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Essay 930:科学と政治のコロナ神学論争〜事実認定の手法

〜「専門家」「科学」の特性と利用法
〜15分ルールと飛沫感染
〜抗体検査とワクチン


2020年04月20日
写真は、つい先日撮った朝焼け。朝の6時くらいだったですけど、びゅんびゅん車走ってて。


なにが本当かわからない場合

 毎日のように世界各地でコロナについての議論が行われてますが、すごいですよね、専門家でも人によって言うことが全然違うんだもん。これだけ人によって(同じ人でも時期によって)言うことが違ったら、どれを信じたらいいのか分からんのですが、まずはそのあたりの話からしましょ。

一般原則〜ニュートラル〜裁判の事実認定と同じ

 どれを信じていいのかわからないときは、どれも信じない。すべてを等距離において見る。その上で、もっとも確からしいものから順に埋めていくという作業をします。と同時に、全体像がしっくりくるか、腑に落ちるかという直感的な作業もします(これ結構大事)。

 これは裁判における事実認定の方法に似てます。ご自身で裁判をやった方(陪審員でも)は少ないでしょうけど、実際にみたら多分びっくりしますよ。なんせ原告と被告とで「同じ事件について述べているのか?」ってくらい説明が違います。もう「物語」が全然違う。証言にしても、非常に細かいところまでクリアだし、聞いてると「なるほどこれは本当らしい」って思ってしまうんですが、相手方もそれは同じで、それを聞くと今度は真反対のことが本当のように思えてくる。そのくらいのものです。物証や書証も同じで、これぞ決め手の証拠だと思ったら、真逆の決め手のものも出てくる。そして、専門家の意見を聞く「鑑定」がありますが、これもまた真逆の結論になる。刑事事件の心神喪失かどうか精神鑑定でも、検察が責任能力アリの鑑定書を出してきたら、弁護側はナシの鑑定書を出してくる。交通事故の不定愁訴でも事故の因果関係アリなのか、ナシ(単なる老化か既往症)なのかで分かれる。どちらも○○大学名誉教授クラスの作成のもので(高いんだよね、百万くらいするときもある)、権威的にはどちらも十分。でも結論は真逆。さあ、何を信じたらいいのか?

 アプローチの方法ですが、まず「信じる」ということをしない。「信じる」というのは、(大まかに)定義してみれば「特に根拠はないんだけど、他の理由でその内容を真実だと思うこと」だとします。親友が何かのことで犯人扱いされていて、アリバイも他の証拠もなく、また状況証拠からしたらその友達がやったかのように見えるんだけど、本人は「私はやってない」強く否定。その友達の言うことを「信じる」というのは、その事実についていえば特にこれといった根拠もないんだけど、他の理由、例えばこれまでの交友関係からいって「こいつは嘘をつくような奴ではない」という評価が自分の中にあって、だから言うことを信じると。

 でも事実認定ではこれはタブーです。根拠がないのに物事を認定するのは、裁判官の胸先三寸(「こいつは信用できる」とか)で物事が決まってしまうことになり、そうなるとどの裁判官に当たるかによって有罪無罪が決まってしまうわけで、不公平だからです。まあ、実際には人間がやってるんだから、どうしてもそういう部分はありますよ(○○裁判官にあたったらヤバいとか)。でも、基本そういうことは極力避けようとするし、なぜそう認定したのか?とあとで聞かれたら、「○という証拠と○という証拠を重ね合わせてみると」とか合理的な推認過程を残さないといけない。裁判官もそこはすごい気にします。なぜって、いずれどちらかが上訴したら高裁や最高裁に自分の仕事をイチから検分されるわけで、「なんちゅー粗雑な仕事をしてるんだ、この馬鹿は」とか思われたら命取りですからね。それに判決というのは半永久的に法曹界の(てか国民の)共有資料として残るわけで、未来永劫自分の仕事を同業者に批判され続けるわけですよ。いい加減な仕事は出来ないわけです。

 だもんで一か八かみたいな「信じる」ことはせずに、細かく吟味にして、原告の供述のこの部分はおそらく真実に近いだろう、でもこの部分は微妙だなとか、一つづつ見ていきます。そのテクニックのなかに、有名な「秘密の暴露」があったり(犯人しか知りえないこと=死体をどこに埋めたかとか=を言っていて、実際にもそこに死体があったら、それは本当だろうとか)、「不利益供述」(わざわざ自分に不利なことを言ってる場合で、そこで嘘をつく動機がない)とか。

 

いわゆる「専門家」の難しさ

 コロナでも沢山の専門家がいろいろなことを言って、それが報道され、政治家によって、論者によって引用されますけど、かーなり気をつけないといけない点が多いです。

「科学」でわかることと、わからないこと

 「可能な限り」「堅牢な論理の積み重ねで」「真実に近づこうという営み」を「科学」というのだと思いますが、それにとことん忠実であれば、「AはBである」という大きくわかりやすい結論は出しにくくなるはずです。

 僕も医療過誤とか裁判で資料を探して大学の図書館で探し廻ったりしましたが、紀要(大学が出版している研究論文集)を見ても、「おお、証拠があったぞ!」とはわからない。自然科学の論文って、はじめてマトモに読むとチンプンカンプンで、結論がわからんのですよね。社会科学とは全然違う。なんでもっとハッキリ書いてくれないんだよーとか思ったけど、ああ、科学ってそういうことなのねと納得もしました。

 論文の内容は極めてクールな実験報告です。とある実験をしました、と。こういう条件で、こういう器具で、どれだけの期間、どれだけの回数を、どういう方法で記録したかという条件説明が延々書かれてて、最後に表とかグラフとか結果がでてるんだけど、そんなグラフなんか見てもなんだかさっぱりわからない。そして、「AとBとの相関係数は○であった」と数学的に導き出される数値が書かれている。もうそれだけ。AとBの関係が偶然にそうなる一般的な確率に比べて何らかの関係性がありそうだという場合、相関係数が高くなるわけですね。「堅牢な論理の積み重ね」でいえば、そこまでしか言えないわけですよ。こういう実験をやってこういう結果が出ました。その結果の「意味」をこうだと決めつけるのは「飛躍」ですから、それは言えない。

 えーと、わかりにくいよね。いきなり超卑近な例を出すと、例えば職場のAさんとBさんが実はつきあってるんじゃないか?という「仮説」があったとして、両者が帰り道に一緒に歩いている事実がいくつかあったとしましょう。その場合、両者の仕事の終わる時間のバラツキ率や、利用交通機関や帰路のルートなどの関係から、そりゃたまたま帰り道が同じになって歩くことはあるだろうさって偶然はあります。しかしあまりにも頻繁に一緒に歩いていたら、偶然の確率を越えてきて、なんらかの高い相関関係があるんじゃないか?ということになり、仮説はある程度実証されるわけです。「ある程度」ですけど。それがどの程度?という相関係数いくらってことです。

 実際の自然科学の現場ってこんな感じみたいです。

 だから何?っていうと、コロナに限らず、とある出来事で「専門家としてのご意見を」とか言われても、基本、困るだろうなーってことです。サイエンスとして厳密に正確であろうとするほど、一般素人が聞いても何言ってるのかさっぱりわからないでしょうしね。だからある程度要約したり、意訳したりして言うのでしょうが、そこに主観が入ってしまうから、サイエンティストとしては気持ち悪いんじゃないかなって思いますわ。

 科学というのは、ここまではそうらしいというのを1ミリづつ広げる仕事だと思うし、同時に「わからない」ということをとても大事にする思考法だと思います。確かにそう見えるんだけど、無限の可能性があるわけで、そう言い切っていいのかどうかは保留にしたいし、もっと研究して確かめたいって感じ。人類は長い間、電気や電波があるとは夢にも思ってなかったわけだし、細菌やウィルスだってまさかそんな小さな生き物がこの世にあるとは思ってなかった。医療=悪魔祓いって時代も長いこと続いたし。

 結局人類としては今わかってる限られている範囲で立論するしかない。だから昔は大真面目に大亀の上に世界があったりとか考えていたし、今の僕らの科学だって後から見たら同じこと。「ぶ、ウィルス?そんな妖精みたいなものが本当にあるって信じてたんだ」「空間歪曲面の重力波のバグが粒子状になって五次元的に浮遊してるなんてことは、今は小学生でも知ってることだけどね」「そんな夕焼けみたいな現象を生き物だと思ってたんだよね、当時の人は」とか言われるかも知れないよ。

 科学の常識はいとも容易くつくがえされるし、それこそが科学の醍醐味ですらある。だから、AはBに決まってるという物言いは、あまり科学的ではない。科学者というのは、それをよく知ってる人たちのことだと思います。だから、こういう実験をしたらこういう結果が出たまでは言えるけど、だからなんだ?という意味付けについては慎重になるのでしょう。

科学を一般人は理解できない件

 しかしそこまで厳密にサイエンスでいてられると一般人はイライラするわけですよね。で、結局どうなんだ?って。そこで、一般人にわかりやすく言うことになるんだけど、そこがすごい問題の巣になります。

 一つには、そもそもメカニズムが複雑すぎて、いかに分かりやすく説明したとしても、初心者には理解不可能というケース。自然・社会科学を問わず、どの分野においても大体がこの場合だと思いますけどね。僕が高校で初めて生物の授業を受けたときに印象に残ってるのが、担当のシモジョー先生だったかな、髪型がナチュラルにアトムみたいで、いかにも科学者風なおじさんが、「これから君らに教えることって、厳密にいえば嘘なんだよねー。だって高校生くらいに本当のことを言っても理解できるわけないんだから。君ら向けに、まあとりあえずはこう考えておいてよってことを教えます。本当のことは大学いってから知ってください」って。ぶっ飛んだけど、そういうもんかって思ったですね。

 僕の専門の法律でも、「悪いことをしたら刑務所にいくんだよね?」と聞かれたら、困るんですよねー。なにが「悪いこと」なのかまず定義してくれよって。刑法犯もあれば特別法犯もあり、刑事罰もあれば行政罰もあり、刑にしたって罰金や科料もあり、懲役刑だとしても執行猶予もあり。数でいえば(令和元年版の犯罪白書によれば)、いわゆる認知件数(検挙件数ではない)の刑法犯が81万、うち窃盗が58万、それに交通事故系が41万、合算すると123万。特別系(風営法、麻薬とか)が35万、うち道交法違反(切符ね)が大多数の26万。他にも行政犯があるけど(違法建築とか脱税とか)それは置いておいて、とりあえずここまででざっと年間160万件くらい「悪いこと」が起きてます。じゃあそのうち何人くらい刑務所に行くのか?といえば、懲役刑が宣告されるのが、えーと5万人くらい?そこから執行猶予をさっ引くと2万人くらい。現在の刑務所の入所人数が2万弱だから合ってますね。ということは、160万件の「悪いこと」のうち、「刑務所に行く」のはわずか2万くらいで、全体の1.25%に過ぎない。純粋に数でいえば、「悪いことをしても刑務所にいかない」という方が正しい。だって98.75%は刑務所に行かないんだから。でもこの原理や数を説明しても、まあわかってもらえないから、刑務所に行くんだよね?と聞かれたら、「そうだよ」「だから悪いことをしちゃダメなんだよ」と答えた方がいいのかなーとか迷うわけです。「本当は違うんだけどなー」とか思いながら。シモジョー先生の言ってる意味がわかったわ。

 おそらくコロナとか感染とか、免疫とか抗体とかいうの話も、厳密にいえばそんな感じじゃないかなーって思うんですよね。違うかもしれないけど、科学的明晰性を追求すればするほど、うかつなことは言えないんじゃないか。でも、それでは「一般大衆」が許してくれないから、「わかりやすい」話にしないといけない。

 でね、ここで注意すべきは、わかりやすい話に端折る場合に、どう端折ったらいいか?という基準も指針も特になくて、なんとなくカンドコロで「まあ、こう言っておけばいいかな」って言い方になるわけです。先程の「刑務所に行くんだよ」のもの凄い真逆要約と同じで、それまでの厳密な論理性から、うって変わってボーンと飛んじゃうわけですよ。で、その飛び方は語り手の個性とか感覚だというこいとで、最終段階のところでもの凄いことが起きてるわけですね。

 逆に言えば、そこはもう全然「科学」じゃないんですよね。だって、純粋の科学の形式にしたら、専門外の一般人にはもう理解できない。まあ、ちょっと勉強すればわかるんだけど、それにしたって半端な努力じゃ無理です。普通、そんなことやってる余裕ないですし、興味もないでしょう。だから、僕ら一般人が理解できる形になってる時点で、それはもう「科学」とは違うものだ、ただの「おはなし」なんだってくらいの感覚でいたほうがいいと思います。

 

一般向けに翻訳する過程が問題(伝言ミス)

 さらに、メディアの取材を受けたり、政府の諮問を受けた専門家が、心ならずも「刑務所に行くんだよ」的な答をしたとして、次に問題になるのは、その受け手の理解力であり、その表現力です。

 まず理解力ですが、記者さんや官僚さんでもよく勉強しておられる人もいれば、そうでない人もいます。よく勉強しておられる人は、専門家の「苦渋の表現」のニュアンスを汲み取って理解してくれるだろうけど、そうでない人も多い。「そうか、悪いことをすると”絶対に”刑務所行きなんですね、よく分かりましたあ!」「あ、ちょ、ちょっと、、」って感じで早とちりする。

 そして、さらに、表現する過程でセンセーショナルに、誇大に言うわけですよ。「100%刑務所確定!」とかね。「専門家の○○先生にお話によると」とか書かれて、顔写真まで載せられて、もう本人にしてみたら、「やめてくれ〜!」って世界だと思いますよ。仲間内に恥ずかしいというか。

 だからといって、厳密に「いや刑務所に行くのは2%以下で、大多数は刑務所にいきません」と正確に答えたとしたら、また大問題になって、「日本ではどんなに悪いことをしても刑務所にいくことは”絶対に”ない!」「こんなことが許されていいのか?」とかいって、またセンセーショナルになるという。

 つまり、本来のクリアなはずの(非常に謙抑的な)情報が、第一に専門家が一般人に意訳する時点で大胆なノイズが入り込み、第二にそれを聞いて理解する時点でまた別のノイズが入り込み、第三にそれを一般に報道する時点でさらにノイズが入り込むわけです。そして、第4にその記事を中途半端に理解した人がまたノイズを入れて、「悪いことしたら「死刑」になるんだって?」とか変化し、第5にそれを聞いた人がさらにノイズを入れて「「絶対に」死刑になるらしいぞ」ってなって、、、以下延々繰り返すわけです。

 というわけで僕らのコロナの理解は、こんな感じなんだろうなーって思う訳ですよ。いたるところ伝言ゲーム化してて、本来の論文の趣旨からは外れまくってる可能性大です。

無意識的な歪曲

 これは簡単。人は自分が信じたいものを信じる、見たいものだけを見るという習性があることです。ご存知かと思いますが。自分にとって好ましいものだけが、認識の対象になり、また信ずべき対象になる。「はじめに結論ありき」で、理由は後付です。大脳生理学的にもそうらしいですね。

 あるいは特に心理的な理由(怖いもの見たさとか過度の心配性)があって、見たくないものを異様にクリアに発見するとか。蜘蛛が怖い人に限って、部屋の中の蜘蛛を異様に素早く発見する。全然気にしない人は興味もないから、全然気づかない。でも、そこに強いひっかかりのある人は、過敏に過剰に反応するし、認知作用も強化されます。

 これはもう地球の温暖化論議にせよ、原発論議にせよ、巷の健康法論議にせよ、なんでもそうで、最初にこうだと思ったら、あとはその補強材料になるものを探し、そうでないものは嘘だと決めつけるようになります。

 ただ、これはまだ罪が軽いです。もっと罪深いのが、意図的に歪曲する場合です。これがめちゃくちゃ多い。

意識的な歪曲

 これだけで本が一冊書けるし、過去に何百冊も出てると思います。まずよくあるのが、「専門的」「科学的」なことが政治的なプロパガンダに利用される場合です。これはもう「常套手段」ともいえるくらい普遍的な方法です。

 一方的に言うのも可哀想なので、弁護するなら、ある程度サイエンティフィックな根拠を示さないと、そもそも立論として成り立たないとか、単に自分の趣味で言ってるみたいに受け取られかねないので、どうしてもその種の科学的で専門的な所見を援用しなきゃいけないって部分はあると思います。

 それは分かるし、僕も「科学的」援用の全てがダメだと言ってるわけではない。ただ数ある見解の中から、なぜそれを一番信じるに値すると思ったのか?その根拠はなんなのか?について、聞かれたらちゃんと答えられるくらいにはしておくべきだと思います。そんなことは決まってる、専門家がそう言ってるんだから間違いないんだで押し切ろうとしてたら、けっこう怪しいです。そこは記者会見でのジャーナリストの腕の見せどころでもあるんですけど、ご存知のように日本の記者クラブ的な環境では、株主総会がシャンシャン総会になってるの同じなので期待できません。

専門家の習性 

 専門家の中では、いい意味での学者バカというか、純粋に知的追求をしてる人が多いんだろうなーとは思います。ただ、そうでない人も中にはいます。また、純粋にやろうとしても、そこまで出来ないという事情もあります。

 まず罪の軽いものからいくと、「学者としてメシを食う」という厳しい現実があります。何それ?というと、学内政治があり、大学内出世競争があるので、指導教授ほかに覚えがめでたくないといけない。指導教授のやり方とか結論が違うんじゃないかなとか思っても、そんなこと言えないという事情があるでしょう。

 あと、学者としてデビューするならそれなりに「手柄」がいるわけで、誰も知らない新知見を発表しないといけない。誰もが知ってることを追加実験で新たに確認してもあんまり注目されない。そこで未知の分野の研究をやるのはいいとしても、その研究成果をややもすると誇大に発表したり、報道されたりって場合があるのではないか。

 地味な社会・人文科学にでもそれはあって、いわゆる通説に逆らうように「新説」を打ち出さないと学者としては目立てないし、存在価値が薄らぐのですね。だもんで、どの点においても肯定説があったら、否定説もある筈です。法学でも、ほぼすべての論点において対立する説があります。大体、色の三元素みたいに肯定説・否定説・折衷説になるから、聞いたこともない論点が試験に出ても、その方式で論じていけば概ね合ってるとかいいます。

 コロナでいえば、感染してから発症するまでの潜伏期間がかなりバラツキがあり、最長で26日だっけな?というのがあるという研究報告もあったとか。でも、平均すれば5日くらいという話もあります。出典を書いておくとここですが、そのなかに「The average amount of time before symptoms start to show is five days, according to the Australian Department of Health」となっており、オーストラリアの厚生省によれば、平均5日だと。またWHOによる「1日から14日」と言ってます。現実の感じでいえば、大体5日経って大丈夫だったら半分くらいは大丈夫かなってことでしょう。分布曲線が示されてないのでわからないのですけど長くて14日、レアケースでもっと長いのがあるってことですが、それで平均5日というなら、数的には5日以内に出てくる人が半分以上いることになるでしょ。

 余談ですけど、感染防止策をやって結果が出るのは14日後とか書いてるのもありますが、オーストラリアの場合は実際には一週間内外ではっきり結果が出たし、よく考えたら14日のわけがないです。だって14日というのは最長ケースのことで、大事をみて14日アイソレートしましょうねとかいってるわけで、平均は14日ではない。マジョリティというか、アベレージは5日で、おそらミディアン(中間値)は5日よりも短いんじゃないかな。だから14日待つ必要はなく、4−5日くらいでかなり結果は見え始めるとおもいます。

 余談はさておき、学者新説の話です。この種の潜伏期間の最長記録!とか、物体の上のウィルスが感染可能なのは最長○日とかギネスブック系の研究ってやりやすいと思いますよ。なんせ分かりやすいし、話題になりやすい、だからマスコミに載りやすい。研究のしがいがあります。もし潜伏期間30日とかいうケースに出くわしたらそれだけで報告できるし、世界で有名になりますからね。次は35日という実験結果が出たら誇らしげに発表できる。それが1億分の1の確率であろうがなんであろうが。

 つまり、この種の功名心というのが常にあるだろうし、それは仕方のない部分もある。ただし、それとセンセーショナリズムのメディアと、何か情報を一定方向に統制したい人たち(政府とか)と化学反応を起こすと、独り歩きする恐れがあります。特にメディアは、ものすごいレアケースを、普通のケースのように煽って書く傾向があるように思うので、そこは要注意かと。

よくあるとほほなパターン

 罪が重いやつになってくると、完全に洗脳や情報統制レベルのもので、薬害エイズ訴訟の産医官の癒着体質もあるでしょう。これはどこの国でもあると思います。エイズじゃないけど、ちらっと薬害関係の訴訟で調べたことがあるんですけど、薬が承認されて世に広まるまで膨大な手間暇がかかります。実際に誰かに薬を飲んでもらって効くかどうか確かめるという人体実験があるんだけど(治験=治療臨床試験というけど)、フェーズ1(健康体)、2(患者)、3(副作用)とあって、きちんと治験同意書を取ったりしてやることになってるんだけど、現場では結構曖昧でしょ。「ちょっとお薬代えてみましょうね」とか言われて、一定期間の最初と最後にあれこれ検査をやられたら、その可能性があります。で、どっかの教授が製薬会社に頼まれて治験をやるんだけど、弟子筋の医者たちに「これお願いね」とか命令して、あとは現場でそれとなくって感じでしょ。

 で、その実施方法とか時期とかが胡散臭い場合がある。贔屓の製薬会社の開発に間に合わせるために他の会社の治験をやや遅らせるとかさ。薬害エイズでも、帝京大学の安部教授がミドリ十字社の開発に合わせるために、他の会社の治験時期について遅らせたという指摘もある。さらに出てきた検査結果でも、誰も見てないから容易に改竄できるわけですよ。副作用報告を握りつぶしたりはよくある話と言われます。でもって、カネですね。薬害エイズでも、安全とされるクリオ製剤は値引きゼロで病院にメリットないけど、ヤバいとされていた非加熱製剤は半額以上の値引きが常態化してたから、半値だとしても、患者ひとりにつき一ヶ月で135万円が薬価差益で病院が儲かるという事情もあって、多くの被害者をエイズ感染してしまい、殺してしまったという事情が訴えられてます。

 もーね、薬、ヤバイっすよ。軽く書いてますけど、内容はヘビーで、なんでもありの伏魔殿。もともと「薬九層倍」って言われるくらい、よくわからない業界であるのに加えて、昨今は国際レベルでいろいろあるでしょ?人類共有資産であるべきヒトゲノム情報をイチ私企業が独占しようとしたセレーラ社とか、バイオ一般まで広げれば、バイエル・モンサントへの世界的な批判(遺伝子組み換えとか除草剤グリホサートとか)、すべての食糧(種子、種苗)を私企業が完全に囲い込もうとして国家レベルで圧力かけて日本の種子、種苗法が改正になるとか、またそれに対して、儲かればなんでもいい金融ギャンブラーが膨大な資金を注ぎ込んでとか、もう無茶苦茶なんですよね。国内で治験がどうのなんて可愛いレベルで。だからコロナも終着駅がワクチンとかなるとイヤだなーと思ってるんですよね、個人的には。

 話を戻して、厚労省、製薬会社、医療現場の三者でいろいろあるわけですけど、しかしですね、もともと、これらが緊密な連携をとったり情報交換をするのは望ましいことでもあります。勝手にバラバラにやってたら無駄も多いし、そもそも何もできませんし。だから、合法と違法の境目がかなり難しいんですよね、こういうことって。専門家といえども、てかプロの専門家であろうとすれば、この種の生臭いシガラミから無縁でいるのは難しいでしょう。そういう巨大な絵図に飲み込まれて、言いたいことも言えないんじゃないかな。

 あと、語るだけアホらしいけど意外とバカにできないのは個人的な感情で、えらい先生になると、ライバルみたいな他の偉い先生がAと言ったら、意地でも反対にBと言ったりするという子供じみた部分もありますよね。まあ、そこまでわかりやすくないにせよ、気に食わない奴がなんか言ったら、なんかしらイチャモンつけないと気がすまないとか。

 その他、露骨に御用学者とか、御用評論家とか、御用芸人とか、御用ブロガーとか、御用、、、いくらでもいます。ギャラは高額なものから、Yahooなどに書き込みしたら1件50円という最底辺までさまざまでしょうけど、それらが一様に強調するのは「専門家がこういっている」「科学的に」というやつです。大体この種のフレーズが出てきたら、もうあとは読まなくてもいいと思ってます。それをいうなら出典を明らかにすべきであるし、その出典リンクがどっかの引用とかそのくらいだったら、その程度のレベルだってことですから。

 それと、言うまでもないけど、危機感ビジネスですね。だから、コロナに負けない健康食品を食べましょうとか、もう社会が崩壊するから貴金属を買いましょうとか、その種の話です。健康法については、正真正銘の医師資格のある人でも結構いい加減なことを言いますからねー。食うのしんどいのかなーって気もしますけど、それは弁護士にもいろいろいるなと思えば、業界的には分かる気もします。いろんな人がいますからね、肩書だけで鵜呑みにしたらダメよ。


15分ルールと飛沫感染のイメージ

 前フリが長くなっちゃったけど、じゃあ今の時点でコロナは、どういう事実になってるのかな?と個人的に興味深いところを書きます。

15分ルール

 なんか感染の危険を測る場合に、15分が一つの基準になるみたいです。
 ウィルスに感染している人と対面して、ちょろっと話したくらいでは、まず感染は起きず、だいたい対面して(face to face)15分未満だったら問題ないんだろうって話ですが、これ、日本ではあんまり広まってませんよね。オーストラリアでもそれほど広まってないです。なんでかな。

 まずこの仮説が合ってるかどうかですけど、最初はインドかどっかの新聞で読んで「え、そうなんだ」と思ってて、調べてみたら、灯台下暗しじゃないけど、オーストラリアの政府の広報にちゃんと書いてありました。

 いわゆる「カジュアル・コンタクト」という項目で、どっかで感染者が発見された場合、その人と何らかの関わりのある人で、どういう人はどうすべきって指針を書いたものです。「軽度接触者」とでも訳すべきかな。 Information for casual contacts of a confirmed caseというPDF広報です。

 ここにカジュアル・コンタクト者の定義があって、一つには、"you have had less than 15 minutes face-to-face contact in any setting with a confirmed case in the 24 hours period before the onset of their symptoms;”ということで、対面して話した人が感染者(として後でわかって)その人が症状を示しはじめた24時間前に15分以下対面していた人、だと。

 わかりにくいんだけど、(何も症状を示していない感染者に)15分以上対面してたらある程度の確度で感染が疑われるけど、15分以下だったらまあ感染の可能性は低いだろうということですよね。

 もう一つの定義は、”You have shared a closed space with a confirmed case for less than two hours in the 24 hours period before the onset of their symptoms”で、密室的な空間で2時間以下、感染者と一緒にいた人、です。これは対面ではなく、同じ場所に居たというだけなので、対面が15分に対して2時間と伸びてますが、2時間以下くらいだったら問題ないんじゃないか?ってことですよね。。

 で、カジュアルだとどうなるかというと、”Casual contacts do not need to be excluded from work or school while well. You must closely monitor your health and if you experience any symptoms you are advised to isolate yourself and contact your usual doctor, who will liaise with public health authorities to care for you”ということで、カジュアルの人は(感染可能性が低いからだと思われますが)、職場や学校でエクスクルード(排除)される必要はない=特に症状もなく元気であるなら(while well)そのままいつものように職場や学校に行って良いと。で、なんか症状が出てきたら早急にお医者さんに行って指示を仰いでねって。

 最近、オーストラリアでは、感染の経路をトレースするために、動きを監視するアプリをダウンロードしてくれって政府が呼びかけてます。これは賛否いろいろあるんだけど、それはそれとして、興味深いのは、このトラッキングアプリの構造で、GPS的追いかけではなく、他のアプリと「1.5メートル以内&15分以上」接しているとそこで反応するようにプラグラミングされているとのことです(Senior cyber experts looking at app security)。逆に言えば、ここでも15分という数字が出てくるので、一応の基準になるのかと思われます。

 もちろんそれが合ってるかどうかはわかりませんよー。ただね、それを一つの基準とするなら、それなりの根拠はあるんだろうし、そしてなんでそんな基準が出てくるのかをさらに考えます。

感染メカニズムがよくわからん

 感染経路は、飛沫感染(唾液)と接触感染(ドアノブとか)と言われていますよね。でも、この時点でもう既によくわからないんですけど、、、、

 いくつか疑問があるんだけど、ネットで調べてみてもあんまり書いてくれていない。簡単なところでは、目からの感染です。ウィルスの付着した手で目(の周囲)を触って、目の粘膜(結膜らしいけど)から感染が生じる。飛沫が目に付着した場合も同じ。でも、目の粘膜からどうやって気道や肺までウィルスが到達するの?という疑問があります。たしかウィルスって自分では動けないし、そのあたりの「移動」のメカニズムがわからん。また粘膜で感染するなら、HIVのように性器から感染することもありうるだろうし、そこからウィルスが「移動」することもありうる(でも性器感染はほとんど書かれてないから、無いのだろう)。あと粘膜だとなんでOKなのかとか、外皮で覆われてないからというなら傷口(虫さされを掻いて血が出てるような場所)からも感染しそうだけど、それもあんまり書いてないな。ただまあ、これは感染学とか分子生物学とか基礎からやらんとわからんかも、です。

飛沫・飛沫核・エアゾールの定義や内容がバラバラすぎる件

 次に大きな疑問は、飛沫感染(とエアロゾル感染)の意味内容です。
 Droplets(飛沫=要するに唾液の滴)がcough(咳)とsneeze(くしゃみ)によって、ビューンと空中を飛んできて、それが口鼻目に付着して、それらの粘膜から感染する、ということらしいです。大体そういう書き方をしているところが多い。

 非常にわかりやすいんですけど、でも何かそれ違うんじゃない?って気がしてくるのですよ。僕ら素人は、「咳やクシャミで唾液の「しぶき」が飛び散って」というと、なんか肉眼で見えるくらいの漫画的なイメージをします。あなたは違うかもしれないけど、僕のイメージではそう。「飛沫」「咳・くしゃみ=強く爆発的な空気の放射」だと。

 でも、よく考えてみると、他人のくしゃみの飛沫をまともに顔面に受けるような経験は、これまで生きててそんなに無いですし、ましてやこんなデリケートな時期で、それってそんなに起こりうることなのか?という。だから、そうではなく、小さなしぶき(霧の一粒みたいな)が空中を「浮遊」してて、それで吸い込むってことなんじゃないか?だから、「浮遊」であって「飛沫」という語感とはちょっと違う。

 調べていくと結構用語の使い方がメチャクチャなんですよね。飛沫とエアゾールは普通違うんだけど、飛沫=エアゾールにしてる人もいるし、大きさの区別もかなりまちまちだし、滞空時間や飛行距離も違う。

 たとえば、Fridayに載ってる記事、会話5分で3千の飛沫! 新型コロナ予防にメガネが重要なワケは、「WHOが2009年に発表したレポートによると、飛沫の定義は、一般に直径5μmよりも大きな水滴とされ、飛沫の落下速度は、無風状態で30〜80cm/秒なので、立った状態の成人の口から出た飛沫が地面に落ちるまでの飛距離は2〜5m程度となる」とか書いてます。

 でもね、そのWHO2009年のレポートの出典が明らかになってないのですが、同じWHOのCOVID19のFAQでは、How does COVID-19Spreadの項目で "People can also catch COVID-19 if they breathe in droplets from a person with COVID-19 who coughs out or exhales droplets. This is why it is important to stay more than 1 meter (3 feet) away from a person who is sick”と書いてます。大事なのは2点で、cough/sneeze だけではなく、exhale(呼気)が入ってること、そして1メートルとしていることです。また次のProtection measures for everyoneの項目では、"Maintain at least 1 metre (3 feet) distance between yourself and anyone who is coughing or sneezing"となってて、ここでも1メートルです。

 あれ?2−5メートルじゃないじゃん?って思うのですよね。このフライデーの記事を書いたのは藤岡さんという方で、専門家として山本医師が紹介されてます。ただし、山本医師が直接出てくるのは花粉症と感染に関する部分で、2メートル云々は山本医師の言葉なのか記者さんがご自身でお調べになったことか、それはわかりません。記事全体の趣旨は、目からの感染もありうるし、マスクよりも目のプロテクトが大事なのでは?ということです。その説明の一環として飛沫、5μm、2〜5メートルという話がでてくる。山本医師はロート製薬健康推進アドバイザーでもあるらしいので、目関連の人脈で話を聞いたのかも知れませんけど。

 でね、大きさなんですけど、アメリカのNational Center for Biotechnology Informationで、Natural Ventilation for Infection Control in Health-Care SettingsのなかのAnnex C Respiratory dropletsのいろいろな定義が書いてあるっぽいんですが、そこによると、”Currently, the term droplet is often taken to refer to droplets >5μm in diameter that fall rapidly to the ground under gravity, and therefore are transmitted only over a limited distance (e.g. >1 m). In contrast, the term droplet nuclei refers to droplets <5 μm in diameter that can remain suspended in air for significant periods of time, allowing them to be transmitted over distances >1 m(Stetzenbach, Buttner Cruz, 2004; Wong Leung, 2004)”

 となってまして、5μm(マイクロメートル、1ミリの千分の1)を境に、それよりでかいのは飛沫(droplet)で、5μmより小さいのは飛沫「核」(droplet nuclei=ニュークリアイ)。飛沫は大きいので、重力を影響を受けてすぐに下に落ちるし、飛ぶ距離は限られている(1メートルとか)。しかし小さな飛沫核は、小さいので重力の影響を受けにくく、長い時間滞空するし、それゆえに距離も1メートル以上に長くなりうる(※じっと留まってるかもしれないし、風に流されて遠くまで行くかもってことなんだろうな)。

 一方、ランダムに調べまくってたときに新型コロナウイルスの感染経路と覚えておくべき基礎知識というのがあって、「飛沫を吸い込んでしまう最大の範囲は2メートルであり」とここでは2メートル説で、且つ「日本エアロゾル学会が発表する「エアロゾルとは」によれば、エアロゾルを以下のように定義しています。『気体中に浮遊する微小な液体または固体の粒子と周囲の気体の混合体をエアロゾル(aerosol)と言います。』※粒径は0.001μm〜100μm程度」「論文や研究結果によっては、この粒子を吸い込み感染することをエアロゾル感染と表現している可能性がありますが、そもそもエアロゾル感染の定義は世界では統一されておらず、さらに現時点では新型コロナウイルスのエアロゾル感染およびに空気感染は確認されていません」となってます。

 いやあ、混乱しますねー(笑)。まあエアロゾル一般を言ってるんでしょうけど、0.001μm〜100μmという範囲でいうなら、5μmとかいってる飛沫も全部エアロゾルになってしまいますね。そうなの?

 ちなみに100μmとか2メートルとかですけど、先のNCBIの定義ページに、先駆者らしいWells氏の1934年の研究が言及されており(C.2.Droplet evaporation)おそらくこのあたりが2メートル云々の根拠かもしれません(2009年WHOにも援用されているし)、でもこれ文脈が全然違うと思うんですけど。

 誤解をさけるためにべったと長く引用しますが(読まんでもいいよ)” Wells (1934) was able to identify the difference between disease transmission via large droplets and by airborne routes. Wells found that, under normal air conditions, droplets smaller than 100 μm in diameter would completely dry out before falling approximately 2 m to the ground. This finding allowed the establishment of the theory of droplets and droplet nuclei transmission depending on the size of the infected droplet. The Wells evaporation-falling curve of droplets (see Figure C.2) is important in understanding airborne transmission and transmission by large droplets. Wells' study also demonstrated that droplets could transform into droplet nuclei by evaporation.”となってます。

 この研究の主眼は飛散したDropletが空中にある間に「蒸発」する影響です。大粒の飛沫でも蒸発して小さくなるから滞空時間や飛距離が長くなることもありうる。添付されているグラフを見ると170μm以下の飛沫の場合は、2メートル先の地面に付く前に蒸発してしまうし、20μm以下だったら0.1秒以内に蒸発するみたい。いずれにせよ飛沫の距離の定義というよりは、蒸発の影響もあるよってことを言いたいだけだと思うんですけどね。てかウィルスは乾燥するとダメなんで、マックス2メートルもあれば大体乾燥しちゃうから大丈夫だよって意味なんじゃないかな(あるいはここ参照)。だから「2メートル飛ぶ」とかは別に言ってなくて、文脈が違う気がするんですけどね。

 まあ、細かい話はどうでもいいです。言いたいのは、こんな感じで細かく調べていくとよくわからなくなるんですよねってことです。誰が正しいとかいうことじゃなくて、議論の土俵、定義や、文脈が人それぞれなんで、一概にいえないなってことです。

結局、こういうこと?


 ただ、そのあたりをばーっと見ていって思うのは、(1)1メートルとか2メートルとかいうのも、結構気分、「こんなもんかな」で言ってる感じがすること。WHOは1メートルといい、オーストラリアはとりあえず1.5メートルのディスタンスをいい、日本語文献だとなんか知らんけど2メートル(5も)とか長めだけど、ようわからんですよね。少なくとも世界が満場一致で決めてるわけではないですよ。

 (2)飛沫とかエアボーンとか用語の混乱はあるけど、僕らのイメージでいえば、くしゃみや咳というわかりやすいことよりも、普通の「喋り」「呼吸」とかの方が大きいんじゃないかってことです。

 だいたい、漫画のように鼻に胡椒をふりかけて、「ふぁ、ふぁ、ふわっくしょ〜〜んん!」という大くしゃみ、最後におっちゃんが「え〜い、チクショー!」って相の手がはいるような芸術的なクシャミなんて、そうそう公衆の面前ではお目にかかれないと思います。西欧圏ではエチケット的にあかんし、日本でもそこまで豪快なオヤジ(おばちゃん)っていまどき居るのか?そこら中に?って気もするんですよ。それに、そんな肉眼で見えるような唾のしぶきが2メートルとか飛ぶか?という。意識的にペッと飛ばそうと思ってもそこまで飛ばないような気がする。

 そもそも5μmってのが途方もなく小さいです。肉眼でなんか見えるわけないでしょ。1ミリの千分の1だよ。1μm程度でバクテリア(細菌)の大きさですよ(ウィルスはさらにその10の1くらい)。大体赤血球が7-8μmだっていうんだから、5μmがもし見えたらあなたは赤血球を肉眼で見えることになる。そんな馬鹿なです。肉眼で見えるのは、1ミリの10分の1の100μmです。ということはですね、飛沫、飛沫核、エアゾルいずれにせよ5μmとかいう単位は、肉眼で見る範囲よりも遥かに小さいということです。素朴な日常的な感覚に即して言えば、唾とか水滴とかいうよりも、単に「空気」そのものと思ったほうが近いんじゃないか。

 つまり何となく僕らが思うような「咳(くしゃみ)で唾が飛んできて」的なイメージではないです。むしろ、吸いかけのタバコの副流煙を吸い込むような、非常に微細なモノが空中を浮遊していて、「呼吸のときにそれらを吸い込む」というイメージの方が近いと思います。

 だからWHOも咳やくしゃみに限定せずにexhale(呼気)も入れているのでしょうし、オーストラリアの15分ルールも、「症状が出る24時間前に」と言っている(咳、くしゃみがない)。多分、15分以上対面してると、普通の呼吸(喋り)程度の強さでもだんだん濃度が高くなってきて、感染しうるだけの量に達してくるのではないかな。

 ちなみに咳やくしゃみがフィーチャーされるのは、呼気が激しく、唾の推進力が強いとか量が多いとかいうよりも、感染している上気道(ないし肺)あたりの空気や唾液が強く押し出されるから、それもあるんでしょうけどね。つまりウィルス濃度の高い空気(微細水滴)を撒き散らす可能性があるってことで。

 その意味で、マスクの是非についても、オーストラリアでは特にマスクは推奨されておらず(実はWHOも健康な人にしろとは一度も言ってない=Do you need to wear a mask to protect yourself from the coronavirus?)、咳をするときは肘を曲げてしろって形にしてるのは、マスクで防げるのは比較的大粒なやつで、最初からすごく小さかったら素通ししてきちゃうし、普通の呼気にはほぼ無意味ってこともあるでしょう。咳による拡散を止めるなら肘などで完全ブロックしちゃった方がいいんだろう。何度もやってると肘のあたりがベトベトになるけど、そもそもそんな奴は外を歩くなってことなんでしょうね。


 いやあ、ごめんねー、くどくて。
 しつこく書いてる理由は、僕が原理を正確に知りたいからです。
 原理を知れば怖がる領域も限定されていきます。怖がるというのは「知らない」からだと思うので。例えば、上の原理を知れば、咳もなにもしておらず、普通に健康そうな人と10分話すくらいだったらまず心配する必要なんかないってことでしょう。あるいは、たとえ15分以上対面して話し込んでいても、台風が到来している潮岬の風速40メートルで喋ってるんだったら、呼気なんかびゅんびゅんぶっちぎられていくだろうから大丈夫なんじゃないかとか(笑)、同じ話すにしても室内の空気対流に気を使ったほうがいいんじゃないか、だからときどきガンガンに扇風機廻すとか。車のなかでも定期的に窓を全開にして強制換気するとか。そういうことが知りたいんですね。

 日本の満員電車が意外と感染の温床になってない感じなのも、多分、数分ごとに駅に着いてドッと人が入れ替わり、外気が入ってきて換気がなされるからしれない。もしこの仮説が正しいなら、満員電車に乗っているときに、意識的に場所を変えた方がいいかも、です。そしてヤバいのは、満員の山手線ではなく、むしろ同じ席に長時間座っている新幹線などではないか。

 宴会とかで感染が多いのも、同じ場所にずっといるからだと思います。

 あと、ふと思ったのは「笑い」というのは咳やくしゃみに近いかそれ以上ということです。笑うときって、普通にしゃべるときよりも強く、爆発的に空気を押し出しますし、くしゃみは単発的だけど、笑いは持続的な場合もあるから、より強く発散するのかもしれません。宴会で盛り上がって、ぎゃはははは!とかやってるときは、確かにすごい撒き散らしてる感じはしますね。

 カフェやレストランが禁止されるのも、対面してる人だけではなく、空気の滞留を考えたら周囲の席の人の分が流れてくる可能性もあり、しかも15分以上ずっと固定的な場にいるからだと。


感染検査と数値の政治利用

 感染数を上げたかったら検査数を上げればいいってことは前回のエッセイで書きました。簡単ですよね。でも、これどんどん応用できますよ。

 まず感染者を減らしたかったら、逆にどんどん検査数を減らしていけばいい。いかにも何かが効果があったかのように演出できます。

 さらに検査数だけではなく、誰を検査するか?という対象によってイメージは変わります。イタリアの致死率が異様に高いと話題になりましたが、そのうちイタリアの死亡者の99%は既に病気をもってる人であり、しかも過半数以上が「3つ以上の病気を持ってる人」であったという事実があります(99% of Those Who Died From Virus Had Other Illness, Italy Says

 ちょっとこれ偏り過ぎじゃないの?という気がするのですが、一説によると、意図的にイタリア政府がそうしていると。なんでそんな悲惨演出をするの?というと、EUでコロナ債を発行するとかいう話があって、こんなに大変なんだから援助してくれって政治的プッシュをする意図だと。まあ、イタリアとかスペインとかコロナがなくても南部方面は慢性赤字でEUおねだり系、ドイツを筆頭に北部系はガチガチ堅実でそんなのダメ、ちゃんと節約しなさい系で、「EUのいつもの風景」なんだろうけど、そう読み解けるという話がありました。

 本当かどうか知らないけど、確かにしんどそうな人だけ選んで検査していけば、死亡率はすごい高くなりますよね。あと死んだ後に検査してコロナだと分かったというケースもあるんだけど、あれも検査するかどうかは胸先三寸で決められますからね。だいたいどんな病気であれ死ぬ寸前には免疫も落ちまくっているだろうし、院内感染もするだろうし(したところでもう結果に大差ないとか)。それを死んだあとに検査すればコロナ陽性が増えます。

 ということは、逆に事態の改善を演出したかったら、健康そうな人をどんどん検査すればいいです。一応念の為とか、徹底的にスクリーニングとかいえば大義名分はたちますから。そうすれば、感染者は多少増えるかもしれないけど、検査数に対する感染者数は減っていきます。

 本当のことをいえば、全数検査(国民全員、ないし一定のエリアについては無差別に全員検査)しないと、それも定期的にやり続けないと、実像なんか浮かび上がってこないと思います。

 どこの、誰を、どういう基準で、検査したのかが今ひとつ不明瞭なまま、結果の感染者数や死亡者数だけ言われたって、わからんです。いや、もう、ほんとに無意味だと思うよ。

 ただ、その「わからん」「意味ない」ということが、意外にもあまり浸透してないで、単に数値だけが独り歩きしてます。マスコミも楽だから(右から左に伝言記事で済む)そればっかだし。相変わらず国内も、世界もそうで、ええ加減にせえって気持ちもありますね。だんだん懐疑的になってくる人も増えてくるでしょう。てか、個人的に聞くと懐疑的な人も多いですしね。


出口戦略〜ワクチンか集団免疫か

 で、結局どうなるの?ですけど、論理的には、大多数が抗体を持つという集団免疫か、ワクチンかってことになると思います。まあ、この2つは二者択一というよりは両立もしえます。ワクチンだって抗体を作るための手段ですからね。全員にワクチン打たなくたって、一定人数増えてくれば集団免疫と同じ効果になりますから。要は、抗体を得るために、天然物(本物のコロナウィルス)を使うか、人工物(ワクチン)を使うかの差です。

 それ以外にウイルス完全抹殺という方向性もあり、小さくて人口の小さいエリアや国だったら可能性ありますし、容易かもしれないけど、世界全体で完全抹殺は出来ないでしょう。かといって今の文化程度を維持しようと思えば完全鎖国は貫けないし、実質的にはワクチン待ち系になると思います。

 現実的には、一旦沈静化させたあとに徐々に規制を緩めて、どんだけ感染が増えるかを少しづつやっていき、ワクチンを待つということになりそうなんだけど、でも、それについて現状には懸念と疑問があります。

 ひとつはワクチンがそこまで有効なのかという点です。今世界中の研究機関や製薬会社が大競争をしてワクチン開発をしてます。一番乗り、というか採用されれば大儲けだし、栄誉だし、ほとんどゴールドラッシュです。そこに不安があるのですね。

ワクチンとか製薬とか

 僕自身はワクチンそのものにアレルギーはないのですが、ワクチンを取り巻く政治経済は結構ブラックだなーと思ってます。例えば、有名な子宮頸がんワクチン事件があり、実は未だに訴訟やってます。東京、名古屋、大阪、九州で、14-16回口頭弁論くらいの進行状況。弁護団のページに詳しく書いてますが、あのー弁護士的にいうと、この種の訴訟を手掛けるのは、基本ボランティア、というか持ち出し赤字が凄いです。儲かるなんてことはまず無いし、解決するまで数千時間に及ぶ膨大な手間暇考えたら数百数千万レベルの赤字だといっていいです。それでもやるのは、社会的に意味もあることをやりたいという職業本能的な部分、また非常に自分の勉強にもなる。マスコミや政府との折衝のやりかた、駆け引きとか大ベテランから学べます。だいたい発端は中心人物的な人がたまたま市役所の無料法律相談とかで話を聞いて、これは捨てておけないと思い、一人でやるのは大変すぎるから同期の仲間に話しかけて増えていく感じです。実働は若手で、対外的な顔として大先生にお願いするって感じね。それだけに、はじめに内容はかなり精査します。かなり批判的に(自分たちに不利な方向に)見て、それでもやる意味あると思えないとやらないです。

 で、この事件ですけど、ひたすらワクチン怖いをいってるわけじゃないです。当たり前ですけど。ワクチンをめぐる行政におかしな点があったと言ってる。このワクチンは子宮頸がんになるHPVという原因ウィルスに効くということなんだけど、このウィルスに感染しても発病する確率は非常に低く、かつ発病しても検診によって発見し低負担で治せるもので、そもそもワクチンの存在理由そのものが薄いという状況。そのかわり副作用はいろいろ報告されていた。だけど、製薬会社がワクチン推進の専門家団体に巨額の寄付をし、大々的に宣伝し、異様に短期に公的に公費助成で接種勧奨がなされ、300万人を超える中高生女子に接種され、結果として一部の人に副作用が生じたという案件。被害は「激しい頭痛、関節痛、しびれ、不随意運動、歩行失調、脱力、睡眠障害、光過敏、視野欠損、嗅覚や味覚の障害、全身倦怠、無月経、学習障害や記憶障害などの症状が、一人に複数出現。時の経過とともに変化したり重層化する」「車椅子が必要となった、視野が欠損した、簡単な九九もできず、母親の顔さえ分からなくなった」など。

 ま、これは原告側の主張なのでそれが本当かどうかはわかりませんが(まあ弁護団組んでる以上、それなりの確証はあるんだろうけど)、国の対応は積極的な勧奨はしなくなったものの、未だにワクチンはリストにあるし、被害との因果関係はないとの主張。製薬会社にいたっては勧奨再開を要望してまだまだ売る気満々です。もともと副作用とか被害の因果関係なんか難しいし、そんなもんがクリアに分かるくらいだったら最初からわかってるでしょうし、膨大な時間と症例を研究して明らかにしていくしかないのでしょう。そしてこのように新しい症例になると、どこの医者にいってもマトモに取り合ってもらえず、ただの心因性の一言で済ませられたりって感じで、まるでセカンドレイプと同じ構造で、被害者が救われなさすぎ。日本人は穏便を好み、裁判沙汰が嫌いなので、普通の人が訴訟にするというのはよっぽどのことですよ。そこまで追い込まれる。

 前回も書いたけど、日本という国は、どんな理由であれ一回被害にあった個人をなかなか救ってくれない国ですから、そうなったらかなり頑張らないといけない。らい病予防法という法律があって、癩病患者を合理的な根拠もなく強制隔離と人生破壊をしてきた。らい病予防法違憲判決(2001年)でそう認定され、その期間は不合理が明白になった1960年から廃止された1996年までなんと延々36年にも及びます。判決まで41年。これだって、ときの小泉首相が一審判決の段階で控訴をとりやめ、正式に謝罪すべきという判断に出たから最短で済んだ(この点は素直に英断だと思う)。このようにうまく勝訴できて、たまたまトップが話がわかる人だったという得難いラッキーに恵まれてさえ、30-40年は救われないというシステムになってます。

 さて、長々書いたのは、ワクチンには(薬剤一般そうだけど)、思わぬ副作用があるかもしれないので、認可にあたっても慎重に吟味し、その後も慎重な観察を続け、おかしいと思ったら監督者(通常は国)の責任で止めないといけないんだけど、薬害エイズもそうだし、なかなかそうならない。ちゃんとやってくれてる事案も沢山あるとは思うのだけど、常に正しいとは限らないことです。これは政治レベルですが、医学レベルでも何がどうなるかはある意味博打的な部分はあります。

 で、コロナのワクチンですけど、こんな世界中が目の色変えて大競争やってるときに、「慎重に観察して」なんて余裕ぶっこいていられるんだろうか?という素朴な疑問がひとつ。かなり見切り発車でやっちゃうんじゃなかろか。次に、承認されれば莫大な利権が転がり込むんだけど、それに関して一切の不正がなくやれるのか?という問題が2つ目。さらにそれで何らかの被害を受けた場合、ちゃんと救済してくれるのだろうか?というのが三点目です。

 それらいずれについても、僕個人の意見としては、あんまり楽観できないんじゃないかなーと思うのですよね。でもこのままいったらワクチンしか無いかの如きなりゆきでしょ?もう強制的に、あるいは事実上強制に近い形でやらされそうで(打たないと働けないとか、飛行機に乗れないから日本に帰れないとか)、それでいいのか?と。それにアジア系は総じて薬について割と批判的な面もあるのですが(漢方的東洋的発想があるからかな)、西欧系は僕らから見てると薬やワクチン絶対的な部分があって、そんなに信じていいのかよ?って危うさも感じます。

 そんな分けのわからないものを打たれるくらいなら、「天然もの」で抗体作りたいよって思ったりもするのですよね。どっちもギャンブルで、勝率査定が難しいなら、ならあとは個々人の趣味だろという。ワクチンってある意味、究極の「遺伝子組み換え」ですしね(組み替えないと弱毒化しないんだから)。

ところで抗体検査はどうなったのか

 これに関連して思うのが、いっとき話題になった抗体検査(antibody)です。検索しても3月時点では沢山記事があったのに、4月以降になるとばたっと減っている。てか一転してディスる記事が増えている。なんで?と。

 抗体検査が重要なのは、(1)実際にどのくらい感染が広がっているのか調べるツールとして有用なこと、(2)経済の部分的再開に非常に有用なことです。(1)は、低予算ですぐ結果のでる検査なので、PCRなどよりも広く実施できる。PCRは今ウィルスを持っているかどうかの検査であって、過去に持っていたけど克服して大丈夫って人は感知できない。

 これは、感染しても全く無症状のまま進行して終わってしまった人がどのくらいいるのか?を知るのに大事なことです。今は、症状がシビアになった人を起点にそこから広げていって検査してるんですけど、最初から全く無症状な人が、他の人に感染させ、それもまた無症状(ないし軽い風邪程度)でってかたちで広がってて、最後にはウィルスが絶滅したケースもあると思います(誰に感染してもダメで行き場がなくなった)。

 感染者の本当の数や規模なんかわからないんじゃないか?というのは、こういう無症状ケースも多々あるからです。だいたい感染しても8割が軽症で済むといいますが、完全無症状というのがどのくらいいるのかは、検査のしようがない(誰を検査していいのか、そのきっかけが乏しい)から結局わからん。もしかしたらもの凄い人が既に感染して抗体を持ってるかもしれないし、逆に全然広がってなかったのかも知れないし。前者の場合は思ったよりも感染力が高いけど重篤率(危険性)は低かったってことになるし、後者の場合、重篤率は高いけど感染力そのものは大したことがなかったってことになります。実際、Coronavirus Fatality Rate Lower than Expected, Close to Flu’s 0.1%(普通のインフルと同じ程度の0.1%でしかない)というレポートもあったりもするのですよ。

 だもんで、この感染したけど無症状(ないし普通の軽い風邪くらい)で終わってしまった人がいったいどのくらいいるのか?これが分からない限り、母数がわからないので、コロナの致死性・危険性って語れないと思うわけですよ。ヤバそうな重篤患者メインで見ていけば、先程のイタリアの例のように致死性はすごく高くなるけど、こんなの検査の仕方一つですからね。

 だったら抗体検査をすればいいじゃんって思うんですけどね。なんか知らんけど、やらないよね。オーストラリアも乗り気じゃないしね。どうしてなのかなー?また、コロナはインフルよりもずっと危険とかいう主張も、あんまり根拠がないと思いますよ。だって、重篤者ベースで検査をやり、無症状・軽症をミスってる可能性があるんだから、どうしたって危険度高めになるのは当たり前の話。

 結局「わからないものはわからない」んですよ。わからないことを、あたかも分かったかのように言うのはおかしいでしょう。

 抗体検査のもう一つの効用は、経済復活の重要なツールになるという点です。どっかの記事で、ウォール街のビニオネラが何でさっさとやらんのかと怒ってたけど(笑)、やって抗体ありだったらイミューン(免疫)パスポートを発行して、ワッペンでもなんでも掲げて、接客業でもなんでも出来るようにしたらいいじゃないかと。今のままでは、職場に復帰出来る人もできなくしてるし、必要以上に経済を傷つけているだけで愚の骨頂だと。

 この種の主張をする人はどっちかというとインディペンデント系(つまり僕のように普通の個人で、どこの誰にもシガラミがない人)が多く、マスコミとか国とか組織になると妙に歯切れ悪いんですよね。

 で、最近になると、前述のとおり抗体検査は信用できないキャンペーンみたいなのが始まったのか、WHO unsure antibodies protect against COVID-19, as countries roll out coronavirus testingで、既にどんどん抗体検査を実施してる国もある反面、WHOは効果があるかどうは不明であると言ってます。ブレーキかけてるなあって。

 ただね、この種の論拠もわかるんだけど、今ひとつ説得的ではないんですよ。
 まず検査の正確性に問題があるってことだけど、それはどんな検査だって同じことで、今のPCRでも偽陰性・陽性が多いし、30%くらいミスってるという説もある。それでもやるしかないからやっている。つまり正確性と必要性とを比べて論議しないと意味ないのであって、単に「完全である」「確証がない」というのは理由になってないと思うのですね。

 あとウィルスが多様化して一つの抗体で済むのかどうかという医学論争があります。大体今の時点でコロナウィルスは3つくらいに別れているという説、もっといろいろあるという説があるみたいだけど、これも難しいですよね。だいたいどこまでが変種という種の領域を超えるか、どこまでが個性なのか、です。僕ら人間だって全員が同じDNAじゃないですからね(だったら皆同じクローンになる)。だもんで、幾つかに別れたとしてもだいたい根っこが一緒だから似たようなもんだという話も多いです。欧州にいってるのは非常に致死率が高い危険な変種とかいう説も日本ではよく聞くけど、それ出典どこですかね?見つからなかったんですよね、そういうレポート。

 ただね、ウィルスの変種と抗体の限界性を言い出すと、それってもろにワクチンにもかぶってくるんですよね。曰く、その抗体が的確にコロナだけに反応するとは限らないとか、コロナのなかでも反応するのとしないのとがあるかもしれないとか、抗体そのものの賞味期限みたいなものがあるんじゃないかとか、ウィルスの多様性、それと抗体の安定性や機能性に対する疑問です。だけど、そんなこと言ってたらさ、ワクチンだって同じことじゃないですか。てか、ワクチンは、本物のコロナに改変を加えて無毒化したり弱体化したもので、それを人体に与えて抗体を作らせるものでしょ?どう考えても、本物のコロナウィルスをもとに作った抗体よりは、誤作動が多くなりそうな気がするんですけど、そこはどうなの?と。

 もっといえば、そんなこと言い出したらどんな対応策もありえないってことになりますよね。だったらワクチン待ってたって無意味、ゴールなんか無いってことになるでしょ。でも、そのへんが曖昧なんですよね。当然語られるべき話だと思うのですけど語られてない。この世界的に一斉に風向きが変わってる感じが「胡散臭い」んですよね。

 冒頭の事実認定のメソッドのなかに、「当然語られるべきことが語られてない場合、そこにはなにか意味がある」というのがあります。

 そんなに早く規制を解除されたら困るわけ?経済崩壊をさせたいのかな。それとも何が何でもワクチンなわけ、どうして?

 あとは、抗体パスポートを認めたらどうなるか?という予想される社会の混乱。これが一番リアリスティックな理由かもしれないけど。今は日本に限らず、世界的に(先進国は)若年層がワリを食ってる時代で、今回の規制によって一番被害を受けているのは、カジュアルとかフリランサーの多い若年層です。オーストラリアの手厚いJobkeeperでさえ、条件によってこぼれてしまう。反面、コロナによる若年層の被害は非常に少ない。日本では、一昨日くらいに確認した時点では30歳未満で死んでるのは一人もいない。一人くらい(呼吸器系疾患をもっていて)被害にあってそうなんだけど、それでもいない。そうなると一番大丈夫な連中が一番手足をもがれて生活破壊を受けてるわけで、納得いかないんじゃないか、その憤懣や鬱屈は結構あると思う。免疫パスポートを認めたら、皆こぞって感染したがってしまうし、もしかしたら闇ルートでワクチンでない「本物」を売るようなブラックマーケットが出来てしまうかも知れない。てか、多分そうなるかも。

 そういう動きを抑える自信が、どの国の指導層にも無いんじゃないか。これはこれまで放置同然にしていた世代間不公平のツケが形を変えて出てきているともいえ、コロナがあろうが無かろうが、いずれどっかでは何かの形で是正(ないし決壊)するのではないかしらん。


 一方、自分のところは早々に処置を終えて、徐々に経済復興にエンジンがかかってきている中国の存在があります。せっせと他の国に援助したりしてるけど、このままワクチン待ってて12ヶ月とか18ヶ月とか(安全性を重んじれば数年とか)、経済崩壊が進ませていくと、未来の時点での彼我の経済力の差はどうしようもなくなってきて、世界はもう中国の言いなりになるんじゃないの?という懸念もあります。経済封鎖が続いて、疲弊しまくって、二束三文におちた国内企業を片端から買収されたり、札びらで頬をひっぱたくように政府そのものが買われてしまったりという。今までさんざん先進国がやってきたことですけどね。

 トランプが狂ったように”自由化”とかいって、早期の規制解除を言うのも、そのあたりの思惑があるのかもしれないです。ワクチンなんか待ってる時間的余裕がないなら、もう意を決して、いくら被害があろうとも早く川を渡ってしまった方が結局一番被害は少ない、うじうじ躊躇ってる分被害が大きくなるという発想。戦争で目指す敵陣地にむかって全員突撃をやってるようなもので、その過程で相当数の味方が撃ち殺されるんだけど、どれだけ被害に遭おうとが川を渡りきったら勝ち。とはいうものの、あのおっさんのことだから、それすらもブラフで、とっくに中国とは話がついてるのかもしれないです。そんな気もする今日このごろですが、こっから先は藪の中です。

 さて、冒頭の科学の話から、最後は政治の話になるわけですが、このように同じ問題が非常に多くの視点からの影響を受けており、もう渾然一体のゴチャ混ぜになり、それが時として「変な説明」になってみたりもしている。そのあたりの論理一貫しないあたりが、神学論争っぽいのですね。なにが異端で何が正統か、世界史ででてくる「なんたら公会議」で○○派は異端になりましたみたいな、理屈を言ってるようでその実はただの権力闘争だったり我欲の衝突であったり。

 ただゴチャ混ぜ神学であれなんであれ、インテグリティ(統合性)というのは大事だと思います。日本のメディアや言説で問題なのはココで、経済被害を言うときはこんなにひどいといい、感染防止が急務であると叫ぶときはそればっかで、その関連性が意識されてない。感染防止を徹底とかいうなら、その分経済はグチャグチャになってこれからも経済破綻して悲惨になる人が増える可能性が高いわけで、それを踏まえてモノを言うべき。つまり「多少中小企業が地獄に叩き落されて、首括る人が出てくるだろうけど、しかしやむを得ない」としっかり言うべきでしょ。これどっちを主張しても、誰かを見殺しにするわけで、その苦しさこそが正にこのコロナ問題の本質でしょ?そうやって統合的に物事をみるべきなのに、それをしない。インテグリティがまったくない。ライトスタンドに行ったら巨人頑張れ、レフトスタンドに行ったら阪神頑張れって言ってるだけのお調子者でしかなく、そこはもう神学ですらないと思います。







文責:田村


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