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Essay 922:浮かせる

〜決め付けない、決め過ぎない、決め打ちしない

2020年02月24日

写真は、ManlyのNorth Headにて撮影。あそこは空がきれいです。

激動なんたら

 「一寸先は闇」と言いますが、先のことはわからない。特に現在から将来にかけては変化が激しそうです。まあ「激動の昭和史」とか、どの時代も激動してて、激動してないときなんか無いくらいなんですけど、これまでもそうならこれからも普通に激動するでしょう。「普通に激動」って言い方もおかしいけど(笑)。

 これから先、日本で変化しそうな要因をカウントしていくと、、、
・少子高齢化と超借金財政で将来的には破綻しそうなんだけど、もしコケたらどうなるの?
・過疎化や老朽インフラ放置、地方の衰退枯死、空き家の無限増殖による都心のスラム化、国際競争力の低下と諸事劣化でやがて日本そのものがシャッター街になるとか?
・AIの進展や産業構造の変化によって将来の仕事はどうなるの?
・所得の二極分化とか全然是正されてないんだけど、このままいったら王様と乞食しかいない世界になるの?
・国際的にはアメリカの凋落と中国ほかインドなどの台頭によって戦争リスクとか経済フレームとかどうなるの?
・世界的に株や不動産のバブルが膨れ上がってて、今更恐くて弾けさせられないくらいになってるんだけど、これって永遠に膨らみ続けるの?それともどっかでドカンとなるの?そうなったらどうなるの?
・異常気象や天災などいつの時代にもあったとはいえ、体感的には世界的に頻度が増えているような気がするけど、これってどうなるの?

 真面目に考えてると頭を抱えてもう死ぬしか無い的な話になりそうですけど、でも、again、どの時代も似たようなものでしょう。知らない・忘れてしまった人もいるとは思うけど、冷戦時代は、もしかして明日にでも第三次世界大戦が勃発するかも?ある日空の一角からミサイルが飛んでくるかも?という不安は、薄くはあるけど恒常的にありました。

 そういえば70年代には大地震ブーム(というのも変だが)がありました。小説・映画の「日本沈没」やら、マンガでいえば「バイオレンス・ジャック」「サバイバル」やら、もう「近い将来起きることは」「ほぼ確定」みたいな気分になってました。その頃の自分は未だ中高生でいたいけな(?)青少年でありまして、結構真に受けてしまい、「1分後に自分が死んでるかも」というプレッシャーは常にありました。当時のシュミレーションによると「死亡率95%」とか言われてた隅田川河口のゼロメートル地帯に住んで&地下鉄通学だったので、その恐怖感はウィルスごときの比ではないです。なんせ起きたときは死ぬときですから、これは恐いですよ。もっとも、今だって別に客観的リスクは何も変わってないし、むしろ首都直下は起きていない時期が長くなってる分、昔よりも確率は高くなってるからもっとビビってもいいんですけど、まね、不安や恐怖は流行りすたりのブーム的なものですからねー、気にしなかったらゼロですからねー。

 そういった秒殺恐怖に比べてみれば、上にリストアップした変動要因は、いずれも秒殺ってことはないです。数年〜数十年スパンで「起こりますよ」「そうなりますよ」と十分な予兆、というよりも耳にタコくらい繰り返し叫ばれているものが多いので、対策もとりやすいです。

 それが何か?というと、これだけ不確定要素が山盛りあるんだから、将来的に「コレしかない!」って方針など立てようもなく、またその種のことをあまり決め過ぎないほうがいいんじゃないの?というのが今回のテーマです。

 にも関わらず、決めたがる人が多いです。
 不安定な時代「だからこそ」決めて安心したいのかもしれません。

大変動の相互関係となるようにしかならない

 何しろどうなるのか分からんわけですよ。あれこれ激動材料はあるんだけど、その全てが実現するかもしれないし、その全てが杞憂で終わるかもしれない、一部だけ現実化するかもしれない。

 杞憂の可能性もあるのですよね。70年代の頃は、20世紀中に石油が枯渇するとか言われていたわけですけど、蓋を開けてみたら全然ですしね。技術の進展によって、それまで知られてなかった地下や海底油田が見つけられるようになったとか、それまでは到底掘削できなかった大深度でも掘削できるようになったとか、状況の変化があったからです。

 まあ、そんなに全てが上手くいくとは言いませんけど、どう考えてもダメだろってことでも、やってみたら意外といけてしまったということもあるでしょう。でも、思ってたよりももっと悲惨な形で実現して、想像を超えるような展開になってるかもしれない。

 全てが発生するという悪魔のようなシナリオもあるかもしれないけど、AがBを打ち消してしまうこともあるだろうし、逆にAがBを誘発することもあるでしょう。例えば、世界バブルの崩壊で軒並み国家破綻状態になったら、それが原因で国際紛争が起きることもあるでしょうし、逆に破綻してるから国の借金も「それどころではない」とかハイパーインフレとかでウヤムヤになるかしらん。あるいは戦争や天災で大量に人が死んだら、人口構成もガラリとかわって少子高齢化ではなくなるかもしれない。あるいはドンパチ戦争をやってる最中に、一方の国に大地震が起きて首都崩壊になったら、今がチャンス!と相手国は攻め込むかというかというと、意外とそれは出来ずに人道的支援に走ってしまって、紛争がウヤムヤになってしまうかもしれない。戦争やりながら人道支援というのも変な話なんだけど、意外と人間ってそういうところはありますからね。

 このようにメガトン級の出来事がいくつも起きて、ゴジラとキングギドラが同時出現みたいになっても、両者が手を組んで暴れるかもしれないし、両者が対立して相討ちなってくれるかもしれない。わからんのですよね。

 まあ、いってしまえば「なるようになる」「なるようにしかならない」ってことですけど、これだけ大規模な不確定要素がこれだけ多数あると、もう大自然の現象みたいなものです。大雨で大河が氾濫したとして、どこに土砂崩れが起きて、どう新しい水の流れができて、やがて新しい河川になっていくか、それは水量やらタイミングやら地形やら色んな要素の合成でそうなるのでしょうけど、およそ事前に予想できるものではないです。そして人間が事前に予想できようが出来まいが、お構いなしに現実は進んでいくでしょう。きゃーとか、わーとか言ってる間にどんどん目の前で現実が進んでいって、おさまる頃には「ほほう、こうなるのか」って感じじゃないかな。

 このような状況で、「これで私の人生は安泰だ」みたいな決め打ち方針でいくのは危ないです。ひとつ間違ったら全て崩壊しますし、けっこうな確率で「ひとつ間違」えそうだし(ひとつどころではない)、何よりもそうなったときの精神的ショックがデカすぎます。だからあんまり決めつけない方がいいよ、なにかを決めたかったとしても、同時に「そうならなかった場合」も考えておくべきかと。

決めない〜浮かすことの意味 

 「決めない」ってどういうことか?といえば、たとえば「和戦両用の構え」と言われている態勢です。相手が手を差し出してくれたらガッシリ握り返してニコニコ円満に、相手が襲ってきたら軽やかに身をかわしてすかさず反撃を叩き込む、どちらにも対応できるようにしておくこと。

 感覚的にいえば、スポーツの基本姿勢、武道の立ち会いとか、野球の守備の姿勢とか、サッカーのPKにおけるキーパーのように、相手が右からくるか左からくるかわからないとき、どっちに来ても対応出来るように、軽くカカトを浮かせるでしょう?あの「浮かせる」感じです。

 感じとしてはすぐにご理解いただけるとは思うのですが、じゃあ、それが人生とか生き方において具体的にどういう形になっていくの?という部分は想像しにくいでしょう。いや、僕も想像しにくくて模索中なんだけど、いくつか思ってることを以下に書きます。

2つ(以上)の価値体系を用意すること

 例えば、ライフ・ワーク・バランスがあったとして、究極的な理想バランスが一つある、とは考えないで、ライフ重視方向(A)とワーク重視方向(B)の2つの生き方を用意する、と考えた方が現実的だと思います。

 なぜなら、まず究極理想なんてものがそんなに簡単に分かるはずないだろ、ってのが一つ。それが分かるとしても、おそらくそれは結果論として、死ぬ間際に「ああ、もっとこうすればよかった」「○○とか頑張ってたけど、あんま意味なかったな」とか分かるような類のものだと思います。まだ20−30代の方に比べたら、僕は倍くらい年食ってますけど、それでも分からんもん。もしかしたら死ぬ間際になっても分からないかもしれない。

 第二に、バランスというのは絶えず変わるものだという点。自分の時間とキャリアや仕事、そのどちらをどれだけ重視するかは、すぐれてその時の気分じゃないですか?また偶然やら外部環境も大いに影響するでしょう。今やってる仕事が面白くて夢中になってるなら、自然とワーク重視になっていくだろうけど、今度の四月の定期移動でつまんない上司同僚になっちゃったり、プロジェクトそのものが消滅したりしたら、ワーク意欲も減退するでしょう。ライフ系も、恋人が出来たり子供が出来たりしたら、そっちにどうしても重心がいくでしょうけど、自宅に帰っても冷え切ったコタツが待ってるだけだったら、ライフ重視っていってもねえって感じにも思うでしょう。面白い趣味を見つけてハマってるときと、それに飽きてしまったときでは又違うでしょう。

 このようにバランスは絶えず変わります。ちょっとガチに働きたいな、金も欲しいしってときもあれば、もう金はちょっとでいいから休みたいよ、のんびりしたいよってときもあるでしょう。正味の話、自分の心なんか秒単位で変わりますから、バランスも又秒単位で絶えず小刻みに取っていったほうが、よりビビッドに調整できると思います。

 第三に現実問題です。ワーク重視でいこうと思っても、不況や就職難でそんなに面白い仕事を選べるような状況ではないかもしれない。逆に、ライフ重視でいこうと思ってても、面白い仕事話が舞い込んでくるときもあるかもしれない。現実というのは実にうまいこといかんもので、それはもう誰もが経験済でしょうから多くは語りません。

 ならば、あんまり燃えられる仕事がないなってときは、適当に日銭を稼げるようなバイトレベルでも仕方ないかってことにしておき、地味にコツコツ勉強やったり充電期間にしておいて、その分ライフ系を充実させればいいです。大した仕事をしてるわけではない時期は、逆に言えば責任もシガラミも少ないわけですから、自由に動ける。この自由を生かさない手はない。どーんしばらく海外にいってみるとか、全然関係ないエリア(職域にせよ住環境にせよ)を探検して世界を広げてみるとか。

 現実が思うがままにいかないなら、その現実をよく見つめ、無駄に腐ったり拗ねたりせず、しなやかに身を処して、その状況での最適解を模索した方が良い。歴史上の人物にせよ誰かの半生記にせよ、左遷されました島流しにされましたって不遇な時代はあるわけですが、そこで貴重な出会いがあったり、人間力を深めたりしてるわけでしょう。源氏物語の光源氏でさえ明石に流されて、それで明石の方に出会ったり、ある種達観した境地を得たり。

複数あることの利点

 自分のなかに2つ以上の価値観をもっていれば、その調整具合で目の前に現実に適応できます。3つも4つも持ってたら、なおのこと組み合わせのバリエーションは増える。しかし、一つしかなかったら、順風満帆か挫折かしかないです。

 また、2つ以上の価値観は、パッと見には対立するんだけど、実は相互補完したりもする。ワークとライフにしたって、ワーク重視でいくにしても、常にイケイケってわけにはいかない。何やってもダメダメな時期もあるし、そういう時に焦ってしまうと却って事態が悪化する。そういうときは、ちょっと流し気味にしておいて、「やりすごす」って作業も必要です。その際、ライフ方面が豊かに充実していたら気分転換もうまくいくし、タイム感もつかみやすい。

 またライフ重視といっても、朝から晩まで遊んでばっかりだったら、しまいには飽きてきますし、やることなくなってきて辛くもなります。ダラダラするだけになったりしてね。やっぱ適当に仕事をして負荷をかけているからこそ、開放感もまたひとしおであるという関係にもなるでしょう。

 以上、2つ以上あるからこそ、組み合わせの妙もあるのだし、現実に適応できる。仕事メインでバリバリやっていく人生と、ライフメインでのんびり自由にやっていく人生、どちらも行けるようにしておき、状況によってどちらを先に押し出すかを決めていけばいい。

 これが最初から一つに決め打ちして、しかも不安だからガッチガチに決め打ちして、もう深い土台掘ってコンクリ流し込んで固めてしまったら最後、調整や工夫ってのが出来ない。不遇のときは、もう思いっきり顔面にボールをバコーンと受けるようになってしまう。それでも無理につづけていると、心身壊したり、職場鬱になったり、しまいには死んじゃったり。

ライフとワークだけじゃないよ

 いま2つ以上の価値体系で、ライフワークバランスを例に出しましたが、あれは「例」ですからね。それしかないわけではないです。え、他にもあるの?って思う人もいるかもしれないけど、あるじゃん、いくらでも。

 例えば、

・日本国内と海外
・都会と地方
・デスクワーク系と現場系
・集団的環境とソロ的環境
・自営起業か雇用か
・社会的充実かサバイバルか

などなど、いくらでも。

 海外関係のサイトやってるので、国内 vs 海外について述べると、国内 or 海外ではなく、国内 and 海外の方がいいと思いますね。移住とか永住とか、日本は永遠にサヨナラで、行った先の国で死ぬまで暮らすってあんまり決め打ちしない方がいいと思います。

 自分の生息領域を「変える」と考えるよりも「増やす」と考えるわけです。変えるにしちゃうと、半永久的にそこに滞在できる権利、すなわち永住権を取らないとダメなような気がして、そして永住権はどこの国もかなり難しいので、そこで挫折したり諦めたりするしがち。でもそれも勿体ない話ですよね。

 それに日本か海外かのどちらかにしちゃうと、結局、択一主義になって、「浮かす」にならないでしょう?行った先で煮詰まったらもう終わりじゃないですか。こっちに飽きたらあっち、気分転換にまたこっち、そして第三国にも、、って広げていったほうがいい。

 その場合、まず海外ビギナーにおいては、海外でも自分の人生はアリなんだなーってことを実感として知ることが第一であり、それで十分とも言えます。日本の、それもたまたま生まれてたまたま今やってる仕事やら住んでる家やらが、もう宿命的に決まってる、ガチガチに固まってる、もう絶対に身動きできないんだ、死ぬまでこうなんだって思ってると辛いですよー。まずそれを打破する。

 何もかも満たされているというのは、ある意味では牢獄みたいなものです。ハイステータスで高収入な仕事があって、円満な家族があって、資産もあって何もかも満たされていると、今度はそれを壊せなくなりますからね。でも満たされているからずっと幸せのままかというと、人間なんか欲深いから、そういうものでもないしね。でも、なにかの頂点にいるなら、そこより上は中々なく、下手に動けばそれだけマイナスになる。高給取りでバリバリやってたら、その会社辞めたときのダメージがデカすぎて動けなくなります。ちなみに僕が弁護士辞めたのも、そうなりそうだったから、まだペーペーのうちに動きやすくしておいたほうがいいやってのが大きいです。固めてしまうことに対する本能的な恐怖感があったというか。

 オーストラリアに来たのも、当時の感覚では、「死後の世界」「来世」くらいの距離感あったんですけど、そういう現実ってあるのかな、あるなら自分のものにしておきたいってのが強かったです。そこまでテリトリーが増やせると、わりと生きやすくなるなーって。

 それに、これは余談なんですけど、日本国内でいきなり何かやるってのは現実問題難しかったというのもあります。(今よりも当時は)弁護士ってなまじステータス高いから、弁護士辞めてなんかやるにしても、国内だと「なんで?」って話になるし、大体が「なんか悪いことして懲戒食らったんだろ」みたいな感じで世間は見がちなんですよ。「いやあ、もうちょっと自由に広げたくて」って自分のナマの感覚がそのまま説明として通るとは思えないし、何をやるにも実務的な障害が多すぎる。資格を保持したままって手もあるんだけど、今度は兼業禁止規定にひっかかるから結局何も出来ない。海外だとそこらへんは自由なんですよね。外国に行っちゃえば、そいつが本国でどうだったかなんかあんまり大した話になりませんし、国内においても「海外行ったら仕方がないか」みたいな、半分あの世に行ったみたい扱われ方をしますから楽なんですよね。正味の話、逆の意味での職歴ロンダリング、海外デビューって感じで、もとの自由な素浪人に戻れるなーと。

 僕の話はともかく、一般的にいっても、海外は日本と全然違いますから、それが救いになるし、オルタナティブの選択肢にもなります。いま「全然違う」と書きましたけど、客観的な制度や生活環境そのものは、先進国同士だったらそんなに大きく違わないです。世界的にどんどん似たりよったりになってる。でもそう言うことではなくて、自分を知ってる人が誰もおらん、日本では散々あれこれ詮索され、査定されるいろんなスペックが無意味になる、自由になれるという意味では、ほんと全然違います。国内にいたら、年齢の呪縛、職歴の呪縛、あっちこっちで呪いをかけられて身動きできないけど、それが全部チャラですからねー、これは大きいですよ。来たら分かるよ。

 そして、「あそこにいけば、こういう感じで楽しくやれる」って世界を知ってるか知らないかってのはもう天地の開きがあります。だから、別に海外で永住権とって、そこに骨を埋める気持ちでやらなくてもいいんですよ。あー、肩凝ったと思ったら、ちょっくら行ってくるわで、半年とか1年とか滞在すればいい。オーストラリアだったら、学生ビザで100万かそこらあったら1年いれますからね(バイトしなきゃだけど、働いたほうがいいですよ)。

 逆に言えば、オーストラリアで永住権持っていたとしても、日本での生活パターンも考えておくべきだなーという気もしますね。実際、年取ったら帰国する人も多いし。

相互フィードバック

 でね、そこで上の数々の二元論がモノをいうんだけど、相互にフィードバックしていくんですよ。
 例えば、帰国するとしても、以前と寸分違わぬ生活をするわけではないし、しなきゃいけない義理もない(ある人もいるだろうけど)。そのときに、これまではデスク系だったけど、帰ったら現場系にしようとか、今までは都会生活だったけど帰ったら地方に行こうかとか、これまではシティライフだったけど、今度はもっと素朴な質感でいってみようとか、そこで二元的価値をどれだけもってるかで、生き方の振り幅が広がるわけですし、やりやすくもなります。

 同時に、海外に来て、年中ピーピーいってる貧乏学生みたいなことやってると、まあ若返りますし(笑)、生活の幅が又広がるんです。とりあえず良く歩くようになるから体力つくし、健康にもなるし。それまでは個室絶対!プライバシー神聖!みたいに思ってたけど、スリランカ人と同じ部屋とかいうのも楽しいよなって広がります。そういえば、かつて、ラオス人5人とシェアした人がいたなー。見学にいって、シェア先のラオス人5人に誘われて一緒に飯食いに行って、ラオス語(ラーオ語)でしゃべるから全然分からんのだけど、いい奴らなのはオーラ的によくわかって、そこに暮らしたとか。

 海外で広げた自分のストライクゾーンが、今度は帰ったときにめちゃくちゃ役に立つわけですよ。多分、そんなご利益は来る前には全然考えてないだろうけど(だいたいが英語習得とかそんな話で)、実際にはこれが一番大きかったりするんですよね。英語は大して伸びなかったけど、人生は飛躍的に変わったという。

 そういう相乗効果があるから、右ばっかり見てる人生だったら、左の方も見るといいよと。常に重心を真ん中にもってきてバランスをキープするためにも、時と場合に応じで右にも左にもいけるようにしておくといい。左右だけではなく、上ばっか見てたら下も見る、その逆も。一回そういうことを始めて、一つやると別の局面でも突破口が広がるし、一つ行動すると2つも3つも返ってくるのでお得ですよってことが言いたいわけです。

 今週の骨子は以上です。
 あとちょっと補論。

自分を成り立たせる最小要素のシンプルな構造

 あれもこれも、それもどれも揃ってないとハッピーになれない人は大変です。それを揃えるのが大変だし、揃えたら揃えたで、ちょっとでも動いたらその完璧な状態が崩れちゃうから動けなくなるし。

 むかーし、竹村健一氏という売れっ子評論家がいて、私生活とか気難しそうに見えますが?って聞かれて、「いやあ、僕はうどんさえ食わせておけば機嫌のいい男ですから」と言ったのが印象的でした。「なるほど」と。彼の言うことが真実かどうかはどうでもよくて、そうか、うどん一つで人生OKなんだ、なんてシンプルな、そういう考え方もあるんだ、それっていいよねって思ったのですよ。

 じゃあ、自分はどうかなーっていうと、まあギターさえ弾けたらそんでいいかな、それに好きな女の子とかいたらもう十分でしょ、くらいに思えたのですね。思えば、まだ試験に合格もしておらず、弁護士になれてなくて、これから死ぬような思いで職業資格とキャリアを築く野望があったわけなんだけど、それすら「別にいらんな」と思ったのは覚えてます。あれはゲットしておくと「何かと便利」だというユーティリティ=十徳ナイフみたいなもんで、それが自分の人生を構成するわけじゃないよ、便利と本質は全然別次元の話だよって。

 「無人島に一つだけ持っていくとしたら?」というよくある問いかけがありますが、あれも同じような発想ですよね。自分の人生に取って、本当に、本当に、本当に必要なものはなあに?って、削ぎ落としていって、核心を見つけること。

 それは少なければ少ないほどいいです。

 なぜなら、時代がどのように変わるか全然読めない中で、あれもこれもと沢山あったら、それらを常に叶えるのは至難の業だし、あまりにも難しすぎて、戦略やら方針の立てようがないでしょう?

 大体、戦略立案が下手な人って欲張りすぎなんですよね。あと価値の優先順位が曖昧。今日本の職場で煮詰まってるから、海外にでも出たいなー、息抜きしてリフレッシュしたいなーと思うなら、それが第一義でまずそこだけにフォーカスしたほうがいいです。それを「不安だから」とかいって、再就職のために英語をスキルアップさせて、就職に有利な資格をとってとかやってるから学費も凄い話になるし、予算的に実現不可能になっちゃう。

 同時にあれもこれもと欲張るから、結局何ひとつ出来ないままで終わる。不安な気持ちはわかるんだけど、そんなこと言ってたら何にも出来ない。リアルに言えば、こっち来て、本当にリフレッシュしたら、そもそも帰国したくなくなったりしますよね。帰りたくないなーって思えたら、リフレッシュ成功ですね。その頃には再就職なんかもう「眼中にない」というか、そりゃやろうと思えば幾らでもできるでしょそんなことって、でも再就職できたからといって別にうれしくないよって状況になってたりするわけですよ。

 その意味で、「願い事は一回に一つだけ」って、スーパー特売の「お一人さま一個限り」みたいに絞ったほうがいいです。第二順位以下は、結局どうでも良くなったりするし、思ってもみなかった物事がするするとヒットチャートを登りつめて一位になってしまったりするし、それがリアルな現実ってもんですよ。

 それに人間だったら絶対必要ってものがあります。まず生命、次に健康、その次に酸素やら水、食糧という必須科目があり、最低限の身の安全と生活物資(服とか靴とか)がきて、うどんとかギターはその次に来るくらいでしょう。でも、時代によっては、酸素や水レベルで四苦八苦するかもしれないわけで、そんなにあれこれも欲張っても意味がないです。

 それに減らしておくと(核心をみつけておくと)、非常に気楽ですね。例えば、うどんとかギターだったら、もう仕事なんか完全にどうでもいいわけですから、仕事系の悩みはほぼ消えます。ほかにも田舎であろうが都会であろうが何であろうが、うどんやギターくらいだったら叶えられるだろうし、もう大抵のことがOKになりますから、楽ですよ。

 ここで「楽」というのは、心にゆとりができるってことです。何が何でも〇〇でないと死んじゃう〜とか切羽詰まらないから、ゆったり物事が見られますし、大局観も得やすい。ミクロもマクロも自由自在にフォーカス変えて見ることが出来たら、もう出来たも同然で、その状況において何をどの順番にどうやっていけばいいかも比較的見えるようになるでしょう。




文責:田村


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