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Essay 951:「さ」の世界、「ぜ」の世界
 

 


2020年09月05日
写真は、Eastgardenのショッピングセンターの屋上からシティ方面(右端)を望む


歌詞語

 今週は浮世離れした、どーでもいい話をしましょう。
 政治社会時事ネタは幾らでもあるけど、いつも似たようなパターンじゃ詰まらないし。

 「歌詞語」ともいうべき日本語体系があります。日本語なんだけど、およそ日常会話では使わず、さりとて学術や公式文書でもつかわず、歌詞の中でしか存在しない日本語です(同じようにアニメやマンガ、演劇なんかもで使われるかもしれないけど)。

 その典型が「さ」です。
 歌詞世界ではおなじみですが、「○○なのさ」の「さ」です。「そこにはただ風が吹いているだけなの”さ”」「僕らは歩き続けるの"さ"」とかいうやつね。

 ずっと前に読んだロッキンオンJAPANだったかに、この「さ」の話が出てて、「日常会話で「さ」をつけて本当にしゃべることは、あなたが佐野元春でない限り、普通はない」って一文があって(佐野元春の部分がツボで)爆笑しましたけど、いやほんとそうです。

 なんで使わないのかなーと思うと、やっぱキザなんですよね、「さ」は。カッコつけすぎで逆にダサいというか、ナル入ってる感じで、ちょい実際の使用にはふさわしくない。

 このように日本語には語尾のちょっとしたニュアンスがあり、それが日本語独特の豊かな言語世界を作ってるように思います。そのあたりの面白さについて、今回ちょっと書いてみようと思った次第です。

 

文法的には

 日本文法(国文法)を中学の国語で習ったとき、この「さ」を含めて「助詞」という概念を習った記憶があります。格助詞、副助詞、終助詞、間投助詞とか。「さ」は終助詞。なんか格助詞と副助詞の区別が異様に難しかった記憶があるなー。

 いま改めて調べてみると4つどころか沢山あるみたいですね。並立助詞ってのがあるし、係助詞、接続助詞、準体助詞なんてのもあるそうです。知ってました?全然知らないけど、でも日本語は喋れるわけで、それが言語能力と文法の不思議な関係でもありますが。

 英語には日本語の助詞にドンピシャで相当するものは無いと思います。もちろん人間同士の意思疎通ですから、日本語で表現するニュアンスの差は、おおむね英語でも表現できるのだろうとは思います(そんなに英語が出来るわけでもないので確定的ではないけど、多分そうだろう)。ただ助詞という形ではなく、疑問文や感嘆文など基礎文法変化、あるいは構文やイディオム、あるいは前置詞、あるいは接続詞、あるいは仮定法などによって分散処理されているんじゃないかしら。そう考えてみると、他言語を習得するというのは本当に難しいし、AIで自動翻訳とかいうのも論理的対応関係があるようで全然無いような気もするし、気が遠くなるような気がしますね。

 ま、ここでは言語論や文法話はメインではないのでこのくらいにします。既に知っている母国語世界、その奥行きの広さを改めて感じ入りましょうという話です。

 さて、語尾という点でいうなら、助詞のなかでももっぱら終助詞と呼ばれる領域になると思います。語尾にくっついていろいろなニュアンスを出す一連のコトバです。

 Wikiレベルで恐縮だけど、終助詞として挙げられているものを列挙してみますと、

「か」疑問、反語、勧誘などさまざま(そこに居たの、どれにしよう、そんなん誰がやるか!
「な」詠嘆願望、あるいは禁止(行きたいなー、いいなー、走る、せいぜい頑張り
「とも」強い肯定(笑っていいとも!
「の」疑問、念押し、命令(本当にやるの?、やるといったらやるの!、そんなことしないの!
「ぞ」客観的注意喚起、強調(味噌汁冷めちゃう、絶対やるぞ!
「ぜ」勧誘・強調 (やろう、行くぜ!
「や」自分で納得したことを確認、あるいは勧誘(もうそれでいい、なあ行こう
「かい」疑問の「か」の変化型で、やや古風だが尚も使われる(もういいかい?おやもうお帰りかい?
「よ」相手に何かを伝えるときの強調、注意、警告(あぶない、できた、やろう
「ね」同意を求める、注意、勧誘(だよね?なんか面白いよ、じゃあ行く
「のに」不満詰問(せっかく用意したのに
「やら」未定のことを漠然と想像(いつまで続くやら
「ものか」反問して強く否定する(負けるもんか!
「わ」主観性・主体性を強調する場合に広く使われる(こりゃいい、こっちはやっとく
「もん」当然の理由(空腹なはずだよ、昼から何も食べてないもん
「かしら」「だろうか」類似した表現(大丈夫かしら) 
「ってば」もう一度言い直す表現(だから、持ってきてるってば

 ね、すごい種類ありますよねー。
 こんなのいちいち覚えてられないけど、でも覚える必要もなく、僕らはもうみんな知ってます。言語世界というのはどんだけ広いんだ?ってことだし、これを外国語としてゼロからやるのがどんだけ大変か、でもあります。

 でも、個人的に思うのは、この解説だけでは足りないし、他にもありそうだし、エッセイ書けちゃうくら広い世界がありそうです。

 ちなみに「さ」については、「断定した内容を軽く言い放つ気持ちを表す」「きつい質問や投げやりの反問をする」「文節について、調子を整える」という解説がありました。 例として考えたのは、「まあ、好きにするさ」(断定した内容を軽く言い放つ)、「アンタ、あの子のなんなのさ」(きつい質問や投げやりの反問)、「だからさー、僕がさー、昨日さー」(文節について、調子を整える)。

 さらに調べてると、「終助詞「さ」の本質的機能-認識的モダリティとの共起関係に着目して」という蓮沼昭子さんの学術論文がPDFでありました。なるほど学術的にやってると、ここまでディープになってしまうのかという。「さ」だけ論じて27ページびっちりあります。すごい、、、というか、モダリティって何?ってレベルで死んでるんですけど(笑)。これも調べてみたら、ムード(主観)から来てるらしく、言葉を発する場合には、A(客観的素材)+B(それに対する主観)という二重構造を取る場合があり、後者(主観的色付け)をモダリティというらしいです。例えば、「雨が降る」というA(客観素材)があり、これに対する主観がくっつくと、「雨さえ降らなきゃなあ(野外イベントの開催を危惧して)」「雨さえ降ってくれたらなあ(旱魃や山火事で)」「うわ、降ってきちゃったよ」「雨降るんじゃないの?」「いまにも降りそうだよ」などなど。

 まあ、ここでは学術的に詰めるつもりもないし、語尾に伴う雑感を書きます。ただ真剣に研究していくと、奥が深いというか、深すぎて迷宮のようになってるみたいですねってことで。


「さ」の世界

 歌詞にしか出てこないと冒頭に述べた「さ」ですが、敢えて使ってみるのも面白いのではないかと。上の解説によれば「さ」の中でも、「断定した内容を軽く言い放つ気持ちを表す」というやつです。

 「さ」は確かに気障なんですけど、じゃあ「さ」の何がキザなのか、といえば、なんとなく余裕カマしてて、全てはわかっているんだよというどことなく達観してるっぽいニュアンスがダメなのかもしれないです。

 例えば、「そうやって皆、大人になっていくの」みたいな言い方です。

 「そうやって皆大人になっていくんですねえ」「大人になっていくのかあ」に比べて、「いくのさ」はよりハッキリ断定的だし、自分の認識に揺るぎない自信がありそうだし、僕は何もかも知ってるから当然このことも知ってる的な感じがしますね、「さ」には。

逃げ腰ビビリ根性とヤブ蚊処世術

 今の軟弱な世相、他人から非難されたりするとすぐ死んじゃうような、発言にあたっても出来るだけ突っ込まれる余地のないように細心の注意を払う傾向のある社会では、「さ」と言い切ってしまうのはかなり勇気がいるでしょう。「大人になっていくんですねえ」すら微妙で、リアルには、「大人になっていくって事なんですかね?」くらいの感じでニュートラルの場に自分を置いておこうとするでしょう。

 「とか」が本来の用法以上に広く用いられるのも、このビビリの逃げ腰根性の反映だと思います。「大人になっていく、とか?」という感じで、「とか」=「〜などという言説が世に広まっているようですが」という感じで、極力自分の意見だというニュアンスを薄めまくって、あたかも客観描写のように表現するという。人の言葉の使い方をちょっと見聞きしてるだけで、あ、こいつ根性ねえなってわかるような気もしますね。「踏み込みが甘い」というか、自分の意見なのに自分の意見としてバーンと出せないという。

 しかし、ま、それは処世術上やむをえないこともあるでしょう。なんせ世相が暗くなると、自分の人生を早々に諦めてしまった早とちりな人たちが大量に湧き出てきます。彼らは自分の人生に華がないのはもう諦めてるから、あとは周囲をいかに自分の低いレベルに押し下げるかだけが生き甲斐になり、他人の不幸はメシウマだし、不幸でない人でも無理やり不幸にしようとするから、些細な言葉尻などを捉えてあれこれ言うでしょう。ネトウヨとか呼ばれている人たちは(英語世界ではトロールという=ずっと昔のエッセイで紹介したけど)、あれは時事でも思想でも社会言説でもなく、ただの精神疾患を生じた患者集団だと僕は思うのですが、とにかくそういったのが大量に(でも実数は驚くほど少ないと思うが)湧き出て、これがヤブ蚊のような存在になります。

 そしてその傾向は、多くの一見健常に見えるような人たちの精神をも蝕むでしょうから、何についても、すぐ腹が立つ、すぐ切れる、すぐに誰が悪いかという悪者探しをする、この世界はどこかにいる悪者が悪くしているという世界観になる、とにかく人を叩きたくなるという症状になって現れます。教授がいれば准教授もいる。ヤブ蚊がいれば、准ヤブ蚊もいる。そんな竹やぶに無防備に短パン一丁で入っていったら全身刺されまくりになり、痒くて不快でしょうがないでしょう。しまいには、バンパイアのように自分も感染してヤブ蚊になるかもしれない。

 それを考えれば、「ふふ、〜大人になっていくのさ」などと発言するのは、まさに短パン竹やぶ事例そのまんまで、命がいくつあっても足りんってことに感じられても無理はないし、あながち被害妄想でもないでしょう。順当な処世術かもしれん。

カラッと吹っ切った解毒済みの強さ

 でもねー、それを差し引いても「さの世界」はいいですよ。性懲りもなく言いますけど(笑)。

 つまり他人に言わなくてもいい、自分で心のなかで思っているときに「さ」をつける、といいです。

 何がイイのかといえば、やっぱり達観ぽい心持ちになる点です。グジグジした心の湿度を吹っ切って、カラッとさせる効用があります。

 「さ」というのは、生きていれば不可避的に出てくるイヤな事柄や、人生のネガなあれこれを、全部自分で引き受けて、身体のなかでそれらを全部通過させ、そして解毒してしまったあとに出てくる言葉だと思います。達観するには、それなりに修業はいるのよね。それを潜り抜けて解毒できたからこそ、「はは、まあ、生きてりゃイロイロあるさ」って、「力強く突き放す」ような「さ」が言える。突き放せるから、ネガな物事と自分との間に空間が出来て、その空間に空気が入り込んで風通しが良くなり、カラッとした感覚になる。

 「さ」を意図的に使うのは、実はまだ受け止めきれても居ないし、解毒もできていないけど、なんとなく出口は見えてるっぽい段階で、一気に快方に向かわせる効用があるからです。解毒したから「さ」が使えるのを逆手順で、「さ」を使うことで、解毒してないものも解毒させてしまうということですね。

 そのあたりは自己暗示とか言霊とかいろいろな説明原理はあるんだろうけど、そこはどうでもいいです。実際に、「〜さ」と言い張ってみると、すっと気持ちが軽くなるんですよね。まあ、あまりにも重たい、解毒まではまだまだ時間がかかるようなことは無理だとしても(恋人が死んだとか)、日常的な不愉快なこと(車の切符切られたとか、バイト首になったとか)だったら、「さ」一発で結構楽になると思います。

スライダーズの「さ」の世界

 イメージとしては、ストリート・スライダーズの”Baby, Don't Worry"って曲があるけど、あんな感じ。って知らないだろうし、古い曲なんだけど、この歌詞、全編「さ」ばっかりなんです。

 Baby,Don't Worry 「まあ、そんなに気にすんなよ」という慰めてくれる歌詞で、
 離ればなれは、誰のせいでもないさ
 くよくよしたって終われやしないさ
 ウソをつくのも、そんなに悪いことじゃないさ
 誰もがいつも満たされちゃいないさ

 そして極めつけは、「頭ごなしに笑われようと、いいのさ」ときて、普通頭ごなしに嘲笑われたら相当傷つくんだけど、それでも「いいのさ」と傲然と言い放ってしまうところがイイです。その強さがいい。その強さ、そのパワーで背中を支えてくれて、「気にすんなよ」って言ってくれる感じがいい。

 このバンド、古い(1980−2000年、あとは各自ソロ)んだけど、コアなファンが多いですね。僕も好きだし、ライブ見に行ったことあります。日本のバンドには滅多にない、ロック独特の本物に「悪そう」な感じがあって。悪いと言っても別に犯罪とかじゃなくて、そういうのとは全く違ったレベルの「悪さ」で、それは先週書いたこととのつながりでいえば、「いい子になろうという気が全くない」という感じですね。でも、それらしいパフォーマンスとか物議を醸す物言いとか全然なくて、言動はいたって物静か、無言のまま突っ立ってるだけみたいな感じ、ステージでも針金のような細い身体でかったるそうにギター弾いて歌ってるだけなんだけど、およそ「媚びる」「迎合する」とかいう精神成分が限りなくゼロなだけに、存在するだけで迫力がある。音的には、ボーカルのハリー村越氏の声質が抜群で、艷やかな美声の対極にあるようなハスキー、いっそダミ声なんだけど、声聞いてるだけで喧嘩強そう、悪そうって感じがする。日本の男性ボーカルでこういう特質のある声って珍しいし、類例が思い当たらない。ロックという概念をそのまま結晶化したような声。

 だけどそういうことを別にテーマにしてるわけでもないのですね。俺たちは媚びないでやっていくぜみたいな曲は意外と少ない。普通のテーマを普通に歌ってるだけなんけど、もとの素材がそうだから、説得力が違う。僕が好きなのは、デビュー曲の「カメレオン」なんですけど、この歌詞ほとんど意味ないですもんね。ただ、か・めれ・おーんの繰り返しなんだけど、「おーん」がカッコいいというサウンドメインの。とにかくベースとドラムスが異様にタイトでよく鳴ってて、すっごい気持ちいい。でもYouTubeで沢山あがってるのって、どれも音がそんなに良くないです。これじゃ魅力がわかんないな。CD聴いた方が全然いい。カメレオンなどはドラムとベースだけ先に10秒くらいやるのですが、このイントロだけで既にキますね。もう何千回も聴いてるけど、それでも聴くと盛り上がる。大して難しいことやってないし、むしろありふれたパターンなんだけど、その音質とその空気感の半端ない感じが凄いです。てかここが面白く感じられなかったら(or感じられるような音で聴かなかったら)、スライダーズ聴いても全然面白くないと思います。

 歌詞面でいえば、これもフェバリットの「エンジェルダスター」という曲のサビに、「いつの間にか老いぼれてくのさ」と「さ」が出てきますけど、この突き抜けた達観が好きです。それと「おまえだけを連れて逃げたいぜ」「この街の風は乾いてる」の3行だけでもうひとつの「世界」が出来てしまってる。

 話もどって、Baby,Don't Worryですが、よくある人生応援歌みたいな感じなんだけど、スライダーズが歌うとそんな暑苦しい感じも、妙に善意っぽい感じもしない。どっかで誰かが「ブッキラボーな優しさ」と書いていたけど、ほんとそんな感じ。ブッキラボーなんだけど、いやブッキラボーだからこそ嘘くささが無くて沁みてくる。

 このように「さ」にはキザったらしい達観風情があるんだけど、だけど、その裏には強さがあります。正確にいえば、全然強くも何ともない、単に弱々しさを叙情的に韜晦(とうかい、誤魔化すこと)しているだけの「さ」もあるんだろうけど、基本「さ」には独特に強靭さがあります。

 ということで、他人に言うのではなく(言う機会もないだろうが)、自分に言いきかせるように「〜さ」を使うといいですよ。「はは」と軽く笑ってやりすごしすって感じで。

 そんなもんさ、こんなもんさ
 どってことないさ
 大したこっちゃないさ
 よくある話さ
 なんとかなるさ
 明日は明日の風が吹くさ
 なんだかんだあるから、面白いのさ

 これを、「よ」「よね」「だよね」にすると、より日常用語例に近くなるけど、ちょいグジグジして弱くなる。「そんなもんだよ」「よくある話だよね」「なんとかなるよね」にすると、どことなく自信がない感じ、自信がないから相手に同意を求めてすがってるような弱さがでてくる。「よ」は「よね」よりは自信ありげだけど(そんもんだよ、そんなもんだよね)、それでも言い切っておきながら自分でも今ひとつ確信が持てない感じ、持てないからこそ言い切ることで不安を払拭してる感じが微妙に残る。そこにいくと、やっぱり「そんなもんさ」「なんとかなるさ」は、誰の同意も求めずに一人で決然と言い放っているし、仮にそうならなくても別にそれでもいいさって腹を括ってるところもあって、そういった強さによってカラッと吹っ切った感じが出てくるのだと思います。


 というわけで終助詞「さ」一つだけでも、これだけ世界が広がるわけで、ひとつづつやってったらキリがないです。でも、もう一つくらいやっておきましょう。

「ぜ」の世界

 「ぜ」はちょっと粗野な言葉遣いで、もっぱら男性が使う助詞ですが、「さ」のような達観した風通しの良さはなく、もっと強い意思が込められてます。また、「さ」のもつ客観性(世の中こんなもんさ)に対して、激しく主観的です。「なんとかなるさ」と「さ」は言うのだけど、仮に何ともならなくても、いや十中八九ダメになるのが見えていたとしても、「それでも俺はやるぜ!」という強烈な意思を核にしてます。

 「ぜ」がもっている、ギラギラするくらいの意思の力、さらには世界を敵に廻しても一歩も引かないってくらい戦闘的なニュアンスが好きです。

 典型例が忌野清志郎氏の有名な「自由」という曲ですが、冒頭から「俺はつきあいにくいぜ」ときて、「俺は法律を破るぜ」「責任逃れをするぜ」と、良い子になろうなんて1ミクロンもないどころか、戦闘的を通り越えて、挑発的ですらある。

 この真っ黒い太陽がギラギラ輝いているかのような強烈な意思と自我が気持ちいいのですが、そんな自分を誇らしげに誇示するとかいう感じでもなく、自分の思想を広めようという感じでもなく、感じとしては、どうも俺が普通にやってると世間の人とはズレてしまうみたいだし、なんかイロイロ言われるんだけど、まあ俺は気にしないけど、そっちも不快な思いをしたくないんだったら俺に近寄らないほうがいいと思うよ、という「忠告」みたいな感じです。

 「自由」の歌詞世界は、なんだかんだ自分を悪いように描いておいて、なんでそうなるのかといえば、世間の言うとおりに「いい人」になっていったら自分の自由が汚されてしまうからだと。サビで「この汚ねえ世界で、一番大事な(綺麗な)もの。それは俺の自由、自由、自由」としつこく強調しているように、自分の自由にプライオリティを置く以上、それ以上のものは求めないよ、当然の犠牲として周囲の評判とか理解とかは求めないよ、そこまで贅沢は言わないよってことでしょう。そして、大サビで、それは自分ひとりだけではなく、「全てのヤツらに自由を!」とフランス人権宣言みたいに連呼することで、すごい特殊に個人的なことが、一気に普遍的なものごとに広がっていくという構造になってます。

 この「全てのヤツら」って言い方、僕はすごい好きで、今度憲法を改正するなら、全部そのように変えてほしいですね。「国民は」「およそ人は」とかなっているのですけど、これを「全てのヤツら」に変える。例えば、憲法25条生存権に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」となってるけど、「国民は」とか言われても今ひとつピンとこない。なんか自分のことのような気がしないそこを「全てのヤツらは、健康で文化的な〜権利を有する」とした方が腑に落ちる気がします。国民相互間の仲間意識みたいなものも出てくるんじゃない。僕もあなたも「ヤツら」の一人だってことで。

 まあ、体裁の問題として無理なんだろうけど、言いたいのは、「あなたにはそういう権利があるんだよ」ということを、リアルに実感してもらうように法律の書き方も努力すべきってことです。契約書とか、仲間内の綱領とか起案するときも、カッコつけたらいいだけの場合は紋切りフレーズでいいんですけど、血を通わせようとするなら、表現の仕方にはかなり腐心します。「公正で誠実な協議により」とか美しく書いても右から左に通り抜けそうだから、敢えてシンプルに「嘘はつかない」「駆け引きはしない」とぶち切りで箇条書きにした方がわかりやすいし、胸に刺さりますから。仲間内の規約みたいなの作るときには、決めの条文一行だけの方が皆守りますよ。「セコいことすんな」とか、「うだうだ言ってないで、とっとと動け」とか。「逃げるな」とか、「評論家になるな」とか。

 現実的な使用法としては、「さ」と同じく他人に向かって多用するとなにかと面倒くさかったりするので、もっぱら自分に言い聞かせるような感じで言う(思う)といいです。

 多くの場合、負け惜しみややせ我慢みたいな言い方になってしまうかもしれないですね。ボコボコにやられたあとでも、「ちくしょう、面白くなってきやがったぜ」とか(笑)。「その程度じゃ、俺を止めることはできないぜ」とか。か〜なり無理っぽい言い方になったりするかもしれないけど、それでもいいいんだぜ。気にするこたあないぜ。やるといったらやるんだぜ。

勧誘の「ぜ」

 もう一つ、「ぜ」には勧誘の用法もあります。
 「さあ、行こうぜ」「一緒やろうぜ」 ってやつです。
 英語で言えば、なんだろうな、"Hey, buddy(mate), have a go!"(やってみようぜ)くらいかな。


 この言い方も好きですね。「やろうよ」というよりも、「やろうぜ」といった方が、やや荒っぽい言い方である分、活力がある。もうエンジンかけててブンブン唸ってる感じで、フットワークが軽そう。すぐにも実行に移せそうな勢いがある。言葉に力があるから、自分の魂の奥の部分がズッと動かされる気がする。

 「ぜ」の良さは対等感です。
 完全に対等でないと「ぜ」は使えないですから。上から下へ言うときは使えるけど、上下関係を意識しつつ使うことは少ないんじゃないかな。上司から部下に「やろうぜ」というときもあるだろうけど、わざわざそういうくだけた言い方をするときは、上下ではなく敢えて対等な仲間的なニュアンスを出したいときでしょう。

 「ぜ」の多くの使用例は、小中高の友達同士、それも平気でポンポン悪口をぶつけ合えるような親しい友だち、でも親友というよりは「悪友」といった方がピンとくるような感じですかね。いずれにせよ、その対等な感じはいいです。友だちがいるかいないかの基準として、「〜ぜ」で話しかけてくれる人がいるかどうかで見てもいいかも。もっとももともと言葉遣いがきれいで崩れない人もいるから、そこらへんは人や性格によりけりだけど。


その他のあれこれ

「よ」と「ね」

 「ね」(だよね)は、相手の同意を求めたり、相手にもたれかかってくる言い方なので、口癖になって多用しすぎるとウザがられる可能性があります。「そうだよね」「わかってるよね」「やっぱりコレだよね」など、無理やりな連帯感というか、相手の意見を聞いてるようで単に押し付けてるだけってニュアンスがあるでしょ。

 「よ」は「ね」ほどもたれかかってる感じはないんだけど、それでも自分の結論を強調するだけでなく、やや押し付けてくるニュアンスはあります(「よ」は色んな場合があるから一概にいえないけど)。「コレだよ」「やってもいいんですよ」「だからYESだって言ってるんですよ」「どうなっても知りませんよ」とか、ソフトな脅迫めいた言い方にも使える。圧迫感があるのですよ。

 「さ」「ぜ」は、相手に対する干渉を一切やらないという点で特徴があり、「お前がどうするかなんて、俺の知ったこっちゃないぜ(さ)」と完全に突き放して冷淡な感じはするけど、相手の意思決定の自由には干渉しない。

 「ね」はその点、すごく相手に干渉してくる。同調圧力の現場的表現というか、「当然参加するよね?」みたいな感じ。「よ」はそれほど干渉は強くないけど、「○○なんだよ」と自分の結論が惟一無ニのものであることを強調してるから、結局はあなたもそれに同調することになるんだよって間合いを詰めてくる感じがする。

 「よ」「ね」は、全体のトーンを柔らかく、親しみやすくする効能もあるので(「○○ってことなんですね」「ところが○○なんですよ」)その限りではいいんだけど、やりすぎるとマズイですよね?

賢く見せたかったら終助詞ゼロ 

 いっそそのあたりのニュアンス終助詞を使わないという手もあります。すっごく賢そうに見えますよ。冷たそうにも見えるけど(笑)。「俺はやらねえぜ(よ)」→「俺はやらない」、「明日のことはわからないさ(よ)」→「明日のことはわからない」。

 終助詞は語尾ニュアンスを効かせる意味では効用は大きいのだけど、そのニュアンスだけで誤魔化すという悪用パターンもあります。「そうだよねー、わかんないよねー、ねえ、どうしたもんだかねー」とかやたら「ねえ」を多用することで親近感は出せるんだけど、結局何も言ってないに等しいという。でも終助詞ゼロにすると、その種の無内容な喋りかたが出来なくなります(「そうです」「わからないです」といい切ったら意味が変わってきてしまうので言えない)。だから無内容なことが喋れなくなるから丁度いいです。

 逆に座談がヘタだとか、何を喋っていいのか分からなくて間が持たないということでお悩みな人には、この「あたりさわりのない無内容な喋り方」をマスターするといいです。たくさん喋ってるんだけど、結局何も言っていないという。政治家がよくやる手だけど。「いやあ、まーねー、なんといいますか、最近はねー、いろいろとねー、まあ、ありましてねー、そこがねー、うーん、もっとねー、ちゃんと考えなきゃねー、というわけでねー、私達としてもねー、そこはねー、しっかりねー」とかね。これは終助詞というよりも間投助詞が多いですけど。

 で、話にでたついでに間投助詞ですけど、終助詞ではなく、言葉の途中に調子を整えるために入れるやつがあるのですが、これもやめるといいです。

 僕がときどき「おぱちゃん語」というの「ねの超多用」があって、例えば、「こないだネ、私がネ、駅前にネ、行ったときにネ、○○さんがネ、男の人と一緒に歩いてたのよネ」とほぼ一秒に一回くらいの割合で「ね」が入ってくるのが、僕のいうおばちゃん語です。

 これを一切抜きにしてしゃべると、「こないだ、私が駅前に行ったときに、〇〇さんが男の人と一緒に歩いていました」という証人尋問か公式見解みたいな言い方になるので、頭良さげに見えます。取り付く島もないって感じもするけど(笑)。でも馬鹿に思われたくなかったら、極力省くといいです。

 男の人の場合は間投助詞「さ」の多用がありますね。「僕がサ、東京でサ、打ち合わせをしててサ、そこにサ、○○がサ」みたいな言い方。

 こういう間投助詞って、どんどんパ!どんどんパ!どんどんパ!って定期的に同じ音が続くのでリズミカルになってすごく喋りやすい。要は韻を踏んでるのと同じです。無理やり同じ音をぶちこんでいくのだから、強制的に「韻」になってしまうだけなんだけど。ちなみに英語のオーストラリア弁の「マイト」も同じ効用で、やたら文章の切れ目にmateが入る人がいますね。"It's OK, mate, No worries mate, I'm gonna do it anyway mate, so you don't have to ask it mate, should be alright mate"って感じで、これも事実上間投助詞と同じ効能でしょうねー。面白いです。

 ただ楽してるとしっぺ返しもあって、間投助詞を多用しすぎると賢そうには見えません(笑)。

 とまあ、語尾ニュアンス一つとっても、いろいろ語れて面白いよねって、どうでもいい話でした〜。



 手前にはゴルフ場がひろがっているのでした。

 反対方向のPort Botanyの産業港湾エリア。


文責:田村


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