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Essay 964:人の数だけ性はある〜男女デジタル二元論からアナログ・リアルへ
〜LGBTは全然特別な話ではなく、ビジネス市場としても、人生スキルとしても非常に伸びしろのある領域である話
2020年12月07日
写真は、先週と同じくRoseville(Chase)
先に論文のサマリーのように書いておくと、今週の要旨は「これまで性を規定していた生存的正義と利権秩序が薄らいでいく現在から未来において、最後に残るのは「原子的自我」であり、それは「ありのままのその人」であり、そこでは性要素もまた個性を彩る数ある因子の一つに過ぎない」ということです。
これで終われるんだったら、毎週のエッセイもさぞや簡単なんだけど、なんのこっちゃかサッパリ分からんし、書いていても詰まらんので、以下、長々書きます。お時間のある方はお付き合いを。
アナログ・リアル
先週の量子コンピューターと脱二元論の続編みたいなものですが、脱二元論といえば脱・男女二元論です。今週はこれ。LGBTなどが市民権を得て、女装男子が当たり前の存在になって、同性婚合法化も進んで、、などというレベルをもっともっと越えて、そもそも男女の性差って本当にあるのか?や性別無用論ってレベルまで行ってます。このあたり、頭が固かったり古かったりすると全然ついていけないのですが、どれだけ自分がまだ柔らかいか知りたいというのもあって、ちょっと調べてみました。
あなたは男性ですか、女性ですか?というのは、申込用紙などによく書かされたりしますが、Facebookでは男女2つではなく、56通りの選択肢を用意したというのがニュースになりました。って2014年の話ですけどね。Gender identity: Who are you gonna believe? Me or your lying eyes? *UPDATED*にコンパクトにまとめた表があったので、お借りします。
しかし、ベースとなる発想は知っておくべきだと思います。
そして、なんでそういう発想になっていったのか、これからどうなっていくのか、についても。
FBのみならず、政府の公的なレベルでも、オーストラリアのほか、ドイツ、ネパール、パキスタン、さらの他の諸国も追随するようですが、公式の用紙の性別を書く欄に、男女のほかに第三の選択肢を置いているそうです。
よく、仕事の合間のヒマ潰しと小遣い稼ぎにYouGovのアンケート調査に参加したりするのですが、(性別だけではないが)選択肢のなかに、"Don't Know""Prefer not to say"が必ず入ってます。量子コンピューターのゼロでもイチでもない第三の選択肢と同じ発想ですけど、そんなに白黒チャキチャキ分けられるか、ということですね。
この背景にあるのは、現実は、オンオフ単純なデジタルではなく、もっと複雑なニュアンスがあるんだよというアナログ・リアルを見ていこうという潮流でしょう。白黒テレビからカラーテレビになっていくのと同じで、カレーテレビといっても無理やり着色しているわけではなく、現実世界に色がついているんだから、そのまんま表現するほうがリアルでしょ?ってこと。
決して無視してよい少数派ではない
一方、その種の議論は、極端少数かマニアックな人が世界の辺境でやってるだけであって、実際にはそんなことをする必要なんかないんだ、圧倒的大多数は従来どおりの男女二通りで十分なんだって意見もあるでしょう。だけど、それは間違っている。というか、勿体ないと思いますね。まず、男女二元論に「なんか違う」という違和感や窮屈な感じを抱いている人がそんなに居るのか?って点については、これはハッキリと「そうだ」と言えます。調査方法により。国よりまちまちですが、LGBTの比率は、少なくとも2%、多いものでは14%もあります。日本はやや多く、10%がそうだと言われてます(出典)。コロナ感染者累計なんかよりも数倍〜数十倍というオーダーで多い。世界のコロナ感染累計はまだ7000万にも達してません。75億人口の1%未満です。日本の場合、コロナ感染者累計16万程度、LGBT推定で数百万以上ですから桁が違う。一説によれば「左利きの比率と同じくらい」だそうですから、珍しい存在ではない。
LGBT総合研究所というのがあって、これが博報堂 DYグループ内にあります。ボランティアや啓蒙NPOではなく、かなり資本投下してビジネスとして成り立たせている。当たり前ですよ。人口の数〜10%という物凄い巨大マーケットが眠っているんですからね。十分に認知もケアもサプライもされていない、伸びしろだらけです。この何もかも飽和状態で底なし沼に沈没している日本市場全体を考えたら、これだけ未開拓な市場は珍しいし、この凄味に気が付かないビジネスマンは馬鹿だと言ってもいいくらいです。
もう一つ、俺は別に違和感なんかないぞって思ってる人であっても、その違和感に気づいていないだけってこともあるでしょう。男女二元論に激しく洗脳されてるから、自分でもわからないという。あるいはこうも言えます。硬直的な男女論に縛られすぎて、自分の潜在可能性をも殺してしまうから生涯レベルでは大損ぶっこいているし、また公私ともに他者との付き合い方のフレキシビリティやデリカシーに欠けるから、そこでもまた大損こいている。もっと賢くなるべき、と。特に自分の子供がそうだった場合、あるいは部下や仲間がそうだった場合、最低限の知識やマナーがあるのと無いのとは結果においてかなり変わってくるでしょう。
医学的・科学的には?
よくある考え方は、医学・科学的には歴然くっきりと男・女があるだけで、高度に洗練された現代人の繊細な感性によって男女以上に様々な性があるような気がしているだけだ、というものです。荒々しい自然界から離れて、高度化する文明の中、分厚い観念の中を遊泳しているのが現代人で、いろいろ性差があるのもその現れだと。それは高度に進歩しているのか、あるいはどんどん不自然に退化し、ある意味では病んでいるとか。これまでの固定観念が強いと、そういう発想になりがちだと思うのですが、しかし、必ずしもそうではない。生物学的にも、男女性差というのは、そんなに明確強固なものではないそうです。
BBCのDo we need more than two genders?というかなり詳細な記事のなかに、Dr Imran Mushtaqへの取材部分がありますが、"Absolutely sex is a spectrum. It's not binary in any way and we are slowly coming to understand this. ”と言っています。
性というのは、バイナリーではなくスペクトラムなんだ!ってことですが、バイナリーは白黒デジタルの二元論です。これに対置されるスペクトラムとは、プリズムの虹のようなもので、グラデーションです。男100%と女100%しか居ないわけではなく、一人の人間の中に、「男成分65.8%、女20.2%、不明or可変14%」みたいな感じなのでしょう。性別なんか人によって全部違う、人の数だけ違う。
思ってた以上に非常に複雑なのだというのは、ここ十数年の医学現場でどんどんわかってきているようです。イムラン先生によると、「大体どこで男女性差を決めるのだ?身体的特徴?生殖器?睾丸があるか子宮があるか?でも、両方ある人もいるんだ。あるいは染色体?ホルモン?しかし、典型的な女性であるXX染色体の人が解剖学的に男性器を持っていたりするんだよ」。
だから決め手にならない、決め手はない。
イムラン先生は、子供の泌尿器科の先生で、現場でずっとやってて、10年か20年前、まれにこのような混乱した性器のある子供が生まれた場合(半陰陽とか)、ほとんどろくすっぽ議論もしないまま、「手術で取っちゃいましょうね」とかやっていた。しかし、だんだん本当にそれでいいのか?それによってこの子の将来に取り返しのつかないことをしているのではないか?という疑問が湧き上がってきた、と。
"I don't think we should have gender categories. I don't think that sex should be on birth certificates, I don't think sex should be on driving licences and I don't think sex should be on passports."We are just what we are. We have a name, we have a date of birth, give us a number."
「我々は性別のカテゴリーを持つべきではない。出生証明書に性別を書くべきではないし、運転免許証やパスポートにも性別欄を設けるべきではない。我々は、ただあるがままの我々なのだ、それでいいじゃないか。我々には名前があり、生年月日がある、それだけあれば十分だろう?」
概念構造 Sex/Gender(Social)/ Sexual Orientation(attraction)/Identity/Expression/
性については、いくつかの異なる階層があります。SEX(解剖学的意味)
セックスとは、生物学的、解剖学的な性別をいいます。典型的には男性器、女性器ですが、それすらも確実ではないのは上記のとおり。性の本質は何なのか?という議論にもなっていくのでしょうが、それは染色体なのか、ホルモンなのか、内外性器(精のうや卵巣も含む)の形状や機能なのか、第二次性徴の有無強弱(髭とか骨盤とか喉仏とか)なのか、脳の作りなのか、相互に矛盾しているときに何を決め手にするのか、何が本質で何が属性なのか。生物学的には、カタツムリなど雌雄同体(オスもメスも同じ個体)の生き物もあります。あるいは、クエという魚(高級魚でもある)の場合、オス一匹でハーレムを作るけど、そのオスが死ぬと、メスの群れのなかで一番大きな個体がオスに変わって、ハーレムを引き継ぐそうです。クマノミ(イソギンチャクと同居しているので有名)の場合は、オスがメスに変わったりする。他にも魚の世界では、性転換は珍しいことではないようです(出典)。
ということは、これらの魚の場合、最初から個体の中にオス一式セットとメス一式セットが常備されており、必要に応じてどちらかが起動するということなのでしょう。コンパーチブル車のように、雨が降ってきたらウィーンと屋根が出てくるように。人間の場合も、「人間一式キット」の中に男女それぞれのセットは入っていて、遺伝子やホルモンの仕様書によって、胎児段階や出生後のある時期(思春期の第二次性徴)に、とある部分が出っ張ったり引っ込んだりしてるだけだという話を聞いたことがあります。一式キットが同じという証拠に、男にも不必要な乳首がありますからね。
以上が解剖学的な見地からの性差ですが、なんとなく思ってるほどオスメス/男女は、かけ離れた存在ではないと言えるでしょう。
ジェンダー(社会文化的お約束)
ジェンダーは、社会的な性差で、まあご存知でしょうから別に解説はいいか。その社会や文化で、男らしいとか、女の子はこうするとかいう、いろいろな決め事です。もうこれだけでエッセイ10本くらい書けるくらいの"穀倉地帯"なんですけど、長くなるので割愛します。オリエンテーション(アトラクション)
これに セクシャル・オリエンテーション(性的指向・嗜好)があります。エッチなことを誰とやりたいか?です。これも気分で決めたいとか、どっちもアリとか、いろいろなヴァージョンがあります。これも物理的(身体的)に惹かれる性と、感情的に惹かれる性とでまた違うという。セクシャルオリエンテーションの中に入りつつも、ちょい角度は違うのですが、アセクシャル(asexual)があります。性的嗜好が皆無ないし限りなく薄い人のことで、最近増えてます。草食男子なんて言葉が一昔前に出てきましたけど、もっと徹底していて、およそ性欲というのものがない人です。とはいってもグラデーションですから、そこは人それぞれです。性欲はなくても精神欲(恋愛感情)はある人もいます。愛情もあれば、手をつなぎたいとか、抱きしめたいとか、添い寝が気持ちいいとか、腕枕いいよねとかいうのはある(人もいる)。だけど、セックスにはいかない。
セクシャル・オリエンテーションの兄弟分のようなもので、ロマンティック・オリエンテーション(あるいは affectional orientation)というのもあるそうです。性欲とはまた違う恋愛感情のことです。
ここもスペクトラムですので、その中間領域には様々のパターンがあります。
アセクシャルでもレベルの濃淡があり、100%そういうことに何も感じない人もいれば、なんかの条件が揃うと感じることもあるグレイ(灰色)な場合もあります(Gray-A, gray-asexual, gray-sexual)。Demisexualというのもあり、第一次的にはないけど第二次的にはある。感情的に親愛の情がでてきたら付随的に出てくることもあるという。
Orientation(指向)を惹き出すのが魅力・アトラクションですが、Sexual attraction、Aesthetic attraction(素敵だなーと強く惹かれるんだけど、性的・恋愛的にはならない)、Sensual attraction(セックスはイヤだけど触れていると気持ちいい)、Emotional attraction(その人の人間性などに強く惹かれる、「男心に男が惚れた」んだけど別にゲイではない)、Intellectual attraction(知性や感性がぶっ飛んでいる人に惹かれる)などなど。
ロマンティックも、Aromantic、Biromantic、Heteroromantic、Homoromantic、Panromantic、Polyromantic、Gray-romantic、Demiromanticなどがあるそうです。
大体用語の通例としては、接頭語でかなり決まるようで、A(なし)、B(両方アリ)、ヘテロ(違う)とホモ(同じ)はわかるけど、パンというのは汎神論と同じpan、おそらく「パンデミック」のパンでもあると思うけど、およそこの世の全てをまたがる広いことを意味します。なのでパンロマンティックは要するに、なんでも来い系。ポリは複数のポリ(ギリシャ語)、ポリフォニックシンセのポリ、ポリネシア(”沢山の島々”の意味)で、複数可なんだけど全部OKというわけではない。グレイとデミは既出。参考文献はここ。
Gender Identity
さらに、アイデンティティが来ます。自分は男だと思いたいのか、女だと思っているのか?です。そのどちらでもない、どちらでもある、気分によって違う、決めたくない、、、というバリエーションもあります。これがまたものすごく多岐に分類されるのは上と同じです。
あ、ちなみに、耳慣れないけど、これからの時代このくらいは知っておくべきかな〜と思ったのは、「シス」ジェンダーです。Cisgenderで「生まれたときに割り当てられた性別と自分で認識している性(性自認)が一致している状態や人のこと」です。つまり、一般のノーマルな人のことですけど、「普通」とか「ノーマル」とかいう表現自体がもう微妙にアウトなので(何故そうなのか?までは書かなくても賢いあなたは分かるよね)、これまでノーマルと言われてた領域を「シス」と呼ぶわけです。語源はラテン語で、トランス(trance)の対概念。漢字でいえば「彼岸(Trance)」と「此岸(Cis)」みたいなもん。
Gender Expression
自分のアイデンティティを意味するジェンダーから離れて、自己表現としてどちらが良いかという好みもあります(Gender expression)。つまり自分は男だというアイデンティティなんだけど、だけど女性の衣装やカルチャーの方が好き。男のファッションなんか、ワンパターンで制服みたいでクソつまらん。女のファッションの方が遥かにバラエティに富んでいるし、カラフルだし、カスタマイズや改造度、自由度が高い。つまり自己表現度が高いから良い。その方が自分らしくいれると思う人。あるいはその逆で、女だと思ってるんだけど、でも女ぽいのが嫌いで、服装も言葉遣いも態度も男っぽい方が自分らしいと感じるとか。どんどん新しい用語が出てくるわけですが、最初の頃はgayだけだったのが,"gay or lesbian"になって、“lesbian, gay, or bisexual”になって、“lesbian, gay, bisexual, or transgender”になって、今ではLGBTQIAが最新型なのかな。“lesbian, gay, bisexual, transsexual, queer, intersex, asexual, and ally.”です。
queerというのもよく出てくるんですけど("くぃあ"と発音)、いわゆるアンブレラ・ワード(ひっくるめて総称する言葉、上位概念)で、ちょっと変わった特質を持つ人の総称です。もともとは、「変態」みたいなニュアンスで侮蔑用語としてのニュアンスがあるのですが、それを自分達が進んでプライドを持っていうことで逆にクールになるという。罵倒変じてプライドになるという言い方、よくありますよね。「空手バカ一代」とか「釣りバカ日誌」「釣りキチ」とか、「野球狂」とか、車では「カーキチ」(死語?)とか。あとインターセックスは、上述のイムラン先生のところで紹介したように、医学的な特徴が噛み合ってないケース一般。アセクシュアルは既出。
下の画像は、ジェンダーユニコーンとかいうらしく、検索すると似たような画像がやたら沢山出てきますが、ここでは、The difference between gender, sex and sexualityで使われていたものを示します。
同じような図解としては(大きすぎるので小さく表示します。解説はここです)。
あるいは(これもありすぎるので小さく表示、出典はここ)
順列組み合わせの爆裂状態
これらが順列組み合わせマトリックスになるので、むちゃくちゃな数のバリエーションになるわけですね。生物学的には男なんだけど、自意識としては女であり、女性の服やカルチャーを好み、だから性愛の対象は当然男性になる場合。また、そういう人が好きな男性もいるわけで、ここでめでたくカップルが出来るんだけど、本人たちの意識では男女ヘテロの普通の恋愛なんだけど、はたから見てると男と男のカップルだからゲイに見える。
一方、ゲイというのは、医学的も自意識的にも男性が、性愛の対象として男性を求める場合で、どっちも筋肉ムキムキの男性性(マスキュリンという)を誇示し、惹かれる。ゲイ雑誌はだいたいこの系統が多く、6パックに腹筋が分かれた隆々肉体に褌一丁というグラビア写真とかね。もっとも、老け専、ハゲ専、デブ専もあるからそこはいろいろ奥が深そう。
ここ10年くらい普通化している街の女装子さんとゲイとは、ある意味では対極的な存在でしょう。男にフォーカスするか、女にフォーカスするかで真逆な指向性ですもんね。
ただし、一口に女装といっても、真剣にアイデンティティとして女性である人と、アイデンティティは男性だけど女性的な部分も持ち合わせているので、女装をすることで日頃表に出てこれない自分を表現することで、バランスが充足された感覚、穏やかでしっくりするという人もいる。同じ男自意識でも、女性(ワールド)が好き過ぎて、女性と一体化(自分が女性になる)と大きな満足感を得られる人もいるでしょうし、あまりしっくりはこないんだけど、逆にその違和感が性的に刺激的という、セックスや自慰のバリエーションとして女装を好む人もいる。あるいはそこまで精神的に求めてはいないんだけど、単純に機能的に女性服のほうが合理性があってよい(いちいち両足通して身につけるパンツ系よりも、一気にはけるスカートのほうが面倒くさくないし、トイレも楽だとか)と思う人もいるだろうし、女性服の方がカラフルで趣味に合ってるという人もいるでしょう。
アイデンティティとして女性の人は、女装をしても何ら性的に興奮はしないけど、アイデンティティが男性のままの人が異性装をするとその倒錯性や一体性が乙なものであるらしい。だからゲイと女装子は全然違うし、女装世界の中でも人によって全く違う。そして、男性が女装をして女性になりきって、そしてその性愛の対象として女性を求めると、男のレズビアンになるわけですよね。
これは女性の場合もそっくりそのまま同じことになります。
もう何がなんだか〜って感じだけど、これにアセックスとか、「フルード/fluid」=時と場合によって流動的な人のこと=なんかが入ってくると、さらに組み合わせは飛躍的に増えます。グラデーションの微妙な差異をどこまで精密に捉えるかによって、数十、もしかして数百というオーダーであるのかもしれないです。
意外と普通
そんな世界知らんわって人もいるだろうけど、知ってるって。
僕のようなロックキッズは、女のように髪の毛長いのも、ステージ(日常でも)メイクしたり、ド派手だったり、ヒラヒラだったりするのに見慣れています。ビジュアル系なんて言われるよりもずっと前から、デビッドボウイなどのグラムロックはあるし、男女二元論とかカビ臭い話ではなく、単純に表現としてイケてるかどうかってだけの話です。
また、各性がもっている美的な表現は、むしろ異性がやった方が的確だし、表現しやすい、あるいはとっつきやすいということでいえば、歌舞伎の女形(玉三郎とか)そうですし、宝塚の男装麗人などもそうです。あそこまでいくと、もう純然たるアートなんだけど。
日本の場合、ゲイは稚児やら衆道とかいって、その種の行為はむしろ身につけていて当然の「作法」「たしなみ」と思われていたフシもあります。「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な葉隠にも、ゲイの心得が得々と書かれているのは最近ではよく知られている。しかし、稚児とか若衆文化とか、今でいえばペドですからねー、ヤバいんじゃねーのって気もするけど、それもまた西欧キリスト教の独善的傲慢決めつけ体質がどうのとか議論のあるところでしょう。
一方、男同士の汗臭くも熱い友情、男心に男が惚れたとか、アニキ、俺も連れてってくれよ〜的な世界って、女性からみたら、殆どゲイの世界でしょうねー。実際紙一重というか、そうなってる部分もあるだろうし。女性漫画にBL部門がありますが、もう確固たる一ジャンルですもんね。高村薫の小説なんかも、非常に硬質で文学性の高い作風なんだけど、どうもBL風味というか腐女子属性がありますな。あれは何なんだ?って気もするけど、いわば観賞用のものとしていえば、男同士なのが良いというよりも、決め手は美しいかどうかなんだと思います。ブサメン二人が組んずほぐれつやっててもBLにしてはもらえないような気がするけど、そういうニッチなジャンルってあるのかな。一方、男からみたレズは百合系で、これも鑑賞系で、一人よりも二人の方が二倍美味しいというだけの話でしょう。
鑑賞プラス実用でいえば、AVとか実際面でもそうだといいますが、女装男子が好きだという男性の場合、女性の代替物やサプリとして求めるのではなく、女性のさらに上をいくから良いというのを耳にしたことがあります。まず、見た目はそこらの女性よりも遥かに美しいのが絶対条件で、その上で、男だから男のしてほしいことをよく知ってるので性技的にも上、また、両方とも男だから「女性はこうあってほしいという自分勝手な理想の女性像」を共有できるので、女性と付き合うよりも遥かに女性とつきあってる感じがする、、、以上全ての面で、純女(こういうらしい)よりも、性能面で凌駕するからという理由らしいです。ふーん、そうなんか。
ともあれ、現実世界においては、どんどん事態が進行していて、あとから理論が追いかけるみたいな感じなんでしょうね。その意味でいえば、全然普通の日常だったりもするでしょう。
アセクシャルも意外と普通
アセックスとか、アロマンティックとか、そういう行為に興味がないんだから対人的なオリエンテーションは関係ないだろっていうかもしれないけど、そういうクールな佇まいがキュンとくるとか、清潔感があふれてて好ましいって思う人だっているわけですよ。そもそも、「プラトニック」賛美なんか、アセックスの兄弟みたいなものでしょう。また単にセックスしてないだけで「清らかな」関係とか普通に言ってるのは何なんのだ?セクシャルが無いほうが良いという需要も結構あると思いますよね。だから、アセックスについても、珍しいようで、実は万人に了解可能だと思います。物理的には性行為可能でも精神的に到底その気になれないというのは、例えば近親相姦などはそうですね。タブー感が強いし、その「近親」の範囲に従兄弟が入るかどうかは文化によりますし、血族関係がなくても同姓同本だったらダメだとかあります。これは社会規範によりセクシャル感覚の支配でもあるし、規範以前に、そうではない関係性を先に築いてしまうと、それを変えてしまうのに抵抗があります(近親の場合がそう)。
セックスレス夫婦だってアセクシャルだしね。
元来性行為というのはかなりケッタイなものです。普通に考えたら「よくそんなことが出来るな」レベルの凄いことをするわけですよ。その異常性、非日常性がいいスパイスやらドラッグになって興奮するように出来ているんだけど、時には鬱陶しく感じるようになるだろうし、いやもう絶対ムリって拒絶反応すら起きる。
そういえば、下らない話をしていいすか?長いのにすいませんね。思い出し笑いをしてしまったんですけど、その昔、まだ血気盛んな若い頃、そしてネットもなにも無くてエッチ系資料が絶対的に窮乏していた頃、アホな友人が大枚はたいて女風呂の盗撮ビデオを通販でゲットしたのですよね。大概そういうのは騙しが多いんだけど、これは良心的(笑)にそのまんまで。しかし、あまりにリアルにそのまんま過ぎて、全然萌えなかったそうです。というのは、リアルな女風呂では、そんな誰も彼もがナイスバディなわけはなく、それどころか、ほぼ全員といっていいくらい、おばちゃんや老婆などの弛んだ、あるいは萎んだ映像なわけで、それはもはや相撲大会の更衣室やら、どっかの療養所や収容所のドキュメントみたいで、およそその気になれるようなものではないと。「なるほど、これがリアルな世界なのか」と我々は大いに勉強になったものですが、血気盛んな、まるで猿のような青年男子においてさえ、女の裸だったら誰も良いわけではない。てか興奮を惹起せしめるのは(大げさに言えば)百人に一人もいないという厳然たる事実。世間に出回るエロ系情報は、実は厳選されたエリート裸体であって、実際には違う。そのくらいのもんだと。血気盛んだから女だったら誰でもいいって思いがちだけど、そうではない。だからやりたい盛りマックスな猿群体においてすら、ほとんどの場合はアセックスであるとも言えるのですよ。
そういう意味では、僕らの人生時間の99%以上はアセクシャルなのかもしれないです。ただ百のうち1つくらい門が開く人と、一つも開かない人がいるだけのことであって、実はそんなにいうほど巨大な差異でもないんじゃないの?
誰がどこまで認知しているか〜先進性
そのあたりの先進的な話になると、やっぱりマンガが突出してますね。どんな領域でも大体そう。それはマンガというのが、最も制作費が安く、人数も要らず(一人でもできる)、表現の自由度が高いからでしょう。メジャー誌に掲載されるとなると、いろいろポリコレとか規制がかかるでしょうけど、それでも早い。さらに、自由度の高い同人誌や、個人の趣味作品になってくると、激しく玉石混淆でありながらも、物凄いトンガッてるのもあります。「デビルズライン」というマンガがありますが(2013年連載開始で、とっくに完結済、アニメ化されている)、吸血鬼(病)を題材にした近未来ハードSFなんだけど、その本質は、さまざまな男女の恋愛群像です。バブルの頃のトレンディドラマになりそうなくらいの。その中に、ゲイであり且つアセックスの人の恋愛が出てくるのですよね。紛争地帯の国境なき医師団の現場で。その透明感のある張り詰めた悲しさのようなものは十分に表現されていて、軽い気持ちで描かれたものではないのが分かります。メディアや学術書を読むよりも、このマンガを読んだ方が一発で、ああそういうことかと理解できた気がします。
もともとこの作品は、人と吸血病に罹患した人との純愛物語で、本当の人間関係に境界はあるのか?という高尚なテーマがベースにあります。興奮したり、血をみたりすると凶暴化して悪魔になってしまうので、そのギリギリのライン(デビルズライン)を越えないように、苦心して工夫をめぐらし、試行錯誤をし、それでも二人で愛し合って暮らしていこう、どんな障害でも乗り越えていこうという感動のお話です。人と鬼と間の純愛からすれば、人と人との間の同性愛やアセックスなど物の数でもないわとばかりの扱いです。
この地球世界の、あるいはそこらへんの横丁の、あるいは漫画世界のどんどん進んでいる先進性に比べて、日本の、特に政財界のオヤジ連中の意識低い系というか、後進性というのは、もう旧石器時代の人達を見てる感じがします。
例えば、女性の天皇を認めるべきかとか、性別そのものがこんなに流動的になってるなら、もはや論議自体が成り立たないでしょ。まあ、社会的シキタリとしてのジェンダーの話だから、多少は次元が違うんだけど、それにしても、次期天皇がトランスジェンダーだったらどうすんの?という問題意識はカケラもないだろうな。その程度の世界観なんだろう。男女別姓とか、未だに反対してたりするもんね。
ということで、次に、なんでこういう世の中になったのか、そして、それを踏まえてどうなっていけばいいのか、そういうのを理解出来る人とで出来ない人とで何が違うのか。などを書いてきます。
原因論〜豊かでヒマだからリアルになる、原子分解する
直感的な推測なんだけど、性差についてここまでひろがってきたのは何故か?といえば、「ヒマだから」「豊かになったから」だと思います。これは悪い意味で言ってるわけではないです。むしろ良い意味で。原始状態における性差
話を極端にしたほうが分かりやすい。大昔の原始時代で、毎日食うや食わず、というよりもいつ自分が野獣に食われるかわからんという日々においては、「ヒマ」ではないです。もう全力振り絞ってあれこれやって、それでカツカツ生きていけるかどうか。そんな状況においては、性差は殆ど生殖においてだけ意味があったのでしょう。セックスをするためのペア。ちょうどダンスを踊るときにペアが必要だという程度の感じでしょう。大昔になにかで読んだ記憶があるのですが、ジャングルの奥地、昔ながらの生活様式でやってる殆ど全裸で暮らしている部族のところでは、セックスも、農作業などのさなかに、したいなーと思ったら、そのへんの木陰で1-2分くらいで済ませてしまうとか。もう仕事中のタバコ休憩や連れションみたいな感じで、そんなもんらしいです。生まれてからずっとほぼ全裸と同じような状況だから、今更何を見ても感じないだろうし、本当の自然状態における性とは、案外そんな感じなのかもしれないです。
それ以上に、部族内部で男女の役割とか文化が出てくるのは、ある程度安定的に食えるようになってからでしょう。棍棒とか石器でガシガシやってた頃は、女性だろうが身体能力や腕力に恵まれた人は戦闘部門に廻されただろうし、男性でもそこが苦手だったら、後方部門(食糧とか)に廻ったでしょう。「女らしく〜」なんて言ってる余裕はないでしょう。これは、貧困な寒村地帯だったら同じようなもので、時代劇の農村のお百姓さんの場合、女性だって野良仕事をしてたと言うし(出産翌日からもう野良に立ってたとか)、服装を見てても男女でそんなに違いがあるような感じもしない。礼装や祭礼になると着飾るでしょうけど、普段はそんなことやってる余裕はない。作業着に男女もないって感じですよね。
つまり余裕がない時は男女差とかいっても、性差そのものがそれほど大きな意味もなかったし、あんまり問題にもならなかったように思います。男女ジェンダーを際立ったもののとして扱うのは、文化が進んでからのことでしょう。特に貴族階級とかヒマな人の方がその差は激しい。平安貴族で女性が十二単とかやってる頃も、一般人は粗末な着物を巻きつけてるだけみたいな感じだったのでしょう。下の写真はネットで拾ってきた江戸時代の日本人の庶民の写真ですが、それほど際立った男女の服装差があるようにも思えません。こんな感じだったんじゃないか。
快楽の性、秩序の性
男女の差というのは、そこにこだわると色々と万華鏡みたいに局面が変化して面白いぞ、ってことで、基本、ある程度食うに困らない程度に豊かで暇でないと発展しないんじゃないかしらん。娯楽としての性で、SEXが純然たる生殖行為から、その過程において生じる快楽にフォーカスが当っていく。生殖から快楽にシフトしはじめた時点で、それはもう「自然」ではなく、不自然で、アーティフィシャル(人工的)な営みなのだと思う。およそ自然から外れるものを変態だと言うなら、文明社会がある程度発展した以降の僕らは全員変態だと言えます。避妊なんか自然的には言語道断ですよね。それは別に悪いことではなく、僕らが「人間性」と高らかに謳い上げる事柄は、えてして反(非)自然だったりもします。人間は、自然の一環としてのみ存在するのか、それとも自然に逆らって変なことをするのが人間性の本質なのか、そのあたりは興味の尽きない話になるのですけど、話が広がりすぎるので、このくらいで。
もう一つ、社会秩序としての性があります。社会全体にルールが出来て、この立場にある人間はこう動くのが正しいという秩序が出来る。バッターはバットでボールを打ち、外野手はこの辺に立ってて飛んできた玉を補給し、とかいうことで、武士やクシャトリアの家に生まれたらこういう倫理とポジショニングがあり、王族はこうして、庶民はこうするという決め事。その中に男はこうして、女はこうするという決まりがある。どの社会にもそれはある。それが社会的な意味でのジェンダーです。
だけど、そもそも何のために秩序があるのか?といえば、第一義的には食うためです。集団で力を合わせて運営し、分業作業体制を作ったほうが全体の生存確率が上がるという生存的正義がベースにあります。その上で、第二に、優越的地位にある人々の利権保全という目的があります。弱肉強食はこの世の掟とはいえ、年がら年中「誰の挑戦でも受ける」とかやってると疲れるし、負けたら終わりだし、気が気がないので、そういうことが起きないように、自分らの利権を固定してしまおうという流れがどの社会にもあります。そのための秩序、文化、倫理という側面は非常に強いです。
秩序リアリティの希薄化
では、なぜ直近20-30年でここまで性が流動化してきたか?といえば、一つには技術革新と生産性の向上で、社会が社会としてまとまっていなければ食えないわけではなくなってきたからでしょう。何がなんでも集団を形成しないといけないわけではなくなってきた。つまり生存的正義がリアリティを失ってきたことです。実際、都市生活においては、コミュニティとか、集団で生きるために何かを協同でやっているというリアリティは無い。マンションでも隣人が誰かも分からないという生活環境になって久しい。生き残るために、そのあたりに住んでる連中が一つのことをやるというのは、大地震とか非常事態のときくらいで、平常時においては殆どない。ましてや、世界的に流通が容易になり、ネットも発達したら、一人ぼっちで家から殆ど出ないで暮らしていくことだって可能ですから。生存的正義がだんだん薄らいでいくと、残るのは利権的な秩序ですけど、生存正義が薄れてくると秩序の利権性とかご都合主義的なことばかりが段々浮き彫りになっていきます。日本でも、なにがなんでも男尊女卑で家父長制絶対というのはすぐに廃れてしまい、70年代の頃から校内暴力、その後の警官の不祥事などなどで、教師や警官などそれまで地域の絶対的権力者の地位がどんどん下がってきて、今では、政治家も、官僚も、メディアも、その他エリート的な立場にある人も、かつてほど尊敬されなくなっている。それじゃ困るから強権を発動しようとするけど、取ってつけたような感じだから益々いかがわしさが見えてくるという感じですね。
他にもいろいろな要素はあると思いますよ。例えば、男女の基本スタイルを規定しているのは西欧キリスト教文化ですけど(一夫一婦制や、同性愛など性の流動性を厳しく否定)、それも人類史的な意味での西欧先進性の退潮と、世界的な下剋上時代を迎えて終焉を迎えており、それらが一つの遠因になってもいるでしょう。
はたまた、先進国は少子化で悩んでいるけど、全体でいえば人口増えすぎ問題が深刻で、もうこれ以上人を作る必要はないので、自然の命じるところによって、生殖行為にブレーキがかかっているという指摘もあります(世界的に精子が薄くなってるとか)。冒頭の解剖学的なSEXでも書きましたが、同じ個体がオスにもメスにもなるのは魚の世界ではわりとよく見られる現象らしいのですが、そういう自然本能によるプログラミングというのも、あるのかもしれません。
浮かび上がってくるもの
元来、自然状態における性差がそれほど巨大なものではなく、且つ、その性差を誇張し固定化してきた文化社会秩序そのもののリアリティが希薄化していったら、そして原始時代ほど生きるのに必死にならなくても良かったら、どうなるか?です。最終的には、一人ひとりが全部バラバラな原子分解すると思います。
全員が、おひとりさまになる世界です。
ま、本当はそれが原点なんですけどね。
昔からの仏教の教えのように、独生独死独去独来ですから。
豊かになってヒマになると、いろいろなものが発達しますが、とりわけ「観念」が発達するでしょう。あれこれ考えるようになるわけですね。超多忙なときは「私って誰?」とか「生きるって何よ?」とか考えてるヒマがないですけど、わりとヒマになってくると、そういうことを考えるようになる。
それに加えて、個人のナチュラルな感覚を洗脳的に規定する強烈な文化圧力が薄らいでくると、ありのままの姿が見えやすくなる。その昔のように、「赤は女の子の色(女子のランドセルの赤絶対)」みたいな、無茶苦茶な決めつけが薄らいでくれば、男の子でも真っ赤モノを楽しめるようになる。真紅のバイクとかクルマとか、ギターとかカッコいいもんね。同じように、いろいろな発想の制約が薄らぐほどに、人は自由になれる。
パソコンやデジカメの歴史のようなもので、その昔は画素数も少なく、モザイクに毛が生えただけみたいな画像だったのが、だんだん画素数が増えてきてリアルになっていく。ゲームでも、初期のドラクエなんかは、ほんとキャラデザも拡大したらモザイク記号ですからね。マリオもそう。それが今では、実写映画と見紛うばかりの高精度です。
それと同じように、男女なんか、昔はモザイク的な記号でしかなかったのが、どんどん画素数があがってクリアに判別できるようになった。クリアにみえるようになるほどに、男女単純二元論がどうしようもなく使い物にならないというのも分かるようになった。白黒バイナリーで、青も紫も濃緑も全部クロ、ピンクも水色も黄色も全部シロという二元論なんかで収まるようなものではなくなってきたのでしょう。
人間の場合は、魚と違って、あとで解剖学的に自然に雌雄が変化することはないですけど、性に関するアイデンティティについては、究極的にはその人だけの個性に帰着するのですから、人の数だけ性差があるのは、ある意味では当然でしょう。そして、それが流動的であるのも、人間に気分というものがある以上、それもまた当然だと思う。気力体力充実してて、なんでもパワーで撃破じゃあ!ってイケイケ気分のときもあれば、もう疲れた、やすらぎたい、癒やされたいって気分のときもあるでしょう。性も、アイデンティティも、言ってみれば同じ「観念」という脳内概念ですから、融合したり遊離したりするのも当然だと思う。
他者に対する好意感情は、「その人だから」というその人独自の要素の起因するのが最も素直で、良いものだと思います。「女だから付き合いたい」というのは、いわゆる「女の子」という抽象概念を追ってるだけで、目の前の生身の人間を見てるわけではないので失礼でしょ?同じように、裕福だから、イケメンだからとかいうのも、目の前の人の自前の価値ではない属性価値だけを見てるわけで、これも邪道でしょ?ならば、その人の性別がどうであるかも、偏見の一種と言えなくもないのですよ。
大昔の話ですが、付き合ってた女の子に、「私がもし男だったら、それでも好き?態度が変わる?」って聞かれたことがあって、「はえ?」と思ったことがあります。見てくれも人格も何もかもそのまんまで、ただ性別だけが違う(生殖器の形状が違う)場合、それでも好きか?と。寝物語の戯言なんで、なんでそんなこと聞かれたのかわからんけど(BL趣味的な実践みたいなものだったのか)、でも、そんときに、別に変わらないような気がする、自分(あなたは)は自分で変わらんのだろ?だったらこっちも変わらんと思うぞ。ただ、一応形の上ではゲイになってしまうのか、そうか、うーん、でも他の男も好きになるとかそういうことはおよそ無いような気もするし、何なんだろう?って思った。でもわかったのは、相手の性別と好きだという感情はあんまりリンクしてないかもしれんなーということ。導入部の撒き餌みたいなものとして、性欲やら恋愛交際欲求やら性別起点のものが多いけど、一定を越えてしまうと、あんまり関係ないかもしれんな。わりと早い時期にそう思えたのは、今となっては良かったと思いますね。頭が柔らかくなったし。
飽くなき快楽追求
そして快楽については、これはもう片時も休みなく進化し続けるわけで(笑)、もっとこうすると気持ちいいとか、新しいツボを発見とか、いくらでも発展しますよね。生まれてから死ぬまで、ワンパターンなことばっかやってても芸がないし飽きるし、たまには趣向を変えてとか、攻守所を変えてとか、変化を持たせたほうが面白いし、気持ちいい。ゴリゴリのハードな音を鳴らすバンドでも、ときどき美しいバラード曲をやったりするように。他方、何によって興奮するかといえば、大脳的には究極的には錯覚というか、なにかの刺激と快楽中枢を結ぶ回路が形成されればいいわけです。くすぐったいのと、性的に興奮するのとは、本当に紙一重ですし。フェティシズムもそうですが、街でみかけて強烈に惹かれた人が、たまたま赤いコートを着ていたとか、白い帽子をかぶってたとかいうだけで、以後、赤いコートを着てたり、白い帽子をかぶってたりすると強く惹かれるようになるとか。連想的な快楽記憶でしょ。こんなの人工的になんぼでも増やせるし、探究心が旺盛な人ほど引き出しも増える。
まだ「血気盛んな」若い衆におかれてはですね、相手さんの細やかなオリエンテーションの微差にいかに細やかに対応できるか?どうやってベストフィットに口説くか?、どうもっていくかとか、そのあたりは非常に修行の幅は広がってきていると思いますねー。ご健闘をお祈りします(笑)。
了解可能な人と、不可能な人
以上見てきたように、アイデンティティにせよ、快楽にせよ、それらは全て個体のものです。個人としてのあれこれである。人の個性が千差万別であるならば、性に対する付き合い方もも千差万別であって当然でしょう。と同時に、同じ人間のやることなんで、ある人にとっていいと思うことは、他人にとっても了解可能なものも多いです。友達から映画や小説作品を教えてもらうように、それを知ることで自分も好きになるかもしれないし、好きにならないけど、好きになる人の気持ちも分からないではないってくらいはなれるかもしれない。まあ、全然分からんって場合も普通にありますけど。
一方、そういうのが全くダメだという、保守的な人もいます。ここで「保守」という用語を使って良いのかどうか疑問ですけど、あくまでも男は男らしく、女は女らしくって地点から離れにくい人。これもまあ分からんではないのですけど、興味があるのはなんでそうなるんか?ですね。あるいは、そういう決め事から自由である人は、なぜ自由でありうるのか。
僕の仮説では、外部秩序と内部秩序の融合性・一体化の問題だと思います。世間(外界)がこうだと言う一連の秩序やルール、世界観がありますが、その環境に生まれて、教わって、洗脳されてきてるわけですが、そうであっても尚も自分内部の独自の世界観や感性が強い人がいるのでしょう。そういう人は、外部秩序と自分独自の感性とがそれほど融合・一体化してないです。世間がそうだと言っても、あまり影響されない。
どういう人がそうなるか?ですが、一つには経験。外部秩序が自分にとって非常に不利益で不愉快な場合です。押し付けられる世界通りにやってると、とりあえず自分が損をするし、嫌な思いをする場合が多い。差別とかね。そういう場合は、比較的簡単に外と内を峻別できるでしょう。でも、外部秩序によっても特に損するわけでもないのに、自然と内部感性が強い人の場合、それはもう生まれつきの性向なんでしょうか。あるいはアート系、クリエイト系の人に多いけど、感性が特殊とか、感性が鋭いので、世間のお仕着せ感性秩序ではかったるくて、ダサくてやってらんないのかもしれないです。
あと、自信の問題もあるのかな。外部秩序や感性がどう言おうが、自分の感覚の方が合ってると思える時点で、まず自分の感覚に自信がありますよね。次に、それを言うこと、行動することで、あれこれ不便な思いをするんだろうけど、そんなもん乗り越えられるという自信もあるのでしょう。
ただ、世間一般の趨勢になると、自信のある人は群れませんし、そんなに他人に強制したりもしません。せいぜい降りかかる火の粉を払う程度で。だから、世間の圧力として形成されるのは、総じて自信のない人たちの総力になりがちでしょうね。世の中つまんないのはそういう部分もあるのでしょう。
これからの話
さて今回書いてて思ったのは、もうちょい考えを進めてもいいなってことです。もともと、この種のこだわりは少ないタチだし、他人がどういう形で気持ちよくなるかは、優れて個々人の問題なので干渉すべきでもないし、興味もないです。ましてやセクシャルな事柄など、自分が当事者になるのでなければ、それを垣間見る機会すらないのですから、関係ないっちゃこれくらい関係ない世界もないので。ただ、それ以上に、イムラン先生のいうように、もう全面的に性別を取っ払ってしまってもいいのかもねって気もしますね。僕がやってる一括パックの申込用紙も、必須項目はメアドだけです。要は空港でお出迎えするときに会えればそれでいいので、それまで通信が取れることくらいです。性別は必須にしてません。ただ、空港で初対面で会うときに、ある程度目安がつくと待っていてもやりやすいので、スーツケースの色とか、外観とか、その一環として性別(どっちに見えるか)などを聞くことはありますが、その程度です。必要ないっちゃないですからね。
そして、実際の社会を見ていても、男女分業体制にしなければならない必然性のある領域って、実はほとんどないんじゃないかなって思いますから。いわゆる「女性らしさ」とか言われる長所、それは細かいところに気がつくとか、清潔指向であるとか、外観的調和や美的センスやら、優しい社交性やらいうのは、男性だって当然備えておくべきことでしょう。それがプロと呼ばれる職域であればあるほどそうですから。だから、あまり大差ないんじゃないのか?という気もしますね。ま、実際、自然とそうなっていくとは思います。昔の女子大も一般大学にどんどん変わってますし、いろいろな部分で。
エッセイでも昔から書いてますが、男性の中の女性性を「アニマ」と言って、筒井康隆の小説で知ったのですが、自分の中に女がいると考えたほうが、自分の感性や能力は二倍くらい上がるのですよね。男モードだけだと、「弱いやつは死にゃあいいんだ」と北斗の拳のモブキャラみたいな世界にいっちゃって、それがマッチョ正義だったりするんだけど、「強ければエライなんていってるのはガキと猿だけでしょ?ばっかじゃないの?」っていう強烈な対抗原理を自分の中に持っていたほうがいいですよ。
あとは、一般的な礼節の問題として、多種多様な性的なありかたについて、理解のある無関心というか、よくわかっているけど、特にそこが問題になる案件でない限り、フラットに付き合うことがあるでしょう。努力してそうするというよりも、努力も何も自然とそうなるように。
ということで、冒頭に戻りますが、
これまで性を規定していた生存的正義と利権秩序が薄らいでいく現在から未来において、最後に残るのは「原子的自我」であり、それは「ありのままのその人」であり、そこでは性要素もまた個性を彩る数ある因子の一つに過ぎない
という話でした。
文責:田村
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