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Essay 959:風と自意識

〜「風のように生きていく」ことの意味
〜純粋な自意識って実はほとんど無内容なのでは?


2020年11月02日
写真は、夕方のGlebe Point RD。つい先日撮ったものですが、どこを見ても陽射しと新緑がきれいで。サマータイムもこれからどんどん本番になっていきますね〜。



 硬いネタは飽きたので、今週はお気楽なことを書きます。日本語で言うエッセイ=「随筆」です。

親父と血筋と風の星

 過日、この世から円満退職した親父は、実にいろいろな仕事をしてました。もともとの専門は真空管のエンジニアとかそこらへんだったと聞いてますが、僕が生まれる前はダンプ運転して土建屋やったり、証券会社の株屋やったり。もっと前、つまり親父が子供の頃は、満州馬賊の親玉だったらしい祖父に連れられて中国大陸、それも日本人だとバレたら速攻殺されるようなエリアに住んでて、裏のこうりゃん畑でコルト(拳銃)の撃ち方を習って。外国語の習得は子供が一番早いので、家の買い出しは親父がやらされてたらしいが、中国の町の市場にいって出店のチャオズ(餃子)を買おうとすると、お節介なくらい親切な中国の町の人達が寄ってきて、「坊主、そんな言い値で買っちゃダメだ、もっとしっかり値切れ」と値切り方を教わってたらしい。敗戦後は進駐軍で働いて気のいい黒人兵達の「指導」で、仕事中に巨大なカレー缶を皆でくすねてはその場で食べてしまって、空き缶はガンガン踏んで潰して海に投げ込んで証拠隠滅〜とかやって、黒人兵と日本人労働者みんなでゲラゲラ笑ってたらしい。中国語も英語も習ったことはないものの、耳から覚えて使えたようです(まあ下手だと殺されるんだから上手くもなるわな)。

 僕が物心ついたころには、自動車の整備とかタイプライターの修理とかなんかわからんけど整備工場を二子玉に持ってて(居住区は親子四人で四畳半)、そのあと高度成長が始まったら、これからは不動産だ!で川崎市の多摩区に引っ越して不動産屋をやって、筑波やら館山あたりの土地を造成して別荘を建てて売りまくったり、それと並行してとんかつ屋もやっていた。東京の深川に引っ越して、人形町にある雀荘を居抜きで買い取って経営して(僕も掃除のバイトしたんで、パイ磨きは負けないぜ)、その次はゲーム機だ!で、まだ誰も知らないうちから超初期のブロック崩し台を買っては喫茶店に運んだり(これも深夜に手伝った、クソ重いゲーム機を持って狭い階段登ったり)。ほかにもタクシーの運転手はやるわ、ボイラー技士の資格とって阪急関係のビルメンテで働くわ、日本にワープロが普及し始めた頃はそのセールスもやってた。とにかくまだ誰も知らないうちから手をつけて、誰もが知ってるくらい広まったら旨味が無くなるから店じまいする、という株屋で覚えたセンスでやってて、「3年同じことをやってたらダメ」とか言ってましたね。

 僕は子供の頃からそんな環境だったんで、世の中そんなもんだって世界観でいたわけだけど、考えてみれば、サラリーマンや公務員家庭で育った場合に比べてみて、頭のつくりや感性なんかがちょっと違ってるのかもしれませんね。弁護士も丸6年やりましたけど、「次はなにをしようかな」とかいうのは実は1年目からなんとなく思ってました。誰にも言わなかったし、言っても通じないと思ってたけど、親父だけは「いつ弁護士やめるの?」って聞いてきた。

 環境もあるんだろうけど、血筋もあるのでしょう。親父の親父、つまり祖父は、尋常小学校を卒業したばかりの少年の頃に一人ぼっち&無一文で満州に渡ったそうだし、それまで殆ど靴を履いたことがない(裸足がデフォルト)ってくらいビンボーだったらしい、文字通り大陸で「一旗揚げて」、そこそこ大物になったらしく(よう知らんけど)、死んだ時は葬儀に灘尾衆議院議長まで来たらしい。その一世代上、曽祖父は、どえらい金持で、その頃よく言われた「他人の土地を踏まずに海までいけた」ってくらい土地持ちだったらしいけど、バクチで一晩で山が5つ6つも消えてってやって、最後はスッテンテンだったらしいです。明治大正の時代に遡っても、どの世代も全然次につながってなくて、全てが「一代完結」で、まあ、そういう血筋なんですかね。もっとも、昔の人の人生記って、笑っちゃうくらいダイナミックで面白いですよね。

 親父の仕事に話を戻すと、ともあれ武芸百般みたいに色んな仕事をしてたわけで、細かく数え上げればもっとあるんだろうけど、そのうちの一つに「占い師」もあります。結構真剣に勉強してたようで、西洋占星術と四柱推命どっちもやってて。街角に立つ(座る)わけでもなく「自宅で起業」パターンで。僕は親父の手書きのモノクロのチラシを京都中のマンションに配り歩いてました。その頃はまだDM投函とかうるさくなかった頃なんで。

 占いにかぶれた人が出てくると、家族はその実験台というか対象になるわけで、僕もさんざんなんだかんだ言われました。丁度司法試験の佳境の状況で、あと一歩で最終合格を逃したときも「占いの通りだ」と言われ、ついに最終合格したときも「占いの通りだ」と言われ、違うわ、そんなん俺が頑張ったからであって、そんな何でもかんでも運命みたいに言われると腹立つわーって(笑)。

 頼みもせんのにあれこれ占っては、なんだかんだご託宣を告げてくれてました。なんでも僕は大器晩成らしくて、年寄になるほどに出生して、死ぬ間際は「位階人臣を極める」らしいです。ほんとかよって(笑)。

 そんななか、一つだけ当ってるかもと思い、気に入っているのは、何でも僕は「風」の星のもとに生まれたそうです。まね、「星のもと」とかいっても、全部で60種類くらいしかないらしいんで、僕と同じ星は60人に一人いるので全然珍しくないのですけど。

 それにその「風の星」の具体的な内実はよくわからないんだけど、「生まれた場所から離れれば離れるほど幸せになれる」そうです。ああ、それはそうかも、と思った。今までの自分の軌跡を見ててもそう思うし、「動いたら動いた分だけいいことがある」というのは、そう言語化して思ってるわけではないけど、経験的に確信になってる感じはしますね。多分、無成算でオーストラリアに来たのも、どこに行こうが自分はなんとかなるだろって無意識的に確信してたのでしょう。と同時に、同じことをずっとやってると、良からぬ感じになっていくという感覚もあると思います。

 でも、それ以上に「風」ってコンセプトはなんか心にひっかかるものがあります。

瞑想の風景 

 なんかの本で読んだのですけど、瞑想というか、自分のインナーに入っていく手法として、ほけーと脱力して、なんとなく頭のなかのスクリーンに浮かんでくる映像をただ流しておく、というのありました。なんでこんな風景が出てくるの?って突拍子もない風景が浮かんできたりするし、唐突に場面転換してみたり、全然辻褄が合わなかったりするんだけど、そんなのは気にせずに、ただただ流しっぱなしにする。ちょうど映画を見るときのように完全受け身で流れに任せる。夢の世界と同じで、起きたまま夢をみてるような感じですね。

 よくは知らないのですが、瞑想や座禅で、「何も考えない」「無心の境地」「無念無想」とかいうけど、これって修行したらできるのかもしれないけど、僕には無理です。脳細胞というのは普通に働いてしまうので、意志の力でどうしょうもない。

 だけど、コツとしては、「何も考えない」という「無い」という部分に力点を置くのではなく、考えてもいいんだけど、考えをコントロールしようとしないというか、ある程度の意味論理のまとまった「考え」以前の断片的なイメージみたいなものを流して、そっちに集中する。普通、そこに自意識的に意味のある事柄、例えば「ああ、明日アレを買わないと」とかいうことが上書きされていくのだけど、それはしない。「しない」というのは難しいので、脳内イメージ映画の上映みたいな感じで、そっちに意識を向ける。

 この脳内断片イメージというのが、そう思って「鑑賞」していると、なかなか面白いのですよね。前にもちょっと書いたことありますが、全然経験したことないこと、知ってるわけがない風景とか情景とかボンボン出てきます。それも妙にリアルなんですよ。もしかして前世の記憶?って思うくらい、空想力、想像力、イメージって凄いもんだなって思います。

 ちょっとコツがあって、これが又説明しにくいんだけど、意識の焦点になっている部分の映像ではなく、その背景にあるような映像なんです。下絵と言うか壁紙みたいな、透けて見えるような。録音でいえば、メインに録ってる会話ではなく、その背景に流れている周囲の音(車の通過音とか、カラスが鳴き声とか)、あるいはザーッというホワイトノイズのような感じで映像が流れてるんですけど、それにフォーカスするわけです。多分、無意識の海に浮遊してる映像なんだと思うけど。

 なんでこんな映像が流れているんだか自分でもわからないんだけど、よくよく見ると、これがまた良く出来た映像で、めちゃくちゃリアルで、多くの場合、息を呑むような大絶景とかが出てきます。よくあるリゾート地の観光用のお金をかけたプロモビデオなんかで、大森林を越え、きらめくビーチを眼下におさめって、俯瞰の航空映像があるのですけど、あんな感じ。いつも飛んでる映像ばっかじゃないけど、人跡未踏のアンデス山中の秘境の高山地帯とか、切り立つような断崖絶壁の海岸線とか、紺碧の大海原なんかもあります。かと思うと、知らない国の知らない路地裏をうろうろしてる映像が流れたり、ジャングルやら深山の山道を生い茂る草をかき分けてひたすら踏破しているものもあります。で、すごいハイビジョン。僕は目が死ぬほど悪いので、実際に見たらこんなにクリアに見える筈はないんだけど、脳内CGはそこらへんは加工するのでしょう。

 瞑想の真似事みたいなことを試しにやったときに、そういうのがあるってのに気づいたのですが、わかってしまうと、これが結構楽しみなんですよね。臨場感ハンパないですし、TouTubeなんかよりも面白いです。

風の本質

 それが何か?というと、この風の話を書いてるときに、そういえばと思い当ったのですが、僕が脳内映像を流しっぱなしにしているときって、移動している映像が多いのです。前にどんどん進んでいって、風景がどんどん後ろに走り去り、次々に新しい視界が広がっていくというパターン。

 ちょっと前のエッセイに、前世のどっかで空を飛べた時期があったのかもと思うくらいリアルに思い描けると書きましたが、あれってもしかしたら風の視点なのかもしれないです。なぜなら、視点移動がダイナミックに過ぎるのですね。地を這うようなアングルで草むらを走りすぎる映像から、そのまま一気に上昇していって、はるか高空にまで行き、また急降下していくという場合も結構あって、それって鳥の視点なのかなと思ってたけど、生き物にしては変化が激しすぎて。

 ま、鳥にせよ、風にせよ、前世にせよ世迷い言なので真剣に考えるようなことではないのですが、ここで思ったのは、なんで脳内イメージ流れっぱなしにすると、こういう映像=あたかも自分が風になったかのようにびゅんびゅん流れ去っていく映像になるのか?です。

 その原因はわからんのですけど、自分の中の思考&イメージパターン、ひいては世界観やら、こうやって物事は展開していくんだって基本構造が、風みたいにどんどん進んでいくものになっているのでしょうね。よくある癒やし系自然映像のように、川のせせらぎでも、潮の満ち引きでも、どんとカメラを固定して不動の視点でじーっと風景を撮影するって感じのものは殆ど無いです。絶えず動いている。

 考えてみれば、普通の夢でも多くの場合は移動してます。誰かと連れ立って、あるいは一人で歩いてたり、駅で電車を乗り換えたり、車を運転したり、なんかかんか常に動いています。じっとコタツにはいって皆で談笑〜みたいな場面ってあんまりないかも。

 それを「風」と呼ぶかどうかは又別の話ですが、しかし、風というのは(気圧差などによる)大気の移動ですけど、空気が移動しなければ風は生じない。動いてこその風であり、全く何も動かなかったら、それは風ではないのですよ。

 僕の世界観、僕の好みでは、なんであろうが常に動いていないと気がすまないのでしょう。絶えず動いてないと死んでしまうサメや落ち着きのない子供のように。あなたの脳内画像はどうですか?動いてますか?

 ではなぜ動くのか?それはなぜ風が生じるのかと同じことなんだけど、風にせよ、もっと大掛かりな気流にせよ、あるいは川の流れ、海流にせよ、潮の満ち引きにせよ、自然というのは、もともとが動いているものです。そして、それを動かしている原動力は、気圧差であったり、標高差であったり、より大きくは地球の自転であったり、月の引力や潮汐力だったり、さらに広げればエントロピーであったり、時間の流れであったり、大きなエネルギー原理や摂理があります。その影響を地球の森羅万象は受けるのでしょう。森羅万象の中には自分も当然入るわけだから、自分もまた動いて当然なんだろう。また、そういった自然科学的な流れだけはなく、社会や価値観の移り変わりという人文社会的な流れもあるでしょう。

 かといって、そんなカンフー映画のような激しい動きじゃないですよ。動いてるんだか、止まってるんだかってくらいの感じだと思うのですが、丁度飛行機に乗ってるときに、本当は超高速で移動してるんだけど、見てる限りでは非常にゆっくり窓の外の風景が流れている、何も見えなかったら止まってるのと変わらないくらい。だけど動いているし、動いているという感覚は体内でなんとなく感じている。そんな感覚に似てるようにも思います。

 ということは、僕が風の星だからどうのって話ではなく、誰だってそうなのかもしれないです。

 ただ、自分としては風のインスピレーションはなかなか有難いものがあります。なんかしら、昔から(子供の頃から)止まってるけど動いてる感じはあったのですよね。生まれてから死ぬまで一瞬の絶え間もなく動き続けてる。自発的に動いているというよりも、より大きな力、それはもう環境と呼んでもいいくらいの巨大なものなのですが、その影響をうけて「運ばれている」くらいの感じです。少なくとも時間には運ばれていますよね。ぼけーっとしていても時は流れますし、ほっといたら時間が来て死んじゃうわけですから。だもんで時間に限らず、なんもせんでも、桃太郎のようにどんぶらこっこと流れているのでしょう。万物流転という大きな流れに。

 そういった大きな世界と自分との関連性やダイナミズムが一方にあり、且つ他方には単に流される客体としてではなく、ある程度の自発性もあり、自由に動いていきたいという感覚もあるわけで、その象徴的な表現として「風」という言葉はピピッときたのだと思います。

 「風のように生きていく」というのは、大きな力の存在を知り、基本それには逆らわずゆったり流されるのだけど、でもしたたかに流れは選んでいるし、時には流れに逆らうこともする。ナチュラルでいたいけど、自由意思も欲しい。あくまでも我は通すんだけど、大きな力のあやなり方を見極めることで、ごく自然にそうなってしまうかのようにしたい。ほけーっとリラックスして、なーんの苦労もしてないようなんだけど、でも、最後には狙ったところに持っていく。非常に都合のいい感じ(笑)です。まあ、そんな風になんでもできたら苦労はいらないんだけどね。でも、そんな感じでやっていけたらいいですよね。風になりたいです。

 風になるためには、大きな力の存在に敏感でないといけない。それも頭で考えるだけではなく、生理的に、本能的に、皮膚感覚的に。誰に教わったわけでもないのに、時期が来たら渡り鳥が旅立っていき、とある動物は冬眠したり起きたりする。彼らには大きな力や流れを強く感知する力があり、それがライフスタイルに組み込まれている。大地震が起きる前に、大量の鳥が飛び立っていくといいますけど、それも同じことなのでしょう。人間でも、年嵩の漁師さんや山小屋のじっちゃんが、微妙な空気の質感や流れを感知し、雲の動きを眺めて「午後から雨だな」とか的確に察知するようだけど、あんな感じで大きな流れを感知できるようになりたいです。

眠る技術〜呼吸と夢と自意識

 ところで、話はちょっと変って、眠ることや意識について。

 この脳内映像上映会は、眠れないときにやるととても有効です。僕も前に深夜デリバリーのバイトやってるときに、絶対に夜中の1時から朝の6時までに稼働しなきゃって感じの日々が続いた時は、前の日は夕方くらいから寝なきゃいけないわけです。でも明るいうちからそんなに眠れないんだけど、寝なきゃいけない。

 どうしたもんか?ってことですけど、前々から受験前やら大きな仕事前の休養方法ってことで学んでいたことは、「無理に寝ようとしなくてもいい」と、まずはそう思うこと。ヤバい!眠れない!とか焦ると、ますますアドレナリンが出て寝れなくなります。でも、目をつぶって身体を休めてるだけでかなり休養にはなりますから、ぜーんぜん寝れなくても、そうしているだけで良いのだと思う。そこで一点釘を刺しておかないと(開き直っておかないと)、「ヤバい!」とか思って焦って、それで疲れてしまって、それが駄目なんだと思いますよ。詳しく調べたわけじゃないけど、焦燥感などは、けっこう体力つかうんじゃないんですかね?だってアドレナリンが出るというのは、自衛隊の治安出動準備命令みたいなもので、準備するだけで数十億円くらいぶっ飛ぶらしいけど、それと同じように、それだけ体内のあちこちでエネルギーを使ってしまい、疲労するのだと思います。

呼吸四拍と筋肉ふにゃあ

 意識的にやるのは、この焦りと力みを減らすことですが、僕の場合、呼吸を意識すると良いようです。焦ってると呼吸が早く、浅くなりますから、まずこれで自分の状況を判断する。寝てるときの自然の呼吸というのは、かなりゆっくりテンポで、人にもよるとは思うけど、大体「四拍子」です。吸うのに四拍、吐くのに四拍。いち、にい、さん、しぃって感じで、吸って〜、、、、吐いて〜、、、、って。吸ったり吐いたりは最初の二拍で、あとの二泊は「タメ」みたいな感じ。焦ってたり力んでたりすると、このリズムでは呼吸がしんどく感じるはずです。もっと忙しくなく呼吸をしないと酸素が足りない〜みたいな感じがする。そうなってたら、あかんなー俺、焦ってるわ、ということで、意識的に呼吸のこのテンポでいけるように落としていくこと。それが結果的に焦りを減らしていく(ような気がする)。

 この4拍+4拍のリズムは、ちょうど波の満ち引きのリズムに似てます。静かな波打ち際で、波がやってきて寄せて〜、また返して〜ってのが、このくらいのリズム。ま、リアルな波はもっと複雑で規則正しくないんですけど、イメージとしてはそうだと。ゆっくり呼吸をすると、呼吸の音が自然に聞こえますが、それを擬似的に波の音だと思ってるといいですよ。

 それが大体軌道に乗りかけたら、今度は筋肉の緊張をゆるめることで、「力む」というだけあって、どっかの筋肉をぐわーって力を入れてたりしますから。全身の筋肉を順番に見ていって(意識していって)、「はい、ここ力抜いて〜」ってことで、「ふにゃあ」としていくといいです。全身一気にやるのではなく、ひとつづつかなり細かくやっていくのがコツ。意外なところで力んでますから。微妙に無理な体勢で寝てたりすると、どっかの筋肉が突っ張ってたりしますからね。最後には自分が地べたにべちゃ〜って広がってるアメーバーみたいになるようなイメージ。

 こういった呼吸のペースダウンとか、全身の筋肉ふにゃあ化をやってると、自然とそのことに意識が集中してきます。そこそこ意識を集中しないとうまくできないし、やってて面白いしで、やってると他のことを考えなくなるし、焦りの原因になるようなことから注意をそらす効能もあると思います。

 以上はなんの科学的な資料も裏付けもないのですが(探せばあるんだろうけど)、それ以上に経験的な裏付けはあります(僕個人のだけど)。長年いろいろ模索してて、今はこれって感じです。前のデリバリーのバイトでも、夜中の4時半から5時までぽっかり時間が空くときがありますが、その30分でもきっちり熟睡できるようになりましたからね。10分でもいけますよ。遡れば受験時代、あるいは激務時代、午後の昼下がりとか眠くなるから、そんなときに睡魔と戦いながらやってても結局は無駄なので、きっかり時間決めて寝てました。その方がよっぽど生産性高くなります。

 ま、やり方は人それぞれだと思いますけど、僕が思うカンドコロは、「全身をリラックスして〜」とかいう大雑把な言い方を鵜呑みにしないことです。そんな抽象的な指示で人の身体や心は動けない。もっと細かく、具体的な作業として落としていくべき。何によらずそうですけどね。「集中力を高めて〜」とか、言われてできるくらいだったら苦労はいらない。集中力を高めるためには、何をどうすればいいのか、です。その細かく具体的な作業工程は、自分で工夫して獲得していくのでしょう。

自意識ってなんだ?

 さて、呼吸が整って筋肉も弛緩してくると、脳内上映会がだんだん始まっていきます。それが自然に夢の世界に繋がっていきます。

 思ったのは、「起きてる」と自分では思っていても、客観的には寝てるのと変わらんのじゃないかと。「一睡もできなかった〜」という人がいますが、修学旅行や出張で相部屋になった他の人から見てたら「何言ってんだよ、よく寝てたじゃん」「寝言言ってたぞ」ってことになる。本人的にはずっと起きてたような気がするんだけど、寝てるときの記憶がないからずっと起きてるかのように錯覚してるのはあると思います。

 そもそも覚醒しながら脳内断片イメージを鑑賞してることと、夢を見てるのと何が違うのか、実は同じことじゃないのか。激しく充実した夢を見て「は、夢かあ!」って起きたとき、普通「ああ、よく寝た」って思うでしょう。だから頭の中が活発に稼働しているのと睡眠というのは両立する。そりゃREM睡眠とかいろいろあるんだろうけど、経験的にいって「夢を見たから(頭を激しく使ったから)寝た気がしない」とは思いませんもん。「いやあ、すっげえ夢みたよー」とか嬉しそうに語ってたりするわけで、夢は見てても別にいい。

 そして夢というのは、この断片イメージ上映会を真剣に鑑賞している状態だと思います。だから断片イメージを、「ほほう、ここでこうなりますか」「ああ、いいね、この感じ」とか鑑賞していたら、それは夢を見てるのと同じなのではないか。何をもって「寝てる」とか「起きてる」とか感じるかといえば、自意識の強弱でしょう。イメージに集中して自意識が薄れていって、手放してしまった状態が完全睡眠になるのでしょう。

 実際には自意識もありつつ夢(イメージ)もありつつという半分状態が多いんですけど、よくよく振りかえると、その自意識もまた夢に侵蝕されていくのですよね。夢の中にも自意識はあるのですよ。夢の世界の中で「やばい、遅れる!」とかやってるわけから。覚醒してるときの自意識が、知らないうちにだんだん変わっていってしまう。だけど、自分では起きてる=覚醒自意識が保持されている=と思ってるだけ、眠れずに起きていると思っているだけ(でも実は寝てる)ってことも多いんじゃないか。

 自意識、または医療の世界で「見当識」とか言われるものがあります。自分が自分であることの知識(名前や年齢、国籍など)、現在の年月や時刻、自分がどこに居るかなど基本状況把握のことで、この見当識が保たれていないと意識障害になってみたり、あるいは認知症の方面にいくのでしょう。だけど、自意識や見当識といっても、実はそれほど絶対的なものでもないか。読みかけて放置しておいた小説をまた途中から読み出すようなもので、最初は「何の話だっけ」「この人、誰?」とか忘れているんだけど、読み進むにつれてだんだん思い出していき、作品の世界に入っていきますが、僕らの自意識や見当識だって、小説や演劇の前提的なお約束やルールみたいなものだと思います。

 例えば、演劇や映画のカットの撮影みたいに、「はい、シーン128番いきます〜、時は幕末、場所は京都、あなたは新選組の隊士で、前を歩いている人は鬼より恐い土方副長です〜、これから夜の御用改めにでかけるってことで、はい、3,2,1、、、」みたいな感じで、その場の状況設定を理解し、自分の立ち位置を把握してやっていくのが「自意識」だと。

 僕らの日常でも、仕事の場面になれば、仕事上のあれこれのお約束があり、家に帰れば夫や妻であり、パパでありママであるというお約束があり、趣味の集まりやオフ会に出たら○○さんってことで通っており、、ということで、現実世界でもいろいろとお約束はあります。それを踏まえて、「これまでのあらすじ」もちゃんと記憶喚起して、現実に臨んでいるのでしょう。

 逆に言えば、そういう状況設定の約束事を取り払ってみたら、自意識のなかに一体何が残るのか?です。僕は、大したものは残らないような気がする。ただ単に時間と空間で織りなされる現実の認識能力だけではないか。あるいは何かを感じ、何かを思う、感性や知性そのもの、あるいは魂そのもの。

 実際、夢の中の自意識って、あらゆる制約や状況設定から自由ですから、自分の名前や性別すら意識しないですもん。夢の世界では、当たり前のように他人になってたりしますし(そのときはそれが「自分」なんだけど)、年齢だって幼児状態のときもありますから。そうであっても、それが自分だという意識はあるわけで、だから自意識=見当識ではなく、「純粋な自意識」ってかなり透明で内容も希薄なんだと思う。「今、ここで何かを認識し、感じ、思ってるなにか」でしかない。

 そして、その自意識の希薄性というのは、夢の世界だからそうなのではなく、実は現実だって似たようなものだと思います。そんな大したもんじゃないよって。もしかして、死後にも意識が残るのだとしたら、多分コレが残るんだろうな。自意識というものが、そのくらい内容希薄で、そのくらい自由だからこそ、人はあらゆる場面転換に対応できるのだと思います。これが状況設定に自意識が縛られて過ぎると、場面転換ができなくなってしまう。

 現実も夢の世界と同じくらい激しく場面転換します。自分以外総取っ替えみたいな状況だってよくある。旅行や、海外に留学・ワーホリに行った人なら分かると思うけど、出先の世界ではその状況設定に合わせた自分がおり、実家に戻ったらまたその世界での自分がいる。なんだかんだ1年やって自宅に帰って、一晩寝て、朝起きたら自分の部屋のいつもの天井が見えたら、それはもう昔のままの世界であり、出かける前の時空間にそのままシームレスに繋がっているかのようにすら思える。なんかオーストラリアに行ってたことが、まるで昨日見た夢のようにすら感じる。

 司法研修所にいってた2年間、最初と最後の4ヶ月づつは、東京の研修所に集まり、途中の1年4ヶ月は実務で全国各地に飛ばされます。僕の場合は岐阜でした。もう東京時代と地方時代で見える風景、毎日の生活、全く違います。日々何を考え、何を気にして、どういう人達が周囲にいるかも全然違う。で、実務を終えて東京で皆と再会するのですが、同じように感じるって皆言ってましたね。1年以上前の生活がまた、何事もなかったかのように始まってるから、そんな昔の話のような気がしない、まるで昨日から連続しているみたいな不思議な感じだと。

 ことほどさように自意識というのは状況設定によってコロッと変わる。というよりも、自意識そのものは空っぽの器であって、そこに何を入れるかによって全然違ってくる。

 純粋自意識は、ゲームでいえば、ゲーム機の本体やディスプレイのようなもの、あるいはゲームをする人そのものであり、その具体的内容はひたすら個々のソフトにかかっている。何のソフトも入れなかったら、何も映らず、ひたすら沈黙しているだけの存在。ハードウェアのドライバーみたいなものが自意識なのかもしれないです。

自意識過剰とか、自己感覚って何なのだろう?

 アイデンティティとか、自分が自分であることとか、自己肯定感とか、自己嫌悪とか、自己にまつわる色々な心理状態があり、それがときに厄介な問題を孕んだりするわけですが、さて、自意識というのがそこまで空っぽだとするなら、これらの事柄って一体何なんだろう?という新たな疑問も出てきます。

 長生きしちゃうと、だんだんネタがバレてくるというか、構造が見えてくるというか、長いことやってると純粋自意識に差し込むソフト(その時どきの状況設定やお約束)が累積して増えてくるのですよね。あれやったり、これやったり、沢山いろんな事やってくるから、だんだんAというソフト(お約束)を挿入すると自分の自意識はAになり、Bというソフトを挿入すると自分のアイデンティティはBになるだけじゃないかというのが見えてくる。いわゆる「スィッチが入った」状態になる。

 若い頃に必死に格闘していた自意識。よく自意識過剰で困ったりするんだけど、あれって、ただそのときのソフト(その時の状況設定のお約束)がそうだというだけであって、本当の自己とか自意識とかはあまり関係ないかもしれないのですよ。

 自己肯定感が得られないとかいうのも、これまでのお約束設定の世界でなかなか自信を持てそうなイベントに出食わさなかったというだけではないか。要はクソゲーばっかやってただけだと(笑)。

 経験数が少ないうちは、この世界は一つであり、この自分のアイディンティティはたった一つだと迂闊にも思ってしまうのだけど(まあ、普通そうだよね)、実はそんなこともない。この世界の内懐(うちぶところ)というのは、実はめちゃくちゃ多彩で複雑で、ちょっと設定を変えただけでガラッと変わるのですよね。え、嘘!ってくらい違う。一種類のゲームしかやってないと、この世にゲームソフトは一つしかないと思い、それが下手くそだったら、自分は下手くそなんだと思うんだろうけど、実はこの世にソフトは数え切れないくらいある。もう一生かかってもそのうちの1%も出来ないだろうなってくらいに大量にある。

 オーストラリアにワーホリや留学に来るのがオススメなのはそれを実感するためです。「自分ってこういう人間」とか思ってたら、状況設定をちょっと変えただけで、全然違った自分になってたりする。どんなにゲームソフトを取っ替え引っ替えやってみても、いつも同じって共通部分があるなら、それが多分自分本来の部分なんでしょう。だけどそれはいろんな状況を体験してみないとわからんですよ。

 親父は、鬱とか自殺とかそういった内省的なことには縁遠い感じだったけど、まあ、中国大陸に始まって、進駐軍、土建屋、証券、真空管、メカニック、不動産屋、飲食店経営、雀荘経営、ゲーム機リース、OA機器セールス、占い師、タクシー、ボイラー、、、あれだけいろいろな経歴=ソフト(前提情報セット)を入れ替え差し替えやってたら自我や自意識の本当の形もわかるだろうし、内省的になりようもなかったのかもしれない。親父も含め、上の世代が、殆ど出たとこ勝負の連続で、獰猛といってもいいくらいに自分の人生を生き抜いてきたのも、そのあたりの事情があるのかもしれないです。

 総じて言えば、実体験した経験数が増えれば増えるほど、自我とか自意識について無頓着になっていくのでしょう。今現在の僕にしたって、自分とはなにか?みたいなことは考えませんし、興味もない。歳を取るごとに無色透明になっていくような感じがします。どんなソフトでも入れたらそれなりに動きますからね。だから、どんなところで何をしようとも、それなりにこなしてしまうだろう。これは自信というよりもただの事実です。僕に限らず誰でもそう。大事なのはそのゲームが走るかどうかではなく(走るに決まってるんだから)、そのゲームが面白いかどうかですから。

 ところで、オーストラリアまでわざわざ来なくても、もっとお手軽に自意識変化体験が出来るという耳寄りな話は、今まで書いてきたように、夢の世界、あるいはその手前の準夢くらいの脳内のイメージ上映会で、「なぜか、地方都市の商店街を歩いている私。もう日が暮れてきて〜」とか流れるままのイメージで、その世界に没入するといいです。それって、ちょうどソフトを入れ替えた状況と同じですから。そのときの自分を(あとで覚えていたらの話ですけど)を、よくよく考えてみるといいです。「私らしいな」ってときもあろうだろうし、なんかいつも自分じゃないみたいなときもあるでしょう。状況によって自分のあり方も結構変わりますよ。

 今日寝るときを楽しみにしててください。





文責:田村


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