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Essay 960:すげえ! 〜人生はシンプルである

〜複雑さは下位序列であるマネジメント部分に生じる
〜人生における本当の仕事は「感動すること」


2020年11月09日
写真は、Leichhardtで撮りました。



 最近よく思うのですが、複雑怪奇なこの人生ゲームも、実はめちゃくちゃシンプルなのではないか、と。
 それはシンプル・イズ・ザ・ベストという何らかの哲学によってそう思うのではなく、もともとの構造がそうだと。さらに言えば、複雑にしようと思っても出来ない、あるいは複雑にしてしまったら意味がなくなる。

 まあ漠然と感じるだけのことで、これを言語化するのは至難の業であり、無謀な試みのような気もするのですが、やってみたいと思います。

エネルギーとマネジメントという2つのパート

 なんでそんなにシンプルに感じるのかといえば、生まれてから死ぬまでのアレコレを通観すると、(1)原動力部分と(2)マネージメント部分とに大別できるんじゃないかと思うからです。

 自動車の比喩でいえば、(1)に相当するのはエンジンで、(2)に相当するのはその他の部分=エンジンによって発生した運動エネルギーを利用調節する部分。動力を効率的に転換・伝達するギア、前に進ませるためのタイヤ、操舵するハンドル、出力調整のアクセル、運動エネルギーを減殺するブレーキなどなど。あとは(3)その他で、シートが革張りであるとか、音楽が聴けるとか、エアコンがあるとか、エアバックがあるとかいう部分ですが、これは言うまでもなく付属部分です。

 どんなにアクセルやハンドルが優れていようが、また運転技術がF1レーサー並みに卓越していようが、肝心なエンジンが動かなかったら何の意味も無い。全てはエンジンが動いたあとの話であり、一番肝心なのはエンジンが動くかどうか、どのくらいのパワーをもっているか、途中でヘタれたりムラがあったりするかであり、それが最もベースに来るだろうし、だからこそ最上位にも位置するでしょう。アクセルやハンドルにやや難ありでも、エンジンさえ快調ならまだなんとかやりようはあります。しかし、ハンドルが快調だとしてもエンジンが動いたり動かなかったりだったら話になりません。どっちがより大切か?という価値序列でいえば(1)だろうと。

 これを人生に引き戻して考えると、(1)のエンジン部分こそが大事であり、(2)はそのエネルギーをいかに活かすかという次順位的なマネジメントでしかない。そして、人生にまつわる複雑な事柄というのは、大体(2)マネジメント関連で生じるのであって、(1) エンジン部分はそんなに複雑ではない、てかめちゃくちゃシンプル

人生の複雑さはマネジメント部分が多い

 人生マネジメントに複雑さは多方面にわたります。
 「どう生きていけばよいか」ですけど、まずもって、自分のいる環境を知らないといけない。どういう制度社会に生まれ落ちて、どういう攻略法があるか。戦国みたいな無法状態に生まれ落ちたら、なによりも腕力やら喧嘩が強いかどうかが至上価値になるでしょうし、ガチガチの封建社会なら生まれや身分でゲームの大半は決まってしまう。現代のような自由社会はラッキーですが、自由なだけに攻略方法はたくさんあり、そこで悩む。

 いわゆるメインストリームの高偏差値学歴と職歴・経歴によって幸福値が決まるという攻略法がありますが、本当にそうなのか?という検証をするだけでも大変です。ましてや、現在から将来における社会経済の予想をするのも一苦労です。てか、無理かもしれない。だって、世界トップクラスの人材が集まるシンクタンクや経済組織で皆必死こいてあれこれ予想するのだけど、百発百中ってわけにはいかないでしょう?それどころか外してる場合の方が多い。世界最高水準でも打率3割とかそんな感じだったら、一般人である僕らに何がわかるのよ?と。でも、これがわからなかったら、何をどうすればいいのかわからない。そのあたりの個々の知識体系などがやたら複雑です。

 そんな難しい話以前に、普通に現代社会に暮らすだけで、覚えるべき知識やスキルは山程あります。現代であればまず携帯電話が使いこなせないと前に進めない。携帯電話とはなにか、スマホはなにがスマートなのかに始まり、電話回線を使うSMSとネット回線をつかうメッセンジャーとの違いを原理的に理解し、メーラーの設定を施し、、、それだけでも大変です。いや、親にもスマホをもたせたいんですけど、まるで理解する気がないですしねー、困ったもんだ。他にも、日本で暮らすならsuicaなどの公共交通機関の制度、クーポンがどうしたとか、政府補助はどうやれば受けれるか、、、、

 ファイナンシャルプランナーと呼ばれる人達、あるいは社会保険労務士やら、行政書士、司法書士という専門職があるのは、一般に開かれている社会制度でおいてすら、一般人には使いこなせないくらい複雑な知識体系が必要だということの証拠でしょう。やれ年金における○号被保険者がどうしたとか、税制におけるなんたら制度が今年から出来て、しかし○県の場合はさらに条例による特例があるのでそれも併せて考えないといけないとか。

 ほかにも人生レベルの選択肢として、持ち家がいいのか賃貸の方が結局は得なのかという永遠の論争のようなものがありますし、子供の教育でも積極的に導くべきか、ある程度放任の方が良いのか、私立か公立か、塾は必要か。都会で大企業で就職するのか、それとも地元でのんびりやった方がいいのかとか、結婚はしたほうがいいのか、しないほうがいいのかなどなど、もう無数にあります。これら結論が難しい諸問題において、自分なりの結論までもっていくためには、膨大な知識経験が必要です。話はどんどん「複雑」になっていきます。

 また、仮にこれら制度や状況を完璧に理解できた(ような気が)しても、今度はそれを「実行」できるかという問題があります。超一流の大学にはいって、超一流の成績で卒業して、超一流の会社に入社して、超一流の実績をあげて、、って口でいうのは簡単だけど、「出来るの?」という大きな問題があります。売れっ子の作家になって、ロックスターになってウハウハな人生〜とかいっても「なれんの?」です。そして、その実行プロセスにおいては、やれ受験科目の個々の論点に理解にせよ、就活必勝法にせよ、難しい現場実務のタスクにせよ、理不尽津波が常に押し寄せる社内政治にせよ、もうめっちゃくちゃ「複雑」です。

マネジメントは下位序列

 だけどね、それも、これも、あれも、どれも、ぜーんぶ(2)のマネジメントレベルでしょう?価値序列でいえば劣後するのですよ。言ってみりゃ大したことはないのです。

 僕も20代前半では視野が狭かったので、下位序列であるこれらマネジメントが人生における最上位にくるかのような錯覚に陥ってました。でもだんだん考えも変わってきました。だいたい23-24歳くらいかな、司法試験に受かる1年前くらいには、もう「合格できなければ死ぬしかない」みたいには思わなくなりました。数ある選択肢のうちの一つというか、距離をおいて見れるようにはなりました。最初の3年くらいは実力も上がるし、面白いしで燃えるんですけど、一定レベルまでいってしまったら、飽きたとまでは言わないまでも半分惰性でやってる感もありました。以前は法律はこの世のすべてを支配するんだから〜とか思ってたけど、よく考えたらこの世の1%も支配してないなー、皆法律なんか全然考えずに生きてるもんなー、それで多くの場合支障ないもんなー、もしかしたら大したことではないのかも?単にニッチでマニアックでカルトなだけなのかも?とかね(笑)。

余談:スペシャリストとゼネラリスト

 ちょっと話は横道にそれますけど、最初は専門職とか「プロフェッショナル」とかいうのってカッコいいなと思ってたんだけど、いざ自分がそうなったら、あまりカッコいいとは思えなくなりました。専門プロというのは、すごく局限された領域については超人的な能力スキルを持ってるわけですけど、それって逆に言えば、「ものすごーく偏っている人」って意味でしょ。カッコよくないかも、てか、むしろダサいかもって(笑)。

 自分が弁護士になって思ったのは、すごーい社会の辺境地に住んでる感じ、もう平家の落ち武者部落にいるような感じです。スペシャル感はあるんだけどゼネラル感は無い。そういうバランスが崩れた感じが何となく生理的にイヤなのもあって、弁護士になってからせっせとビジネス本やら買いまくったり、異業種交流やって、一通り全業種の人と話をしないと気が済まないくらいになりました。「ちょっとド田舎に居すぎだろう」って意識はあったのですよね。

 とは言っても、実際に弁護士業務をやると、ありとあらゆる社会階層の人、業種の人に会いますので、それで社会は広がりますし、プロとして円熟すればするほどゼネラル的に豊かになります。また、豊かでなければ営業的にも実務的にも立ちいかない。スペシャリストとして実務的&営業的に成功するかは、いかに幅広いゼネラリストであるかにかかっていると言ってもいい。弁護士でも法律しか知らないのでは話にならない。各業界の実情、経営者からはこう見え、サラリーマンからはこう見える、専業主婦や非行少年からは世の中がこう見えるというのが分からなければ、依頼者の本当の意向を理解できないし、また証人の嘘を見抜くこともできない。

 医者にしたって、あらゆる業種の生活や悩みを知らないと、「そんなことできるわけないだろ」という無理難題のアドバイスばかり患者に押し付け、嫌われ、結局客(患者)が来なくて倒産するし、より現実的な治療プランも提案出来ない。精神科とかカウンセリングになれば、人間心理の迷宮のような恐ろしさを知らなかったら実のある話はできないでしょう。建築士さんでも、二世代同居の建築設計を頼まれても、本当は嫁さんが同居は嫌なんじゃないかとか(だから最後に計画がポシャって骨折り損になるとか)、家相や鬼門や風水は、クライアントが凝ってる場合が多いので、一応の水準はクリアしておかないと設計の話もできない。

 これはどんな職業でも同じでしょう。営業職だったらどんな人とでも座談ができるとか、座持ちの良さが求められるし。僕より上の世代で、日本でバリバリ会社員やってた人は、だいたい、どんなテーマでどんな話をしても、また47都道府県のどこの話をしても、必ずツボを付いた話題をもってきて座を盛り上げることができますよね。本当に良く知ってますよ。てかさ、30歳過ぎてそういうゼネラル指向の視点がなかったら(まだ出来なくても良いから)、ヤバいくらいに思った方がいいですよ。本当の勉強(「世間学」みたいな)は、社会人になってからやるもんだと思います。

 だからスペシャリストやってても、それでメシを食っていくならば、普通に円満な常識人的なゼネラリストになります。ヤバいのは、研究ラボにこもってるとか、医者でも開業臨床ではなく大学病院の奥の院とかになると、ダメっすね。社会人としての精神年齢が中学生くらいで止まったりすることもあります(もちろん円満な人も沢山いますけど)。

 そんなこんなで、専門職がいいとか、プロという響きがいいとか(まあ、それは多分にあるけど)、それだけってのは、中二病に毛が生えた程度の世界観だよなーと思ったわけですよね、20代の頃に。自分の持ち場の役目はちゃんと果たすとか道を極めるという観点で、専門技術を深めるのは良いことなんだけど、でも同時に社会的なGPS感覚もあって、今自分はとてつもない辺境地にいるんだって自覚は持ったほうが良いと思いました。でないと、針の先のような細かい分野で王様になって、「これだから素人は困るんだよな」とやたら一般人を見下すような人になってしまいそうで、それはちょっとね。

 以上、余談でした。キャリア形成とかで、なんか専門スキルを〜とかあまり思い過ぎなくても良いと思います。職の突破口としてはたしかに一つの方法だし、その道が好きなら(それこそ(1)のエネルギーから直に導かれるなら)いくらでも邁進すれば良いでしょう。だけど、それしかないとか、それをすれば全て解決とか、あまり力点を置きすぎない方がいい。現実と違うから。専門分野やスキルが無くても職についてメシ食ってる人はいくらでもいるし、はっきり言って日本の労働者の過半数はそうじゃないのか。もっとゼネラルで円満な人間力こそが現場では求められるでしょう。それに専門スキルにあまりにも特化しすぎてしまうと、それ以外にはまるで使い物にならないかの如き印象を与えてしまって、いわゆる「潰しがきかない」というリスクも背負うのですよ。テクノロジーの進展や時代の変化によってそのスキルや業界そのものが無くなってしまったら、ほんと途方にくれますから。


原動力エネルギー部分

 閑話休題。
 専門職だ、キャリアだ、資格だとか熱くなってたのが、いい感じで冷却してきたという話でした。

 そこらへんが冷静に見れるようになると、そうだよ、もっと上位規範(価値)があったんだよなと気づきます。そもそもなんでコレやってるの?といえば、高校のときに毎日乗ってた東西線の通勤&超満員電車がとてつもなくイヤだったというのが原点です。もーイヤ!絶対イヤ!こんなのが死ぬまで続くなんてありなーい!と強く思った。

 さらに遡れば、「わけもわからずに何かをやらされる」というのが大嫌いなんですよね、性分として。刑務所や軍隊の行進みたいなもので、もう生理的にイヤ。背中にナメクジが這ってるかのような気持ち悪さがあって、それは無理!って感じ。そんな「死の葬列」みたいな環境から飛び出すためには、ダイナマイトなサムシングがいるわってことで出くわしたのが司法試験だったわけです。

 しかしですね、高校時分のコドモだからそう思い込んでただけの話で、別に通勤電車がイヤなだけなら他にいくらでも対策はある。極論すればホームレスになったっていいわけだし。そもそも通勤電車が満員なのは三大都市圏だけ、しかもあそこまでひどいのは東京圏内のいくつかの路線だけであって、全国どこでもそうだというわけではない。地方だったらクルマ通勤が普通だし、日本人の平均通勤時間は30分以下だというし。また東京の同じ路線でも、逆方向に通うようにすればガラガラなわけだし。世界が広がるにつれて、別にコレしか無いってわけでもないし、「何のために何をやってるのか」という序列関係を思い出してきた。

 さてさて、ここで「ナメクジみたいで生理的にイヤ!」って感情があったと書きましたが、それこそが(1)原動力のエンジン部分です。強烈なYES、NOがまずあって、それが強烈だからこそエンジンがかかる、やる気になる、馬鹿パワーも出るわけです。

 まずもってここに強烈なキックがなければ、エンジンもスタートしないし、パワーも生じない。なので生じたパワーをどのように方向を与えていくかという(2)のマネジメントも生じない。つまり、何も物語は始まらない。

 ちなみに自由業だ、プロになるんだ、司法試験だ、法学部だって大きな方向性は、都会のサラリーマンになって一生を過ごすというメインストリームの赤裸々な実態=朝の地下鉄東西線の冗談のような満員電車や、そこで不機嫌丸出しで立っている半分死人のような大人達の姿=が、あまりにもヤバすぎたという目撃体験です(それも3年間毎日)。それで法学部に入ったんだけど、当時の司法試験という人間辞めますレベルの勉強を開始した起爆剤は、当時つきあってた彼女が短大卒業とともに郷里に帰ってしまって、それを迎えにいくには何が何でも合格するしかない、数年スパンの走れメロス的なスチュでした。いわば「愛のために」みたいな(笑)、宇宙戦艦ヤマトみたいな起爆剤があったからです。あれなかったら結局口だけ番長になってた可能性が高いな。京都駅まで見送りに行ったその日から、「1日12時間以上勉強、絶対!」という発狂スケジュールを、ストップウォッチで測りながら勉強を始めました。実際、それから1年は本当に12時間以上はやりましたよ(2年目以降はもっと増えた。身体も慣れて、そのくらいやらないと体調が悪いって感じになり、ラストの大詰めは1日17-8時間やった)。しかし、よほどのことがないとそこまで爆発的なエネルギーは生じませんよね。

 でも今考えてみれば、それらのエンジンですら方向づけや具体的契機に過ぎず、本当の地下のマグマのようなエネルギーの根源は、十代後半から20代前半という最も気力体力が充実している時期に、「何かをしないではいられない」という圧倒的な余剰エネルギー感かもしれない。自分がどれほどのものか、というのも知りたかったし。尾崎豊の「卒業」という曲の歌詞に、「自分がどれだけ強いか知りたかった」という一節が出てきますが、まさにそんな感じ。それが最深部にあったのだと思います。

 これは誰にでもあると思いますよ。同じように、愛する家族のため、可愛い子供のためにとか、誰でもなんかあるでしょ。「なんでコレをやってるの?」というエンジンが。

 ならば、と思うのですよね、本当に大事なのは(1)だけではないか。
 これまで法曹職もやるわ、海外移住もするわ、結婚離婚再婚もするわ、起業もするわ副業もやるわでやってきて思うのは、結局大事なのは(1)エンジンの部分だけであって、(2)マネジメントはある意味どうでもいいのではないかって、本当にそう思うのです。

マネジメントの錯覚

 (2)マネジメントは価値的に劣後するだけあって、長い目で見たら何ほどのこともないです。その時点ではとてもそうは思えないでしょうけどね。特に目の前のことに没入しているときは、これがダメだったらもう人生詰んだ、終わったとか思うのだけど、実はそんなことはない。

 その証拠に、あなたが過去のどっかの時点で必死こいてやってたこと、例えば、中学ニ年生の二学期の中間試験で、とある科目を一夜漬けで必死こいて勉強して、ヤマが当たるか外れるか大バクチじゃあって盛り上がってたりした頃があったと思うのですが、覚えてますか?僕もあるけど、今となっては100%覚えていないです。断片的に一夜漬けをした記憶(結局寝てしまった記憶)とかはあるけど、どんな科目で何を勉強したのかはサッパリ覚えてない。それどころか中学ニ年時に何を学んだかも覚えてない。そしてあれほど重要に思えた中間試験の結果がどうだったかも覚えていない。また、それが好成績だろうがダメだろうが、その後の人生に大きな影響を与えたのか?というと、まあ、全くといっていいくらい何の影響も与えていない。要は百パーどうでもよかったんですよね。だけど、その時点ではそうは思えない。振り返ってみればそんなことばっかりです。

 中間試験よりも大きそうな出来事、例えば甲子園に出ましたとか、若いときに一瞬アイドルデビューして踊ってましたとかいう一世一代的な大事件であったとしても、あなたが40歳になるころには、おしなべて「過去のエピソード」になってる場合が多いでしょう。甲子園に出たとしても、その後プロ野球として大成できる人はほんの一握りしかない。またプロとして大成できるくらい実力がある人だったら、仮に県大会で負けて甲子園に出られなかったとしても、スカウトやドラフト指名はされるだろうし、そうでなくても入団試験経由でいけるでしょう。実力さえあればいいんだから。

 雑務や事務、段取りやマネージメント、これらは人生レベルにおいては、ほとんど些細な事柄に過ぎないのだけど、しかし、やり始めると燃えてしまうのが人間であり、それがいつも言ってる大脳生理学でいう作業性興奮です。部屋の模様替え一つでも、いざやり始めると次々にアイディアが湧いてきて燃えてしまう。面白くなってきてしまうし、ものすごく大事なことをやってるように錯覚して、「今、ちょっと手が離せない!」みたいに思ってしまう。

 その錯覚にいったい僕らはどれだけ振り回されてきたことか。

 年をとって振り返ってみれば、大抵のことは「いろいろあった」で総括されてしまう。フラレようが、クビになろうが、FXで全財産もっていかれようが、離婚しようが、破産しようが、刑務所に入ろうがなんだろうが過ぎてしまえば「いろいろあった」です。ましてや、ちょっと試験に失敗したとか、スポーツ大会でエラーしたとか、式典でミスって赤っ恥をかいたとか、そんなのただの笑い話です。てか本人だって忘れてしまう。

 それが成功するか失敗するかその事自体は人生レベルでいえば大したことではない。むしろ問題は、その成否によってあとあと後遺症が生じるかどうかでしょう。些細な失敗を過度に引きずって自分にダメ烙印を押し続けたり、たまたま上手くいったに過ぎないことをカンチガイしてうぬぼれてしまったりという後遺症です。でも、それはその成否の問題ではなく、自分の解釈能力の問題です。そこで妙な解釈をするくらいなら、他の機会にも、いや全ての機会で妙な解釈をし続けて、それが積もり積もってヤバいことになるってことでしょう。それは大事な問題かもしれないけど、しかし、別の問題です。

 マネジメントは妙に複雑で、手強くて、だから面白い。面白いから(価値序列を)騙される。でも、そこでいくら騙されようとも、時間が経てばイヤでもわかるようになる。あんま大した意味なかったなーって。

 ということで、執拗なくらいに繰り返しますが、(2)のマネジメントは、しょせんは手段的な価値しかないので、失敗したところで、代替手段を探せば良いだけのこと。他の方法が見つからない場合もあるかもしれないけど、逆に改めて探すことでもっと良い方法を見つけられるかもしれない。経験的にいえば、後者(失敗することでヴァージョンアップ)の方が多いです。

 だけど、(1)エネルギーは本体部分なだけに、ここがしょぼかったら全てがしょぼくなるし、ここが満たされないなら何をやっても結局は満たされた感じはしない。その不満感は、死ぬまでの一分一秒において間断なく続くし、意識で押し殺していても、無意識部分では残ってるから、あとでなんかかんかおかしな形で出現する可能性は高いです。

原動力の実感

 では、そこまで大事だと僕が力説する(1)原動力の実体はなにか?というと、これが拍子抜けするくらい簡単。単純な好き嫌いです。5才児くらいのピュアな感情です。

 だから、それは複雑になりようがない。また複雑にしてしまうと「濁る」ので良くない。

 右脳左脳でいえば、マネージメントは左脳系で、メインエネルギー部分は右脳系でしょう。「いい!」と思うか、「おお!」と思うか、要は感動したかしないかです。これはピュアにストレートに出てくるし、その瞬間にすべてが決まるってくらい「秒」でわかる場合が多い。それは純粋感情ですので、一切の論理性を持たず、ゆえに積み重なって複雑になるということはない。

 人生でもっとも基軸になる部分がこれほどまでにシンプルであるなら、人生もまたシンプルなんじゃないかってのが今週のテーマなのですよ。

 あ、シンプルっていいましたけど、感情そのものが複雑な場合はありえますよ。甘酸っぱいとか、ほろ苦いとか、いくつもの感情が複雑に混ざりあって独特のテイストを出しているというカクテルみたいな感情はあるでしょう。そういう場合が多いと思う。大人の鑑賞に耐えるアートは、そのあたりの苦味や酸味が入っているものが多いですしね。でも、そういった複雑さは、年金の手続きが複雑だとかいう複雑さとは全然意味が違います。脳味噌で論理操作をするような複雑さではなく、デザインや模様のカタチが複雑かどうかというレベルであって、ぱっと見た目ですぐわかるし、「理解」とかいう作業も不要です。感じるかどうか。まあ、わかりますよね。


 ということで、お聞きしたいのですが、あなたが今やっているあれこれ、それらについて原点になる感情はありますか?どこかの時点で なにかに感動したり、あるいは強烈に嫌悪感を抱いて、それが人生のエネルギーになって、だから今、これをやってるんですってことが言えますか?覚えてますか?わかりますか?

 たまたま誰かのライブを見て、「なんだこれは?」「うわ、すげえ!」って絶句するくらいの衝撃を受けて、それが原点ですとか。僕の場合は、一つには高校の学園祭でクラスメートがやってたバンドの演奏を生で見たのが最初です。今から思うと、スモーク・オン・ザ・ウォーターとか定番すぎるベタ曲で、そんなに上手ではなかったのかもしれなけど、音が凄かった。ドラムやベースの生音というのを初めて聴いたのがそのときで、ズーンとやると窓ガラスがビリビリいって、「音」というより、もっと物質的なもの、手を伸ばしたら触れるんじゃないかってくらい実体をもった現象で、「なんだ、これ!?」って思ったし、「すげえ」と思った。それから病みつきですねえ。

 ロックギターになったのは、たまたま銀座の名画座で見たZEPの「狂熱のライブ」という映画で、もうジミーペイジの指板を駆け抜けていく左指の運指があまりにも凄すぎてとても人間業とは思えず、また全体に悪魔的なまでにカッコよかったのですよ。人間というのはあそこまでカッコよくなれるもんかと。今から思うと、別にこの人そんなに上手くないし(てか下手な方だし、コンポーザーとしては天才だとけど)、大したこともやってないんだけど、それでも初めて見るとガビーンと来ましたねえ。当時は、ネットもYouTubeもないし、映像としてロックを見る機会なんか、テレビでも殆どやってないから超レアな体験なんですよね、それだけに衝撃度は高かったですね。そういえば、XのYOSHIKIのインタビューで、彼の場合は、NHKのヤング・ミュージック・ショーというダサい名前の番組で、KISSの日本公演を超親切編集=つまりうざい解説とか一切なしで、番組時間いっぱいひたすらライブ映像だけを流し続けるという=、この番組、僕もリアルタイムで見て感動してましたけど、それを見たYOSHIKIが「これだあ!」とガビーンとなって、クラシックなんかやってる場合じゃないってなったらしいです。

すげえ!の世界

 男の子系、あるいはアート系、スポーツ系などは、この「すげえ」が多いと思います。
 「すげえ」って中々使わない。自分の世界観を叩き壊してくれるくらい衝撃的でないと使わない。滅多に使わないだけに、僕はこの「すげえ」という日本語がわりと好きです。言葉が好きというよりも、おもわず「すげえ」と呟いてしまうような状況が好きなんです。

 「すげえ」って言葉は、世界観が広がる瞬間に発せられるんだけど、大体が喜ばしい場合ですよね。他人の行動、なにかに上手な人のプレイや作品をみて「すげえ」というときは、「こんなことまで出来るんだ」という人間の可能性を感じさせてくれる意味でうれしくなります。人間ではなく、自然の風景や現象に触れて「すげえ」と発する時もまた、この世界というのは自分が知ってるよりも、もっともっと起伏と陰影と感動に満ちているんだってことを知るわけで、それもうれしいことです。

 「すげえ」というのは、感動を意味する言葉なんだけど、「うん、いいよね」みたいな小賢しい評論ではなく、素直な感動です。わかったフリしてカッコつけようとかいう邪念のない、もう子供みたいに目を輝かせて、うわあ!って素朴でピュアな感動です。

 そういう感動、あなたにもあると思いますよ。
 昔のジャズの巨匠の誰だっけな、ニューヨークかどっかの貧乏黒人の子供だった頃、ストリートの質屋にピカピカのサックスが並べてあるのをみつけて、そのあまりの美しさにガビーンとなって、毎日見惚れていたのが原点だよとか。

 僕の知人のインダストリアルデザイナーやってた人は、大阪梅田の路上に駐めてあったフェラーリをたまたま見て、そのフォルムの美しさにガビーンと来て、デザイナー方向に進もうと思ったらしいです。

 別に「すげえ」だけが感動ではなく、言葉にならないジンとくる感じ、ズシンとした重量感、あるいはめちゃくちゃ気持ちのいい浮遊感、ありえないくらい清浄な透明感、、なんでもいいです。

 サーフィンやってる人が言ってましたけど、本当にいい波なんか1時間に一つくるかどうからしいです。どうかしたら丸一日待ってもやってこない日もある。だけど、海というか、自然というか、地球とかいうかが大きく呼吸をしているような、なんとも言えないサイクルがあって、海に浸かりながらその呼吸に合わせていって、それとドンピシャと一体化したときの快感はすごいそうです。だからやめらんないんだと。

 他にもなんでもあるでしょう。てか全ての人間の営みがそうかもしれない。ハマってる人というのは、なんかの偶然でその面白さに気づいてしまった、出会ってしまった人なんでしょうね。釣りは、僕はやらないけど、やってる人は面白いんでしょうね。子供の頃に、渓流の釣り堀みたいなところでニジマス釣ったことがありますけど、やっぱ本物の魚は重量感があって、おお、すげえって思ったです。映画や本にハマる人だって、たまたま何かを鑑賞して、終わった後に、体の芯になんとも表現できない異様な感動が居座ってしまって、胸いっぱいにひたひたと満たされているなにかにやられてしまうのでしょう。

 そういったものが原動力になり、エンジンがかかり、人生を動かしていくのだと思います。

 もちろん、それがそのまま仕事に直結するわけではないですし、また直結する必要もないです。人生=仕事ではないですからね。多くの仕事は、下位マネジメントとしてやってるんだと思います。なにかにガビーンときて、あれをまた追体験したくてやるわけですけど、再度体験するためには、そこそこ健康に生きていないといけないわけで、そのためにはメシも食わないといけないし、安全快適に眠る場所も必要だし、要するに金がかかるわけで、金を稼がなきゃね〜で仕事をしているわけですよね。つまりは(2)マネジメント作業の一環として働いているわけです。そういう価値序列になるでしょう。

 ほんと「釣りバカ日誌」と同じで、釣りをやるための軍資金稼ぎにサラリーマンやってるんだという、あそこまで割り切れれば幸せでしょう。でも、それが幸せだと思うなら、あなたも割り切ればいいです。軍資金稼ぎは大事ですよー。でも本当の課題は、いかに軍資金を稼ぐかではなく、稼いだ軍資金を何に使うかですから。

意外と難しい感動

 人生を決める感動は、素朴でシンプルな感情なのですけど、それだけにわかりにくい。

 例えば、理屈で感動してたら意味ないんですよね。余計な付帯情報なんか要らない。
 今流行ってるからとか、なんとかいう大賞を貰ったからとか、よく出てくるから、皆が素晴らしいと言ってるかとか、いくらでもありますけど、そういうのは本当に邪魔っけな雑音なんで、無いほうがよほどマシです。

 また、先に触れたように、小賢しい評論的な、気の利いたことを言ってカッコつけようとか、流行は「一応押さえておいて」とか仕事みたいにやってるとか、もうそういうクソ邪念がどれだけ感動を阻害するか

 先に知識から入ってしまうのも良くないです。観光名所なんかもそうだけど、先に写真とか情報とかさんざん仕入れてから見るから、初見の素朴な感動がスポイルされてしまう。オペラハウスなんか、さんざん写真で見てるから、実際に見ても「ふーん」になってしまって、感動しない。だけどね、あれ一切予備知識がなくて、そこの角を曲がったら、いきなり視界にどーんとアレが出てきたら、おお!って思いますよ。それだけのインパクトはあります。だから本来ならそこそこ感動する筈なんだけど、なまじ予備知識があることやら、「今日は朝からオペラハウスを見て、それから、、」とか仕事日程みたいな段取り作業に変換されてしまうことで、感動を逸してしまう。

 年をとっていくことの良さは、そのあたりが逆に漂白されていくことですね。自分に経験数が増え、知識も増えていくにつれて、そこらへんの小賢しい感じ、ちょっと知ってるだけで全てわかったような気がするという浅薄な物の見方も修正されるようになります。知識は知識としてあるけど、見る時は、一切ゼロにして見るということが出来るようにもなります。

 僕の京都の実家の近くには東寺の五重塔があるのですが、あまりにも陳腐でベタなアイコンになってるんだけど、頭真っ白にして改めて眺めると、あれって凄いですよ。なんでこんなもんがあるんだ?って感じ。大体、どうやって建てたのか見当もつかない。クレーンなんかなかった時代に、あんなぶっ太くて、重い巨木をどうやって柱として垂直固定できたのか、わからん。下から見て、空をバックに黒々したシルエットでみると、どのアングルから見ても様になるのですよ。あの立体造形センスは信じられないくらい「すげえ」んです。屋根の勾配の角度なんか絶妙過ぎますもん。あれを思いつくだけでも凄いのに、それを現実に作ってしまう、それも重機もろくすっぽない、木材と鉄釘しかない状況で作っている。大山奥の大巨木をここまで引っ張ってきて作ってるんですからね。そして極めつけはそれを千年以上もたせていることです。なんで千年スパンの計算ができるのか、人間というものはどこまで賢くなりうるのか。もうありえないですよ。でも、そんな風に思えるようになるには、情報を咀嚼しつつも、情報に振り回れなくなり、邪念からも開放されないといけない。

 また、わかりもせんのに感動しているフリってのもあるでしょう。アートでもなんでも、その殆どが「わからん」というのが本当のところでしょう。中高生のガキンチョに社寺仏閣を見せてもわからないだろうし、大人でもわからんのじゃないか。司馬遼太郎の「街道を行く」やら、星野之宣の「宗像教授」シリーズくらいの下地となる知識があれば、もうばりばりサスペンスの世界で興奮でブチ切れそうになるでしょうが、知らなかったらただの田舎の鳥居に過ぎませんからね。

 言うまでもないけど、感動は一生モノの巨大なやつでなくてもいいのですよ。小さなやつでも確実に動力源になる感動はあります。その意味では、誰でも1日に5回や10回くらいは何らかの感動をしているはずです。それが直ちに何かを決めるわけではなくても、積み重なっていくうちにエネルギーと方向性を得ていく。ポジな感情だけではなく、「あーもーイヤ」というネガな感情も「感動」ですからね、お間違いのないよう。僕は3年間地下鉄で「将来の俺」を見続け、毎日のように「感動」を新たにしていたわけです。3年もあったらかなりの量が堆積され、やがては一生を貫く指針になっていった。

 感動そのものは簡単で素朴なんですし、それは子供であるほどに容易なのですが、思春期を過ぎて大人になるにつれて、知ったかぶったり、わかった気になったり、カッコつけたり、どんどん感動を邪魔する要因が増えてくる。それとの戦いですよね。本当はちゃんと感動しているのに、そういう自分に気づかなかったり、わざと見ないふりをしてみたり。エンジン空回りで、ああ勿体ない。

 それら感動阻害要因をいかに排除するかが難しいんだと思います。

 その戦いは毎分毎秒のように継続してなされなければならない。難儀なことです。でも、それをやらないと、自分が何に感動してるのか、何が好きなのかも視界が濁ってしまって見えなくなります。そして、それがわからないと、何のために生きてるのかわからなくなる。エンジンかからなくなります。かかってもすぐにプスンとかいって止まってしまう。それではちょっと寂しいじゃないか。


 価値序列をハッキリさせれば、金を稼ぐことそれ自体は、人生における本来の仕事じゃないです。あんなクソ雑務がメインになるはずがない。もちろん仕事にやりがいを感じてる人は沢山いるだろうけど、それはその行為自体が楽しいからやってるのであって、金のためだけにやってるわけではないでしょ。

 たま〜に純粋に金とか(権力とか)のために頑張ってる人がいたりするけど、それはこれまでの人格形成過程になにか問題があったお気の毒な人だとしか思えないんだけど。でも、この世界は、金だの権力だのを持ってる人が決める場合が多く、いわば人格形成に問題がある人達がフレームを作って僕らに押し付けてくるケースが往々にしてあるから、それもあって僕はアナーキストなんですよね(笑)。国家も政府もいらんだろって。正しく使えばそれなりに有用なんだけど、こうも問題がある人達が多いとねー、ちょっとねー、引くわー。

 人生における本当の仕事は「感動すること」に尽きると思います。いかに素直に感動できるかであり、いかにそのための前提環境を整備するかです。今日も真面目に仕事をしよう。





文責:田村


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