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Essay 938:世界観と価値観がついついゴチャ混ぜになる話

 〜世界観ケーススタディ〜感染と国家とBLM、コロナリストラと地方回帰


2020年06月08日
写真は、フェリーから見たBalmainあたり。



 世界観と価値観は次元の違うものごとなのだけど、時々ゴチャまぜになります。相互に影響しあって当然ではあるのだけど、混同したらマズい場合も多いです。

 今週のお題はこれでいきます。
 なんでそんな話をするかというと---

 コロナ騒ぎがまだ終わってないうちに、世界ではBLM(Black Lives Matter)のデモ運動がめちゃくちゃ盛んになってます。シドニーでも、警察や政府が最高裁で差し止め決定を取ったと思ったら、最後の土壇場で主催者側の異議申立てが通って最高裁の決定がひっくり返されて、大規模なデモがありました。

 もーね、コロナなんかどっかいっちゃったってレベルで盛り上がってるわけです。日本ではそんなにピンとこないかもしれないけど、現場にいると、なんとなく皆の怒りのようなものがわかります。でも、あんなにコロナコロナ言ってたのに、なんだこれ?って気もするし、これから怒涛の大不況がやってきてどうなるんだって話もありますし、世界の未来は混沌としてます。

 今世界はどうなってるの?この先どうなるの?というのは世界観の大きな一角を占めますが、それがよく見えなくなってます。誰にもよくわからないと思います。その上で自分の人生設計はどうするの、どうしたいの?も益々見えにくくなってます。

 そうやって見えにくくなればなるほど、大事なことは、出来るだけ正確な世界観を描くことであり、同時に唯一の羅針盤になる自分の価値観=何が良くて何が悪いの自分なりの感覚を磨くことだと思うわけです。

猫にでもある世界観と価値観

 世界観は「この世界はこうなっている」という客観的な認識です。
 価値観は、自分は何が好ましく感じるかという主観的な価値序列です。

 例えば、「なんだかんだいってこの世は結局「A」なのだ」(Aには、学歴、金、ルックス、権力、暴力、家柄、遺伝子その他なんでも入れて下さい。You name it)」という世界観があります。この世界はこうなっているという認識の問題として、今の世界(社会)をどう見るか?です。

 これに対して価値観というのは、結局「A」かよって現状は認識しつつも、「でも、そーゆーのって詰まんないね!」って思い、じゃあ何が大事なの?といえば、それは「B」だ(Bには、愛、家族、友達、最強の称号、自由、自分なりのこだわり、快楽、生き甲斐、ライフワーク、you name it)って思う(行動する)ことです(別に価値観もまたAであっても良いのですよ、本気でそう思ってるなら)。

 ゆえに世界観と価値観は本来別物です。次元が違う。
 明日の遠足が台風で中止になるかも〜で、天気予報などを見てできるだけ正確に事態を把握したいというのが世界観(客観認識)であり、遠足行きたいなー(行きたくないなー)という願いが価値観です。

 誰でも世界観と価値観はそれぞれに持っているはずです。
 どんな人でも、頭の上の方向には空が広がっていて、足元には地面があってという天地の感覚はわかるだろうし、あそこの角を右に曲がるとコンビニがあって、夕方に行くとえらく混んでるので避けたほうが良いとか。生きていくなかで経験的に学んできた膨大な記憶が体系化され、地球という星に人類がおって、百以上の国に分かれてて、今は日本という国に生まれて、そこには47の小さく分割された都道府県があって、自分は今○○にいてとかいうことも、世界観の一部です。

 さらに経験的(or 耳年増的に)、こういうカッコをしてると異性にモテないとか、就活に不利だとか、年金基金がヤバそうだとか、この業界は将来性がないとか、○○はいい奴何だけど、時々凄くセコくなるんでそこが玉に瑕だなとか、そういう知識も無数にあって、それがあなたの世界観を作っている。世界観のない人なんかいない。

 動物にも世界観はあるでしょう。自分の生活圏内(テリトリー)の中で、どこに水飲み場があり、どこにどういう危険があるという知識は生存のために必要不可欠であり、絶えず最新の状態にアップデートしておかないと命にかかわわる。猫でも毎日テリトリーをパトロールして、その種のチェックには余念がない。

 同じく価値観も誰にでもあります。要は好き嫌いですから、話題の映画をみたけどピンとこなかったとか、ラーメンは味噌が好きだとか、都会と地方とどちらが好きかとか、どんなものも好き嫌いの対象になるし、その膨大な集大成があなたの価値観です。価値観がない人なんかいない。

 これも動物も同様で、自分が一番好きな場所で寝てたりするし、パートナー選びにもちゃんと好みがある。前に飼ってた猫は、よく僕が寝てるベッドの上に乗ってきて、自分の寝る場所を決めるのですが、これが結構時間をかけて選ぶ。足で押して弾力を確かめたり、ちょっと寝ては布団の盛り上がりと背中にあたる感じが気に食わないのか、また起きて位置を変えてみたり、かなり入念に決める。プロゴルファーがパッティングラインを決めてアドレスをする以上に慎重にやる。僕はそれを見てて学ばせてもらったわけです。ニャンコ先生。なるほど自分が「気持ち良い」ということについては、あそこまで執拗に、妥協なくやらないといけないのかー、と。

 世界観と価値観は、本来別物です。でも「本来」とか言ってる時点ですでに微妙な話で、実際にこの2つはメチャクチャ混同してきます。

 でも、だからこそ、世界観と価値観は、意識的に分離させておいたほうがいいんじゃないかなーって思います。

世界観と価値観の混乱とバグ

世界観が価値観に影響を与える場合

 世界観と価値観が混同するのは、一つには原材料が同じだという点があるでしょう。
 とある具体的な経験をして、そこから「なるほど、この世の中はこうなってるのか」という学習をすると、そこで世界観はまたアップデートします。そして、同じ体験から、「あ、こういうの好きだわ」「うわ、こういうのはイヤ」と思うかで、価値観もまたアップデートします。

 世界観は単純情報の集積と整理でいいので簡単なんだけど、価値観のアップデートは結構難しいです。自分が「いい」と思うもの、その「いい」の本質はなにで、その良さの表現形態としてどういうのがあるのかというレベルと、「いい」と思う価値そのものが変化する場合とがあります。このあたりは難しいので、過去のエッセイでも手を変え品を変え書いてます。かいつまんで言えば、やっぱいつもと違う体験はどんどんするべきであって、それによって、従来の自分の価値観はより磨かれるし(ああ、やっぱり自分はこういうのが一番好きだなと再確認するとか)、また「おお、この世にはこういう種類の良さもあるのかあ!」と価値が広がりますから。ま、でも、今日はそこは本題ではない。

 同じ一つの体験から、これはタンパク質これはビタミンみたいに、これは世界観方面に、これは価値観方面にって仕分けされるんだけど、もとの体験が同じだから、どっちに引っ張られてしまう場合が多いです。

 例えば、今これが流行ってるという何かを体験してみると、たしかにすごい人で誰も彼もがそれをやっている。で、皆、それぞれに楽しんでて、良かったー、サイコーとかいってるから、自分でもそうなんかなと思ってしまい、以後、これがサイコーなんだって思ってしまうという。つまり世界観のアップデートするに際して、価値観までアップデートしちゃう。

 実態は、みんなと一緒に「楽しいふり」をしてるだけ。それで、「最初はカタチから入る」みたいにカタチだけやってるだけなのが、だんだんと本質がわかってきて、本気で楽しくなってきた、、というのならハッピーエンドです。新たな楽しみを覚えたわけで、価値観はより充実しますよね。でもそういう場合ばかりではない。単に楽しいフリが延々続いているだけする場合もあります。さらに恐いのは、あまりにも長いこと楽しいふりをしていると、「楽しいってこういうことか」と、本当の「楽しさ」そのものが上書きされてしまって、わからなくなってしまうことです。

 これ、結構多いですよね。
 誰も彼も猫も杓子も就活だなんだでやってると、そういうもんかと思ってしまう。そこで「世間はそうなってるらしい」という客観認識の世界観レベルで留めておけばいいのに、就活を成功させることが「いいこと」のように自分も思ってしまう。そう思って取り組むとこれがなかなか難しい。だから結構ゲーム的にハラハラして面白い。ハマってしまう。成功だ、やったーで、価値観が上書きされちゃいます。ほんとに好きならそれでいいけど、実はそんなに好きでもなかったら、好きでもないものを好きであるかのように勘違いするという、それは価値観のアップデートというより価値観のバグになってしまう。

 以後、早く結婚しないと、早く出世しないと、転職が有利なのは、子供を作らないと、マイホームとか就活と同じパターンで繰り返していく。その都度に、人によっては、価値観のバグが増幅されていってしまう。今は就活から始めたけど、物心ついた頃からバグがある人もいるでしょう。自分では好きではないけど、親が喜ぶからということでやってるうちに、何が好きなんだか自分でもわからなくなって、進路決定とかで途方に暮れる。

FEMO

 最近読んだなにかにFOMO(fear of missing out)というのがありました。オーストラリアは世界でもトップクラスにトイレットペーパーをパニック買いしていて、結構恥ずかしいよねって記事だったんですけど、なんでパニック買いをするのかの心理の説明として、FOMOがありました。日本ではSNS病とかいってネット関連で言われることが多いのですが、より広く株式とか、社会一般にも使われるみたいです。

 この心理の本質は何かと言うと「取り残され恐怖症」「機会ミスり恐怖症」みたいなものだと思います。皆で雑談してるときに、ちょっとトイレに立って戻ってきたら、皆が笑い転げていてて、「え、何の話?何の話?」って慌てて追いつこうとするように、楽しい機会、儲ける機会、なにか快適な状態に維持する機会をミスってしまうことを恐れ、その恐れが強すぎて、もう目が離せなくなるという。

 そんなん多少はしょうがないじゃん、24時間完全監視なんかできっこないんだし、そこまでするほどの価値もないしって普通は思うんだけど、この病気にかかると、そう思えなくなる。SNSでも、全ての投稿やコメントはチェックしなきゃって思って頑張ってしまう。頑張りすぎて、生活も精神もバランス失調になっていく。同じように、社会の動静に遅れて情弱化して、大事ななにかをミスってしまうんじゃないかとか。株取引やFX、デイトレでも同じで、「もしかしたら儲ける機会をミスってるんじゃないか」とかそればっか気になるという。

 だからトイレットペーパーでも、ここで買っておかないと大変なことになると、ついつい思ってしまって、棚に商品が並んでるのを見たら、チャンス!と思ってドカ買いしてしまうという説明になるそうです。

 これも「今、世界はどうなってるの?」という現状認識(世界観アップデート)のハズが、それが昂じて、全体についていくこと、皆と同じであること、何かを逃さないようにチェックすること=価値あることになって、価値観が上書きされてしまう。これなんかもアップデートというよりはバグの類でしょう。「バズワード」とか「トレンド」とかいう言葉にググっときてしまう人は要注意かも。

価値観が世界観に影響を与える場合

 逆に、価値観が世界観にバグをもたらす場合もあります。

 最初からすごい思い込みというか、なにかしら非常に限定された角度からの価値観を持っていると、どんな風景を見ても、どんな体験をしても、その特定の角度からしか見られず、そういう世界観として広がるだけって場合。

 なんて抽象的に言っててもわかりにくいので、とりあえず卑近な話でいえば、僕のやってた高校の柔道部なんか、僕も含めてモテないヤローばっかりで(柔道部はそうだよな)、モテない青少年の「非常に限定された角度の価値観」になるわけですね。悲しいけど。バレンタインとかで学校が浮足立ってても、カンケーねーよ的な立ち位置で、仲間のA君は「け、毛唐の習慣に染まりおって、馬鹿どもがあ」と吐き捨てるように言ってましたね。で、男は硬派だよ、馬鹿野郎的な価値観になると。

 このように悲しくもひねくれた価値観があると、普通の風景を見ても素直に受け取れない。なぜか自分だけはモテない、自分が幸せになるなんて一生無いんだとか思い込んでしまうと、楽しそうに連れ立って歩く恋人達や家族連れを見ても、ああ平和だなー、いいなーとは思えず、「け、愚民どもが、平和ボケしおってからに」みたいに思ったり、「東京は馬鹿ばっかりだということがよくわかった」とかそういう世界観になってしまうのですねー。

 ありがちでしょ?ありがちっていうか、誰だってそういう時期はあった筈だし、今現在だって、何らかの意味でそういう部分はあるかもしれないのですよ。学歴にコンプレックスがあると、周囲のいわゆるエリート社員の失敗がうれしく思えたり、「あいつらは試験の点だけ」「現実社会では使い物にならない」とかいう価値観=世界観に固執するとか。あるいは海外で英語トホホで苦しんでるときに、ペラペラ喋れる女子が世界の友だちと楽しげにいえ〜とかやってるのを見ると、「ああいうのがイエローキャブとかいって(古)、馬鹿にされるんだよ」とか言ってみたり。あるいは、海外、特に第三世界に駐在にいくと、現地の人達を一段下に見てみたり。

 これらは下らない劣等感や傲慢な虚栄心などであって、価値観と呼ぶほどのものではないにしても、「感情(価値観)と知性(世界観)の相互関係」一般として見た場合、感情になにかシコリがあったりすると、そのシコリが客観認識に大きく影響するという意味では同じです。

 客観認識って意外と難しいです。物事をフラットに、ありのままに見て、理解するってことは、出来ているようで全然出来ていない。人は自分が見たいと思ってることだけ見るといいますしね。最初からAだと思ってると、なんでもAに見えてくるし、A的に解釈してしまう。

 宗教などは、世界観と価値観が渾然一体になってるところがあって、なにか天災があると、「おお、○○様はお怒りじゃ」「祟りじゃ」になったり、会社が倒産したり離婚したりすると「神が試練をお与えになった」ことになったりもする。それで救われる場合もあるんだけど、視野や現状認識が歪んでくる場合もあります。


 というわけで、世界観と価値観は意識的に分離されておくことをオススメしたいわけです。

 フラットに今何が起きているのか、この世はどうなってるのかという世界観的にいっても、あるいはこの世の真善美はなんなのか、自分はどういうのが好きなのか=自分はどうなると幸福になれるのかという価値観とは、ぜーぜん別物なんだけど、実際にはすごく影響され合うし、それが良い結果を産まない場合が多いですからね。

余談〜神様と世界観

 ま、今回はそれだけの話なんだけど、もうちょい敷衍しましょう。

 21世紀の僕らの常識的な世界観は、まず宇宙があって、太陽系があって地球があって、、という認識ですけど、その昔は、まず地面がドーンとあって、その上を宇宙がぐるぐる廻ってるという天動説やら、海の向こうはこの世の終わりで滝になってるとか、象やら亀やらがお盆を乗せてそのお盆が大地であるとか、そういった認識でした。

 だけどこれって純粋に客観的にやってるわけではないのですよ。宇宙の果てはどうなってるの?みたいに、どうしてもわからない部分が出てきて、そこは想像で補うわけです。人間の可動領域が狭い頃は、わからないことだらけなので、想像の比率が高い。その昔は、宇宙どころか、海の向こうにも行けなかったから、水平線のその先は想像で補うしかなかった。

 想像というのは主観ですから、「こうなるといいな」「こうあるべき」という願望が微妙に入ってきたりして、そうなると世界観はかなり主観的な価値観とゴッチャになってきますよね。

 大自然という、人智では分からない+コントロールできない巨大な力があります。あれは何のためにあるのだとか、どういう法則で動くのだとか考えるわけですが、そこで「神」という概念が出てくる契機になったのでしょう。

 この当たりはド素人なのでテキトーな感想を述べますと、最初、神って、大自然を擬人化・物語化しただけで、あんまり人類との関係はなかったと思われます。いわゆる「神話の世界」ですけど、地球上どこのエリアにもその種の神話はあって、ギリシア神話やら北欧神話やら。日本の神話もそうです。ポセイドンがどうしたとか、エディプスがどうしたとか、やたら近親相姦はするわ殺し合うわで、血なまぐさい話がてんこ盛りなんだけど、だからといって、じゃあ人間はどうするの?と言うと、特にその関連性はない。イザナミが死んでイザナギが黄泉の国まで会いに行ったとかいうお話も、だから我々人間はこうすべきって話にはならない。神の世界はそれだけで完結していた。

 でも段々と人間と関連するようになります。神を人間世界に引き寄せるようになる。
 最初は自然科学的に、なぜ雷や地震は起きるのか?的な話で、「荒ぶる神々」がおって、なんだか知らないけど、時々ドーンと荒ぶって、その度に人類はえらい目にあう。でもどうしようもない。人間などは、豪雨のあとに出来た水たまりに湧いたボーフラのようなもので、しばらく晴天が続いて水たまりが干上がったら、はいそれまでよって存在でしかない。多分客観的にはそれが一番真実に近いのでしょう。人類なんかたまたまの諸条件が合致したのでこうなってるだけで、いずれ氷河期が本格的に始まったり、地軸がズレたり、砂粒みたいな隕石が飛んできて地球にブチ当たっただけで恐竜みたいに絶滅してしまうかもしれない。

 そのうち神と意思疎通を図ろうとかいう大それた試みをするようになり、生贄を差し出したら川の氾濫が収まるとか、干ばつがおわって雨が降るとか、今年も豊作になるとか。おそらく農耕を開始し、生産性がある程度高まった時点で、調子コイてきたのでしょうねー。なんとか自然をコントロールできないか?ってことなんだと思います。なんだか理由はわからないけど、こうすると被害が軽く済むかもしれないという因果関係があるんだか・ないんだか分からないまま色々な行為をする。そこでは客観と主観はゴチャまぜになります。「こうなるといいな(雨が降るといいな)」という願望と、「こうなる筈だ」という客観的な因果関係が一緒くたになってしまう。まあ、そのくらい強い確信がないと、生贄で殺される方もたまらんですよね。もしかして無駄かもしれないけど、一応やるだけのことはやってみたいんで、悪いけど死んでみてくんない?とか言われたらイヤですもんね。

 さらに時代が下ると、神さんはもっともっと人間世界に関連づけられてきて、ほとんど「便利づかい」のようにプラクティカルに利用されるようになります。それが宗教で、統一的な因果関係のある世界観を構築するわけですね。まず神様がおって、光あれとのたもうて、アダムとイブを作って、、とか。真面目にやってると天国に行けて、悪いことをすると地獄に落ちて、その考査を受けるための待合室として煉獄があってとか。閻魔大王の裁きを受けて、とか。

 ここにいたって、現世とあの世と世界の敷地が2倍以上に広がって、因果関係はこの世とあの世にまたがるようになる。そして、全体のシステムを構築したのが神様であり、全ては神の御心だったり、仏の思し召しとして世界はこうなっている。古代の神のように、人間のことなんか知ったこっちゃねーよという荒ぶる神ではなく、だんだん人に優しくなってきて、しまいには「神は常にあなたの側で見守っておられる」みたいな存在になっていく。

 何を長々と書いてるかと言うと、こうなってくるとですね、世界観(この世界はこうなってる客観認識)と、価値観(こうなるといいなという個人の願望の序列)が渾然一体としてくるということが言いたいわけです。前半部分で、個人のレベルで世界観と価値観、知性的認識と感情的欲求がゴチャまぜになることを書きましたけど、もっと大きなところ、もっと古い頃から似たような話になっていたということです。まあ、同じ人間のやることですから、思考パターンというか、いい気になって調子こいたり、自分に都合が良いように解釈したりってのは、同じことなのかもしれません。

 とあるアーチストやタレントのファンになった頃は、ひたすら眩しい存在、すごいなー、私なんかとは別世界の人だなーと憧れているだけだったんだけど、頑張ってコンサートに足を運んで、最前列のチケットをゲットして見ているうちに、なんか頻繁にステージのあの人と目が合うような気がしてきて、今日なんかあからさまに3回もバッチリ目があって、しかも笑いかけてくれた!とか勘違いするようになってきます。そのうち、ああ、もうこれは完全に私のことを特別に意識してくれているのだという確信に高まり、しまいにはファンレターも段々やばくなってきて、「今日のコンサートの7曲目で歌詞の○○の部分を私に席に方に顔を向けて歌ってくれたのは、あれは隠されたメッセージなんですよね?もちろん私にはすぐにわかりました」とか送りつけるようになり、立派なストーカーとして育っていくという。

 感情がいかに認知に影響を与えるかってことですけど、ただの世界観(自然観察)だったものが神話になり、宗教になっていくのも、これと似たような感覚なのかもしれません。


ケーススタディ・今の世界観

BLMと国家と国民

 コロナ後で多くの人の世界観が変わりそうな感じもします。もともと常に世界観は変化するものなのですけど、常々&薄々そう思ってたことが、だんだんクッキリとした形になってきたというか。あるいは、常々&薄々こういう生き方をしたいなと思っていたのが、徐々に明確になってきたというか。

 例えば、今回のBLMの世界的な広がりをどう見るか?にも関わりますが、僕の感じるところでは、既成権威や体制に対する鬱屈した不満、「もういい加減にしろ」という感じに読めます。もともとは、institutional racism(組織的システム的な差別)に対する批判であり、黒人であったり、アボリジニであったり、少数民族に対して国家権力やシステムは差別的な扱いをしており、それが当たり前になっている。かなり昔から、何度も何度も警鐘が鳴らされ、その都度悔い改めているふりをしてるんだけど、一向に事態は改善されない。BLMは、もともと2016年のときの事件の話で、今回はVer2.0みたいなものなんだけど、要は全然変わらないじゃないかと。

 この1月のオーストラリアDAYでも、随分様変わりしたなーと思ったのは、前はオーストラリア建国、キャプテン・クックがやってきてとかそんな陽気なお祭りだったんだけど、先住人のアボリジニーにしてみれば地獄の始まりで侵略記念日でもあるわけです。ずっと昔からそういう視点やイベントがあったんだけど、「そういう見方もあるよね」というあくまで傍流的な位置づけでした。でも、今年みたのは、もうそっちの方がメインストリームになってるくらいで、アボリジニに対して、ひいては「全ての人」に公正なジャスティス(正義)をという形で、アボリジニの人たちやその周辺の人が訴えるというよりも、普通の白人のオージーが圧倒的大多数でした。その意味でいえば、アジア系や中東系などはむしろかなり少なかった。

 BLMデモでも黒人よりも白人の方がずっと多いです。つまり被害者的立場にある人が声を上げるだけではなく、加害者的立場にある人達が、「なんで俺たちはいつまでたってもクソのまんまなんだよ、ふざけんな」って感じに見えます。

 これは温暖化に対するスウェーデンのグレタ女史の先鋭的な糾弾にも軌を一にしてるように気がして、まだ十代の彼女らの世代からみれば、大人達はやるやる言いながら全然本気でやってないじゃん、いいかげんにしろよ、何が「大人の事情」だよ、ふざけんなって感覚だと思う。

 日本ではBLMは小さな感じですけど(クルド人の方に対する警察の扱いに関してデモがあったけど)、その代わり、検察官定年問題ではツイッターで600万以上の抗議が集積した。日本だって、全然変わらないじゃん、てかもっとひどくなってるじゃん、いい加減にしろって感情は日に日に強まってるんだと思います。

 「世の中そんなもんさ」という斜に構えた敗北主義に陥るのではなく、ちゃんと声に出し、ちゃんとストリートに出て表現するという流れ。それで実際にも世の中が動いていくという流れ。

 そのあたりは、それぞれが抱えている問題意識や視点によって解釈する方向が変わってくるとは思います。僕のように、前々から国家いらないじゃん主義(もっと効率的な形態を模索すべき論)という問題意識からすると、コロナ→BLMの動きは興味深いものがあります。コロナに「乗じて」みたいに権力パワーを増大しようとする国家側と、今回のプロテストで「それはそれ」とキッチリ線を引いた国民側みたいな図式にも見えるのですよ。NSWでも、感染防止を理由に最高裁まで申し立てて集会の中止決定を引き出した州政府や警察に対して、多くの法曹界からの支援を受けて最後のドタキャン決定(即時抗告みたいなもんだろう)を引き出して、決定をひっくり返している。でも集会ではけっこう皆マスクをして、距離も開けれるときは開けてという感じでやっている。

 つまり暴力的に反発して暴れているわけではなく、総体としてはかなり理知的で、「もっと真面目にやろうぜ」という感じかな。「仕方がない」「最善の努力を」「現実的には」みたいなお題目を念仏みたいに唱えてたって何にも変わらないじゃん、クソのまんまじゃん、もういい加減なんとかしようぜって。

 ちなみにコロナの制限も、本来あったロードマップもどこへやらで、どんどん前倒しで解禁されてて、今どこまでいけてるのか分からないというか、なし崩しになってほとんど興味もない、新聞記事も少なくなったねーって感じです。これでこれだけの集会がドーンとあちこちであって、それで無理矢理にでも感染増を作るのか(検査数で調節できるし)、それともいい機会だからこれで大したことないならもういらないよねって感じで流していくか(とにかく経済の方が真剣にヤバくて、手厚い補償が終わる9月末が地獄の始まりと言われているだけに政府もビビってるし)。

 日本の場合は国家権力の増大というのはあまり無い反面、政府や行政の無能さがいちいち浮き彫りになり、さらに何をするのも電通やパソナに丸投げという利権や私益ばっかという構図まで暴き出されてきて、これもまあ、いい加減にしろですね。現状維持保守最高という、亀みたいに手足ひっこめてじっとしてるということは、問題は何一つ解決しないということであり、それは犠牲者やら割を食う人は永遠に出続けるということでもあり、それじゃ駄目だろって感覚だと思います。いい加減なんとかしようぜ、という。

 世界観でいえば、このままどんどん真っ暗な社会になっていくのか、それに対して適切にNOと歯止めをかけられる人が増えてきた、やり方も覚えて、洗練されてって、そういう感じになっていくと見るのか、見ないのかが、世界観の分かれ目だと思います。


経済〜リストラと生き方

 コロナ不況と言われて、あれだけ封鎖とか規制をかけてしまえば、その経済への影響は計り知れないと言われてます。それはどこの国も似たようなもの。ただし、感染と違って14日で結果が出るのではなく、玉突き衝突のドミノ倒しですから、ズシンと腹に響いて実感するようになるのに1年くらいかかるでしょう。てか、ある日突然自分が収入ゼロになって初めてことの重大性に気づくというか。

 過去の例でいえば、バブル最盛期も崩壊もリアルタイムに実感しましたけど、バブルが破裂したときから国民全体に知れ渡るまで優に1年以上かかりましたもんね。爆心地の人たち(地上げ屋とか)はもう即死状態でしたけど、だんだん周囲に広がる。僕ら弁護士業界でも、最近ちょっとおかしいねって話で、それまで土地の奪い合いとか立ち退き請求とかやってたのが、相手方が急に来なくなった、音信不通になったとかいうケースがチラホラ出てきて、あれ?って感じ。株価も確かに下がったけど、リアルタイムにはまだ復活するとかいう見通しがほとんどでしたし。で、その1年の間に壮絶なババ抜きのババの押し付けあいゲームが日本列島津々浦々で展開され、多くの情弱(という言葉はこの時点ではなかったが)な善男善女がワンルームマンションを絶対確実な利殖物件として高値づかみをさせられた時期でもありました(4000万で買わされて売るときは300万とか)。1年以上たってから、昔の南海バブルとかチューリップ・バブルなどの例から「バブル」という言葉がマスコミに出始めたという感じですね。

 経済は時間かかります。特に日本のように、出来るだけ私財を投入してでも頑張ってしまう傾向の強い国、また従業員の馘首が容易ではない国においては、その連鎖反応は遅延型になります。オーストラリアなど西欧系は、そのへんパキパキしてて、もう数日の間に数百万人が休業とか凄いことになりますけど、その分話も見えやすい。

 で、この先どうなるのかな〜というと、もともとコロナ前からかなりヤバかった(本来かなり景気が落ち目だったところに消費税をやったもんだからダウン寸前だった)ところにコレですから。

 以下、コロナ以上に恐怖を煽り立てるような記事が沢山メディアに載ります。いくつか実例を上げておきます(画像をクリックするともと記事にいけます)。

 日本の場合、安定志向の一般給与所得者が多い関係で、「不況」というのは単に経済数値の上下動だけだったらプロ野球の戦績とあんまり変わらないくらい関係ないんだけど、「リストラ」に関連づけられると俄然恐怖の対象になります。リストラというのは、(特に中高年)個人史においてハルマゲドン級のイベントになりますからね。

リストラ煽り系

 で、ヤバそうな見出しが沢山出てきます。

「倒産1万社」「休廃業5万社」

これから本格化する「コロナリストラ」で人事部に狙われる社員3タイプ

 
コロナ不況、失業率微増の背後で急増する「休業者600万人」の衝撃


 下の記事なんか、「パパ活」とかいうからスポーツ新聞系か女性週刊誌系かと思いきや、朝日新聞でした。そうか朝日でも見出しにパパ活とか使うようになっているのですね。

コロナ禍に内定取り消し 生活のためパパ活、女性の嘆き

働き方〜地方回帰系

 これはテレワークの悲しい実態レポで、あー、なるほどーとか思ってしまった(笑)。

コロナ禍で増殖!家に居場所なく愛車リモート「駐車場パパ」の悲劇

 こうなると都会はもろいよね的な意味での記事
野菜が高騰、新型コロナで「取り合い」に

 さらに進んで、テレワークが常態化するなら、都会に住む必要もないじゃないか、じゃあどの町がいいのか?という記事が出てきます。この種の話は結構ありますね。

【首都圏版】もう都心に住む必要なし!? テレワークが中心になったら住むべき街5選


 マジな話、中央集権の国家体制から、より地方分権を進めていった方がいいんじゃないかって話は昔からあって、実際にもそういう法制化の流れもあります。

地方分権推進法が公布、「主従」から「対等」へ

 エリアごとに事情が違うんだから、丁寧に細かくやるなら地方単位の方が良く、中央集権でせーのでやってもろくな対策もできないし、利権話で終止するなら、知事レベルでネットワーク組ませた方がいいんじゃないかということで、現実にもそういう流れに。

地方分権推進法が公布、「主従」から「対等」へ

 で、実際、地方単位の方が小回りがきくから、いろいろ出来るしって話。

仙台市、失業者に市営住宅25戸を無償提供

 とまあ、これだけ並べてみると、経済やばし、コロナでもっとヤバし→リストラの恐怖が現実化+テレワークのあれこれ+都会生活の脆弱性→都会脱出+地方再生、、、という流れになっているんじゃないかという「世界観」が出てきたりします。

 だけどね、これ、僕が紙芝居のようにプレゼンのように、記事を並べたからそう思えるだけの話であって、また違う記事を違う順番で並べたら、ぜーんぜん違う世界観も出来てくるとは思うのですよ。だから鵜呑みしたらあかんですよ。


 そこでどういう世界観を構築するかは、up to youです。

 でもでも、again、同じことを何度もいって恐縮ですけど、世界観と価値観は別物ですからね。世の中どうなろうとも、たとえ天地がひっくり返ろうとも、俺は○○が好きなんだあ!というのが価値観。世界の流れや、メディアや、皆の言うことにいちいち左右されてたら、それは価値観ではないってことで、そこは大切に。




文責:田村


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