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Essay 926:情熱のミクロと怜悧なマクロ、そして出口戦略

 〜どう考えても辻褄が合わない実数ギャップ
 〜医療キャパへの論点すり替え


2020年03月23日
写真は、シドニー空港。はやく解禁してくれよ。


 コロナばっか書いてて悪いんだけど、時事的な経緯そのものはFBで書きますけど、それ以上に色々な方向に考えが派生する点が面白いです。考えを進めていくと、どの方向にいっても普遍的な問題にぶち当たるので。

数が合わない大矛盾

 とりあえず興味があるのは、どういう形で収束するのかです。
 長期化し米国覇権を潰すウイルス危機 という田中宇氏の最近の論考が面白いです。てか、「そう、それが問題だよな」って部分を書いていてくれていて、ドンピシャでした。僕が言うよりも彼のを読んだほうが分かりやすいでしょうけど、僕なりに書いてみます。

 「問題」というのは人数のケタです。
 コロナの最終形態は、「人口の50-80%の人が罹患して、1-3%が死に、世界的には5-6月がピーク」という「恐ろしい予想」が出てたりしますよね。メルケルさん他、偉い人々が言ってますよね。

 以前のエッセイから何度も述べてるけど、それって、どう考えてもおかしいだろ?と。だって、日本でまだ感染者はクルーズ入れても2000人にも達していない。事実上の感染ゲーム開始であるクルーズ下船が2末だから3週間くらいかかってこれだけ。まあ検査サボタージュで相当数圧縮して、この百倍実数があったとしても(クルーズ以外の実数は今1000人ちょいだから)、10万人くらいでしょう?

 片や人口の5-8割って、日本人口1.25億だから6000-9000万人でしょう。低い方で6000万人だとしても、あとどれだけかかるの?百倍誤魔化しの10万人を持ち点にしても、600倍だよ。額面通りの千人だとしたら6万倍。ピークが5-6月っていえば、締切まであと1−2ヶ月しかない。それで600倍とか6万倍に増えるのか?いやいやピーク=総数ではなく、最終的に累積して5-8割だという言い方はあるけど、ピーク以降ダラダラと続くとしても5-8割に達して収束するまで、10万ベースでも(3週間×)600倍=1800週(54年)、あるいは額面通り千人だったら5400年かかるんだよ。今が21世紀だから75世紀ですか?あれ計算あってるのかな?と焦るくらいの非現実的な数字で、ケタのひとつや2つ間違ってても構わないくらいのありえなさです。

 おかしいじゃん。なんで現在の地点がこれで、人口の5-8割なんて途方も無い数字がでてくるの?これが何回考えても腑に落ちない点で、あまりにも実数が少なすぎる。

 イタリアが超悲惨なことになってて感染数5万人とかいっても、「たった」5万でしょ。イタリアの人口は6000万だから、0.1%にも達していない。これでどうやって50-80%になるのか。本当になるのか、なるとしてどんだけ時間がかかるんだ。

 他の例とのアナロジーでやるとわかりやすいかしらんけど、例えば3週間必死にバイトしてやっと1000円(千円)稼ぎましたってのが現状で、さあ6千万円貯めるんだ〜!ってのがいかに現実離れしているか、です。しかもあと数ヶ月でだよ?例えば僕が、3週間働いて千円しか稼げない小学一年生レベルの甲斐性(肩たたき一回10円レベル)だとして、「いやあ、あと数ヶ月で6000万円稼ぎますよ」と言っても、あなたは信じないでしょう?無理でしょ?どう考えても無理でしょ?

 じゃあなんで世界の偉い人達はこんな非現実的な数字を語っているのだ?

 ここで、検査による数値は氷山の一角に過ぎず、実はその数百〜数千倍の隠れた感染者がいるのだ、だから検査による数を基準にしてはならないという意見もあるでしょう。よろしい。仮に百倍いるとしましょう。そのうちの1%しか検査によって感染が判明しておらず、あとの99倍の感染者は実在するけど認知されていないと。そうかもしれませんね。でもいくら認知されてなくても死亡したら死者数では(非コロナとして)カウントされる。だとしたら、物凄い(99倍の)数の死者の増加がいま進行していることになるのだけど、そうなんですか?そんな話はおよそ流れていないけど。また、99倍いたとしても日常生活にそんなに違和感がないのであれば(周囲でバタバタと倒れているとか、老人ホームは軒並み全滅とか)、それって結局大したこと無いってことじゃないのか。日常暮らしていて気づかないくらいの。ならばその百分の1で大騒ぎするのもナンセンスだってことになるでしょう。

 何を言ってるかといえば、現実に凄い変化が起きているか/いないか、ですよ。検査漏れ暗数が数百倍いるなら、数百倍いたところで現実にそんなに変化がなければ、要するに総体として大したことないってことでしょう。気づかないくらいなんだから。そして、あとでも述べるけど、それが案外事実に近いんじゃないかな。

 あるいは、もっともらしく等比級数モデルとかでてきたりします。倍々ゲームで増えるんだと。今日一人でもあした二人、明後日4人、8人、16人、32人、64人、128人、254人ってやっていくと、2の30乗は、10億7374万1824だから30日で10億になるんだってことです。なるほどね。10億までくればあと3日で全人類コンプリですね。でも、だったらクールズ下船の「種まき」から、もう20日以上たってるんだから、2の20乗である104万8576になってなければおかしいでしょう?イタリアだって初感染は2月22日だからもう30日経ってるわけで、今は8割どころか10億人(全員)感染してる計算になるじゃないか。いくら算術的にもっともらしかったとしても、現実に合致しないんだったら、あまり意味のあるモデルではない。

解釈

 さて、ここで田中氏も書いてますが、2つの解釈が出てきます。

 解釈その1は、実のところ本当にそのくらい広がっている。日本においても、感染者1000人どころではなく、すでに3000万人とか5000万人はかかっている。だけど思った以上にウィルスがヘナチョコなので、なかなか重篤化しない、それどころか今考えられている割合よりも遥かに多くの人々が無症状のまま撃退しているのだという説。

 解釈その2は、「言ってみただけ」説です。人口の5−8割というのが、言うこと聞かない皆をビビらせようとして言っただけ、脅しにすぎないという説。学術的にはあらゆるシュミレのうち、一番深刻なやつを敢えて取り上げただけだと。

 どっちもありうるとは思うけど、これは相反するものではなく、両立します。てか解釈2は、政治的な解釈の問題で、現状の実態把握とはレベルが違います。だけど、5-8割(要するに過半数以上)というのは一つの考える目安にはなるでしょう。

 で、第三の解釈もありうると思うのだけど、ウィルスが広く感染する前に失速してどんどん減ってるという説(あるいは変異で弱毒化してる)。第一が致死率がそれほど高くないという見解ならば、これは、そもそも感染率自体そんなに高くないという見解です。これは第一と相反するものではなく両立しうるものです。つまり、あんまり感染しないし、したところで大したことはないと。もちろんそれで死ぬ人もいあるが、全体の数からしたら微々たるものに過ぎない。なので、問題はそれを「微々たる」といえるか、それとも「大量で深刻」というかという政治的な事柄なのだという具合に話が続きますが、それは後で書きます。

 いずれも楽観的な考え方ですが、でも実数には合うんですよね。
 日米政府が必死に検査サボタージュをやってて実数抑えてるけど、それにしたってもし本当にウィルスが凶悪だったら、そこらへんで死人が数十万という単位でバタバタ出てるでしょうし、隠しきれるものではない。逆に言えば、隠蔽できる程度の実質しかない。隠蔽しようがしまいが大差ないとも言える。てか隠蔽し損なのかな、結局隠蔽しようとする胡散臭さと信用毀損だけがあとに残るという。

医療キャパへ論点が微妙にすり替えられている件

 あと、これも誰も言わないのが不思議なのだが、そもそも各国において微妙に(意図せずに)論点のすり替えが行われていると思います。

 なにかといえば、「医療崩壊」という言葉に象徴されるように、いつの間にか医療機関が処理できる範囲を超えるかどうかがポイントになっているという点です。

 ちょっと待って。本当は、皆の生命健康にどれだけの実害が及ぶか?こそがポイントであるはずでしょう?この両者は似通ってるけど同じではない。レベルが違う。社会全体で価値と価値を比較して慎重にバランスを取る場合、一方の天秤の皿に乗るのは皆の生命健康価値であるべきで、医療機関云々はその健康を守る数ある手段のうちの一つに過ぎない。レベルが違うってのはそういう意味です。


 社会全体の利益衡量として、皆の健康の皿の反対側に乗るのが、皆の生活(経済)です。
 健康という皿を守るためには、他方の皿では多大な犠牲を伴う。イベントの自粛、業界への打撃、仕事ほされてホームレスになる人もいるし、センバツとか目指していた選手は一生に一度の青春の機会を奪われているし、失業、倒産、内定取り消し、金融崩壊も含めて多大な影響が出てます。マクロで判断するなら、それらを片方にのせ、もう片方には皆の命と健康を乗せるべきです。

 でもいつしか医療機関のキャパが天秤に乗っている。いつすり替えられたんだ?

 なぜここで僕が疑問に思うのかといえば、医療キャパといってしまうと、話が現状を前提にしたスケールの小さいものに矮小化してしまうからですよ。そんな小さな現状前提の秤で捌ききれるような問題なのか?と。

 全体とのからみでいえば、医療機関が処理できる範囲なんか絶対に超えるはずで、十分な治療ができずにほったからしで死ぬ人も大量にでてくるだろうけど、その先に全体との釣り合いのポイントがあるのだと思います。なぜなら、どこの国の医療機関であれ、平常時の3倍も10倍も処理出来るのであれば、それは平常時においては過剰設備の放漫経営以外のなにものでもないからです。ただでさえ医療費圧迫でケチケチやってる業界で、そんな稼働率10%程度で優雅にやってる医療機関なんかありっこない。多くはギリギリでやってるかもしれない。

 だからそんなところを基準に判断していくなら、すぐに限界が来てしまう。平常キャパの2倍が限度だったら、2倍以内の災厄だったらしのげるけど、それを超える災厄がきたら、キャパに固執するのは全体のバランスを大きく崩してしまうという意味で危険です。それでもキャパも固執するならば、物凄い制約を経済社会に課すことになるし、現に課している。しばらくはいいかしらんけど、長続きはせず、いずれは全滅レベルになるまで進んでしまうことになる。それでいいのか?です。そもそも人口の5-8割とかいうなら、キャパの数百倍レベルの話になるんだから、キャパなんかにこだわることすら無意味であるとも言える。

 でもね、そうやって大きく釣り合いを取ろうとすれば、医療機関のキャパは当然超えるから、ほったらかしで死んでしまう人も出てくるでしょう。当然の帰結としてそうなる。だけど、それは「しかたがない」って言わなきゃいけない。大きな秤で物事を捌くというのは、ぶっちゃけ「百人を助けるためには10人を見殺しにする」ということです。どうしてもその種の凄絶な汚れ役・憎まれ役を演じないといけない。敢えて人民の怨嗟の的になるという,それが政治というものだし、それが最大多数の最大幸福というもの。病気で死ぬのも不幸だが、借金や経済苦で自殺するのもまた不幸で、そこに優劣はつけられない。なのに、見えやすいものだけ見て、見えにくいものを見ないのはある意味では偽善とすら言えますから。

 でも、平和が続いて軟弱になってしまった今の人類に、それ(多少死んでも仕方がない)はちょっと言えないだろう?とも思います。だからややこしいんですよね、この問題は。というか、このコロナ騒動の本当の問題はそこかもしれない。


ウィルスと戦略

ウィルスというもの

 ここでちょっと雑談になります。
 「復活の日」という小松左京の名作SFがあります。1964年刊行だから50年以上の前の作品とは思えないくらい精密な作品で、著者の先見の明が光るのですが、あれはウィルスで世界人類が破滅する話です(人類だけではなく脊椎動物のほぼすべて)。宇宙空間からとってきたウィルスを生化学兵器に仕立てるために弱毒化しようとしたら、かえって2000倍の猛毒化してしまったMM88型ウィルスがスパイ合戦の末、持ち出される際にアルプスの山越えに失敗して墜落、雪解けとともに感染が始まる。最初は「イタリア風邪」と言われたこのウィルスは、核酸のみで存在し、他の球菌を媒介としてインフルエンザを含むミクソウイルス群に寄生し、宿主となるウイルスの増殖力・感染力を殺人的に増加する、つまりウィルスのウィルスという巧妙複雑な二重構造を持ち、人類はその構造を解析する前に全滅してしまう(最後に解析した医学者が遺言のようにハム無線で残したものが、最後に生き残った南極基地の人々に伝えられるという筋)。

 このウィルスこそが最強のパンデミックで致死率100%。それによって人類が死滅していく経過を、例えば日本の山手線の車内ではこんな感じというデテールがよく描かれてます。今読んでも(今読むからこそか)、面白いですよ。おすすめ。最後、中性子爆弾で脳をやられた主人公が、それでも帰巣本能のように仲間のいる南極に向かって、ワシントンのポトマック湾から死滅した北南米大陸を2年かけて歩き続け、チリの先端までいくのですが、そういう発想が凄いです。

 もうひとつは村上龍の「ヒュウガウィルス」で、これも小説を書くために村上龍が専門家に聞きまくって、勉強しまくって書いたというだけあって、面白いです。そこでウィルスとは〜という素人に理解しやすい表現で書かれていて、「極端にいえばウィルスは人間を人間ではないものに変えることができる」「しかしウィルスに悪意はない」。

 これらの本で読んだのかほかで読んだのか、なるほどと思ったことは、ウィルスほど可憐でか弱い生き物はない、ということです。そもそも生物と非生物の中間に存在するウィルスは、それ自体がプログラミングともいえるもので、コンピュータのウィルスと本質において同じ。生物の体内に入り込み、その宿主の細胞の資源をつかって自己複製し、DNAを書き換えてしまう。

 なぜこんなものがあるのか?といって、神様じゃないからわからないけど、ヒュウガウィルスで語られていたのは、生物は非常に変化に弱い結合をしており、化学反応や電気反応で作動するようになっているので、ちょっとした障害ですぐに壊れてしまう。だが、すぐに壊れるほど不安定だからこそ、進化ができたのであり、ウィルスはその進化を促進するためにあるようなもの。もし生物(人間)が、絶対に壊れないほど分子構造が安定していたら、それはすなわち鉱物になってしまい、数万年生きられるが、そもそもそれは生物ではない。

 ウィルスは単体では生存できない。常に生物に寄生していないとすぐに死んでしまう。必死の生き残りをかけて、空中ブランコのように宿主を変えようとするが(感染)、うまくいく確率は非常に低く、仮に体内に侵入したとしても、自分を受け入れてくれる細胞壁のところまでたどり着かなければ、宿主の免疫システムに殺されてしまう。成功率は0.01%だという(ものによるだろうが)。ただ一滴の血に30億くらいいるので、とにかく量は膨大でありうるので、その程度の成功率でもなんとかなってるのだろう。

 免疫システムに殺されず宿主内でぬくぬく暮らせたとしても、やがてやりすぎて宿主を殺してしまうから、また旅立たないといけない。あるいは時間をかけて宿主が回復してきたら免疫でやられてしまう。いずれにせよウィルスには安息というものが無い。

集団免疫の発想

 と長々書いたのは、話題にherd immunisation(集団免疫)の発想とのからみです。
 このようにウィルスは絶えず宿主を変える以外に生き延びる方法はない。感染しつづけないと絶滅してしまう。そこで、感染するわけだが、感染先の宿主がすでに抗体を持っていたら、一巻の終わり。ちなみに抗体は、抗体そのものが反撃するわけではなく、個別の対象に付着してマーキングするのが役割。体内の免疫システム(NK細胞とかマクロファージとか)は、抗体がつけたマーキングを目指して攻撃するか効果的に反撃できる。

 集団免疫の発想とは、それほど致死率が高くないウィルスの場合、感染がひろがって誰も彼もがすでに感染し、抗体をもっているとしたら、誰に感染したところでダメだから、どこにも逃げ場はなくなることで絶滅するという発想。実際上、全員が抗体を持っていなくても、大体6割そこら(過半数)が持っていたら算術的に減少していく。対象宿主の感染可能性5割を切ると、やるたびに半減し、半減し、しまいにはなくなるという計算かな。

 ウィルスの変異でいえば、彼らにとってもっとも有益な変異は弱毒化による共生。逆に猛毒化してしまえば、次々に宿主を殺し続け、最後には誰もいなくなって自分らも死ぬしかないからよろしくない。実際、長期においては弱毒化していくものがあるらしい。変異して生き残るというよりは、変異したものだけが結果的に生き残るってことか。

 この集団免疫の発想によれば、感染対策は、特になにもしない、ことであり、感染によって重篤化しやすい人々だけを重点的に保護することになる。感染しても無症状ないし、風邪程度で回復するような強い連中は、ある意味、どんどん感染してもらって抗体者を増やした方が良い。

 先程の人口の5-8割というのは、これに照応しているのかもしれない。そのくらい感染すれば(抗体保持者が増えれば)、もう収束せざるを得ないという意味で。

2つの戦略

 ならば、やはり最終的には人口の5-8割というラインであり、ここで2つの戦略が出てくる。

 A:なるべく早く感染を進ませて全体の5-8割の人が抗体をもつようにするという考え方
 B:できるだけ感染の進行を遅らせるという考え方

 イギリスなどは積極的にAを提唱し、多くはBで頑張り、日米はボケっとしてる間に結果的にA的に進行しているって感じでしょうか。

 どちらも利害得失はある。
 Aの利点は、戦略が明快であり、資源を感染危険者(お年寄りとか)に集中できるという点。さらに重要な点は、経済活動の制約がもっとも軽いという点。なんせ元気な連中にはせっせと感染してもらった方がいいだから、いつもと同じように生活すれば良く、経済影響は一番少ない。この利点は非常に大きい。
 また、Bをとって一時的に感染をゼロ近くまでで抑え込んだとしても、経済活動を復活させていく過程でまたどんどん感染が増えてしまい、出口戦略がない。これは致命的だと思いますよ。仮にシャットダウンに次ぐシャットダウンで、「全員そこを動くな」的にトイレにすら行かせてもらえないくらいに拘束しまくって、見事感染者ゼロ!を達成したらどうするの?それって最高の状況なんだけど、同時に最悪な状況でもあるんですけど。特にオーストラリアのように、観光と留学生と、もう一つ隠れた経済の原動力である移民を失ったたら、昔ポール・キーティング首相がアジってたように、バナナ・リパブック(バナナしか国際競争力がない貧困国)になっちゃうよ。しかしなまじゼロとかにしちゃうと、今度国境をあけるときにメチャクチャ勇気がいる。てか出来ないじゃん。だから最悪。結果として非常に長い間経済抑圧状況が続くことになり、それは国家社会経済の崩壊を招いてしまう。遅かれ早かれ過半数抗体状態がゴールならば、必死に防止したところでいたずらに苦痛を長引かせるだけとも言える。

 ただし、Aの難点は、本当にそんなにうまくいくのかという点がひとつ。どうしても弱者にしわ寄せがいってしまうので、そこが原理的にどうかという話もある。つまり身も蓋もなく言ってしまえば、大多数の強者が、少数の弱者を犠牲にして生き残るという非常に後味の悪い形になってるということ。

 なのでAをとるにしても、出来るだけ高齢者などへの被害を少なくするために、その進行については適宜調節していくしかないことになる。その限度でBと似たような感じになる。

 Bの利点はガチガチに固めて抑制し、弱者と医療機関を守っている間に、ワクチンや有効な薬剤を開発していこうということ。しかし、普通のワクチン自体あんまり効いてないという説もあり、薬の効果もどれほどか微妙とも言える。他方、ガチガチに締めている間に、国内経済は日に日に崩壊するか、それを防ぐために国が補償するにせよ打ち出の小槌は無いのであるから、いずれは国家が破綻する。ないし世界的な金融崩壊が大津波のように襲ってきて、全てを流してしまう可能性もある。

 非常に悩ましいですよね。

 ただね、そうだとしても、田中氏が(僕も)述べている実数ギャップはまだ残るのですよ。

 たとえばAにせよ、Bにせよ、いずれ人口の5-8割をゴールとするなら、今のこんなペースでやってたらいつまでかかるか見当もつかない。70世紀というのは冗談レベルにせよ、実際問題、経済の方で長々やってる余裕はないでしょう。マックス半年ももたないんじゃないかな。市場においては、すでに「リーマンショック以上」という見方が流れており、コロナがあろうがなかろうが、これ自体がすでにアラーム鳴りまくりです。今の時点で、です。

 収束点としては、案外そんなところかもしれません。世界金融が崩壊してきて、ドドドと津波が押し寄せてきて、何もかもを壊し始めたら、コロナどころではなくなるという。「コロナ?なんだそりゃ、そんなこたあどうでもいい」という、「そして誰も気にしなくなった」という収束点です。


情熱のミクロと怜悧なマクロの衝突

転換点

 B戦略を取る限り、どっかで転換点は必要になるでしょう。

 「多少の犠牲はやむをえない」という、一番言いたくないことを言わねばならない転換点。

 もしかしたら各国の政治家達は、それを言うタイミングを伺っているのかもしれない。皆が納得するタイミング。つまり、経済がいよいよ危なくなってきて、いくら手当しても、そこかしこと失業者の群れが出来、船でいえばマストが折れそうになったり、船体のどっかに亀裂がはいってどっと海水が流れ込んできて沈没の危機がリアルになってきたあたりで、「背に腹は代えられない」「やむをえない」として、180度かえて規制の全面解除をしていく。

 規制する以上、どこかで解除するわけで、それが出口戦略になるのですけど、見てると目の前の現実にあおられて出口戦略のないまま国内外にロックダウン鎖国をしてしまったかのようにも思えます。でも、僕が思いつくようなことを、優秀な彼らが思わないわけはないだろうから(日米に関しては微妙だが)、頭には入ってるとは思います。だけどそれを言い切る胆力がないのか、機が熟するのを待っているのか。

 思えば、戦国時代とか、世界史の荒ぶる時代(ほとんど全部そうだが)の群雄割拠の親玉クラスになると、人の命なんぞにほとんど価値を認めておらず、なにかで読んだけど「命なんてものは、幾ら殺しても、あとからあとから地べたから蛆虫のように湧いて出てくるわ」とうそぶいているという。人間性という意味で非常に問題がある発言なのだが、反面、そのくらいの感覚で仕切らないとあの時代はやっていけないのかもしれない。

 何を言ってるのかといえば、問題や課題にはサイズというのがあって、比較的小規模な課題の場合(平時にはほとんどそう)は、ミクロ的な生命尊重、人権重視、公正と正義という路線でやっていけるし、やるべき。平常時はそう。しかし、数十年に一度くらいのマクロレベルで処理しなくてはならない大規模な問題になってくると(滅多にないけど)、百万人であれ、ひいては人類の半数であれ、平然と殺さないといけない、さもないと全滅するという局面だってあるかもしれないのですな。昔の荒っぽい時代は平然とそれが出来たというか、成り行き上そういうことになっていった。でも、これだけ発達して平和な世の中が続いてしまったら、そんな豪快すぎることは口が裂けてもいえないでしょう。

 世の中で僕らが見聞きするドラマも、大体、こういう大所高所に立った無慈悲な計画をする政府は、悪の権化的に描かれますよね。マクロの合理性よりもミクロの感情を優先させるのが美談であり、主人公をそっち側に置いて「愛は勝つ」的なドラマになってたりします。そういう無慈悲(だけど合理的)な事を言うのは、血も涙のない悪の帝王か、国家を裏から支える怜悧な官僚という悪役タイプだしね。またミクロ目線でやった方が共感性はでかいし、感動するしね。

 でもミクロ優先は、それはそれで一つの考え方ですよ。自分ひとりの恋を成就させるために全人類を殺してしまうとかね(笑)。個人的には嫌いじゃないです。それはそれは感動的に美しいんだけど、でもやってることは悪の帝王よりもひどいことだったりする。

 それに実際の世の中では、そういった大義名分を私欲のために勝手に振り回しているという醜悪な場面も多々あります。てか、戦争でもなんでも、ほとんどがそうかもしれない。そんな高所的な判断をできるような人間は、結局はいないし、そう自称する人間がいたとしたらニセモノだというリアルな発想もありでしょう。

 あるいは私利私欲ではなく、本当に理念に殉じている人が一番ヤバいという説もあります。自国民の3分の1を殺したカンボジアのポル・ポトだって、素顔はめちゃくちゃいい人で、誰よりも純粋だったとも言われます。純粋だからこそ殺せた。私利私欲で殺すなら、私利私欲に関係ない人は殺さないけど、理念理想に限界はないから歯止めが効かない。フランス革命後、恐怖の代名詞になったロベスピエールも、個人としては非常に真面目で公正な人物だったという。真面目で公正だから殺しまくった。


 もうここまでくると、ほんとわかりませんね。
 それは人類永遠の課題であり、同時に現代における普遍的な課題ではあると思います。大量の命を失わしても良しとするほどの大きな問題を人は解決できるのか、解決できるような政治システムを僕らは築いているのか、個々人は納得できるのか、そんな納得など必要ないのか、もっといえば民主主義など時と場合によっては踏みにじる方が最適解なのか?です。大多数が間違ってる場合、そしてそのミスのために全滅するのが見えている場合、それに従う必要はあるのか。難しい問ですね。

 僕がリアルタイムで興味を惹かれるのはそこです。情熱的なミクロと、怜悧なマクロとのせめぎあいであり、人類の本当の知的キャパはどの程度なのか、です。

実数ギャップと本当のところ

学級委員長みたいにうざい政府とメディア

 しかしですね、なおも実数のギャップが気になりますね。政府やメディアがヒステリックになりすぎてるのでわかりにくいですけど、実数が大して伸びてない。

 NSW州で48時間のシャットダウンをやるとか言ってるけど、NSW州ではすでに日本の累積検査数の4倍をこえる5万件以上検査をしています。そして、その結果は99%シロです。日本の4倍以上(人口比でいえば50倍以上)検査して99%シロだったら、まあキレイなもんですわ。州人口750万で、感染者が500万人とか50万人とかいうならパニクるもわかるけど、たったの500人ですからね。今から20倍に増えても750分の1。今は1万5000人に一人くらいだから、町歩いてて感染者に出会うことすら至難の業でしょう。1日歩けば一人くらいはどっかですれ違ってるかもねって、相変わらず天文学的な数字でしょ。

 「日々感染者数が増えて」とか当たり前のことを叫んで(累積数なんだから減るわけないだろ)、しかも増え方も全然等比級数的ではない。等比でいくなら今日500人だったら明日は千人、明後日は二千人くらいにのびなきゃ。でも積立預金に毛が生えた程度の伸び方です。

 逆に言えばこんな調子だったら、いつになったら「人口の5-8割」になるのよ?ってことです。99%シロで喜んでる場合じゃないんだよ、50%クロにならないと意味ないんだよね。こんなんじゃあと百年くらいかかりそうだ。でも実際半年以上のスパンだったらもう意味ないでしょう。それより遥か手前で経済でコケて、社会自体がコケていくでしょう。

 今だって、ヒステリックに騒ぐ政府やメディアがだんだんうざくなってきてますもん。「うるせーなー」って感じで、先日夏のぶり返しのように1日だけ35度になった日には、ボンダイビーチがすごい人出で、それがセルフィッシュだの馬鹿の集団だの非難の的で、すぐにビーチ禁止令が出ました。翌日はガラガラになったけど、実際のところ気温が10度以上下がって24度になったので海に行く気にならなかったといのが実際でしょう。それですら堂々とサーフィンしてる連中がいたし。もう確信犯ね。お前ら(政府)の方がおかしいって。

 皆も口には出さないけど、うざいなとは思ってる人も沢山いるとは思う。僕も思うし、ヒステリックになってる政府や専門家筋、わかったようなことを上から目線で説いているメディアや追随者とか、なんか狂信的でキモい連中だなって気もするよね。

 スーパーの買い出しだって、政府やメディアがいくら落ち着けとかいっても、皆全然聞き耳持ってないもんね。つまりね、ほんとのところでは、政府やメディアなんか大して信頼されてないんだと思う。みんな個々人で自分の判断で動いているわけで、パニックになるなって一番パニックになってるのはお前(政府やマスコミ)だろ?って冷ややかな視線で見てるところはあると思う。経済対策とかいっても、結局なんかややこしいコチャコチャしたことばっかやりおって、貰おうと思ったらうんざりするほどのレッドテープ(下らないお役所仕事の意味)があって、机上の空論ぽくて、それにも白けているという。キンキン声で「自習時間は静かに」とか注意して、皆にうざがられている学級委員みたい。

 だけどね、矛盾するようだけど、彼らが私心なくやってるのもわかる。
 日本のあれこれみたいに、どっかしら裏が透けて見えるような薄汚さはここには無い。本気でお年寄りや人々のことを考えて、一人でも失いたくないって真摯な気持ちは伝わってくる。そこに嘘はないだろう。だから、うざいけど、レスペクトはするし、従いもする。いいぜ、やってみなよって。こっちも収入減るわ、生活きついわで大変だけどさ、つきあうぜ、できりゃあ誰も死なないのが一番いいもんなって、そんな感じじゃないかな。

 とはいうものの、スコット・モリソン首相も、NSW州のグラディス・ブレジクリアン知事( Gladys Berejiklian、みんな読めない→ここ参照)も、今ひとつ人望ないしなー。暗いし。真面目なんだろうけど。モリソン首相は、「スコモー」とか半ば蔑称のように呼ばれてるし(やっぱお正月ハワイ・山火事ミスり事件が痛かった)。先代の、ターンブル首相は、いかにも英国紳士的でゆったりした貫禄あってよかったですねー。結局何もしなかったけど、今世界のリーダーは余計なことをしては国民に迷惑かけてるから、何もしないのが一番ですわ。それにくらべると、スコモーくんは、なんかいつも不機嫌なカフェのオーナーみたいな、細かいミスをほじくってはバイトのワーホリを叱り飛ばしているような、そんな印象があり、見てるとだんだんムカムカしてきますね(笑)。

 それに政策的にもどうよ?って批判あるのよね。結局、スポーツ振興不正疑惑は知らんぷりしてるしさー。今回のシャットダウンだって、学校だけはカタクナに開け続けるというし(学校閉めると医療関係者の30%は仕事ができなくなるらしい)。エッセンシャル外出はOK、ノンエッセンシャルはNG、あとはコモンセンスで判断しろって言うけどさ、一番肝心な「仕事」はどうなるの?ということについて全く触れていないじゃないか。NSW州とVIC州が、とりあえず様子をみましょうで48時間刻限を切ってやってみようと慎重な態度に出ているのに、それを上書きするように全国的に向こう半年間とか馬鹿なことを言ってるし。そこらへんは州にまかせろよ、細かいことに口出し過ぎなんだよ、器が小さいなーって印象もあるわね(※補足:これをUPしたあと、NSWとVIC州は連邦(首相)に逆らって学校を閉める=イースターホリデーを前倒しにすると発表し、反旗を翻しています)。

 それに比べると、イギリスのボリス・ジョンソン首相は見直しましたね。世界で率先してA案を採用し、「多少死んでも仕方がない(これから皆さんの愛する家族が沢山失われるでしょう)」とハッキリ言いましたからね。いやあ、根性あるわ。見直したわ。ブリグジットの混乱時期にちょろっと出てきたお調子者かと思ってましたけど。


それでも実数ギャップ 

 最後に、しつこくてすまんが、それでも実数ギャップがひっかかるんですよー。なんでこんなに少ないの?

 それに、アジア諸国は半分もう終了感があるでしょう?
 中国も韓国も、すごい数だとかいうけど、全体の14億とかいうオーダーからすれば、微々たるレベルで収束してます。日本だって、意図的に(そして能力的、やる気的に)大したことしないで、ほとんど放置みたいなもんだけど、それでも爆発的に増えてる感はなく、なんとなくまったり落ち着いている。いくら隠蔽に隠蔽を重ねようが、本当は国民の半分以上死んでいたら(1%でも百万人死ぬわけだから)、それを隠蔽、、なんかできっこないから、大した実数でもないんでしょう。1ヶ月で百万も死んだら、ただでさえオーバーロード気味の火葬設備が間に合うわけがなく、医療崩壊よりも先に火葬場崩壊が起きて、そこらへん死体だらけになってるから嫌でも気づくでしょう。

 あー、日本はもう大丈夫でしょ。未だに、○県で一人発見されましたという、一人二人のレベルで報道があるってことは、結局その程度だってことでしょう。これが真剣にカタストロフィックになってたら、百万単位の話になってるはずだし、東京都だって強制遮断すべきだって意見が官民から出てきても不思議ではないでしょう。そんな話になりそうもないもん。

 もしかしら、ていうか多分そうだと思うんだけど、国民の5-8割とかいうはるか手前、1割もいかないうちに皆が手を洗うとかそのくらいのことでウィルスも行き場を失って(移動しても内部に潜り込む前に洗い落とされるとか、入ったとしてもあっさり駆逐されて)劇的に減ってるのかもしれない。

 あるいは、(さきにも述べましたが)本当に半分くらい密かに感染が進んでいて、でもヘナチョコだから、ほとんど体内の免疫機構にやられちゃているか。つまりこれまでに感染して、抗体もできてるのかもしれないけど、検査時にはいなくなってるから陰性になってるという。

 その両者は、人口の何割かってことでは相反するけど、実態においては必ずしも相反するものではない(感染に失敗したり、感染しようとしても撃退されたり)、多分そこらへんじゃないの?って気はしますね。

 いずれにせよ本当のところは、全数検査を毎日のようにやって、同時に抗体が出来ているかどうかの検査もやって調べてみる必要があるけど、手間暇&金がかかりすぎるから、永遠にミステリーになるでしょう。

 だから、田中氏も書いてますけど、欧米もしばらくしたら一段落するとは思います。問題は、振り上げた拳を下ろせるか?ですね。もう実害は去っているのに、まだあると思って、あるいは自分らで意味なくハードルを上げすぎてしまって、必死こいて対策を取り続け、そしてその対策によって経済を殺しつづけ、経済崩壊で何もかも失うという愚劣なパターン。結局、過ぎてみれば皮肉なことに、その「対策」とやらがウィルスそのものよりも一番実害をもたらしたという。ありがちな。

 なので、僕のなかでは、次の興味の焦点は、出口戦略です。

 さあ、どうやって禁止を解除するのかな、今更そんなこと言えないし、解除するきっかけや大義名分がないとか、これまでさんざん煽っておいて、今更手のひら返せないとか、「今更メンツ」にこだわるかどうかですね。ちょっと意地悪な視線ですけど、そのあたりが注目ポイントかと。







文責:田村


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