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Essay 917:文系・理系の迷妄

2020年01月20日

写真は、Camperdown〜Newtown。先日トコトコ歩いてたら、お、いつのまに気合の入った壁画が。よく見ると解説がありました。Inner West Councilが主催している地域文化振興対策の一環らしい。
 建物のオーナーとアーチストを結びつけていこうという試みで、これは去年の作品。今年もやるみたいです。



文系理系の日本事情

 文系と理系って、絶対的なエリアのように思われてます。なんというかプロ野球のセ・リーグ、パ・リーグ、テニスの軟式硬式みたいに、もう人生における職域居住エリアが全然異なるかのように扱われてますが、実際に世の中生きていると「そうかなあ」「それほどのものかな?」という疑問がありました。明らかに行き過ぎじゃないのか、と。

 ちょい調べてみたんですけど、やっぱりそれほど根拠のあるものではなさそうです。
 このあたりは、実は、日本語版Wikipediaの「文系と文系」の項目がよく出来ています。非常に多方面から考察されており、普通に読んでてエッセイみたいに面白いのでおすすめです。もうこれがあるなら、僕が書く必要もないかって思ったくらいで(でも書きますけど、他の視点もあるんで)。

 そもそも理系だの文系だのいってるのは日本くらいらしくて(もっと他の国でもやってるかもしれないけど、西欧では確かにそういう二分法はないっぽい)、それも遡れば1910年代になるらしい。

 このあたりは、隠岐 さや香著「文系と理系はなぜ分かれたのか」という書籍の紹介文として、山本尚毅さんという方が「日本人はなぜ誰にでも「文系」「理系」のレッテルを貼るのか」で概要をかいつまんで書かれていて興味深いです。

 孫引きになりますが、なぜ1910年(日露戦争が終わって間がない頃)なのかといえば「富国強兵」であり、強力な軍事国家を作るためだと。当時、兵器開発ができる頭脳が欲しいから、それら求められるエリアと「その他の雑魚」とを大学入試の段階で区分けしようとする感じらしい。だから、その当時から、基礎理学を軽視する危険性を批判されていたし、また学徒出陣などでは「居なくてもいい」文系学生から先に戦地に行かされたらしい。それは戦後の高度成長時代も同じで、日本経済に大事な科学技術のために、“国立大学の法文系学部を全廃し、国立大学を理工系一本槍とし、法文系の教育は私学に委ねるべし”などと当時(1960年)の松田竹千代文部大臣が発言して物議を醸したそうです。

 言うならば、発展途上国のギラギラした野望と焦りから出てて、「喧嘩が強くなる」「金が儲かる」ために必要な人材はなにか?論から理系文系が制度化されていき、固まっていくという、なんというか、くーだらない沿革があるわけです。なるほど「日本だけ」といわれるのもわかる(もっとも当時の日本みたいなメンタルと行動の国は他にもありそうだけど)。

 さらに突っ込めば、そんな理系重視とかいいながら、全然優遇してないじゃんという言行不一致がありますね。なんだかんだいって、結局世の中仕切ってるのは「ずる賢い」文系であり、いかに現場の研究者が画期的な研究をしようで、それで儲かるのか?と近視眼的な発想でしかないから、優秀な研究者ほどきちんと評価してくれる欧米に流れるというブレイン・ドレイン(頭脳流出)と呼ばれる現象があり(コレは世界的にそう)、流れ出さなくても、数十年たってからノーベル賞をもらってはじめて自分の会社の研究者が偉かったことに気づくというアホな事態なもある。

すぐ型にはめたがる単純化とエンガチョ・バトルロワイヤル 

 さて、アカデミックな原理に発しているわけでもなく、もともとが不純な動機で理系と文系に区分けされたんだから、とっとと廃れていても良さそうなものですが、なんかドグマのように「僕は理系だから」「私は文系だから」という運命論みたいな区分けがなぜ今も生き残っているのか?です。

 それは血液型判断と同じように(これも日本独自)、「なんでも型にはめて人を理解したがる」あるいは「理解しやすいように人を型にはめたがる」心理傾向がベースにあるんだと思います。

 一種のステレオタイプであり、過度の単純化(oversimplification)なのですが、これは日本だけのものではないです。もう人間の宿命というか、過去に大脳生理学の紹介エッセイで書いた記憶があるけど、生存のための認知処理を効率化する合理的なプロセスであって、一概に悪いことではないです。

 ただ、いっちょ前の文明人としては、それをやるにしても、「便宜上大雑把にやってるだけで、本当はどっか間違ってるんだ」という自覚は当然あるべきだし、その種の補正作業は常にやるべきです。でないと、大きくドカーンと失敗をやらかす。

 駆け足に書きすぎてる気もするので、ちょい具体例をあげると、たとえば車を運転してて、全てのカーブや交差点で全精力を使って安全確認やってたら疲れ果ててしまう。労力の効率的配分ということで、「ここはヤバい」「ここは、まあ大丈夫」とメリハリをきかせて、エネルギーをセーブする。その際、ここはヤバい/大丈夫とかいうのが「単純化」です。仕事なんかでも新人の頃は全てに全力投球するからすぐに疲れるし、作業量も増えない。だんだん慣れてきて、手の抜き方を覚える。ここはそんな真面目にやらなくても問題にならないとか覚えます。それも単純化の一つでしょう。

 要は真剣に観察対処しなくても、適当でもいいや、それで大過ないだろって部分を見つけて省力化を図ることで、どんな物事にもそれはあるし、それが悪いわけではない。だけど、だからといって、100%手抜きしちゃダメなのは当然で、いくら安全が予想されても、まったく見ないで交差点を暴走とかやってたら、いつかは大きくドカーンと失敗をやらかすわけですよ。だから、効率化のために手の抜くのはいいとしても、単純化の補正作業、「まあ十中八九そうだと思うけど、そうでない場合もありうる」という意識は残しておかないといけない。

 おわかりでしょうか。
 でも、なんかしらんけど、僕ら日本人の場合、比較的に金太郎飴社会で似たりよったりの人間ばっか周囲にいるので「大体それで合ってる」という蓋然性が高いからなのでしょうか、だんだん万が一の補正作業をやらなくなる傾向がある気がする。本来、間違いリスク含みで、大雑把にテキトーにやってるだけのことなのに、大雑把でもテキトーでもなくなって、最後にはそれが動かしがたい真実であるかのように誤解してしまう傾向がある。

 これが多民族社会や、同じ民族同士でも非常に個性の差が激しい場合、そもそもそんな一般経験則(大体こんな感じ)が成立しにくいし、成立したとしてもいつ裏切られるかわかったもんじゃないから、「違ってるかも」という意識は常にあろうし、必要があればもっと精査しようという補正準備もするでしょう。血液型判定が海外で(少なくともオーストラリアで)流行らないのも、文字通り十人十色で、10人いたら10通りの個性差がバリバリある社会、職場で10人いたら10カ国から来てる(民族文化バックグランドが10通りある)のが珍しくない社会では、そんなマイルドな4類型に人間が分類されるという血液型の仮説自体がリアリティがないんですよね。補正以前にテーゼとして成立しない。

 ちなみに僕はいわゆる典型的なB型ですけど、そんなの言うのは日本人相手だけです。およそこっちで喋れるネタではないです。てかね、こちらの社会一般からすれば僕なんかむしろ典型的なAになっちゃうもんね。こんなもん相対的なもの。

 この単純化による弊害は、日本社会でも昔から指摘されてますし、徐々に良くなってるとは思います。一人ひとりの個性に着目し、「十把一絡げ」の集団一括処理に抵抗感が強くなってる。「ああ、あれねー」って簡単に分かった気になられる不快感を誰もが感じ、そして正確に認識するようにもなってるのでしょう。それだけ成熟してきたんだと思いますけど。

 あ、また、走りすぎてる?具体例でいえば、なんか凹んでたら「ああ、五月病ね」「中年期うつだね」「倦怠期だな」「燃え尽き症候群」「青い鳥症候群だよ」とか、わかったようなことを上から目線で言われることの不愉快さ、といえばおわかりでしょうか。昔はもっとひどくて、「婚期」というのが歴然とあって、行き遅れると「行かず後家」「オールドミス」、離婚したら「出戻り」で殆どゴミ扱い。LGBTにせよ、身障者にせよ、堂々と差別用語で一括にしてゴミの日に出しましょうみたいな感じでしたもん。その種の低能一括処理は影を潜めてきているようにも思います。

 でも後から後からこの種の新しい単純化は出てきて、行かず後家が言われなくなった頃には、「おたく」「ひきこもり」が出てきて、さらに自分らでも自虐的に「ぼっち」「陰キャ」とか出てきて、なんでそんなに単純類型化が好きなの?一方で、学歴なんかはまだ残ってるし、文系理系もそのひとつ。


 ここまでくると本題から離れていくんですけど、結局、真実が知りたいわけでも、事務作業の単純効率化がしたいわけでもなんじゃないか。じゃなんなの?といえば、一つは、自分の頭を使って考えるのが嫌いという知的劣化(劣化というか最初から低かったかもしれないが)。もう一つは、なぜか未だに過度の競争社会にいると思ってて、とにかくスキあれば他人を蹴落とそうとする。他人の転落は相対的に自分の利得を意味するので、ちょっとでもネガティブレッテルの可能性があればどんどん貼っていく。つまりは、「エンガチョ」ですね。エンガチョ・バトルロワイヤル=日本社会という構図です。

 ま、それはまた別の機会に書くとして、ここでは文系理系です。
 なんか、もう先天的な、運命的な、それでもう人間として人種が違うような、全く違う人生を歩むような、就活から何から全部違ってくるよな、この大いなるカンチガイは未だに収まる気配がなさそうなのは、なんとしたことでしょう。

実際の世の中の感覚

 リアルに世の中渡ってる感覚でいえば、文系理系の差なんか殆ど考えなくていい、って言いたいくらいですね。

就職のための専門学歴という観点

 そりゃ確かに、製薬会社やIT、製造業の研究開発部局に行こうと思ったら、特殊専門知識は必要でしょう。そうでないと仕事できないもんね。だけど、それは、「必要とされる知識とスキル」があるだけの話で、文系理系の話じゃないです。文系理系という白か黒かみたいな二分法では大雑把すぎて話にならないです。

 あなたがどっかの市民病院に産科医あるいは助産婦として就職しようと思ったら、その専門知識とスキル(+資格)があるかどうかであり、それが全てで、それが「理系」であるかどうかなんか誰も語らないでしょうが。そういえば看護師って理系なの?そういう観点では語られないよね。ほかのパラメディカルは?歯科医助手は?歯科技工士は?産婆さんは?救急車の救命救急士は?じゃ消防隊員とレスキュー隊員は?放射線技師は?

 もっといえば、ガスの配管工事は?水道検査技師は?電気配線は?溶接、金型製作、ネジ製作、塗装、車両整備、電車の運転手は?自動車の運転手は?ユンボや特殊車両は?F1レーサーは理系?

 対象がソリッドな物体だから理系っぽくはあるんだけど、もうそういう問題じゃないのはわかるでしょう。

 そういうのは「現場系」であって、理系というのは大学進学とか高度な専門知識についてのレベルであるから文系理系の範疇外の話だってことかな。それはわかりますよ。だったら文系理系ではなく、「アカデミック系と現場系」って分けたほうがまたスッキリする。

 それに、じゃあその「高度な専門知識」がまんま活用されてるのってどこよ?っていえば、独自の研究開発部門を持ってる国や大企業の研究員くらいでしょう?それって全国民、全労働者のうちの何%なの?っていえば、多分1%もいないでしょう。

 多くの仕事の現場では、医師も含めて、既に確立された専門知識・技術を現場で使っているわけで、だとしたらほとんどが範疇外の「現場系」ではないか。少なくとも人類の知の最前線で新たな1ページを書き加えているわけではない(現場のフィードバックという点はあるが)。てことは、圧倒的大多数の人にとって、この分類は何の意味もないってことでしょう。

 また、現場系といっても、その分野に関する基礎的な(いわゆる理系的な)知識は必要です。電気工事のおっちゃんだって、電気に関してかなりのレベルを知らないとならない。だから理系っちゃ理系といってもいいんですよ。車両整備だって、その種の基礎知識がないと現場で困る運転作業系だって、理系っちゃ理系。でも、別に大学でその専攻でなくたって、その職業に就くことは可能です。資格試験に通って、はじめは見習いとして採用されて、だんだん現場経験を積めばいいんだから。

 ということで、世の中で理系として意味があるのは、就職の際に、かなり高レベルの専門知識があること、それを証明するための専門学科とか大学院の修了証ってことだけではないか?あとはあんまり関係ないよね。その職業の専門性の方が強いですから。

 それに就活で意味あるのは理系、それも工学系でしょう。純粋理学は儲からないから大学などの研究機関にたまたま空きがあるかどうかという偶然と幸運の世界でしょう。一方、就職にあたっての文系はどうかというと、殆ど意味ないですよね。だって文系=「なんの専門知識もなく、これといった取り柄のない人」くらいの意味でしかないじゃん。実際経済学部出てて経済が強いか、法学部出ていて法律知ってるのかっていえば全然だしね。

 就活において大企業が文系に着目するのは「地頭が良い」「体制に従順な奴隷体質」という二点であり、だからこそ学歴が重んじられるわけでしょう。ちなみに地頭の良さをみるなら出身大学よりも出身高校を見たほうが確実だという話はありますな。ならば(難関)大卒資格は、あの無意味な大学入試をブチ切れもせずに真面目にやっていたという「自我が希薄で温順な人格」「おかしいなと思っても上の命令どおりに動いてしまうロボット的体質」だという証明価値しかないかもしれん。

仕事の実際

 実際に仕事の現場に出てみれば、文系的素養も理系的素養のどっちも必要です。

 「〜的素養」でいえば、文系の本質は「人間の特殊性に関する興味関心」であり、理系のそれは「現象を認識する方法論」だと僕は思います。なんでそういう認識になるかは書き出すと長くなりそうなので、ここでは割愛します。要求があれば書きますけど。

 そして僕らは、この世界に住んで否応なく他者と関わって生きているのであるから、外界の現象を正確に認識する必要もあるし、人間に対する深い理解も必要です。絶対にといっていいくらいどちらも必要。ゆえに文系理系で分けること自体ナンセンスだと思う。そういう観点や価値観の違うアプローチや世界があるんだよって注意喚起としては意味あるけど、人を平家と源氏にわけるかのような発想はアホ。

 医師の場合(研究医や病理医はまた別かもしれないけど、少なくとも臨床医の場合)、理系的素養=人体や病気のメカニズムの正確な基礎知識と、目の前に生じている病変現象を冷静に突き詰めていく認識方法論(症状の正確な認知、検査の順序と数値の読み方、それらからの推論)という意味では極めて理系的です。だけどそれだけではプロの臨床医にはなれない。なぜかといえば、まったく別の観点=「深い人間理解」がなかったら、患者や家族と信頼関係が築けないし、患者の価値観や死生観=QLO(クオリティ・オブ・ライフ)も理解できない。もっと卑近な話、患者に評判が悪かったら経営的に成り立たない。大学病院の中では、サラリーマン以上に派閥感覚が鋭敏でないとダメだし、なりふり構わず忠誠を見せるとか、えらくなると学内「政治」が出来ないとダメだとかって話になります。教授になるのは大変だもんねー。

 なんでもそうだけど、専門バカだったらプロと呼ばれる領域には行けない。行けたところで、下っ端の雑用か、あるいは研究室のホープだ、エースだと持ち上げられたところで、養鶏業の鶏と同じ、養蚕業の蚕と同じで卵や糸を産み出しては、会社や指導教授に美味しいところは全部もっていかれる。家畜みたいなもん。ビル・ゲイツにせよ、スティーブ・ジョブズにせよ、あの戦略立案能力、聴衆をひきつけるプレゼン能力、言葉選びのセンスは、まぎれもなく文系的素養じゃないですか?

 

2分類どころではない

 人間が先天的に持っている、そして幾多の先人が切り開いてきた知的技術のバラエティは、ほとんど無限と思われるくらいあるでしょう。そんな二種類なんてことはないし、大きく二分割するにしても文・理という視点がさほど有効であるとも思えない。今適当に考えてみても、いくつもあります。

認識と工夫

 例えば、認識と工夫という2分法もあるでしょう。上に述べた自然現象へ認識も、人間についても深い理解も、とある現象についての正確な認識・洞察という意味では同じカテゴリーだともいえる(人間だって現象のひとつ)。物事を正確に「理解」すること。しかし、理解だけではなく、「じゃあどうしたらいいか?」というエリアもあります。それが工夫であり、AとBを同時にやってみたらどうか、Aの先にBをやるべきとか、その複雑な組み合わせやアレンジで、狙っている効果を引き出すという体系があるでしょう。いわば理学に対する「工学」的視点、科学技術のうちの「技術」部分。

 それは問題「認識」能力と、問題「解決」能力といってもいいです。この解決技術の典型が、企業が喉から手がでるほど欲しい「新技術」になるのですけど、しかしそれに尽きるものではない。というか人間のあらゆる営みはこの2つに分けられるとも言える。ITのプログラミングや通信プロトコルなんか、まさに解決能力でしょう。

 僕がやっていた法学は元来が問題解決を志向するエリアなだけに、非常に工学的です。なぜ人は犯罪を犯すのか?という人間存在の深淵を考えるなら理学系であり、哲学や心理学などにいきますが、その本質はさておき、見過ごせない害悪が生じているなら、どうしたらそれを減らせるか?です。何が許せて/何が許せないかを予め考え、あらゆる場合を想定して一定の演算処理法則(法律)を決めていく法律学は、まさに社会のプログラミングです。

 このような問題解決的ルール設定は、国会が制定する法律(法典)のみならず、個々の契約条項についても同じですし、延長していけば罪深き人間が迷妄に落らないようにする宗教的な戒律の制定、あるいは夫婦間において不毛な諍いを防止するために取り決めるルール(相手の実家の悪口だけは言わないとか)にも連なります。組織内部の取り決めも、工場のライン設定なんかもそう。

 料理にしても、素材の特質を見極めるというのは理学的な認識能力が必要だけど、煮たり焼いたり蒸したり冷やしたりはまさに「工程」であって、解決系の工学能力が必要です。スポーツの試合の作戦でも、相手の能力をはかり、味方のチームの現状を正確に査定し(主力メンバーが最近スランプだとか、若手のいいのが育ってきてるとか)、それをどう活用するか(前半は若手で突っ走り、後半ベテランの味で逃げ切るとか)。

 ね?わけのわからない理系文系、はるか昔の高校時代のクラスわけと大学入試以外、これといった使いみちのなかった文系理系みたいな化石的な分類よりも、「理解と認識」と「工夫の工程」とに分けたほうが、いきなり日常生活においても使えるじゃないですか。

表現と鑑賞

 もっとありますよ。
 「表現」という大事なエリアがあります。

 正確に認識したとしてもそれを他者に伝えられなかったら意味が半減しますし、優秀な戦略やルールを考案したとしても、それを他人に伝えられなかったら結局実現しないわけだから意味がない。認識と工夫がX軸だったら、その表現(他者の表現を理解する鑑賞(識)能力)というのがY軸にくるともいえます。

 表現と言っても実にさまざまです。言葉を使った言語的表現、数式をつかった数学的表現もあります。これだけだと理系文系に似てますが、それに尽きるものではない。ビジュアルな表現がありますし、音による表現があります。さらに細分化できます。言語表現でも叙情と叙事があります。法律や契約のように二義を許さぬ明確性を求められる叙事(散文)に対して、叙情(詩歌など)では定義や論理性ではなく言葉がもたらすイメージの広がりを大事にします。論理的に支離滅裂でもその言葉のイメージが鋭く突き刺さるかどうかがポイント。全然違う。

 「Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは赤」とうたったのは、人類史上の天才詩人ランボーですけど、母音を色分けして、個別に「A、眩ゆいような蠅たちの毛むくじゃらの黒い胸衣(むなぎ)はむごたらしい悪臭の周囲を飛びまわる、暗い入江」と解説してるわけで、こんなもん叙事的に読んだら、ただの狂人のたわごとです。それが後世に残ってるのは、「うわ、ええわー」と鑑賞できる人達が沢山いたからです。叙情能力(感性)が乏しい人だったら、なんのこっちゃの世界でしょうけど、でもこの力が貧しいと、人の心に触れるような言葉が出てこないし、人を説得できないし、商品のコピーも浮かばない。

 音だって、音程というメロディ系もあれば、音質音色という方向性もあります。ビジュアル(絵画)でも、形象方面と色彩方面があります。それがダメだとファッションがダサくなったり、家のインテリアや料理の盛り付けがダメになる。またパフォーマンスアートのように、人間の身体の動きによる美もあります。こう動くとこういう印象を与えるという膨大な技術体系がそこにはあるのですが、バレエ、ヒップホップや地下アイドルの振り付けに至るまでそれはあるし、日舞や茶道、「挙措」と呼ばれる典雅な身のこなしにまで通じます。これが上手だとうっとりするほどカッコよく、これがダメだとガサツだとか、野暮ったいとかキモいとか言われる。結構大事じゃないか(笑)。

 これら表現技法を豊富にもっているか・いないかで、あなたの人生上の作業効率は天と地ほどに変わってくるでしょう。同じ内容をAさんが言うと万雷の拍手をもらい、Bさんが言うとブーイングの嵐になるという、なんという差。

 また、その鑑賞能力が未熟だと、何を見ても聞いても心が弾まないから人生楽しくないまま、灰色のままで終了ですが、鑑賞能力が高いと「おお、なんと素晴らしい」と感動できるポイントが毎日沢山転がっているから、ただ生きているだけで幸福感に包まれる

 ねえ?結構大事でしょう?昔の受験の文系理系なんかに縛られているよりも、これらのことを日々意識して磨いていった方が、あなたの人生は楽しく、豊かになるのではないかな?

 今、理解と工夫、表現と鑑賞という二分割視点を出しましたけど、もちろん他にもあります。メンタルとフィジカルなんかもそうでしょう?あるいは「拡散と収縮」なんてのもあるかもしれない(ありとあらゆる可能性をビッグバンのように追い求めていく力と、とある問題点をミクロレベルまで解析していく力)。もういっくらでもあります。

 でも、一番大事なのは、○型人間とか分類することではなく、そのどちらも必要であり、そのバランスが大切だということだと思います。

文系理系二分法の実害

 一番大きいのは自殺行為的な自己規定であり、同じくらいの害悪は思考停止でしょう。

 「俺、理系だから」「わたし文系だから」って言いますけど、「だから何?」です。

 文系(理系)「だから」という上の句に続く納得できる「下の句」がどれだけあるのか?文系だから、「入試では数学をやる必要がない」という下の句に続きそうだけど、それは私立文系の場合であって、国立だったらやらなあかんでしょう。でもそんなの目先の受験技術のレベル、単なる一過性の問題であって、「遠足のおやつに何を買うか」というのと本質において大差ないでしょう。その場限りなんだから。

 それ以上に、運命論的に、理系だからブンガクわからないとか(理系の作家がいかに多いかも知らず)迷言をはき、自分はこういう人間だと自己規定することで、本来いくらでも無限に延びている自分の未来の可能性に自分で蓋をしてしまうという自殺行為的な愚劣さ、さらにそう決めてかかってそれ以上考えないという思考停止の罪深さは、指摘してもしすぎることはないと思う。

 というか、弾劾→有罪判決という手間をすっ飛ばして、「不本意な人生」という形で毎日「刑の執行」が行われているとさえ言える。そりゃそうだよ、自分の半分の可能性を殺してるんだもん。競争で、自分だけ(他人もたいがいそうだが)片足ケンケンで走ってるようなものだもん、うまくいくわけじゃないじゃん。

 いくら自業自得とは言え、これではあんまりだし、気付いたらその日から速攻回復過程に入るんだし、一秒でも早く吹っ切ったほうがいいです。だから、そんなもん(理系とか文系とか)気にすんなって。

 それにいい加減、免罪符(言い訳)探しは諦めた方がいいよ。「だからやらなくて(知らなくて、下手でも)良い」なんて免罪符はこの世のどこにもないのだ。この言い訳人生的なやつって、また別の機会で書きますけど、やれ「日本史選択だから世界史はわからない」とかさ、いくらでもあるじゃん。でもそんなこと言っても百パー無駄です、てか有害です。

 法曹界にもあるんですよね、司法試験で訴訟法選択科目ってのがあって、刑事訴訟法と民事訴訟法どちらか選ぶ。前者を選んだ人は後者が疎いのは確かに事実です。だけど実務に出たらそんな言い訳まったく通用しない。「僕ケーソだからミンソわかんないんだよね」とかいうのは仲間内で言うならともかく、依頼者の前で言おうものなら、「大丈夫かな、この先生?」って思われる。あなただって金払った弁護士からそんな弱音吐かれても困るでしょ、というか弁護士変えようかなって思うでしょ。それと同じこと。

 およそ「出来なくてもいい」なんて思ってるのは自分だけで、世間はそれほど甘くないってことです。






文責:田村


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