★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
Tweet このエントリーをはてなブックマークに追加

942 ★背景デカ画像


  1.  Home
  2. Essay目次
このエントリーをはてなブックマークに追加


Essay 942:人生関数=
 ライフワーク(やること)×ライフスタイル(やり方)×生計(お金)

 〜断片的な快感の密集率、それを引き出す方法


2020年07月06日
写真は、Bodin JCのWestfeild。大きな吹き抜けエスカレーターのところから、ケーキ屋さんを真上から撮影



 ときどきメールで人生相談みたいな質問を受けるのですが、その都度考えて書いていると、自分でも「おお、そうだったのか」という発見があります。そしてエッセイのネタになったりもします。今回もその一つ。この種のメールは、こちらも勉強になりますので、ご遠慮なく。

鉄板正解なしの時代

 質問の趣旨は、これからの時代どんな職種がいいのかとか、どうやって生きていくべきかということだったのですが、その種の質問を受けた時に常に思うのが、「決定版!これじゃあ!」「これで決まり!」というものって無いということです。

 昭和の時代は、「とにかくクソ勉強して、いい(=偏差値の高い)学校いって、いい会社に入って、出来るだけ皆と同じようにやる」という「これじゃあ!」がありました。でも今(というか昭和末期からこっち)は、そんなのもう無いでしょ。いやリアルタイムにも現存してるし、それなりの本流ではありますよ。だから今この瞬間だけを捉えるなら正解の一つでしょう。だけど「人生」とかいってしまうと、長いタイムスパンがありますから、50年後にもそうなってないと意味がない。年を取るほどに先細りするというのは、これはしんどいです。

 僕がいつもイメージする漫画のような画像は、「流氷に乗っているキタキツネ」です。ぷかぷか浮かんで流れている。その時点だけを捉えるとラブリーな画像なんですけど、どんどん南に流されるにつれ少しづつ氷が溶けていって、最後には無くなってポチャンと海に落ちて溺れてしまう。

 それは、ちょっと、イヤですよね。
 じゃあ、どうしたらいいの?何が決定版なの?といえば、そんな決定版は「無い」と思います。そして、「無い」いうキビシー現実をまず徹底的に理解することが第一歩なのですが、その第一歩が実は難しい。一歩目からいきなりバタンと倒れて、それきり、って場合も結構あるんじゃなかろか。

 何が難しいって、決定版はないよ、こうすればいいってのは無いよってことは、逆にいえば、「これから死ぬまで「安心」とか「安定」とかは諦めてね〜」「一生不安定のままだよん」ということを納得することでもあるからです。それはイヤだ、納得できないという人が出てきても不思議ではないです。だから一歩目からバタリと。


 でもなー、残酷なようでいて、それって普通に当たり前のことじゃないですかね?そんな嘆き悲しむようなことなのかね?考えようによっちゃ、それがベストじゃないの?とも思います。だって「安定」といえば聞こえばいいけど、それって「拘束」ですよ。一生レベルだったら「終身刑」ですよ。それが自分に常にフィットし続けてくれたらいいけど、そんな保証はないよ。適当なところで半荘終了とか、リセットがあったほうが救いになりませんかね。

 そのあたりを書き出したら長くなるので(優に一本分くらい書ける)、今回は軽くスルーして、じゃ鉄板パターンがなくなったら、どうしたらいいの?ですよね。それを考えるにあたっては、Aがいいのか、Bがマシなのかって比較択一ではなく、AもBもCもDも、、と複数の要素をどう混ぜていくか、どういうレシピーにするかという混合割合論であり、Aを増強するとCが減少するという関数論にもなると思います。話はちょっと複雑になるのですよね。そのあたりのことを書きます。

 いくつかのファクターをミックスさせるにせよ、まずどんなファクターがあるか?です。
 これは色々な考え方があると思うのですが、ぽっと思ったのは、
 (1)ライフスタイル(やり方)
 (2)ライフワーク(やること)
 (3)生計(お金)稼ぎ
  です。

 この3点はもちろん相互に関連します。相反するときもあれば、相乗作用になる場合もあります。

ライフスタイル(やり方)

 適当な言葉がないのでライフスタイルとライフワークと書きましたが、一般に言われているものとはちょっと違います。「ライフワーク」とかいうと、何十年もかけて同じ研究をつづけている考古学者のように大層なものを思い浮かべますが、それほどのことでもないです。「ライフスタイル」というのも、なにやらCMなどに出てくるカッコよい(そしてお金のかかりそうな)イメージがありますが(週末はヨットで〜とか)、これもそんな大それた話ではないです。

 簡単にいえば「やり方」(スタイル)と「やること」(ワーク)です。
 それが人生レベルで語られるから、あたまにライフがついてるだけのこと。
 もっともっと日常的でありふれたことです。

こんな感じがいい派

 スタイルというのは、「こんな感じ」という漠然とした「やり方」「生き方」です。カッコよく言えば「流儀」、身も蓋もなく言えば「癖」です。

 身近なところでは、ゴハンはゆっくり食べたいと思うか、ガガガ!と一気にかっ食らうくらいでないと食った気がしないのか。定食でも大好物は最後まで取っておく派なのか、最初に食べてしまう派なのか、途中のいい頃合いで食べる派なのか、とか。

 非常にありふれたこと、いっそ「しょーもない」と表現してもいいくらいなんですけど、でも、これは結構大きなポイントになると思います。僕が人生の三大要素の一つに数え上げてるくらいですから。


 例えば、夢を追いかけるように息せき切って走り続けるような生き方が好きだなって思うか、なんであれの〜んびりやるのが好きなのか。

 なにかを行うときの時間配分や手順は全部自分で決めたい人なのか、それともそういう作業が鬱陶しいので、金を払ってでも他人にやってもらいたい派なのか。

 他者や世間との距離感でも、常に近くに or 真ん中にいないと気がすまない(安心しない)のか、常に他人とは一定の距離をあけておきたいのか、それとも遠近どうであれ全く無頓着な方なのか。

 一つのことを飽きるまで続けていきたい派なのか、それとも同時並行的にいくつも違うことをやってないと飽きてしまう派なのか。

 最終目的地まで道が見えてる方が良いのか、それとも見えていたら興ざめなので見えないほうが楽しいと思うのか。
 いくらでもあります。

性格判断とはちょっと違うかも

 一種の性格判断のようなものですが、別に性格として把握する必要はないと思います。そもそも「性格」ってなんだ?そんなもんあるのか?と僕は疑問にも思ってます。まだ物心つかないくらい幼少の頃だったら、地の性格はわりと分かりやすいだろうけど(もっとも自分では分からないけど、親から見たら)、大人になってからだと複雑になりすぎてよく分からない気がします。

 なぜなら思考行動パターンの多くは、過去の経験記憶によるもので、イヤな記憶のあることは避けるし、良い記憶のあることは求めるでしょう。でもそれは「知恵(記憶)」であって「性格」ではないでしょ?経験記憶が増えるにつれ、パターンはどんどん複雑になっていくんだけど、その分、本来の性格というのが見えなくなっていく。あるいは、知恵なども含めて性格というのかもしれないけど、そこは言葉の問題でしょう。

 性格判断テストの設問とかでも、若い頃はわりとYES・NOを答えやすかったんだけど、年とって過去の記憶が多くなると、いろんな場面を思いつくし、YESの場合もNOの場合も等しいくらい沢山出てきてしまって、答えられなくなります。だんだん「こんなもん、一言でいえるかい!」って気になるので、途中で馬鹿らしくなってやめちゃいます。「どちらかといえば慎重な方である」とか、そんなもんケース・バイ・ケースだろうがあって。

 性格とか「私は○○タイプの人間です」とか統一的に考えることはないと思います。統合していく過程でなにか落としてしまうだろうし、そもそも統合なんか出来ないんじゃないか。先程の「慎重」という観点でいえば、「引っ込み思案」「人見知りする」のは(行動に対するブレーキ多すぎという意味で)「慎重」という性格に親和性があるけど、「おっちょこちょい」「そそっかしい」というのは(ブレーキが足りないという意味で)慎重の反対にありそうですよね。では「引っ込み思案だけど、おっちょこちょいな人」って結構いそうだけど、慎重な人なのかそうでないのか?わからんでしょ?

 というわけで、あまり無理に統合せずに、断片的に、単にこういうのが好きかな、それはかなりイヤだなって考えればいいです。

 そして、ここで別に正解を出す必要はないです。ちょっと意識的になればいいだけ。
 正解といっても、全ての場合を考えることなど不可能だし、またそこで出した答が正しいという保証もないし、何よりも日々変わっていくと思いますしね。

実人生での複雑なパターン

 上に書いたのは話をわかりやすくするためにシンプルにしたものであって、実際の人生ではもっともっと複雑な形で出てきます。

 例えば、対人関係においても、複雑な人間関係を華麗にさばいていく宮廷遊泳の達人のような人生というのもあります。

 日本史で言えば細川家がすごいですね(個人ではなく家系だけど)。足利幕府(室町)創業以前からの三大幹部(管領)で、戦国時代も、当時の当主細川藤孝は、乞食同然で流浪していた足利義昭を見捨てずに面倒を見つづけ、義昭を政治利用しようとする信長と知り合い、信長が義昭を追放した際に終わってしまっても不思議ではないのに「天下領民と忠義心の狭間で苦しむ忠臣」という好印象を与えつつ一歩離れて(幽斎として出家)存続。以後、秀吉の時代にも生き残り、家康の時代にも生き残り、生き残るどころか江戸幕府が終わるまで続き、さらに幕末の動乱も乗り越え、明治大正昭和と乗り切り、ご存知のように18代目当主護熙氏は知事職のあと衆議院初当選の一回生でいきなり総理大臣になってしまう。歴代、ものすごく人心収攬が上手であり、あの気難しい信長も、猜疑心の塊のような家康も信頼し、またその信頼を裏切らず、常に権力中枢に周辺にいながらも誰からも嫌われない。また、誰も文句がつけられないくらい由緒正しい家柄のお殿様なのだが、偉ぶったところが無いため庶民からも親しまれた。もう魔法のような、アートのような人間関係術。

 一方、あちこちでガキガキぶつかりながらも、我を通していってしまう生き方もあります。
 西洋史ではジョセフィーヌがいますね。ナポレオンの奥さん。もとは下級貧乏貴族の生まれ、しかも西インド諸島という大西洋のど真ん中のフランス領という超ド田舎出身。その離島の小娘が16歳で結婚し、二人の子供をもうけるも4年で離婚、フランス革命勃発、元旦那はギロチンで処刑、ジョセフィーヌは投獄されるも、獄中でオッシュ将軍と恋人関係に。ロベスピエールの処刑あと釈放。今度は総督府のバラスの愛人になり、社交界デビューし「陽気な未亡人」と呼ばれ、年下のナポレオンの求愛を受けて結婚。だが、ナポレオンにはすげない態度を取り浮気三昧など再三ナポレオンに大恥をかかせる。離婚するしないで大揉めしたがとりあえず継続。以後、ナポレオンの方が浮気三昧に走り、子供がないことを理由に離縁される。が、田舎に引っ込んで暮らすも多額の年金を貰い、死ぬまで皇后の称号を使うことを許される。その後、ナポレオンとは親友のようになり、よき話し相手となってナポレオンの後妻が嫉妬するほどだったという。死ぬ間際に「ボナパルト」と呼びかけてこときれ、ナポレオンも「ジョセフィーヌ」とつぶやいて死んだという。

 細川家は抜群の気配りと、出処進退の見事なまでの綺麗さ(細川さんもすぐ引退しちゃったし)によって生き残り、ジェセフィーヌは行く先々で恋人を作るわ収監されるわで浮き沈みが激しいんだけど、最後まで我を通しきった感じはします。

 現代の社内人間関係の百倍くらい難しい世界、ちょっとでも油断したらあっという間に殺されてしまうような環境で、それでも華麗にさばいていくか、それとも無骨に衝突しながら生き続けるか、それがライフスタイルであり、「やりかた」であり、流儀でしょう。


 ところで余談ですけど、細川家のアレは何なんですかね、やっぱ血筋ってあるんですかね?人心収攬が上手いというよりも、人の心がよく見えるのでしょう。肥後藩(熊本)ですけど、肥後は加藤清正公が仕切ってて領民にすごい慕われていたそうですが、幕府のクソ意地悪でぶっ潰され、その後釜として細川忠利が小倉から転勤。慕われていた領主の後だけにやりにくかったと思うのですが、最初から前主加藤公を厚く敬い、領民の心を鷲掴みにしたと言われます。その点、土佐の長宗我部の後釜にはいった山内家は、長宗我部旧家臣を下士として徹底的に差別して幕末まで恨みを買っているのと好対照ですねー。幕末になると、積年の反動のように、BLM的に志士が群がりでた(坂本龍馬もその一人)。

 しかし(余談その2)、昔の人の生き様を追いかけていくと勇気出ますね。一度や二度の離婚や浮気沙汰でわーわー騒いでたら、ジョセフィーヌにくすくす笑われそうですね。「あらあら、とんだお子さまですこと」って。


 歴史上の人物ほど突き抜けなくても、断片的な好みを集積し、実際の複雑な人生航路に落とし込んでいきつつ「こんな感じで生きていきたい」って漠然としたモデルはあると思います。

 例えば、人生におけるスリリングさに惹かれる人もいるでしょう。起業にせよ、社内関係にせよ、人間関係にせよ、徒手空拳の無一文からはじめ、自陣のゴール前からドリブルを開始し、突っ込んでくる敵をかわして、かわして、かわし続け、ついには自らゴールを決めるような、駆け抜けるように生きていくライフスタイル。ただ何となく生きてるだけは物足りなくて、なにかを目指したいとか、何事かを成し遂げたいってスタイルです。

 そして、その長く起伏に富んだ物語の中には、世間から爪弾きにされ一人孤独に耐えねばならぬ時期もあるでしょうし、仲間とともにパワーを結集するときもあるでしょう。そこでは、「人間関係が苦手」とかいう単発的なスタイルは、より大きな「なしとげたい」的なスタイルの中に飲み込まれていくでしょう。つまり、自分のスタイル相互間に矛盾もあろうし、大小もあろうし、優先劣後もあるってことです。

スタイルと言うよりも逃げてるだけ

 ところで「面倒な人間関係が嫌いだから避ける」というだけでは、スタイルや実践的な方針としては不十分な場合もあると思います。もっと深化させ(なぜ嫌いなのか?を掘り下げる)、「こうやり方もある」を知ることで、広げていった方がいいと思います。

 なぜなら、単にイヤなものを避けるだけなら、それって逃げ回ってるだけのことですから。そして通常逃げ込む先は、前よりも条件の悪いところだったりするわけで、それを重ねていけばどんどん事態は悪くなります。例えば村人達と合わないとかいって、村外れの土地を耕していると、日当たりは悪いわ水はけは悪いわで何をするにも不利です。そこでも又トラブって、さらに逃げたら、山奥にいって耕作不能になってしまって、、って話です。

 「逃げ回る」=「追い詰められる」ですからね。それに、往々にして逃げられない。イヤでも対面対決しなきゃいけないときもある。だから「避ける」だけでは方針にならない。ほんとに逃げなきゃいけない場合を精選すべきだし、遅かれ早かれ対決するなら最も条件の良い段階で対決しておくべきだし。また、多くの場合は争いを避けて譲ってもいいけど、生涯のうちに何回かは絶対に譲れない局面がくること、そのときは刺し違えて死ぬくらいの覚悟で我を通さないとならないこと、それはいつのことなのか?とか。考えることは沢山あると思いますし、そこはもっと広げて〜、もっと深めて〜ってことです。

 「やり方」(スタイル)というのは、それらも含めての話です。

 ただ、ここではスタイル(やり方)というファクターが「ある」と意識すればそれで十分です。完全に煮詰めて形にしなくてもいいです(無理だし)。また他人に発表するわけでもないから、明瞭に言語化できなくてもいいです。同じく他人に言って聞かせるものではないので、恥ずかしくて人に言えないようなことでもいいです。例えば、やっぱセックス系は外せないなとか、ごろにゃん♪って甘えたいという願望がとても強いのでその種の要素が全然ないスタイルはきついとか。そういう事柄も人間だから絶対あると思います。

 繰り返しになりますが、明瞭に言語化しなくていいです。なぜなら、スタイルがスタイルだけ独立で問題になることは少なく、多くは、他のファクター(やることや生計)との関係性で問題になるからです。そしてその関係性こそが一番大事だと思います。これらは後で述べます。

ライフワーク〜やること 

探し方

 これも仰々しいものでなくてもいいです。いわゆる普通の職業仕事であってもいいし、趣味でもいいし、ボランティアでもいいし、身分的なものでもいいし、そのどれでもないカテゴライズしにくいもの(まだネーミングされていないもの)であってもいいです。なんでもいいです。

 いつか自分のお店を持ちたい、なんでもいいから起業したい、海外に住んでみたいとか、ジョギングが趣味だったらフルマラソンに出てみたい、いつかヒマラヤまで遠征したい、貧困家庭の子供の状況を良くしたい、しょぼくれてる後輩たちを元気づけたいなどなど。身分的なものであれば、いわゆるリア充になりたいとか、結婚したい・子供が欲しい。あるいはのんびり田舎暮らしがしたい、田舎でなくていいからとにかくのんびりしたい、ずっと一生は無理だけど一時的にでも幕末の志士みたいに燃えてみたいとか、いろいろ。

 ある程度、「これがやりたい!」というのが分かっている人は幸いです。マッド・サイエンティストとか「世界征服を企む悪の結社」とかだったら「これ!」というのが見えてるだろうけど、そんなにハッキリ見えてる場合ばっかではないでしょう。「もっとブワ〜っと」とか非常に抽象的な場合もあるでしょう。また、ハッキリ見えていても、「食べ歩き」「中古レコード漁り」くらいのささやかなな趣味に過ぎず、別にそれさえあれば人生OKさってほど巨大なものではないって場合もあるでしょう。

 でも、大小関係なく、めちゃくちゃ小さなことでもいいです。一つでなくてもいいですし、一つなんてことはありえないでしょうし。細かいことでもいいです。「コタツと蜜柑の時間」でもいいです。友達とどうでもいいことをウダウダ話しながらダラダラ飲んでるだけとか。

 あのー、「やりたい事はなにか?」という形で問いかけると、ムムムと悩んでしまうかもしれないので、別の問いかけにした方がわかりやすいですよ。「休みの日には何をするの?」「半年〜1年くらいまとまった休暇がとれたら何をしたい?」とかね。あるいは過去をさかのぼって、一番幸福だったのはいつですか?なんでそのときハッピーだったんですか?とかね。

 ちょい横道にそれますが、話せば話すほど痴呆化していきそうな下らないおしゃべりって、頭の中が煮詰まってるときにはいい「毒出し」になります。なので「鬱かな?」と思ったら、思いっきり馬鹿話をすることをオススメします。「そんなこと、どうでもいいじゃないか」ってことを「いや、それは俺、ちょっと許せないんだよな」と熱く語って、爆笑してください。好きな漫画や小説がアニメ化(映画化)されて、好きなキャラの声優や配役が自分のイメージと大きく違って、めちゃくちゃ違和感を感じたとかさ、「あれは、ちょっと許せないですよ」とか。

 「下らないことを熱く語る」のは、(時と場合によりけりだが)社交や座談、ブログのネタに困ってるときも有効です。「スイカの種を先にスプーンでほじくって取り除くのって、僕は邪道だと思うんですよ。やっぱり口中で選別してぷっ!と吐き出すのが”男らしい”わけで。あ、種なしスイカも邪道ですよ」とか。

断片快感

 話を戻して、些細な断片感覚の話ですが、言ってしまえば他愛のないようなものなんですけど、そんなんでもいいんです。というか、そういうのが意外と大事だと思います。

 なぜってね、「ジョギングが好き」「料理が好き」とかいっても、およそそんな抽象概念を好きになるわけないのですよ。もっと具体的で断片的な感触や感覚が好きなはずです。ジョギングでも、走り始める早朝の澄明な空気感が好きとか、着実に進んでいく感じが好きとか、いつものコースできつい坂を登った後にご褒美のように開ける眺望が好きとか。料理でも、食べてくれる人の笑顔が好きとか、もっとブレイクダウン(内訳分解)出来ると思いますし、分解していけば、自分を気持ちよくしてくれるエッセンスが見えてくると思います。

 僕らが「これをやりたい」というワークに選ぶものというのは、そういう断片快感が多く含まれているものでしょう。蜜柑にはビタミンCが多く含まれている、みたいな。そして比較的確実にそういった快感を引き出すことができるものごと、それがやりたいことだと思います。そして「やり方」というのは、その断片快感を引き出すための手法だと位置づけられます。

 でもって、スタイルと同じく、やりたいこと相互間に矛盾があったり、大小関係や優劣関係があったりもするでしょう。

生計(お金稼ぎ)

 これはもうどうでもいいです(笑)。いちばん大事そうに見えるけど、でも一番手段的な部分だから、レベル的には一番下層に位置します。何のためにお金を稼ぐの?ですから。

 お金を稼ぐこと自体が最終目的になってる人は珍しいです。仮にいるとしたら、それは金稼ぎがワークでもあるし、スタイルは「一銭でも多く得られるスタイル」になるでしょう。それはそれで完結してるんだろうけど、そんな人滅多にいないと思いますよ。そうとしか見えない人がいたとしても、お金持ちになることで「世間を見返してやりたい」「不遇な青少年期のリベンジを果たす」とかいう本当の目的があると思うし。

 多くの場合のお金獲得活動は、稼いだお金に何に使うか?という目的がある筈です。美味しいものを食べたいのか、愛する人に喜んでもらいたいのか。それこそが、スタイル×ワークでしょう。こういうことを、こういう感じでやりたい、そのためには軍資金がいるから稼ぐと。

 しかし、その前に、とりあえずの衣食住と社会的立場の保全(そこそこ見苦しくない程度の体裁整え)は必要ですよね。そして、悲しい社会の場合、もうそれすらが難事業になって、それが辛うじて達成されたとしても、その時点で燃え尽きてしまったりもします。

 でも、その場合でも話は同じだと思います。なぜならお金の稼ぎ方の中で、対象やスタイルという好みがあるからです。お金さえゲットすれば何でもいいのか?窃盗でも強盗でもやったもん勝ちなのか?といえばそうではないでしょう。また、合法だとしても、弱いものを泣かせるようなやり方で稼ぐよりは、他人からありがとうって感謝されるようなやりかたで稼ぎたいとか、あるんじゃないですか?だからお金の稼ぎ方の中にも好みの内容やスタイルはある。

 お金稼ぎをワーク&スタイルの絡みでいえば、究極的には次の2点に集約されるでしょう。

 (1)コスパ最大化(いかに効率よくお金をゲットするか)
 (2)お金稼ぎのプロセスにおいて、いかにワーク&スタイルの快感含有率が高いか

 この2つです。

 多く語られているのは(1)効率化に関する問題です。これから有望な職種はなんだろうとか、どういう資格がいいか、どういうキャリアが良いか、就活はどうすれば成功するかとか。だれだって無駄な苦労はしたくないですし、それも当然なことでしょう。これも語りだしたら優に1本以上書けるけど、本題から外れるからスルーします。

 今回言いたいのは、実際には(2)の問題が多く含まれている、という点です。好みの内容とやり方があるということですね。
 以下、それらの関係論について書きます。

三大要素の関係論

「やり方」と「やること」は緊密な関係

 ワーク(やること)と、スタイル(やり方)は、縦軸と横軸のようにかなり密接に関係します。

 例えば「旅行」(ワーク)があるとして、どういう旅行がお好みか?ですね。全部おまかせのパックツアーが好きな人もいるでしょうし、とにかく大勢で行かないと行った気がしない人もいるだろうし、少数ないし一人で全部1から決めないとイヤだという人もいるでしょう。

 ここでわかるのは、「やること(好きなこと)」の中に、ごく自然にその「やり方」も含まれている場合が多いってことです。旅行が好きだからって、どんな旅行でも良いわけではないでしょう。大嫌いな奴と四六時中一緒にいる旅行だったら、行かない方がマシでしょ?だれかに拉致されて山奥に監禁されたとしても、知らないところに行けて楽しいなあ〜とは思わんでしょうに。

 ちなみに僕の場合、旅行に関してですが、これ最近ようやく言語化できた気がするのですが、「出張旅行」みたいなのが好きですね。知らないところにぽーんと行くのは好き、なんで俺こんなところにいるの?というスースーするような不思議なアウェイ感は大好物なんだけど、よし行くぞ!とモチベーションをゼロから高めていくのはあまり向いてない。面倒臭くなっちゃうんですよ(笑)。「まあ、そこまでせんでもええか」ってなっちゃう。でも誰かに会うとか、商談があるとか、学会やシンポジウムがあるとか、オフやら記念旅行の企画をしなきゃとか、なんか他にやるべき必然性を作ってもらってうと、スィッチが入って、あとは楽しい。だから遠距離恋愛とか出張とかWelcomeですよね。なんというかエンジンのかかりが悪いんですよね、エンジンがかかってしまえば、あとはスイスイなんでも企画できるんだけど、シーンとしてるところからキックスタートしようとすると点火プラグが湿っている。どうもそういうタイプみたい。「一人で行ってもヒマだしな」「面倒くさいのはキライ」という他の自分のスタイルと対立相殺してしまうみたい。

 野球が好きな人でも、「やり方」はあると思います。ひたすら技量を高めて、PL学園のような学校に入ってレギュラーになって甲子園を、プロを目指すという。そういうのが好きって人もいるだろうけど、そこまでしたくはないわって人もいるでしょう。多くはそこまでいける技量や才能がないからだけど、そこまでやる気もない。草野球のように、終わった後の打ち上げの飲み会の方がむしろ楽しみというパターンだってあるし、それも多いでしょう。

 音楽だって、それでメシが食えるまでやるんだって完全プロ志向の人もいるだろうし、サークル的に楽しかったらいいやって人もいるでしょう。また、完プロであったとしてもプロになる過程で、自分のやりたい曲は全部ボツで、売れるために下らない曲をやらないといけないとか、バンド内の親友の首を切らないといけないとか、「そんなんするくらいだったら、いらんわ」「何のために音楽やってるのか意味がなくなる」って、そこでやめる人も多いと思います。

 「やること」は好きなんだけど、その「やり方」が気に食わないってことは、意外と多いと思いますよ。

自分の場合

 いまちらっと書きましたけど、いよいよそれで稼ぐ、プロになるとなると、「商業的成立」のために多くの制約が出てきます。このあたりは、くどくど言わなくてもわかると思いますけど。

 仕事や就職レベルでも、「やり方」が気に食わないという場合はすごい多いと思いますよー。

 僕の場合、弁護士、判事、検事どれでもいけたし、ラッキーにも比較的若く合格したので判事検事のお誘いは結構ありました。でも、丁重にお断りをしたのは、「やり方」がどうも合わない。裁判官だって、最後で自分で決められるだけに、真剣にやればこんな面白くてやりがいのある仕事はないですよ。それはいいなと思った。でも、謹厳実直カルチャーがあって、実際のキャラは人間味ある人達なんだけど、世間のイメージがあるので、私生活でも地味にやらないといけない。飲み屋で飲んだくれて、なりゆきで喧嘩してパトカーが来てとかいったら終わり。好きな女の子がいても口説けないしねー。あー、これは無理!と思いましたね。あとドロドロしたナマの現場に立ち会えないというのがネックでしたね。僕は修羅場に行きたい派だったんで。

 そういえば、ずっと昔の話で記憶もあやふやなのですが、札幌高裁だったかのえらい裁判官が、人妻と不倫して駆け落ちして行方不明になった(昔の言葉でいうと逐電)という噂が流れて、法曹界に感動のさざ波が走りましたね。「やるじゃん」「ロマンだな」とか(笑)。でもその程度のことで、全国的に話題になってしまうような世界なんで、ああ、これは俺には無理だわと(笑)。

 検事は、「一人が独仕庁」(一人で全部決められる)って言葉があって、それに惹かれていたんですけど、実際に検察修習をやると、そうでもないのがわかりました。事件捜査の折に触れ、上の決裁がいるのですよ。そんなハンコが幾つもいるわけではないけど、検事正決裁がいる。検事正というのは、都道府県に一人しか無い、この業界では戦国大名みたいなすごい存在で、でっかい個室で執務してて、そこに書類一式とプレゼン資料をもってドアの入り口で「決裁をいただきにあがりましたあ!」とか軍隊みたいな感じでやるのですよ。閻魔大王みたいな検事正の前で「1分プレゼン(相手は忙しいからどんな複雑な事案でも1分以内に完全に説明する)」をしないといけない。超緊張するし。これを毎回やるのかーと思うと、俺には無理だわって。プレゼンは慣れればいいだけだけど、上司であれ他人の了解を得なければならないという点が原理的に大いに不満(つまりは組織人には向いてないのね)。仕事内容そのものは、ナマの現場にかなり肉薄するので、やりがいはありましたけど。それだけに今の検察の体たらくは、なによりも第一線の検事が歯ぎしりしてると思いますけど。

 いずれも内容はいいんだけど、やり方が合わないのですよ。そこで自分にとって、譲れない「やり方」ってあるんだなーって痛感した次第です。ちょっと前の死生観のエッセイで、結局振り返ってみると、一番貧乏してて、一番先が見えなくて、一番苦しいはずの司法試験時代が一番楽しくて幸福だったと書いたけど、それは「やること」がすごくわかりやすく見えてて、且つ「やり方」が自分に合ってのですよ。つまり受験勉強のやりかたは100%自由!です。その当時の司法試験は、法科大学院とか変なのもなかったし、回数制限とかクソみたいな決まりもなくて、死ぬまで受け続けてもOK、誰でもOK、日本国籍でなくてもOK、要は実力があるかないか、ただそれだけ。そして不正(自分の大学の学生にいい点をつけるとか)防止は極端なまでに厳しく、論文式試験の答案は、受験番号をまた別の番号に差し替え、さらに変換して、採点官が誰の答案を採点してるか絶対にわからないようにしている。こんな100%完璧な実力試験はなかったです。要は実力があるかないかで、それが全て、強けりゃいいんだよ!という究極の競争原理で、これは燃えますよ。そして、その実力を養成するための勉強カリキュラムは、全部自分で立てないといけないし、全部自分で決められる。誰も指図してくれないし、指図することもできない。自分の長所短所を徹底的に考え、自分にあったやり方を考え、トライし、修正し、全てが自由にできたのですよね。それが楽しかったんだと思う。

 つまり何をやるにせよ、「やり方」がすごい大事で、実際のケースにぶち当たったら、自分のやり方に合ってる、合ってないはすごくわかると思います。誰であっても。

幾つかのヒント


 それを踏まえて三位一体の方程式を考えてみると、多少は見えやすくなると思います。

 例えば、いわゆるエリートサラリーマン(企業であれ官僚であれ)になろうと思ったら、「やること」「やりかた」はかなり制約されます。やりたい放題やって金がざっくざくというのは非常にレアでしょう。一般にお金が入れば入るほど、その他が制約される。

 官僚や大企業でてっぺんまで上り詰めたいと思ったら、半端な根性ではダメでしょ。やりたくない仕事を、やりたくない方法でガシガシやらないと成績が上がらないってことも多いでしょう。たまの休日には、接待ゴルフやらなんやらでプライベートなしだし、結婚相手も上司の紹介とか閨閥的な要素も入るでしょう。ほんと、それって誰の人生なのよ?って世界で、それが好きならいいです。大藪春彦の「蘇える金狼」世界でやっていくならいいです(てか、あれは裏でハードに人を殺したりしてるけど)。

 ここから、さらに幾つかのヒントが導き出されます。

 職種や業種を選ぶ際、将来性とか収入とか考えると思いますが、同時に具体的にやることや、やり方も考えておくといいです。特に僕のように「やり方」については非常に好みがあって、自分のやり方でやりたいって意向が強い人は、最終的には独立自営できるかどうかも大きなポイントになると思います。

 例えば先端科学技術なんかも面白いんでしょうけど、あとで独立自営できるか?というと難しい部分もあります。なにしろ、自分のスキルを活かすためには、膨大な(ときとして数億円以上の)ラボの装置設備が必要とか、役所との交渉から末端工場での製造まで巨大な組織が必要だったら、あとで独立できないわけで、常に大きな組織に所属しないといけない。なんかの開発で自分名義で特許やライセンスが取れればいいけど、そういうことを認める組織かどうかもポイントかもしれません。逆に大きな組織にいるほうが居心地がいい人だったら、そんなにこだわることはないでしょう。

 やることや、やり方にそんなに強いこだわりはないって人は、わりとどんな仕事でもストレス少ないんじゃないかな。ただ、余りにもこだわらないなら、何が楽しくて生きてるんだ?ってことにもなるので、それもちょっと無いような気もしますね。

 仕事の内容ややり方は、まあまあ受容できるとしても、それが全然おもしろくないって場合もあります。ひたすら単純作業とか。その代わり、イヤな事柄・やり方(汚職行為に加担しろとか、口裏合わせてなかったことにしろとか、可哀想な犠牲者に全部押し付けて知らんぷりしろとか)は無く、残業も少なく、休みも確実に取れたら、あとは確保した自由時間でハッピーになるんだって生き方もあるでしょう。でも、ま、そんな単純作業で(給与も安いだろうし)いいんだったら、もう何でもいいし、フリーターでいいじゃんってことにもなりますよね。

 「やり方論」は、仕事に限らず、結婚や人間関係にもあるかもしれないです。その人は好きなんだけど、その人と暮らす生活パターンが嫌いだとか。やることは好きなんだけど、やり方が嫌い。結婚生活はしたいんだけど、そのやり方が気に食わない。

 このへん抽象的に考えていてもわかりにくいのですが、具体的に悩む段階になったら、やり方とやることとの絡みで見るといいと思います。

全てはテンポラリー


 そういえば、僕の場合の「やり方」で大きなのがありました。
 「ずっと同じことはしたくない」ということです。まあ結果的にずっと同じでもいいんだけど、死ぬまでのことを今決めるのはイヤだと。そのときどきにやりたいことをやる自由は残しておきたいってのはかなり強いです。同時に、何かをやるにしても、それを一生やるつもりは最初からないという、全てが腰掛け意識はありますね。てか、これを一生やるんだ、骨を埋める覚悟で〜とか、よくそんな風に思えるなーと感心します。

 ポンとオーストラリアに来ちゃったり、Colesでカート集めたり、デリバリーやったり、Uberやったり、わりとなんでもやっちゃう方なんですけど、多分それって、ずっとそれをやる気がないからだと思います。全てがテンポラリーだと思ってるから(そもそも人生そのものがそう)、あんま深刻に考えない、だから何をするにもあんまり抵抗はないという性向はあるでしょう。

 これが冒頭で述べた「今の時代、安心なんかできないよー、でもそれでいいじゃん、てかサイコーじゃん」という感覚に結びつくのですけど、「一回決めたら死ぬまでそれ」ってのは誰にとってもストレスなんじゃないですか?そんなもん決められるわけないよ。そのくらいなら、「イヤになったら止めたらいいじゃん」って前提の方が、何をするにもしやすいと思います。

 それで三日坊主とか、それでモノにならないとか、人間辛抱だとかいう意見もあろうが、それでモノにならないなら、所詮はその程度の自分だったってことでしょ。モノにならない奴が我慢してやってたってモノになるのか?といえば、やっぱりならないんじゃない?ダラダラやってりゃいいってもんでもないでしょうに。逆に組織の中で長くいるから、妙に器用に悪知恵が働いて、組織の中のがん細胞みたいになったりしてさ。つまり、期間の長さと質の向上とは、それほどパラレルではないんじゃないの?ってことです。逆に、すごく学習能力の高い人こそ、しばらくやってから「よし、ここで学ぶものはもう無いな」ってことで、とっとと次のステージに行くでしょうし。

 そもそもなんで鉄板固定がないか?といえば、世の中が激動してるからでしょ。ずっと昔は国鉄の機関車の運転手になるのがエリートだったし、軍隊に入ったり、真空管のエンジニアとか。もう流行歌の世界でどんどん変わっていくんだから、過去だって本当は鉄板なんか無かったとも言えます。そして、激動するってことは、次から次に新しいチャンスが出てくるってことでもあるわけで、それの何が不満なのよ?って思いますケド。

 キタキツネくんも、「わ、ヤベえ」って思ってるかもしれないけど、そのうちもっと大きな流氷が近づいてポンと乗り換えたり、流氷続きでトットットと歩いて地面までいけるかもしれないし、そんなのわからない。少なくとも、同じ流氷にずっと乗り続けているのがベストである、とは言えないと思います。



ちょっと引いて撮るとこんな感じ

この蜜柑の豪快な盛り付けがいいよね


文責:田村


このエントリーをはてなブックマークに追加

★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのBLOG
★→APLACのFacebook Page
★→漫画や音楽など趣味全開の別館Annexはてなブログ