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Essay 956:「エリート定食」のマニュアル世界観と貧しい人間共感力
〜エラくなることが自己目的化している人々
〜なんでこんなにズレてんの?なんでこんなに人の痛みがわからんの?
2020年10月12日
写真は、Ashfield. 今年の1月(真夏)くらいに撮ったのですが、チャイニーズの街のAshfieldも見るたびに国際色豊かになってきてますねー。そのとき「へえ?」と思った写真をいくつか最後に載せておきます。
予算から透けてみえる世界観と人間性
先週発表されたオーストラリアの新予算案が、ちょっと唖然とするくらい納得しがたい感じになってます。それを細かく書こうかなと思ったけど、多分、退屈しちゃうんじゃないかと。詳細は調べればいくらでも出てくると思いますので、ごくごく簡単に要旨だけをいいます。わりとコンパクトに、しかし鋭く解説してくれている記事をもとに。
コロナによって破壊された経済をいかに建てなおすか?というテーマ設定は問題ないのですけど、問題はその手法です。今回の予算の大きな柱は、企業へのサポート、そして減税です。
これが、はあ?って感じなんだけど、まず見てみると、一番大きな支出が4年にまたがってのA$27billion(27ビリオンドル=ドル百円換算で2兆7000億円)で、ちょい技術的なんだけど減価償却の即時償却ってやつです。企業活動でなにか必要な機材や設備投資をした場合、即経費として全額落とせる(通常は耐用年数で割った分しか落とせない)、だから利益に対する経費がグンと大きくなり、利益が圧縮され、ひいては納税額も減るという理屈。これが一番大きい(だから今ある税金を使うというよりは、将来的に入ってくる税額を減らす)。
これによって企業はガンガン物を買えるようになるので、それが経済活動を活性化して繁栄に導く、、という筋書きなんだけど、このコロナの問題は、そもそも顧客が減ってきて困ってる、今ある設備すら遊休化してるのであって、客足を戻し、年商をコロナ以前にレベルに戻すのが先でしょう。好きなだけ買っていいよとか言われても、買う必要がないものは買わないし、買うだけ無駄です。節税効果といっても最初から赤字だったら節税もクソも必要ないですし。ということは、コロナにも関わらず今現在で景気のいい企業にガンガンお金を使ってもらって引っ張ってもらおうってことになりますけど、そんな企業がどれだけあるのか。全体を引っ張るほどの力があるのか疑問なんだけど、これをもって「プライベート主導の景気回復」(政府主導ではなく)と謳っています。
次に大きな目玉が所得税の所得税減税で、これも3−4年越しでややこしい計算をするみたいなんだけど、これも同じ問題があります。そもそも税金を払えるというのは、そこそこ生活が成り立ってる人の話であり、いま問題になっているのはそれ以前にビジネスや生活が破綻しそうだとか、失業やホームレスになりそうだとかいう話で、この減税を恩恵を受けるのは、ある程度上のクラスです。
Federal Budget 2020 cheat sheet ? here's what you need to know about tax cuts, JobMaker and that huge deficitという記事に、年収(てか課税所得)がいくらだったら、どのくらい減税で得をするのか?と数値を入れると答が出てくるコーナーがあります。これを利用して色々な年収額を挿入してみたものをキャプって編集したものが、以下の通り。
年収2万ドルって、ドル百円換算で年収200万ですけど、課税所得ですので経費とか色々抜いての話です。日本の額面でいえば、もっと貰ってる状態ですが、逆にドル75円くらいだし、でも購買力平価を考えると、、とか真面目にやると複雑すぎるので、ここでは大雑把に200万くらいって考えてくださいな。そう大きく違わないし。
ここでまず問題なのは、年収200万以下の人、つまり失業して苦しんでる人とか、失業は免れたものの大幅に仕事が減って困ってる人は、全く何の恩恵にも預かれないということです。
逆にどの層が一番貰えるかといえば、減税額だけでいえば年収1000万から2000万の層です。まあ彼らはその分もっと税金払ってるから、支払った税金額に対する比率で言えばそう大したことないのかもしれないけど、一応このあたりが一番お得な話になります。そして複雑な計算方法をするので、4年目にドカンと100万円くらい得になるという。
政府は、新年度である今年の7月から既に払っている税金分は計算し直して数週以内に皆の口座に振り込まれるから、即効性がある!JobKeeperが切れても瞬時に回復する!と胸を張るのだけど、とてもそうは思えないんですけど。それに高額所得者になるほど4年目にドカンとくることに何の意味があるの?
それよりなにより、そういう問題じゃないだろ?ってのが一番ですね。そもそも税金払えるレベルまで収入が追いつかない、そういう人が大量が出てくるから、そして明日は我が身と思うから皆の財布の紐も固くなって、それで景気がヤバくなってるわけで、そのへんを手当しないで、年収一千万プレーヤーを優遇して意味あるのか。それに新しく採用される人ほど賃金はどんどん下がってきて、今では新規では年収4万でも厳しいでしょ。それが年に2万円かそこらもらって何の景気対策になるのか。また沢山もらったといっても、明日のことを考えれば皆貯金したりするから、景気刺激にならんだろうという指摘もあります。
より大きくは、貧富格差の是正が世界的&時代的に課題になってるんだけど、全然そこらへん考えてないねって感じなのが凄いです。
さて、三番目の目玉は18ビリオンのインフラ整備というのだけど、内容はまだよくわからないけど、一般インフラに5b(ビリオン)、道路に2b、あとの5bは赤字企業の減損会計を認めるとかいう技術的なもの。ここで、多くの批判は、リニューアブルエネルギー開発に力を入れて雇用対策にするとか、老人ホームや、公営住宅を大幅に増設して雇用と福祉を一気にまかなうとかいう定番ともいえる対策をなぜしないのか?という点に集中してます。
ちなみに今回の予算は秘密部分が多すぎるという点でも批判されてます(Australian federal budget found to be the most secretive ever producedによると、予算案の説明文の中に「現時点では内容を公開できず(“not for publication” or “nfp” )」とされているものが384箇所もあり、これは過去の記録(17-18年度の321箇所)を超える新記録だそうです。何を秘密にしてるかといえば、例えば、資源採掘場所や企業の保全やメンテなどで、あるところは環境問題で物議をかもし、あるところでは会社が倒産して政府が支出してとかやってるんだけど、全部ひっくるめて「資源保全費用(内容の詳細は公開になじまず)」にしてて、何をどうやりたいのかが不透明。そんなのが400近くもある。
4番目に、若年失業問題についての対策になるのですけど、日本で言えば雇用調整補助金が出ることになりました。しかしこれがまた微妙な話で、35歳以下の労働者を雇った場合、16-29歳を雇うと週$200、30-35歳を雇うと週100ドル政府から補助金が出ると高らかに謳われています。ここでいきなりツッコミが入るのですけど、それってどのくらい意味あるのか?問題なのは、コロナ対策によって客数が絶対的に減ってることで、まずビジネス本体がうまく回るようになってから初めて人を雇おうかという話になるのであって、単に雇用調整補助金を出したところで、雇用創出という本体効果はないんじゃないの?いずれにせよ一人は確実に雇わねばならないという状況で、応募者が復数いて、若いのと年輩な応募者がいたら、若い方が200ドル貰えるから雇うんじゃないかって話ですよね。その限りで若年者の救済にはなるでしょう。でもすごい限定的というか、末端の対症療法に過ぎないって気もするし、その局面に絞ってしまえば、今度は年長者の雇用差別になるんじゃないか。
まあ、そんな全員が納得できるような策なんかあるわけないので、そこは置いておくにしても、問題はですね、雇用(失業)対策と呼べるのがこれくらいしかないことです。なんせJobKeeperは引き伸ばしたとしても来年3月で終わり、Seekerはクリスマスで終わるわけですが、これまでの対策費用が101ビリオンといいます。そして、この若手優遇補助金の予算は4年間で4ビリオンです。これまで半年〜1年スパンで100ビリオン以上支出して、それでも足りないと言われているのに、それを全部打ち切り、これから4年かけてわずか4ビリオンの35歳以下調整金だけになるわけです。単純に対策費だけ比べれば25分の1に縮減、%でいえば95%減額されるわけで、それでいいのか?と。
その他、年金生活者に多少の手当とか、研究開発費支援とかいくつかありますが、チャイルドケアを含めて母親家族支援なし、低所得者や失業者支援もろくになく、ローン返済も家賃住宅問題もなし、コロナ対策で壊滅状態の大学や教育関係の支援も、観光業界や航空業界、関連業界の支援もなし。ましてやテンポラリービザで頑張ってる人々なんか眼中にも入ってない感じ。そして将来を見据えての先行投資は、多分エネルギー関係になるんだけど、それはガス方面だけとか。
簡単にいえばですね、金がなくて苦しんでる人達は、まあ自分で頑張ってくださいという「自助」ですよね、日本でも流行ってけど、なんでも自助で話が済むなら警察いらないし、国家も政府もお前ら(政治家)も要らないです。いずれにせよ「助ける気はない」と。これはかなりハッキリとそう言ってるといっていいと思いますね。じゃあどうやって不況から脱出するかといえば、今の時点で結構儲かってる企業が、さらにガンガン設備投資とか盛大にやってもらって、それを突破口にして社会全体を引き上げようということです。
言わんとすることはわかるけど、高度成長時代とか、鉱山バブルとかの時代ならいざしらず、多少元気な企業群があるとしても、それで全体を引き上げろってのは無理じゃないですかね。
このあたりはオーストラリア人各層の意見を集めたココが面白いですけど、減税で大きな恩恵を受ける人達も(彼ら自身経済がよくわかってることもあり)、必ずしも高評価をしているわけではない。いくつか訳して抜書きすると、例えば、「私自身は大きな減税の恩恵を受けたけど、身障者である私の家族はほとんどなにも貰えていない。政府はもっと低所得者に厚くし、福祉予算を拡充すべきだ。そうすれば彼らはもっとお金を使えるようになり、景気も良くなる」「僕自身は1080ドル減税で貰えるけど、オーストラリア経済としては正しい方向とは思えないし、むしろ悪くなる。大多数の国民は減税分を使うのではなく貯金するだろ」「個人的にいえば、十分な老後の蓄えもあるし、そんなに心配はしてないよ。だけどこれは真面目な話、歴史に残る転換点になる、だってこれまで何十年もの間ほったらかしにされてきた医療、教育、高齢者介護、インフラ整備を、ここでまた更にほったらかしにする反面、最も救済の必要のない人達に減税の恩恵を与えるんだからね」。
まあ、彼らも邪悪な意図でやってるわけではなく、それなりに真剣に考えてやってるんだろうから、一応レスペクトはしますよ。だけど、僕が不思議に思ったのは、
(1)彼らの「経済」「社会」の認識がすごい古いままじゃないのか(新時代のビジョンがない)
(2)弱者のしんどさや痛みというものが、本当に理解できないんじゃないか?(ココロの痛覚神経がない)
という点です。
つまり根本的な世界観や、人としての(心の)痛覚神経のありようが最初か違うんじゃないか?と。
何度も書いてますが、スコモー首相は、ワーホリを35歳まで引き上げるとぬか喜びさせた前科がありますけど、多分、本人も覚えてないんじゃないかって気もしますね。つまり、なんでワーホリにくるのか、人生で悩んで、のたうち回って、心機一転、崖から飛び降りるような気持ちでワーホリに来てる連中の心境とかまるで想像できないんじゃないか、興味もないというか、彼の世界観には入ってないんじゃないかって疑いがあるのですよ。
そして、それはオーストラリアの政府だけではなく、もう時代的に、世代的に、世界的に(先進国の場合ですけど)、どこもかしこも同じような感じじゃないか?って気がするのですよね。「事柄の深刻さ危機感がわからない」「他人の痛みがわからない」という感受性、とくに共感性が乏しいという症状です。
では、なぜそうなってしまうのだろうか?それが今回のテーマです。
前置きだけですごく長くなってしまったけど(笑)。まずは、そういう問題意識を共有したいなって。
エリート定食人生とガビーン系
政治家の定食ル−ト
ここからは大した根拠もない思いつきなんだけど、そもそもなぜ彼らは政治家をやってるのだろうか?という点があります。この点は政治家に限らず、なんであなたはその仕事を選んだの?なんでやってるの?という原点部分にかかわることであり、全ての人に関係する話でもあります。社会が安定している先進国などでは特にそうだと思いますが、職業的政治家というのは、若いうちから「出世コース」みたいなのが決まってるのでしょう。今の政治家世代だったら大体そうじゃないかな。日本で多い二世や世襲議員等の場合、貴族の世襲みたいに宿命的ですらあるだろうけど、他にも大体こーなって、あーなって、政治家になるというルートがもうちゃんとある。
政治家の秘書になって、だんだん実績とコネをつけていって、最後に地盤とか看板を譲ってもらうという落語家の弟子がやがて襲名するようなルートもあれば、政党の若手党員として地方組織から順々に上がってくるとか、地方であれば商工会議所の青年部あたりからはいって、BBQ大会やらレクレーションの支度とか雑巾がけからやって、徐々に地方議員になってというルート。官僚からはいってそこそこ偉くなって与野党などの政党から候補者として声がかかってとか。伝統的な野党の場合は、地方の各組織、例えば労組であるとか、各地方の政党下部組織に入って徐々にエラくなっていくパターンとか。
それはそれで職業的な現場の現実を若いときから体験して、詳しくなって、有能になって出世するんだからいいじゃないかって利点もあります。僕も一概には否定しないし、人材選別のシステムとしてはそこそこ機能するとは思います。
だけど、「なんで政治家なの?」という原点は、それがゴールだから、上がりだから、何かを成し遂げたような気がするからとか、偉そうだから、儲かるからとか、そんな感じじゃないだろうかって思うのですよ。つまり政治家になること、偉くなることが自己目的化している。
しかしですね、今までと同じようなことを恙(つつが)無くやってたら大過なくおさまる時代だったら、それでもいいと思うんだけど、今みたいにマジに歴史の転換点じゃないの?いい加減バックレられないんじゃないの?って時代に、そんな先例主義や、エラくなるのが自己目的化してる状況では対応できないんじゃないかという疑問があるのですよ。
はじめに問題意識ありきのガビーン系
日本の幕末の志士っているけど、あれってお手本も何もないです。特に初期においてはそう。日本に黒船や外国人がやってきて、恫喝まがいの交渉をされても幕府は弱腰で押し切られ、ここままいったら占領されちゃうんじゃないの?っていう圧倒的な(過剰なまでの)危機感があったのでしょう。目の前にバーンと大きな問題が降って湧いて、どうしたらいいんだー?!で行動している。はじめに問題意識ありきで、解決方法なんか全然誰もわからないけど、居ても立ってもいられないというエネルギー過剰状態のまま、好き勝手に議論して吠えたり、徒党を組んだりとかやってたわけでしょう。その草創期の志士、それもごく一握りの生き残りが明治政府で政治家になったわけだけど、彼らにはお手本なんかないし、「出世ルート」もクソもなかったでしょう。そういうルートが出来てくるのは、明治政府がとりあえず始動して形になりかけて、藩閥政治というクソみたいな状況になってからでしょう。あるいは幕末当時の既成の出世ルートは、幕藩体制だから、とにかく旗本とか家老とかの家柄が絶対的だったし、それが欠けていたら懸命に剣術や勉学を努力して剣術師範や講師になるくらいが関の山で、それが出世ルートでした。でもそういう既成エリート定食集団、例えば旗本八万騎とかいってた連中は、乱世においては結局のところ何の役にも立ってない。砲台の守りにつけと言われて、関ヶ原以来の先祖伝来の家宝の甲冑を身に着けて立ってたら、沖合の外国船の艦砲射撃でぶっ飛んで終わり。
思うのですけどね、まず問題意識や動機になるなにかガビーンとくるものあって、それがモチベーションになって、動いて、そして結果的にその仕事をしていること、そしてそういう連中が集団になって動いているのが最も理想的だと思います。なぜそれをするのかが本人らには明白ですから、ビジョンがはっきりしてる。使命感もある。お手本ルートと違って、政治家やその職業につくことが目的ではない。最終目的がハッキリしてるから、戦略の優先順位もすぐつけられるし、必要とあらば前例に縛られずにガンガンやっていける。変化の時代にはそのくらい動かないとついていけないでしょう。
でも成熟した先進国では、なんでもかんでもシステム化されてるところがあるから、そういうガビーン起点の人材はわりと少ない。いないわけではないんだけど、居るべき場所にいない。例えば、ホームレスや介護問題についてよく知ってるのは当事者であり、そのケアをやってる現場職員、ボランティアやNPOの人々なんだし、彼らが厚労省のトップや政治家になればいいんだけど、そうはならない。その代わりにトップに居るのは受験勉強と省内権力闘争と政治の駆け引きに強い連中。エリート定食を食べるのは上手なんだけど、ただそれだけ。
居るところにはいる
ただし全く居ないわけではない。日本の政治家の場合、山本太郎なんか典型例でしょう。彼の場合は、まず現場でガビーンとなった部分が原点になってるし、それ以後、常に現場起点ですよね。こないだの都知事選の街頭演説なんかでも、その日の昼に街頭で話をした高齢者の方は、所持金が92円(だったかな、不正確だけどありえないくらい少額)で、ヘルプをしてくれるところとか紹介しようと思ったけど、自分で頑張ってみますと言って去っていかれたとか、そういう現場の話がよく出てくる。抽象的な話よりも、まず現場がどうなってるのかが原点で、次に何故そうなってるのかを勉強し、さかのぼって政策が出てきて、さらに戦略や戦術が出てくるという論理関係になってます。前にも紹介したけど、国会で行った膨大な質問主意書群の内容とか読むと、か〜なりクソ勉強しないとここまで出てこないなってくらいよく勉強してる。他にも実は結構いると思います。最初にガビーンではないけど、徐々にそういう活動に入っていって色々見えてきたという。例えば塩村文夏って人がいますが(今は参議院かな)、その昔、都議会でセクハラ野次で問題になったときに知ったのですが、この人、グラビアアイドルだった経歴が着目されやすいけど、実はけっこう皆と似たような感じでオーストラリアに語学留学してビジネス学校にも通ってたりするのですよね。以後TV業界の仕事もあるけど、徐々に政治に入っていくのですが、彼女の場合、いろいろ携わる中で「やりたいこと」が見えてきたのでしょうけど、ペットの殺処分(闇殺処分)の問題とか、当時のブログとか読んでみたら、「今日はどこそこに行って皆と○○について話し合ってきました」とかすっごい地味なことを皆と一緒にコツコツやり続けてて。こんなのやっても何の利権にもならんし、誰も偉いと言ってくれないし、業界敵を回すから利権どころか下手したら身の危険すらあるだろうに、えらいもんだなと思った記憶があります。ただ、所属政党があっちゃこっちゃになるのは、上の政治家の連中の「大人の事情」がひどすぎるって気がしますね。
政治家に限らずどんな職業、どんなポジションでもそれはありえます。また「後付けガビーン」もありえます。最初は、大した動機もなくなんとなくその職業や地位についたけど、実際に現場でいろいろ体験してみて、それをやる意味が本当によくわかった、それが原動力になってるってことはあります。不満たらたらで料理人やってたら、食べにきてくれるお客さんの笑顔が本当にありがたく、おーし!と思ったり。最初は正直そんなに子供とか興味がなかったんだけど、いざ生まれてみたら、可愛いのなんの、もうこの子のためならなんでもできるってなったり。いくらでもあるだろうし、よくある話だとも思います。後から付け足そうがなんだろうが、ガビーンが核になってたら違ってきますよね。
、
何の話か?といえば、政治家なりどんな職業であっても、そのポジションにつくことが目的である人達と、そのポジションにつくのはあくまで手段に過ぎず、それによって何をしたいのか?がハッキリ見えてる人達がいるってことです。
定食系の弱点とオーストラリアの政治家
そして、今みたいな時代においては、お手本定食エリート系、政治家になることが自己目的化してる人々の場合、やりたいことやビジョンがそれほど強くないわけですから、やっぱり「過去のお手本」どおりに「それっぽいこと」だけをやる傾向があり、だから全然時代に微妙にそぐわず、未来視点については尚更何もないからズレていってしまうんじゃないかな〜と思ったのですよ。オーストラリアのスコモーちゃんの場合も、前に書いたけど、イースタンサバーブのお坊ちゃんで、シドニー大学出て、リベラル党の党員として頑張って、議員デビュー選挙になれば選挙区の波長に合わせて庶民ぶって、シャークス(ラグビーチーム)好きですとか調子コイてたわけで、"ScoMo from Marketing"という仇名も、皆よく見てるなーって感じですよね。だから、今回のコロナ対応も、危機感に迫られて初期にあれこれやったオリジナル(JobKepperとか)はよく出来てるんだけど、あとが続かない。アメリカ陣営の一員として「好成績」をアピールしたいのか、やたら中国につっかかっていって空回りしてみたり、経済と健康の板挟みで苦しくなるのが見えているコロナ現場では、火中の栗は州知事に取りに行かせて自分は背景に溶け込んで。そして今回の予算も、10年前とか20年前のお手本ですよね。いわゆる世界的に批判の激しい、つい最近、バチカンのローマ法王も明瞭に否定したトリクルダウンの手法です(Pope Francis says the free market and 'trickle-down' policies have failed society)。彼が見てるのは「お手本」であって、現場ではないんじゃないかって気がします。
また押し付けられた州知事達も、同じようなメンタルと世界観なのか、政治家として高得点を取るのが自己目的化してるような感じで、感染が減ったら合格、増やしたら不合格みたいな感じで、多少の犠牲はやむをえないとして積極的にバランスを取るでもない。泥は全部自分がかぶる、文句があるなら俺に言え、自分が悪者になってもいいからマックス調和点をさぐるという視点が全然見受けられない。VIC州のアンドリュー知事も、最初は運悪いな、可哀想だなと僕も同情的だったんですけど、感染爆発の責任論で、部下のミカコス女史に全部押し付けちゃったもんね。僕は知らない、聞いてない、悪くないとかいって、「部下を庇わない上司」「部下のせいにして逃げる」ということで男を下げたなー。最近では詰腹切らされて辞任させられたミカコス氏から、これは構造的な問題であって、全然知らないってことはないんじゃないの?と逆襲されてます。要は「いい子の自分」「皆に褒められる自分」が最終目的なんでしょ?って思う。政治家としてもっと出世して、ゆくゆくは国政の重鎮になって、出来れば総理になって、引退した後はすぐに自伝を出版してというのが「あがり」なんでしょ?
というわけで皆さん、どっかしらハートを失った点取り虫みたいに見えるんですよねー。
もちろんお手本系の定食エリートさんでも、プロになっていく過程でいろいろな経験もするだろうし、現場もみるだろうし、理解も知識もあるでしょう。後発的に本物になっていく人だっているけど、そうではない人も多い。そうでない人の場合、根っこの部分があくまで自分だから時代感覚のズレになって出てたり、人の痛みについてややもすると鈍感なんじゃないかと。
それが証拠に、これだけ皆生活苦しいとか、先が見えなくてメンタルやばくなってるのに、どうしてこんなにシカトできるのか?って不思議に思うくらいシカトしますよね。特に今回の予算では、コロナによって最も被害を被ってる女性に対する配慮やケアが非常に乏しいことでも批判されてますし(Can a Budget shaped by male leaders hope to deliver for the women hit hardest by this recession?。NZだって、エリミネート(感染撲滅)鎖国政策で高得点を取ってるようでいて、国内的には留学生とか労働ビザとかの人達を黙殺してます。先日、ドミニオンというNZの語学学校が万策尽きて51年の歴史を閉じたというメールを貰ったけど、間断なく犠牲の血は流れ続けてるんだけど、対処する気があまり見えない。
オーストラリアで問題になっているホテル検疫のいい加減さも、別にホテル検疫がダメ、民間警備会社がダメとかいう問題ではなく全体的にダメなんじゃないかって批判もあります。そういった福祉行政のダメっぷりは、例えば、Appeals against government NDIS decisions have spiked by more than 700 per cent since 2016という記事によると、NDIS(National Disability Insurance Scheme、国の身障者保険機構)について、2016年から行政処分に対する再審査請求(異議申立)の件数が2016年から700%も激増している。16-17年度(215件)→19-20年度(1780件)。ただのコンプレイン(苦情)ではなく、面倒臭くて申立費用もかかる異議申立をするのは、よほど腹に据えかねた事情があったのでしょう。それがここ1−2年で7倍も増えているのはどういうことか。急に皆の権利意識が7倍になったとは考えられないので、それだけ急激に劣化しているということが窺われます、
あるいは、Government's $1.6 billion home care funding in Federal Budget leaves '77,000 waiting' では、老人ホームではなく自宅介護の支援策ですが、1.6bで2万3000件の増量をしました〜!とか政府はドヤ顔で言うのだけど、コロナ以前にwaiting list(順番待ち)が既に10万件もあり、過去2年で順番待ってる間に死んでしまったという悲しいケースが2万8000件もあると言われています。
こういった現場の状況、それも一件ニ件のレアケースではなくトータルとしての惨状を考えれば、いくら政府が予算や政策レベルでやります!とか言ったところで、現場の行政レベルのシステムや質の劣化でそれが出来る体勢になっているのか?という疑問があるし、遡ってなんでそんなに内実が伴わないのか?を考えれば、そもそも本気でやる気あるのか?という部分に行き着くのですよ。今回のVIC州のダメダメとされるホテル検疫にせよ老人ホームにせよ、そういった根本的な部分を改善しなければ何にもならないし、単に一人二人をスケープゴートにして全部こいつが悪いんだみたいな幕引きで良いのか?と、そういう姿勢それ自体に、既に不誠実さがあるような気がするのですよ。。
なぜエリート定食が増産されるのか
では、さらに続いてなんでこんなに定食エリートが増産されるのかです。
定形パターン処理の問題
定食=決まった特定のパターンが予測され、そのとおりに物事が運ぶというのは、その前提として、安定した成長・成熟社会があることが必要です。現在の物事のパターンが、10年後にも、30年後にも大体似たような感じで繰り返されるであろうと。春になったら田植えをして、秋になったら収穫してって感じ。そう思わせるだけの社会的現実があるからこそ、皆もそう思う。パターンというのは、同じことが何度も繰り返されるから初めてそう認識されるわけで、毎回違ってたらパターンにならないですしね。実際、先進諸国においては、第二次大戦からこっち、それまでの時代に比べれば相対的に平和が続いてきましたし、経済もまあまあ順調に発展してきた。実のところ、そんなのは1950-1980年位の話で、次の20年は結構よろよろしはじめ、21世紀になってからは、実態はかなり変わったんだけど、なんとなく惰性でそのままの勢いが続いているという感じでしょう。それでも大まかには同じパターンの繰り返しという認識が強い。だから自然と定型的な流れになるのだと思います。お金の流れも、人材登用のパターンも、それらを前提にした人の一生の流れも。どうしてもそうなるでしょうし、それはそれでとても合理的ですし。
ただし問題もあります。一つは、前提となる安定した決まったパターンが崩されてきたら、このシステムは崩壊することです。春に田植えを〜と思ってても、地軸がズレたり、季節や気候パターンがズレたらもうダメだし、地震その他で地形がガラッとかわってしまったら、農業やってるよりも魚獲ってた方が良いということになるかもしれない。つまり変化がきたら終わってしまうという儚いシステムである。
だけど、通例、一気にドカンと変わらず少しづつ変わっていくので、全体ではまだ昔の慣性が残っていて中々変われない、変化がきたと感知して全体が動くのが遅いことです。もしかしたら軌道修正してやっていくというのが出来ないのかもしれない。無理やりまっすぐ進むか、それとも脱線転覆するか。実際、日本でも終身雇用の崩壊とか言われてからもう30年も、へたしたら50年くらいたってるんだけど、未だにそんな気分でいる人々がいますからねー。寒い冬の朝には、温かい布団から出たくないって人が一定数出てきても無理はない。
問題の第二は、退屈でぬるいことです。パターンが同じだから、定型的に処理してれば足りる。そこそこやってれば何でも上手く回っていくという誤った世界観になる。考えてみれば、「受験で高得点を上げていい大学に入る」程度のタスクは、その後の人生の暴虐なまでに理不尽な難しさに比べてみたら屁みたいなものです。そんなもんで一生の安泰が約束されると思ったら、とんでもないカンチガイなんだけど、そう思ってしまう。だからバブルの頃も、24時間働いて企業「戦士」とか、ただの金儲けに「戦略」とか戦争用語を使うんだけど、本当の戦争や戦国時代、どうかしたら国民全員がなんだかんだで殺人経験があるような社会に比べたらどってことないです。
つまりこの世の実相を見誤るのが第二の問題。それは心地よい安閑でもあるのだけど、現実離れしてるから、退屈で詰まらないものでもあるのですよね。うたた寝をしながら一生が終わっていくみたいな感じで、アドレナリン全開で燃えたり、ハラハラしたり、わくわくしたりすることもない。
これらの2つの問題点が、2000年以降くらいから徐々に無視できないくらい大きくなってるんだけど、それでも意地でも布団ひっかぶって寝ようとしてるのが正味のところじゃないですか。
個々人のレベル
そして、そういった環境においては、別に政治家に限らず、どの業界においても、お手本メインの人達が圧倒的に大多数になるでしょう。そうあることを求められますしね。職業やポジションを突き抜けた視点で「これがやりたい!」とか思って、それを人生の指針にする人は少ない。そういうのはむしろ非エリートエリアに多いです。それが出来たからって、誰も褒めてくれない、儲からない、食えない、社会的に認知もされないというエリアの方が、ピュアに「コレがやりたい」が出てきますよね。
しかし、アートでも、スポーツでも、サブカルでもそうですが、それで食えるシステムが出てきてしまうと、攻略ルートが出来てしまい、創造性は減少し、つまらなくなる。アートでも確立してるエリアになれば、藝大やら桐朋出て、○○教授に師事してとか、日展か二科展で入賞してとか、半分政治力みたいな話になる。学者の世界もそうだし、大相撲もそうだし、柔道なんかもそうでしょ。五輪選手になって、日体協やらJOCの役員になってとかさ。トップレベルでなくても、そこそこのレベルで覚えがめでたければ、どっかの学校に教師とか監督になるとか就職斡旋があるという。
でもって、そんな上の連中の顔色伺わなくても技芸一本で世界と勝負出来るような人達は、どんどん日本を出ていってしまいますもんね。無理ないですよ。
てか、もともとそういうシステムなんだと思うわけです。そんな天才レベルに凄いわけでもない、でもそれが好きでそこそこのレベルまでいった人達が、一生にそれにかかわって幸せになれる互助システムとして、組織内部の年功序列なり政治なりがあるわけですからね。無理もないなー、ある意味合理的だよなーとも思うんだけど、でも、どっかの時点で「コレがやりたい!」という爆発的なまでの純粋な初期衝動、創作欲求という本質から、「どうやって一生食っていくか」にテーマがすり替わるわけですよ。そしてそのテーマをすり替えることを「大人になる」と言われたりするわけです。
その意味では、どんなに成功して、どんなに有名になって、最大限うまくいっても、全然食えないという業界のほうがいいですよね。ロックなんか基本食えませんし、漫画家や小説家だって、一生レベルになるとかなり幸運でないと難しいでしょう。ましてや一般受けしないマニアックな領域をやってたら、まあ食えませんね。でも、食えないほうがいっそスッキリしますよね。純粋にやりたいことができますから。その代わり、お金は他で稼ぐしか無いですけど。
だけど、そんなに誰も彼もが創造性あふれるアーチストタイプであるわけでもないし、波乱のある「楽しい」人生を求めているわけでもない。多少不満で退屈だろうが安定してることを望む人も一定数いるでしょう。そういう人達にとってみたら、そもそもガビーンがあんまりないのですよね。まあそれなりに感動はするだろうけど、ココロの内部での化学変化がそれほど激しいものではない。もうガビーンが激しすぎてデビルマンになってしまいました〜ってほどでもない。
そういう人らにとってみたら、「とりあえずコレをやっとけ」という定食は非常にありがたいわけでしょう。それさえやっておけば、一定の結果は保障されている(ような気がする)わけですから、精神安定剤にはなります。かくして、「偏差値の高い有名大学に入る」とか「誰でも知ってる一部上場の大企業に入る」とかいうガビーンもヘチマも欠片もない、単に「エラくなることが自己目的化している人」になっていくわけでしょう。
そういう人々が人口の過半数を占めていれば、まあそういう社会になりますよね。そして彼らの求めるのは、安定した社会と現実ですから、安定していてもらわないと困る。だって定食が切れたり、保障がなくなったら、途端に何をしたらいいのか分からない訳でしょ?真っ暗闇のジャングルに一人で取り残されたようなもので、ぼさっとしてたら後ろから猛獣に襲われるかも知れないという恐怖絶頂の環境なわけで、それだけは避けたい。
だから、なんだと思いますけど、保守安定志向というのが出てくる。だけど、最近ではオーバーランしてるような気がして、誰がどう見ても変化してるじゃないか、安定なんかどこにもないじゃないかって状況であっても、カタクナにこれを否定する。現状否定に入る。隣の家まで火事が近づいてきて、燃え上がっているのが見えても、「いや、火事なんか無いよ。赤く見えるのは夕焼けだよ」とかいう感じ。
それはもはや認知化バイアス、正常化バイアス=内心の願望に沿って現実を解釈してしまう人間心理、平穏な生活を望むあまりに異常なことが起きてもそれを常識的な範囲内に矮小化して解釈しようとする歪んだ見え方=なんかを通り越えて、いっそ宗教といいますか、信ずるものは救われるといいますか。ま、リアルには、信ずるものは逃げ遅れるだけですけど。運転している最中に目をつぶるようなものなんだから。
そういえば、世論調査で個々の問題については過半数が問題意識を持っているのに、なぜか与党の支持率はアホみたいに高いという不思議な現象がありますよね。ま、翼賛メディアの捏造という説が正解なのかもしれないけど、仮にそれが事実そうだとしても、わかる気はしますね。だって与党支持=明日も昨日と同じような日であってくれますようにという祈り=だと思うからです。個々の問題は理性的に答えるけど、支持とかいう話になると、不支持=変えるということになり変えることが怖い、変えるまでもないよね、ひどいけど何とかなるよね、なんだかんだいってコレまでもそうだったから、これからもそうだよねっていう合掌しながら念仏を唱えてるような感じなんじゃない?そう思えば、理解できなくもないです。
定食なき世界
でも、定食がキライな人もいるわけですよね。わざわざオーストラリア(海外)にやってくるよな人は、どっかしらその傾向があると思いますけど。僕も定食好きではないです。あ、これは文脈上わかると思うけど、比喩の話ですからね。リアルな食事でいえば、なんたら定食とか好きですよ、カキフライ定食とかさ、いいよね(笑)。
ただ人生上の定食に関して言えば、あんまり美味しそうなのはなかったですねー。
司法試験定食とか法曹定食とかやってる頃はまだ良かったです。定食とか言いながら、やり方は完全自由だったし、あまりの難しさゆえに「コレをやっておけば良い」という方法論すら存在しえなかったくらいですので。だけど、受かってしまってからは、どうにもパターン化されてて、なんだかなあって。
定食がイヤなら、アラカルトでもいいし、板さんに直接交渉して頼んでみてもいいんだけど、意外とそういうパターンもあんまりないし。じゃあ、自分で料理するしか無いよねって思ったけど、今度は食材があんまり無い。あるんだろうけど、自分には見つからなったですね。そこで「食材探し」みたいな感じでオーストラリアにやってきたわけです。
で、オーストラリアにやってきたら、これが面白くて、もちろん食材は山ほどあったんだけど、ありすぎちゃって、今度は別に定食とか自炊とかいう以前に、そもそも食べる必要あんの?って感じになっちゃいましたね。
つまり「こういう生き方をする(公務員になるとか、起業するとか、医者になるとか、母親になるとか)」というのを決める必要あんの?また決めたことを、戸籍や登記みたいに登録する必要あんの?どこに?とかいうと、別にないわけでしょ。そんなの決めなくたって生きていけるし。決めない方が自由にやれるし。
それにさ、決めることと、実行することは別問題ですよ。決めないけど、ガンガン実行するやつと、決めたけど全然実行してない、やってるけど形だけそうなってるだけで内容は空虚なままってパターンもあるわけで、決めることよりももやることの方が大事だと思うのですけどね。
じゃ、何を「やる」のかといえば、生きてれば自然に出くわす大小さまざまなガビーンがあるわけで、そういう日々出会う沢山のモチーフを大切にして動いて行ったほうが、より正直な感じはしますけどね。綺麗な夕焼けを見ては、わあすげえ、写真撮ろうとかやって、あとで見たら全然感動が撮れてなくて、くそおと思って写真にハマるとか、自然の流れとしていろいろあるでしょう。そんなことやってるだけで、全然充実しちゃうと思うんですけどね。
まあ、そういってしまうと無手勝流というか、ちゃらんぽらん過ぎる感じはしますけど、でもなあ、別に「立派な人間になりたい」とか「押しも押されぬ」とか別に思わないですけどね。だってさ、それって、結局「エラくなるのが自己目的」というのの類似ヴァージョンでしょ?
ま、昔流行った「たまごっち」みたいに、遊びと割り切って、最近ちょっと「自分育てゲーム」にハマってるんですよっていうなら話はわかりますよ。肉体改造とかダイエットでもそうだけど、自分いじりってナルシス快感も添加物として入るから面白いもんね。ただし、遊びとしてですよ。あんま本気になるよなもんじゃないでしょ。
かといって、ダメダメ自堕落でいいんだ、どこまでもだらしなく堕ちていけばいいんだって言うつもりはないです。そういう「きちんとしたい」という感情はあろうし、大事にすべきだとも思います。だけど、「人として立派になろう」みたいな系統の言語化は、しすぎない方がいいんじゃないかって気もするのです。なぜならもっと別の表現方法が出来るからです。例えば、友達に対してあまりにも冷淡すぎたかな、もっと人に優しくすべきかなと思ったとしても、「その方が人として立派だから」的な表現をするよりも、「なんか寝覚めが悪くなりそうだから」 「いまいちスッキリしない」とかいう感覚的な表現がありますし、それで実践的には十分じゃないかな。
立派な人間になることって、多分気持ちいいことだと思いますし、ダメになっていくのは本質的に不愉快だと思う。そのあたりの行動やら判断、出処進退などについては、古来いろんな表現があります。「スジは通す」とか、「恩義は返す」とか、「おかしいだろ」とか、「可哀想じゃん」とか個別に出てくるその種の自然な感情を大事にしていれば、結果として立派方向に進んでいくんじゃないのか。むしろ倫理を言語化しすぎると、今度はその言葉に騙されたりするし、言葉で誤魔化そうともする(「ガキじゃないんだから」とか)。それにどこまで論理を精緻に詰めていっても、最終的にそれで正しいかどうかの検証は直感的なものでやりますからね、結局は同じことじゃんって。
カタチよりも純度
以上、今回延々述べてきたことを、簡単に一文にまとめると、「カタチよりも純度でしょ?」ってことです。定食系はカタチははっきりしてるけど純度が濁る傾向があるけど、ガビーン系は純度は高いけど、カタチが無い。カタチか純度かと問われれば、純度の方を僕は取りたい。なぜって、そっちの方が圧倒的に気持ちいいから。別の言い方をすれば、他人様の承認よりも、自分のなかの初期衝動を大事にしたいと。僕が最初にオーストラリアにやってきたとき、やっぱ感動しましたからねー。ほとんど生まれて初めての海外って感じで超ビビってんだけど、顔が笑えてきてしまうという。なんだこの開放感は、なにこれ、めちゃくちゃ楽しいじゃんって。たった一晩飛行機に乗るだけで、ちょっと場所を変えるだけで、これまで生きてきた人生や世界観がいとも簡単にひっくり返っちゃうわけで、ぶははは、なんだよこれ、そうかい、そういうことだったんかよって。街を歩けば、わ、なんだこれ、あーなるほど!とか、人と会えば、言葉は全然なんだけど、バシーンと言いたいことが波動で伝わってくる。モノの見方や、何から何まで変わっていく。それはとても上手な整体師さんに、これまで歪みまくってた身体中の関節をパキパキと正しく入れ直してもらうような感じで、それがすごい気持ちいい。ほらあ、やっぱそうじゃん!ずっとしっくりこなかった違和感がどんどんまっすぐ戻されていく。
そんなのが自分のガビーンであり、初期衝動です。次に、それを他人に伝えて、共有して一緒にハッピーになりたいという抗いがたい次の衝動がくる。いかにしてこの感動を忠実に、ニュアンス正確に、言葉とイメージ豊かに他人に伝えられるか書き続け、またこちらに来る人にはどういう段取りでどういうことをすると一番無理なくまっすぐ進めるかを考えて考えて、実行して実行して、今日に至るわけで、やっぱカタチよりも純度が大事だと思います。次に何をすべきかは、全部純度が教えてくれますから。
駅裏ですが、最近ではこういう自転車置き場も出来ているようです。日本の自転車置き場に比べればスッカスカですけど、「ある」というのが時代の流れを感じさせます。
昔ながらのコーナーストアで、よろずやがコンビニになったみたいな存在だけど、最近はネパール専門店みたいになってますね。
駅構内の改札隣にあるKIOSKというかコンビニというかニュースエージェンシーなんでしょうけど、日本のコンビニの単位面積当たり芸術的なまでの細かい詰め込みからしたら、「やる気あんの?」というくらい棚ががらっがらですね。こっちの町のコンビニはわりとそういうのが多い。
しかし、それにしてもニュースエジェンシーながら新聞が少ない。紙媒体はどんどん絶滅化しつつあるので、本来の新聞の棚がガラガラです。日本はまだ新聞紙とか印刷してるのかしらねー。こっちはかなり減りましたね。カフェにいくとたまに置いてあるくらい。
中華料理屋が立ち並ぶメインストリートですけど、なにこのボディビルみたいなポスターは?よく見るとカンフーのクラスみたいだけど。
「SOUP(スープ)」ってなんなの?なにかの隠語なの?この落書きを書こうと思ったらかなり手間暇かかりそうなんだけど、そこまでして書きたい「SOUP」とはなに?
文責:田村
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