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Essay 963:悩んでいるだけで考えてない
 〜曖昧なままスキップさせる量子「ぽい」思考法

〜実際の人生の現場で二者択一構造になることは滅多にないし、矛盾するからバランスが取れる。量子コンピュータからヒントを得て


2020年11月30日
写真は、Rosevilleのリザーブ。こんなところで本とか読んでたら気持ちよさそうですよね。


 ちょっと前に、善悪二元論で世の中見てるとヤバいかもよって話を書きました。その延長線上になるのかどうか、今回は、二元論を超えていくトレンドを取り上げてみます。といっても、そんなに詳しく知ってるわけではなく、「らしいよ」くらいのレベルのなんですけど、考え方を柔らかくするには十分かと。

 脱二元論ともいうべきものですが、これまで二元論当たり前だと思ってたことが、そう考えないほうがなにかと便利なんじゃないか?ってことがでてきました。

 ぱっと思いつくのは、男女二元論はもう古いという世界的な潮流ですが、今週は量子コンピュータについて書いてみたいと思います。

量子コンピュータ的な発想

何がそんなに凄いのか

 量子コンピューターですけど、ご安心ください、そんな難しい話をしませんから。てか、僕が出来ませんから。アホの僕でも分かる範囲の話です。

 量子コンピューターの実用化が近づいているといいます。1年前の日本オフで、理系の専門の方と雑談してたときにこの話が出たのですが、やはり途方もないシロモノだそうです。そのとき出た例が、江戸時代の東海道をえっちらおっちら参勤交代してるのが今のスーパーコンピューターレベルだとしたら、そこを一気に新幹線でぶわっといってしまうのが量子コンピューターであって、もうこれで世界の全てが変わってしまうくらいインパクトがあると。

 でも、今のスーパーコンピューターでも、1秒間に億とか兆とか京とか物凄い速さで計算できるはずなんですけど、それじゃダメなのか、それよりもさらに何万倍という速さの計算が必要なのか?何に使うのか?です。

 でも本気印でやってる自然観測やデーターシュミレーションなどでは、もうむちゃくちゃ膨大な数の変数を前提にして演算をやってるから、今のスーパーコンピュターですら全然足りないそうです。新薬の開発にせよ、交通渋滞の解消にせよ、災害時の避難ルートにせよ、やりたい計算があるらしいんだけど、今の能力だったら計算が終わるまで数万年かかってしまうから意味ないと。いくつものスパコンを並べて並行処理すればいいんだろうけど、そんなにスパコンが無い。千台とかそのレベルで必要らしいんだけど、そんなにない。それに、スーパーコンピュターというのは恐ろしく電気を消費するらしく、スパコン一台に発電所まるまる一基分の電力がいるらしいです。だから電力的にも無理。

なぜ量子だと早いのか

 それをやってしまうのが量子コンピューターだそうですが、次の疑問は、なんでそんなことが出来るの?「酵素の力で強力洗浄」とかいう洗剤がありましたけど、「量子の力でGO!」みたいな話なわけ?なんで量子だとそんなに凄いの?量子がそれだけパワフルだということ?全然意味分かんないんですけどー。

 で、ちらっと調べた限りでは(”ちら”が限界です)、量子がパワフルとかいうことではなく、量子力学の発想を援用した計算の仕方がユニークらしいのです。そして、それは「あ、それなら、日常でも応用きくかも」と思ったので、今回書いている次第です。

 量子力学では、色即是空のような、禅問答のような話があって、「あるけど、ない」と。とある物体は(そこに)存在する可能性と存在しない可能性が半々であって、どちらもありうる、なにかによって量子論的確定があるとかいうらしいんですけど(「量子の重ね合わせ状態」とか言うそうな)、ポイントは「どっちもある」という点です。

 解説ページに例が載ってて、なるほどと思ったのは、コインを空中に放り投げてバシッと手で抑えて「表か裏か」で賭け事のように決めたりしますが、コインが空中でくるくる廻ってる状態においては、コインは表なのか裏なのかわかりませんよね。どちらもありうる。これが量子的な状態。バシッと手で受けた段階で決まり、これが量子的確定。

 これを日常的な場面に引き直すと、結構馴染みの深い状況でもあります。例えば、誰かに「YESかNOか?」と二者択一を突きつけられたときの困惑です。実際そんなクリアにYESだのNOだの言えるもんじゃないですよ。YESの気分もありーの、だけどNOの気分もありーので、だから悩んでるんじゃないか、そんな二者択でポンポン聞かれても答えられるか馬鹿野郎という気分です。だから、日常的には「どっちもある」というケースは凄い多いんですよね。

 量子コンピューターは「これ」を使うらしいんです。これまでのコンピュターーはバイナリーのゼロか1かの二元論、二者択一で全部表現しようとする。明快でいいじゃないかって思いそうなんだけど、実はこれ、ものすごく生産性が低いというか、まどろっこしいというか、解説を読んで僕が受けたイメージだからいい加減なのですが、そんなに良くないそうです。とにかく、計算するのにものすごく時間がかかってしまう。

 ところが量子コンピューターは、ゼロと1の他にもう一つ「どちらでもありうる」という第三の選択肢をカマすらしいです。基本はゼロと1だけだから二元論が三元論になるわけではないんだろうけど、「どっちもアリ」という3つめの回答を用意したうえで、現在の計算である古典計算を超える「量子計算」をする。それを実際のマシンとしてのコンピューターで実現するためには、絶対零度くらい冷やした超低温・超伝導などで量子的な物理状態を出現させ、これを量子ビットとして利用するらしいです。。。。って、なんか具体的に全然絵が浮かばないんですけど(汗)、まあ、そういうことらしいです。

 それでどうして計算速度が万倍レベルにあがるのか?といえば、非常に省エネ的な計算方法が出来るからなのでしょう。

 ここは正確に理解できてないし、僕の勝手なイメージなんですけど、「どちらもあり」を認めないと、強引にどちらか一つに決め打ちしてバーっと計算を続けていくのでしょう。そして、またもし反対だった場合として、またバーっと最後まで計算を続けるのでしょう。その過程でまたどちらもありうる場合が出てくると、場合分けしてバーっとやって、また出来てきたら場合分けして、、と、多分、数万という単位で場合分けをするから、計算総量が膨大になるんじゃないかな。

 量子コンピューターの場合は、どっちもアリの場合がでてきたら、どちらもアリのまま計算してしまう。「どっちもアリのまま計算する」というのがどういう計算なのかよくわからないのですが、今までのコンピューターが4ビットの場合、0000、0001、0010、0011、、、1111まで16通りのパターン(0〜15までの解)があり、それをいちいち律儀に計算していたのですが、4量子ビットの場合は、4桁それぞれに1でもあり0でもあるという状態のまま一回の計算で済ませてしまうらしいです。

 え、何?その計算方法?意味分かんな〜い、、、のだけど、ここで大事なのは「一回で済む」ということです。だから早い。

 しかし、量子論的に特定するのは確率論ですから、あるのか無いのかそれを決め打ちするのは確率であり、量子コンピューターの場合、計算するたびにここが違ってしまうそうです。それでは計算の意味がないではないか?と思うのだけど、因数分解などではそれで良いそうです。なぜそれで良いのかは、あんまり書いてなかったのでわかりません。因数分解計算は、現在のコンピューターの計算方法では恐ろしく時間がかかるそうで、それを利用して暗号化し、解析不可能なブロックチェーンとか作られるそうですが、その計算が早くなる。この計算を量子回路方式というらしいです。

 うーん、ということは、量子コンピューターの場合、判断がつきにくい曖昧なところは、曖昧なまま(適当に決め打ちして)計算しちゃって、次に計算を進めて、とりあえず手早く全体計算を済ませてしまうってことですよね。そんないい加減なやり方できちんと計算が出来ているのか?ってところが凄く疑問なんだけど、それで良い(場合がある)と。

 うーん、なんですかね、一旦最後まで計算させてから、また遡って結論に影響を与えるような場合分けがあるかどうかを見ていって、それだけ再計算すればいいってことなんでしょうかね。あるいは計算の全体、結論の意味づけなどの関係で、カッコで括った部分はアリでもナシでも結果にそう違いはないからどうでもいいやってこともあるんじゃないかことなんですかね。因数分解では確率的に結果が違っても構わないというのは、もしかしたら検算が簡単なので、長いことかかって正解を出されるよりは、一瞬にポンポン結論をだしてくれて、それを片端から検算して合ってるやつだけ取り出す方が早いのかもしれないです。そのあたりはよく分かりません。

 そのあたりの理屈は謎なんですけど、論理的に道が分かれたらその全てについていちいち馬鹿正直に計算をやりつづける今のゼロ1二進法のやり方よりも、よっぽど省力的なのは確かであり、それを速度換算でいえば数万倍とかもっと速く(9000兆倍速いという記事もあった)出来るということなのでしょう。

 あと、「量子アニーリング」(量子焼きなまし法)という、「何それ?」以外に感想が出てこない方式もあるそうで、組み合わせの最適化の計算をするには都合が良いらしいです。例えば僕がやってたデリバリーなどで、あらゆる条件を前提にして、10件あるピックアップと配送先で、どこをどの順番で廻っていくのが最も効率的か?をか決める計算です。古典コンピューターでは、計算のやり方を人手によってアルゴリズムを作らないといけないのですが、量子ビットを使うとアルゴリズムはいらず、自然の性質として同じような計算になっていくらしいです。これも全然意味分かんないんですけど、多分組み合わせ最適化のためのアルゴリズムのキモになる部分の動きと、量子の性質が(偶然なんだろうけど)かなり一致するのでそれを応用しているのでしょうか、いずれにせよ、いちいち最適化のアルゴリズムを人がシコシコ作らないで済むというのは非常にありがたいです。ただパラメーター(前提条件値)を設定すれば、あとは勝手にやってくれるんだから。これは確かに現場系のIoTなどには便利ですよね。だけど、量子だとなんでそうなるのかは、調べてもわかりませんでした(笑)。

 というわけで、肝心なところになると素人向けにはこれだ!という解説がなく(多分言われても分からないのでしょうけど)、謎のままなんですけど。

 量子コンピューターの原理がそうだとしたら(ま、本当はこの数百倍複雑で難解なのだとは思うが)、なんで早く実用化せんのじゃあってことになるのでしょうが、これが死ぬほど難しいんでしょう。まず、どっちもあり的な量子状態を作るのがマイナス273度の超低温とかいうのでそれが大変。また、ものすごく不安定な状態らしいので、エラーも多い。よってそれを実用に耐える程度に固定させる技術がえらく難しいらしいです。また、量子ビット一応カッコでくくる、どっちもアリという計算でやるとかいってるけど、その「計算でやる」というのは具体的にどういうアルゴリズムになるのよ?一時棚上げにしていた量子的な部分を、あるいは確率論的にバラバラになる値を、最後にどのように全体に収斂させていくのか、トータルとしての結論に差異があるかどうかを合理的に判別するアルゴリズムはなんなのか?このあたりになると、おそらくITや情報工学というよりも、高等数学になっていくような気がします。群れていた鳩がぱっと飛びたっていくランダムなパターンを全部数式で表そうとするのが高等数学の世界ですが、多分あのあたりの世界なのかなーと。

 あ、僕の解説をあんまり真剣に受け取らないでくださいね、全く誤解して書いてるかもしれないし。話半分に聞いて。

 ということで、肝心な部分はわからないままだわ、そもそもちゃんと理解してるかどうかも怪しいままだわで、このままでは戯言書いてるだけなんですけど、それでもいいです。誤解だろうがなんだろうが、そういう解説が僕にとってインスピレーションやヒントになったということのなので。

 つまり、「どちらもアリ」という「曖昧なものをテキトーにスキップさせて計算してしまう」という第三の選択肢が、思考の場合にものすごく役に立つと思うのです。これを称して「量子力学的思考法」とか「量子コンピューター式発想」等と言うのは余りにも傲慢すぎるので(そんなにわかってるわけではないので)、量子計算「的」というか、「〜みたいな」「〜ぽい」って感じでお願いします。

量子計算「ぽい」応用発想

 どちらの場合もありうる場合、そういう前提で考えを先に進めること。
 その発想は、多分僕らも日常的にやっています。「それはそれとして」「それは一旦保留にしておいて」「カッコで括っておいて」と宙ぶらりんにしておくか、「一応ここではYESという仮前提で話を進めて」とか適当に決めうちして話を先に進めることです。

 そんなことしてええんか?思考の過程でそんなテキトーな部分が入ってると、あとでグチャグチャになったりするんじゃないのか?という懸念も勿論あります。そりゃカッコで保留にしておいたことを、すっかり忘れてしまったりしたら問題だとは思いますが、そうでない限り、そんなに問題にはならないと思います。それどころか、一応全ての考えを通してみて、そのあとのカッコの部分を検討したほうがスムースに進む場合の方が多いと思います。

 時系列や順番にとらわれて、なにがなんでも双六みたいに順番にやらないといけないというものではない。すぐにはわからない箇所は飛ばして、とりあえず分かるところからやっていくという方法は、受験のテクニックでもおなじみですよね。英語の長文読解問題でも、最初の数行にわからない単語が出ていたり、しょっぱな部分が全然わからなくても、とりあえず第二パラグラフ以降を読んでいって、分かる箇所を増やしていけば、遡って、わからなかった箇所も、なんとなく推測がついたりします。

 そもそも思考の順番とはなにか?って問題もあるのですけど、時の流れの順番、因果関係など原因と結果の関係、あるいは論理の構造など色々あるとは思うのですが、同時にジグソーパズルのような側面もあって、論理や順番をすっ飛ばして、分かるところから埋めていくと全体が見えてきて考えやすくなるってこともあると思います。

あとで自然解消するパターン

 それだけではなく、カッコで括って保留にしておいて、とりあえず全体を流してみると、カッコに括った部分それ自体があんまり意味なかったり、どうでもよかったりすることが分かる、そういう場合もよくあると思います。

 例えば、うーん、こんな例でいいのかどうか分からんのですが、今度の日曜に勝負デートがあります、いかにして成功すべきか!というシュミレーションをコンピューターにかけるとします。その際、いろんな場合分けが出てくると思うのですが、待ち合わせの時点、あるいは目的地についた時点で、「雨が降っていた場合と晴れていた場合」という場合分けがあるとします。そこでいちいち、雨が降っていた場合は、あーして、こーして、あーやってっと最後まで計算し、今度は晴れてた場合はあーやって、こーやってと計算し、、とかやっていくよりも、雨か晴れは「とりあえず置いておいて」、会ってそれからどうする?と次の計算をやっていく。彼女はどちらかと言えば室内派・書斎派だから、コースも博物館とか図書館、映画館が好ましく、そのあとは屋内でレストランで、、などのコースがベストであるという結論がでてきたら、先程カッコで括っておいた「もし晴れ・雨だったら」という場合分けは「考えなくても良い」ことになります。だって、晴れてたって室内系のデートをするんだったら、外部の天候なんか基本大きな要素にならないからです。

 ということで、物事を考える際においては、「どちらもある」ということを前提にして、一時棚上げにするなり、テキトーに決め打ちしておくのは、とても役に立つ、ということです。思考経済上よろしいと。あ、「思考経済」って言葉が本当にあるんですけど、無駄に頭を使って無駄に疲れるのではなく、出来るだけ頭を節約して目的を達することです。

 「どちらもある」というのは、YESなんだかNOなんだかウジウジ「煮え切らない」感じがしますが、それを無理やり二元論でわけてしまっても解決にならないか、却って時間がかかる。ならば、煮え切らないままカッコで括って、考えを進めていった方が良いということです。

 大体、ウジウジどちらかわからないのは、どちらの要素も豊富にあるってことですよね。それが決められないということは、決められないだけの客観的な実質があるわけで、それを無理に決めようとすると却って計算が狂ってくる。だからウジウジはウジウジのまま保存しておいて、さらに先に考えを進めていくといいです。

 そうやって考えをどんどん進めていくと、先程の例のように自然解消してしまう場合もあります。「別にそんなことどうでもええやん」というか、どちらを選んでも自然と途中で合流してまた一つになるから、そこは問題ではないのがわかるとか。

 多分量子コンピュターもそのあたりの機微があるのでしょうね。従来のコンピューターだと、クソ真面目にやりすぎるから、「そこはもうどうでもいいから」みたいな箇所でも一生懸命頑張ってガキガキ計算やるんだけど、大局的にみればすごい無駄。でも、「そこは適当でいいから」というのが、今のコンピュターの構造上ありえないか、難しいのでしょう。

 さて、この点、さらに展開してみます。

人生相談における「そこはどちらでも良い」回答

 よく年長者が、若い人の相談に真剣に応じている場合、「うーん、やっぱ自分がこれだと思う方向に行くしかないんじゃない?」「好きなようにやればいいよ」って答える場合が多いと思います。なんか、いい加減な回答に見えたりもするんでしょうけど、でもそうとしか言えないという部分もあるのです。ある程度の長さ人生双六をやってると、そこは右にいっても左にいっても結局大差ないんだよなーというのは実体験として分かってくるからだと思います。

 例えば、就職を第一に考えるか、趣味や恋愛や生きがいを第一に考えるかとかね。予想を越えていいところに就職が決まったはいいけど、それだと恋人と離れ離れになってしまう、それでいいんか?とか悩むところで、そこは悩んでいいんですけど、でもどちらを選ぼうがあんまり結論に大差はないと言うか、ポイントはそこじゃない。

 仮に恋人を蹴って仕事を選んだとしても、どっかの時点で壁にぶち当たって、リストラされて元の木阿弥になって、何やってんだかと思ったり。あるいは、仕事を蹴って恋人を選んでめだたく結婚ゴールインでも、やがて夫婦仲がおかしくなって、「お前のせいで俺は夢を諦めたんだ」とかグジグジ言い続けるとか。逆にどちらもそれなりに成功したとしても、「これで良かったのだろうか」と何やらぽっかり心に穴が開いてるような気がするとか。どちらも成就させたい欲求はあるわけだから、どっちを選んでも、取らなかった方の飢餓感や欠落感が、何らかの形で心の傷として残るでしょう。

 そして長い年月を経たあとに振り返ってみると、どちら(which)を選んだか?ではなく、どう(how)選んだか?の方がずっと大事だと思います。不本意な選び方をしなかったかどうか。

 なぜなら、どちらを選んでも両方満点は不可能なんだから何らかの傷や痛みは残るのだろうけど、その傷が良性か悪性かという差はありえるからです。

 一般に言えば、一番やりたいことを最優先にしてやった場合の方が、あとになって何かを後悔したり、傷を追ったとしても、まだしも良性の場合が多いんじゃないか。逆になんか遠慮したりして不本意に第二順位にしてしまった場合、なんで一番やりたいことをやらなかったのか?という悔恨が呪縛のように残ると思うし、そっちの方がキツいのではないか。

 なぜそう思うかというと、、、一番やりたいことを選んで果敢にチャレンジした場合、失敗しようが成功しようが、自分の手(心)に残るのは「私ってこういう人間なんだ」という自分自身の触感でしょう。そこでは、「私ってほんと馬鹿だな」「どうしようもねえな、俺はよ」と苦く思うかもしれないし、「成功したっていうのに、なんでこんなに嬉しくないんだ?」とか、「満たされたんだけど全然満たされない」という空虚感かもしれない。だけど、その全ては「自分がそういう人間なんだから」という一点に起因します。そこに嘘はないのですよ。

 しかし、やりたいことをやらないで決断してしまった場合、後に残るのは、「自分の人生なのに自分らしくやれなかった」という自己喪失の思いであって、これは前者の場合とは本質的に違います。好きに突撃して玉砕した場合、そりゃあ苦い思いをするだろうけど、少なくとも自前の人生だという所有感はあるわけです。どんなに苦い思いであろうが、純正オーガニックに自分を感じられるわけで、まだずっとマシです。これを教訓にしてもっと良くなろうとか、足りないところを補っていこうとか、新たな成長にもつながるしね。続いていけるし、つながってもいける。だけど、そもそも自分の人生だと思えなかったら、これはちょっと厳しい。せいぜい「今からでも遅くはない」「今日から新しい自分の〜」とかゼロリセットをかますくらいでしょう?その差はかなり大きいんじゃないかな。

 ということで、何を選んでも大差ない(長い目で見れば)けど、どう選ぶかの方が大事だって話になるのだと思います。

 量子コンピューター「っぽい」思考に即していえば、どっちを選ぶかをとりあえずカッコで括るなり、テキトーに決め打ちするなりして、ちゃっちゃと次に考えを進めてみることです。そうすることで、見えないものが見えてきたりもします。

そもそも二者択一なのか?二元論の嘘

 仕事を選ぶとしても、なんでその仕事がやりたいの?どうなりたいの?今がチャンスだというけど、具体的にどういうことをやらされるかはまだ未知数で、もしかしてクソな毎日である可能性もあるし、やればやるほど人間性が壊れていくような局面もあるわけで、仕事を通じてあなたは何をどうしたいの?恋を選ぶにしても、それで結婚したいわけ?で、どういう人生になっていきたいわけ?そこで意見が違ってきたり、いろいろあった場合、どこまで譲れてどこが譲れないの?とかね。

 そうやって思考を進めていくと、実際問題、二者択一ではなくて両方取れるんじゃないかって可能性も見えてきたりもするでしょう(常にとは言わないが)。

 二者択一形式で思ってるときって、どちらを選ぶせよ、その結果としてありえないくらいマックスに成功する場合しか思ってないのですよねー。仕事を選べば、ゆくゆくは押しも押されぬ財界人になって〜とか、恋を選べば末永く幸せに〜とか、現実離れした理想の未来図を思い描いて、それで悩んでいたりするわけですよ。

 でも、考えを進めていくと、仕事を選ぼうが途中でイヤになって辞める可能性は意外と高いかもしれないなと気づくし、恋を選んでもなんだかんだ忍耐と倦怠の日々かもしれないし、結局離婚という結末もありうるよなーとかリアルに見えてくる。要はどっちもボチボチくらいなって、夢が縮んでいくかのようなトホホ〜って感じなんだけど(笑)、同時に、そのくらいのボチボチだったら別に両立しうるんじゃないの?というのも見えてくる。またよく考えれば世間の人々は大体そんな感じなんだろうなーとかいうのも見えてくるでしょう。そう思えば、そこは必ずしも二者択一ではないし、どちらも両立する限度でやってみるという選択もあるわけですよね。

 恋か?仕事か?みたいにドラマチックな二元論にしてしまわないで、適当に曖昧にぼやかしておいて、それで進んでいった方がよりリアルであり、より実践的だと思います。

 二元論なり二者択一構造というのはシンプルで分かりやすいけど、シンプルにする過程で複雑なリアルな陰影を全部消し去って抽象化してしまう。現実から離れた虚構を作ってしまうという危険性はあると思うのですよねー。実体が「決められない」というファジーなものであるなら、計算なり思考過程においてもファジーなものはファジーなまま考えていった方が良いのではないか。

 また二元論にしてしまった段階で、そこで思考が止まってしまうという問題もあります。もう善か悪か、光か闇かみたいな絶対に相容れない不倶戴天の構造にしてしまうから、話が先に進まない。でも、よくよく現実をみていくと、そんなピカピカに抽象的な存在なんか無いですからね。なんだかんだ動かしていくうちに、意外としっくり「こなれて」きたり、それが絶妙なバランスになって最適解を導いてくれたり、第三、第四の新キャラが出てきてどんどん展開していったりするもんです。それが現実のダイナミズムというもので、そのダイナミックな生成流転に活路を見出すという解もあるとは思うのですよ。でも、二者択一シンプルにしてしまったら、そういう事柄が視界から消えてしまう。

 ということで二元論になったら、ちょっと席を外して、トイレに行くなり、一服するなりして、斜めからまた見直して、そして曖昧にぼかした方がいいんじゃないか?どっちもありうるという量子論的な第三の選択肢でとりあえずカッコに括っておけばいいんじゃないかって思います。

 もっとも、それを承知の上で、思いっきり片方に振り切ってしまいたいって場合もあるとは思いますよ。宮本武蔵が、おつうさんを振り切って孤独な武者修行に出かけるように、生きるか死ぬかの限界ギリギリをやりたいんだ、他の何かと両立できないくらい極端なことがやりたいんだじゃ〜!っていうなら、それは話は別です。でもその場合はもう結論は出てますし、そんなに悩まない(胸は痛いだろうが、結論は変わらない)でしょう。

矛盾とはすなわちバランスである

 この発想は、いろいろな局面で応用がきくでしょう。ずっと前のエッセイで「解決しないという解決方法もある」というのを書きましたけど、それに似てます。戦争か平和か?みたいな二者択一にしてしまわないで、憲法9条はあるけど自衛隊もあるという二元論的には矛盾している状況が、意外と絶妙なバランスになってみたりもするのですよね。これを明快にどちらかに寄せてしまうと、却ってトラブルが増えるし、絶妙なさじ加減というのができなくなる。

 仕事か家庭か?なんても同じで、基本どっちもアリですよね。実際にはどっちつかずの宙ぶらりんになって、煮えきれらなくて、歯切れの悪い行動にはなるでしょうよ。家庭が大事だと思うから、子供の誕生日には絶対早く帰るとか言いながら、職場でなんかあったら帰れない、お父さんの嘘つき〜って泣き疲れた子供の寝顔を見て、ああ心がキリキリ痛むでしょうよ。そう思うからこそ、それほど重大でない局面では「今日はちょっと」といって早く帰宅することも出来る。日々刻々と矛盾状態が継続しているからこそ、日々刻々と微妙に調整ができる。

 その意味でいえば、矛盾=ウジウジ煮えきらない=バランスなんだと思います。生産的な矛盾、建設的なウジウジもあるんだよ、それが現実のダイナミズムなんだと。なぜそんなに複雑怪奇なのかといえば、個々の人間そのものが矛盾を豊富に含んでいるからでしょう。煮えきれなくて当たり前、葛藤して当然であり、そのあーでもないとか、行ったり来たりのジタバタこそが人の生そのものだと思う。「寄生獣」のミギーみたいに、「よし、殺そう」と何でもかんでも合理的にパキパキ割り切れないのが人間であり、だからこそ滋味豊かなドラマが紡がれるわけで。

 だからといって、なんでもかんでもウジウジやってりゃいいんだって言うつもりはないですよ(笑)。わかると思うけど。非生産的な、意味のないウジウジだって沢山あると思うしね。でも、それを解消するのは、いかに明瞭に択一にするかではなく、いかに生産的なのか非生産的なのかを実質的に見抜く洞察力だと思います。

 二者択一になった場合、シンプルに抽象化するからこれを決めるのは難しい、だから激しく悩む。だけど、それって「悩んで」いるだけで、「考え」てないです。本当にそうなのか、どういう構造になっているのか、どういう展開になっていくのか、考えることは山程あるんだけど、「悩む」という壁を作ることで、そこで思考が止まってしまう。

 僕の乏しい経験でいえば、実際の人生で二者択一構造になることは滅多にないです。あるように見える時は、それは単に「手順の問題」である場合ですね。どちらをどれだけ先にやるか、です。ダンドリの問題です。二者択は、YESかNOか決めるだけですけど、話がダンドリになると非常に複雑になり、めちゃくちゃ頭を使うし、考えなきゃいけない。だけど考えただけのご褒美があるのがダンドリです。

 以上あれこれ書きましたけど、なんでもパキパキとゼロイチ二元論で割り切ればいいってもんでもないでしょう。曖昧に、ファジーに、ウジウジになってしまう物事は、そうなってしまうだけの実質があるのだから、それをそのまま尊重して、それでトータルでうまくやっていく方法を考えた方が良い、という話でした。


★表示させない









どっちもある場合のほうが実は多い

 ちょっと前のエッセイに書いたように、世の中二元論が多いです。もともと人間はそういう思考パターンが好きなのかもしれないのだけど、ここで注意すべきは、二元論と二者択一は違う、ということです。

 例えば、この世には光もあり闇もあります。もうちょっとくだけた言い方をすれば、昼間もあれば、夜もあります。いま、地球が、太陽の公転軌道上をくるくる自転しながら廻っているのを宇宙から見た場合、「今、地球は昼ですか?」と聞くのはナンセンスです。地球のなかで太陽に面してる部分は昼であり、そうでない部分は夜なだけで、「地球は昼か?」と聞くのは意味がない。

 ではあなたの住んでるエリアでは昼ですか?こういう聞き方はアリだと思うけど、「今この瞬間に」という条件を入れなければ、これまた意味がないです。でないと、「昼です」といったら、24時間ずっと昼であるかのような話になってしまう。エリアそれ自体を(特に時間の指定をしないで)言うならば、昼でもあるし、夜でもある、というのが正解でしょう。

  https://ferret-plus.com/9474 https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/quantum-computer-basic/ https://codezine.jp/article/detail/11616 https://www.qmedia.jp/is-quantum-computer-fast/ https://www.mri.co.jp/50th/columns/quantum/no01/

 





文責:田村


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