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Essay 966:育ちが良い/悪い


〜育ちの良し悪しの本当の意味はなんだろう?
〜総じて皆さん育ちが良くなってる〜だから育ちの悪い人につけこまれている


2020年12月21日
写真は、North SydneyからNeutral Bayに続く住宅街。ジャカランダが終わる頃に、このネギ坊主みたいな同じラベンダー色の花の時季です。

 最近、やたら権力や金の亡者みたいになってる人々(&企業や組織)を目にする機会が多いです。しょーもない利権に固執して、いけしゃあしゃあと嘘八百並べたり、詭弁や屁理屈にすらなっていない言い訳をゴリ押ししたり。企業組織においても、あれだけリストラしておきながらトップの報酬は相変わらず数億円レベルだったり、何がなんでも世界を寡頭支配したいかのごとき動きなり。

 よくそこまでやれるなー、恥ずかしいとか思わんのかなー、この豊かな時代になんであそこまでガッツいてるのかーとそれが不思議で、どういう人間類型なんだ?と考えていたら、「ああ、育ちが悪いんだな」と思うようになりました。

 一方で日本も、オーストラリアも、一般庶民レベルおいては、年々育ちが良くなってるような気もします。だから余計に、育ちの悪い人たちにしてやられてる部分もあるのかな?という気もしたりして。

 今週はそのことを書きたいと思います。

身分と実力と品性

 まず、「育ちが悪い」という概念ですけど、一般の用語例とはちょっと違った意味で使ってるかもしれないので、まずはそこらへんから。

 一般に「育ちが悪い」というのは、身分社会を前提としつつ、下層階級の出身であるとか、貧困層(ないし庶民)の出自であるから、上流貴族的な振る舞いや感性に欠落する部分があるという、蔑視的な表現として用いられることが多いです。例えば一代でのし上がった大金持ちや大物でも、デリカシーのない蛮声でガハハと笑ったり、ご飯の食べ方が意地汚かったり、やたら目立とうとしたり、浅ましい感じが漂って、「やっぱり育ちが悪いと、ああなるのよねえ」と貴族連中から冷笑されるという。もっともそうやって冷笑する態度だって決して褒められたものではなく、人の徳性という意味では五十歩百歩なのですが、いずれにせよ、基本、育ちの良し悪しは蔑視や差別的な用例が多く、滅多なことで口にするべきではないのです。

 とはいいながらも、今どきそこまでガチガチの身分社会なんか無いでしょう。士農工商の昔ならいざしらず、昭和も後半になれば一億総中流になってきました。それが平成、令和ときた現在、身分社会なんか事実上無いと言っても過言ではないと思う。

 そりゃ貧富の格差が広がったり、いわゆる上級国民がどうのこうのってありますけど、まだ「身分」まではいってないというのが私見です。それは単に「強いやつがエラソーにしてる」という生々しい実体レベルでの話です。本来の「身分」というのは、そういう「実体」からかけ離れて、純粋にただの形式だけで成り立ってるもの、そしてその上に文化が広がってるような世界です。

 上級国民とか富裕層なんぞは、失脚したり破産したらすぐにあーっ!と転落するわけで、そういう可変的なものは「身分」とは言わないと思う。実力と形式(身分)が完全に乖離してはじめて「身分」なんだと。どんなにアホでも無能でも、その身分があるだけで全員が平伏するくらいのレベルになって身分というのだと。その意味で、今の日本での身分と呼べるのは、おそらくは皇室くらいしかないんじゃないかしら。

 でも昭和の前半くらいまでは、結構まだそういう身分感覚はあったと言われますよね。例えば、本家と分家では「格が違う」みたいな言われ方をしてましたもんね。実力なんか関係なく家格が全てって世界。それが核家族になり、さらに家族にすらならず、おひとりさま「孤族の時代」といわれはじめて久しい現在、本家もクソもないですよ。行くところにいけばあるんだろうけど、一般にはリアリティがない。あとそれらしきものが残ってるのは、うーん、タテ社会や身分ガチガチのところは多いけど、結局は実力主義だし(相撲でも、暴力団でも)。家元制度なんかはかなり近いけど、でもあれも行くつくところは権力闘争ですからね。公務員のキャリアとノンキャリくらいかなあ。

 何を言ってるかと言えば、今の時代は、育ちが悪かろうがなんだろうが、実力(真に優秀であるか、ありえないくらい卑劣であるかは問わず)、結果として現実的な影響力があれば、それがまかり通る社会ですから、育ちなんかどうでもよいのでしょう。いかに下品で弱者を踏みにじろうが、逆らえないだけの影響力があれば誰も何も言えない。ある意味「実力主義」で「平等」な社会でもあるが、ある意味下品な社会でもある。もともと力と品性は関係ないですから。

 そんな世相において、僕が「育ち」というのは、力とは関係ない品性のことです。利害ではない別の原理で動けること。あるいは、利害関係の上にくるごく自然な人間の感性をちゃんと保てているかどうか。倫理性や人間性を育ってくる過程で損わずに維持してきたかどうか。

 抽象的でわかりにくいので、順を追って書きます。


最近は皆さん育ちが良い〜物質的な意味で

 仕事柄若い人と接します、、てか、あんまり年とか気にしないから、年令を問わず最近の日本人は(あるいは世界の人はでもいい)概して育ちがいいなあって思います。

 逆に言えば、よく言われることだけど、覇気がない、ギラギラしてない。
 しかし覇気ってあればいいってもんでもない。「覇気がある」人の間近にいるのって意外と辛いですよ。エネルギッシュといえば聞こえはいいけど、往々にしてそのエネルギーが邪気に満ちてたりする。ものすごくクセの強いワンマン社長などをイメージしたらわかると思うけど、山賊の親玉みたいに、いざとなれば人ひとり殺すのを屁とも思わない(かどうかは現場に居合わせた訳ではないからわからんけど)、他人が不幸になることなんか大して歯牙にもかけない、デリカシーもへったくれも無い人だっているわけです。

 もちろん全てがそうだというわけではないのですが、全ての人が、坂本龍馬のイメージみたいに賢くて優しくて陽性にエネルギッシュであるわけでもない。その逆の場合もある。てか、その方が多いでしょ。

 なんでそこまで覇気(邪気)が強いのか?といえば、ひとつは生まれついてのものもあるのでしょうが、多くは「育ち」でしょう。生育環境がどうであったか。ドン底スラムみたいな環境に生まれ育ち、子供の頃から大人や仲間からで凄まじい迫害を受けていれば、それに適応するでしょう。食うか食われるかの環境に育てば、野獣のような人格になるでしょう。そうでないと生き残れない。これは教育がどうのって話以前に適者生存の自然界の法則として。あらゆる意味で生命力の強い個体だけが生き延びることを許される自然世界の残酷リアルです。

 いわばナチュラル度100%の自然界では、皆さん、総じて「育ちが悪い」わけです。てか、それがナチュラルであるというなら、その種の「殺し合い上等」適性こそが育ちの「良さ」なのかもしれないけど、そこは言い方一つ。


 その逆に、他人を押しのけなくても生きていける豊かな環境に育てば、そこまで闘争心は生じないし、鍛えられもしない。そうする必要がないのですから。

 そこでは、ガチの適者生存以外の原理、いわゆる人間性とか理想論とか、その種の価値観が生じてきます。古来、ギリシャ哲学からなにから、理想とか哲学とか価値論とかいうのは、貴族や僧侶など特権階級が作ってきたものです。「餓死まであと15時間」みたいな絶対環境で「人間とは〜」とか考えてる余裕なんかない。

 そして、何かに付けて思うのは、今は豊かな時代だなあってことです。精神性の貧しさの問題はさておき、物質的なレベルで言えば、人類史上、いや地球生物全ての史上において、今くらい生きやすい時代はないと思います。なぜなら「飲んでも体調を害しない水」が無料同然、無危険で手に入る環境なんか、滅多に無いですもん。水はあっても寄生虫だらけ、ヤバい病原体だらけが普通。「生命に満ちている世界」って本来そういうことですもん。アマゾンみたいに河に近づくだけで危険な魚に飛びつかれたり、変な虫にやられたり、大蛇に引きずりこまれたり。アフリカの象だったか、単に水飲み場を探して飲むためだけに、ひたすら十何時間も歩き続けるといいますが、地球で生命が生きるというのは、そのくらいの難事業なのでしょう。リアルタイムの地球上でも、きれいな水が手に入りにくいエリアはたくさんあるといいます。

 BLANKEY JET CITYの歌詞で、「俺は旅人 この広い世界で 手に入れたいものは きれいな水」という一節がありますが(RAIN DOG)、すごい分かる気がします。それが原点だろうって。もちろん「きれいな水」というのは、信じられないくらいピュアな人間性や、奇跡のように美しい瞬間を意味する暗喩なんでしょうけど、でも「きれいな水」と表現したくなる気持ちはわかる。

 それを考えたら、今の時代くらい物が豊富な時代はない。飢えを満たすために、いちいち殺し合いをしなきゃいけないってことはないし、それどころか山海の珍味やら、世界中のグルメが比較的安価に手に入ります。安価といっても高いんですけど、でも、精々が10万円未満で収まるし、500円でも十分美味しいものは手に入る。最低時給からいっても、1時間働けば一食はクリアできる。歴史上ありえないですよ、こんなイージーな時代。朝から晩まで働いて、それでも飢饉になったら為すすべもなく餓死するのが封建時代の農民なんだし。戦後直後の日本のリクルート人材確保の方法は、「おい、腹いっぱいメシを食わせてやるぞ」だったらしく、それで皆ついていったって聞いてます。「メシ食わせてやるからついてこいって言われて、それがキッカケでしたね」とか、今は大企業の名誉顧問みたいになってる偉いジイさんの回顧談なんかで。

 江戸川乱歩の小説だったか、主人公の戦時中の回顧シーンが出てきて、わけもわからん南方の島に飛ばされて、どっかのジャングルだか洞窟だかに皆でこもって、物資も尽きて死ぬのを待つだけって絶望的な状況。せめても慰めに皆で妄想を語り合うのですが、「透き通った水をゴクゴク飲んで」「真っ白い大福が山のように積んであって」「それを手当たりしだいに頬張るんだ」という誰かの言葉に、皆で、ああ、〜いいなあ〜とうっとりして、それで一人、また一人と死んでいく。読んだのはまだ中1かそこらだったと思うけど、水が飲めて大福が食える自分はなんて幸せなんだと思ったことがあります。今でも覚えてるくらいなんだから、結構原点的なものだったんでしょうね。

 そんな大昔を引き合いに出されてもピンと来ないかもしれないけど、ほんのちょっと前に比べてみても、その差は歴然としてます。食べ物に限らず、今当たり前に出来ること、ほとんど無料で出来ることが、僕らの頃には全然出来なかったのですよ。例えば動画なんかテレビか映画以外ほとんど見る機会がないです。ちょっとマイナーな、例えば世界的に有名なロックであってさえ、歌謡曲メインのテレビでやることは稀だから、ロック雑誌の写真を脳内で動かすか、実際に来日の際にコンサートにいくしかない(行っても豆粒にしか見えないのが悲しい)。音楽を聞くにしても、レコードなんか滅多に買えない。昭和40-50年当時でも3000円くらいして、どうかしたら今より高いくらいで、昭和40年と令和元年の消費者物価指数の差はおおむね4.2倍(出典)なので、今でいえばレコード(CD)一枚1万2000円くらいして、それ以外に視聴する方法はない。あとはFM放送で根気よく何年もずっと待ち続けて(あまり人気のない曲の場合)、流されたらラジカセでカセットで録音して、、とか涙ぐましいことをやってたわけですよ。それが今では、スマホ一台あったら、やりたい放題ですもん。当時でその環境を構築しようと思ったら、そうだなー、毎月100万以上の資金はいるでしょう(ガンガンレコードを買える資金とオーディアセット)。音楽ですらそんな感じですから、思春期少年のエロ事情はもっと悲惨で、ビデオが出てくるまでは8ミリしかない。もちろんそんなもん誰ももっておらず、どっかの金持ちの息子が、家にスウェーデン製の無修正があってとか都市伝説ならぬ校内伝説なってたくらいです。

 旅行にしたって、開拓されてきたのは昭和50年台以降です。それまでは熱海とかドメジャーな旅行先しか誰も知らなくて、それがアンアンとかそのあたりの雑誌が、萩・津和野など当時としてはドマイナーな旅先の良さをきめ細かく紹介し、一人旅や、友達旅の良さを開拓していったわけです。今となっては世界各地の情報がやまほどあるし、航空運賃も格段に安くなったもんです。僕が最初語学留学した1994年のときも、クラスにいた日本人の女の子は往復37万かかったて言ってたもんなー。僕は安いのを探してソウル経由の大韓航空だったけど、それでも17万しましたもん。それより前のオーストラリア旅行とか、一人一週間で80万とか普通にあったですよ。

 ね、豊かでしょ?今どきの日本で、クーラーのない部屋なんか少ないと思うけど、僕なんか弁護士時代もクーラーなかったもんなー。リビングに一個あるだけで、僕の部屋はなんもなしで、汗ダラダラ流してパソコン通信やってた。

 というわけで、これだけ物質的に豊かに時代になってくれば、必然的に人々が精神性にシフトしていくのも当然だろうし、相対的に育ちも良くなるのは頷ける話です。昔は「豊か」の「ゆ」ないし「ゆた」くらいを実現するあたりで力尽きてたのですよ(笑)。


 しかし、精神性にシフトしたからといって、全ての育ちが良くなるというものではない。却ってそれで悪くなることもある。今回語りたいのはこの部分です。

精神的な意味での育ちの良し悪し

 衣食住にそれほど不自由せず、考える時間がたっぷりある夢のような環境に育てば、誰もが育ちの良い聖人君子になれる、、、わけでもない。

 一つには精神面においても、物質面と同じく、豊かであるか、飢餓状況にあるかという状況の差がある点です。親や周囲の人達からたっぷりと愛されて、心の底から本当に自己確認できていた人と、誰からも疎外され、自分の存在価値が無いと思いこんでしまう人もいる。多感な年頃に、楽しく愉快に過ごしてきたか、恐怖や屈辱を常に感じてきたかによって全然違うでしょう。これが一つ。

 もうひとつは、これは良くエッセイでも書くことですけど、人間って考える時間がありすぎると、それも自分自身のことを考えすぎると、えてして脱線しがち、よくない方向に向かいがちだということです。プラス感情をもっていたとしても、それを意識する時間が長すぎると、逆に良くない。例えば、周囲から認められ、称賛されていたとしても、それが過ぎると調子コイてきて、もっとチヤホヤされたいとか、自分以外の人間が皆の歓心を買うという状況が許せないというエゴの際限ない肥大化が起きます。過保護の子供にありがちな。

 他方マイナスはマイナスで増幅します。ほんの些細な劣等感情や屈辱感、日々忙しくしていればすぐに忘れてしまうようなことでも、暇だとジクジク突き回して考えるから、どんどん増幅していく。ほんの一断面の状況、大した情報量もない物事を、あとから膨大な妄想で補ってふくらませるから、手に負えなくなる。自分が挨拶したのにシカトされたのは(単に気づかなかっただけかもしれないのに)、嫌われているんだ、その人だけではなく皆からも嫌われているんだ、そうだよな好かれるほど魅力ある人間じゃないもんな、ああ、こんな屈辱感と疎外感のなかで死ぬまでつらい思いをするのか、、とか。

 プラにせよマイナにせよ、豊富な思索時間によって、ブレーキのないボケ合戦になっていくわけです。

 なので、考える時間がゆったりあるのも良し悪しです。
 考えてみれば、古代の貴族階級だって、全員がプラトンやソクラテスのように哲学的思弁にいそしんでいたわけではないでしょう。多くはさらなる権力と虚栄を求めてなんだかんだ意地汚い争いをしていたでしょうし、なんの反省もなく傲然と他人を見下して、冷酷なことをやっていたりするわけです。本来俗物な奴らがカンチガイしてさらに俗物化してるだけって気もしますね。

 ということは、物質的に窮乏している状況だと、人々は野獣化せざるをえなくなり、ギラギラ&ガツガツしてきて、あんまり育ちがいい感じではなくなる。かといって、物質的に豊かならそれで良いかというと、意外とそうでもなく、今度は豊かな精神時間が自家中毒を起こして劣化して、育ちが悪い感じになってしまう危険もあると。

 こうしてみると、人格円満に育ってくる「育ちの良さ」というのは、口でいうほど簡単なことではないのだなというのがわかります。

それでも総じて育ちがいいなと思う

 これはオーストラリアでも、日本でも思います。
 オーストラリア人は、ほんと、育ちがいいなあって感じさせてくれる人が多いですよね。無償の善意を惜しげもなく交換するし、こすっからい人は少ない。総じておっとりしていて、人間の価値を素朴に信じている感じ。すくすく育ってきたんだなーって人が多いです。

 でも、日本人だって基本そうですよ。日豪で、一見対照的なようで、実はよく似てるなと思う部分は多いのですが(明確にNOと言えなくて、遠回しにいう感じとか)、やっぱ生育環境が似てるんじゃないかな。種類は別なんだろうけど、絶対的なレベルにおいて。

 自分の生存を脅かされるくらいの絶対的恐怖をそれほど感じてこなかったとか、特に優秀でもない偏差値40-60くらいの普通レベルでも十分に幸福は実現できることを体感しているとか、まあ、そこそこ頑張れば、そこそこ満足しうるハッピーになれるんだって確信みたいなものです。

 悪く言えば、ぬるま湯であり、平和ボケなんだろうけど、人肌並みの適温環境が、人の精神をそこまで擦り切れさせていないし、他者を思いやる気持ちを損なわせていないという意味で、育ちがいいなと思うわけです。

 もっとも他国の連中がそんなにギスギスしてるかっていうと、それもないです。もともとオーストラリアまでやってこれるくらいだったら、本国でもわりと富裕とかエリート層が来ますし、またそれだけ優秀でありながら、のんびりオーストラリアを選択している時点で、ガツガツするのを好まない傾向がありますからね。もともと地球儀的にいえば、オーストラリアってリゾートアイランドみたいな立ち位置ですから、修羅や亡者になるために来るような場所でもないです。

育ちの良さの本質はなんだろう?

 上に見たように、ある程度の物質環境は必要だとしても、それだけが決め手ではない。人格的に卑しい感じのする育ちの悪そうな人は、出身所得階層によって分かれるものでもないです。低所得でも気持ちのいい人はいるし、いい人はいる。いい人過ぎるから低所得なんだよってくらいの人もいる。逆に貧しいことが精神をひねくれさせてしまった人もいる。高額所得でもおっとりして人柄が円満な人はいるし、鼻持ちならないイヤな人はいる。

 だからあんまり関係ないかもという気もしますね。貧しくて善人な人は、たとえ金持ちに生まれたって善人なんだろうな、金持ちでイヤな奴は貧しくてもイヤな奴なんだろうなって気がします。

 ならば何が違うのか?
 それは僕らが「いい人」と感じる人は、いったいどの部分が「いい」からそう感じるのか?イヤに思える人はどこがイヤに感じるのか?という点になっていくのでしょう。

 思うに、人として標準的な喜怒哀楽の感性、そして是非善悪の倫理観などについて、わりと過剰だったり欠落する部分が少ない人、バランスが取れている人をもって、まあ「普通の感じ」になるのだと思います。それだけだったら、単に普通の人なんですけど、それ以上に「いい人」になるのは、ちょっと倫理的に一般よりも高めのスタンダードを持っているからでしょうか?

 いや、書きながら今テキトーに考えてるだけなんですけど、これをふくらませると、
(1)喜怒哀楽の感情面でのバランス
(2)やや高度の倫理観
 の2つの階層があるのではないか。

 一方、イヤな奴というのは、1と2のどちらか(or両方)に問題がある人をいうのではないか。

 生まれついての素質(ある種の精神疾患のような)は除外していえば、(1)の感情バランスというのは、皆と同じような最大公約数的な喜怒哀楽の機会を得て、それが偏ってなければ良いのかな。適当に楽しいこと、悲しいこと、ムカつくこと、うれしいことがあって、何かの感情に偏ってないことです。楽しいことばっかりだったら良さそうなんですけど、そればっかというのは今度はその楽しさに麻痺してしまって楽しくなくなるんじゃないですかね。感情というのは時計の振り子のような「振幅」でしょう。プラでもマイナスでも満遍なく振れてないと感覚が狂ってしまう。悲しくて辛いことばっかりだったら、逆にそれが当たり前になって、他人が悲しくても別に気にしなくなってしまって、それも問題。

 過保護の子供がヤバいのは、甘やかされるがあまり、辛い感情に不慣れであること、別の言い方をすればストレス耐性が乏しくなる。だから、ちょっとしんどいと続かなくなったり、イヤなことがあると過剰に反応して他人のせいにしてみたりとか。それが「イヤな奴」になっていく。なんせもとのバランスが悪いから、他人からみてるとめちゃくちゃ自己中な奴に見えたりもするのでしょう。そのくらいの苦痛は誰にでもあることだし、しょうがないでしょって普通だったら自分の中で解毒できるんだけど、苦痛度が凄すぎてそうは思えない。なにかとんでもない理不尽なことの犠牲になってるんだみたいに思ってしまって、やたら他罰的になったり、やたら被害者意識を振り回したり、面倒くさい人になってしまう。

 ならば、このレベルにおける「育ちの良さ」とは、喜怒哀楽についてわりと満遍なく、バランスよく経験してきたことが本質になるのかなーという気がします。子供の虐待、いじめなどが問題になるのも、そのときだけの苦痛感情だけではなく、将来的に大きな禍根を残すからでしょう。

 (2)の倫理観は、例えば昔の身分制度の美点でもあるのですが、「あなたは武士の子です」とピシャンと言われて育つと、克己力が強くなるでしょう。「武士たるもの〜」とありえないくらい高い倫理ハードルがあるわけで、ちょっと痛いくらいでぴーぴー泣くことは許されないし、はしたないこと、浅ましいこと、見苦しいことは一切厳禁。常に沈着冷静で、剣術も遣え、学問にも秀で、民百姓には感謝と慈愛の心を持ち、目上には忠節を尽くし、朋には信義を尽くし、一朝ことあるときは、天下の義に殉じて潔く死すべし、とか言われて育つわけですからね。それはどの国のどのエリート層でも同じだと思いますよ。騎士道はあるし、ジェントルマンとしての矜持はあるわ。問題はですね、あまりにもハードルが高くて、ほとんど誰も実践できてないことなんでしょうけどね(笑)。

 庶民階級にだってあります。アメリカだったら、ヤンキー・スピリッツはあるし、フロンティアスピリッツもある。日本にだって、江戸っ子の粋とか心意気なんてのもあるし、全国各地に郷土色豊かな倫理モデルはあります。肥後もっこすやら、土佐っぽ、会津っぽなんでもあります。さらに、出身母校の「○○健児、ここにあり」みたいなのもあるし、「栄光の○○部の一員として」というのもある。はっきりいえば、世界中津々浦々にあると思います。勿論、宗教的な戒律や教えもあるでしょう。

 これは何なんだ?といえば、一種のロールモデルでしょう。平たく言えば「カッコいい!「ああなりたい!」と思えるイメージです。それが自分自身と同一化していく過程で、体内に取り入れられたプライドになったりもする。

 ただし!一見清潔に見える倫理観でも、ちゃんと理解して、ちゃんと実践している人もいれば、そうでない人もいる。そうでない人の方が多いかもしれない。こういうのって、麗しいようで、一歩離れてみたら、ただの下らないエリート意識、特権意識ですからね。それほど厳しく身を律しているからこそ他人から尊敬されるんだけど、尊敬されるという美味しいとこ取りをして、全然厳しく自分を律していない人も多い。

 結局そのあたりは、一人ひとりの中にある美学というか、どのレベルをもってカッコいいと思うかでしょう。例えば、仕事なんかでもやたら目立つ花形的なところばっかやるのがカッコいいと思う人もいるだろうけど、そういうのは逆に薄っぺらくてカッコ悪いのだと美意識もあるでしょう。

 何がそれを決めるのかといえば、やっぱ(1)の円満な感性であり、その上で自分の美意識を進化させていくことが出来るかどうかだと思います。

今、育ちが良い、悪いと思うこと

自分の感性を信じられる

 10年以上前から思ってるんですけど(エッセイでもときどき書いてますが)、日本人の美意識みたいなものは、良くなってると思います。

 なんでそう思うかと言えば、例えば世間的な価値観よりも、自分の価値観をごく自然に上においている人が増えたと思うからです。昭和の昔は「流行歌」という単語がありまして、今は死語でしょう?昔は、マスゲームみたいに、今週はコレだとメディアが号令を出すと、皆で一斉に覚えて、翌朝のクラスで語るというメダカの集団みたいなアホな状況だったんですよね。

 なんによらず流行というのが非常に大きな力をもっていて、知らんだろうが紅茶キノコに始まる(もっと前からか)健康食ブームでも、Aだというと(そういうのに興味のある)皆はだーっと殺到し、いやBだというとダーッと殺到するという。やたらボールに群れたがる下手くそサッカーみたいな状況でした。

 今はそういうのは少ないでしょ?そりゃさ、イソジンがテレビに推奨されたらバーっとドラッグストアに群衆が詰めかけてって光景はあるし、そういう意味での馬鹿さ加減は変わらないのかもしれない。でも、今はサイレントマジョリティというか、少なからぬ人がそういう傾向を白けて見てるんじゃないですかね?コロナによる買い占め騒ぎもありますけど、石油ショックのときはあんなもんじゃなかった記憶です。そいえば、その種の買い占め馬鹿度では、オーストラリアが世界で一番馬鹿だという悲しい結果があるそうです(笑)。いや、しかし、現場におると、誰が買ってるんかね?って気がしましたけど。

 つまり、何がなんでも世間やらマスコミやらの推しに盲従しなくなった。ファッションでも猫も杓子もって感じではない。音楽もそうだし。バブルのときなんか、ルイヴィトンとアルマーニとBMWばっかで馬鹿みたいだったですけど。でもバブルのときに結構成長したかもしれない。あのときに金にあかせて世界の名品を買い漁っていくうちに、とりあえず知識や造詣は社会の共有シェア知識として増えましたよね。イタリア料理を「イタ飯」とか、いかにも育ちの悪そうな成金風な言い方で言ってたところがバブルの下品なところだったのですが、それでも実際に食べて、カッコつけに知識を仕入れていくうちに、その奥の深さにだんだん馴染んでいったのは確かだと思います。

 そうやっていいものに触れていくうちに、人気や話題にわーっと飛びつく人は少なくなったと思う。今となっては未だにワイドショーを見て、そのくらいしか情報源がない古いタイプのおばちゃんくらいでしょ?実勢人数では減ってるだろうし、もうダム開発予定地に取り残された村人のような感じですよね。もっとも、今はネットのニュースまとめサイトやSNSなどが、現代のワイドショーになってる部分もあって、アホの絶対数は変わらないという説もあるでしょう。どう思います?

 ところでモンゴルの歌唱法でホーミーというのがあって、一人で2つの音(基音と倍音)を同時に出すという唱法なんですけど、そんなマニアックなものを真面目にやってる日本人がいて、それも僕が日本にいる頃(1990年初頭)、今から30年近く前なんですけど、そんなにかけ離れて珍しいというわけでもない、普通にメジャー目のサブカル系の雑誌(宝島とか)にあったのを覚えてます。「僕、最近ホーミーやってるんですけど」「あ、ホーミーね」って感じの会話で、注釈すらもなく日常語になってた。

 つまり、誰かに指示されるまでもなく、自分の良い・悪いという感性だけを信じて、どんどん自分で開拓していって楽しんでいる人が結構いて、それが益々増えてきてきて、今ではそっちの方が多いんじゃないですか?ま、この多い少ないって体感感覚は、あなたが社会のどのあたりに棲息するかによって違ってくるでしょうけど。でも、これって凄いことですよ。だって、流行を追う人の心理=他人に理解されるとか称賛されるとかいう報奨欲求が無いってことでしょ?自分がハッピーになるためには、自分と対象物があればよく、他者の理解とか評価とかは要らないわけですよ。つまりそのくらい自分を信じられている。

コンプレックスがない

 これが「育ちの良さ」なんだろうなって思ったのですよね。
 ごく自然に自分の感性や価値観を信じることが出来る、それが出来るくらい、自分の喜怒哀楽の感性がバランス取れているんだと思います。もっとも、バランスが取れてるときは、「バランスが取れているぞ」とは自覚しませんから、分からないでしょうけどね。

 しかし、バランスが取れてない人は、そこが結構ネックになりますよ。ルサンチマンとかコンプレックスになって、そこが凹んだり出っ張ったりしてて、それでギクシャクする。ギクシャクするから、そこがまた弱みになって、弱みがあるから攻撃されないか不安になって、だから世間とか視線とか気にするという関係になるのでしょう。ずっと前に「弱さの罪」って長いのを書いたけど、一点弱みがあると、そこを起点にどんどん拡大しますから。

 この育ちの良さは、何かを考えるにしても、懐の深さにつながっていきます。簡単に一刀両断しない。こうも考えられる、ああも考えられる、難しいよねって立体感をもって把握できる。なぜか?素直に物が見れるからです。

 素直にモノが見れない人というのは、ネットなんかでもよく見かけるけど、激しく何かを議論しているようで、結局この人はこの問題を議論したいのではなく、他人を小馬鹿にしたいだけじゃないか?自分が偉いっていいたいだけじゃないか?って感じることがよくあります。日頃鬱憤が溜まってるから、誰かに対して酷い罵声を投げかけたいとかね。そういうのは、素直にモノが見れてない。そもそも見る気なんかあるの?ってくらいで、大事な問題は、いかに自分がスッとするか、気持ちよくなるかだけです。なんでそこまで溜まってるの?と遡っていくと、やっぱ育ちが悪いからじゃないの?なんかどっかでひっかかってるんじゃないの?と。


 村上龍の「愛と幻想のファシズム」という近未来に日本がファシズム国家になっていく流れを書いた小説があって、例によってこの人らしく毒々しくて面白いのですが、その中に、中核メンバーが仲間を切り捨てる場面があります。「あいつはダメだ、仲間には出来ない」と。なぜか?の理由が、「コンプレックスがあるからだ」と。なんでコンプレックスがあるとダメなのか?ですが、これは他のビジネス本なんかでも言われるところですが、コンプレックスをバネにして発奮して、頑張って、成功するまでは良いのです。だけど、どっかの時点で「もういいや」ってコンプレックスとはさよならしなくてはならない。そうではなく、いつまでたってもコンプレックスに固執してると、大事な判断を間違える。ともすれば感情的になってみたり、意地が出てきたり、やたら敵愾心を燃やしたり。だんだんエラくなって責任がハンパなく重くなってくるにつれて、そういう個人的葛藤は精算してなくてはならない。

 そういう意味では、どんどん成熟してきてるなーと思います。
 コンプレックスだって総量では減ってないですか?昔は、地方出身者の東京コンプレックスって結構きつかったと言われますけど、今どきそんなに思わないでしょ?

 やっぱ育ちは良くなってると思いますよー。ええこっちゃ。

その上で思うこと 

10歳過ぎたら自分で育てろ 

 「育ち」というと、親御さんや、周囲の大人や友達なんかを考えます。それでいいんだけど、僕の意見は、大体10歳過ぎたら(思春期に入ってきて、小生意気になってきたら)、自分を育てるメインの責任者は自分であるということです。

 思春期だからいろいろ傷つくんだけど、お気の毒な事情も多々あるとは思うんだけど、それでもそれをフォローして、円満感性に戻していくのは、他ならぬ自分だと思います。どんな映画を見て、どんな景色を見て、どんな人と付き合って、どんなことをやって、何を感じたか、どう思ったのか、自分が一番コントロールできます。だから自分こそが第一次責任者であると。

 これが、先程述べた、より高次の倫理観を育むロールモデル探しにリンクすると思うのですよ。周囲の友人でも先輩でも大人でも、あるいは小説でも伝記でもマンガでもなんでも、「わ、かっけー」「ああいう人になりたい」って思える人々にぶち当たるでしょうし、それが自分の行動を律する美意識にもなります。別に周囲に実在しなくても、いくらでも情報としてはあるんだし、探すのにそんなに不便はないでしょう。それを探して、美意識を鍛えるのも自分の仕事だと。

 これは思春期に限らず、20代になっても、80代になってもずっと付きまとうと思います。自分を育てるのは、まず自分。育ちが悪いのは、自分のせい、です。そのくらいに思ってたほうがいいですし、僕は自分でもそう思ってます。

育ちの悪い人達にしてやられる構図

 そして冒頭に戻るんですけど、いや〜、地位も財産もありながら、まだ欲しがるか〜?って人がいるんですけど、よっぽど育ちが悪かったんでしょうねえ。お気の毒な気もするけど、ちょっとねえ、迷惑ですよねえ。

 マンガの刃牙シリーズで、刃牙が、ビスケット・オリバに、「世界で一番自由でなければ自由を感じられないなんて、なんて不自由な奴なんだ」って言うシーンがありますが、世界で一番金やら地位やら持ってないと満足できないって、どんだけ貧しいんだ?って思いますね。ものすごーく、心に空いた穴が深く深くクレーターのようになっているのでしょうか。

 だけど、現実に物事をなすにあたっては、育ちの悪い人らのギラギラ、ガツガツパワーは強いのは確かです。そんなこんなで世界は今そうなりつつあって、ここまでいくと、育ちの良いのも問題かもしれないです。いいようにつけこまれてしまうし。

 その意味で、多少下品だろうが、エグかろうが、最小限の自衛のため、あるいは公益のため、多少は悪くなったほうがいいんだとは思います。限定付きだけどね。そういう人間になれとは間違っても言わないけど、技術として、能力としてです。

 交渉事なんかでも、ときとしては激怒するようなこともあります。別に全然腹はたってないんだけど、演技としてやる。強面(こわもて)する。「冗談じゃないですよ、話が違うじゃないですか」と、啖呵の一つも切れるように。これはこれで大事な技術なんで、修める必要があると思います。でないと、どっかの地点で嘗められると、あとが面倒くさいですからね。

 でも、ま、それは技術ですよ、あくまで。テクニックです。

 一般的に言うならば、多くの方々は自分の育ちの良さをもう少し誇ってもいいかと思います。そう思えば思うほど、下らない言動に走ったりはしないだろうし、もっとカッコよくて懐の深い大人になりたいとも思えるでしょうしね。

 それでも、まだ、自分が育ちがいいのか悪いのかわからんのだったら、そこらへんの路地裏で、捨て猫がみゃーみゃー泣いてるのを見て、「うっ」と何事かを思ってしまう、感じてしまうのでしたら、十分育ちはいいと思いますよ。そういう自然な感情がスポイルされずに残ってるからです。そこで「け、この世はしょせん弱肉強食なんだよ」とつぶやくようでは、ちと問題あるかも。

 と同時に、クソ正論というか、言ってることはそうなんだけど、なんかそれしかないみたいに大上段に振りかぶられて、押し付けられると、どことなく嘘くさいなって感じるんだったら、それも育ちの良さだと思います。理屈や正論でごまかされないだけのナチュラルな感性を持っているからです。何によらず、ごまかされたり、騙されたりするのは、自分本来の感性を信じきれてないからだと思います。「世間では皆そう言ってるよ」と言われて動揺するようでは、まだまだ。







文責:田村


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