときの先生の一言があったから、これまでやってこれました。本当にありがとうございました」と言ってもらえる喜び、そういう実りゆたかな実質を作ってきたという自負と充実感。そういうものは、おしなべて計測不能です。せいぜいアンケートの顧客満足度くらいですけど、それで何がわかるのか?その代わりに数値化できて、経済効率を考えることができる指標は、やれ東大合格者が何人かとか、インターハイで優勝したとか、そういうことでしょ?

 昔医療過誤などをやってるときに、研究会などでお医者さんといろいろ話す機会もあったんですけど、診療報酬制度の問題なども聞きました。名医になるほど、患者の日常を把握し、本人の主訴とは別に顔色や態度などで健康状態を考え、そのために問診を重視する。問診が出来て一人前、問診しない医者は獣医だけとか言われるくらい、伝統的にも大事なこととされてきた。だけど、健康保険の点数でいえば、問診ってすごい安いらしいです。でもって良心的なほど、説教メインで、薬を出さない。薬依存になってはいけないし、日頃の生活態度が一番大事だから。そうして日頃の予防レベルで芽を摘んでいくのが良いと。だけど、これだと儲からない。無駄な検査でもすると儲かる。意味ない薬もごっちゃり出せば儲かる。だから良心的にやろうと思えば思うほど儲からなくなる。そもそも大病院の3分診療で問診なんかまとにやってるヒマもない。ちなみにオーストラリアの医者の場合、一人15-30分くらいかけてじっくり話をしてくれるので(パブリックでも)良いなとは思いましたけど。

 弁護士でもそうでしたね。破産の事件とか、もともとお金がないから問題なのに、着手金100万持ってこなかったら受けないとかやってたら救えない。僕のボスの知り合いの弁護士がガンガン儲けてましたけど、その人は100万以下の事件は絶対受けない、どんなに可哀想でもやらない、だってキリがないでしょう?って割り切ってる。一方僕のボスはそのあたりが甘いので、可哀想だですぐに引き受けてしまう。当然全然お金にならない。そんな事件が全体の何割かって感じである。かなり優秀な師匠で、いろいろ教えてもらったけど、ただ一つ、稼ぎ方だけは教わらなかったなーと思うのですが(笑)、儲けるようにやってると職の本質から外れていくのですよね。

 どんな仕事でもそのジレンマはあるとは思います。でも、なんか思うんだけど、だいたい腕に自信があり、実際にも凄腕の人ほど、儲からない方向に行くような気がしますね(笑)。まあ、この種の内容と経済の矛盾は、ある程度は仕方ないんだろうけど、でも最近ますますひどくなってる気がします。

 その理由は、最近のエッセイと繋がってくるのですが、やっぱ社会が実質的に豊かになっていって、物質的なものから精神的なものにシフトしてるからだと思うのですよ。その昔の物質的幸福がメインだった頃は、物は計量化しやすいから、経済原理にも馴染みやすかったと思うし、経済的方法論が有効な社会の処方箋にもなりえたのでしょう。しかし、社会や人々が精神性にシフトしてくると、そこがいまいちしっくり来なくなってるのではないか。

 なぜって、仕事の楽しさとか、社会に生きていく喜びなどは、その計量不能の精神性の部分に多く存在するのですよ。これを経済的に処理するとなると、本質的にミスマッチが生じるのではないか。最近の経済がなんか変なのも、そのあたりに根本があるのかもね?という気がします。

 かといって精神的な部分を経済理論に取り入れるとしても、そんなことが出来るのか?と疑問もあります。おそらくは、そういった野心的な試みも世の中にはあるんだろうけど、でもこの自分でもよく分からない心のありかたを理論化できるものか。そこまでいくと心理学だし、てか心理学でも結局わからないことが多いし、社会学や哲学、さらには純粋な価値論や審美学の世界になっていく。それはもう経済学ではない。てか、国家社会論においても、物質の生産・分配を基軸とした組織論(資本主義も共産主義もこのレベルの差でしかない)ではなく、精神的価値性を基軸とした社会論に多少シフトさせてもいいかもしれないですね。いわば小さな宗教団体みたいな価値論メインの小集団を無数に林立させて、それらがゆるく連結し、結節点である共有シェアを豊かにしていくという方法論です。

 そういう時代的な観点でいっても、お金稼ぎと、面白さというのは、なかなかリンクしにくくなってるのかもしれません。全員が物質的に飢えているときは、物を持っていくだけで、喜ばれたし、確実に幸福に寄与できたし、やり甲斐も満足も面白味も得られた。と同時にちゃんとした経済的報酬も得られた。全部リンクするからやりやすかった。しかし、今どきそこまで物質メインの出来事なんか、被災地の救援物資とかそんな場合くらいでしょう。物財が多ければ良いって世界ではなくなってきたら、そのリンクが外れてくるから、勝手が狂ってきてるのかもしれません。







文責:田村


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