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Essay 950:オーストラリアの日本化と「いい人」ストレス
 

 


2020年08月31日
写真は、Hunters Hillの先っぽのWoolwich 


オーストラリアの日本化

 オーストラリアに来てからしばらくして、「なんか、だんだん日本みたいになってきたな」と感じるようになりました。その思いは年々強まっています。

 僕が最初にやってきた1994年頃のオーストラリア、少なくとも”20世紀”のオーストラリアは、今よりも風景的にスッカスカで、いい感じに「うらぶれて」いたんですよね。当時は今よりも全然ビンボーで、一般人の生活体感で日本の経済力の半分くらいで、給料も日本の半分くらいなら、物価、特に(今では信じられないだろうが)不動産が安かったんですよ。オージーもけっこうビンボーで、車もオンボロ車が普通に走ってて、車のアンテナが壊れたのかワイヤーハンガーをアンテナ代わりに差し込んだり、後部座席のガラスが割れてるのでゴミ袋の黒いビニールを貼ってあったり。

 人の感じも政治社会の感じも、どっかしらスッカスカでいい加減なんだけど、その分風通しは良くて、日本から来た身にとってみれば、すっごい楽、俺に合ってるわって思ったのですよね。なにかもがきちんと整理整頓されている部屋よりも、テキトーに散らかってる部屋の方が落ち着く感じ。ビシッとしたよそ行きの服もいいんだろうけど、ズボラな部屋着の方がリラックス出来る感じ。

 それが段々そうじゃなくなってきて、2000年のシドニーオリンピックの前くらいから、長い長い不動産バブルが始まったこともあって、オーストラリアもだんだん金回り良くなってきた。お店も、昔ながらの営業してるんだか潰れてるんだか分からんくらいの感じから、妙に小綺麗な店が増えてきた。

 車もどんどん瀟洒になって、昔ながらのボコボコな車は少なくなった。車体の色も、昔は色とりどりで、緑色の車とかかなり走っていたんだけど、だんだん電化製品みたいに銀とか白とか無彩色系が増えてきた。個人家屋の色も、大胆なまでに色とりどりだったんだけど、新築はなんか無彩色系のマンションとか、建売住宅ぽい感じになった。

 昔のサバーブの道はあくまでだだっぴろく、駐車規制もそんなにうるさくなく、センターラインもなにもろくすっぽ引かれておらず、そのほったらかしの感じが、広々とした空と相まって、なんとも自由を感じさせてくれた。でも、道にもどんどん線を引き出して、こんなところに別に要らんだろうというところまでセンターラインを引いている。線を引かれる度に、なにかが失われているような気がした。

 それに歩調を合わせるように、オーストラリア人のストレスも溜まっているように思いますね。随分前の話だけど、深夜のパブの規制が入りだし、RSA(節度あるお酒の飲み方を実践するためのお店の義務と勤務者の訓練資格)とかしょーもない制度が出来た。なぜかといえば、シティあたりのパブで、会社づとめのオージーがストレスからだと思うけど、酒に酔って喧嘩暴力沙汰になるのが増えたからだそうな。そんなの赤ちょうちんでサラリーマン同士が表に出ろとかいうようなもんで、日本だったら日常風景で、何を大騒ぎしてるのやら?と僕には不思議だったけど、あれよあれよという間に冗談みたいな規制が激しくなりました。やれ、深夜になったら、割れても危なくないプラスチックの容器にしろとか、1時間のうち10分休憩をいれろとか、お子様かよ?って感じの。

 ちょうどオリンピックくらいかな。オリンピックは別に語られるほどの原因だとは僕は思わなくて、まあいい区切りだったのかもしれないです。また、2000年というキリのいい年にやったので、20世紀と21世紀を区切る目安にもなるし。

 オーストラリア人は基本いい人達だから、僕は大好きですけど、その「いい人」の方向性が、なんかここ20年ほど不自然に偏ってきているような気がするのですよ。それは日本もそうだし、世界的にそうなのかもしれないけど。平和だからですかね。

 そして、その妙な方向にいってしまってることが、今回のコロナにせよ解決を困難にしているような気がします。

 これをなんと言語化したら良いのだろう?
 どことなく無理して「いい人」になろうとしてて、でもその「いい人」の内実が、ナチュラルでオーガニックで実質的ではなく、どことなく人工的で、とってつけた風で、形式的な感じ。動機の部分は別に素朴な善意でそれはいいんだけど、それを表現するのに、意識し過ぎているせいか却って不自然になって、それが又ストレスにもなって、逆に内実が空洞化してきているような。

 その変化は、貧しいけどおおらかだった昔のオーストラリアが、段々と不動産バブルで小金持ちになってきて、妙な方向に進んでゴージャスで洗煉されてきたのかもしれないけど、より不自然に息苦しくなっている感じに似てるんですよね。多分根っこは同じだと思うのですけど。

 これはすごーく微妙な感覚なので、説明するのが難しいです。
 一方で、それによく似た異母兄弟みたいな概念があります。すごく似てる、というか部分的には同じといってもいいかもしれない。まずはこれらを挙げてみて、気がついた特徴点などを書いていくうちになにか見えるかもしれません。

教条化、思考停止化する正義と弊害

正義の教条化

 放送禁止用語とか差別用語の禁止とか、言い換えとか、「良くない」表現は規制され、自粛され、蹴散らされ、いっときそのエスカレートが問題になって「言葉狩り」とまで批判された現象があります。

 同じようなことは沢山あります。セクハラ、パワハラなどのハラスメント系にせよ、DVにせよ、嫌煙にせよ、エコにせよ。最初は良かれと思って提唱されたテーマであり、それは多分に事実でもあり、真剣にアドレスすべき問題でもある。そして世を啓蒙し、拡散し、人々に知られていくプロセスもまた大事。

 それは全くそのとおりなんだけど、どっかしら行き過ぎてしまう。あるいは形骸化して本質が見えなくなってしまったり、便乗悪のりする輩が増えていくうちに、逆にそれに対する反感も強くなってくる。村上春樹の「海辺のカフカ」にも、いわゆる「フェミニズムの闘志」が非常に醜悪な形でカリカチュアされてました(作品における含意はもっと高次元のところ=アイヒマンと想像力の欠如とか=にあるのですけど)。

その割には効果がない

 70年代にフェミニズムが盛んになり、社会現象にまでなりました。確かに一定の成果はあげたと思うのですが、その反発もまた強く、完全に男女同権になっているかといえば、全然なってないです。日本がダメなのは言うまでもないけど、西欧諸国だって自慢できるほどではないです。オーストラリアでも、男女間の賃金格差、生涯年収格差、老後の貧困危機率でいえば女性の方が歴然と割を食ってます。

 一方男女平等が昔よりも進んだのは、生育環境や教育のせいもあるでしょう。僕自身、幼稚園からずっと男女共学、最後は司法研修所で、クラスメートは女性弁護士・検事・判事になっていく人たちで、男女差など感じる場面は無かったです。てか事実の問題として、彼女らが劣ってるということは全くなかったですもん。事実がそう(まったく同等)なら、認識もまたそうなります。逆にいえば、なんで差別できるのか不思議というか。僕が生きてきた眼の前の現実とは違う。性差よりも個性差の方がずっと大きかった。

 だから「教育」というよりも、単純に「事実」ですよね。そして教育でいうなら、妙な男尊女卑的な教育を受けないで済んだこと。もっといえば、目の前の事実をストレートに見ることを阻害するような妙な先入観を与えられなかったことが大きいです。フェミニズムやその他の運動が奏効したとすれば、そういう男性優位のカルチャー思想を減殺した部分でしょうか。

 あ、でも、少年マンガとか好きだったから、その手の「男性美学」みたいなのはふんだんに触れてましたよ。男一匹ガキ大将にせよ、男塾にせよ、「男子三日会わざれば刮目して見よ」にせよ(女子でも同じだろって思うんだよね)、男はカッコよくあらねばってカルチャーはありますよ。だけど、それって意外と、「だから男は女よりも偉い」という具合には繋がらないのですよ。男女比較論をしてるわけではなく、男の義務論みたいなものです。

変化が生じる化学反応

 で、男女平等でも、フェミニズム運動以前に、戦前の男尊女卑や家父長制が敗戦によってオフィシャルにNGになり(新憲法でも明言されたし)、制度として男女平等共学スタイルになったという事実が出来、そういった地ならしされた地面を僕は歩いてきたから、素直にものが見れたと思うのです。これは制度的な面。そういう制度として結実するかどうかは運動の大きな焦点にはなるでしょう。

 ただ、理念や制度とはまた違った原理や化学反応が起きていたのだと思います。なんでアメリカが口添えしたような憲法理念がすっと受けられられたのか。てか、そもそも自分の親兄弟を殺した憎い敵のようなアメリカ(とそのカルチャー)を皆が受け入れたのかといえば、それが正しいとか間違ってるとかではなく、勝った負けたでもなく、当時のアメリカが眩しいくらいにカッコ良かったからだと思います。びっくりするくらい物量的に豊かだったし、気前良かったし、それに一気にどっと入ってきたアメリカの音楽、映画、豊かな消費生活のなにもかもが魅惑的であったし、非常に進んでいて素晴らしいものに見えたからだと思います。これが最強の説得力になったと思う。

 だから男女論に限らず、新しい思想や文化や価値観は、正しいとか間違ってるとかではなく、「カッコいい」という点で旧来の価値観を凌駕してしまったんだと思います。おそらくは明治維新のときもそうだったんでしょう。そういう状況で、男尊女卑とか言っても、いかにも時代遅れで、いかにもダサくて、魅力に乏しかったのだと。

 日本のフェミニズムについていえば、まず戦後そういう形で男女平等が原始的に根付いて、そこから先、ある程度のところまでいって頭打ちになったのを打破するために出てきたものだと思います。どこで頭打ちになるかといえば、男性の「利権牙城」ですね。例えば家庭における「家事や育児をやらなくても良いという利権」があります。既得権益層は、その既得権益を殺されるまで手放さないという習性がありますから。もう一つは、会社やビジネス世界です。あれも男性カルチャーというか、愚かなくらいに男カルチャーなところがあって、一つは侍社会の倫理のような全人格的×全人生的盲従であり、会社(殿様)が死ねといったら二つ返事で死ななければならないとか、どんな汚いことでもやらないといけないとか、男は馬鹿だから(=生命や人生を軽んずるところがある)わりとそれやっちゃうんだけど、女性はその点、仕事は仕事、人生は人生と普通に見えてしまうから馴染みにくい(上からしたら使いにくい)ってのはあるでしょう。

既得利権の岩盤

 いずれにせよ、そこから先になると、既得利権やセントラルドグマ(会社人生かくあるべし、という基本原理)という岩盤にぶち当たって、そこで激突するという。

 だけど、そこから先になると、いくら騒いで、いくら問題視しても、空回りしがちです。男女問題に限らず、エコであろうが、ハランスメントであろうが、差別問題であろうが、単純に唱えるだけだったらどっかで岩盤にぶち当たる。自分の利害に関わらないことであるなら、誰でもなんぼでも賛成してくれるんですよね。エコだろうが、ハラスメントだろうが。しかし、こと自分の利害にかかわってきたら話は別です。エコのために○○産業は全廃だ〜とかいって、それで飯食ってきた人は明日から失業ホームレスですし、受け入れがたいでしょう。それに「感情」という大きな要素も入ります。紙文化が地球の森林乱伐をまねき、エコを壊してるから、紙関係業界は人類の敵だ、クソだとばかりにいわれたら、製紙業界の人にせよ、出版関係にせよ、あるいは伝統の和紙を漉いている人たちにせよ、ちょっと待てよって言いたくなるでしょう。それなりに皆誇りを持っていいものを作ろうと頑張ってきたのに、頭ごなしにクソよばわりされたら、そりゃ腹が立つだろう。

 さらに「事実」の問題があります。ハランスメントでも総論賛成各論反対で、総論は大賛成で、そのときはムカつく上司とかを頭に描いてたりします。しかし、実際の現場で、自分がハラスメントとして糾弾される側になったら、話はべつでしょう。例えば、あまりにも怠け者で、あまりにも卑怯で、あまりにも人間的にダメな後輩や部下を叱ったら、パラハラだとか言われたら、やってらんないでしょう。そして、そういってろくに現状を知りもせず、また知ろうともせず、ワンパターンの決り文句のパワハラ批判ばっか浴びせられたら憎らしく感じるようになるでしょう。そして、そういう正義を声高に叫ぶ人々そのものを憎んだり、軽蔑したりするようになるでしょう。

1%の理念総論と、99%の地道な現場

 だから思うのですけど、何によらず、何かを良くしようと思った場合、その主張を叫んで、ムーブメントにすることは大事だけど、それだけでは事は成就しない。それは全体の工程のほんのとっかかりに過ぎず、そこから先は違った論理や経路、違った戦略と、違った化学反応を必要とするのではないかってことです。一定知れ渡ったら、むしろ抑制的であった方が浸透しやすいんんじゃないかとも思います。

 それは個々の現場の人が一番わかっているでしょう。例えばNGOで最前線の現場にいる人や、僕もやってたように弁護士などでも、代理してより強力に主張し、さらに強い手段に訴えますけど、その前に主張は洗練させます。こっち悪いのかもしれないという点は、かなり注意深く見ますよ。なぜって、それに便乗してワガママ言ってくるモンスターペアレンツやクレイマーのような人が多いからです。時と場合、人や機関にもよるだろうけど、寄せられる相談のうち半分以上はばっさばっさと切ると思います。そして最前線では、もうそんな念仏みたいな理念はいいません。公式文書や訴状とかマスコミとかには、そういう喜ばれそうな修飾はしますけどね、実際の刀振り回してチャンチャンバラバラやってる現場では、向こうだって馬鹿じゃないんだからわかってるし、そんな理念だけでは何も解決しません。そこでは、双方額をつきあわせて、現実的に妥当でスジも通ってる落としどころを探ってるだけです。「この点は、本人も非常に強いこだわりを持っているので、ちょっとお譲りは出来ないのですけど」「その代わりと言ってはなんですけど」とかね。

 何を言いたいかと言うと、わーっと理念を言うのは、一通りそれが社会に浸透したらそれでもういいんじゃないかと、総論だけなら誰もが賛成するってくらいになるから。問題は各論であって、個々の現場のあれこれです。そこから先が、全然目立たないし、まず報道されることもないし、脚光を浴びることもないんだけど、その地味な部分こそが主戦場なのだと。

 比率で言えば、わーっと理念を叫ぶのが1%くらいで、あとの99%は地味な現場だと思います。むしろひと目につくような表舞台では、あまりにも叫びすぎて、あまりにも形式化しすぎて、逆に反発食らったり軽蔑されることを避けることだと思いますね。いかに抑制するか。そのステージになったら、一知半解で、知ったかぶってるテレビのワイドショーとか、ネットとか、形式化することで思考停止している味方陣営のアホこそが敵になると思います。

 オーストラリアではほとんど人種差別らしい差別はないのだけど(アボリジニに対しては別論)、それは差別はいけないと声高に唱えているからというよりも、99.9%の特に差別もなく普通に平等にやっている現実の存在がでかいと思います。理念はときどき事件になったりしてメディアになったりして、再確認的な意味を持つけど、よりリアルに言えば、現実に誰も差別らしいことをしてないから、「そういうもんだ」と誰もが思い、そして「そういう現実」がまた再生産されていくのだと思います。僕らが日々の日常でどう振る舞うか、その集積が一番大きな決定力をもつように思います。

 また、形骸化した理念は、「いい加減にしろ」という強烈な反発を生み、それは往々にしてポピュリズムという形になります。そのポピュリズムは、何も変えたくない既得権益層に逆利用され、結局なにも変わらないという。

過剰規制の逆効果

 上に述べた理念の教条化の問題は、最初に僕が書いた違和感にかなり近いです。理念だけが独り歩きしてしまって、結局実質が伴わないという。

 ただ、僕が感じてるのは、そこまで巨大な「理念」とかではなく、もっとも些細で日常的な「ちょっといいこと」くらいなんだけど、そればっか増えていって息苦しくなってる、でも息苦しくなった代償として成果は上がってるのかというと微妙だという。

小さな過剰規制の集積

 「角を矯(た)めて牛を殺す」って言葉がありますが、牛の角がちょっと曲がってるから、無理やり直そうとしたら牛が死んでしまったということから、小さな欠点にムキになってると全体がダメになるよ、もっと大局観を持たないとダメよという警句です。

 例えばですね、道路の規制なんか年々厳しくなってます。ずっと昔は、車も少なく、酒酔い運転が自由だった時代、制限速度なんて概念がなかった時代もあるといいますが、それから思えば遠くに来たもんだです。車が増えてきて、酒酔い運転と事故率を考えれば規制はすべきだと思いますけど、年々海面が上がってくるかのように、細かいところの規制が増えている。

 例えば、制限速度でも大体60キロ、町中の中心部は40キロ、外に出たら100キロとか大雑把だったのが、どんどん規制が厳しくなって、住宅地だったら50キロ、いやここは40キロ、学校のある時期の登下校時は40キロとかなってきます。Anzac Bridgeという大きな高速道路みたいな橋があるのですが、制限速度が80だったのが60キロになって、あの頃からかな、なんか違和感を覚えてきました。意味ない、つか逆に危ないよなーとか。今はもう、深夜にデリバリーとかやるからわかるんですけど、シティ内の信号、すごいですよ。意図的に全ての信号にひっかかるようにセッティングされている。ぼけーと待ってても誰も通らないような深夜3時に無駄に待ってると腹立ってきますね(笑)。別にこんなところ押しボタンオンリーか自動感知式でいいじゃん、あるいは全部黄色点滅でいいじゃんとかいうところも過剰規制してる。ま、一説によれば、そうやって交通反則金を増やして自治体の歳入にしたいという、セコい企みがあるという話ですが、それにしてもねーって感じ。

 また、ウチの前の通りは、土日は駐車OK、平日もラッシュ以外は駐車OK(終日OKでも構わないくらい広いんだけど)なのに、自転車専用道を作ることになりました。まあ、エコ関係で自転車大流行ですから、それもわかるんだけど、もうちょいやりようがあるんじゃない?という気もします。なぜってね、両側にびっちり住宅が並んでるから、路肩を自転車道にされたら、引っ越しや搬入のときにすごい困るのですよ。かなり離れたところに車を止めて、延々運ばないとならない。ステイホームでデリバリーとか多いのに、何考えてるんだという。また、毎週のゴミの回収が地獄ですよね。こちらは自宅の前に巨大なゴミ箱を出しておいて、それを車が回収するのですが、自転車道があるからうまく出来ない。結局、ゴミ収集の便宜のためにサイクル用の仕切りの簡易枠がグチャグチャになってて、自転車も通行できなくなってます。なんつかね、エコ=自転車という定形的な正義があって、全体のバランスが取れてない気がする。

 そもそも渋滞やらエコやらを考えるなら、都心の一極集中こそをやめればいいんだし、都心部分の新規建築を規制すればいいのに、その真逆にバランガルーの巨大埋め立て地を作って第二都心を作り、カジノ高層ビルを作り、メトロの駅も作りましょうとか、なんかやってることが大きく見たらチグハグなんですよねー。でもって、「エコも考えてますよ、やってますよ」とばかりに自転車道を整備する。いいのか、それでっって感じ。

政治の「やってる感」劣化と保身

 類例は沢山あるんだけど、キリがないので次にいきますが、理念を前面に立てて細かい規制をするのって、政治的には一番簡単なんですよね。でも、思ったほど成果もでない。

 生活保護の不正受給を防ぐとかいっても、実際に不正受給なんか1%以下だというし、それを防ぐあれこれをやっても、結局不正受給をするプロのような人たち(暴力団とか)だったら、そんなのお構いましにゴリ押ししちゃうし、あるいは非常に巧みに書類を揃えます。結局割を食うのは本当に救われなければならない人たちで、彼らは責任感強いから貰うことに罪悪感があるし、ちょっと言われただけで、「そうですよね」と引っ込んで、結局どうにもならなくて餓死したり自殺したり。何やってんだか、です。

 およそどんなことでも、そんな通り一遍の規制では無駄というか有害です。本当に取り締まらねばならない連中は、はるかに強かったり、悪賢いですから。本当にやりたかったら、窓口に元マル暴の退職した刑事さんとかを再雇用すればいいです。顔なじみも多いだろうから「なんやお前、組の仕事せんと、こんなことしとってええんか?」とか睨んでもらった方が実効性あります。

 でもね、政治家的には「やってまっせ」「これは私がやりました」って成果を誇示したいから、現場で頑張れるように弾力的に運用するとか、兵糧弾薬を豊富にするとか、潤滑油を切らさないとかいう地味なこと、でも一番有効なことをやってても、地味すぎて誇れないんでしょう。だから、実際にはクソの役にも立たないようなことを、これ見よがしやる。そこでは一番やりやすくて、一番目立つものという基準で選んでいくから、政策の一貫性も整合性もクソもないです。つまりは「インスタ映え」政治であり、個々人のレベルではインスタ映え人生。

 規制でも、どんどん厳しくすればするほど、やってる感はでますからね。よくこっちで、「ゼロ・トレランス(許容度ゼロ=一度でも違反した人には容赦なく罰する)」とかいって、政治家が誇らしげに「やってまっせ」的に言うけど、アホかいなと思うわ。リアルな事案においては、それこそ無数のニュアンスや陰影があるのであり、そのヒダをどれだけきめ細かくフォローできるかで事の成就が決まる。「神は細部に宿る」というけど、ほんとそうだよ。不登校であろうが、離婚であろうが、全ての案件に特別な陰影があり、全てがスペシャルであり、それを根気よく聞いていくことが本当の前進につながる。それを、十把一絡げにしてアウトとかセーフとか決めるのはおかしいですよ。話を聞き終わる前に、「はい、○ねー。お薬だしときましょうねー」って食券みたいに処理されたらイヤでしょうに。


 でもね、子供を守ろう、ペドがどうした、公園で子供と一緒に話したり遊んだりする優しいお兄ちゃんが犯罪者扱いにされてしまう一方で、子供の虐待は全然減らないし、DVだって増える一方だし、効果ないじゃん。そもそもなんでそういう弱いものに当ったりするのか、これはハラスメントでも同じだけど、なんでハラスメントが減らないのか、その根本原因はなにか?といえば、僕はストレスだと思います。誰もがそう言うと思うけど(笑)。そして、そういう下らない規制やら、今の日本でとにかくマスクをしないと人非人扱いみたいなカルチャーが、結局は積もり積もりって、皆に大きなストレスをかけているのだと思います。

 オーストラリアでも、タバコに対する課税は毎年増えて、世界で一番タバコの高い国(一箱4000円だよ、今や)になってしまっている。だけど、タバコに対してはヒステリックに悪者にするんだけど、ドラッグはほぼ放置状態なんだよね。一応規制されてるんだけど、別にそれほど忌避感もなく、やってる人はやってるし、入手するのもそんなに難しくない感じ。なんだよ、それって。日本の喫煙禁止地域で、深夜で半径百メートルに誰もいなくてもダメとかいうのはおかしいですよ。「周囲30メートルに誰もいなかったらOK」ってすればストレスもだいぶ減ります。

 なんでこんなに規制の問題点をいうかというと、過剰な規制は必ずやストレスを生むからです。そして、そのストレスは万病の元でもあるし、自傷他害全てのトラブルのエネルギーになるからです。一定水量が貯れば、自然にダムが決壊するみたいになって、常に情緒不安定になったり、イライラしたり、人に対してキツく当たるようになったり、周囲の一番弱いところに攻撃が向かう。ちょっと前に、お節介焼きな国家、ナニーステイトを書きましたけど、過保護で口うるさい親というのは子供にとってはすごいストレスだったりもするわけですよ。「いい子」にならないきゃいけないストレスです。

「いい人」ストレス

自発と強制

 この「いい子(人)にならなきゃいけない」かのようなストレスって、気づかない間に結構心に負担がくるんじゃないかな。最初から勉強もあんまり出来なくて、親も過度の期待をしてないくらいの方が、子供はのびのびと出来るけど、妙に出来てしまうと期待もでかいし、それに応えるのがアイデンティティみたいになってしまって、かなり心に枷をはめてしまい、歳を取るにつれてそのギャップがきつくなる。

 ここはめっちゃ微妙なところなんだけど、本当に良くありたいと思っている部分も大いにあると思うのですよ。別に好きこのんで「悪い人」「悪いこと」をしたいわけでもないし、ほんとに他人に優しく、良くありたいと思う気持ちは真実だとは思います。

 だけどそういうことは、ごく自然に心のなかで思ってればいいことで、口に出したり、形にしてしまうと、なんというか空気に触れて「酸化」するような気もするのですね。どうしても他者に伝えたいときは、そりゃ口に出して言うでしょうけど、自分がかくありたいと思うことは、別に一人でそう思ってればいいだけのことで、口に出して言ってしまうと意味が変わってきてしまうような気もするし、そもそもきれいに言語化もできないでしょう。

 それを、おっかぶせるように他人から「良くあれ」と言われてしまうと、調子が狂うんですよね。よく子供の頃に、いい加減部屋も掃除しなきゃねとか思ってるときに、親から「いい加減部屋を掃除しなさい」とか怒られると、「今やろうと思ってたのに!」ってムカつくことがありますが、自分で思ってることを、周囲から上書きされるように押し付けられるのってイヤなもんですよ。

 そして、そんなことが重なってくると、それがストレスになるし、そのストレス対策として「あれこれ言われないようにしよう」と進んでそれをやるようになります。結局、終着駅は「良きもの」で同じなのかもしれないけど、オーガニックにそこにたどり着くのと、周囲から人工的に強制(矯正)されるような形で行くのとでは、随分ニュアンスが違ってくるとでしょう。

 

表現形態がない

 それともう一つ。適切な表現形態がないという問題があります。

 「良きもの」〜それは差別がないことや、環境を良くすることでも、ヘルシーであることでもなんでもいいんですけど、それに対する自分の意見や感覚というのは、ありていにいって、そんなに白黒パキパキと割り切れるようなものではないと思います。どっちかといえば、そうだなーとは思うけど、でもココを問題にするのはちょっと違うんじゃないかとか、これが諸悪の根源みたいに決めつけるのは間違ってないかとか、趣旨はいいと思うんだけど言い方がちょっとねとか、正直言って実はそんなに興味ないしって場合もあるでしょう。

 でも、そういったことを上手に示す表現方法が意外と無いのです。どっちかといえば、それに対しては反対気味、大きな趣旨には異論ないけど、そういうやり方で広めていくのは好きではないとか、そのくらいの感じでいたとしても、それを的確に言うすべがない。なんというか、賛否両論みたいに二極化させられて、お前は平氏かそれとも源氏か?みたいにデジタル的に割り切ろうとする風潮もあって、それもストレスですね。

 そこで敢えて反対方向の意見を言う人もいますけど、それはもうそれなりの覚悟で言わないといけない感じで、そうなるとその覚悟が逆に加速して露悪的になってみたりもします。

 それはなんか学校の教室で、意味あるんかないんかわからん(てか無いとしか思えない)授業を受けてて、なんでこんなクソ暑いのに制服着て、馬鹿みたいに長時間座ってないといけないんだよ、何の罰ゲーだよとか思うんだけど、それを堂々と言おうと思うと、不良とかヤンキー的な表現形態しかない感じに似てます。本気にそんなに「真面目な生徒」がどれだけいるのか。大多数は、かったるいんだけど、さりとてそれを表現するパターンがないから、表面的には真面目っぽくなってしまうのに似てる。

 例えばコロナにしても、感染防止のために努力しましょうという趣旨には賛同するけど、あそこまでロックダウンとかしなくてもいいじゃないの、なにがなんでもマスクをしなきゃいけないとか、ちょっとおかしくないかとか、真ん中よりもちょい懐疑的な、あるいはもっと建設的な方向を模索した方がいいんじゃないかっていう人の場合、それを表明する適切な方法がない。あるいは無いかのようにメディアによって操作されてて、反対する人は、コロナ詐欺論という天動説、陰謀論のちょっと頭のおかしい人か、あるいはアメリカでライフル持ってハーレー乗って繰り出しているちょっと危ない人達とか、エクストリームにされてしまう。

オーストラリアのコロナ対策と日本化

コロナ対策

 まさに今まで書いたことの総カタログみたいな感じですね。まず指摘すべきは、目に見える結果を出して政治的成果として誇るという政治(の劣化)がまずあります。オーストラリアの場合、最初の感染源がクルーズ船と飛行機という極めて限定的なものだっただけに、おそらくは最初の頃から市中感染が蔓延していたと思われる欧州と違って、初期に抑えるのはそれほど難しくはなかったと思います。だけど、そこで押さえても抜本的な解決にはならないし、いずれは一定の市中感染はありうるという前提でどう社会を切り回していくかというバランス論を真剣に考えるべきだった。なのに、感染ゼロになったとはしゃいで、世界でもトップレベルと自画自賛して、そこを基準にしてしまうことで後日の出口を自分で塞いでしまってます。

 先週のエッセイで示したように、各国のこれまでのデータを見てると、オーストラリアはまだまだこれから感染死亡者が出ると思います。VIC州の場合も感染者が増えると死亡者が比例しているし、この比例関係があるうちは、まだ底を打ってないでしょう。VIC州はある程度のところまでいったと思うし、NSW州は第一波でそこそこ広まったから多少はいいかもしれないけど、無菌状態の他の州は、一旦広がり始めたらVIC州と同じことになる可能性が高いと思います。ちなみに日本も、感染数と死亡数が比例してますので、まだまだ積み残しの部分が相当残ってると思います。

 でも、「一人でも犠牲者を少なくして」という誰もが頷く総論理想を錦の御旗にしてやってきてるだけで、そんなこといってもどっかで行き詰まる、行き詰まったあとどうするのか?を真剣に考えてないです。まあ考えてはいると思うんだけど、きちんと表明できてない。つまりそんなこと言ったら無限に国を閉めてないといけなくなり、経済はかなりやられるし、休業補償や福祉で国家財政はほどなくして破綻、それが破綻すればそもそも医療体制すらも維持できなくなるわけだから、最後は大破局になる。それが嫌ならどっかの時点で、いかに最高を目指すかではなく、いかに最悪を逃れるか(least evil)的な路線に転換しなきゃいけないんだけど、点数稼ぎをやってる政治家にそれが出来るか?です。

 また、その理想が偽善的なのは(政府においても、メディアにおいても)、弱者を助けるんだといいながら、労働ビザや学生ビザの人たちはほとんど見殺しだし、そもそも一番の被害者になると予想される老人ホームの対策もお寒い限りだからです。ホテル籠もりも、今になってどっかのホテルの質が低いから、リストから外して引っ越しますとか言ってるけど、コンプレインは4月の段階から出ていたらしいから、それから今までほったらかしです。政府もそうだし、取材報道しなかったメディアも同罪でしょう。

 要するに、耳障りのよい理想的なことを高らかに言うんだけど、言ってるだけで、実質的なことはほとんどやれてない。やる意思がないのか、やる能力がないのか、おそらくはその両方でしょうけどね。だからそんな連中に理想を掲げられて我慢しろとか言われても説得力無いのですよ。

 オーストラリア国内では各州ごとにボーダーを閉じていて、特にQLDとWAが問題になってます。州の意向もわかるし、州民の事なかれ意識を考えれば厳しい閉鎖をした方が政治家としては点数になるし、支持率も上がる。しかしその未来はあるのか?というとそこまで考えてないんじゃないか。先日、QLDとNSWの州境にいた赤ちゃんが、近くのQLD州内に病院にいくために州境を超えることを拒否され、十数時間かけてシドニーに行けと言われ、結局その赤ちゃんは死んでしまったという事件があります。政治というのは人を助けるためにあるのではないか?という原点から遊離して、キマリを守ることが自己目的化し、ガンとしてボーダーを閉めることが最優先されている。あとになって、反省してやり方を変えたかと言えば、「いやそんな申請は受けてません」とか言い訳をいい出してたりして。

 それでも世論調査をすると、オーストラリア人の過半数は、健気にも頑張ろうとか答えてるんだけど、さて、本当にそうなのかしら?って気もするのですよね。マスクの奨励とか、今更になって掌返しで言ってるけど、意地悪く言えば政治的なやってる感を出すネタが尽きてきたから言ってるだけとも聞こえるし、実際にNSWではしてない人が多いです。してる人も勿論いるけど、僕が接している限り、していない人の方が多い。また、感染追跡ソフトも、ダウンロード数が600万かそこらで頭打ちになってます。2500万人中の600万人は、まあ真面目に従ってるけど、あとの大多数は、そこまでする気はないということで、アンケートの感じとは違うんですよね。

 だから、「いい子」になろうとしてるなーという気もするのですよね。改まって聞かれると、錦の御旗は大事ですよって答えるんだけど、それ本気なの?というと、微妙に違うんじゃない?という。この、なんか奥歯に物が挟まったような玉虫色の感じが、あんまりオージーっぽくないというか、日本人っぽいというか(笑)。

オーストラリアの日本化

 なんでそうなるのかな?といえば、うーん、多分、適当に小金持ちになってしまって、小成に安んずるというか、保守的になってしまってる部分がそうなのかもしれないです。日本もバブルを頂点にかなりいい暮らしまでいって、あとは落ちる一方ながらも過去の蓄積でそこそこ豊かですから。「俺達には失うものなんか何もねえよ、あとは前に進むだけだ」という開き直ったチャレンジ精神は出てきにくい。オーストラリアも、不動産バブルと、20年以上の挫折知らずの好景気が続いたことで、ちょっと保守的な風潮がありますねえ。個々人ひとりひとりを見ていく限り、あんまりそんな感じはしないんだけど、政府とメディア、既成勢力を見てると劣化してるように思う。それは日本もそう。

 で、この先どうなるのかでいえば、かなり悲観的な絵になります。なんせ教育観光は死滅しそうな勢いだし、農業国なのに中国と喧嘩して農業にかなり打撃を食らってるし、また季節労働者の主要供給源であったバックパッカーが来なくなってるし。感染防止もパーティも飲み会も激減だから、出来たばかりのビールを大量に捨ててたり、シャンペンもドブに流したりしてます。そうこうしているうちにもう春ですし、しばらくしたらまた山火事の季節になります。

 この9月で第一次JobKeeperは終わりで、延長の第二次に入りますが、対象者が減ってくるし、額も減ります。求人数は相変わらず低調だし、時が進むほどに状況は悪くなります。今はワクチンが出来るまでと必死に持ちこたえているけど、感染なんか自然現象だから制御するにも限界あるでしょう。QLD州で起きている感染も、感染源はけっこう高齢のご婦人なんだけど、直近において外国はおろか他州にも旅行したことがなく、どこから感染したのかミステリーです。ワクチンが出来たら出来たで、本当にこれで収まるのかというごく自然な疑問も出てくるでしょうし、全員が接種するもんでもないでしょう。そのうち接種したけど感染したというケースが出てきたり、副作用報告が出てきたりしたら、そこで破綻しちゃうし。

 それでもやっていこうと思えば、財政赤字を重ねまくることになるので、その意味で日本の二の轍を踏むことになります。つまりこれといった打開策が見えないまま、いたずらにその日暮らしで借金を重ねていくという、非常に不健康なパターンです。また、そこでそういう流れになってしまったら、全体にもそういうノリが蔓延します。「泣いて馬謖を斬る」「鬼手仏心」(非常に辛いのだけど、やるべきことは心を鬼にしてでも断固として行う)という精神の強さが失われてしまい、事なかれ、先送りで済ませて事態を悪化させていく。

 こういった停滞感と閉塞感、息苦しい感じはコロナ以前からそこはかとなくあって、オーストラリアでもあらゆる問題が、保身と先送りで放置されてきているように思われます。格差の問題はほとんど解消されず、高所得者や法人の減税ばっかやって、若年層とか移民など弱いところにしわ寄せがいっている。学生ビザや労働ビザは便利使いされ、そのくせ永住権はなかなか与えない。オーストラリアの大学はコロナ国境閉鎖で瀕死の状況ですが、それでもこれまで十年以上にわたって従業員の賃金を誤魔化してきたことが明るみに出ているし、低賃金のカジュアル(派遣のようなもの)でその場をしのいできている。政府がこれを支援するかといえば放置であり、大学無料時代に卒業させてもらっている世代の政治家達が、この時期にさらに大学の授業料を激しく値上げするとかいっている。

 要するに抜本的に物事を良くしていこうという豪腕や根性はなく、とりあえず弱いところに押し付けることで現状維持を図るという何とも情けない感じです。日本でいえば「決定力がない」ってことですけど(バブルの後始末一つろくすっぽできないでズルズル放置)、オーストラリアもそうなっている。それが閉塞感を醸し出し、そういうことに敏感な若い世代や、一般市民にも精神的に影響を与えているように思われます。

 直近で言えば、Teenagers accused of 'abhorrent' attack on innocent man in Sydney's inner cityで、シドニーのシティの近くでティーエイジャーが9人がかりで36歳の男性をボコボコにし、一命はとりとめたものも後遺症の残る重症で昏睡状態だという。こんなこと今までのオーストラリアではあんまり無かったですよね。日本のいっときのオヤジ狩りやホームレス狩りみたいなの。そうかと思うと、Canberra high school student reportedly assaulted by peer at petrol station witnessed by 'about 30 teenagers'では、キャンベラのガソリンスタンドで、30人のティーンエイジャーが、一人の高校生をボコボコにしてます。

 そのあたりも日本に似てきたなーと思うゆえんです。閉塞感というのは、精神的にはガン細胞のようなもので、コロナ以上に危険な感染症状を示すと思います。だんだん剛毅な精神力を腐食させていくのですよ。どんなに対象がハードであろうが、やったろうじゃん!で向かっていく気力そのものを削いでいく。そして、ヒマツブシのように弱いモノをいじめて遊んだり、責任ある大人は小手先で見栄えのいい、でも本質的には無内容なことばっかする。政府だってそうですし、大企業だって銀行だって、客のお金を細かい計算でちょろまかすとか、そんなトホホなことばっかやってる。そのくせCEOの数十億の給料だけはちゃっかり貰ってる。総じて言えばクソなわけで、そういう社会汚染みたいなものが広がってるところが日本化というのです。

別にそこまで「いい人」にならんでもいいんじゃない

 これまで述べてきたことを考えて、じゃあどうしたらいいの?を、根っこまで遡るならば、日本もオーストラリアも、あるいは世界全体で、ちょっと無理して「いい人」になろうとしてるんじゃないか?それがストレスを生み、それが行動の自由を制約しているのではないかという気がするのです。表面的に非難されたくないという心の弱さが、消極的保身的な方向に向かわせているならば、なんでそんな非難されるのが恐いの?てか、なんでそんな些細なミスとか、細かいことでギャンギャン人を非難するの?根っこを掘り下げていくと、ダメなこととか、失敗とか、カッコ悪いことに対する耐性が無くなってきている、なまじ上手いこといってきたから、だんだんそういう恥ずかしいことはあってはならないようになってきて、何がなんでも体裁を取り繕うようになる。要は表面上の形ばっかり気にするようになってるのではないかと思うのですよ。それは一部の人がどうとかではなく、僕ら全員が、です。

 で、思うのですけどね、なにもそんな皆して「いい人」にならんでも良いのではないか。多少好感度が低くなろうが、あんまり神経質にならんでもいいんじゃないか。

 だって、これを言っては身もフタも無いんだけど、僕もあなたも、そんなに「いい人」ではないでしょう?事実の問題としてさ。そりゃ悪人ではないにせよ、品行方正には程遠いし、サボったり、怠けたり、いい加減だったりもするでしょう?普通に人としての良心は持ち合わせているつもりだけど、いついかなるときも正しくある、なんてのは不可能だし、疲れますよね。

 良くありたいという志は尊いし、それを引っ込めろとは言いませんけど、強迫観念にまですることはないでしょう。まずは等身大の自分があって、それにプラスアルファでちょっと頑張るってくらいでいいんじゃないかと。そうでないと理想負けしてしまう。また、そうしてると、どんなことでも優等生的な模範答案みたいなことしか言わなくなったり、それやってるうちに生の自分が無くなっちゃったり。自分というタマネギの皮を向いていったら、最後にはストレスが残りました、みたいなのってイヤじゃん。

 それは他者に対しても、政府に対しても同じことで、なにもそこまで完全でなければならないとは思いません。人間なんだから、多少はミスもするだろうし、多少はズルもするだろうし、それがまあ人間的に許容の限度ならば、まあいいんじゃない?ってくらい緩くていいんじゃないか。ゼロ・トレランスではなくいい。ただ一線を越えたらダメよと。

 コロナ感染にしても、それが増えようがなんだろうが、その全てが政府の責任だとは全然思わんけどね。一種の天災だもん。ある程度はしょうがないと思いますよ。だからVIC州の知事さんにしても、そこまで責任感じることもないだろうし、逆に言えばそこまでシャカリキになってゼロを目指して厳しいロックダウンしなくても良いと思います。

 他の問題にしても、「結果を出す」とか求めすぎると、結局「結果を捏造する」みたいな話になるし、失敗を成功だといって詭弁を弄するようにもなる。それに本当にいい仕事というのは、結果が出てくるまで10年以上かかるものだと思うしね。

 「ある程度はしょうがないんじゃない?」って普通に言えるような社会の方がストレスが少なくて、皆の最大幸福という面では良いと思うのですよ。

 だって何でもかんでも百点みたいなこと言ってたら息苦しくて死にますよ。「水清ければ魚棲まず」って言いますけど、あまりにも完璧を目指してると、誰も住めなくなってしまう。特にオーストラリアはそのあたりが、いい感じに「いい加減」であることが魅力なんだし。

 あと、そこまで体裁取り繕って完全主義やってる方が実害はデカいのですよ。例えば、日本の刑事裁判の有罪率は99.9%で、それを達成している検察は「優秀」だと言われてますけど、それは最初から公判維持が危なそうな(もしかしたら無罪になるかもという)事件は裁判にかけない(起訴しない)からです。その中には、かなりクロもあるわけですよ。汚職系とかは立証が難しい事件は、よっぽど証拠が揃いまくってないと結局起訴しない。だから99.9%にするためには、相当大量の犯人を見逃していることを意味します。それで良いのか?です。もしクロだという可能性があるなら、立証できるかどうかは分からなくてもチャレンジすべきではないか、その結果有罪率が50%になったとしても、野放しになる犯罪者が減るんだからその方がいいじゃないかって考え方もあるのですよ。弁護士でも勝訴率100%とかいうのはおかしいですよ。なぜって絶対に勝てる事件しかやらない(=強い者の味方しかしないのとほぼ同義)ってことですからね。

 このように完璧を目指すというのは、ある意味簡単でもあるのですよ。その影で大量に切り捨てさえすればね。また完璧を目指すと、官僚無謬神話のように、なにかミスがあったとしても、組織ぐるみでもみ消すだけでしょう。学校で生徒でいじめで自殺しても、いじめは無かったが公式見解になるように。

 会社でも、些細なミスひとつで、いちいち厳しく叱責されるのだったら、おっかなくてやってられないだろうし、冒険的な取引とかとても出来ないでしょう。それがひいては会社全体の活力を奪って老衰化していく。夫婦恋人だって、ちょっとくらいの浮気だったら、まあしょうがないかってくらいに鷹揚な方がいいとは思いますけどねー(笑)。それを、他の異性と二人だけで歩いていたというだけで難詰されたり、誤解を招くような行動は慎め、「李下に冠を正さず」だとか言われてたら、やってらんないでしょ。

 オーストラリアでも、ホテル14日お籠もりでも感染が防げなかった責任のなすりつけあいがあって、僕が思うに、これも形だけ過ぎるんですよね。安いカジュアルジョブのバイト君を雇って、いい加減なジョブトレーニングしかしてない。なのに、スクープとして、そのなかのバイト君が職務時間中に寝ていたということで、「なーんたる!なーんたる!」とムーミンのスノークのように大騒ぎして批判してるんだけど、ろくすっぽ給料も出さずに何言ってるんだい?ですよ。それに、もともとのオーストラリア的な感覚でいえば、寝てたというのは、「そこは笑うところ」でしょう?ぶはは、そりゃそうだよな、退屈だもんなー。でもそこで大笑いするということが出来なくなってきている。笑い事じゃないっていうけど、笑い事ですよ。今までの自分らの仕事ぶりを考えれば、当然ありうることでしょうが。大学でも、留学生のパスポートをあずかって何ヶ月も放置して、そのうちに紛失してしまってるとかいうダメダメな国なんだから、何を今更カッコつけてるんだい?って思うわ。柄にもないカッコつけはやめんかい。


 人間が生理的に気持ちよくなるためには、100%ピュアなH2Oよりも、生理食塩水のように適当にゴチャゴチャ混ざってたほうが良いのでしょう。理想を追求するのも実現するのも生身の人間なのだから、まず生身の人間が自然に元気になれるような環境が第一で、話はそれからだと思います。

 完全を目指すならば、ある程度、ナチュラルに不完全なものを含んでいないといけないのではないか。心身ともに健康になりたかったら、多少は不健康なことをした方が良いというか(笑)、トータルで立派な人になりたかったら、多少は立派ではないこともしてないと身がもたないと言うか。まあ言いたいことは、なんとなく分かると思います。人間というのは不完全だからこそ面白いのでしょうし、もし皆がみんな完全だったら、そこにはなんのドラマもアートも生まれてこないような気もします。




文責:田村


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