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Essay 924:トイレットペーパーと魔女狩りの構図

〜嘘が実体化していく恐いメカニズム


2020年03月09日
写真は、シドニーのボタニックガーデン

トイレットペーパーと魔女狩り

日本人=地球人

 僕らが「日本人は〜」と思うことは、多くの場合は「人類は〜」と主語を置き換えることが可能です。僕はこのことを、四半世紀前にオーストラリアに来てから学びました。日本だけだと思ってたことが、意外とそうではなく、およそ人間だったら誰でもそういう傾向があるということ。

 僕らはどうも自意識過剰なのかもしれない。なんせ極東の島国というド辺境の田舎者ですから、話が世界レベルになるとどうしても自分が浮いてるんじゃないか、自分だけ違ってるんじゃないかという優越劣等ないまぜの、まさにコンプレックス(複合感情)を抱きがちで、それが自意識過剰になるのかなと思ったのですけど、それすら世界共通であるようです。どうもオーストラリア人はオーストラリア人で、世界で自分らだけ的な複雑な感覚をもってるっぽいし、こんなん誰でも同じやんって感じですね。だから自意識過剰であると思うこと自体がすでに自意識過剰であると。

 今回のトイレットペーパー争奪戦についてもそうで、最初は日本だけの話だと思ってました。報道されるタイムラグもあったし。まだオイルショックやってるのかとか、海外から入ってこなくなるというデマに踊らされおってとかいう文脈だったんですけど、遅ればせながらオーストラリアも「参戦」して、ふと気付いたらアメリカもそうで、香港もそうで、イタリアもそうで、、あとはフォローしきれてないのですけど、少なくとも日本人という属性でこの問題を見ないほうがいいんだろうな、と。

 これは「およそ人間というものは」と考えるべきだろう。
 そして、およそ人間というものは、なにか危機的状況になると、とりあえずトイレットペーパーを買い溜めておこうと思う生き物、全員ではないにせよ、そういう行動に出る人が一定比率でいる生き物のようです。面白いね。

なぜトイレットペーパーなのか、何が起きているのか

 なぜトイレットペーパーなのか?という考察が世界中の新聞やネットで考察されていて、これも面白いんですけど、どうもあまり合理的な理由はないようですな。欠乏するからというファクトや論拠が問題なのではなく、むしろ「無いとすごく困るものはなあに?」という点に発しているようです。原因ではなく結果からのアプローチですね。

 でね、一番「なるほど」と納得した理由が、どっかのスーパー関係者だったかが指摘してたんですけど、トイレットペーパー(ティッシュも)は、「嵩張るからすぐに無くなる」そうです。毎日何便も巨大なトレーラーで入荷してるわけですけど、ペーパー類はとにかく嵩張る。すごい場所をとる。だからそればっか一気に持ってこれない。また山積みにしておいておいても、いつもよりも余計に6人か12人くらい("ハーフダーズンかダーズン"って表現で言ってた)が一人2−3個買っていくだけでもう空っぽになってしまう。

 一方来店するのは何百、何千人というレベルで来るわけです。以前、Colesでトロリー収集やってたとき、ピークタイムになると回収して戻しても戻してもすぐにトロリーが空になるので、ひーこらいってましたけど、見てたら、もう1秒に一人くらい入店してる感じがする。もし本当に一秒にひとりだったら、1時間に3600人入店していることになります(60×60)。Colesは朝の6時から夜の12時までやってる店が多いから、1日18時間、単純計算で3600*18で64800人。印象だからアテにならないし、ピーク以外はパラパラなので大幅に差っ引くとしても1万人位いっても不思議ではない。

 そして、その数千だの万だのいう単位の人数のなかで、ほんの10〜20人が買ってしまえば、もう棚が空になる。ビジュアル的には棚が空っぽになってるから凄いことが起きてるようだけど、現象的には大したことが起きているわけではない。「誰も彼も」が買ってるわけではなく、圧倒的大多数はそんなことをしておらず、ごくごく一部が買ってるに過ぎない。ものすごいマイノリティが行ってることが、ビジュアル的にはものすごいマジョリティがそうしているように見えてしまう。錯覚なのだってことですね。

嘘から出た真〜フィクションが現実になっていく恐ろしさ

 次にここからが面白いのですが、「嘘から出た真(まこと)」って言葉がありますが、嘘だろうがデマだろうが、それに基づいて何らかの発端がこの世に出現すると、段々リアリティを持っていくという現象です。マンガなどのフィクションの主人公でも、都市伝説のように「俺は見た」「私も見た」と目撃者が増えていくと、実体化してきて、本当にそういうキャラの人物が現実に生じるようになるような。

 嘘であろうが、その嘘にもとづいて現実に誰かが行動に出たら、だんだんその嘘が実体化していってしまうという恐さです。なんか量子力学の世界みたいですねー、シュレディンガーの猫みたいな。現実世界において「ある」「ない」は同時存在していて、人が何かを行動することによってその有無が実体化するという、まさに。

 トイレットペーパーもまさにそれで、「ははは、そんな馬鹿な」とか思ってても、いざ自分がスーパーにいったら本当に空になっていたとします。それも行く店どれもそうだったとします。それはありうるんですよね、なんせ買物客の1%以下(店によるが)くらいの人数が買いまくったらすぐに空になるんですから。年中補充もしてるんだろうから、それがまだ残存してるときに見るか、切れてしまったときに見るかというタイミングもあるでしょう。たまたま信号にいったら赤だったとか青だったとかような。

 ともあれ、たまたま「どこにいっても品切れ」という状況に遭遇した場合、「あれ、本当に無いじゃん」「しゃーないなー、みんなほんと馬鹿ね」とか思うんだけど、同時に「これっていつまで続くのかな?」と思うと微妙に不安にもなります。補充したら買いまくり、また買いまくりで一巡して収まるまで何ヶ月かかるんだ?うちにはまだストックあるけど、それが切れるまでに収まればいいけど、もし収まらなかった場合、、、それはチトいやだな〜と思う。

 そうこうしているうちに、今度はたまたま品切れになってない売り場(補充したばっかのタイミングで)に遭遇したとき、「お、チャンス。一応買っておくか」で買うから、結局、パニック買いが広がっていくわけです。

 おそらく最初に買ってる人たちは、そのあたりが株の売買のように敏感な人たちだったのかもしれない。つまり、(事の真偽はどうでもよく)そういう「噂(話題)」が出た以上必ず買う奴が出てくるし、割合的にはごくごく一部の奴がそうしたとしても、現象としてはパニック(少なくとも「話題」)を誘発するに足るような現象が生じる。導火線に火がつく。1%の人がそうするのを見て次に2%くらいの人々がそうする、それを見た4%くらいの人たちがまた買う、気がついたら倍々ゲームで過半数がそうする、かもしれない。他方、いつ平常化するかの保障もない。こんな調子で広がるなら、「いつまで経っても空っぽのまんま」「店や政府が大丈夫というのも嘘じゃん」「マジやばいかも」って気になるから、広がっていく。

 特にオーストラリアの場合、品切れになったまま数ヶ月放置なんてのもザラにある。日本の22倍の広大な大陸ですからロジスティクスも大変。ガンガン輸送すればいいっていっても、あんな嵩張るだけで単品単価の安い物ばっか輸送してたら赤字じゃないか。10トントレーラーを数千キロ走らせるだけで、ガス代、人件費、車両の減価償却が相当にかかる、あんなものばっか運んで元が取れるのか?という気もする。スーパーのロジスティクスは、そのあたりギリギリに最適化してあるはずで、いきなりそのバランスを崩したりもしにくいだろう。また、臨時に増やすといっても、そんなに遊休車両と人員が沢山転がってるわけではない。転がってたら失業なり倒産ですからね。あまり多くを期待できないんじゃないか。また経験的に、「見たら買っとけ」というのがあるから、買えるときに買っておくべきというのが合理性もある。

 以上つらつら考えて、しかも最初の時点でそこまで(漠然とでも)予想してたのだったら、彼らは「買い占めに走るアホ」という印象とは異なり、意外とアホではなく、どうかしたら賢いかもしれない。

合成の誤謬

 こう考えるとちょっと怖くなってくるのですよ。
 パニックってほど誰もパニックになってなくて、一人ひとりは案外合理的に行動してるとすら言えます。それぞれに置かれた状況を冷静に分析し、それぞれ最善と思われる行動をしているに過ぎないと。しかし、個人的には合理的にやってるんだけど、トータルとしてみると実に馬鹿馬鹿しい騒ぎになってしまう。

 これが経済学などでよく言われる「合成の誤謬」で、皆が合理的に動くと、総体としてはとてつもなく不合理な自殺行為になってしまうという話です。景気が悪いから、財布のヒモを締めましょう、節約第一とか思うのは、ミクロレベルでは合理的かしらんけど、皆がそれをやるとさらに景気は悪くなる。一段と景気が冷えてきてので、さらに節約をするとさらに景気は悪くなるという地獄スパイラルになる。

 合成の誤謬は至るところにあります。選挙なんかもそうですけど、バイトを休んで、日給1万円を損してまで選挙にいってられないって若年層が多い場合、結局、投票者のなかの若年比率は減る(高齢者の比率は増える)。そうなると政治家的には高齢者優遇の政策をしたほうが選挙に通るから、まわりまわって日給1万円なんかぶっ飛ぶくらいの大損を若年層はしているってことになります。現実にもそうだと思います。

 クラスの中のいじめでも、あるいは地下鉄車両のなかの迷惑行為でも、「おい、やめろよ」と皆が言うならともかく、一人だけそれを言うと逆ギレされて今度は自分がターゲットになってしまう。正義は確かに大事だけど、自分の生命身体を賭けてまでやるほどのことか?というと、微妙に逡巡してしまう。不正がまかり通ってる会社や業界でも、勇気を持って内部告発した人が、その後の人生で、一生幸せに暮らせる保障がどこにあるんだ?と思えば、多少のことだったら我慢してやり過ごそうと思う。だからどんどん追い込まれる。

魔女狩りや差別、虐殺

 それが昂じると魔女狩りになるのでしょう。魔女なんかいるわけないじゃん!って、当時の人だってある程度はそう思ってたのかもしれない。だけど、当時のことだから「もし万が一」とかとも思う。もしかして本当の魔女だったら、あとで自分が殺されてしまうかもしれない。だったら、今のうちに殺しておいた方がいい、可哀想だとは思うけど自分の身には代えられないし、どんな不安の種も潰しておきたい。自分はともかく、この子達の将来を考えたら、より良い未来にしておきたい。

 一方ここで、みんな冷静になろうとか迂闊に言ったりしたら、お前も魔女の仲間だろうとか邪推をされて、今度は自分がターゲットになってしまうかもしれない。そんな命を賭けてまで言うべきことなのだろうか?というと、やっぱ尻込みしてしまう。

 関東大震災のときの朝鮮人虐殺も、混乱に乗じて攻めてくるとかいうデマが発端らしいけど、これは今の世界の移民騒ぎでも、ネオナチでも同じです。ちなみに朝鮮人虐殺とか言われてますけど、日本人も同じように虐殺されてます。地方出身者やいわゆる主義者(社会運動とかしてる人)が犠牲になってます。検見川事件、妻沼町事件、福田村事件、亀戸事件、有名なところでは甘粕事件。

 馬鹿馬鹿しいんだけど、人はそうするものでしょう。あるときは本当に恐怖心と激情のパニックに陥り、あるときは冷静に全てを計算して、愚かなことをする。

 あなたは、縁もゆかりもない第三者を助けるために、自分の命、自分や家族の生活の全てを犠牲にする根性がありますか?たぶん無いでしょ?僕だってないわ。そこまで信念や正義感に燃え盛ってるわけでもない。人が正義を唱えるときは、あくまで自分の身の安全が保障されているときの話であって、いざ自分の身が危うくなったら、正義などの理念理想は後回しにされるだろう。

 現代だって、これだけ科学的〜とかいうくせに、仏滅の結婚式は少ないし、一応戒名とかつけないととか思うし、なんも信じてないのに恵方巻とか食べたりするもんでしょ。俺は絶対非科学的なものは信じないぞ、幽霊なんかいてたまるかって人は結構いると思うけど、じゃあ、いわゆる事故物件に住んでみろと言われたら現実に住むかね?それが本当に地縛霊のせいかどうかはわからないけど、事実の問題として、過去3年間に住んでた人が4人連続で部屋で自殺してるって部屋、月1万で貸すけど住まないか?って言われて、お、ラッキー!って言って、あなたは住みますか?

 やっぱりいざその場になると「万が一」とか考えてしまうでしょう。「そこまでしてまで貫くべき信念なのか」というと、それほどでもないと。身が安全な、酒席とかSNSとかだったらなんぼでも言えるけど、リスクが(万が一にも)現実化しそうな局面でそれが言えるのか、そのとおりに行動できるのか?といえば、そういう人もいるだろうけど、そうでない人も多いでしょ。ネットでもいろいろな議論はあるとはいえ、FBはまだしも、ツイッターでもなんでも本名・所在・身分を明らかにしてモノを言ってる人がどれだけいるのか?どっかしら自分は安全の場所に置いておきたいって人が多い。だからいざ実名がモロに出てくる現実の局面になると、日ごろ勇ましいことを言っていても、どうしても行動が鈍ってしまう。

 まずは自分の身の安全を確保しておきたい、心穏やかに暮らしたいという、ごくまっとーでささやかな願望が誰にもあると思うけど、実はそれが問題なのよね。それが人間という生物のウィークポイントであり、この弱点が克服されない限り、同じような愚行は永遠に繰り返される、かもしれないです。かなりの確率で。

男気

 余談ですけど、僕が他人をみるときは、もっぱら男気(義侠心)があるかどうかで見てる気がします。自分のことながら「気がします」ってのもヘンなんだけど、実際問題そんなに確固たる基準が常にあるわけでもないですからね。ただ振り返ってみると、なんでこの人はダメだけど、この人はいいの?という境目を見てると、男気とかそこらへんかな、と。

 男気というのは、いわゆる善行などとは違います。皆がやってる募金に参加するくらいだったら、そんなの同調圧力でもカッコつけでも横並びでもなんでもやるから、わからない。別に非難する気はないけど、そこはあんまりポイントにならない。男気というのは、それをすることによって、かなりの確率で実際に損をするだろう、皆からディスられたりハブられたりするかもしれないけど、自分の内部基準である美意識とか心情を優先することです。

 クラスでいじめられている人を助けるとか、誰もがAだと言ってる最中に、いや俺はBだと思うぞって言える人です。それは「信念の人」「立派」とかいうのとはちょっと違って、自分の心情を裏切る不快感が、通常よりも強いのでしょう。こんなイヤな気分になるくらいだったら、まだ皆に村八分にされた方がマシじゃって思えて、実際にもそう行動できるのは、その「イヤな気分」というのが、普通の人よりも何倍も強いのでしょう。

 そういう性格特性があるかどうかで見る、ということです。その手のタイプは、社会的にはいわゆる「馬鹿」だったり、要領悪かったりするんだけど、でも信じられますからね。周囲の風向きが変わっても、そいつは変わらないから。これは、ちょっとその人の言動やら、立ち居振る舞いとか見てたら、わりとすぐ分かりますよ。相槌の打ち方一つ見てても、わりと分かる。

 僕は法学がプロパーで、現場にもおったわけですが、現場にいたから尚更ですけど、あんま憲法上の理念とか人権とか正義とか公平とか言葉としては信じてないんですよね。いや大事な概念なんだけど、それは「使い方」にすごいコツがあるトリッキーなシロモノであって、現実の人間社会は全然別の原理で動いているし、それが見えないと現実に結果を出せない。いわゆる正論を述べたら、皆恐れいれって従うかっていうと全然そんなことない。場合によっては平気で踏みにじる。これまでもそうだったし、おそらくはこれからもそうだろう。かといって絶望する必要はさらさら無いんだけど。「ちょっとコツがあるよね」ってことだけです。


 と、話は余談にそれましたが、最初のお題は以上です。
 整理すれば、トイレットペーパー問題に潜む構造、
(1)一見すると愚行なんだけど、細かく見ていくと個々人レベルでは意外と合理性があるという点
(2)そして、その個々人(ミクロ)の合理性が社会全体に大災厄をもたらすということ

 です。

 今週はこれで終わり。割とまとまりが良いトピックは以上で、以下は雑談です。いや、本当はもう一点あるんですけど、話がデカいのでまとめきれないし、まとめたら長編になりそうなので、適当に崩して散発的に書こうかと。

雑談

大ジレンマ

 世界的に収束が難しくなってます。感染者を隔離し、交通を遮断すればするほど経済は悪化する。それも急速に悪化する。かといって、遮断し続けていればいつかは克服できるのかというと、その保障もないし、またいつまでかかるのかの見極めも難しい。これ、「正解なし」の世界ですね。こうすれば大丈夫というパナセイア(万能薬)はない。

 すでにイギリスの地方航空会社が倒産しましたけど、どんどん広がるでしょう。リーマンショックなんぞの比ではないくらいの影響とか言われてますが、ほっといたらそうなるでしょう。

 そこでどっかで大きなパラダイムシフトをすべき=感染防止よりも経済を優先する方向に180度切り替える=と思うのですが、はたして世界の為政者と人々にそれが出来るか?です。

 クールに考えてみて、ウィルスよりも経済の方がずっと恐いですもん。経済重視っていうと、しょせん金かよとか、ゼニカネがなんぼのもんじゃ、人の命の方がずっと大事だって思いがちなんだけど、けっこうな確率で経済=命なんですよ。日本でも自殺者が多いですけど、推定される自殺原因の一位は「経済的困窮」です。二位が健康だったかな。

 早い話が、弱いところにどんどんしわ寄せがいって、中小企業が倒産して、どっかの町のどっかの夜で、小さな子どもに向かって、「みんなでいいところにいこうね」といって母親が我が子を抱きしめてたりして一家心中が起きたりするわけですよ。たまんないよな。

 そういえば以前、大阪市役所の無料法律相談に輪番制で行って、そこで心中の生き残りって老紳士と話したことがあります。自分だけ助かってしまって。一家心中とか話には聞いたことあるけど、現実にサシで会ったのはそれが初めてで、やっぱ重みというかインパクトありました。一応、形の上では自殺幇助になるし、人も死んでるから裁判にしないわけにはいかない。当然執行猶予なんだけど、法廷もお通夜みたいになって、判決読み上げる裁判官も、「何を言ってもあなたには虚しく響くのかもしれませんが、どうかお力落としのないよう」とお葬式のような場になったと。

 このままいったら、そういうのがどんどん増えていくでしょう。どっかで何とかしなくてはいけないんだけど、そこで最大の障害になってしまうのが、感染防止という「錦の御旗」ですわね。

 でも、この錦の御旗を下ろせるのか?こんだけ騒いでおいて、ある日突然、「もう気にしないことにしましょう」って話が通るのか。でも、ズルズルやっていくと、局所的な土砂崩れが、いずれ全面崩壊して世界バブルが弾けて、そうなったら世界大戦レベルの変化が静かにおきるでしょう。もう生じているという説もあるし。

「感染=悪」のパラダイム変化とヘリマネ

 無責任なフラッシュアイディアをいえば、感染したら国から10万円を見舞金として出したらどうかと。全員に配っても10兆くらいあったらいけるし。そうなると、感染したらお金がもらえるわけだし、若いのは殆どが死なないし、半数くらいは無自覚で直ってるし、流れが変わるかなーと。

 感染箇所が特定エリアだけならまだしも、ここまで全国に広がってしまった日本の場合、もう水際がどうのとか無意味。後方陣地まで抜かれたら境界防衛なんかほとんど意味ないし、そちらに兵力を割くのは愚劣ですらある。無限に金と人員があるならともかく、有限なんだし。

 もう普通のインフルのように風土病みたいに共存するしかないなら、早く広めて抗体もってる奴を増やしたほうがいいという考え方もあるのですよね。再感染するとかいう話もあるけど、一部でしかないし。つまり、感染=悪ではなく、感染=善とまでは言わないまでも、まあ数あるこの世の災厄のひとつくらいに中和する。感染対策をしなくて良くなると、それだけで膨大な資源が浮きます。その浮いた資源をもっと有効な方向に使った方がトータルでは良くはないか。

 今いざ自分が感染したら、ほとんど冤罪犯罪みたいなもので、大ニュースになるし、地元ではなんか悪いことしたいみたいに肩身が狭くなるし、そっちの方が恐怖だと思います。病気が恐いというよりも社会的なりアクションのほうが恐い。どうせ行っても中々検査してくれないんだし、感染がわかってもだからといって特効薬もないし、だったら大騒ぎにならないようにじっと家で七転八倒して治してしまうしかないじゃないかってなりそうな気がするよ。僕ならそうするかも。

 10万くれるというのは、そのへんの意識の転換をはかる意味でです。いいなー、俺も10万ほしいな。家族全員でかかったら40万だもんなー、鈴木さんちなんかもう40万もらったらしいぞとかね(笑)。そしたら、むしろ感染を待ち望むのような機運が生じる、、のかな(笑)。でもなんか、エンガチョ感覚は多少は薄まるでしょ。

 そうなると、俺を検査しろって押しかけてて医療パンクするから、そこは厳密に順番を守らせる。あとでも感染の有無はわかるんだから貯金してる気になれ、いつかはもらえるよと。もし順番すっ飛ばして検査を受けたいんだったら別途3万円払えということで、資金回収をするとか。10万払っても、どうせその10万はあぶく銭だからすぐに使うよ。つまり経済がそれだけ回る。温泉いったり、うまいもん食ったり、服買ったりするだろ。それで税収上げたら結局取り返せる。ベーシックインカムとかヘリコプターマネーとかいう発想ですよね。

確率論

 ところで日本で毎年137万人死んでるそうです。1日あたり3600人。病死、老衰、事故死、自殺、犯罪ひっくるめて。でも大体は病死老衰系が多いだろうから、毎日少なくとも3000人くらいは病気で死んでるわけで、それからみたらコロナなんか大した比率でもない。仮にコロナで毎日1人死ぬとして、そのリスクよりも他の病気で死ぬリスクの方がの3000倍以上高いってことでしょ?成人病とかさー。

 昔計算したことがあるのですが、日本で百万人死んだとしても、おそらく気づかないんじゃないか。だって137万人死んでも実感はないんだし。少子化で絶対人口は毎年50万くらい?減ってるんでしょ?だからといって閑散としてる感じがするわけでもない。1.2億というのは何となく思う以上に膨大な数字で、100万なんか1%にも満たない。電車の一車両で快適に乗れる平均乗車(乗車率100%)で140-150人だといいますから(満員電車は乗車率200%以上)、車両から一人減ったくらいのインパクトしかないのですね。だからまず絶対気づかないくらいの差でしかない。日本で百万人消えるというのはその程度のことでしかないのだ。そのくらい絶対母数が大きい。

 それから考えるとコロナなんかいくら流行っても、いくら感染したいと思ったとしても、なかなか難しいんじゃないですかね。僕が日本に行くなら、あるいはオーストラリアでも感染のリスクなんか気にしません。日常的にいえば天文学的な数字ですから。だいたい日常のリスク感覚として1%だったら、100日に一回くらい、学校時代なら一学期に一回くらいのサムシングの確率で、宿題忘れて悲惨な目にあったりとか、体育で大恥かいたりとか、そのくらいの感じ?0.1%になると中学時代に一回、高校時代に一回くらいの頻度?今のコロナちゃんは1000人にも満たないのだから、えーと0.001%?そんなもんでしょ。感染者を100倍誤魔化していたとしても0.1%。

 気をつけるなら他の病気のことを配慮したほうがいいです。手洗い励行は、この際いい生活習慣を身につけるチャンスであるからやりますけどね、その程度。だから10万配るっていっても、そんなに人数はいかないかもしれないし、いけばいっただけ経済効果はデカいし(オリンピックなんかよりも何十倍も速攻の効果あるよ)。

 かといって全然能天気でいこ〜って言ってるわけではなく、有限資源の最適化でいえば、感染防止に金と人と失業倒産リスクをかけるくらいなら、お年寄りとか重篤可能性ある人達に対して集中的にかけたほうがいいんじゃない?ってことです。感染対策に金かけるなら、その分、介護やディケアの人員を二倍(以上)にしろ、時給二倍にしろって思うわ。

 こう書くと政府の回し者的で、「よく考えたら〜」のランサーズの工作員的な感じがするかもしれないけど、いや、もう別に日本政府なんかどうでもいいです。語るにも値しないと言うか、それこそ有限な資源をそっちに振り分けたくもない。昔だったら忠義の家臣が出てきて、「失礼つかまつる」と有無もいわさずふん縛って、座敷牢にでもぶち込んでおくもんだけどなー、早くしろよって感じ。まあ、でも、国家というのはここまで無能でアタマが悪いだといういい教育素材になってるんじゃないですかね。その功績は凄いですよ。

 


文責:田村


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