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Essay 927:コロナ・ファシズム
2020年03月30日
写真は、Artarmon駅裏のカフェ。ここに限らず、シドニーのカフェやレストランはテイクアウェイ専門にならざるを得ないのだけど、それでも元気に頑張ってるし、お客さんのサポートも多いです
引き続きコロナについて書きますが、事実的なUPDATEはFBの方に書きます。ここではより抽象的で普遍的な話を。
ふたつの疑問
ちょい前に述べたように、”Health or Wealth?”と英語で言われるように、健康と経済がトレードオフの関係になっている二項対立は、当然というべきか、時が進むにつれ鮮明になってきています。幾つか書いておきたいことがあるのですが、未だに初期に抱いた疑問が解消されないで困ってます。
一つは、数ある病気、あまたある不幸のなかで、なぜコロナだけ、本来の数的割合を無視して破格に注目されなければならないのか?という点。
もう一つは、長期戦略と短期戦術の絶対矛盾です(感染(抗体者)を増やしたほうがいいのか、減らしたほうがいいのか)。
簡単にいきますが、まず第一の点は過去に何度も書いているように、またネットでも同じように素朴な疑問を持っておられる人が散見されるように、コロナではない「普通の」(この定義が難しいっぽいが)インフルエンザだって、かなり問題です。インフルエンザは年によっての差が非常に激しく、ものすごく多い年もあれば少ない年もあるけど、大雑把に言えば日本で年間1000万くらい感染し、直接死で千人くらい、間接も含める超過死の死亡者は大体1万人。すごく季節に限定されるけど、無理やり平均すれば毎日2万7000人くらい感染し、毎日27人くらい死んでいる計算になります。
インフルだって毎年そこそこ議論になってるようですが、でもここまで朝から晩まで猫も杓子もって話ではない。また現在諸外国で行われているように、その防止のためにここまで全産業を犠牲にして頑張るという取り組みはない。なんでコロナだけこんなにエコヒイキのように「優遇」されているの?数的にいっておかしくないかと。
まあ、インフルや既存の病気は、大体パターンがわかってるから「手におえる」範囲で済むし、インフルは季節がすぎると急激に退潮するので楽だという点、コロナはそこらへんが未知数で、瞬間最大風速的に拡大されたらお手あげてあるという問題は確かにあります。それは分かるんだけど、それにしても随分扱いが違うじゃないか?という気はしますね。そもそも普通のインフルは対応方法もわかっているのだから良いのだっていう人いるけど、分かっていながらこれだけの人数が死んでいるんですよ。それのどこが「良い」わけ?
ついでと言ってはナンですけど、普通のインフルについて書かれたなんと1日50人以上「インフル死者」が日本で急増する不気味 を紹介します。これによると、日本におけるインフルエンザの死者は、2016年1463人→2017年2569人→2018年3325人となぜかは知らないけど増えてます、コロナ関係なしで、です。2019年(去年)も1〜9月の集計ですでに3000人を超えており、去年の1月だけで1685人も亡くなっている。ちなみに、いま時点での日本のコロナ死者は121人です。今現在の世界全体でのコロナの死者は3万を超えたくらいですが、世界でインフルエンザで死亡する数は約25〜50万人です。コロナを騒ぐなとは言わないけど、釣り合いを考えれば、普通のインフルも相当にヤバいのでもっと騒いでいいんじゃないかって気がする。
ちなみにオーストラリアでは、鳴り物入りであれこれやってますが(詳しくはFB参照)、でも死者数はまだ15とか16名くらいです。ヨーロッパやアメリカに比べて二桁以下、まだ200分の1くらい。この意味で、オーストラリアがヒステリックなまでにドラコニアン(徹底的に厳しく)に規制しようというのは、まだ理解可能です。なんせかなり初期の段階にあるので、ここで徹底的に出鼻をくじいておき、その後の作業を容易にするという合理性はありますから。
とりあえず、この点(他との釣りあい)は「なんか釈然としないな」ということを述べるにとどめます。
第二に、戦略矛盾についてです。これも過去にさんざん書きましたけど、感染者が出たら凄い悲惨なことが起きたかのように扱ってますが、しかし、最終的にはほぼ全員が抗体を獲得するのが目標でしょう。自然感染によって得るのか、それとも随分先の話だけどワクチンが出来てそれでクリアするのかはわかりませんが、抗体持ちが増えることは基本最終ゴールに向かっているのですから良いことのハズです。ましてや、感染者のなかで重篤になる率はかなり少なく、ましてや死亡する率は1000分の1以下だろうと推測される現在、感染者が出たということは、千分の900くらいは喜ばしい話で、千分の99くらいはヤバい話で、千分の1くらいは痛ましい話って割合になるでしょう。
まあ、そんな割合比率で喜びと悲しみを同時に表現したり感じたりすることは出来ないのですけど、それにしても100%悪ってもんでもないとは思うのですよね。でも100パー悲報のように扱われているのはなぜかといえば、前回書いたように、今は、医療機関の取り扱い範囲を超えるか超えないかという一点のみが基準になってるからでしょう。
それもわかりますよ。キャパ不足で、目の前でみすみす亡くしてしまう痛ましさこそが、まだ平和の残像に浸ってる今の皆の状態において、もっともリアルに痛みを感じさせる事態ですからね。そこが焦点になるのはわかる。わかるんだけど、全体の絵もまた見なければならないことに変わりはないでしょう。時間差で、もっともっと巨大で悲惨な現実が現れてくるんだから。
以上、これら二点について、気持ちは分かるんだけど、でもちょっと見方が硬直的になりすぎてないか、あまりにも視野が限定されすぎてないか、そして思考停止になってないか。世の中の「絶対善」が固定されて、なんでもかんでも、その絶対価値観で動いていくのってヤバくないですか?その反論や異議を許さなくなったりしてくると、もっとまずいですよ、それってファシズムの兆候じゃないかって思うのですよ。
生命をタテにするのは「反則」である件
付言しておきますが、感染防止の注意喚起において、人が死ぬんだぞ、命がかかってるんだぞと、命以上にこの世にかけがえのないものはないのだから、絶対的に従えと言わんばかりのレトリックには、はっきりNOを叩きつけておきたいです。「絶対に反論できないクソ正論」というのがありまして、人の生命がかかってるとかいうのもそれですが、大体そんなことをいう立論はどっかしらインチキです。
なぜインチキ呼ばわりするのか?この際ハッキリさせておきたいのですが、多くの問題は、前に書いたように価値観の二項対立構造があります。Aも大事だけど、Bも大事で、あちらを取ればこちらが立たない、どうしたもんかってところが最高に難しい。だから誰もが頭を抱えて悩む。これがAだけ取ればいいんだったら、誰も悩みませんし、そもそも問題にすらなりません。
そこで誠実であろうとすればするほど、AもBも活かそうとしますし、ときには絶妙な、ときには博打まがいの時間差でAとBとの両立を図ろうとしたりします。それって、どうしても中途半端に見え、煮え切らないようにも見えますけど、それでいいのですよ。どっちか一つに偏ったら他方が即死するんだから、中途半端に見えるのが一番誠実。絶対そうだというわけではないけど、そういう場合が多いでしょ。
ところが「死んでもいいんですか?」「命をなんとも思わないのですか」という言い方は、命を水戸黄門の印籠のように絶対価値として立たせて、この誠実な悩みも、物事の本質も失わせてしまい、有効な反論をなし得ないまま自分に有利な結論を押し付けようとするのものです。レトリックとしては幼稚だし、意図してやってるなら悪辣卑劣といってもいい。
命について言うなら、今この地球に75億人(前に70億って書いたけどもう75億もいるみたいね)いるわけだけど、平均寿命が最大100年としたら、百年後までには今いる75億人は全員死にます。これから百年の間に75億回の死と、75億回のお葬式が行われる。1日あたり2000万人くらい死ぬわけですね。日本でも1億2500万だから、毎年125万人、1日あたり3400人死ぬ。2回前のエッセイで書いたように、現実にも毎年130万死に、一日あたり3600人死んでます(平均寿命が百歳計算じゃないから増える)。人の死なんか、毎日数千万という単位で生じている、超ありふれた出来事なんですよ。まず認識の問題として、それに慣れろ、です。だって事実なんだからしょうがないでしょ?それをこの悲劇がなければ絶対に死なないとばかりの前提、死がいかにも起こってはならないことであるかのような立論が、まずおかしい。
出来るだけ中立公正であろうとするなら、すべての人の命は等価であり、そしてその死も等価であり、またその死に方や死因によってあまり差別をするべきではないでしょう。これは崇高な死に方だけど、これは犬死のクソ死にだとか、死者に対してあんまりだろって気もします。いずれにせよ生者は死者には勝てませんので、死という厳粛な事実の前には頭をさげてうなだれているしかない。
ならばどの理由で死のうが、等しく扱うべきだし、その死に方に「こうすればもっと防げたのではないか」という悲劇性や教訓があるなら、その限度で平等に接する(謙虚に学ぶ)べきでしょう。経済的困窮で自殺しても、仕事で過労死しても、DVや虐待で殺されても、結婚式の幸福の頂点の際に暴走車が突っ込んできて新郎新婦が死んでしまうとかでも、どの死に方であったとしても、それがハートブロークンな悲劇であることに変わりはないのですよ。興味があるトピックの死は重要で、興味のない死に方の場合は粗略に扱うとか、そもそも眼中にないというのは、その方が失礼だろう。自分の命ならまだしも、他人様の命を自分の趣味でもて遊ぶな、と言いたいです。
だから悩むんですよ。AをとったらBで死ぬ人がいるかもしれないし、BをとったらAで死ぬ人がいるかもしれない、てかまず絶対確実にいるんですよ。だから悩んでんじゃないか。それをAに決まってるだろ、人が死ぬんだぞとか一方的にいうのは、おかしいでしょって。
コロナで今日一人なくなって、それは痛ましいです。でも、1日3600人死ぬならあと3599人は別の理由で亡くなっているわけで、これらが痛ましくないわけもないし、もっと頑張れば防げたかもしれないものも多数あるわけですよ。考えるなら、3600すべての死と原因を見つめるべきだし、細かく見ることは不可能だとしても、可能な限り等価に見るという視座だけは失ってはならないのではないかね。
経済的損失のリアルな意味〜中小・零細企業やフリーランサーなど
コロナ対策によって、逆に失われる経済価値の点について書きます。株価が落ちるとか、クビになって失業率が上がるとか、不景気になるとか、抽象的な話だけではなくして。ご存じの方も多いでしょうが、オーストラリアでは感染防止のために、カフェやレストランの営業が禁止〜店内飲食が禁止でテイクアウェイはOK〜になってます。
そのため多くのレストランはテイクアウェイに移行して営業していますし、地元のオーストラリア人や僕らも、できるだけ贔屓のローカル店を応援するべく、出来る限りティクアウェイでも買おうとしてます。まあ、都心のカフェなどは、もともとがティクアウェイ専門のようなスタンド形式も多いので、全面的な打撃を受けているわけでもないのでしょう。しかし、それでも大打撃であることは変わりがないです。
そのことの現実的な意味を書きたいです。だって英語にせよ日本語にせよ、あんまり書かれてないんだもん。
これは実際に、会社辞めて乾坤一擲でカフェを始めたり、起業した人ならわかると思います。てかやった人でないとわからないかも知れない。言葉にしてしまえば「大変なんですよー」ってことなんだけど、その重み、その苦味。貯金すっからかんにはたいて、銀行から金借りて、不動産死ぬほど見て回って店舗を決めて、内装業者と死ぬほど打ち合わせて、予算で悩みながら方針を決めて施工してもらって(その過程でまたあれこれあって)、オーストラリアでカフェやるんだったら、自分が優秀なバリスタか、あるいは優秀なバリスタを探し当てて働いてもらって、豆選びから焙煎から、カップの選定から、メニューから、スィーツ選びから何からなにまで手塩にかけて育てて、バイト君も変わるんだけど、いい人には出来るだけ残ってもらってとか、もう大変な努力をして、いい店に育てていくものでしょう。それはレストランでもなんでも同じです。
それを売れなくなって休業ならともかく、いきなり政府の意向でシャットダウン!というのはきついですよ。言うこと聞いて店閉めますけど、レントや電気代は情け容赦無くかかってきます。人件費もきついから、家族同様に大事にしてた(小規模のカフェや事業は、こちらでも日本同様ファミリー的にやっている)従業員も切らないといけない、彼らがどれだけ困窮するかも知りながら、それでも切らないといけない。
じゃあもう店を閉めて撤退〜とかいっても、閉めるのも大変なんスよ。日本でもそうだけど原状回復義務とかあるから、全部コンクリ打ちっぱなし状態にもどすのにまた数百万かかるとか。あれだけ選びに選んだ食器類、テーブル・イスの什器類、捨て値で売ったり。
でもって、時が来たら再開すればいいじゃんとか気楽に言ってる人がいるとしたら、阿呆か?です。それだけ優秀な人とモノを集合させるために、いったいどれだけの時間と労力と幸運が必要だと思ってるんだ。「いい店」というのはそれ自体が奇跡みたいなもので、多くの出会いや偶然も必要だし、それらは経済価値として評価できるものではないです。経済学的にというよりも、社会学的に重要な価値があるのですよ。一回壊したら、そうそう容易に再生できるわけじゃないのだ。
それが全土で何百何千何万と一夜にして、おおおお、なんてこったい、です。
僕は率直にいって、もうこの時点で、インフルの数十分の1のために、そこまで犠牲を払わないといけないのかというと疑問だし、もうすでに釣り合いは取れてないんじゃないかって思いますよ。
別にカフェだけではなく、レストランでも、普通のビジネスでも、常連のお客さんに親しまれるまで、どれだけの年月が必要か、どれだけの努力、どれだけの誠実さが必要か。それを、単に「経済」で片付けられたらたまらんという気持ちもあります。
自営にせよ起業にせよ、その人にとっては人生そのものであり、これは実際にやったことある人でないと分からないかも知れないけど、ある意味、限定された一時期とは言え、命そのものって場合もあるのですよ。大企業が、資本にあかせてちょいちょいってやるのとはわけが違うのです。そういう人の人生的な意味、幸福創造的な価値としては計り知れないものがあるのです。そして、それが壊されたときのショック、メンタルヘルス的な損害額というのは、波及効果も含めて(家族が殺伐して崩壊して子供がグレてとか)、途方も無い損失を社会にもたらす。
なんかさー、そのあたりの皆の悔しさや悲しさをちゃんと汲み取って書いている記事や論稿が少ないんですよ。なかにはいいのもありますけど、事柄の社会的な実質や本質が、本当にわかってるの?って疑問な書き方も多いんです。だからこれは言っておきたいのです。
同じようにイベント自粛その他で仕事がなくなったフリーランサーの人たちについてもそうです。どっかのだれかが、フリーターとフリーランサーの違いもろくすっぽわかってなくて政治経済を語っていたが、もう言語道断というか、目に前にいたら、「死ねよ、てめえ」くらい言ってしまいそうだわ。
フリーランサーでメシ食っていけるようになるまでどれだけ大変か。わかりやすくTV局のアナウンサーがフリーになる例でいえば、最初はサラリーマンの雇われでアナウンサーやるわけです。受けようがうけまいが、人気があろうがなかろうが固定給は出る。そんなイチサラリーマンが、フリーで独立するところまでいけるというのが、まず凄い。よほど個性が突出して、がっちり固定客をつかめるだけの技量とキャラと人脈があってこそでしょう。だから、正社員のなかでも超花形、超エリートだけがフリーランサーになれるといってもいい。
これはホワイトカラーでも同じで、商社でもなんでも、給料もらってとある分野に精通するまでは出来るけど、そこから独り立ちして、コンサルで食っていくとか、そりゃ並大抵の能力や努力じゃできないっすよ。
イベント業の個々の内実までは僕はよくは知りません。だけど、映画撮ってる職人集団の人に聞いたことありますが、○○監督を中心にした○○組のような人的ネットワークがあって、大将がいくぞとなったら、皆で仕事をやりくりして集まって、いいものをつくると。イベントだって、毎回似たようなものを判で押したようにやってるわけじゃないだろうし、そんなんじゃ今の時代やっていけないでしょ。どっかの自治体が予算が余ったんで、形だけやるとかいうぬるいのもあるだろうけど、多くは主催者が超本気印で、意気に感じて参加者が集まってくれて、ギャラも激安でやってくれたり、こういうときに頼りになるPAの神様やら、照明の魔術師やらが多分いるんだと思うよ。セキュリティガードは誰それに頼んでとか、パンフやチケットのデザインや印刷、オンラインやWEBは誰に、、、もうたくさんの人達が絡んで、相乗効果で化学反応を起こしていくものだと思います。
それをですね、なんか形の上で自粛の要請とか腰の引けたヘナチョコで(全責任を政府がひっかぶってやるという根性もないまま)、やめさせられて、あまつさえ、それで家賃が払えなくなったとか、生活が立ちいかなくなったりとか、で、どっかに消えてしまう人もいるわけでしょ?夢のラインナップみたいな才人揃いの布陣もできなくなっちゃうわけだし。それらの個々人の損失、そして社会的な損失、それはそれは膨大なものだと思うわけですよ。
そのへんが見えるか見えないか、想像できるか出来ないかはあるんだろうけど、僕からしたら、今の時点で、もう大虐殺の現場にいるような気分ですよ。一面真っ赤な血の海で、そこらへんにわけのわからない内臓とか散らばってて、うわあ、、、という世界です。
そういう犠牲がわかるような気がするだけに、そんな犠牲を払ってまでやらなきゃいけないことなのか、このコロナは?という疑問は、すごいあるのですよ。こういう現場系とかフリーとか、なんかしらんけど、異様に立場が弱かったり、社会的な発言権も乏しかったりして、じっと我慢して耐えるしか無いとかいう感じで、なんだよそのクソ序列は?と、それも僕には腹立つことで。個人的には特になんの関係もないけど義憤にかられるわ。
でも世の中「(犠牲を払ってまでやる価値が)あるに決まってるんだろ、命がかかってるんだ」みたいな論調でいってて、もう聞く耳なしみたいな感じだったりして、これファシズムじゃんって思うのですよ。一つの価値観に凝り固まって、対立する価値観の間で誠実に悩むというスタンスが消えてしまったら、それはまずいでしょう?って。そういった問題意識くらいはせめて持とうよって言いたいですね。
以上、整理すればここで言いたいのは2つ。
そこまで感染防止って大事なのことなの?この局面で?というのが一つ。もうちょっと悩んでもいいんじゃない?って。
もう一つは、リアルに生きてる人々の営みを「経済」の一言で括ってわかったような気にならないってこと。同じような痛みを感じろとは言わないし、僕にも無理だ。だけど、そういうエリアが広がっているんだろうなって想像はできるし、せめて想像しようっていうことが二つ目です。
なぜって、そこまでやって初めて、AとBをどの程度斟酌するかという本来の原点にもどれるのだから。
経済のドミノ倒し〜実体経済全般
失業ドミノがどんどん倒されていっています。最初は一夜にして業務停止を余儀なくされたレストラン、カフェ、パブ、フィットネス、ヨガ、マッサージやネイルサロンなど対人接触系業関係です。これだけで数十万人が一瞬に失業する。次に国境閉鎖や移動禁止による影響で、観光業一般と航空会社など。とくに観光地の産業(インバウンド系)は、中国系観光客の減少という一番初期の段階から被害をうけていましたが、入れもしないし、動きもできないという段階で、ほぼ全般に広まっています。
これらは第一次的に打撃を受けた失業群ですが、第二波として、閑散としたショッピングセンター等で売上が激減するために営業可能ではあるのだけど採算が合わないとして、多数の一般小売店(アパレル系など)が大量閉店します。
Star Entertainment Groupという大企業(カジノなどを広範囲に営業している)は従業員の90%(9000人)を解雇。カンタス航空は約2万人、ヴァージンは8000人解雇。旅行業大手のフライトセンターは3800人解雇。Premier Investmentsという会社(Dotti, Peter Alexander, Smiggle, Just Jeansなどのブランドで展開)は国内に展開している522店のすべてを閉鎖、Accent Group( Athlete’s Foot, Platypus、Hypeなど)は420店舗を閉鎖。
という具合に、すでに惨状がひろがっているのですが、次にくるのは建築業界、製造業などかと言われています。また留学生でもっているような大学や教育関係も無傷では済まないでしょう。これらは感染以上に防止手段というものがなく、こうやってどんどん失業が増えれば、それだけ消費者や購買力が減り、売上が減り、やっていけなくなり、それらが積み重なると、あまり関係ないエリアにおいてもまた広がるという。ホワイトカラーも無傷ではすまず、これらの会社がクライアントになっている会計とかコンサルとかITとかも大幅な売上減少の打撃を受け、しかも世界的にそうだから活路がなく、為すすべもないまま大量解雇の波を受けていく。
そうこうしているうちに、事柄は一過性のものにとどまらず、社会や経済の形を半永久的に変えてしまうとも危惧されています。先走った話ですけど、世界の航空会社は、ほぼ全滅に近いくらい打撃を受け、エリアに一社くらいに統合されるという話も聞いたことがあります。アジアだったら、どこだろうなシンガポールエアかキャセイくらいにまとめられ、日本のJALもANAもほぼ存続不可能だというくらい。More than five million Aussie jobs gone in 10 to 15 years という調査会社のレポートによれば、この打撃の影響は今後10-15年単位で続き、各業界の再編成が起き、500万人の職が失われるという暗い話もあります。オーストラリアの総人口2500万、労働人口1300万というから、500万という数字のもつ巨大さがわかると思います。
以上は実体経済「だけ」の話です。
これにリーマン時代以上に膨れ上がった金融バブルがあり、リーマン時代以降延々国家財政を傾けて手当をやりすぎて、それこそ「逆さに振っても鼻血も出ない」というくらいの各国政府の財政事情があります。リーマンショックは、実体経済に問題があったわけではなく、純然たる金融系の破綻ですが、コロナの場合は上にみたように、まず実体経済にこれだけの被害がくるわけで、話が全然違う。今は、リーマンと比較しないで、もっと昔(1929)の伝説の世界大恐慌(Great Depression)との比較で語られていたりもします。
一方、ウハウハに儲かってる業界もあります。買い貯めパニックでスーパー系はどこも大増収、ひきこもり対策系業界(酒屋や本屋)も400%とか500%増という凄まじい話になってます。Dymocks(書籍大手)も400%増かな。なので、ウールワースなど4大スーパーは年中政府と協議しており、失業人員を積極的に受け入れています。そのあたりの連携はすごい早いですし、ほとんど一夜にして体制が整うくらいの速度で物事が進んでいます。が、不況が長期化し、パニック買いなんて結局は一過性のものに過ぎないから、これらがずっと繁栄を続ける保証はない、というか購買力が全体に減ってくるのだから、当然これらも下がっていくでしょう。
とまあ、経済の影響というのは、想像するだに(てかすでに起こっている事柄だけでも)、えらい話になりそうです。海岸を歩いていたら、水平線に大きな壁みたいなものが見えて、なんだあれ?と思ったら、大津波だった、というような感じです。
なんによらずオーストラリアは反応も展開も早いし、正直なので、ストレートかつ透明に物事の展開が見えます。これに対して日本はどうか?というと、もう考えたくないくらいのレベルです。オーストラリア政府も失業対策にあれこれ頑張ってますけど、一点日本と大きく違うのは、日本が財政借金が一千兆円以上という存在してること自体が奇跡みたいな状態なのに対して、オーストラリアはまがりなりにも財政黒字になっていたわけです。前提が全然違う。だから失業対策を施す体力もある。また、先進国唯一くらい超長期にわたって経済好況を享受してきたので、その強みもあります。余剰体力がまだあった。だからこそ真正面から対処できているとも言えるのですが。
陰謀論みたいな話
で、再び疑問になるのですが、これだけの大影響を覚悟してもなお、感染防止に傾注しなきゃいけないのか、普通のインフルのなん十分の1くらいのサイズなのに?いかに未知数恐怖があるとしても、やりすぎじゃないのか?という点です。それほどのものなのか?という。ここまでくると、やっぱりどう考えても釣り合いが取れないんじゃないか?おかしくないか?と思ったりするのですが、そう感じる僕の方がおかしいのでしょうか?実体経済の毀損といっても、ほとんどその全てがコロナ対策によって生じた人為的なものです。自ら引き起こしたものにすぎない。だから、今やめたらすべてが軽症で回復するんですけど、それでもやるのか?という。
なんでそこまでするのか?論で、すでに多くの陰謀論が出てます。陰謀論そのものは僕は基本与(くみ)しないのですが、それが陰謀なのか、何となくの偶然なのかはわからないけど、この破滅的な事態を積極的にすすめるメリットってあるのか?という考えも出てきます。目先の医療機関の窮状にヒューマニスティックのほだされて、、というだけでは説明がつかない気もするのですよ。なんか他の目論見があるんじゃないの?という、邪推といえば邪推。
意図的な金融バブルつぶし
考えうるのは、一つは、もう金融崩壊は時間の問題だったから、コロナにかこつけて一回バブルを破裂させちゃいましょう、どうせ長いことなかったんだし。金融自体が原因で破裂したら、またあれこれ文句言われたり、将来に大きな規制とかかけられてしまうから、原因を他に転嫁できるコロナはある意味チャンスであるから、この際利用させてもらおうという発想です。と、誰が考えたのか?というと、陰謀論の定番になってくるんですけど、この際誰でもいいです。てか、そんなもん、自分が世界の支配者レベルにならなきゃ分かるわけないだろ?って思いますね。なんでお前に分かるんだよ?の世界です。そういえば昔っからこの種の話はあって、「極秘に知り得た超機密情報によると」とか毎週のように書いてるのがあって、そんな機密情報、毎週週刊誌にバラしてていいんかよ?「お前が暗殺されたら信じてやるよ」ってのがありましたけど、そんな感じ。
でも、もし世界を手のひらの上で転がせるくらいの存在がいたら(超越的な富裕層、てか金持ってるとかいうレベルではない層)にしてみたら、盆栽の枝切りみたいなもので、ちょっとこの辺腐ってきたから、切っちゃいましょうかねくらいの「メンテ」として、やるかもしれませんね。麻雀でいえば、もうダラッダラのクソ麻雀、二翻縛りが満貫縛りくらいになってきたので、強制的にもう「はい、半荘終了〜、次いこ、次」くらいの感じ。
でもそんな漫画みたいな存在がいるのかどうか分からんし、ありようは、市場関係者とか、ある程度のプレーヤーたちの集合無意識みたいな感じじゃないかって気もします。一回ゼロリセットして、また始めからやった方がいいかもねー、みたいな。示し合わせたわけじゃないけど、なんとはなしの意向が合致していくという。
管理警察国家の形成〜人工ファシズムの練習
もうひとつは、コロナ感染防止にかこつけて、国家に大きな権限を与え、国民の行動を常に監視し、箸の上げ下げに至るまであれこれ注文をつけて、逆らったら厳しい罰という状況を一定期間つづけさせること。そうすることで、国民が国家に調教されていくように、なんでも言うことをきくように、あれこれ指図をされる日常に慣れていってしまうこと、それが目的だという説です。これもありそうで、無いだろうなって思います。
だけどね、国家の指導者たちにとっては、自分が号令をかけて国民が動くのは、責任が巨大過ぎて死にそうだとは思うけど、反面、多少は快感だろうなとは思います。
てかさ、いまひとつ生徒から人望を得られていない新任教師が、ちょっとクラスがざわついただけで、ムキになってぎゃんぎゃん叱責するような感じで、号令をかけたけど、一部の人間が従わなかったらめちゃくちゃムカつく心理というのはあると思います。
Social Distancingにせよ、海で一人で泳いでいるだけだったら、別に感染もなにも一人ぼっちなんだし、オーストラリアの強烈な紫外線を浴びてた方が殺菌効果はあるだろうし、なによりも楽しくやってるほうがストレス減って免疫も高まるから、別にいいんじゃないかって気もしますよね。でも、駄目といったら駄目!未だにわからない「大馬鹿野郎」がいるから困ったもんだとか、「口汚く」って表現したくなるほどの避難罵声を浴びせているのをみると、なんか精神の均衡を失しているものを感じますね。
つまり、感染防止が問題じゃなくて、「ルールを守らないこと」自体が非難される。これは法学的には常に興味のある課題で、手段の目的化というか、あからさまに合理性のない場合でも、「規則は規則」で守らないとあかんのか?問題です。見渡す限り誰もいない深夜の大通りで、意味なく長い赤信号を待ってるといつも感じるけど、「交通安全」という本来の目的からしたら、一目瞭然に危険がないときにも信号無視とか成立するのか?という話です。人命のための規則が、しだいに規則のための規則になる。
この対策でも同じで、人命救助のための規則だったのに、だんだん規則のための規則になっていくというバカバカしさ。でもありがちで、そうなると合理的な思考を停止させてしまいますよね。その思考停止な部分が、なんか薄気味悪いんですよー。感染防止が錦の御旗になってしまう不気味さ、合理的に実害がない場合にもヒステリックに糾弾する恐さ、また「皆が一致団結して協力しているに」という「みんな」が正義の源泉にすり替わっていくヤバさ、そういったものがファシズムを作っていく。
新時代創造と今後の戦略
これは陰謀というよりは”陽”謀(そんな言葉ないけど)みたいなものだけど、国家制度も、金融制度も、貨幣制度も、資本主義も、物質主義も、あらゆるものが制度疲労を起こし、賞味期限を超えつつある昨今、人類が新しいステップに向かうために、旧来のシステムを徹底的壊してしまおうという発想です。それをどっかのだれかが企画して陰謀としてやってるとは思えないんだけど、でも結果としてそういう部分があるのは確かです。
今回を機会に、働き方についても否応なくフレキシブルにならざるを得ないし、経済と社会を救済する方法を実践していけば、ベーシックインカムのような方法論に自然にいくし、せーのでこんなに大量に皆で失業することは生きててそんなに無いのであり、この機会にもっとのんびりした、ライフスタイルを考えたり、それが実現しやすい社会構造にしていくべきだとか、いい方向へむかうきっかけになるでしょう。
必要に迫られてどんどん形態を変えていく社会。次々に新しい思いつきを実践していく個々人がおり、団体があり、そういう意味ではすごーく面白いですね。ポストコロナの新時代において、どういう生き方をしていくか、どういうビジネスをなすべきか、死と再生は同義ですから、その後の世界を考え、小さな動きでもなんでもフォローしていくのが大事だと思います。
ところで日本について
ところで最近つとに思うのですが、日本というのは「国家」ではないなと。国家というレベルに至っていないという稚拙な部分もあるんだけど、それが本旨ではなく、なんかもっと別の社会的な実態じゃないかと。
そういう意味ではどの国だって、「国家」というプラスティックの型枠みたいなもので語り尽くされるわけもなく、アメリカは「アメリカという社会的な現象」であり、オーストラリアも、中国もそうだと言えます。独特の個性と法則をもった、独特の人間集団であると。
ただ日本以外の国は、それでも国家という型枠をまだしも使いこなしている感じはします。本来自分らがもってく特性に対して、型枠である国家はあちこちで合わなかったりするんだけど、洋服の仕立直しみたいに寸詰めをしたり、伸ばしたり、それなりに使っているし、使おうとしている。
例えばオーストラリアとアメリカを比較すると面白いんだけど、アメリカってスーパー・チューズデーがどうしたとか選挙が巨大イベントになってドンチャン楽しそうにやってるじゃないですか?オーストラリアの選挙はあそこまでお祭り騒ぎではないです。もっと地味で、静かで(選挙カーもないしね)、真面目だったりします。で、アメリカって選挙であれだけ燃えてるように見えるくせに、実は投票率って50%くらいしかないのですよね。日本といい勝負。投票率がかぎりなく100%の義務投票制度のオーストラリアからしたら、アメリカのあの馬鹿騒ぎと、それに相反する投票率の低さがおかしくて、お前らなんなんだ?って感じじゃないかな。でも、それがアメリカという現象であり、アメリカという社会的な実態が、国家体制という型枠を彼らなりに「使いこなしている」姿なんだと思うわけです。
ひるがえって日本というのは一応国家なんだし、法制度そのものでいえば、世界の一流レベルではあるですよ。型枠としてはかなり優秀なものを持ってます。だけど使ってない、使う気がない。
それは日本人の会議でもそうで、一応、株主総会でも取締役でも学級会でもなんでも、手続的には招集通知があって、議事進行があってとかやってるわけですけど、でも、本当のところは会議の外で大体もう決まっているという。シャンシャン総会って揶揄気味に言いますけど、だいたい日本の会議はシャンシャンですよね。儀式ね。だいたい規模が大きいほどそう。逆に小集団の会議、サークル内部とか、マンションの自治会とかになると、ぐっと白熱して実のある会議になったりもしますけど。
つまり会議でも株式会社でも、形の上では法制度という型枠にのっかってますけど、実態は全然違う。同じように国家という型枠を使ってるけど、別に使いたくて使ってるわけでもないし(明治にせよ戦後にせよほとんど選択の余地もなかったし)、使い方もわからないし、自分ら用にカスタマイズして使い勝手を良くしようという発想もない。うざいんだけど、あるんだからしょーがないやでやってるだけ。
じゃあ本来の日本という社会存在はどんな原理と自意識で動くのか?というと、近代以降の日本についていえば、ほとんど意識なんかないと思います。なんつか、日本列島サイズの超巨大なナメクジやら、アメーバみたいなのが、どてっと存在してて、僕ら個々人はその大きな生き物の細胞でしかない。じゃあ、大きな生き物はそれなりに考えているのか?といえば、アメーバーが何を考えているのかわからないくらい分からない。いっそ何も考えていないといってもいい。ただ存在しているだけ、ただ生きているだけ。
よって個々の細胞である僕らも、ただ存在しているだけ、ただ生きているだけ。また隣近所の細胞とひっつきあって普通にやってれば、それだけで一生そこそこ無難にやれてしまうから、こんなに楽な話はない。考えなくてもいいし、先鋭的な独創性も、ワン・アンド・オンリーの強烈なキャラもいらない、孤独な努力もいらない。ただ周囲といっしょに、付随的に生じる「我慢」だけしておけばいい。それだけだと。
この話は面白くも長いのでこのくらいにしますが、感染マターで感じたことは、この巨大アメーバ論でいえば、個々人が不幸になろうとも、病気で死のうとも、犯罪の被害にあおうともなんであろうとも、貴重な「個」が失われたとは感じない。一つひとつの細胞に個性がなく、個として認識されないように、なんらかの状況で、手足を怪我したとか、潰瘍が出来たとかいうのと同じく、そこらあたりの細胞は損傷するけど、それだけ。また新しい細胞が再生されて全体として回復可能であればそれでいい。
これはどういうことかというと、日本アメーバー内部において、なにかの不幸に陥った個人(細胞)は、そういう状況があるという認識はされるけど、救われることはない、ということです。どんなに本人に罪がなく、純然たる被害者であっても、損傷した、普通の細胞ではなくなったというだけでもう排除される。その損傷過程が理不尽なのか合理的なのかの検証もないし、話題にもならない。
だから、広島原爆で被爆した被害者は、その後同胞たちに温かく迎えられ、癒やされ続けたかというと真逆であり、原爆手帳を持たされ、ヒバクシャであるということで死ぬまで差別が続いた。満州の地で、同胞を逃がすための戦ってソ連の捕虜になった人々は、地獄のようなシベリアで数年抑留され、やっとの思いで帰国したら、ヒーロー扱いされるどころか、一生ソ連のスパイであるという可能性があるから、公安の尾行がつき、就職その他でもあれこれと差別を受け続けた。なんの落ち度もないのに集団でレイプされた女性は、おもしろおかしく週刊誌に書かれ、消費され、十分な慰謝も名誉回復もなにも与えられず、あたかも被害にあったこと自体が犯罪であるかのごとく周囲から扱われ、結婚その他でも支障をうける。
高橋和巳の小説「憂鬱なる党派」の最後の方に、自身被爆した主人公の西村が、大阪のドヤ街の売春婦相手に取り憑かれたように熱っぽく説くシーンがあり、この作品の白眉になるのですが、その意味するところは同じ。これまで天国と地獄があって、人間がまがりなりにもやってこれたのは、悪いことしたから地獄に落ちるというという応報という因果関係があるからだ。それがある限り、人間はある程度は納得できるし、生きていける。しかし、「現代の地獄は」というのですが、その因果関係がないことだと。「なぜ罰せられたのか?罰せられたからだ」という、なんの因果も教訓もなく、悔い改めようもなく、ただただ無意味に人は苦しみ、その徹底した無意味性こそが地獄なのだと言います。
これと同じく、大きな生体が腐ったり感染した細胞部分を切り離して放棄するように、被害にあった人がいくら大量にいようが、それがいかに根拠がなかろうが、いかに可哀想であろうがなんであろうが、ただただ切り捨てられる。なんの救済もない。おそらく切り捨ててるという意識もない、無慈悲なことをしているという良心の呵責もほとんどない。ほとんど事務的なまでに切り捨てられる。公害の被害者であろうが、ブラック企業で心身を病もうが、原発事故で被害にあおうが、そして感染で死のうが、まるで救われないし、救おうとする意思も能力もない。それどころか被害にあったこと自体が罪でもあるかのように周囲から排斥される。それを問題視して語ろうとする人は周囲からうざがられる。
こういうアメーバ日本においては、感染検査をしようが、感染で百万人死のうが、どうでもいいんです。ただ切り捨てられるだけ。だから検査も封鎖も対策も、本質的に無意味っちゃ無意味。でもなんかしないとカッコつかないし、いちおう国という体制でやってるから、それっぽいことはしなきゃねーってくらいのことだと思います。
「神(応報因果)なき世界の地獄」をそのまま体現したような日本ですから、個々人のメンタルは、個人として動いたり決めたりという点に関しては驚くほど弱いのだが、細胞のひとつとして何があってもじっと我慢ということに関しては異様なスタミナをもつ。オーストラリアの場合、そろそろ窮屈感が出てきて、かなりメンタルやられてる感じもしますが、日本人の場合は、ある意味そういうことについては強い。いじめられ慣れているというか、悲しいこと辛いことに慣れている、我慢すること=生きてることみたいなもんだから、そうなると強い。強いからクリアできちゃう、クリアできちゃうから問題意識もでてこないという悪循環でもあるのですけどね。
だもんで総括すれば、日本におけるコロナ問題は、カッコつけたがりの政治家がカッコつけるための題材、「今週のお題」であるという、それ以上でもそれ以下でもない。彼らが金儲けとカッコつけるために余計なことを言ったりやったりして振り回されたりするんだけど、それだけです。ほんとの問題とか対策とはろくすっぽなく、現場の医療関係者の献身によってなんとかするしかないという「いつもの風景」であり、結果としてほとんど大したこともしないまま収束すると思います。いや収束という概念すらないかも。なんせ腐った部分は。ぽい捨てすればいいだけですからね。
一方オーストラリアは全然違う。
オーストラリアの政治は、ガミガミやかましく感染防止を押し付けてくるけど、同時に被害にあった人を救済しようとする。その確固とした意思はある。最初この国にきたころ、「こいつらは」と思ったことがあります。こいつらは、自分らの社会に一人でも不幸なやつがいたら、それだけでいても立ってもいられないくらい不愉快に感じるんじゃなかろか。とにかく意地になってるくらいに弱者を救おうとする。カフェでもなんでも、筆舌に尽くしがたいくらいの苦労をさせられているはずなんだけど、大した文句も言わないのは、それによってお年寄りとか身体の弱い人が救われるなら、それでいいやって本気で思ってるところがある。
政府の経済対策もまず一番に年金、福祉生活者を対象にしているし、大手スーパーはお年寄り専用タイムを設け、今では最前線の医療従事者が戦時中の兵隊さんみたいに皆の尊敬を受けているのに照応して毎週○曜日は医療関係者優先の日とか決まっている。第三弾の救済は、メンタルヘルスで大変な人や、DVの被害者を積極的に救おうとしている。
ある意味はっきりしてて、この国では「弱い人を救う、最後の一人になるまで救う」というのは、当然の前提であり、そのために国家は存在し、社会は存在し、個々人は存在するのだという暗黙の了解があると思う。個人主義だから驚くほど意見が違い、百花繚乱のようなマルチカルチャルにおいても、この一点に関しては圧倒的大多数の賛意は得られると思う。僕もそうだし。
そのどっから来るのかわからない絶対的な無償の善意みたいなものが裏打ちしている限りにおいては、ファシズムのようでいて、まだ救われると思います。
なるほどと思った、善意の物々交換コーナー
要らないものを置いて、欲しい物を取っていけば良いという。いろんなこと考えるもんだなーと。
文責:田村
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