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Essay 921:それは「選択肢」ではないよ

〜てか「選択肢」ってなに?

2020年02月17日

写真は、Bondi Beach。Cliff Walkから望遠で。

私立文系

 高校の進路指導などで、「お前は数学がダメだから文系だな。そうなると私立文系か国立文系かどちらにするんだ?」みたいな話がよくあります。2つの選択肢のうちの一つを選ぶ(二者択一)で「選択肢ってそういうもんだ」と思ったりするのですが、本当にそうか?というのが今回のお題です。

 本当にそうか?と懐疑的なのは、なんでここで二者択になっちゃうの?という点です。
 「大学に行かない」という選択もアリだし、「大学行きながらもスポーツや音楽活動をメインにやりたい(学歴は単なる保険)」という方向もあろうし、いや「私は愛と夢とロマンに生きるんだ」とか、「ファミリーマンになるのだ」とか、「流れるように自由でいたい」とか、「地味でパッとしなくても自分らしさを大事にしたい」とか、「ひたすらのんびりしたい」とか、「そもそも今何かを決めたくない」というのもあるでしょう。

 もう無限のバリエーションがあるわけで、本来「自由意思」というのはそういうものです。だけど、それを「私立か国公立かどっちだ?」みたいな二者択一を突きつけて、ほとんどそれしか道がないかのように選択を迫るのは、なんかおかしくないか?と。

本来の論理階層

 だってさ、物事の順序でいえば、
(1)「いかに生きたいか?」があり、
(2)その理想的な生き方を実現するためには、大学に行った方が何かと好都合ではないか、よし大学に行こうになり、
(3)ではどういう大学に行き、何を得ると(2)の「好都合」が実現するかを検討し、
(4)その基準に叶う具体的な大学をピックアップし、
(5)入学するための事務実務の一環として入試合格というハードルがでてきて、
(6)合格のために最も成功率が高い方法はなにか?を検討する段階で、受験科目と自分の得点力の相互関係、且つ国立と私立で受験科目が一般に異なるという事情から、私文か国文のどっち?
 という論理階層になるはずです。

 それら(1)〜(5)を一切すっ飛ばして、いきなり(6)までワープしてしまうわけですね。つまり、(1)〜(5)などどうでもいい、語るに値しないのだという価値判断がそこにはある。

 これをざっくばらんな日常口語に翻訳すれば、「お前の生き方の好みなんかどうでもいいんだよ」「てか高学歴→高収入にしておけば間違いないんだよ」「それを覆せるくらい個性が強烈な奴なんか百人に一人もいないんだし、お前みたいな平々凡々な人間には当てはまらないだろ」「入学事実こそが就職に直結するんだから、入学したあとの学習なんか考える必要はない」「だから大学で何を学ぶかなんかどうでもよく、個々の大学の特徴や良し悪しを考えるだけ時間の無駄」であり、あとは「いかに高収入に結びつきやい高偏差値の大学を、いかに最小の努力で(最大の確率で)合格するかという実践課題だけが残っている」のであり、「少数科目で高得点を並べる戦術(私立文系)と多数科目で平均的に粒を揃える戦術(国公立)とどちらが自分に向いていると思っているのか?そしてそれは客観的な妥当性をもつのか?」という問題に収斂されるのだ、ってことでしょう。

 まーね、それはそれで間違ってないですよ。はっきり言って現場は競争であり、大げさに言えば食うか食われるかのキリング・フィールドなんだから、そんなポエムみたいな理想をさえずってる余裕なんかねえんだよってのは、現場の感覚としてはそうだと思うよ、うん。

 てかさ、自分が生きている周囲の環境、リアルな日本社会がどういう原理で廻っているかという社会的な生態環境を洞察理解するのは生き物の生存能力の基本でしょう。受験相当年齢(十代後半)ともなれば、そのくらいわきまえておくべきであり、そんなレベルでコケているようでは「生存適格がない」「生き物としてスジが悪い」とすら言えます。

 でも、だからといって、選択肢形式で騙していい/騙されていいってことにはならんでしょう。今ここにある現実がクソだからといって、為す術もなくそれに従えって話にはならない。ならば、一層そのダメっぷりを心に刻みつけて、何がどうダメなのかを仔細に検討し、どこにどう攻略法はあるか、またそれとは違う発想でクリアできないかを考えるべきだと思うのです。

自分の場合

 ちなみに自分自身の場合はどうだったかというと、

(1)とにかく自由でいたい、てか自分の行動を誰かに理不尽に指図されたり、干渉されたくない(されるとすげえ腹立つ)。その理不尽圧力の最たるものが国家権力であり法律であり世間であると思った。ゆえにそれらに対抗できるパワーが必要であり、敵を知悉するという観点、自分自身が国家権力(の一部)を奪取するという観点、職業形態として自由業であるとか、そこらへんから考えて検事や弁護士になる、そのためのハードルとして司法試験に受かるという基本戦略が出てきて、

(2)(3)大学は、当時の司法試験法の規定により、一次試験(一般教養)の免除を受けるための条件=「大学院の設置されている四年生総合大学において一般教養過程を履修したもの」をゲットするための手段として位置づけられる。これは法学部である必要もなく、般教履修で良いのであるから、卒業する必要すらない。
(4)これで大分大学入試のハードルが低くなった(どこでもいい)のだが、どうせいくなら法学部が看板学部になってる大学、司法試験合格ベスト10くらいには入りたい。大学の授業程度では司法試験に合格できないのは東大ですらそうだから、基本は自学自習でしかないのだが、周囲に仲間が居るほうがやりやすい。

(5)(6)は、ここで入試ごときに精力を使うのは無駄なので、素で受かるところでいいや、本ばっか読んでて司馬遼太郎なんか中学の頃に全巻読破してたので、国語と日本史は素でそこそこいけた。あとは英語だけって話で、1週間で「試験にでる英単語」を全部暗記しただけで受験に臨んだ(てか、記憶の保持力なんか一週間が限度ぽいから直近一週間分しか役に立たんし)。当たり前だが、舐め過ぎていたので、結局立命の法科しか受からんかったけど、「京都で一人暮らし」というのが魅惑的だったのでそこに行くことに(入学金10万年間学費17万で当時の日本でも最安値に近くて「お買い得感」はあった)。今から思うに、反省点としては、合格後の実務の便宜=弁護士の営業上の利点や、日本の官民諸エリアの権力中枢に友達を沢山配置できるという利点からすれば、無理してでも東大入ればよかったかなとチラと思う。当時もチラと考えたんだけど「面倒くせえ」って思ったし、今やり直すにしてもやっぱ面倒臭いって思います。得られるご褒美に比べて、(素+一週間に比べれば)やるべき努力が多すぎて採算合わない感じがする。

 なので進路指導とかやったのかどうか記憶にないです。まあ若気の至りで傲慢でしたから(少年の客気ってやつ)、親とか学校の先生に自分が納得するレベルの答えが出てくるとは期待してなかったし。まあ、儀式として進路指導は受けた筈なんだけど全然覚えてない。先生も仕事でやってんのミエミエだったし、それが悪いわけでもないし、あまり変なこといって苦労をかけても悪いしなーって。

選択肢詐欺のトリック

 さて、話を選択肢に戻すと、ここで何が言いたいかというと、選択肢っぽい形で言われてしまうと、それしか道はないかのように誤解してしまう、って点です。そうとは気づかないまま、視野を非常に限定されてしまうし、その中でしか考えられないように思考停止になる。いうならば、一種の選択肢詐欺のような危うさはあるなと。

 いや、実際にSF商法とか消費者被害なり、詐欺とは言えないまでも巧妙な販売戦略(電通十則のような)としてもこのパターンはよくあります。「期間限定」「今日中に申し込めば」とかやられると、「今安く買うか、後で高く買うか」という二択にさせられてしまって、本当なら「そもそも買わない」という選択肢だってあるはずなんだけど、一つ手前の大きな選択肢を忘れさせてしまう。

 選択肢というのはレベルや段階があります。フローチャートや性格判断みたいに、あなたは余暇時間で(1)アウトドアで遊ぶのが好き、(2)自宅でくつろぐのが好きの二択で選ばせ、アウトドアを選ぶと、山がいいか海がいいか、海を選ぶとビーチでのんびり派かマリンスポーツ派か、のんびり派だと高級リゾートホテル系か庶民的な海の家系か、海の家を選ぶと、そこで何を食べるかで、焼きそばがいいかカレーライスがいいかを選ばせる。このように何段階も選択のレベルがあります。さきほど詐欺的だと言ったのは、最終的な選択=焼きそばかカレーか=だけにフォーカスさせて、他のことを忘れさせてしまう点です。

 これって一種の洗脳技法ですが、「焼きそば or カレー」ならば馬鹿馬鹿しくて気づくけど、「私立文系か国公立文系か」といわれると、真剣に受け止めてしまうという。ほんと僕ら人間というのは他愛のない生き物で、すぐに騙されちゃうんですね。まあ、そこがチャーミングなところなんだけど。

 ちなみに、僕はこの種の選択技法が嫌いで、フローチャートの性格判断なんかも「ふふん」と鼻で笑ってるところもあります(笑)。だってさ、往々にして選択肢がクソなんだもん。余暇時間になにをしますか?と聞かれたら、「そのときの気分で決める」しかないでしょうが。それが自由というものであり、それが余暇というものでしょう。そこをアウトドアと室内のどちらか選べという粗雑極まる二元論はどうしたことか?余暇時間でも好きで仕事してる人だっているし、家族と親しみたい人だって、美味しいものを食べたい人だっているのだ。そして家族であれ美味であれ、室内・野外等しくエンジョイできるわけだから、その内外基準論そのものが失当。まあ「どちらかといえば」って意味なんだろうけど、それでも本当にイン・アウトがイーブンな人だっているわけだし、それもこれも一切無視して無理やり選ばせておいて、あとで「あなたはこういう人です」とか言われてもねー。最初がコケてるんだから、あとは全部アテにならないでしょうが、それで何がわかるというのだ。

 話がちょっとそれましたが、ここで整理をすると、このように選択技は、
(1)少ない選択肢にすることで、本来の多様な可能性を忘れさせる点、
(2)さらに何段階もある選択レベルを特定の一点に固定してさらに視野を限定させる点
 これら二重の意味で気をつけるべきかと思われます。


 今回はこれで終わりです〜。長いと嫌われるから、このくらいでいいでしょ



 以下、「え、これで終わり?」という「食い足りない」人向けに付加的に書きます。

選択肢の条件

 選択肢によくにてるんだけど、選択肢というのとはちょっと違うのが沢山あります。あるいは、選択肢と呼ばれているものも、いろいろなパターンがあります。

 一般に「選択肢」と呼んで良いような場合というのは、上位の論理階層が既に検討・決定済で固定しており、それを現実化していく個別局面における戦術部分という、比較的下層なレベルでの実務処理でしかないです。

 例えば、いろいろなことから考えて、この日に大阪から東京まで行くという方針が決定され、そのあとに、新幹線で行くか、夜行バスで行くか、飛行機でいくか、マイカーを運転していくか、ヒッチハイクしていくかという選択肢が出てくると。時間に余裕がないから予算よりも時間優先でいくのか、時間はあるけど金がないので予算重視でいくか、あるいは体力的に枯渇してるので楽かどうかで決めるとか。

 つまり、上のこととも関連しますが、選択肢として処理してよいのは、
(1)選択のための論理階層をちゃんと理解していて
(2)他の階層については十分に吟味・検討・決定できている
 という条件が整ってる場合だと思います。

 間違っても(1)(2)があやふやなまま選択肢に突入してはいけない。なぜなら、選択肢形式というのはメチャクチャ分かりやすいので、そのわかりやすさに引っ張られて、他の諸事項に関する検討がおろそかになるという恐ろしい副作用があるからです。同じことの繰り返しですけど。

 

選択肢もどき

 単に言葉的に「AとBのどちらか?」になってるから、選択肢っぽく見えているけど、よく考えたらそれって選択じゃないよって場合が多いです。「選択肢もどき」ってやつ。

両立可能でレシピー問題

 例えばですね、「愛に生きるか、金に生きるか?」みたいな話があります。昔から文学舞台の定番で、「金色夜叉」「金に目がくらんで金持ちと結婚したお宮を熱海の海岸でディスる貫一」みたいな話ね。でも、あれは文学という独特な凝縮技法を使って人間世界の諸相を浮かび上がせているのが面白いわけで、普通に選択肢になってるわけではないです。

 だって愛も欲しいし、金も欲しいでしょ?愛と金は相反するというよりは、共存・補完関係になってる場合の方が多いんじゃないの?「母ちゃんのためなら、えーんやこーら!」って掛け声があるけど、愛する家族のために、頑張って働いて金稼ぐんだし、金が無ければ愛は守れないという冷厳な事実もあるわけで、そんなの誰でも知っている。愛と金が相反するなら、全ての仕事(金稼ぎ)には、常に愛を犠牲していることになるけど、別にそんなことないでしょうが。なかには職場結婚とかオフィスラブ(死語か)とか、金を稼ぎながら愛が芽生えることすらあるのだ。

 だから、これは選択肢にはならんよ。

 類例としてはいっぱいあるけど、高校時代「部活をとるか、受験をとるか」「恋人をとるか、受験をとるか」みたいな。そんなの両方取るに決まってるじゃん。てかさ、世の中マルチタスクでやっていかないとダメでしょうが。大人になったら、仕事では上司から煮え湯を飲まされ、部下の失敗のカバーをし、同僚と競争し、取引先と信頼関係を構築しつつ、家族の時間も大事にし、近隣にも愛想をよくし、趣味の時間ももち、イチ社会人として社会的なことにも負担にならない程度にコミットし、親の面倒も見て、出来の悪い親族や友達の尻拭いをして、、、って、一人で10も20も同時進行でやらないといけないわけですよ。ある程度責任ある仕事になったら、リアルタイムに同時並行で走ってる案件は(細かく数えれば)軽く百を超えるでしょう。

 それを受験か恋かという二つかそこらで終わってるとか、その程度の人生マネジメント能力だったら、話にならん!とも言えるわけですよ。

 あちらを立てればこちらが立たずといいますが、あちらもこちらも最大限に立てるように努力をし、その限界までやったところで、とある局面で、どちらを優先させるかという判断になって、そのときは二者択ぽくなるでしょう。でも、一般論としては二者択ではない。「(選)択」ですらない。

 そこで必要なのは、まず大きな価値判断であり、個別の局面における優先順位のつけかたであり、タイムマネジメントやスケジューリングでしょう。キャリアを取るか、結婚(育児)を取るかなんか悩ましい問題だけど、最終的な腹括りとしての優先順位はいるでしょう。最後の最後にどっちを取るか?です。でも、多くの日常局面では、どちらも、であり、この状況においてはまず時間的に切迫しているこちらをやり、しかるのちにあっちをやるという時間差処理をします。選択肢ハムレットで悩んでるヒマがあったら、このマネジメント技法を洗練研磨した方が良いし、多くの場合はそれで解決するはずです。

可能性と選択肢〜やりたいことと出来ることの階層ぐちゃぐちゃ問題

 これもありがち。今30歳でワーホリ可能年限ギリで、ワーホリ可能な国がどことどこでっていうのは客観的な可能性の問題です。そればっか考えてると、単に可能性だけ横に並べて、それを選択肢であるかのように誤解してしまう。

 何度もいうけど、それを選択肢の形にするなら、それ以外の上位階層については既に検討済にしておかねばならない。つまり、なんのためにワーホリやるの?やってどうするの?Aという状況になりたいから、それを実現するためにBという要素が必要であり、そのBを得る数ある手段の一つとしてワーホリがあるという関係になるわけですよね。

 でもね、先程の「本日限り!」の期間限定の心理圧迫詐欺と同じで、30歳でもうギリだという切迫状況が視野を狭くして、大局観を無くしてしまう。二回目ワーホリを取るというのもそうで、目先に戦術レベルのやり方をぶら下げされると、戦術あって戦略なし、木を見て森を見ずって状況になるので良くないです。

 大局観なき選択肢は、選択肢とは呼ばない・呼んではならない、と僕は思うのですよ。

選ぶのではなく、選択肢を増やせ

 まず第一に考えておくべきは、選択肢は増やせるってことです。

 選択肢として突きつけられると、もうそれしかこの世にないみたいな感じになりますが、それって多くの場合は錯覚ですから。

 このあたりは日本でシビアなビジネスとかやってると自然と覚えませんか?
 二者択一で悩んでるくらいなら、第三の道、第四の方法を開発した方が良いし、実際にもそれは可能です。取引や交渉上手になる秘訣は、いかに選択肢を増やしてやるかでしょう?

 マンション建設反対とか住民運動やるにしても、単に反対だけだったら、カタチだけ説明会だけやられて、あとは工事を強行されたらもう法的に止めるすべはなかったりします。でも、相手が大手だったら、出来るだけ穏便に済ませたいと思うから、解決可能な範囲だったら言うこと聞いてくれます。だから、オーケーわかった、あんたらも商売だし、建てるなといってもそれは無理だろう、そこは理解しましょう。でも、そのかわりこちらの不安も取り除いてほしいとして、日陰になるから自分の物件の時価が下がる分の保障はしてほしい、具体的にはいくら欲しいとか、どうせ工事のついでで安く出来るだろうから、こちらの建物の外装工事も無料でやってくれないかとか、電波障害が起きる場合にそなえてそちらの衛星放送の電波をケーブルで近隣住民に接続するとか、地下駐車場の出入り口で通学児童を巻き込んだ交通事故を回避するための措置をして欲しいとか、マンションに住まわれる方々とも出来れば仲良くしたいので、年に一回のお祭りにも参加してほしい、ついてはそちらの方で毎年のお祭りに30万くらい寄付してくれないか?もちろん協賛企業ってことでパンフや提灯にでかでかと載せますし、CMに1億払うこと考えたら安いもんですやん?無料参加券を住民の人に配ればマンションの売れ行きもよくなるんじゃないの?とか、、、もう、ありとあらゆる方法を考えるわけです。

 この場合、俺が俺がでエゴ丸出しでやるとダメで、いかにWin-Winになるか、どうすれば共存共栄できるか、そのプランをどれだけ思いつけるかがビジネス交渉のキモでしょう?「ご事情はよくわかりました!その点についてはこちらの方で折れましょう(or そこはどうしても譲れないんです)。ただし、その代わりといってはナンですけど」って、沢山たくさんオマケをつけてあげて、「ああ、それなら話も違うわな」って思ってもらう。それを一生懸命やってるうちに、誠意やら信頼関係みたいなものも出来てきて、「いや、ほんと一生懸命考えてくれて、ありがたいです」「そこまで頑張って誠意をみせてもらったら、こちらもお返しせんと」ってカタチにもっていくのが理想ですよね。まあ、そんなうまくいかんけど(笑)。

 選択肢をつきつけるような、イエスかノーかどっちですか?ってのは、相手にしてみれば一種の脅迫ですからね、できれば避けたい。いかに選択肢を増やすか?そこが腕(頭)の見せ所であり、そこが優秀無能の分かれ道でしょう?

 だもんで、選択肢は増やせる、ってことをまず覚えておくべきだろう。
 そして、選択肢を増やすためには、発想を豊かにすること、価値観を豊かにすることです。

究極的には選択肢のカタチにしない

 究極的なことをいえば、本当は選択肢ってカタチにならない方がいいと思ってます。だってさ、この世界のリアルな形(したがってそれは僕らの人生のリアルでもある)は、マークシートみたいな選択肢になってないんだもん。

 そんなの食券やらの自動販売機とか、なんたらの申込用紙の記入欄や選挙の投票用紙くらいのものであって、町を歩いてて、どこにチェックボックスとか選択欄がありますか?なんもないよ。ただ普通に空間がひろがってるだけ。時間が流れてるだけ。

 真っ白な画用紙に、好きな色で、好きな場所に、好きなようにグイグイ描いていけばいいわけで、基本はそれだと思います。うまくいくほどに、そういうニュアンスに近くなっていくんじゃないかな。追い詰められてジリ貧になってくるほどに選択肢的な話になっていく。

 付き合い始めた恋人同士は、今度の休みにどこかにいこうよ、海もいいよね、山もいいよね、近場に一泊旅行しようよ、ゴハン食べようよ、家で二人で一緒にいようよ、ちょっと張りこんでゴージャスな感じもいいし、こたつで二人で湯豆腐もいいよね、ああ、もう何をしても楽しい!やりたいことだらけで困っちゃう〜ってな感じでしょう。つまり、「真っ白な紙に好きなように描いていく」ってそういうこと。

 これが煮詰まってくると、「私と会社とどっちを取るの?」みたいな二者択一的なニュアンスになっていきますよね。だからね、フレームワークが二者択一とか選択肢とかになってると、もう既に負け始めているというか、ヤバい状況になってるって言えなくもないのですよね。

 それに本来自由な世界に、選択肢的な話になること自体が、フィクションぽくもあるのですよ。日本でガンガン働いてキャリアとお金を貯めるか、海外でのんびり自由に生きるか、みたいなのもフィクショナルな二者択一ですよ。別に日本で働いたからといって、キャリアもお金も貯まらないケースは山程あるし、海外にいったからといって、のんびりでも自由でもなかったりもするわけですよ。

 選択肢にしたい人、選択肢的に見えてしまう人は、創造力の稼働が足りないんじゃないかしらん。

選択肢ではない無限の切り口

 だって生き方なんか、無限に切り口あるもん。
 これもわかりやすく喋り言葉で、架空のインタビューみたいな形にしておきましょうか。

 「海千山千って言葉があるじゃないですか?海に千年山に千年住んでって意味で、千年は無理でも、海にも山にも同じくらい住んでみたいんですよねー、どっちの楽しさも味わってから死にたいです、僕は」
 「40歳過ぎたら日本放浪したいんですよ。各県に1年づつ暮らしてね、それでも47年かかるんですよね。40歳からはじめると87歳くらいでコンプリするんで、まあ人生タイム感としてはいい感じで、いい暇つぶしというか、エキサイティングで面白いかと。」
「そのためには、どこにいっても気楽に暮らせる生活能力が必要で、どんな仕事でも出来るし、どんなボロ家でも暮らせて、どんな人達とも楽しく飲めるというか、そういう融通無礙な人間力が欲しいですね」

「人生の達人みたいな感じ、達人は絶対ムリなんだけど、でも料理で言えば、そこそこ料理の上手な人くらいにはなれるんじゃないかなって。冷蔵庫あけて、ありあわせで美味しいの作れる人、憧れるんですけど、あれが人生でできるといいなと。どこにいっても、ありあわせで楽しくできるくらい、引き出しを増やしたいんですよ。ワーホリとかやってるのもそのための修行であり投資ですし、日本であえてブラックやってるのも、高校の部活みたいに身体が丈夫なうちに一定負荷をかけておくと、年取ったときにクリアできることも増えるかなって目論見もあるんで。ただ体壊したら元も子もないんで、そこは気を使ってますよ、かなりね」


「なんかねー、漠然としてるんですけど、「作品」を作りたいんですよ。仕事とかじゃなくて。英語でいうと”WORKS”で同じなんだけど、なんか自分の名前がクレジットされるっぽい感じ?そういうの創りたいんですよ、一生の間に。それがナンなのかよくわからないし、どうも才能とか無いっぽいんだけど、でもなんか携わりたいですね。あ、もちろん、それで食ってくなんてことは考えてないです。食えたら良いけど、それはオマケみたいなもので、「私の作品」って誰に誇るのでもなく、まず自分自身に誇れるようななにかを創りたいんです。」
「そういう視点を一つもつと、不思議なことに見え方が変わるんですよ。他人の「作品」にふれると、もうレスペクトしちゃうし、わー、これ大変だったろうなーとか、これまで見えなかったものが見えてくるし。ごはん食べにいっても、シェフの方の意気込みとか工夫とか見えるときがあって、感動しますよ。ネットやっても、町を歩いても、ああ参考になるな勉強になるなってことが増えてきたし、自分のストックが増えていくのって、貯金が増えるのよりも楽しい感じがしますね」


「昔っから個性が無いって言われてて、友達とか先生とか、なによりも自分でもそう思ってて(笑)。それって微妙な立ち位置なんですよね、自我の置き場がないというか、Mr.平均値みたいな、実在するんだかしないんだかすらわからんという」
「でも、最近は開き直ってきて、そこまで個性がないならいっそのこと徹底的に無個性でいこうかと。てか、個性がないのが個性とか言うじゃないですか、あれってなんなの?って。ほんとは自分って結構好き嫌い激しいし、我儘だし、いい人っぽい瞬間もあるけど、結構イヤな奴になってるときもあって、個性はあるんだと思います。ただ表現できてないというか。つまり「ダシ」みたいな感じで、醤油とかケチャップみたいに強烈なものはないんだけど、でも味はついているという。上善如水って言葉を最近知って、けっこう個人的にハマってるんですけど(笑)、酒もよくなっていくと水みたいになるって。ほとんど水みたいに抵抗なく飲めるんだけど、でもちゃんと酒であるという。
 だから、なんというか、無理やり個性を演出するとか頑張るのはもうやめて、バーンと突出するのではなく、じわじわ滲み出てくる的な方向でやってみようかと。で、やってみたら、、、って、何をどう「やる」わけでもないんですけど、気持ちの問題なんだけど、そういう心持ちで生きてると、これが結構楽なんですよねー。ああ、そういうことかと」


 ね?選択肢っぽくないでしょう?

 最後に、簡単な対症療法というか、「おまじない」みたいなものですけど、選択肢っぽくなったら、選択肢の代わりに「プランA」「プランB」と呼び方を変えるといいです。選択肢と言われると硬直的で二次元的な感じがするけど、「プラン」と言いかえるだけで三次元的な膨らみがでてきます。

 言葉というのは恐ろしいもので、人間の精神作用を呪縛します。呪術性がある。だから選択とはいわずに、プランにするといいです。

 さらに、プランAの「コンセプトは?」って深めるといいです。いったい何が目的で、そのプランになるわけ?という実質的な内容です。「私立文系」だったら、「基本勉強キライだし、出来ないし、受験科目は少なければ少ないほどうれしい。今のレベルを底上げして点数取れるようになるまで相当時間がかかりそうなので、それを7科目もやってる余裕はないので、焦点をしぼった方がうまくいく」というのがコンセプトです。国公立派は「真面目なだけが取り柄で、どの科目もそこそこ取れるけど、一発長距離が打てない平凡コツコツな自分には、二塁打を3本打つよりも、シングルヒットを7本打つほうがやりやすい」ってことだと思います。そういったコンセプトを言葉にして表現してみる。うまく表現できなくてもいいから、出来るところまでやってみると。それだけで呪縛からは多少は離れられると思います。


文責:田村


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