★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
919 ★背景デカ画像


  1.  Home
  2. Essay目次
このエントリーをはてなブックマークに追加


Essay 919:童話・絵本の怖さと真実

〜残酷な世界の触感と不思議な美しさ

2020年02月03日


 今週は、英語の意味でのエッセイ(論文)ではなく、日本語の「随筆」系を。

 記憶の中の一番古いくらいの層に、幼児の頃に見ていた絵本があります。チャイルドブックとかいう名前だったと思うけど、定かではない。もう検索しても全然それらしいものはない。まあ、そうだよね、半世紀以上前の話だし。

 なぜそんな覚えているかというと、印象が強烈、、というよりも、それがそのまま自分の世界観や価値観、アートセンス、ものの考え方、、、つまりは自分自身そのものになっていったような気がするからです。

 その絵本は、断片的な記憶によれば、あまり日本ぽくない、ちょっと変わった作風で、「子供が喜ぶ」ようなタッチではなかったのですね。幼児心に「これって、子供向けなのかな」と疑問に感じたくらい。まだ3−4歳くらいだったと思うので、そういう言葉と論理で明晰に思ったわけではなく、異質な触感があったのですよ。だから余計に印象に残ったのかもしれません。

 具体的にはほとんど忘れてしまったんだけど、そんな「可愛い動物がたくさん出てきて、みんなで楽しく〜」っていうのでは全然なく、もの寂しい林が、画面の右上の方に行く連れてだんだん暗く、黒くなっていって、そのまま死の世界につながっていくかのような。

 もうすごい「アート」なんですけど、独特の「怖さ」があるのです。
 それはディズニーランド的な無理やり楽しさを作り込んでいるアーティフィシャルな世界とは真反対の、「荒涼としたこの世界の真実」みたいな感じ。でも、同時に独特の美しさもあるのです。ひと目見たら心にひっかかって離れないようなフックがある。

 真実だから怖く感じるのか、真実だから美しく感じるのか、恐いから美しいのか、もう何がなんだかわからないんだけど、そのあたりが渾然一体になっているという。

昔の絵は恐い

 でもね、とも思うのです。

 この独特の怖さと美しさと真実ぽさというのは、童話や絵本系の基本じゃないかと。もっと言えば、基本、昔の絵や話ってだいたい恐い。

 ヨーロッパの昔話、グリム童話とかめちゃくちゃ恐いですよね。絵が恐いし、内容も恐い。

 絵柄で言えば、ときには宗教画のような暗鬱なタッチで残虐なシーンが描かれたり、抽象デザイン化するにしても、タロットカードの絵の不気味さやら、仮面の造形の恐ろしさ。キング・クリムゾンの「ポセイドンの目覚め」のジャケットのような、あるいはキュービリック監督、トム・クルーズ主演の”Eyes Wide Shut"の出てくる、上流階級達の秘密の集まりに出てくる不気味な仮面やら。怪物的な存在の造形も、映画「レッドドラゴン」(「羊たちの沈黙」から始まる、アンソニー・ホプキンス演じるハンニバル博士シリーズ四部作の3作目)に出てくる絵画のキャラ造形は凄い。

 ↓ヘンゼルとグレーテルのArthur Rackhamの挿絵 (Wikiより引用)

↓有名なゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」。神話をもとに描かれたものだが、やりすぎだろってくらいトラウマ級の絵に。

↓Eyes Wide Shutの気持ち悪い仮面シーン

↓「レッドドラゴン」に出てくる絵〜ウィリアム・ブレイクの水彩画『大いなる赤き竜と日をまとう女』、ヨハネ黙示録の情景に基づいて描いたとされる。

 これは日本画でもそうです。宗教的目的からことさらに恐く書いた「地獄草紙」なんか、下手に見たらトラウマになりかねないくらいだし、そんな恐怖・妖怪・怪奇を描かなくても、普通のなんたら絵巻とかいう、なんかの事件や市井の様子を描いたジャーナリスティックなものですら、そのへんに普通に死体が転がってたりして、かなり恐い。

昔の話は恐い

 絵柄だけではなく、話の内容もグロだし、残酷。
 もともとが血なまぐさい歴史的な状況をもとに出来ているらしいので、怖くて当たり前です。残虐なのもあるしね。だけど、妙に魅惑的でもある。

 小松左京の隠れた名作に「闇の中の子供」という短編があります。その中で語られてますが、その昔、世界は絶対的に飢えており、また避妊技術もなかった時代では、当たり前のように間引きなど子供殺しが普通に行われていた。何かの拍子に異空間に入り込んでしまった主人公は、そこで親たちに捨てられ、殺された子どもたちが永遠にさまよっているのに出くわす。歌舞伎の世界(菅原伝授手習鑑)では忠義のために自分の子供を殺し、落城や政争となれば大人の都合でわけもわからないうちに自刃させられ、親に捨てられたヘンゼルとグレーテルは餓死寸前の状態で暗いドイツの森を彷徨い、生まれるやいなや濡れ半紙をかぶせれ間引かれた百姓家の赤子達、焼け火箸の痕も痛々しい折檻、虐待死、戦災孤児は戦後の雑踏の路上で餓死していった。その例でいけば、小説には出てこないが、幾らでも類例は思いつく。安寿と厨子王は生き別れに売られ、マッチ売りの少女は凍てついた路上で凍死していった。

 しかし親達もまた苦しんだ。心ならずも生活のために我が子を捨て、殺めた人々、それは一部の例外というよりもほぼ全員がそうせざるを得なかったくらいに絶対的に食えなかった時代。人々の罪悪感もまた絶対的に重くのしかかり、賽の河原で「ひとつ積んでは父のため」と物哀しい作業を強いられている我が子を思い、わざわざそんな哀切極まりない物語まで創造して、それを聞いてはおいおいと泣き伏した。やり場のない罪悪感と悲哀のエネルギーは、時とともに、民間説話になり、童話になり、歌になる。

 同じようなことは誰もが指摘しているようですが、例えば6 Gruesome Origins Of Fairy Tales That Will Ruin Your Childhood Foreverでも色々書かれてます。「ハメルンの笛吹」(The Pied Piper Of Hamelin)でも、ネズミの被害にあった町が笛吹に頼んでネズミを笛でおびき寄せて全滅させてもらう話なのだが、後日談があって、その見返りとして笛吹きが笛を吹くと、町中の子供が出てきて、そのままどこかに消えてしまったという話。1300年代の教会のステンドグラスに刻まれていた説話によると、1284年7月24日、カラフルな衣装をつけた聖人ジョンとポールがやってきて町の130人の子供全員を連れさったと書かれていたらしい。歴史的にも、この話の13世紀以前に、詳細はわからないけど、なにかが起きたことは確実らしい。まあ、おそらくは飢饉やら鼠害やらで窮乏した町の大人が、子どもたちを売り払ったとかそのあたりのことなんだろうけど。

 だから、昔話、説話、童話などが、この世界の「本当のありよう」につながっていて、それゆえ得も言われぬ恐怖が滲み出てくるのでしょう。

近代における修正

 時代が下るにつれ、こういった生々しいリアリティは影を薄めていきます。
 ひとつは、いわゆるPC=ポリティカリー・コレクトネスで、「ちょっとこれはマズいでしょう?」という問題になりそうな部分を消したり、修正したりすることです。またPCの一種なんだろうけど、いわゆる教育的配慮ってやつで、これを子供に見せるのは問題だと。

 いずれも本来は正しい動機で行われるもので、そこに不満はないです。「土人」を「先住民」と言い換えたり、「片端」を「障害者」と言いかえるのは適切だと思う。いくら昔の人のリアルがそうだったとしても、その昔の人の世界観そのものが偏狭でクソだったら、それを後生大事に温存する必要もない。クソであることがリアルだからといって、その劣悪さが許されるわけでもない。また、犯罪報道とかでも「暴行」「いじめ」をいちいち具体的&リアルに述べてたら、すごいイヤな気分になるでしょう。だから、それはボカすなり、修正するなりするのは、大いにわかります。

 ただ、なんでもそうだけど、場合によっては行き過ぎてしまって、そもそもそんなヤバいことなんか存在しなかったかのようになると、ちょい問題だろうと。ボカしてるけど、そこは想像力で補えという前提でボカしてるんだけど、ボカしすぎて想像力すら働くなり、だんだん意味が変わってくることもある。また教訓めいたことを一方的に押し付けるだけになってしまう。往々にしてオリジナルのものは救いがなかったりするのですよね。「残酷で可愛そうだけどこれが世の中の真実だ」という突き放してるところがあるんだけど、それじゃあんまりだから、最後には皆ハッピーになるように変えてしまうとか。

 もう一つの変更力はコマーシャリズムだと思います。商業的に好感度をあげるために、人々の気に触るような部分を丁寧にまるめていって、色彩も明るさを基調にし、キャラ造形でも可愛らしく、愛らしいものになっていく。ゆるキャラなんかもそうだけど、そんなことばっかやってると、物語の本来の意味はとっくに忘れられ、しまいには精神の幼児化をまねくようになる。

ケーススタディ:白雪姫

 白雪姫(Snow White)なんか、超エグい物語ですよね。継母(グリム初版では実母)と娘の葛藤物語だけど、美貌がプライドの母親が、徐々に美しくなって自分を追い抜いていく娘に嫉妬して殺してしまうという、どうしようもない話です。しかも4回も殺人未遂を犯している。第一の犯行は猟師に命じて殺させ、その証拠として腹を引き裂いて肺臓と肝臓を持ってこいと命じる。不憫に思った猟師は犯行を行わず森に置き去りにするだけにする(その後、七人の小人に姫は保護される)。猟師が証拠物の代わりとしてイノシシの肝臓を持っていくと、母は狂喜して娘の肝臓を塩ゆでにして食べる(食べるか、普通)。ところが、余計な真実を述べる「鏡」のせいで、いつまでたっても世界ビューティNO1に返り咲けない母親は、第二、第三、第四の犯行を重ねる。第二の犯行では自分自身が物売りに化けて腰紐を売りつけ、娘が後ろを向いたすきに首に巻き付けて縊り殺す。第三では毒入りの櫛を売りつけにいき、頭に突き刺して殺す。第四の犯行で有名な毒リンゴになる。ちなみに、死んでしまった白雪姫を生き返らせるのは通りすがりの王子であるが、それは死体を運搬途中にコケて、その拍子に喉につまった林檎片を吐き出したからであって、「王子様のキス」は後世の創作。そして最後が凄いのだが、王子と白雪姫の結婚披露宴では、母親は罪人として真っ赤に焼けた鉄の靴を無理やりはかされ、死ぬまで踊らされる。

 いったいこの話は何が言いたいのか?なにか教訓はあるのか?それすらさっぱりわからないくらいの異常度です。親子の殺し合いはギリシア神話の昔から日常茶飯事なんだけど(それも凄いけど)、それにしても執拗すぎる。ツッコミどころは山のようにあるけど、同じく違うヴァージョンも山のようにあり、さらに似たような話が各国にいくらでもある。もとは、ドイツのヘッセン州バート・ヴィルドゥンゲンの民話(それをグリム兄弟が編纂)らしいんだけど、そもそもこんなグロい話がなぜ民間説話として残ったのか、語り伝えられたのか?です。

 初期の頃はタイトルも白雪姫とかではなく、ストレートに「不幸な子ども」だったらしいし、各国の類話も「奴隷娘」とか「悲嘆と不幸について」とか「試練の話」だったり、シリアスで、救いがないっぽい話もある。総じて共通しているのは、「子供への虐待」「家庭(母娘)内での壮絶な殺し合い」でしょう。でも、それが珍しいから面白がられて語り継がれたのか、それとも普通にありふれた話だから語り継がれたのかはわかりません。なにか人々の心の琴線に触れるものがあったのでしょう(でないと語られない)。

 同時に、王族の話であって普通の庶民の話ではないという点からすれば、王族や支配階級に対する憎悪や蔑視もあったのかもしれません。「あいつらはこういう連中なんだ」という。白雪姫も、可哀想なだけではなく、最後の復讐が凄まじいですからね。結婚披露宴という晴れの舞台、自分の母親に焼けた鉄の靴を履かせて、死ぬまで踊らせる。そんなもんで即死はできないから、それで死ぬというのはどんだけ時間がかかったのかわからんけど、衆人環視のなかでそれをやり、肉体的・精神的に最大限の苦痛を可能な限り引き伸ばして苦しめているんだから、いくら殺されかけた被害者といえども、常軌を逸してると思うわ。ただ、まあ、当時のヨーロッパの王室とか見てると、特にヘンリー8世とかムチャクチャだし、それこそがリアルだったのかもしれないです。あー、でも不思議なくらい国王の存在が希薄なんだけど、「(美しい)女性の虚栄嫉妬の情念と憎悪の激しさから見たら、男どもの政争など児戯に等しく、語る価値すらない」というのが、「いいたいこと」だったのかしらね(笑)。

 このように「酸鼻を極める」と言っても言い過ぎではないようなグロ&エグ物語を、世界のファンタジーに仕立て直したのはディズニーで、1937年の初の長編アニメ。当時としては信じられないくらい高度な技術を駆使したアニメで、世界中に売れまくっただけではなく、カルチャー的に大影響を与えた(手塚治虫もその一人)。そこでは、そういうエグいシーンは全部カットされて、王子様はキスで白雪姫をよみがえらせ、末永く幸せに暮らしましたとさ、的な、エヴァーアフター・ハッピリィー系の定番になった。家族内のエグい感情葛藤も、王家内部の残虐さもいっさいシカトで、ファンタジーに仕立てた。

 これはPCや教育的配慮、そしてコマーシャリズム(グロくしたら売れない)の影響が顕著な例だと思いますし、以後、こんな感じで進んでいったのでしょう。

この世界の触感を正しく伝える

 話を幼少時代の絵本に戻します。

 あの絵本がなぜこんなに忘れられないのか、なぜこんなにも心象風景として残っているのか。

 おそらくは、それが「本当だから」だったからではないか。
 多くのフォークロア(民間説話)やメルヘン(同じ意味のドイツ語)が、ときとして救いがないくらいこの世界の本当の姿を語っているように、僕が幼児の頃にみた絵本も、その系譜に属するのではないか。なにかしら通じるものがあったのではないか。

 もちろん複雑な話が書かれているわけでも、残虐なシーンが描かれているわけでもないです。ただの普通の、どってことない絵だったと思う。

 しかし、はっと息を呑むような鮮烈な色彩感覚で描かれたその絵は、しかし、どこかしら物哀しく、確かになにかを感じさせ、なにかをわからせてくれた気がします。

 何をわからせてくれたのか?

幼少期の不思議な記憶

 幼児期の記憶を遡ると、それもリアルに復元していくと、それはそんなに無条件にハッピーなものではなかったと思う。別にどういう仕打ちをうけたわけではなく、そんな具体的な話ではなく、人間が圧倒的な自然の前に立ったとき、例えば雄大すぎる大きな滝、火山の火口に立った時、「あんなところにハマったらひとたまりもないな」とどうしようなく感じてしまう自分の卑小感と世界への畏怖感のようなもの。まだ身体も小さく、無力極まりない自分が、果てしなく広がる外の世界を楽観できたとは思えない。たぶん、絶えず怯えていただろうし、たえずビビっていたんだと思う。客観的状況においても、また個体の生存能力という点からも、それは当然の話であると思う。

 ちょい話が脱線しますが、幼児から小学校低学年くらいまでって、なにか大人が見えないものが見えてるのかもしれないと時々思うことがあります。妖精とかほんとに見えてるのかもね、草や花や風や虫や動物が本当に語りかけてくれているのかも?って、そう語られることもある。そういえば「リバースエッジ大川端探偵社」というマンガにも「10歳までの子供は”神的領域”」という、およそオカルトから縁の遠そうな人が、市井のエピソードから結論づけていくのがありますね。小さな子供には、神的なインスピレーションを受ける素質がまだあるのだと。

 今となっては夢なのか現実なのかもわからないけど、3−4歳くらいの頃の記憶で、ハサミが二本足で歩いているのを見たことがあるのですよね。なんか一人でほっとかれて布団の上に寝てて、自分のところは暗いけど、向こうの台所あたりから斜めに光が入ってきてそれほど暗くはない部屋で、ふと目が覚めて、上半身を起こしたところで、視界の右手から左手にかけて、畳の上に、えっちらおっちらハサミが大股に歩いていた、、、、、子供心にも、あれ、おかしいなと思い、すごい恐怖感を抱いたのを覚えてます。そして、また話はズレるんだけど、その自分を、「大丈夫だよ」って落ち着かせてくれた、自分と同じような年頃の人がいたんですよね。自分の左後ろに。

 子供の頃から、なんかしらんけど、「もう一人居るような気がする」という感覚があって、それがモチーフでいくつか作品めいたものを書いたこともありますが、そんな感覚、あなたにはありませんか?大人に、てか小学校くらいからすっかり忘れてるんだけど、泥酔したり、高熱でうなされたりしているとき、ふと幼児時代の原風景に立ち戻るときがあり、そのときに、なんとなくその時の感覚が蘇る。

 ま、単なる夢でしょ、気の迷いでしょってのが常識的解決で、別にそこはどっちでも良い。良くないかもしれないが、今更確かめようもないことを考えていても時間の無駄だという意味で。でも、夢か現実かなんか本題ではないのだ。本題は、そのことを数十年たった今も自分がクリアに覚えているという事実なんですよ。なんなの、なんでそんなの覚えているの?という。非常に不思議な感覚。わかります?共有できますかね?

 おそらく自分は、この世界の圧倒的な大きさにいつもビビって恐怖してたんだと思うのだけど、その絵本は、この圧倒的な世界とどう向き合って、どう付き合っていくのか?それを教えてくれたような気がする(何を言っても、「〜ような気がする」しか言えず、すべてにわたって曖昧でごめん)。

 その絵柄は、どことなくこの世界の禍々しさと通じるものがたしかにあり、だけどその怖さだけを描くのが目的でもない。ただ恐怖を賞味するためだけの怪談とは異なる。でも、直感的に、「ああ、確かに、この世界はそうなのかもしれないな」という真実がもつ迫力があった。

 僕にとっての童話は絵本はそういう種類のものです。
 今から思うといいアートだったのかな。
 まあ、これも考えすぎで、実は今見たら別にどってことない絵なのかもしれず、それに自分が過剰な意味付けをしてるだけなのかもしれません。しかし、その絵本が、そういうことを考える触媒になったか、あるいはそういう考えの依り代になったのは確かだと思う。

絶大な影響

 しかし、物心つくかつかないかくらいのときに、そんな「複雑な味」を知ってしまったら、妙に舌が肥えるというか、感覚が違ってしまって、以後、砂糖まみれの子供だましみたいなものには物足りなくなってしまった。テレビなんかも、面白いのは多少あったものの、大体がつまらなく感じた。それはもう小学校の頃から馬鹿馬鹿しくて見てらんないって感じで、紅白なんかも生まれてから2回くらいしか(それも付き合いでイヤイヤ)見てない。

 もっとなんか残虐なくらいの真実味がないと許せないというか、嘘くさいというか。音楽でも、綺麗なだけではダメで、流行ってるとかそういうのも全くどうでもよく、音楽的完成度すら二の次で、独特の苦味が欲しい、それも現実にリアルに交錯する苦味が欲しくてロックの方にいったんだと思います。これは人生や仕事でも同じで、「マイホームで絵に描いたような幸せな〜」というのが嘘っぽく思えて全く何の興味もわかず、だから弁護士になったのかもしれない。「残酷なこの世界の真実」に近づけますから。

 このように、後日の世界観、価値観、アートセンス、生き方や考え方にすごい影響を与えているような気がするし、それだけ影響を与えたのは、やっぱりそこに真実があったからと思います。でも真実だからだけではなく、それは何か魂を惹き付けるなんらかの美しさや魅力もあったのです。

 なんといえばいいのか、そこには大いなる混在と矛盾があります。例えば、それが悲しければ悲しいほど美しいと感じてしまうという妙な法則めいたものがありますよね。一門が散華していく平家物語が好きで、平家を滅ぼした義経もまた非業の死を迎えるから判官贔屓になってしまう日本人なら分かると思いますが、悲しさには感動があり、そしてそこに際立った美が宿る。

 音楽でもマイナーな曲(短調で哀切な感じ)の方が美しいと感じますよね。明るく元気な、なんたらマーチ!もいいんだけど、でも「美しいか?」といわれると、あんまり美しいとは感じない。やっぱ別れの歌とか、悲しいんだけど感動するし、美しいのですよね。そんな悲しい気持ちなるために、わざわざ曲なんか作らなくて良さそうなものなんだけど、わざわざそういう曲を作って、聞いて、悲しい気分になって感動するのが人間という生き物で。

 昔、音楽仲間と飲みながら、なんで人は悲しい曲を美しいと感じるんだろう?どうして人はそう作られているんだろう?とか話してましたけど、これは未だに謎です。そもそも「美しい」って何?「悲しい」って何?で、ここまでいくと哲学や審美学になります。

許容範囲

 もう一つの影響、というかこれは表裏一体なのだけど、残酷で醜悪な現実を受け入れられるレンジがすごく広くなった気がします。どんな驚天動地のことがあっても、「ありえなーい」とか叫ぶのではなく、「や、それもアリだろ」って思えてしまう。世界観が、なんでもアリになったというか。

 「あってはならない」ということと、実際に「ある」かどうは別問題ですから。そして、人間というのはどんなことでもやってしまう生き物で、今自分が考えられる最大限に悲惨で残酷なことだったら、世界のどこかで誰かがやってるだろうし、誰かがその犠牲になっているだろう。

 自分の親しい知り合いや、家族が、ある日突然、自分を殺そうとしても、案外そんなに驚かないような気もする。「まあ、そういうこともあるだろうねー」「いろいろ事情があったんだろうね」みたいな。呑気というか、アホというか。多分ね、物心つくかどうかというときに、世界観のロックを外してしまったか、あるいはそれから拘束しないようになったんでしょう。最初から世界観を、「ここから、ここまで」とアクセプタブル(許容範囲)なものに設定してたら、結構安心して日々を過ごせるのかもしれない。世間ではそうしたい人が多いみたいで、だからやたら「安心」とか「安全」にこだわるみたいなんだけど、僕とは違うなあって思う。

 僕の世界観では、この世界に安心なんかあるわけないし、理不尽なんか掃いて捨てるほど毎日量産されているのであり、あるとき突然、悪い冗談のように殺されてしまうことだって無いとはいえない。だって世間にそういうことは起きてるんだし、それが自分に絶対に起きないという保証もないし。

 そういえば、その昔、「理解できない」と世間がヒステリックに騒ぐ事件がありました。宮崎事件もそうだし、酒鬼薔薇もそうだし、いろいろな通り魔とか。でも、なんで皆が騒ぐのかピンときてなくて、「え、普通にありうるだろ、この程度のこと」って思ってた。歴史を見ても、よくそこまでやるよなって感心するくらい意味不明に残虐なことをする。そういう異常な犯罪者がいるというよりも、国家の日常の行為としての拷問やら弾圧なんか桁違いに残酷で、それも合理的に効率的に、さらには合法的に、給料までもらって仕事として粛々とやってるわけで、そっちの方がよっぽど恐いですよ。

 で、なんでも「ありうる」って思ってるんだけど、それでグレるとか拗ねるわけでもない。なんでもそんな不吉なことを中心に考えるわけでもないし、絶望してるわけでもない。全ての可能性をフラットに見てるだけ。素晴らしいこと、楽しいことも山程あるし、むしろこの時代の先進国と呼ばれるエリアに生まれ落ちれば、確率的にはそっちの方がずっと多い。

 そして、自分がご機嫌なのか地獄に落ちているかに関わりなく、この世界(自然)は何の関係もなく存在し、そしてあるがままで美しい。だから希望に満ちて日々を過ごすのが一番自然で、一番合理的だと思う。ただし、それは絶対ではない。なにが起こるかはわからないし、何がなんでもそれだけは避けたいとも思わない。だって、そんなこと思っても無駄だもん。そりゃ最大限リスク管理はやるにせよ、自ずと限界はあるしね。それはもうしょうがないよね。しょうがないものは、しょうがないよねって。

 それに、何というのか、「卑怯」な気がするのです。古今東西の人類の営みのなかで膨大に生じてきたこの世の悲惨、いや過去形ではなく現在進行形で今この瞬間にも、むごたらしく殺され、何の救いもない人々、それを知りながら目を背けること、あまつさえ不快だから意識から追い出し世界観からはじき出すようなことは、最低限の人類の仁義に反しているような気がしたのです。だからといって何ができるわけでも無いのだけど、ただ忘れてはならない。なぜ自分だけがそんな目にも遭わずにラッキーなのかの理由もなく、たまたま幸運なだけなんだけど、その負い目みたいなものは常に感じておくべきだろう。少なくとも、こういった理不尽で悲惨な出来事が、絶対に自分にだけは降り掛かってこないだろうと思うのは、あまりにも傲慢で調子コキ過ぎであり、それだけは犯してはならない最低限のラインではないかと。

 この世界が残酷で悲しいのは、それが人間の本性に基づくから、もっと遡れば、他の命を奪わねば自らの命を維持できないというこの星の生物の根本システムなのだから、それはもう100%受け入れるしかない。ただし、受け入れたからといって肯定しているわけではない。自らの力の及ぶエリアにおいては、その理不尽さや悲惨さはできるだけ少なくしたいとは思う。そこには何の矛盾もない。いや違うな、矛盾はあるんだ。牛丼食べながら、動物可愛い〜、かわいそ〜というのは大矛盾もいいとこなんだけど、それは受け入れて、ごっくんと飲み込むしかない。自分こそが忌避すべき理不尽そのものなのだ、実はラスボスは自分でしたというグロテスクな茶番は、もう認めるしかない。だからといって積極的にその理不尽を拡大することが許されるわけでもないし、いかに矛盾が激しくなろうが、可愛いものは可愛いし、可哀想なものは可哀想なのだし。

一番大事なこと

 ああ、なんか、書いててわかったような気がする。

 あの絵本は、なにかしら不気味で、なにかしら不吉なものを感じさせ、でも得体のしれない美しさと魅力を持ってたんだけど、だからといってデカダンスみたいな「耽美的」な感じではなかったんですよ。

 あくまで精神はすっくと直立してて、この世界がどんなに恐怖だろうが、不吉だろうが、だけどそれに傾倒したり、ひれ伏したりはしない。「どうせ、この世は残虐で、醜くいのだ」で精神がメロメロになったりはしない。この世界の不気味さを直視しながらも、「うん、そうだよね、そういうこともあるみたいだねー」とカラッとしてる感じがした。少なくとも、その醜悪さや恐怖に負けてしまう弱さは画面からは感じなかった。

 むしろそれすらぺろっと飲み込んで、だから(or それとは全く無関係に)世界は美しいよねと言ってるような感じ。物悲しく、不気味な絵柄でありながら、最終的に残るのは美しさ。それも華美さとはかけ離れた、ある種、淡々としたリアルな美しさ。林は、そこに林があるというだけで、すでに美しいのだと言ってるかのような、毅然とした精神のありようみたいなものが絵から無意識的に感じられたように思います。

 そのあたりも影響されてるのかもしれませんね。
 この世界で生きていくにあたって、とても大事なことをあの絵本は教えてくれたような気がします。

 一つ絵柄の構図があって、それは本当にそういう絵柄を見たのか、あとで自分で創作したのかすらわからないんだけど、それはこんな感じの絵です。例によって、禍々しさを忍ばせているような不吉に暗い森があって、そこに一本の木立があって、その木立の陰に小さな動物、可憐なリスだかタヌキだか、そんなのがいる。その動物は、木立の陰に半分隠れて、木立の向こうの世界をこわごわと、しかし熱心に覗き込んでいるという構図です。

 「あ、これが世界だ」と思ったのですね。

 まず圧倒的に不安な世界にひとりぼっちでいること。そして、たえずビビって木立の陰に隠れていること、しかし、ここが大事なところなんだが、その無力な動物は、この世界の怖さに打ちひしがれてはいないのです。恐いけど、好奇心は旺盛でじっと見つめるし、また、弱いくせにやっていけるんじゃないかという妙は自信もありげで、つまり、「ビビってるけど、メゲてはいない」という感じ。

 そして最大に大事なところは、全体の絵が、何とも言えず不思議な色彩の取り合わせで、美しいことです。凶悪さを感じさせる色調もあるんだけど、でも、トータルでの印象は美しい。その美しさに救われているという感じ。

 確かにこの世界は恐ろしく、不安に満ちているんだけど、でも目を離すことができない。それは怖いもの見たさとはちょっと違って、もっと真っ直ぐな視線。好奇心に突き動かされ、あるいは世界に美しさに惹かれ、救われ、恐いんだけど勇気をだして進んでいくこと、それが生きていくってことなんだろう。それが世界と自分の基本的な構図なんだろう。

 あの絵本は、その絶妙なレシピー、この世界の怖さと希望をかなり正確なレシピーで教えてくれたような気がするのです。以来、それが自分の生きていく基本的なものになっていったという意味では、影響は限りなくデカいし、いい絵本に出会えた(与えてくれた)とも思います。




文責:田村


このエントリーをはてなブックマークに追加

★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのBLOG
★→APLACのFacebook Page
★→漫画や音楽など趣味全開の別館Annexはてなブログ