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Essay 947:コロナの「搾取」と「消費」論

 〜ぶっちゃけコロナは面白い。展開の仕方が予想しにくいし、政治的なドタバタ寸劇みたいなものもあるし、ワールドカップ的に世界競争的な要素もあるし、適当に自分も参加してビビれるというスリルもあるし、なかなか解法が見つからないパズルのような知的娯楽性もあるし、経済破綻も内心の破滅(人生変革)願望に隠微に呼応するし、なかなか良くできた「新商品」です。だから話題になって「売れて」いる。でも、同じことの繰り返しになった時点で飽きられ、「消費」し尽くされる。あとは心筋梗塞など他の病気と同じく、毎日のようにそれで死ぬ人がいるんだけど、誰もなんとも思わなくなるでしょう。


2020年08月10日
写真は、Port StphensのAnna Bayの砂丘と海。やたらだだっ広いのが超気持ち良かった。



コロナの搾取

日本の人口減と人口ボーナス

 先週、日本の人口の自然減少がついに年間50万人を越えたという報道がありました。正確には50万5046人で、これは鳥取県の人口56万1175人よりもちょっと少ないくらいの規模です。毎年鳥取県が消滅しているくらい。ちなみに都市でいえば、人口が50万くらいは宇都宮市、川口市、千葉市、船橋市、八王子市、相模原市、新潟市、静岡市、浜松市、堺市、姫路市、岡山市、松山市、北九州市、熊本市、鹿児島市などです。毎年、宇都宮市や八王子、堺や熊本市が消滅している計算になります。

 確かにこれは問題です。毎年これだけの人口が消滅しているということは、毎年八王子や浜松市一個分の経済(お客さんの数やお金の動き)が消滅しているということで、これまで人口ボーナスで食ってきたオーストラリアとは真逆の方向になります。

 人口(消費者)が増えるというのはありがたいものです。あなたがお住まいのエリアの駅前でカフェを経営していて、一日100人のお客さんが来たらトントン(損益分岐)で、101人以上来てくれたら儲けになり、99人以下だったら赤字だとします。そこに駅前に巨大なマンションが出来て、300世帯500人が降って湧いたように増えたら、あなたのカフェのお客さんも増えるでしょう。(まあライバルも増えるでしょうけど)立地がドンピシャだったら倍くらいに増えるかもしれない。一般にお客さんを増やすのはものすごく大変だといいます。常に受けそうな新メニューを考え、試行錯誤し、価格設定を考え、仕入れの素材と価格で悩み、従業員を美男美女ばかりにしてみたり、雑誌に載ったりするために取材料を包んだり(貰うのではなく払う場合が多い)、それはそれは涙ぐましい努力をするわけです。そしてそれが報われる確率は実はかなり低い。それはあなたのブログの閲覧者が期待していたほど伸びないのと同じです。

 だからこそ人口ボーナスは美味しい。もう黙って同じことやっていても自動的に収入が増えるんだから、こんな素敵な話はない。ということは、その真逆の人口減というのは、ものすごくしんどいことを意味します。昨日と同じことをやってたら確実に衰退する。下りエスカレーターを必死に昇るという、鯉の滝登りのようなことをやって、ようやく現状維持です。

 そこから突き詰めていけば、人口がコンスタントに減っていくエリアで商売(起業、サラリーマンを問わず)するのは、波に逆らってサーフィンをやろうというようなものであり、軽〜く薄〜い自殺行為といっても良い。ならばこれからの日本で、ビジネス(仕事、就職なんでも)を考えるのは基本マゾゲーか罰ゲー、あるいは無理ゲーであり、Forget Money!です。仕事(カネ)ではない人生を構築しろってことになると思います。潮の流れにアゲインストでやるロスが大きい。夏が終わり秋が来て、これからどんどん寒くなるのに、今から水着やサーフボードを売りましょうとか言ってもそうそう売れるものではない。

 

死者の数と論議の対象

 さて50万人減というのは結構な数なのですが。でも、これは出生者(+外国人)を死亡者から差し引いた数ですから、純然たる死亡者の数はもっともっと多いです。おおむね年間138万人くらいが亡くなっているとされます(令和元年(2019)人口動態統計月報年計(概数))。

 一方、現在のコロナの死者は1000人ちょっとです。1月くらいに始まってもう8月も中旬ですから半年以上やって1000人、これから感染爆発があったとしても、まあ、あと4ヶ月ちょいで合計(年間)2000人いくかなーってくらいでしょう。138万人死んでる中での千人とか二千人って0.1%かそこら、ほとんど誤差のレベルです。


 コロナ以外の死因で死ぬ確率の方が1000倍以上高いにも関わらず、なんでこんな吹けば飛ぶような些少なリスクでここまで大騒ぎしなきゃいけないのか?ある特定の1000人の死は超別格に大切で、その他の137万9000人の死はどうでもいいのか?そこが腑に落ちないぞ、というのは、もう最初からずっと書いているので多くは繰り返しません。

 ここでなにか意図的に騒ぎすぎているのではないか?というごく自然な疑問がわき、そこからいろんな推論があるのですが、それはわかりません。てか、推論というよりも妄想みたいな陰謀論が色々あって、そっちに引きずられて、ごく自然な疑問までも「取るに足りない愚劣な妄想」として一括処理&封殺されていて、それもまた意図的な誘導を感じたりもするのですね。僕自身は、そんなすごい陰謀論があるとは思ってないです。あるかもしれないけど、確かめるすべがないですしね。

許されている陰謀

 ほんでも、この世には、なんか知らんけど許されている陰謀みたいなものはあると思います。

 たとえば「今年の流行色」みたいな、キッチリ仕掛けていて、そんなことは結構誰でも知ってるんだけど、とりあえずそのように世の中が動くという人間集団の性癖はあるでしょう。それが良いのか悪いのかは別としてそういう現実はある。

 いい例がバレンタインデーでしょう。チョコレート屋や製菓会社の「陰謀」で、神道か仏教の国である日本で、なぜかバレンタインデーがあって、なぜか女性が男性にチョコをあげることになっているという「悪辣な商業的大陰謀」があり、それに他愛もなくひっかかる「愚昧な大衆」がいる。ちなみにオーストラリアの場合、バレンタインデーはあるのだけど、父の日や母の日ほどの商業需要はなさげだし、男女の区別はないし(どちらかといえば男性からかな)、またチョコという限定は一切ないです(でも本来宗教的な話を商業利用している点では同罪だが)。

 で、バレンタインデーは、もうタネも仕掛けもみんな知ってるわけです。ここまで知れ渡っていたら「陰」謀というよりも「陽」謀といった方がいいくらいですけど、それでもまだやっている。嘘八百なのは皆さん重々ご承知なんだけど、でもやめない。やめないどころか日本独自の「義理チョコ」という不思議な風習まで自己開発して広がっている。

 面白いな〜と思うのは、なんで皆やってるの?です。何の根拠もない商業的なデタラメなんだから、これに気づいた人々が激怒して、炎上するやら、不買運動やら、はたまた製菓会社を焼き討ちするとかそういうリアクションがあっても良さそうなんだけど、一切ない。それどころか自らこれを取り込み、個人的なイベントとして積極的に活用(告白のチャンスとか)している。

 こういった大衆ムーブメント、あるいは群集心理などをみてると、それが陰謀であるとか、仕掛けられているとか、論理的根拠やエビデンスがあるとかないとか、どーでもいいんだと思います。皆が気にしているのは、それが自分にとって使えるかどうかです。

 広く世間をみれば、文化ってだいたいそうですよね。お葬式はこういう段取りでやるとかの冠婚葬祭モンも、あんなの殆どが「業者(葬式仏教やらブライダルやら)」の陰謀であって、皆にお金を使わせる仕組みとしてそうなってるだけ。ただ、それが皆のニーズに合うならば、その限度で受け入れられる。葬式だって、何をどうすれば正しいとか誰もよくわからないから、とりあえずこのとおりやってれば「世間的に恥をかかなくて済む」というベネフィットがあるからこそ受け入れられるのでしょう?

 何を言ってるのかといえば、コロナも同じだろうなーって。

 その医学的機序やら、大騒ぎしているメディアの傾向、あるいは政府の対応、なんか良く分からないし、はっきりいっておかしなところもあるし、もしかして陰謀かもしれないけど、陰謀であるかどうかなんかどうでもいいんでしょう。それを自分なりに活用できるかどうかです。

 そして活用している人はせっせと活用している。そういうことではないか。

exploit corona virus

 英語の表現で"exploit"というのがあります。一般には「搾取」という意味で、the cafe owner is always exploiting low-paid student workers(そのカフェのオーナーは、いつも学生を低賃金でこきつかっている)という意味で使うのが一般です。

 しかし「搾取」以外の意味、「かこつけて」「口実にして」「悪用して」という意味でも使われますし、コロナを悪用するということで、exploit corona virusという表現が最近良く使われています。

 例えば最近では、Why the Palaszczuk Government is accused of exploiting coronavirus to avoid parliamentary scrutinyという記事があります。


 趣旨は、クィーンズランド州議会はコロナを理由に州議会を開こうとしない。まだ18日しかやってない。WA32日やSA30日、コロナに追われてそれどころではないVICやNSWも19日やってるのに、なんでQLD州だけこんなに議会日が少ないのか?それは「感染防止」のためという錦の御旗を振っているんだけど、隠された意図としては、じっくり時間を欠けて法案を審議されたくないから、短い時間でちゃっちゃと通したいという与党政府の陰謀であるという批判です。実際、州の選挙法の改正についても、100ページ以上にわたる229箇所の修正の審議に、野党や小政党にはたった24時間しか与えられていないわけで、これではマトモに審議できない。ゆえに州政府は、coronavirusをexploitしているとの批判を招いている。

 このように自分の意図(往々にして邪悪な)を通すために、コロナ(感染防止)を大義名分として掲げること=コロナを「搾取(悪用、かこつけて)」いるということですね。

 これが、先程のバレンタインデーでも、自分にニーズに合致するなら、その限度で受け入れるというのと重なってきます。結局、それが真実どのくらい危険性があるかとか、誰かの陰謀ではないかとか、エビデンスはどうかというのは、実はどーでもよくて、皆が考えているのは、それによって自分は得をするのか、どうしたら得するように立ち回れるか、であると。

 それを誰がやってるのか?といえば、ほぼ全員だと思います。僕もあなたも何らかの形ではそう。

 というか、とある状況下において、どうすれば最も有利か、どうすれば最も生存率が上がるかを常に考え、行動するのは生き物の本質ですから、誰だってそれはやるでしょう。コロナ騒ぎでレントが下がったら、より安いところに引っ越すとか、仮病で会社を休むにしてもコロナを言い訳にするのと都合が良いとか(「大したことないんですけど、万が一ご迷惑をかけては」とか)、失業給付ももらえるなら貰いたいし、テレワークの方が楽チンでいいやとか。

 庶民個々人はその程度の可愛いレベルですけど、図体が大きくなるとだんだん邪悪風味が増してきて、政治家はやってる感を出したり取材させたりして選挙その他で有利になろうとか、大企業はここを先途と日頃からクビにしたかった人々をクビにするとか、メディアやブロガーは危機感煽って大騒ぎするほど売れるから騒ぐとか、製薬会社はワクチンで儲けようとか。行き着く先は陰謀論の世界で、「この世界を裏から支配している勢力」は意図的に経済を壊すだけ壊し、人々の生活を破壊し困窮化させ、豚の餌のような僅かな経費で何でも言うことを聞くような奴隷集団に仕立て上げる。反乱を未然に防止するために、検査と称して個人のDNA情報を集めまくり、ワクチンの中に目には見えないナノデバイスのGPS発信機を混入させてディストピアの超管理社会を構築するとか。

 だけど、起きてしまった状況を最大限利用すること、それも悪用レベルにExploitするのと、最初からそのためにすべてを仕掛けるのとは自ずと別問題です。おそらく最初から全部仕掛けた説は無いと思いますけどね。なぜならそれが出来るくらいなら、もっと幾らでも効率的なやり方はありますからね。病原体を撒き散らすにしても、コロナみたいなへなちょこウィルスではなく、もっとガチに致死率の高いペストのようなものを撒いたほうが早いです(そういえば内蒙古で腺ペスト患者が出てるそうな)。テロだって、ベイルートのような産業エリアに大量に保管されている化学物質は世界中に山程あるでしょうから、片端から引火させていった方が手っ取り早く演出できますしね。なんせ「この世を裏から支配してる」んだから何でも出来ますよね。もっと言えば、この世を裏から支配してるなら、別にこれ以上何もしなくてもいいじゃないかって気もしますけど。

 ま、それはそれとして、それよりも今回書きたいのは、マーケ的な意味での「消費」論です。

マーケティング的コロナ消費と陳腐化

リスクの消費

 ふと疑問に思ったのは、コロナの千倍近くのヤバさで現実化している他の死因リスク、例えば令和元年(2019)人口動態統計月報年計(概数)〜死亡数・死亡率(人口10万対),死因簡単分類別によると、年間でガンで死んでる人が39万人、心臓など循環器系が35万、肺炎など呼吸器系が20万弱、脳血管が10万、髄膜炎など神経系が5万、胃腸消化器系が5万、腎臓系4万、糖尿病など内分泌系が2万、老衰12万、感染(結核、腸管感染、ウィルス肝炎など)が2.4万、先天性異常が2000、その他の疾患分類合計で15万。事故系では交通事故4200に対して転落転倒9500もあります。自殺が2万弱。他殺はわずか300弱。

 ずらずら並べたのは、なぜこれらの死因については、「〇県では今日何人患者が発生しました、死亡者が出ました」と報道しないのか、なぜ皆関心がないのか?です。

 上で並べた死因のうち、現在1000人ちょっとのコロナよりも少ない死亡原因は他殺(誰かに殺されること)くらいです。1000を基準にすれば、自殺は20倍あるし、ただ単に転んだり、高いところから落ちたりする死因も9倍くらいヤバいです。純粋にリスク数値だけでいえば、コロナにビビるなら、そのエネルギーを毎日転ばないように注意する方向に振り向けた方が9倍は有意義でしょうに。マスクやイソジンを買い漁るくらいなら、雨の日でも滑りにくい靴を探したり、足腰の筋トレと柔軟をやってた方が9倍投資効率が良いでしょうに。

 そこで思ったのは、陰謀論などではなく、マーケティング(なのかな)でいう「消費」という概念です。

 ここでいう消費というのは、一般的な意味での消費(アイスクリームを買って食べました、みたいな)ではなく、もっと観念的、心理学的なものです。最初は新鮮さとか物珍しさに価値があるのですが、だんだん慣れてくるとその価値が下がってきて、しまいには飽きて価値が消滅していくことです。珍しい(価値あり)→慣れる→飽きる(価値なし)です。

 流行なんか特にそうですね。
 アイドルとか芸能人とかもそうかもしれない。最初にヒットとしたときはワーっとなって人気爆発なんだけど、同じことばっかやってると段々飽きられてきて、しまいには出番がなくなる。健康な男性諸氏におかれては、AV女優を想起されたら分かりやすいでしょう。最初はわーっと人気が出るし、ものすごい勢いで出演ビデオが量産されるんだけど、やがて飽きられてきてしまう。

 つまり商品開発販売の世界における「消費されてしまった」とは、慣れっこになったり飽きられたりして話題性もないし、新規性もない、だから購買需要が減ってきてしまう状態を言うのだと思います。

 ちなみに同じことをずっとやってるにも関わらず飽きられない、消費しても消費しても尚も購買需要が継続するケースがあります。例えば古典落語であるとか、音楽、芸術の類で、それを「芸」というのだと思います。一回見聞したらもういいやではなく、何回でも鑑賞できる。てか鑑賞すればするほど理解が深まり、味が出てくる。でもそういうものは、高い技術や芸術性に裏付けられた質を伴うものです。AVとかアイドルとか単に首をすげかえて目新しさだけが命であるようなもの、物珍しいだけが価値であるようなものは、一定レベルで人々に周知されてしまうと、ある地点から価値を失っていく。

 これはニュースも全く同じことです。
 「犬が人を噛んでもニュースにならないけど、人が犬を噛んだらニュースになる」と冗談ぽく言われますけど、ニュースというのは、基本、物珍しさだけが価値なのでしょう。だから、一定やってきて、あとは同じことの繰り返しで面白くなくなったり、飽きてきたら、もう報道されません。

 それが良いか悪いかは別として、その原理は肝に銘じておくべきかと。

リスクや問題の「消費」

 つまりメディア、それに引っ張られる形で喚起される世論、そして世論にまた引っ張られる政治というのは、本質的に、それが重要であるとか、必要であるとかいう次元で動いているのではなく、単に物珍しいか、面白いかどうかによって決まるということです。そして同じことの繰り返し状態になって、飽きられてきたらニュース価値を失い、世論にもならず、政治課題にもならない。

 もっとぶっちゃけて言えば、面白かったら騒がれ、面白くなくなったら終息するわけで、コロナもまた同じだと思います。コロナの1390倍ある他の死因については、たまにガンがどうとかやりますけど、その程度のトピックでしかない。コロナほどの大ニュース価値はない。だから報道されない。もう消費されきっちゃってるわけです。画期的なガン治療薬でもできれば別ですけど、今更報道してもそんなに消費者は面白がらない。そういう記事や番組があっても興味をかきたてられない。

 でも、コロナは面白い。展開の仕方が予想しにくいし、政治的なドタバタ寸劇みたいなものもあるし、ワールドカップ的に世界競争的な要素もあるし、適当に自分も参加してビビれるというスリルもあるし、なかなか解法が見つからないパズルのような知的娯楽性もあるし、経済破綻も内心の破滅(人生変革)願望に微妙に呼応するし、なかなか良くできた「新商品」です。だから話題になっている。でも、だんだん飽きられてきたら収束するでしょう。

 これはメディアが悪いというよりも、僕ら皆が悪いのでしょうね。だってさ、飽きていても常に発表されている数値はあるのですよ。例えば、日本の交番にはよく「本日の交通事故死者○名」とかいつも掲示されているけど、あれに注意を払う人は少ないでしょ?毎日固唾を呑んで見守っている人というのは滅多にいないと思う。だもんで、メディアがこの先使命感に燃えて、本日のコロナ死者とかやり続けたとしても、多分交番の表示と同じような感じになると思います。

 ということは、コロナはいつ収束するのですか?という問に対しては、僕らが飽きたら収束する、面白く感じなくなったら終わるでしょう。そこから先は、インフルや心筋梗塞と同じような扱いになり、毎日のようにそれで死ぬ人がいるのが当たり前の日常になるけど、誰もなんとも思わなくなるでしょう。別に何一つ解決せず、何も進んでいなくても、そんなことは関係ない。要は飽きるか飽きないかですからね。

 考えてみれば、他の問題だって、なーんにも解決してないんだけど放置されてる(話題にならない)もんね。貧困格差問題だって、DVだって、児童虐待だって、介護離職だって、地方の過疎問題だって、空き家問題だって、福一の汚染水をどうするかにせよ、日米地位協定にせよ、北方領土も尖閣も拉致問題も、すっかり忘れられてる可哀想な自衛隊スーダン派遣とその後PTSDで56名が自殺してることも、いっとき話題になったメタボはどうなったんだとか、なんぼでもあります。てか、解決している事柄など一つも無いと言ってもいい。だけど、これ以上毎日論じても、「困った」「深刻な」を繰り返すだけで進展がないから(だからこそ問題なのだが)、飽きられてしまうし、消費され尽くしてしまう。ゆえにさしあたってメディアにも世論にも政治課題にもならない。

ということは 

 今オーストラリアではVIC州が大変なことになってますけど、「大変な」というのも相対概念です。だんだん慣れっこになるというか、先々週くらいまでは一日の感染者数400名くらいで、おお〜って感じだけど、今なら400名くらいだったらそれほど思わなくなり、毎日の数自体、扱いも小さくなってきています。同じ状態が続くと飽きてくるんでしょうね。

 いずれなんかの形で収束した後のVIC州は強いでしょうね。多分百人くらいの感染だったら、慣れっこになってるから、それほど過敏に反応しないでしょう。ということは安定したビジネス環境(開けたり閉めたりが少なくなる)になるということで、このアドバンテージはでかいです。

 NSW州の場合でも10名くらいだったら別に話題にもなりません。まあNSW州の場合、国際線の乗客とクルーズ船が多かった関係で、第一波のときはオーストラリアの感染の半分くらいを占めててドタバタやってたんで、すでに慣れてるって部分もあるのでしょう。だけど、VICレベルに毎日500人とかいったら、きゃーっとなるかもしれないです。

 そこへいくとQLDやWAなど他の州は、一人感染が出ただけで大騒ぎなるから、まだ慣れてないし、飽きてもいないので、それだけ本格的な回復は後になってしまうかもしれないです。一種の時限爆弾を抱えているような感じですね。解除方法がよく分からない爆弾を最も確実に除去する方法は、(意図的に)「爆発させてしまうこと」らしいですから。

 これは日本も同じで、まず東京を始めとして三大都市圏だったら、毎日数百人レベルだったらもう慣れてきているだろうし、ほどなくして消費されてしまうでしょう。だから安定してくると。しかし、地方になるにしたがって、ほんの少数の感染者が出ただけで大騒ぎになるから回復はずっと先の話になるんだろうなーって思います。かくして地域格差が長期的にはまた拡大するんじゃないか。

 この真逆をいってるのが欧州であり、アメリカでしょう。アメリカももう国境を開くそうですけど、毎日万単位で感染者が出て、慣れっこになってきたんでしょうね。

 もともと絶対数でいえば些少なレベルだし、他の病気に比べてすごい凶悪ってものでもない(もっともっと怖い病気は幾らでもある)、コロナの「売り」の大部分は心理的な要因でしょうから、医学的になんも解決してなくても、心理的に慣れてきたら収束するのでしょう。

 それでもexploit(活用)したい人達は、あの手この手であれこれ言い続けるとは思いますけど(凶悪な第二世代が出てきたとか、実は隠された重大なリスクが発見されたとか)、状況それ自体が画期的に変わるのでなければ、同じことの繰り返しになってきた時点でやっぱ飽きられて消費されてしまうんじゃないかと思われます。

批判と再批判

 これは仮説レベルですらない与太雑談ですけど、一応考えられる批判としては、単に飽きたとかそういう問題ではないんだ、他の138万の死因の場合とは質が違うんだという説があるでしょう。

 何がどう違うの?といえば、他の死因(ガンとか)については、すでにこれまでに十分に研究され論じられ、対策も日々進んでいてやるべきことは分かっているしやってもいる。だから今それを話題にする必要性が客観的に少ない。しかしコロナは未知の部分が多いし、対応策についても論議を尽くして検討する余地が十分にあるのだから別格的に話題になっても不思議ではないと。

 うーん、それはそうなんかもしれないけど、でも、他の死因について「十分に論議され、十分に対応されている」って部分が同意できませんねえ。例えばガン問題一つとっても、抗がん剤の有効性とデメリットとか、ケモセラピーは良いのかとか、がん検診をしても尚も発見されない不可避的な問題であるとか、そもそもガン治療の現状は良いのかとか、民間治療もかなり効果をあげているという大衆レベルの感覚はあれはデマなのか真実なのかとか、ガン保険が出るようで出ない詐欺的問題とか、いくらでも語るべき問題はあるし、対応だってまだまだ改善努力の余地はあると思いますよ。むしろこれまでの蓄積で問題点が深化され、いよいよこれから本腰入れて語るべきとすら言えるでしょう。

 他の死因でも同じことです。転倒転落で9000名も死んでるというのは僕には初耳だったけど、それってどういう意味?お年寄りがそうなってるわけ?それと認知症と関係あるの?親の介護とかの関係で特に気をつけるべきポイントはあるのか、あるとしたらそれは何なのか。状況においても、雪国の冬場に氷ですってんころりん系なのか、それとも大都会での地下鉄の階段とかがヤバいのかどうなってるの?そもそも転倒しただけでなんで死ぬの?それって頭を打ってクモ膜下出血などによるものなの?もっと詳しいところを知りたいとか幾らでも語るべき問題はあります。転倒防止のための新しい規格の杖であるとか、滑りにくいシューズのソールの開発とか、衝撃吸収力が抜群に優れている新素材(防弾ジャケットに使われている)を転んだ際に頭を打ちそうな箇所に予め貼り付けておくとか。また転倒直後の応急措置(頭を打った場合と骨折した場合とでは自ずと異なるだろう)について、全国各地の保健所ないし委託民間団体で無料の講習を月イチくらいでやるとか、もういくらでもありますやん?

 ということで、コロナ以外はすでに解決済で、論議したり話題にする余地は乏しく、それゆえ相対的にコロナが浮かび上がってきても良いのだ、それこそが順当なのだという説には同意しかねます。コロナにこれだけの犠牲的エネルギーを払うなら、もっと他に振り向けたほうがより生産的だと思います。


 以上、他にも書くネタはいろいろあったけど、最近長いし、今回はあっさり風味にしておきましょう。


 ところでポート・スティーブンス(Port Stephens)、良かったですよー。またFBでご報告しますけど。

 ホテルの部屋から見た入り江。ベタ凪の夕暮れがきれい。

 ワンコの散歩もこのくらい豪快に広いところでやったら気持ちよさそうですねー。


文責:田村


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