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Essay 957:落ち込む心理、落ち込まない技術

〜考えない技術と集中力
 自分ネタで悩んではいけないこと


2020年10月19日
写真は、言うまでもなく絵葉書ショットですが、強烈な落陽の照り返しを受けて不思議な感じになってるのが面白くて。



 コロナによる景気沈滞、将来の不透明感などによってメンタルが参ってる人が世界的に増えてきます。APLaCも、海外留学サービス業なんだろうけど、半分以上は人生相談業みたいなもので、この種のメールはよくいただきます。

 しかしこんなコロナ悲喜劇くらい、長い人生、そして長い人類史からすれば、屁みたいなイベントであり、なんでこんなもんでメンタルが落ち込むかな〜って気もします。しかし、その反面、いやいや普通落ち込むでしょ?って気もします(笑)。つまり、落ち込まない方面の流れもわかるし、落ち込む方面の流れもわかる。今回はそのあたりを書きます。

 といっても、本気で鬱病とかなんたら念慮とかいうレベルにいってしまったら、専門家のケアが必要でしょう。専門家とて万能ではないが、一般的には有用な資源ではあろうし。ここでは、そこまでひどくなってない場合、あるいは全然問題ないような場合においても、気分の上下動はなぜ起きるのか、技術的にこれを回避軽減することはできるのか?という雑談として書きます。

 要は「ものは考えよう」ってだけのことなんだけど、しかし、殆ど全てのことは「ものは考えよう」なのですよね。暗く考えたら暗くなるし、明るく考えたら明るくなるしってことで、そう言ってしまえば馬鹿馬鹿しいくらいにシンプルなんだけど、実際そういう部分はあります。

考えない技術

真犯人は「考えること」

 まず一つ思うのは、状況がヤバいから、あるいは自分自身がなにか欠点があるから、メンタルがおかしくなるわけでは「ない」のではないか、ということです。背景事情や悩みのネタとしてそれはあるかもしれないけど、「落ち込み」というメカニズムの本体は別のところにあるのではないか。

 端的にいってしまえば、なんで落ち込むのか?それは「考えるから」「気にするから」だと思います。

 いや確かに考えなきゃいけないことは山程あるんだけど、考えてばっかりだとバランス悪くなってよくない方向にいく。「考えすぎ」ってやつで、これはもうかなりそうだと思います。

 スポーツでも「ドンマイ」とか日本語になってますけど、Don't mind、「気にするな(あまりそのことについて考えるな)」というのが普通の掛け声になってるくらい、「気にする」とろくな結果にならない。それが普通の掛け声になってるということは、誰でもそうなるという普遍的な現象でもあるのでしょうし、経験的にもそうです。出会い頭にホームランを打たれたピッチャーが、いつまでもその事を気にしていたら、以後集中力が切れて、ガラガラと崩れて、大量得点を許してしまうというのはよくある。サッカーなどでも、「流れが変わる」とかいいますが、その原因はプレイヤーの心理の変化でしょう。「負ける気がしない」というくらい勢いがいいときもあれば、「どうせダメなんだから」と弱気の虫に取り憑かれることもある。気にすること、考えることでプレイの質が格段に違ってくる。だからそういう波やムラを避けるためには、考えない・気にしないということは、とても大事なことなのでしょう。

 ということで、「考えない」「気にしない」ように努めないといけないのだが、しかし、それが難しい。「よし、考えるのやめ!」って決めれば本当に考えないようになるかというと、ならない。眠ろうと思えば思うほど眠れなくなる、意識するなと思うほど意識してしまうのと同じ。

それは資質というよりは、技術である

 「考えない」「気にしない」「忘れる」というのは技術がいります。過去のエッセイで何度か書いたエピソードだけど、弁護士なりたてのころ、先輩から聞かされたのは、弁護士として重要な資質と技術は「忘れる技術」だと。その案件に着手してるときは100%記憶フル稼働でやるのだけど、一旦パタンと資料を閉じたら、もうきれいさっぱり忘れて気にしなくなること。それが出来ないとストレスですぐ死んでしまうぞと。これは技術なんだから必ず習得しておけと。

 あるいは、なにかで読んだけど、優秀な兵士、とくにイレギュラーな戦闘が日常であるゲリラ戦士の場合、5分休憩した場合、その5分間しっかり熟睡して疲労を回復できる人だけが生き延びられると。くよくよ考えてる奴は疲れてしまって、いざというときにカンが鈍ったり、迅速に動けなかったりしてすぐに死んでしまう。だから、ごく短期間であろうがスパンと気持ちを切り替え、どんな状況でも熟睡できることが生死を分けることになると。

 これは中々難しい技術なのですが、しかし、資質というよりは単なる技術ですので、誰にでも習得可能だと思います。問題は、これを技術なのだと割り切って認識することです。「自分にはとても無理だ」と決めてかかる時点でもう終わってるんですよね。技術なんだから自分にも出来るはずだ、中々習得できないのは素質がないからではなく、その技術が難しいからだと考えろ、です。実際そうだし。

自分で工夫して考えるから、それが修行にもなるし、解決にもなる

 ではどうしたらその技術が習得できるか?ですが、これって自分で考えてマスターするしかないです。僕だって完璧にマスターできてないし。人に言われて出来るもんじゃないです。それを獲得テーマとして設定して、どうしたら忘れられるのだろうか、どうしたら速やかに眠れるのだろうかをいつも考えることです。こういうことはいくら考えてもいいです(笑)。

 もうちょっとやそっとじゃ諦めず、数年がかりだろうが、数十年がかりだろうが、どうかしたらライフワーク、いっそのこと究極の悟りがそこにあるくらいに思ってもいいです。なぜなら、「気にしないこと」というのは仏教などでよく言われる「平常心」に通じるものがありますから。いついかなる状況においても、最終的には死を目前にしても、心は月光に照らされる湖面のようにあくまでも静謐であり、明鏡止水の境地に至ると。

 つまり、どうやったら考えなくなるか、気にしなくなるか?をあれこれ工夫することは、自然とどうすれば平常心を保てるか、集中力をつけられるかという修行になってるわけです。

 また、それを研究する過程で、「なぜ気になるのか」「どういう実害があるのか」「それって本当に意味あるのか」というかなり深い人生哲学にまでいくので、その過程で「気になる」対象が解毒されていくというメリットもあるのです。

 例えば、クビになったらどうしようとかいう悩みも、「そんな悩むほどやりたい仕事なの?」「天職なの?自己実現できてるの?」「朝通勤するときにブルーになるくらいなんだから、ほんとはやりたくないんじゃないの?」「やりたくない仕事をクビになるのが、なぜそんなに問題なの?」「食えるか食えないか、結局はお金の問題だけなの?」「何がそんなに恐いの?」とやってるうちに、あらゆる問題が分解されていくのですよね。

 多くの「問題」と呼ばれているのものは、いくつかの事柄がダマになってるから鬱陶しくも恐ろしげに感じられるだけのことで、丁寧にほぐして分解していってしまえば、一つひとつは実はそんなに大した事ではなかったりしますからね。てかさ、自分でも不愉快に感じてる、出来ればエスケープしたいようなクソな現状を維持するために必死に頑張っているというバカバカしい構造が浮き彫りになったりしますよ。イヤなことを必死で我慢するのは何のためかといえば、イヤなことをやり続けるためだって、おかしくないか?と。

 ぶっちゃけて言えばさー、考えて落ち込むのって変ですよ。
 なんかどっか濁ってるんですよね。思考のスープを作ってるときに、あれこれ材料をぶち込んでいけばいくほど、いいダシが出て美味しくなるもんです。それが美味しくない、クソまずい、どうかすると毒汁みたいになってるというのは、なんか素材のどれかが腐ってるとか、毒入だったりするからでしょう?解きほぐしていくと、そのへんが段々見えてきますよ。ダマにして一緒くたにしてるから、何もかもがクソに見えるけど、大体において一つか2つ変なモンが入ってて、それが全体を毒にしているだけですよ。

 会社行きたくない、出社拒否だ鬱だといって、じゃあなんでそんなにイヤなの?と突き詰めていくと、別にその業界自体が嫌なわけではない、てかむしろ好き、その会社もまあ理想とは言えないまでも悪くはない、今の仕事だってやりがいを感じるときもあるわけで全くダメってわけではない、、と詰めていくと、上司同僚のなかにたった一人、すごいキライな奴がいて、そいつに会ったり、なんか言われるのがイヤだとか、原因を掘り下げていくと小さな一点に行き着く場合もあります。さらに掘り下げて、じゃあその人の何がイヤなの?とさらに詰めていくといいです。逆に、全体の構造そのものがキライだというなら、もうウジウジ考えるだけ時間のムダで、転職するっきゃないでしょう。大決心のようでいて、昔の出家とか脱藩に比べれば、現代の転職なんかさしたる問題でもない。どうかしたら引っ越しよりもありふれてるくらいで。

 ということで、自分の気分のコントロールすること、その技術論にもっと自覚的になった方が良いと思います。それが出来るほど人生のあらゆる局面で有利(仕事でも試験でもパニクったらろくなことにはならない)だろうし、「生き延びる」ということを真剣になればなるほど、この問題にぶち当たるだろうし、乗り越えようとするはずです。

 

集中力=気にしないこと

 こういう技術をどこで学ぶかですけど、僕の場合は、やっぱり司法試験の受験の時でした。まず最初に短答式試験というのがあり、三段階試験の一番目にくる足切り試験のようなものですが、これが中々難しい。僕らの当時、大学在学4年次までに短答に受かるのは、関西でいえば関関同立レベルでもほんのちょっと(よく覚えてないけど四校まとめても10人もいない感じ?)。

 司法試験は頭の良さと同時に「頭の強さ」を試されると言われてましたが、その意味がわかりました。何が難しいかというと、ありえないくらい頭を超高速にフル回転させない部分が難しい。やたら考えさせる問題が多く、知識でパンパン解けるような問題が少ない。だから時間が極端に足りなくなる。それが3時間で90問とか、3時間半で75問とか年によって違うんだけど、普通にやってたら5分以上かかりそうなのを2分弱でやれと。そのハイパー高速回転を3時間ぶっとーしでやらないといけない。耐久レースというか、知的スタミナがいるのです。「知恵熱が出る」ってことに意味が初めてわかったのもこのときです。

 それは集中力の勝負です。3時間もやってると、ふっと意識が遠ざかるというか、エンジン焼ききれてきて、考えてるけど考えられてない、読んでるけど読んでないというギヤが噛み合わないようなときもでてくる。それを集中力一発でねじ伏せて、ねじ伏せてやっていくしかない。なんせ、2.5万人の受験者から合格者4000名くらいに足切りするんだけど、ボーダーラインあたりでは1点に千人以上ぶら下がってるというから、落ちる人はあと1点、2点で落ちる場合が多い。つまり、あと一歩の集中力が足りない人は、ここで落とされてしまう。それもあってか、準備のしようのない一発勝負の知能パズルみたいな問題も入れてるから、苦節10年どころか、百年かけて準備しようが、集中力がない人は「実務に向いとらん」ということで切り捨てられる。

 だから対策としては、否が応でも「集中力とはなにか」を考えざるを得ないのです。あとから考えたら、たしかにこれは実務では必要で、その上の論文試験ではもっとタスク量が増えてさらなる集中力が必要とされ、合格して司法研修所の最後の卒業試験(二回試験)では一課目の試験時間が7時間半ですから、それだけの長丁場をフル稼働させなければならない。そして実務についたら、さらに過酷。なぜなら今度は「邪魔」が入るのですよね。集中して文章書いてるときに、ガンガン電話かかってくるわ、人は訪ねてくるわ。いやあ、邪魔が入らないで集中できた試験は天国だったわ〜って思うようになります。

 ということで集中力錬成〜!て力んでいました。なんせこれで一生が決まりますからね(今から思えば別にそんなことないんだけど=結局オーストラリア来ちゃってるわけだし)、集中力自信ありません、出来ませんは通用しない。「出来ない?じゃあ死ね」ですから。なにがなんでもやらなきゃいけない。考えまくったのですよ。

ナチュラルな連想発想を早めに潰すこと

 だんだんわかってきたのは、集中力が乱れるときって、他の(しょーもない)ことを考えてるときです。ついついいろんな事考えたくなるんだけど、そこで引っ張られないで、切り捨てること。つまり今回のテーマである「考えない技術」です。

 人間の思考というのは、夢の世界がそうであるように、あるいは他愛のない雑談がそうであるように、連想発想を基本としていると思う。論理系統ではない。ある物事を語ってる間に、「そういえば」「○○といえば〜」と、それが連想させる全く違う物事にぽーんと移り、またさらに連想される違う物事にぽーん移る。めちゃ移り気。同じことをずっと論理的に考えていくってのは、人間の脳味噌の働きとしてはあまりナチュラルではないのでしょう。なんでそんなに移り気連想系なのかといえば、同じことずっと考えてるのは退屈なんでしょうね。本質的にミーハーと言うか、目先のちょっとしたヒラヒラしたのにポーンと飛びついてしまうんでしょう。また、そのくらいの方が、自然状態では、外敵の存在に早く気づくとか、変化を察知するには向いているのでしょう。あまりにも集中力のある個体は、なにかに夢中になりすぎて、背後からやってきた野獣に気づかず食われてしまってたのかもしれません。

 だから何かをやってるときにポンポン思考が飛んで、集中力が続かないのは、別に悪いことでもなく、むしろ健康なことなのだと思うのです。ただ、試験など一定の場合においては、それをやってるとダメだから、不自然なんだけど、一つのテーマに思考を固定しないといけない。そして、次の問題になったら、前の問題はきれいさっぱり忘れないといけない。オン・オフのスィッチをかなり意識的にしないといけない。

 実践面でいえば、とりあえずポンポン飛ぼうとする自分の思考をまず認め、飛ぼうとした瞬間にばさっと切っていくことです。「そっちいっちゃダメ」と。他のことを考え始めてから時間がたつほどに切り捨てにくくなります。考えが進むほどに面白くなりますからね。どんどん膨らんできて収拾がつかなくなる。だから、考えはじめたその瞬間にガシャン!と回路を切断するのがコツ。どうかしたら考え始めそうになる兆候の部分でカットすることです。

 あと試験中に他の事を考えてしまうネタなんか大体決まってるんですよね。「落ちたときの言い訳」「落ちたあとの身の振り方」などが定番のテーマです。ああ、全然わからんよー、くそお、今年もダメかあ、ああ、あんだけ頑張ったのになあ、親とか彼女とかに顔向けできないよ、なんと言えばいいんだ、やっぱ真面目に就職しようかな、とかそっち方面にいくわけですよねー。

 だからもう最初に決めておくのですよ。落ちたときのことは一切考えないと。だってそんなことは落ちてから考えたらいいわけだし、どうせ試験が終わったら嫌でも考えるだろうし、それを試験中に考える必要なんかないわけですから。

 これは試験に限らず何でもそうです。いざ戦いが始まってしまったら、もしダメだったらとか考えてはいけない。

絶対執念

 もう一つ、全然別の方面からの対策があります。それは「執念」です。
 これは皆そう言いますねー。やってる最中は、「ああもうダメだ、ああ苦しい、もう辛い、全然出来てる気がしない、なんでこんな次から次へと意地クソ悪い問題ばっか、あーもー100%不合格確定じゃん、これ以上頑張る意味ないよな、もう楽になりたい〜」みたいな意識との戦いです。マラソン選手みたいなもんね。

 そういうときが勝負の瀬戸際であり、「ここ一番で勝負強い人」とか「勝ちグセをつけてる人」というのは、そこのメンタルが鋼鉄のように強いのだと思います。もう際(きわ)の際、刹那の刹那というギリギリのマイクロ秒の世界、全てがスローモーションになってるような世界において、心が折れない。「うるせー、バカヤロー、ぜってー通るんだ、負けてたまるか、ぜってー勝つ、決まってんじゃん」とガンガン思い続けられること。

 それが出来るのは「執念」だと言います。何がなんでも落ちるわけにはいかないんじゃあああああ!!という執念です。もう受かるか死ぬか。試験やってて、わからないよー、もうダメだよーとなったら、「じゃあ今死ねよ」ってくらいの。

 結局精神論なんだけど、精神に関するマネージメントなんだから精神論になって当たり前でもあります(笑)。ただね、これも皆が言いますけど、それだけの執念を湧き上らせるためには、それをやることに自分が十分に納得してなきゃいけないです。なぜその試験を受けるのか、なぜそれをやるのか、です。そのモチベーションみたいな部分がしっかりしてなかったら、執念なんか出てくるわけないです。

 だもんでなんでそれをやるの?という原点になる思いが強ければ強いほど、自然と精神パワーは出てきますし、それがダメだったときは、、みたいな弱気にもなりにくいです。

 よく言われることですが、根拠のない自信のある人、どっか楽天的な人は資質として成功すると。どう考えても成功するわけない、俺なんかに出来るわけ無いだろって冷静に思うんだけど、でも同時に、「しかし、なんだかんだいって、最後の最後には不思議とできちゃってるんだよな、俺の場合」って無邪気に思える人。

 しかし、これもちょっと文学的な言い回しであって、もう少し理屈で説明するなら、それを「やりたい!」って思いがものすごく強いだけなんだと思います。子供の頃、草野球とかやってて、新品のグローブとか買ってもらった時は、もうそれを使いたくって使いたくてたまらなかったりするわけですが、そんなときに限って雨が降ってたりして、外にいけず。それでもグローブ使いたくって、5分毎に窓から外を見て、あ、だいぶ小雨になってきてるぞ!(なってないんだけど)とか希望的感想を言い続けたり、最後には諦めきれずに狭い家の中で弟とキャッチボールをはじめて、ボールがそれて親父の頭にあたって、死ぬほど怒られたことがあります(笑)。

 本当に「やりたい!」って思ってる時は「もしダメだったら」なんてことはそもそも考えないんですよね。状況的にあからさまにダメだったとして、それでも諦めない、認めようともしない。合格発表に自分に名前がなかったとしても、落ち込む前に、「そんな馬鹿な!」と事務局に詰めよって「明らかにミスがあります」と談判を始めるくらい諦めない、認めない。逆に言えば「もしダメだったら」とか考えがちの人は、本当にそれがやりたいの?ってところから検証したほうがいいかもしれない。

 根拠のない自信の本質、楽天性って、単にものすごーくそれがやりたいだけなんじゃないかって気がします。やりたい思いが強すぎるから、それが出来ない場合とかネガティブなことを考えたくもないし、そんなわけないだろって思うんでしょうね。

 いろいろ書きましたけど、実際の試験になったら、「うぉりゃあああああ!」みたいな勢いでやれました。こんなところでコケてる場合じゃねえんだよ!みたいな、もう喧嘩腰で(笑)。ほんと理想的に燃え尽きることで来て、知恵熱が出て、終わった後はしばらく(30分くらい)廃人みたいな痴呆老人状態になってて(タバコを一服しようとしてもポロポロ落として)、いやあ大変だったけど、気持ち良かったです。あそこまでいくと、仮に結果がダメでも受け入れられたような気もしますね。

 そういう経験が出来たというのが、かなり大きかったです。なんだかんだいって、それが一番大きな資産になったのかもしれない。法律知識とかさ、別に今あってもそんなに役にも立たんし、金なんか使ったらそれで消えてしまうし。でも、「あそこまでいけた」「自分はあそこまではいける」という自信、また集中力とかそこらへんについても、そうそう人後に落ちることはないだろうという自信もつきました。それがその後の人生で、いろいろな局面でかなり役に立ったと思いますし、これからも役に立つでしょう。

 このエッセイでも過去に執拗なくらいに「本当にやりたいことをやればいいよ」「やりたいかどうかの感性を鋭敏にすることが何よりも大事」と書いてますが、本当にそれがしたかったら、ネガティブになりようもないんですよ。本気でやりたかったら、もしダメだったらなんてことは考えないし、多少ダメでも中々諦めないし、必然的に執念もわくし、それが一番楽しいから雑念が湧いて集中力が途切れることもないし、そのためのあらゆる努力すらも至福の時間に感じられるだろうから辛くもないし。

 これが根本的なところでやりたくないことだったら、あらゆる部分で障害が発生するでしょう。やりたくないんだから執念なんか湧くわけもないし、集中なんかしたくもない。もしダメだったらというネガ思考も、本心ではダメになればいいなくらいに思ってたりするわけで(だから無意識的にはポジ思考だったりする)。そのための努力も、やりたいことなら10時間やっても疲れないけど、やりたくないことだったら1分やっただけで疲弊する。これでうまくいくわけないですよ。それでその上手くいかないことでまた悩むという、もうネガの永久機関のような。

 余談ですけど、逆にポジティブ過ぎるのも考えものですよね。どんな場合か?といえば、競馬や株にハマってしまった場合とか、ストーカーの場合です。これらはポジティブが昂じて冷静な判断ができなくなっている。場合によってはサイコパスにすらなる。もしダメだったら?とか絶対考えない。いや考えろよ、どう考えても無理だろ?ってことでも、いや百万分の1であっても可能性があれば無理ではないとかいって、しまいにその百万分の1の可能性が絶対確実なものに思えてくるというくらいイカれてきます。

 あの〜、ここで執念とかなんとかいってるのは、試験時間中、本番中だけの話ですよ。その前提での戦略立案段階ではネガなこともこれでもかってくらい考えますよ。クールすぎて絶対零度ってくらいドクールに、あらゆる可能性を冷静に推し量って、やる・やらないを決めますし、手順もかなり綿密に詰めます。それこそヒマラヤ登山くらいに何百ステップにも切っていって緻密に考えますよ。それだけ考えてコトに臨むからこそ、いざ号令一発本番が始まってしまったら、吹っ切れて真っ白になれるのです。そのあたりお間違えのないように。

気持ちの切り替え

 話を戻して過去の体験談ですけど、だけどそうやって短答受かってやったぜという年、次の論文試験で大きなポカをやらかしました。3日連続で試験があるんだけど、初日の試験で、大ミスをやってしまったのですね。商法だったか、株式会社における株主総会と取締役会と監査役の「関係」を論ぜよっていう問題なのに、何をカンチガイしたのか、「関係」を読み落として、ただただ並列的に書いてただけでした。「関係」に気づいたのは提出5分前で、「きゃー!」ですよね。もう必死になって、最後に数行付け足したのですが、もうあからさまに取ってつけたような文章で、クソ丸出しで、「あ、終わった」と思ったですね。

 その日は半泣きになって帰りながら、もう明日から受けるのはやめようかなと思ったくらいなんですけど、まあ気を取り直して二日目以降も受けました。が!終わった後(その年は不合格だったが)、開けてビックリ玉手箱じゃないですけど、大失敗したという初日の科目はそんなに悪くなかったんですよね。あの頃は、成績通知が始まったころで、4000人の受験生のうち上位500人が通るわけですが、1000番までがA、1500番までがB、以下C、Dと続き最低ランクがGでした。その初日はなんとBだったんですよね。そんなに言うほど悪くなかった。全部Aを揃えたらまず合格し、多少BやCがあっても他が良ければ合格すると言われてたんですから、そんな落ち込むことはなかった。

 しかし、初日のミスをひきずっていたのか、2日目の刑訴法だったかな、大得意の科目だったはずなのに、なぜか死んでしまえ的なG評価だったんですよ。どこで何をどう間違えたのかはわからないんだけど、そんな点取るわけないのに取っていた。なぜダメだったのかわからないというのはミスとしては最悪の種類で、よっぽどありえないミスをしていたことになります。それだけ「心ここにあらず」だったんでしょう。あとの科目(全部で7科目)は、商法のB以外、大体Aにおさまってたから、刑訴で大ミスをしなかったら、その年に合格していた可能性が高いです。受かってたら23歳合格だったのに〜(しかしそんなこと言えば誰もがそうだから意味ないけど)。

 ここで学んだのは、気持ちを切り替えるということの難しさと大事さです。
 それから丸々1年またかかったわけですけど、高い授業料だったけど、払うだけの価値はありましたね。気持ちを切り替えるとかいうけど、切り替えた気持ちになってるけど、実は難しい。でもそれが出来ないととんでもない代償を払うことになるぞと。

 ここでまた気持ちを切り替えるとはなにか?を必死に考えるわけです。結局、集中力と同じことなんだけど、いざ本勝負になったら、ただただそれをやるだけのマシンと化して、一心不乱に無心になるしかないんだなと。それをやる意味とか、それが人生にどういう位置づけになるとか、それまでさんざん考えてことも何も一切考えずに、純粋にただそれをやるだけの存在になることです。

 そういう状態、みなさんも経験あると思いますが、自我もないです。自分が〜、俺が〜とかいう意識すらない。本当に夢中になってるときは、無我の境地っていいますけど、我もなくなりますよね。問題は、そういう精神状態にどうもっていくかであり、日頃から気をつけて練習していくしかないです。これも同じことですが、大体邪念に引っ張られてダメダメなときは、最初からそれをやるのにどっかしら納得してない場合が多いです。

 結局、その前提作業、下ごしらえみたいな部分で結構決まってくるような気がします。なぜそれをやるのか、本当にやりたいのか?という根っこの部分で腹を括るとというか、自分の価値判断や価値体系をしっかり整理して、おーし、こういう人生でいいぞ、それで結果がどうなろうが悔いはないぞーと吹っ切れるかどうかで決まるんじゃないかな。「皆やってるから」とか、「何かと有利っぽいから」程度だったら無理じゃないですかね。

 ちなみに翌年は論文まで合格したけど最後の口述でまさかの不合格、試験官のあたりが悪かったという不運以外の何物でもないって感じだけど、翌年は「人生における運の要素の巨大さ」というものを思い知らされましたね〜。「いやあ、運ってあるよね」ってただそれだけのことを噛みしめるために、また丸々一年バイトに明け暮れてたわけで、そのくらい時間をかけて魂に刻み込まないと教訓にならないのかもしれないけど。しかし、一次、二次、三次と一回づつなにか貴重なものを学んでいるわけで、そういう経験が資産になっていくのでしょう。

 というわけで、気持ちのコントロールって難しいんですけど、それだけにやる価値はありますし、単にコントロール以上のなにかが学べると思いますよ。

 と同時に、そういうメンタル管理やコントロールってめちゃくちゃ難しいので、出来て当たり前、出来ない自分はダメだとか間違っても思っちゃダメですよ。もしそれが本当に出来たら、即身成仏できますよ、千日回峰を成し遂げた阿闍梨の称号を与えてもいいくらいですよ。ちょっと出来ないくらいで落ち込むなんて、僭越過ぎて許されないですよ。お前何様だと思ってるんだって(笑)。そのくらい超難しいことは、それだけに栄養分も豊富なので、それに真剣にトライすれば得るものは大きいよってことだと思います。

悪しき思考水路〜自分ネタで悩まないこと

 くよくよ考えてネガティブになってしまって、それで落ち込む場合、何が悪いのか?ですが、おそらくは悪い方向に考えるから、あるいは思考のパターン、水路みたいなものがあって、それが良くない水路に固定されている点が問題なのだと思います。

 いくら考えまくったって、それが気持ちいい妄想、桃源郷のような夢物語だったら、考えれば考えるほど幸せな気持ちになれるだろうし、すぐにスースー熟睡するでしょう。つまり考えること自体が悪いのではなく、考える内容、考えるパターン、水路が良くない。

 そのなかで、特に思うことなんですけど、「自分はどうしてこうダメダメなんだろう」って、自分のことを対象やネタにしない方がいいです。大体話を聴いていると、そこでひっかかって、迷宮に入ってる場合が多いような気がするのですよ。

悪いループ

 自分ネタがなんで良くないかというと、悪いループになるからです。
 なぜか?ダメな自分をなんとかしようと思っても、それを解決するのがダメな自分なんだから、ダメに決まってるじゃないですか。

 つまり問題定立の論理構造としてヤバいんですよね。ダメな自分=問題の所在、それを解決する人=ダメな自分なんだから、最初に自分をダメと置いてしまった時点で、解決方法も封鎖してしまうのですよ。まあ常にそういうパターンになるとは限らないけど、大まかにいえばそれに近い。

 今ここで、決断力のない自分がイヤだな変えたいなと思うとして、じゃあどうやってその問題を解決するかといえば、あまり生産的な解決方法を思いついてもいないでしょう。生産的な解決方法というのは、例えば、羨ましいくらいに決断力のある友人がいた場合、決断力がなくて困るような局面(服選びとか)に一緒につきあってもらって、決めきれなくて悩んでる場合に、「君だったらどうする?」と聞いて、決断力とはなにか、その本質はなにか、どこにコツがあるのかを身近に学ぶとかさ。「僕だったらこっちにするな」「なんで?」「うーん、なんとなくだけど、服なんかさ、なんとなく決めるもんでしょ?好き嫌いに理由なんかないし」とか、あるいは「決めきれない時は安い方にする。決めきれないなら百年悩んでも決められないし、どっちを選んでも同じことなら、別の基準、値段とかで決めるしかないじゃん」とか、今までの自分の中にはなかった発想法などを知り、「なるほど〜、そういう考え方もあるのか」「そこでもう割り切っちゃうんだな」と学んだり。

 ちなみに決断力というのは、この種の割り切りが上手か下手かって場合が多いですね。さらに「割り切り」とはなにかといえば、「諦める力」でしょう。二兎を追う者は一兎をも得ずじゃないけど、2つは得られないなと思った時点で、どちらか一つは諦めることになりますが、諦めるというのは切ないもので、その種の不快感はあります。スパンと諦められる人は、切り捨てる精神的苦痛に対するストレス耐性が高いとも言えます。あるいは、それがストレスにならないような論理的納得手順を構築するのが上手なのでしょう。まあ、簡単にいえば「大人」なんでしょう。駄々こねててもしょうがないよねってわかってる。

 でも大体悩んで落ち込んでる人は、そういう生産的な解決方法をあまりしませんよね。思いつかないというか、大体は、「次から頑張ろう」くらいの話になってしまう。そして、次もまたやっぱりダメで、「ああ、なんてダメなんだ」とさらに傷口に塩を塗り込むような話になる。つまり考えたり、解決を図っているようで、大した工夫もしないまま「頑張ろ〜」だけで突撃するだけ。でも最初からダメだという先入観を抱えて頑張っても成功率低いから、結局ダメなまんま。かくしてダメだという問題状況をいたずらに反復継続しているだけ、ダメ意識を一層深めて傷を深くしているだけってことになりがちでしょ。

 だから、自分のことは悩みのネタにすべきではないと思いますね。
 少なくとも、それを解決するのもまた自分であるならば、成功率は低くなるわけですから。

問題は自分でも解決は他人がやるならば良い

 これが問題は自分にあるんだけど、解決は他人がやるという分業体制を構築できるなら話は別ですよ。例えば、体調が悪いとかいうなら、解決するのは医者という他人です。あるいは、心の問題であるならカウンセラーとか他の専門家の助力を乞うとか。自分の悩みが容姿容貌などであれば、金払ってでもスタイリストに見てもらうとか、メイキャップアーティストにやってもらうとか、場合によっては整形だってありでしょう。

 そうではなく、自分の問題を自分で解決しようというのは、注意が必要だと思います。一般的には「するな」ですけどね。自分で解決できるくらいなら、最初から問題になってませんよ。また解決方向に向かえるような物事だったら、最初からそこで悩んだりもしないです。尊敬できる人に接して、ああ凄いな、自分も頑張らなきゃなって素直に思える時は、そんなに悩みもしないですよ。ああなりたいな〜と素朴に思って、素朴に頑張るだけでしょう。

 また単純に、前回もちらっと触れたけど、自分育てゲームのような、自分いじりをして遊ぼうというならいいですよ。前提がポジティブですからね。

モノの考えかたを変える

 それでも自分のダメダメ度を問題にしたくなったら、物の考え方を変えるといいです。

(1)自分ネタは一切禁じ手にすること


 解決不能の泥沼にはいっていって、みすみすメンタルをやばくするリスクが高いから。オススメです。

 僕自身、自分でもダメダメだと思ってるけど、でもそこで悩むことは殆ど無いです。そういうことで悩むのが許されるのは思春期か高校生までってことで、その時期に「そんなことで悩んでたって埒が明かないな」「あんま意味ないな」ってわかってなきゃいけないと思うのですよ。

 子供に親は選べないとかいいますが、自分で自分も選べない。それに限らず、所与の前提条件というのは選べないものが多いです。性別であれ、容貌であれ、身体条件であれ、健康であれ、どの国に生まれるか、どの時代に生まれるか、どういう才能があるかなどなど、全く選べません。与えられた偶然の前提でやってくしかない。そして、それは万人が同じことです。麻雀の配牌と同じこと。

 だとすれば、考えるべきは、その前提でどうやっていくかであり、あるいはその前提を正確に知ることでしょう。自分がもってる潜在的可能性を十分に引き出せているのか?といえば、全然でしょ。欠点と長所は表裏一体で、そんなの見方一つですから、それをいかにいい方向に転がしていくか、どうすればいいのかなど考えることは他に山程あります。なので前提のココが足りない、あそこがダメとか、そんなこといってたってしょうがないでしょう。それを嘆いているうちに、ブーってブザーが鳴って、「はい、お時間ですよ〜」って人生が終わってしまっていいのか。


(2)そもそもダメだという認識が間違ってる場合が多いこと


 殆どの場合がコレだと思うけど、え、なんでそんなところで悩むの?別に問題になってないじゃんってところで、なぜか本人だけが自分はダメだと固く信じ込んでいたりする。ダメとか良いとかいうけど、意外と基準が曖昧だし、デタラメだったり間違ってたりする。

 これはその人から見て「いいな」と思う理想の人が、実は自分ではそう思ってなかったりするのと照応します。例えば、自分は自信がなくて何にでも尻込みしてしまう、その点、Aさんはガンガン前にいけてすごいな、いいなと思ってたとしても、実はAさんに聴いてみたら、全然イケてるとは思ってなくて、同じように尻込みするビビリな自分が大嫌いで、だから自分を罰するくらいの気持ちで、何でも前に出ろと罰ゲーム感覚で必死でやってるんだよってことかもしれない。あるいは、前に出るのは地でやってるんだけど、そういう出しゃばりで、目立ちたがり屋な自分が軽薄で浅ましくて自己嫌悪にかられているとかいうこともあるかもしれない。

 これは結局、リアルな人間存在に、そう簡単に良いとかダメとか平面的な決めつけ評価をすることが、いかに間違ってるか、いかにトンチンカンなのかを示すわけで、そんなアホアホな基準で悩んでたら救われるわけがないだろ?と。

(3)解決のハードルを下げたり、方向性を変える


 例えば、自分がシャイで内向的で人見知りで社交的でないのがダメだと思うとしても、だからといって社交的になれるくらいなら苦労はない。ただ、解決としては、社交的(やたら陽気に愛想が良くて、誰とでもガンガン盛り上がれる)にならなくてもいいから、いつも軽くニコニコすることだけを心がけようとすればいい。緊張しすぎて仏頂面になって、それで周囲に気を使わせたり怖がられたりするという場合が多く、軽くニコニコしてるだけでほぼ問題は解決するという場合が多いですよ。物静かにニコニコしてるだけの存在を、人は一般に好ましく思うものですもん。むしろやたらギャーギャー騒いでるような人には、うるさいよって反感もあるので。

 ところで僕もときどき日本に帰って、あっちゃこっちゃでオフをやって、皆とギャハハ!と笑い転げてますけど、だからといって、自分が「社交的」だと思ったことは、実は一度もないし、社交的になりたいと思ったこともないし、今も思ってないです。皆と楽しくやってるのは、社交的だからではなく、皆のことが好きだからだし、好きな人達と一緒にいたらそりゃ朗らかな気分になるでしょ。それだけのことです。そして、それが結果的にできているのは、むしろ非社交的なだからと思ってます。イヤなヤツとは無理に付き合わない、誰かに対してムカついたら、何の立場的制約もシガラミもなく心置きなく喧嘩が出来る自由だけは確保したいなと心がけているし、自分はこういう人間でこう思うというのは多弁に発信してる。だから結果的にイヤな人は向こうから寄ってこないし。「社交」というのがイヤなやつとでも表面的に楽しそうに振る舞うことであるなら、そんなことしたくもないね。まあ、社会的技術として、やれといわれたらやるけど、可能な限りそんな局面に身を置きたくはないですね。

(4)短所以上に自分の長所を探して活かせ


 (1)とやや重複しますが、ダメな自分を抱えて困ってるというのは、実は万人がそうだといっていい。自分だけが不幸でもなんでもないし。それをするなら、自分の活かし方、自分の長所をもっとよく探したほうがいい。そして、それは他人のためにもなるし(他人に助力できる領域を増やすことにもなるから)

(5)もっと他に悩むネタを探せ


 そんだけ悩むエネルギーがあるなら、発電できるんじゃないかってくらい資源の無駄遣いなので、もっと意味あるネタで悩むべき。例えば、どうしたら英語がもっと話せるようになるんだろうか?とか、そっちで悩んでた方が生産性が高い。


コロナに関して

 最後にこのコロナ時期にメンタルがやばくなる件ですけど、純粋経済的理由で困ってる場合は、純粋経済的に解決を図るしかない。失業して困ってるなら、職を探すことから始め、経費節減方法を考え、公的扶助その他のヘルプを利用する方法を考えってやっていくことです。一番困ってる人達は、自分でビジネスをやっている経営者や商店主の方々でしょう。毎月の赤字額が個人生活の何十倍もあるわけですからね。だから四苦八苦しながらもやり繰り算段を考え、場合によっては閉業や撤退も考え、抽象的に「悩む」というよりも、具体的に考え、日々実行しているでしょう。

 だけど多くの場合、そこまで具体的に困ってるわけでもない。では混迷の世界経済や日本経済を憂慮して暗くなっているのか?といえば、失礼ながら、そこまで経済に精通している人も少ないような気がしますね。なんとなく景気悪そう、生活ヤバそうとかいう漠然としたあたりでしょうけど、それは日本の場合この30年ばかりずっとそうだったわけで、何を今更でしょう。

 コロナで何が問題かといえば、「ヒマだから」じゃないかなー。妙にヒマというか、中途半端に手持ち無沙汰な時間が増えてしまって、かといってばーっと発散する物事もなく(スポーツ観戦、応援合戦、どんちゃん飲み会、観光旅行、コンサートなど)、ヒマだから考える時間が増えてしまったのが原因じゃないかと思うのですよ。

 ここで冒頭に戻ります。なんで落ち込むのか?それは「考えるから」「気にするから」でしょう。

 考える時間が増えることで、抜本的に生活や人生のありかたを考え直すという良い機会にもなります。そういうのは問題ないし、それでメンタルがやばくなることは少ないでしょう。やばくなる、落ち込むというのは、考えてる「だけ」だからであり、さらにちょっとキツい言い方をすれば、考えているその思考内容やパターンの質が低いんだと思います。考えてるようで、全然考えてないじゃんって。考えすぎとかいうけど、考え足らずだと。

 普通に歯車が噛み合った考えをしてたら、考えてばっかりということは無いはずです。考えてる途中で、「あれ、ここは本当のところどうなんだろう?」とか疑問が沢山出てくるはずだし、そこで調べたり、現場行ったり、試しにやってみたりするでしょう。そこまで思考一辺倒ってことはない筈です。いいバランスで行動が組み込まれていく筈です。自宅に座していながらこの世の全てを知悉している人なんかいないわけですからね。

 そして現場に出て、何を体験すれば、新しい知見がどっと押し寄せてはいってくるし、それがまた新しいヒントになってみたり、考えを進めたりもします。でも、悩んでるだけの人の場合、メンタルやばくなった人の通例だけど、手数が減る。そして、前提情報やステレオタイプというのも愚かしいくらいの中途半端な決めつけ、先入観などで現状認識をして、それで困って悩んでいるという。それじゃ物事が好転するわけ無いですよ。時代が大きく変わるのが不安だというなら、じゃあ具体的に何がどう変わっているのか、日々刻々と変わるというなら日々刻々と定点観測をすべきです、自分の目でね。

 ロックダウンがメンタルに悪影響というのは、こういった思考と行動のバランスを思考過多に陥らせること、メンタルの新陳代謝を悪くするからでしょう。

 でも、日本の場合、それほどきついロックダウンはやってないです。コンサートとか集会は制限されてるから娯楽は減ってるけど、それでも夜間外出禁止とか、メルボルンみたいに5キロ以上遠くに行ってはいけないとか(25キロに緩和されたけど)、そこまで厳しくないわけで、ならば出来る範囲で新陳代謝やメンタル血行を良くしたらいいと思います。

 このように悩みの対象が客観的なものである場合(経済とか暮らしとか)、まだしもより広く、より新しく、より正確な情報をせっせと集めて更新することで前に進んでいけますが、悩みの対象をこと自分自身に置いてしまった場合、そういう打開策はないわけで、ひたすら落ち込みループにはまるだけってことになりがちです。その意味もあって、自分ネタは禁じ手にしたらいいです。少なくとも気分が落ち込んでる時はやらないほうがいいです。やりたいなら気分がアッパーなときにやるべき(だけどアッパー気分のときは自分のこととかそんな考えないんだけど(笑))。


 あと、客観的な話で、これで経済がダメになってもう仕事もなくなって、餓死するしかないんだ〜とか思ってるなら、それは杞憂ですよ。これだけの人数がいて、これだけの水準の生活を維持しようという絶対需要は何ら変わってないのですから、仕事そのものの絶対量もそれほど変わらない筈です。そして、コロナ不況だろうが、AI進展だろうが、それで職が減るよりも、日本の場合は労働人口の絶対減少の方が激しいですから、職さえ選ばなければあぶれることはない筈です。

 むしろ問題は、いかに職を選ぶかであり、同時にいかに職を選ばないかです。つまり2つの基準(何でもやったるで〜という基準と、本当に好きなことしかやらないという基準)を同時に適用しながらやっていくという、その戦略論の方が難しく、且つ面白いです。ダブスタでやると。でもそれは長くなるからまた別の機会に。でもそれって、基本面白い話なんで(人生にいろいろな変化がつけられ、多くの可能性があるという意味で)、落ち込むような話ではないですよ。





文責:田村


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