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Essay 928:正義と感情と人格攻撃

〜コロナ喧嘩の不毛〜人間関係が壊れるだけ


2020年04月06日
写真は、ただの雲です。でもなにやらテロかなんかで爆発しているかのような形で、最初に見たときは、え?なに?って思った。


 今回のお題は「正しい」とはなにか?僕らが何かを「良い/悪い」と判断する本当の根拠、その隠された正体は何なのか?という点です。なんか法哲学や倫理学みたいな話なんですけど(てか、もろにそうなんだが)、学術的にやりきる力量もないし、やったところで面白くないので、気楽に思うことを書きます。気楽に読んでください。

 今回はちょっとコロナから離れます。が、全く離れるわけではないのです。これまでも、そしてこれからも、感染防止(健康)を取るか経済維持(暮らし)を取るかという問題がどんどん先鋭化していくでしょう。どちらを優先させるかで、その人の世界観、価値観、ひいては死生観が出てくることもあるでしょう。

 そこは喧々諤々(けんけんがくがく)お好きなように所論を戦わせればいいんですけど、でも「不毛だよな」って思うところもあるのです。だって、現実世界に殆どなんの権力も、決定権も、影響力も持ってない僕ら庶民が何を言おうが、それで現実は動くかといえば、まあ動かんです。虚しいけどそれが事実。だけど、それによって自分の大事な人間関係は、いとも容易く壊れたりします。

 もちろんそうやって語ることで、問題意識を深め、何らかの世論が形成され、Change.orgのようなネット・ペティション(請願)という形で集約していくことは大事ですよ。特に日本という国は、無愛想でやる気のない田舎のレストランみたいなもので、さんざん要求しないと水の一杯も出てこないですから、その種のアクションは非常に大事です。

 だけど、それは対世論、対政府など決定権を持ってる人々に対して言うべきであって、内部でムキになって論戦を戦わせる現実的な意味はない。それは、野球の試合をやってて、ベンチの中で相手のプレイが汚い抗議すべきだという人と、いやあれはプレイのうちで相手が巧いんだよっていう人とで大喧嘩してるようなもので、そこでどちらが勝とうが負けようが、実際の試合の帰趨には何の関係もないです。

 そのくらい無意味なことをやっているんだけど、それによって現実的に得られるものは、自分の人間関係が気まずくなって、グチャグチャになるだけです。

 例えば、家庭内において、感染防止を万全にすべきだという健康優先派のあなたと、それは神経質すぎるのであってメシ食っていかなきゃだろ、今月の家賃どうすんだ?って経済優先派のパートナーがいて、だんだん喧嘩になったりするわけですよ。こんなのどっちがどっちを論破しようがしまいが、現実の国策になーんの影響力もないです。あなたが大統領で相手が副大統領だったら話は別ですが、普通の僕らがマンションの一室で唾飛ばしていても現実は変わらない。だけど人間関係は悪化しやすい。これは職場内でも友達間でも同じです。

 これ、すごーく馬鹿馬鹿しくないですか?
 だって、いくら持論を力説してもそのとおり現実が変わる可能性は限りなくゼロである反面、自分の大事な人間関係が壊れていく率が高いというのは、益少なくして害ばかり、めちゃくちゃ不毛、いや有害な話だと思うのですよ。

 だもんで、「議論もいいけどほどほどにね」って話なんですけど、人間というのはほっといても考えたり感じたりする生き物であり、また思いついたらそれを言ってみたくなる生き物です。特にこういう考えを触発されるような問題になるとついつい熱っぽくなってしまう。

 そういうときに備えて、っていうのも変なんですけど、ここで確認しておきたいことが数点あります。

 第一に、僕らが議論したり信じたりしている「正義」とか「正しさ」って何なんだろう?煎じ詰めればただの感情ではないのか?という点。

 第二に、抽象的な立論や価値観が語られていたものが、けっこうな確率で「人に対する好悪」の形に落とし込まれているという点。

 第三に、感情を激化される燃焼促進剤みたいなものが沢山あるという点。
 これらを書いてみたいと思います。


「正義」とは結局のところ「感情」である

 裁判においては非常に判断が難しい事件があります。刑事民事に限らず、むむ、こ、これは原告を勝たせていいのか?無罪にしたほうがいいんじゃないか?とか、境界線上でめちゃくちゃ微妙な事案があります。

 端的に「それは”悪”なのか」でいえば、「違法性はあるのか」がストレートに問われる事例があります。「正当防衛」って聞いたことあると思いますが、相手が殴りかかってきたので、難を逃れるためにやむを得ず相手を殴り返した場合です。これは正当防衛で違法性はない、難しく言えば「違法性阻却事由」といい、簡単に言えば「悪くない」です。次に「過剰」防衛というのがあります。相手が素手で殴りかかってきたので、思わず近くにあった包丁で刺殺してしまったという場合。これは「ちょっとやり過ぎちゃう?」ということで、正当防衛の範囲を超えて違法性アリにされます。さらに「誤想」防衛というのがあります。台所で炊事をしてたら、いきなり後ろから羽交い締めにされたので、きゃーとなって思わず突き飛ばしてしまい、相手がコケて怪我をしたんだけど、それは実はダンナがいたずらでやっただけでしたという。カンチガイ防衛です。これは悪いことでしょうか?さらにミックスとして「誤想過剰防衛」があり、カンチガイ&やり過ぎで、羽交い締めにされて突き飛ばすのではなく、たまたま手に持っていた包丁で刺殺してしまったというケースです。これはどうですか?

 ここでは別に刑法の講義をするのが目的ではなく、何をもって違法(悪いこと)とするかは非常に難しいこと、ここまではセーフでここからがアウトだって線引は、一体どう決めているのだろうか?ということです。

 これね、信じられないかも知れないけど、結局は「直感」だと思います。実際の裁判実務でもそうですし、学者の論文なんかでも結局はそうだと思います。もっとも直感といっても、ただの主観とか気まぐれではないですよ。法令の条文やら学説やら、これまでの全判例やら類似事案やら、それらはすべてチェックして、考えに考えて、今現在の日本社会で100人いたら90人はこう思うんじゃないか?というラインを探っていきます。それを難しくいえば「社会通念上、相当と認められる」といい、ぶっちゃけて言えば「うーん、ま、こんなもんかな?」ということなんだけど、いずれにせよ最終的に決め手になるのはかなり感覚的なものです。

 司法修習のときに8ヶ月間の裁判所での実習がありました。裁判官室に机もらって、指導裁判官の丁稚みたいな感じで、記録一式読まされて、実際に法廷に立ち会って、証人尋問なんかも全部聞いて、「判決書いてみろ」と言われて判決書かされました。たくさん。まあ、結論が明白なものが多かったですけど、それでも、むむむと悩むものも多い。民事や家事(離婚とか)は、原告も被告もどっちも真実を述べているようで、どっちも嘘をついてるようで、本当のところはどうなんよ?ってのが結構あるのですよ。で、そこで出てくるのも、結局は直感なんです。もちろん考えに考えた末ですし、他の類似事案をきっちり調べて、それらと釣り合いが取れることも当然考えますよ。でも、全く同じ事案なんかあるわけがなく、最後の最後は感覚です。

 長々何を書いているかと言えば、厳格&堅牢な論理体系のような法解釈学の現場においても、何を良しとすべきかの最後のところは感覚であって論理ではないってことです。てかね、人間って百パーセント論理で決めることなんか出来ないのではないか?簡単なやつは論理と当てはめで出来るけど、判断に悩むような事例では、もう論理は大した助けにもならない。

 そもそも論理が出てくる前提=ルールや法律を作るにしても、これは犯罪にしてこれは犯罪じゃないことにしようとか(不倫は戦前は姦通罪で犯罪だったけど、戦後は犯罪ではなくなった=てか姦通罪って妻だけが罰せられて、夫はやり放題という不平等)、なんでそうなの?といえば、結局は感覚なんです。犯罪かどうかの境界線上で議論されるのは、不倫以外でも、賭博、麻薬(大麻など)、売春、中絶、同性愛などいくらでもあります。今現在でも、合法とする国と違法とする国に分かれてます。それを「文化の違い」で語るのは簡単なんだけど、じゃ、なんでそんな文化になるのか?をさらに掘り下げていけば、「いいんじゃない?」「いやダメだろ」と皆が思うかどうかであり、さらになんでいいの?悪いの?を問えば、「何となくそう感じるから」でしかないのですよ。

 人類が数千年考えて未だに解けない難問が「人殺しはなぜ悪なのか?」問題で、そんなの決まってるだろう、当たり前だろって思うけど、じゃあ死刑は駄目なの、戦争はどうなのと言われると「あれは別」になる。でも、なんで別なの?といえば、結局は、形の上では同じ殺人でも「いいやつと悪いやつがある」って話になるのですよ(笑)。じゃあ、そのいい/悪いはなんで決めるの?と突き詰めていくと、「何となくいい風に感じるものは良くて、悪い風に感じるのは駄目」って話になってしまうんですよ。これ答になってないです。「良いから良い」としか言ってないもん。それらがいかに曖昧でいい加減かは、「○○(異教徒、魔女、敵軍、なんでも)だったら殺してもいいんだ」とか、人間というのは昔から何かといえば人を殺してますからねー、それも正義の名のもとに。

 正義論といえば、アリストテレスの均分的正義(形式的平等)や配分的正義論(実質的平等)が有名です。飢えている人々の間で平等に食糧を分配する場合、一人パンひとつと配るのが正義(均分)なのか、でも体重150キロの相撲取りみたいな人とパン半分も食べ切れない三歳児を同一にするのはおかしくないか、体重と死なないための最低限のカロリー量を出してその相対比率で分配したほうが良いのではないか(配分)があります。どちらが良いと感じるかはケース・バイ・ケースだろうけど、でも最終的には感覚でしょ?さらに実践になってくるともっと複雑になります。老人子供女性など弱者を優先すべきなのだという考え方もあろうし、いや真剣に集団が絶滅しそうなときは、一人でも多く生き残れる可能性を優先すべきであり、危機脱出のためにより多く働ける壮健な連中に食わせるべきだという考え方もありえます。さあ、何が正義だと思いますか?政治というのはこれを決める作業のことで、何をどう決めたところでどっからか恨みを買うことになり、政治家にとって暗殺されるのは職業病みたいなものです。リーダーと呼ばれるポジションもしかりで、憎まれてなんぼ。「皆さんに愛される〜」なんてのは、単に仕事してないだけだけかも(笑)。

 正義というのは、酸素や光合成のように自然科学的に実在してるものではなく、そのときに人が何となく感じるもので、なんとなく「いいかも」と思うのが「善(正)」であり、「許せない」と感じるのが「悪」であり、その正体はただの「感情」だということです。なんでそれを「良い(悪い)」と感じるのか?と言われれば、「そう感じるんだから仕方ないだろ」というのが最も正直な答でしょう。そこから先は説明できない。

 人間は感情の生き物ですし、最終的にものごと決めるのも感情です。論理はどっちかというと、既に結論が出ているものを、手際よく説明したり、事務的に処理するときに使われるだけです。結局は感情なんだということですけど、別にそれが悪いわけでもないのですよ。ただ事実の問題として、僕らの頭脳やハートはそのように作られているんだってことです。

 ということで、健康を取るか経済を取るか、体罰OKなのか絶対ダメなのか、死刑はアリかNGか、多少は浮気はアリなのか絶対NOなのか、どんな対立であろうが、それが真剣であればあるほど、それが重大であればあるほど、最終的には感情と感情の対立に還元されるのであって、こと感情の話になったら百万年話し合っても決着はつきません。

 じゃあ、あらゆる議論は虚しいのか、意味ないのか?といえば、そんなことないです。
 まず第一に、唾を飛ばしまくって大議論をしていて、そのときはエキサイトして「正義は我にあり」と思えるのだけど、違うって。それは単に感情が高ぶってるだけの話であり、少しは引いて考えた方がいいよってことです。

 正義というのは麻薬みたいなもんで、常用しだすとハマるんですよ。多少足蹴にするくらい、距離をおいて接していた方がいいんじゃない?ってことです、言いたいのは。そんなもんで人間関係壊してしまったら意味ないですよ。

感情であることを前提にして 

 長くなりそうなので、簡単にメモ的に書いておきます。

(1)感情の原点

 なんでそういう感情になるのか?といえば、これは大体過去の経験です、過去に東西南北均等に経験を積んできたら、わりとバランスのとれた価値観や感情になるんだけど、大体はどっかに偏ってたりします。その経験の偏りが、その人の感情を作り、価値観を作ります。
 じゃ、なぜそういう偏りは生じるかといえば、もともとのきっかけはただの偶然でしょ。たまたまそういう両親のもとに生まれたとか、そういうエリアに生まれたとか、そゆこと。そんな偶然に一生支配されていいのかよ?って、僕は思いますけどね。

(2)感情説得(操作)

 他人を説得する場合には、感情部分を説いたほうが効率的です。数学の公式の解説のように理論ばっかでやっても人は納得しない。
 それが上手な人になると、ヒトラーのように大衆操作がうまくなるし、電通のようにマーケティング的に仕掛けられる。

 逆に言えば、今自分が思ってる感情はどこから来てるのか?の自己査定はすごい大事だと思いますね。なんで中国が嫌いなの?とかさ。偏った自分の実体験から感情や価値観が形成されるのは、偏ってるという部分を除けばまだ自前のオーガニックなものです。でも、自分で直接体験も見聞もしておらず、単に聞いた話とかそんなのばっかで価値観・感情を作ってるとしたら、命令をプログラミングされたロボットと価値的に等しい。それは詰まらないよ。

(3)相互理解〜原点経験の共有

 なんでそう思うの?という論理ではなく、感情を生み出す原点体験のようなことを聞くといいです。ああなるほどねーって思うし、シンパシーや共感する部分が出てきたりもするし、感情相互の融和がしやすい。それは同時に、なんで自分はこう思うのかという原点になる風景を、誰に対しても語れるようにしておくといいです。

 こういう原点共有が一番いいと思いますね。感情だけ対立させていても結論はつかないわ、傷付き合うだけだわだけど、なんでその感情が出てくるの?の原点経験の共有は、なるほどね、そういう問題もあるのか、それは俺にはなかった視点だよなとか、自分が学べる、広がることになりますからね。

(4)Agree to disagree

 一升瓶を酌み交わしながら、(3)の原点話をしている時間がない場合、とりあえず対立したら、そのまま保存しておけばいいです。「合意してないことに合意する」ということで、相手の意見を承認したわけではないんだけど(そこでは先鋭に対立したままなだけど)、相手の意見に対しては、自らの意見と同等のレスペクトを払い、寛容であることです。

 これは夫婦間や友達間で非常に重要な態度、スキル、コツ(なんて言えばいいのか)だと思います。なんかさ、「結局分かり合えないんだ」って思うと悲しいし、なんとかして意見の一致を見ようとするんだけど、そんなん無理、無駄、さらに有害。相互に独立した人格を認めるなら、分かり合えない事柄なんかいくらでも出てきて当然。よほど酷いこと(犯罪レベルの)ことじゃない限り、そこで絶望するよりも、面白がってればいいんだと思います。「ふーん、そうなんだ?」って。

「あいつら」という人の好悪に落とし込まれる件 

 長くなった。駆け足で行くし。

正義と嫉妬〜より下世話な感情に上書きされること

 よく指摘されることですが、「日本人が唱えている「正義」の殆どはただの「嫉妬」に過ぎない」という命題があります。

 例えば、金持ちに対するなんとはなしの反感というのがあります。金持ちばっかいい思いして、こちとら庶民はいつも割りを食っているという感覚です。とは言っても立志伝中の人のような金持ちを尊敬する気持ちもある。並大抵ではない努力をしてるだろうし、一世一代の大博打も売ってるだろうし、それこそが○○ドリームというものだしそこは称賛もする。頭ではわかる。それでも、なんとなく釈然としない気持ちもある。なんで俺たちがこんなしんどいのに、あいつらは〜と思う。「いいなー」と思うけど、「ちくしょー」とも思う。

 これは芸能人とか有名人に対する感情でも同じだし、クラスや職場で飛び抜けて美貌であるとか、優秀であるとかいう人に対してもそう。「いいなー」と羨望するけど、「ちくしょー、なんで?」という嫉妬もある。

 その羨望嫉妬の感情が、地下のマグマのようにものすごいエネルギーを蓄えていて、なんかの拍子に地上で噴火することがあります。金持ちであれ、芸能人であれ誰であれ、自分に嫉妬心を抱かせるような人たちが、何かをやらかすと、ここぞとばかりにドカーンと大噴火が起きて叩きまくる。別に何も悪いことをしておらず、誰でもやってるような恋人とデートしてるだけのことでも、「愛人と密会」とかすごく悪いことのようなニュアンスで報道され、なんだかんだ叩かれる。

 で、そこに「正義」が捏造されるのですよね。この世で最も醜悪な正義が。
 こんなの単なるストレス発散のイジメなんだけど、なんだかんだ理屈をつける。「(芸能人は)青少年の模範となる人たち」なんだから、「もう少し身を慎んでもらいたいですね」なんて、誰もそんなこと(芸能人に青少年の模範になってもらいたいとか)思ってない「理由付け」をして、それが真っ当で良識的な意見であるかのように語られる。

 僕は子供の頃からこれが不思議というか、苦手というか、ありていにいって大嫌いでした。まあ、好きって人もいないんだけど、あのワイドショーやイエローペーパーの浅ましい嫉妬爆裂のイジメ劇場みたいなのは何なの?ほとんど団鬼六のSM小説の世界みたいな、高嶺の花の美しい存在を、汚穢に叩き込んで陵辱の限りを尽くすという淫靡にサディスティックな。

 なんと人間(大人)は馬鹿で醜いんだろう?と、思春期の頃に思ったりしませんでしたか?あんな愚劣で非道徳なことを、良識とか常識とか子供騙しの正当化論理で誤魔化している狂人の群れ、なんなんだ、こいつら?とか思いませんでした(笑)?

 何を言ってるかというと、第一に述べた正義(感情)だったらまだしも、それらがもっと下世話な感情(嫉妬とか)に乗っ取られること、そして、大体において「人に対する(攻撃)感情」に転化していく怖い化学反応があるという点です。

価値観や制度への批判が人への攻撃になること 

 金持ちに対する反感も、あながち根拠のないことではないですし、それらは正しく立論できます。第一に、資本主義は、もともと金持ちはもっと金持ちになり、貧乏人はもっと貧乏人になる制度なんだから、まずそこが問題で、もう資本主義はやめようという議論。第二に、資本主義という制度自体は無色透明で罪はないけど、あまりにもワンサイドゲームになる場合にはルールで修正しよう、労働法、独禁法、累進課税などで修正しましょうという点、第三に金持になる過程で、あるいは財力を背景にして不正をするような場合は、金の有無に関係なくその行為自体が問題であるという点。

 これらは理性的な立論であり、嫉妬感情とは無縁です。累進比率にせよ大資本の優越性をどの程度認めるかにせよ、企業の政治的影響をどの程度抑制するか(政治献金アリにするか)などは、技術的で職人的なチューニング作業です。

 だけど世の中が煮詰まってきて、あまりにも貧困が蔓延して、なんの希望もない社会になってくると、皆もだんだん金持ちが憎らしくなってきます。次第に、あんな金持ってるのは絶対悪いことをしてきたからだという、まあ当たらずと言えども遠からずなんだけど、でもただの推定であり噂レベル。だけど、そのうち、そんな推定とか過去の悪事とかいう「論拠」すらどうでも良くなってきて、革命や一揆的な局面になると、金持ちは金持ちだというだけで処刑の対象になっていきます。

 フランス革命でも貴族制度による不正を正すんだ、平等理念に反するんだって部分はいいんだけど、実際になってみたら、貴族どもは皆殺しにしろって感じになる。価値観や制度の改革って抽象的な話だったはずなんだけど、実際の場面になると、人に対する(攻撃)感情になってしまう。

 最近そう思うようになったんですけど、この点は注目すべきことだと思います。

日本で特に激しい

 日本の言論やら(論壇からネットまで)を見てると、なんで?って思う部分が昔からあります。途中から人に対する攻撃、それは個人攻撃であったり、議論に関係ない人格攻撃であったり、さらに「こういう奴ら」と一括りにしたグループ化攻撃だったり。それは好戦的とかいうよりも、ただの悪口や罵倒なだけという。最初っからそういうモードになってる場合もあれば、途中から脱線してそうなる場合もある。

 例えば、電車内で携帯電話で会話するのはアリか?という議論がありました。日本では未だにそうなのかな?オーストラリアではそんなことないです。ナシ説(会話禁止)は、電波がペースメーカに作用するからとか、他人の(くだらない)会話は聞きたくないというとか論拠がありますが、前者に対しては携帯でネットやメールしてたら同じことだろって気もするし(今どきそんなペースメーカーなんか無いという話もあるし)、後者については電話じゃなくてライブで二人で話す分には良いのと整合性がない(二人ライブの方が二倍うるさい)ので、釈然としないのでした。

 ここではその当否はどうでもよくて、本来の議題は「携帯の公共利用での実害」だったのが、「車内で携帯で話している奴ら」は「けしからん」とかいう話になりがちだという点です。

 つまり、行為を論じているのか、行為者(類型)を論じているのか?ということを問いたいわけですよ。「罪(行為)を憎んで人(行為者)を憎まず」という格言がありますけど、この言葉の意味が、ほんとーに浸透してないなっていつも思うのですわ。

 これは昔っからある。「最近の若いやつらは」もそうです、「今年の新入社員は〜」もそうです、「これだから女は〜」とか、「年寄なんだから〜」とか、政治系になれば、ネトウヨ〜、サヨクは〜とかさ、「○○系の連中」とか、もうなんでもかんでも、まるで分別ゴミのように、人々をカテゴライズし、グループ分けをし、こいつらは「燃えないごみ」みたいな感じで一緒くたにして、攻撃する。

 コロナでいえば、公衆でマスクをしていないだけで非国民扱いする人もいるでしょう。そのときの言い方が、信じられない、ありえないって感じで、まさに正義を嵩に着るような感じで断罪口調でいう人もいるでしょう。でも、オーストラリアでのオフィシャルでは、マスク推薦は「今の時点では」「敢えて」しないと言ってます。理由は2つ。世界的にマスクなどプロテクティブ資材の欠乏状態で、もっとも必要な医療最前線まで回ってないから、皆がやりはじめたらもっと品薄になること。第二、ケース・バイ・ケースだが、マスクのマイナス面も無視できない。それはなにか?といえば、マスクをしてると(特に普段からしてない人だと)、不快だし、マスクの下がむず痒くなるので、いつもよりも頻繁に顔を触るようになるから。なんで手洗い20秒を励行するかといえば、ウィルスが手に付着した状態で顔を触ると口や鼻、目の粘膜経由で感染するからでしょ。要するに手を洗うことに意味があるのではなく顔面感染を防ぐことに意味がある。マスクはそれをむしろ増やす可能性があると。だからしろとは言わない、よう勧めないって。このへんは議論のあるところですが、議論があるってことは、一方的に非国民的に断罪するのもどうかと思うよね。

 学級会でもマンションの自治会でも、「決められた日にゴミを出さない”人がいます”」という「人」の問題として提起されがち。そして、そういう人間に対する人格罵倒やら、犯人探しやらやったりして、なんだんだって思う。

 その意味で、オーストラリアのほうが僕の性分には合ってます。こっちにもそういう馬鹿野郎(idiot)はいますよ。山火事でみんな苦労しているときに、わざわざ山にいって放火してるやつもいるんだから。ただ、それは粛々と法で裁けばそれでよく、それ以上に誰だとか調べたり、家族に対してまで嫌がらせをしたりということは無いです。なぜって?そりゃ、ある程度の人数が集まれば、一定比率でアホがおったり、犯罪者がおったり、変な奴がおったりするのは、これは確率の問題としてそうでしょ。何を今更驚いたり、嘆いたり、怒ったりしてるんだ、アホちゃう?そんなことは最初っから分かってるんだから、それを織り込んでシステム設計をすべきであり、一部の人間にそれが破られたら、それはそもそも設計がダメだったということで、より改良をすればいいだけのことです。問題解決というのは、人を罵倒することではなく、将来的に問題状況を減らすことでしょ。

 だけど、なんか途中から、問題を解決することよりも、人を攻撃罵倒することに燃えてくるわけですよ、なぜかしらんが日本の場合は。「最近の若いもんは」的にブツクサ文句ばっかり垂れてるオヤジがおるわけで、聞いてたらもの凄い偏見(それも超時代遅れの)だったりして。でもって、じゃあ改善策はあるのか?どうしたらよりよい方向になるのか?といえば、「徴兵制で軍隊で鍛えてやれば」とかそんなレベルで、そういうお前も行ってないだろ?って感じなんだけど、なんなんでしょうねー。

 その隠された心理については、次の燃焼促進剤で述べますが、ここでは、どんな議論も、スマートで実のある議論になる場合もあるが(そういう場合もちゃんとありますし、多いですよ)を、なんかしらんけど、途中から(最初から)、人格非難というか、「俺、あいつら嫌い」という感じになる傾向があるということです。

 まあ、かくいう僕だって、ワイドショーで喜んでる連中は嫌いですよ。また、今書いたように人をグルーピングして攻撃することに燃えてる人も、なんだかなって思いますよ。だけど、そういう行為が良くないのであって、個々人に対する評価は峻別しようとは思ってます。あくまでも行為の問題性(その背景や構造)であって、とある人を攻撃することを最終目標にしようとは思わないです。

 なぜって、リアルに一人の人間の全体量や質量ってすごい膨大ですもん。そういう側面もあるけど、ああいう側面もある。ある点に関する意見や態度については、僕からしたらまさに「唾棄すべき!」ってくらい嫌悪の対象であったとしても、また別の点に関しては、すごいな、えらいなって部分もあるのですよ。別の「点」とかいくつあるのか?っていえば、ざっと考えても数十、もしかしたら数百くらいあると思いますよ。現実世界には実にいろんな局面がありますからね。だから数十分の1の断片だけ捉えて、こいつはそういう人間だと決めてかかるのは、あまりにも早計だと思うし、実際これまでの経験でいっても、人の善し悪しなんか最終的にはわからんもんだなって思います。逆に良いと思ってたら意外とそうでもなかったという点もあるし(まあ結婚したら誰でもその真理に気づくのだが(笑))。

 ところで、なぜ人々は人間攻撃にシフトしていくの?というと、これは簡単なことかもしれません。世の中には人しかいないからです。日常接して、何事かを感じるのが、大体において人との関係だとしたら(どっかの店で不愉快な対応を受けたとか)、とりあえず出てくるのはその個人に対する憎悪感情です。それをそのままぶつければいいんだけど、だんだん広がるんですよね。役所で不愉快な対応をされたら、その対応をした個人だけを考えればいいのに、およそ役人、公務員はけしからんと広がっていく。そして、その不快経験がその人の価値観を形成し、なんかの政治論議で、やたら「公務員の奴らは」と敵対的になり、「仕事もしないのに給料だけ沢山もらいやがって」という話になる。別に公務員でも民間レベルに超多忙な部局もあるんだけどね。でもそういう実証とか調査はしないで、こうだと決めつける。

 つまり、もともとのきっかけが人から始まって、人への攻撃感情が最初にあるから、何を語っていても最後には人への攻撃に回帰していくわけですね。ある意味、当然のことかもしれません。

 でも、当然とはいいながらも、これを無自覚なまま放置してても不毛だと思うので、敢えて書きたいなと思った次第です。

 だいたい、ちょっと不愉快な体験をしただけですぐに一つの価値観が出来てしまうこと自体、どんだけ経験絶対量が少ないんか、世間知らずなのかって感じだし、不愉快だったからワーワー騒いでるだけなら、子供がむずかって泣いてるのと変わらないです。

 

燃焼促進剤

 これは簡単、「火に油をそそぐ」的に、議論をより白熱して、エキサイトさせてしまう要素です。

 それはなにか?さらに簡単に一言でいってしまえば、「日頃の鬱憤」です。常日頃から、なにか気に食わない現象やら、風潮やら、人々やら、なんかがあると悶々と鬱憤が溜まります。すごいエネルギーとして潜在的に蓄積されます。それが何かの機会にどばーっと出てくる。

 それもそのままの形でストレートに出てくることはまれです。そのものドンピシャがテーマになることって少ないですからね。でも、テーマは違っていても、その議論の過程でニアリーな領域を通ると、まるで西部劇の駅馬車強盗のように山の影からどっと悶々エネルギーが出てきて、燃焼を促進する。

 あはは、なんか子供みたいな話ですよね。まあ、いくつになっても子供なんでしょうね、僕らは。

 コロナに記事などで、いろんな人がコメントつけてたりしますよね、Yahooのニュースでもなんでも。素人に限らず、普通のブログやプロの論説なんかもそうなんですけど、ああ、燃焼促進剤だなー、駅馬車強盗だなーって場合が多くて、微笑ましいです。

 いや、ほんと、色んな人がいろんなこと言うのだけど、だいたい日頃から思ってることを、コロナ問題に「かこつけて」喋ってる感があるのですよ。「ほほう、そこですか」「や、そ、それは流石に関係ないのでは、、」って。なるほど、そう結びつけますか?てか、結びついてないんですけどって強引さが楽しいです。いやあ、溜まってんなーって。




同じ時に撮った雲。刻々と変わるので面白いです。
溶鉱炉みたいなオレンジがいいです。





文責:田村


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