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Essay 920:「思いつめている」時点で既に間違っている

〜人間のように頭の悪い生き物が「考えて解決」できるほど世界は小さくないよ

2020年02月10日

写真は、Fishmarketあたりから臨むAnzac BridgeとGlebe 主役は「空」だけど。

あまりにも簡単に変わる人の心

ジュージュー焦げる心の鍋

 最近はなにかと辛気臭い話が多くて、経済とか政治とか、「おお!これでどんどん良くなるぞ!」って歓喜の声をあげるようなことは少なく、「おいおい、どうなっちまうんだよ、、、」と思うようなことが多いです。

 辛気臭い話を書こうと思えば、毎日のようにメディアにあがってきてるのでネタには困りません。「事件」のように突発的に起きるものだけではなく、老化のように当たり前に悪くなっていく話も沢山あります。例えば、今、日本で橋だのトンネルだのインフラが老朽化して、早く補修しなきゃいけないんだけど予算&人員不足で出来ていない。「5年以内に補修が必要」といわれている案件が全国で8万カ所もあると最近読んだことがります(ググってみたらすぐ出てきますよ)。80000ヶ所ですよ。単純に47都道府県で割っても一県あたり1700件もある。こんなの「どうすんだよ?」って話ですよね。感染のように緊急事態ではないのだけど、待ってても良くなる可能性(自然治癒とか)はない。それに加えて、温暖化その他の気象条件によって地すべりが起きやすくなってる感じもするし、考えるだに辛気臭くなります。

 そんな話はいくらでもあります。ことプライベートな案件にしぼっても、なにかと物入りだったり、アレだったりコレだったり、考えていくうちに「だー!」ってちゃぶ台ひっくり返したくなるような(笑)。まったく、もう、右を向いても左を見てもって感じ。

笑いとパラダイム変化

 そんなことばっか考えていると、ジュージュー煮詰まって鍋の底が焦げてきます。考えれば考えるほど「お先真っ暗」感の暗黒度が高くなり、どんどん心が焦げてきて精神的にキツくなっていきます。

 そんなときは緊張緩和が大事。とりあえずは「笑う」のが良いです。恋人同士の喧嘩でも、何日も続いて「口もきかない」というくらい超険悪になってても、どっちかがプッと吹き出したりニコッとしたら、がらりと雰囲気が変わりますもん。それはもう「雪どけ」「寛解」なんてレベルを越えて、「パラダイムが変わった」という表現が大袈裟では無いくらい。だって、それまで超真剣&超深刻だった問題が一瞬でどーでもいいことになってしまう凄まじい意味変化が起きてるんですから。

 僕自身、大昔に遠距離恋愛してて、遠距離恋愛とは疑心暗鬼との戦いで、会ってない時間は、なんだかんだ考えすぎます。で、自分の記憶のなかから、過去の相手の言動をあれこれ勝手に悪く取って、勝手にムカついて、もう別れるしかないとか、今度あったら言ってやるぞとか、もう臨戦態勢で心がササクレてきたりもします。でもって、相手がやってくるとき、半分喧嘩腰で駅のホームまで迎えに行くんですけど、新幹線の長いホームに列車が滑り込んでくると、だんだん気持ちが変わってきて、ドキドキしてくる、ほどなくして相手が降りてきたら、もう臨戦態勢もクソもなくなって、「やあ、お腹すいた?」とか普通に楽しく話したりします。実際に自分も現実にそれを体験してみて、「なんなんだよ、俺は?」と思ったもんです。なに?この心のジェットコースター。

 恋愛じゃない事例では、過去のワーホリ体験談のA君の場合、カンガルーアイランドかどっかでキャンプ張って、なんだかしらないけどヘビーに落ち込んでいた。もうなにもかもダメなような、考えれば考えるほど暗闇に飲み込まれるような気がして、ドキドキしてきて、一睡もできなかった。夜が白んでくるにつれ、寝てることすらしんどくなってきたので、波打ち際を散歩に出た。とことこ歩いて、大きな岩を廻って、視界がぱっと開けたとき、いきなり目に飛び込んできたのは一頭のアシカだったそうです。「あ、アシカだ!」。そんなものがいるとは夢にも思わなかったから、うわ写真取らなきゃとかジタバタして、でもアシカはやたらのんびり佇んでいて、ほとんと「超然と」って感じで悠然と浜辺に座ってる(立ってるかな)。そのアシカを見た驚きか、心がいきなり動いた弾みか、アシカのユーモラスで超然とした佇まいに打たれたのか、アタフタしてる自分がおかしいか、急に笑えてきたそうです。何がそんなにおかしいのかも自分でもわからないんだけど、「あははは」って声を出して笑ってしまった。笑ってしまったら、夜も眠れないで悩んでたことが綺麗さっぱり消えてしまった。てか、何に悩んでいたのか思い出そうとしても思い出せないってくらいに。

 これって何なんでしょう?
 人の心がこんなにも瞬間的に変わって良いのか?
 それまで夜も寝れないで悩んでいたことが、一瞬で雲散霧消してしまっていいのか?

 でも「良いのか」もなにも、現実にそういうことはいくらでも起きます。

人間はそれほど頭が良くない

 「女心と秋の空」「今泣いたカラスがもう笑った」というくらい、人の心はコロコロ変わります。それはいいです。感情というのは、そういうもんなのでしょうから。

 見過ごせないのは、単に心・気分・感情が変わるだけではなく、それに伴って、僕らが真剣にやっている思考・議論・価値観・戦略・哲学、、、なども影響を受けることです。「あはは」「ま、いっか」で笑い飛ばしてしまったりするんだけど、じゃあ、これまで真剣に考えていたのは何だったの?無駄に真剣だったわけ?そうではなく、笑い飛ばす方が間違っていて、笑おうが気分がほがらかになろうが、問題は何一つ解決してないわけで、それこそ「笑ってる場合じゃないだろ」ってことなのか。

 いきなり結論までワープしますが、現時点で僕が考えているのは、この広大な世界に対して人間の頭が悪すぎるということです。頭がいい人と悪い人がいるのではなく、僕もあなたも、人類という種そのものが頭が悪いと。だから無駄に真剣になったり、笑ってる場合じゃないのに笑って解決した気になってたりする。でも、これはもう仕方ないのよね、もともと頭が悪いんだから、ということです。

 「頭が悪い」という表現が問題ならば、全てを計算しマネージ仕切れるほどの頭脳のキャパシティが無い、と言い換えてもいいです。土台ね、それこそ考えてみたらわかるのだけど、体長2メートルそこそこの生き物が寿命を全うするためには、せいぜい半径十数キロくらいが分かってればそれで良いのです。進化の神様だってその程度の設計思想でやってる筈。別に一周4万キロの地球全部、それも森羅万象を理解しなくてもやっていけるように作られている。それが妙に小賢しいから、複雑な世の中を作ってしまって、その複雑さに振り回されているだけだとも言えます。興味本位で核兵器を作ってしまったけど、核兵器を万全にマネージする能力はない、みたいな。

無駄に真剣

 これは本当によくある話で。確かに真剣に物事を考えて、何かを憂いたり、深刻になっていくんだけど、真剣に考えてるからと言って、それが正しいという保証にはならない。

 思うのですが、そもそも「真剣に思い詰める」ことが出来るのは、最初から考慮すべきファクターを無意識的に削ぎ落として、問題をシンプルにし過ぎているからでしょう。数学の問題のように「Aの値がnのとき、Bの値はいくらか」と。

 だけど、この世界は広く、考慮すべきポイントはAとBの2つだけではない。CもDもEも、、、無限にある。数え方にもよるが、数万、数兆くらいあるかもしれない。そこまでいかなくても、おそらく要素が5とか10くらいになった時点、連立n次方程式のnが10を越えたくらいで、人間の頭はウニになって、なにがなんだかわからなくなります。いわゆる頭のいい人だったら、多分十数から数十くらいの変数処理が出来るだろうけど、数百単位になったらもう無理です。でもこの世界は森羅「万象」っていうくらい無限にあります。その全てを追いきれるものではない。

 「あらゆる可能性を考えて」とかよく言うけど、無理です。あらゆる可能性なんか事前にカウントしきれるものではない。あらゆる価値観、色んな人のそれぞれの思いを汲み取ってとかいうのも同じように無理でしょう。

 ちなみにこれは理数系の複雑系がどうしたとか、ビッグデーターで処理とか、AIでなんとかなる話ではないです。単に客観的なデーター数値だけならいけるでしょうけど、価値観とかものの考え方は数値化できないです。同じ事象でも、見方を変えたら180度違ってみえる。同じ飲み会やサッカーでも、イヤイヤやってる人には地獄の時間でも、好きでやってる人には天国です。もちろん180度という両極2つに分かれるものではなく、価値観なんか179.9度違うとか、無限にバリエーションがあります。さらに360度ですら二次元の話であり、本当は三次元のように「斜め上」みたいな角度もありうるし、四次元的に過去から未来への時間的変化もある。

 と同時に、解答者であり採点者でも僕ら自身が、ひとつの固定した視座にずっといるわけではない。さっきまでAを渇望していたにも関わらず、単に10分経っただけで、もう興味が失せたりもする。だから「衝動買い」なんていう現象も起きる。

 ことほど左様にウニャウニャと変幻自在なのが人間であり、それが70億人もいて、現在から将来にかけて「みんながハッピー」になるパターンなんか、もう数兆とか数京、それ以上のケタのバリエーションになるでしょう。

 簡単にいえば、「考えて解決」できるほどこの世界は甘く(小さく)ない、ってことです。

 

ちょっと視点をズラせば

 こんな結論だけ叩きつけても理解しにくいかもしれないから、例を出します。

例えばコロナウィルス

 タイムリーな例でいえば、例の新型コロナウィルスの問題があります。今は感染症やパンデミックをどう食い止めるかという「一点」だけで論じられているきらいがありますが、実際には一つでない。とりあえずもう一つ対抗要素として出てきているのは経済です。このままバンバン国境封鎖、なんでも切断とかやっていくと、経済に対して凄まじい影響が出てきます。中国人観光客によって成り立っている観光地は大打撃だし、それは日本もオーストラリアもそうです。でも、話はそれにとどまらず、もし空気感染を強調するなら、空気も一緒にパックするような輸出入も全部やめろって話になる。そうなると中国経由のグローバルビジネスは成り立たない。iPhoneだって中国部品が製造工程に入ってたら、そこで製造サイクルが壊れる。日本の製造業だってそうです。一過性なら我慢もできるが、数ヶ月と続いていくともうヤバいでしょう。

 と同時に、日本も感染大国になってきたので日本人お断りとミクロネシアなどに言われてますが、世界中でそれが広がっていったら、もう日本人は外にもいけないし、日本にも誰も入ってこない。とりあえず僕ら海外のエージェントは大打撃ですよね。誰も入ってこれないんだから。でもそんなマイナーなレベルではなく、日本経済から貿易とかその種の要素が消えます。タンカーですら恐くて日本に行きたくないとか言い出したら資源も枯渇して、もう大崩壊でしょう。

 抽象的にパンデミックだと騒いでる分にはいいんですけど、いざ自分のシフトが減らされたり、しばらく自宅待機で収入がなくなったり、リストラされたり、会社が潰れたりして路頭に迷う人が増えてきたら、論調も変わるような気がしますね。パンデミックだかなんだか知らないが過剰反応だと、風評被害だって。あなただって、日本の感染者数が数値的に増えたり減ったりすることより、自分がクビになる方が百倍も千倍も大事じゃないですか?となると、それまで「何やってんだ、徹底的にやれ」と言っていた論調が、「やりすぎだ、大げさだ」に変わる気もしますね。

 純粋論理的に言えば、初動においては徹底的に隔離遮断するけど、それが漏れて後方でも感染が出てきたら、もう抑え込むのは無理だということだから、一転して何事もなかったようにしたほうが良いともいえます(全国民対象にスクリーニングをやるとか、治療を手厚くするとかは別として)。

 ここでは、その是非を論じるのが目的ではなく、一つの視点だけで論じるのは非常に簡単なんだけど、それが2つに増えただけで、もうどうしていいのか分からないくらいに混乱するってことです。そして、リアルな社会には、それが10も20も無限にあると。

価値観変えたら

 年金がヤバいとか、将来仕事がなくなるとか、それ以上に自分にはキャリアがないとか、資産もない、あってもいつ溶けるかわからん、政治は迷走しまくりだわ、異常気象やら天災は山盛り起きているわ、、、、そんなことばっか考えていると心の鍋の底が焦げてきます。

 でもね、「それがどうした?」とも言えるのですよ。今までそんな何もかもがうまくいって、全員ハッピー!なんて時代がこの地球にあったかよ?と。どの時代もしんどかった。それを人類は生き抜いてきた。どっかで読んだ話だと、やっと人類レベルに進化しても氷河期によって絶滅の危機まで追いやられ、一説によるとわずか全人類数百人レベルの崖っぷちまで追いやられたらしい。それでもしぶとく生き延びてきたことを考えれば、今70億人もいるんだから、半分に減ろうが、100分の1になろうが、それでも余裕だろ?と

 いや人類がどうとか大きな話ではなく、こと自分が死んでしまったり苦しんだりするのはイヤだという発想もあります。それはそれで分かる。ならば、別に人類はとか、地球は、世界はって話を広げる必要もない。この世界が全て順調に廻ってて、人々がみな幸せで、その一環として自分もまた幸せになるんだ、自分が幸せになるルートはそれしかないんだって決めつけることもなかろう。他の人がどうなろうが、とりあえずは自分が幸せになればいい。別にエゴイスティックになれという意味ではなく、焦点を絞れという意味で。それに、過去も現在も、全世界は全然順調に廻ってないし、全ての人が幸せでもなんでもない。ある意味では全員なんらかの形で不幸だともいえるわけで、こんなのは考え方次第。

 何が言いたいかといえば、ジュージュー煮詰まって真剣・深刻に思いつめているときは、多角的なものの見方をシャットアウトして、視野をギューッと狭くしてアングルも一角度に固定して、ものごとを過度にシンプルにしてるから、そうなってるということです。

 去年に日本に帰省したとき、あちこちでオフをやりましたけど、めちゃくちゃ楽しかったです。連れ立って皆で歩いてるだけ、くっだらない話をしてケラケラ笑ってるだけで、もう楽しかったし、ハッピーでした。単に友達と歩けばいいだけだったら、こんなもん、この世がどうなろうが、まあ出来るわけで、だから心配は要らないよって考え方も出来るわけですよ。むしろ、友達と連れ立って歩いてるだけでハッピーになれるという自分をいかにつくるか、歩いているだけでハッピーになれるような友達をいかに作るか、そのためにはいかに日頃から自分を本来の自分であるように、嘘をつかず、飾らず、無駄な見栄も張らず、対人関係に余計な添加物が入らないようにする方がよっぽど意味あるし、マネージ可能でしょう。少なくとも温暖化がどうのって物事よりはマネージしやすい。考えるならそこだろ?

 こういう「ものの考え方」は、これも無限にあります。そういう可能性をすべて切り捨てて、経済やら、気象やら、メディアに載ってるアイテムだけで世界観を組み立てて、それに自分の人生を寿司ネタのように乗っけて、土台が崩れるから自分も崩壊してもうダメだって言ってるだけじゃないの?

 ただ、そんな具合に、あらゆる要素、あらゆる価値観、あらゆるモノの見方を織り込んで考えようとしたら、もう人間の脳みそのキャパシティを越えて「大いなる混沌」みたいになるでしょう。結局考えきれないのです。その点からいえば、「真剣に思いつめている」という時点で既に間違っているというも言えるのです。より正確にやろうと思えば、対象が巨大で複雑過ぎるから考えられない、だから思いつめることも出来ない。

 鍋底ジュージューの比喩でいえば、本当は鍋が途方もなくデカいのでしょう。遠くの方は霞んで見えるくらい、いったいどのくらい鍋が広いのかもわからない。煮詰まるとかいう以前に、それが鍋なのかどうかすらわからない。人間の認識能力なんかそんなもんだと思います。

解決しなくても解決する適応能力

 人間がその程度の認識能力であり、考えて物事解決するにも限度があるという悲しい生き物なのだけど、でも、それは悲観することもない。考えて全て解決できなくても生き残ってるということは、別に考えて解決しなくても生き残れるということでもあるしね。

 思考能力に限界がある反面、福音としては、もう悪魔的と表現してもいいくらいの旺盛な適応能力があります。考えても限界あるから、よく「思ってもみない展開」になります。「思ってもみない」という時点でもう頭が悪い証拠なんだが(笑)、それでもなんとかなっている事実にむしろ着目するべき。

 特に日本の場合、明治維新でまず天地がひっくり返るような大変化が起き、敗戦でもまた起きた。天地が二回ひっくり返ってるわけですよ。それまでお武家様と庶民は、生物学的に種族が違うくらいに違うものだという封建主義が徹底していたわけだど、一夜あけたら四民平等だし、断髪令でヘアスタイルも強制的に替えられたし、廃藩置県で全国の地名すら一斉に変わったし、それまで「姓」がなかった大多数の庶民に姓をつけたり。それまで黒船だ攘夷だで、毛唐どもがやってきたら皆殺しにされるんだとか言ってたのに、一夜あけたら、文明開化だ鹿鳴館だで洋装が最高にカッコいいものになったわけで、集団統合失調症かよ?ってくらいの変化です。しかもそれを泣きながら強制されたというよりは、むしろみんなでエンジョイしているっぽい。じゃあ、これまでの「攘夷」ってなんだったんだよ?

 敗戦でも、それまでは「鬼畜米英」で、鬼畜だもん。神州不滅で最後の一人になるまで陛下の赤子としては名誉ある死を、、とか叫んでたのに、終わってみたら、民主主義だ、アメリカ万歳ですから。論理や思考、信念や価値観というものが、人の人生を規律するなら、負けた時点で、相当数の日本人が自殺しても不思議ではないです。本当に自決した方もいたらしいのだけど、圧倒的大多数は自殺してない。

 常々書いてますが、僕はその「手の平返し」を非難するつもりはないです。一貫しないその信条、人格総とっかえみたいな変身ぶりを、むしろ「逞しい」くらいに好意的に思ってます。異常といってもいいくらい「適応能力」が高い。時代がAになったら、カメレオンみたいに一斉にAになって、BになったらばーっとBになる。それはもう「大自然の驚異」レベルです。

 だもんで、この強力な適応能力があったら、そうそう心配することはないよって考え方もありうるわけですよ。これから海外に来られる方にお伝えするなら、現地に来たらまず嵐のように遭遇するのは「そんなこと考えてもなかった」という想定外ですが、そんな現地において一番役に立つのは、お金でも、語学力でもなく人間力だけど、さらにその核心にあるのが「適応力」です。大抵のことは慣れちゃうんですよ。

 ちょっと皮肉にいえば、深刻に&真剣に考えてるっぽいんだけど、実は大して考えてないんじゃないか?とも言えます。なんとなく皆がペシミスティックになってたら、カメレオン一族としては自分もペシミスティックにならねば!とか(そうは明確に意識しないだろうけど)、大なり小なりその程度じゃないの?って思ったりもしますね。

考えて解決の射程距離

 だからといって、考えるのが無駄だとか、真剣・深刻になるのがダメとか、すべてお茶楽らけて、ケ・セラ・セラで行けばいいじゃんとか言ってるわけではないですよ。

 考えて解決することも多いです。一般に射程距離が短いものは考えて解決します。今日これから出かけるけど、先にショッピングセンターによって、次にガソリン入れて、最後に子供を迎えにいくのがいいか、順番を逆にしたほうがいいのか、そのくらいのことなら考えて解決します。

 他方、人生レベルに射程が長くなってくると、もう無限に考慮すべきファクターが入ってくるし、またそれをいかに解釈するか、どう価値づけるかという点で無数のバリエーションが出てきて、もう考えてどうなるという範囲を越えていきます。

 「見極めが必要だ」と言ってるんです。
 近距離だったら視界もクリアで考えやすいけど、遠距離になってくるにしたがって「考える」という解決方法は有用性を徐々に失っていく。不確定になるほどに、「見通せないものは見通せない」と冷静に判断するほうが良い。その代わり「どういう時代になるか?」という将来予想よりも、「時代がどうなろうとも私はこうしたい!」という自分の価値観や心構えの方が意味をもつようになる。

 さらにその価値観すらも時代や状況、さらに気分一つで容易にひっくり返ることを考えれば、それすら万全ではない。時間のスパンが長く、長期になるほど自分が変容していく可能性が高く、見通しがきかなくなるのなら、見通せない分は、自分の健康な適応能力を信じるしかない。この適応能力は生物の本能的な部分からくるのだろうから、生物としての健康性を保つ方が対策としては有用だと思います。

 今、短期→中期→長期未来と3つに分けましたけど、これも本当は無限に細分化できます。大雑把に3つにわけただけでも、予測→価値観→生き物として健康と重点の置き方がシフトしてくると思います。ほんとはもっと精密に考えるべきだけど、まあ、ここは大まかな話で。

 ちなみに「生物として健康性」って何よ?といえば、いや、ありきたりな話ですよ。身体健康でいえば、適当に運動しましょうねーってことだし、精神健康でいえば、「あんまり思い詰めるなよ」って普通の話です。人間の心には、適応能力のほかにも、様々に優秀な防衛機構が整ってるわけで、「忘れる能力」なんかもその一つです。忘れるべきことは健康に忘れろ、と。

 実践的な感覚で言えば、考えすぎて肩が凝ってきたり、眉間にシワが寄ってきたりするのを自覚したら、「あ、やべ」と自分で気付いて、トントンとその場で飛び跳ねて、シュッシュと軽くシャドーボクシングをするくらいの抜き方がいるだろうなと思います。何でもそうだが、放置して重症になると面倒です。早め早めに抜いておかないと。

 

「笑い」はリセット

 ここで冒頭の「笑ってガラリと変わる」という話につながるのですが、「笑い」というのはリセットだと思います。

 笑いの本質は緊張の緩和だといいますが、視野狭窄でギューッと煮詰まって、思いつめてるときに、その緊張を笑いが解くのでしょう。あるいは、緊張が解かれる=狭まった視野が一転して広がるとき、大きな開放感があり、それが笑いという形で出てくるとも言えます。

 アシカを見ただけで笑えるのは、なにが可笑しいからでもなく、緊張が一気に緩和したからだと思います。「なーにを思い悩んでるだよ、俺は?」「今までそんな考えてうまくいったことなんかあるのかよ?」「下手な考え休むにたりだぜ」って、全く違った発想が入ってきた。それまで閉ざされて換気の悪い空気の部屋だったのが、バーンと窓をあけて新鮮な涼風がぶわっと入ってきたような感じ。それで一気に気分が変わった。パキンと折れてしまいそうなくらい張り詰めていた緊張が開放されたので、生理的に「笑い」という現象が起きた、とも言えます。

 ちなみに、遠距離恋愛のホームの心のジェットコースターだって、説明しようと思えば出来るでしょう。それまで「空気の悪い閉じた部屋」みたいに、自分で選んだネガ材料だけで馬鹿シンプルに抽象的にものを考えていたんだけど、ホームに列車が滑り込んできて、現実リアルにいよいよ対処する局面になってきたら、それまで無意識的に排除していた大量の記憶がぶわっと復活したのかもしれない。握った手の温かさであるとか、無邪気に笑ってた瞬間とか、それで一気にバランスが回復したのでしょう。

 一回、緊張を緩和して、視野を広げてみたら、別にそんな思い詰めるような大した問題じゃないなってのも分かったりもしますしね。リセットして考え直した方が、だいたい物事のスケールや奥行きはよくわかるし、より正確に把握できると思います。一つの視点に縛られて深海の底に引きずり込まれるようなときは、問題の認識そのものがアンバランスになって、おかしくなってますから。

 会議などでも、全員が真剣深刻にやってるときは、変な方向にいったりしますね。和やかに、冗談やユーモアが飛んでるくらいが丁度いいと思います。生産的で優秀なチームは、大体そんな感じでしょ。文化祭の準備がうまく進んでるときみたいに、ギャグが乱れ飛び、笑いが絶えないんだけど、でも物事がおっそろしく早く、的確に進んでいく。「あー、その問題があったかー」「おっけ、それは俺の方で何とかするわ」「おう、頼むわ」みたいな感じね。

 ただし「笑いにすがる」とか依存性が出てきたら、それはそれでマズイんですよ。お笑いブームとかありますけど、健康なレベルで笑ってるんだったらいいけど、もう何もかもしんどいから、笑いにすがりつくようになってたら、あるいは笑うことで本当に大事な問題を矮小化したりしたら、これはむしろ不健康です。麻薬みたいなもので。

 嫌なことを忘れるために笑うんじゃなくて、イヤなことを正確に捉え直すために笑うのですから。
 なんでもそうだけど、バランスが大事だといういつもの結論です。

 ところで、、って、まだ幾らでも話は発展するんだけど、このくらいの分量で切っておきましょう。




文責:田村


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