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Essay 916:「月」と「太陽」の自己実現

自己実現は単純労働の方が遥かに得やすい。しかし、外界に投射して確認するという「月型」自己実現のほかに、もっとピュアな「太陽型」自己実現もあるはず

2020年01月13日

写真は、早朝のBondi Junction


どこかで聞いたエピソード(かなり昔の話)で、面白いので過去にも何度か紹介しましたが、作家の筒井康隆氏が原稿執筆のためにホテルに缶(館)詰めになっていました。でも全然アイディアが浮かばない。作家さんも大変だけど、原稿を受け取る編集者も大変で、締切は迫ってくるし、もう気が気じゃない。進行状態を確認したいんだけど、あまり頻繁に訪ねると、ウザがられるし怒鳴られるし。しかし何もしないわけにもいかないので、虎の尾を踏む心境で、おそるおそる部屋に入って、「あのう、原稿の方は、、、」と尋ねると、筒井氏がいない。え?逃げたの?と焦って、「先生〜!」って呼ぶと、ホテルの風呂場の方から音がする。行ってみたら筒井氏が一心不乱になって風呂の掃除をしていた、という。

この話、今となっては出典も定かではなく、ほんとか嘘かもわからないんだけど、別に真偽はどうでもいいです。でも僕は大好きです。「わかるわ〜!」と。

なにが「わかる」かというと、風呂の掃除とか草むしりとかいう単純作業というのは癒やされるんですよね。いい気持ちになれる。何がいいのか?というと、結局、これって、いわゆる「自己実現」のもっともシンプルな原型だからでしょう。

自分の行ったこと→目に見える結果(現実)になる=自分の行為(存在)の価値を確認する。俺は確かにこれをやった、確かに私は実在する!という証拠が目の前にあるので、それでちょっといい気分になれる。その「ちょっといい気分」のことを世間では「自己実現」っていうんだろうと思います。

さきの筒井氏の場合、本来、アイデイア=それも氏の作風の場合、およそ通常人が逆立ちしても思いつかない奇想天外なアイディア=を生むことが彼の仕事であり、自己実現なんだろうけど、これは難しい。アイディアなどの知的飛躍は、いくら髪の毛かきむしって、半狂乱になって、頬がげっそりするほど頑張っても、思いつかなければゼロのまんまです。努力が結実しない。自己実現できない。めちゃくちゃ辛いでしょう。

そこへいくと風呂の掃除などの単純労働の場合は、やればやっただけ結果が残ります。あんなにヌルヌルしていた風呂の壁が、こんなにツルツルピカピカに〜!って結果になって残る。おおお、何という満足感!癒やされるわ〜って。氏にとっては、それは現実逃避でもあるのだけど、同時に大いなる休息でもあったのだと思われます。一心不乱にもなるわけよね。

単純労働

以前「マックジョブのすすめ」のようなことをエッセイに書きました。これからの時代の傾向ということもありますが、単純労働は仕事のストレスが少なく、自己実現が得やすいからです。やればやっただけ結果が出ますから。

もっともデメリットもあります。
単純作業系=フィジカルな労働力基本の「レイバー」と呼ぶような仕事は、誰にでも出来る仕事ということで、知的労働をメインとする「ディーセントなジョブ」に比べると、社会的ステイタスは低いし、軽んぜられる部分はあります。

余談ですけど、オーストラリアの場合、開拓民の伝統が残ってて、頑健な肉体で額に汗して"Hard Yakka"と呼ばれる重労働に従事するのは、フェア・ディンカム・オージー(オーストラリア人の正統原型)であり、日本ほど軽んぜられてないと思います。今回の山火事でも消防関係の人達が国民的英雄になってますし。2007年から1年強NSW州知事を勤めたNathan Rees氏は、かつて市のゴミ収集で働いていた経歴があり、それがマイナスよりもプラスに働いてましたし。一般にアジアでは、肉体よりも知能重視のバイアスが強く、儒教的影響が濃いせいか韓国や中国では日本以上にその傾向が強いと言われてます(これもナマで検証したことはないのだが)。韓国では、みなが両班(ちょっとしかいない文官エリート)の末裔だと言い張るらしいし。

単純労働系は、ややもすると軽んぜられるし、また一般にペイも低いと言われます(これも必ずしもそうとは言えないんだけど)。しかし、ストレスの少なさ、自己実現の得やすさ、精神的に消耗するか満たされるかの点まで考慮すれば、単純労働は決して損な話ではない、いやむしろお得かもしれないです。

またステイタス云々も、それの何が問題かといえば、結局は「人に褒められると(軽んぜられると)、ちょっといい気分(やな気分)になる」というだけのことです。最終的には「気分の良し悪し」というところに帰着するわけで、「気分」という共通通貨で全体を通算してみれば、単純労働の方が(いい気分になれる)勝率は高い気がしますね。

なぜかというと非単純労働の場合、ストレスがきついので、最終的な「気分」損益は赤字に傾きやすいからです。僕自身、人生全体でいえば非単純労働の方が多かったので、そのあたりのしんどさは骨身に染みてます。以下、そのあたりの体験談を書きます。

あ、一言断っておくと、単純労働 vs 知的労働って単純な二分法になるもんでもないと思います。簡単な翻訳(の下訳)とか、簡単なプログラミングとか、データーエントリーとか、知的労働っぽく見えるんだけど、やってることは単純労働に限りなく近いですよね。最近では「IT土方」なんて言葉もあるくらいだし。だから量的労働と質的労働と言い換えた方がいいかもしれないんだけど、ま、その概念設定は今回の本題ではない。とりあえず「非」単純労働と呼んでおきます。

非単純労働の空しさ

その非単純労働の場合、これが泣きたくなるくらい結果が出にくいのです。結局ゼロのまま終わりという涙がちょちょ切れるような場合もあるし、出てもすご〜く(何年も)先の話だったり、さんざん期待して、盛り上がって、最後にバーンと逆転食らって地獄に落ちる場合もあります。

弁護士の場合

弁護士という仕事だって、ほんとクソ地味な作業の積み上げです。交通事故なんか電卓の鬼みたいになって、賠償額を算定してみたり、争いになってるときは実況見分調書の方眼紙を見ながら、速度○キロで何メートル進んでとかやります。何度も現場に足を運ぶこともあります。医療過誤とかになると、とある病気の機序を徹底的に学び、カルテだのレセプトだの検査記録だの山のように積んで格闘します。専門書を山のように積んで片端から読むのですけど、もともと門外漢だから意味わからん。「だー、わからん!」と深夜のオフィスでブチ切れたりするのはいつもの話。ちょっと大きな事件になると資料や調書だけでも積み上げると1メートルを越えたりして、それに全部目を通して、それも何度も目を通して、メモとって、付箋はって、しまいには頭に全部叩き込んで。依頼者とは何十時間も打ち合わせをするし、文書作成(「起案」というのだが)も、ゆっくり読むくらいのスピードでバーっと書けないと期日に間に合わない。

これらイッコイッコは実はかなり単純作業なんですよ。でも中々カタルシスがない。なぜかというと最終目的=事件を解決する(勝訴するとか)=依頼者が満足するまで行かなければ、何十何百時間にも及ぶ努力も全部パーだからです。それがわかるから、中間段階で小目標を達成しても、そんなに達成感がない。積み上げて積み上げて、訴訟もいい感じで展開して、おしこのまま勝てるぞ!とか思ったら、判決間際で裁判官が転勤になり、新しい裁判官が何をトチ狂ったのかまさかの敗訴判決を出してしまうという原爆投下みたいな話もあるのですよ。

そういえば弁護士仲間とよく言ってましたね、もう転職したいよ、八百屋さんとかやりたいよって。その日の朝に大根仕入れて、その日のうちに売って、はい終わりって人生やりたいよ。民事訴訟平均で3年かかるし、入り組んできたらもっとかかる。冤罪事件とかやり始めたら、へたしたら30年かかる。だから常に継続案件が数十件くらいあり(数百件クラスの人もいる)、「あれもやんなきゃ」「これもしなきゃ」というタスクが常に数十から100件(一件の事件に十数タスクはあるから)肩に乗っかってて、もう24時間常に布団蒸しにされているような感じで、慣れたとはいえやっぱしんどい。八百屋さんみたいに、一日が終われば全部終わりで、人生貸し借りなーんもなし!ってスッキリしたいよーってのはありました。その願望はものすごく強く、オーストラリアに来て、ほぼそれは実現したので、それは凄い良かったですね。

他の世界も同じこと

受験勉強だってあんなに死ぬほど頑張っても本番に落ちたら全部ゼロ、ぜ〜んぶ無駄、水の泡です。おおお、なんという虚しさ(まあ落ちても得た知識は残るし、挫折体験は成功体験の何倍も人生価値を産むのだけど、そのときはそう思えない)。つまり結果が出るまで時間がかかり、且つオール・オア・ナッシングで、もしダメだったらまるで無駄というしんどさがあります。

英語の勉強の場合は、喋れるようになってんだか/なってないんだか、結局ようわからんですもんね。子供の頃にあんなに背丈が伸びているのに自分では気づかないのと同じ、年取ってから日々老いているんだけど、なかなか実感がないのと一緒。こういう遅効性の物事は達成感が非常に得にくい。

APLaCはかなり楽しい仕事ですけど、実働部分は楽しいですけど、それでもWEBやったりアクセス数稼いだりとなると、もう砂を噛むような努力をしないといけない。それも法則性があるようでいて、全然わからんです。ほんとーに虚しいですよ。数年単位の努力をして、結局無駄だったかも、てかむしろ悪化しかもって場合もあります。

でも、こんなの世のサラリーマンだったら誰でも経験されてるでしょう?必死になって商品開発したって売れるかどうかは結局バクチだったりするし、さんざん精魂込めて営業やっていいところまで持っていって最後にトンビに油揚げをさらわれちゃったって話はいくらでもあるでしょう。

そんなのはまだマシな方で、企業も大きくなればなるほど体面を気にするので、世間やお上に「やってる感」を出すためだけになんかやったりします。ウチはコンプライアンスを重視してますよー「感」、女性やハンデのある方を積極的に活用してますよ「感」、地域社会に貢献してますよ「感」を出す、格好メインだから、そう見えるかどうかが大事で、内容なんか真剣に考えなくて良い、てか考えたらダメなわけです。せっかく意義のある仕事をしようというのに、意義があるようにすると上からダメ出しが来るという、もうフォーマットそのものがクソだという場合もある。

サラリーマン(給与所得者)でなくて自営業者であっても、アーチストであっても同じ。というかもっと報われないかも。なんせ、いくら頑張っても結局売れないで倒産ってケースは多いです。起業なんか殆どがダメでしょう(それだけでメシを食えるというのを一応の基準とすれば、の話ですが)。たまーに成功例があるんですけど、その成功率もFXよりはマシという程度でしょ。アーチストだって、まず「いい作品」を作るのが大変で、最初の頃は今までの人生のあれこれをブチ込めばいいけど、時間がたつにつれだんだんネタ切れになってしまうし、自己模倣の誘惑にかられるし、何が「いい」のかもわからなくなるし。でもそれと「売れる」かどうかは全く別問題だったりもするし、売れなきゃ結局大赤字ですから、ムナしかろうが、クソだろうが、とりあえず給料は出るサラリーマンよりも報われない。

取り扱い注意の非単純系

というわけで、非単純系は、そのくらい自己実現感が得にくく、成就しにくい世界なのですが、まあ、だからこそ面白いとも言えます。

営々と何年もかかって、何事かを「成し遂げた!」という感覚は得られますし、長期間にわたって複雑極まる展開が続くので、その満腹感はすごいです。大長編の小説やら映画を見終わったような感じで、それは四コママンガ的な単純労働とは奥行きが全然違います。

ただねー、面白いんだけど、常に面白いわけではないのがネックですね。ハッピーエンドで終わるか、悲劇で終わるかという点もあるんだけど、もともとのフォーマットが腐ってたり、納得できなかったら、もう一から十まで全然面白くないという部分もあります。難しいんですよね。

だから、非単純労働の場合は、それなりに気力体力が充実してないと難しい。やがて肉体や精神がミイラ化するか、あるいは本来の自分から「変な自分」になっていくかです。「変な自分」というのは、あまりの自己実現感の無さから、擬似的な自己実現を得ようとすることです。例えば、社会に対して何の貢献もしてないし、仕事の意義なんか何も感じてないんだけど、ただ大企業の正社員だというエリート意識をもって自己実現にするとか、もうそこしか「ちょっといい気分」に浸れる部分はないので、そこにしがみついてしまう「変な自分」です。早い話が自分が「イヤな奴」になったり、人間的にクソになるわけですよ。

ミイラになるか、クソ人間になるかみたいな話で、人格や健康障害という意味で言えば、非単純労働ばっかやってるのは、変なドラッグをやり続けるとか、ものすごい公害汚染地域に住み続けるのと、あんまり変わらないかもしれません。それを避けるためには、よっぽど仕事の段取りをうまくするか(うまい具合に達成感が得られるように最初から組んでおく)、よっぽど息抜きや気分転換を上手にするかしないとなりません。

あとそれらを上手いことやっている人は、最初からその領域がものすごく好きだ、性に合っているというパターンが多いですかね。福祉の現場で活躍していた方に話を聞いたところ、あれって現場はカオスの世界だから、生活保護のお宅を訪問したら、そのまま出刃包丁つきつけられて軟禁されたって経験もあって、でもその経験を「おお、俺は今福祉の宝石箱に手を突っ込んでいるんだ」って思ったとかいって、そういうのも肯定的に思えてしまうんでしょう。これ作り話だと思われるのも心外なんで、実名を書いておくと、中川健太朗先生です(著作)。今みたら花園大学の名誉教授になっておられて、もともとは京都市役所の職員で、同和地区で有名な崇仁地区担当で、現場の最前線で叩き上げてきただけに話が面白かったですね。僕が、神戸の福祉関係の殺人事件の弁護をやってるときに、福祉の現場の職員がどれだけストレスフルかという学術鑑定意見書を書いてもらったときの話です。ご自宅まで伺って、そのときに直接聞いた話です。彼にとっては、それも生きがいだし、やりがいだし、それこなくっちゃ!くらいの感じなのでしょう。

でも、まあ、僕も弁護士やるにあたっては、人間のとことんダークなところが見たいって部分もあったんで、アンダーグラウンドあたりから脅し食らったり、関係者から半狂乱になって罵倒されたり絡まれたりするのは、別にそんなにイヤじゃなかったです。「おお、これだよ」って感じで。その意味では僕は弁護士向きなのかもしれないけど、そのくらい適性があったとしても、仕事生活が膨大すぎるわ、複雑すぎるわで、なんかもうちょいシンプルに生きたいなーって思ってましたね。

単純労働と非単純労働の配分

だんだん思ってきたんですけど、非単純労働なんて、よっぽど体調のいいときに、趣味でやるようなもんじゃないかと。おし8000ピースのジグソーパズルを作ったろうかとか、襖一枚くらいの絵に制作にとりかかるとか、私財なげうって自主制作の映画を作るとか、かなり冒険チックな下手したら死ぬかもしれない遊びをするとか。

日々の生計の糧は、だから単純作業で稼げばいいんじゃない?と、今は思いますねえ。単純系はストレスフリーだし、多くの場合は身体も動かすから健康にも良いし、額は低くてもコンスタントに得られるし、単純といいつつも実は(非単純系に比べて遜色ないくらい)かなり頭を使う部分が大きいし、スキルもキャリアもある。もっぱらモノを相手にするだけに、スキルもキャリアも明確にわかりやすく、どこにいってもモノは共通するから汎用性高い。ゆえに転職も、フリーランスも、海外労働でさえ可能。だから、もうそれでいいじゃんって感じですね。

それでは満たされないロマンみたいなものが非単純労働であり、それを本体でもあり趣味でもありって位置づけにして、そっちでやると。

というかさ、恋愛とか結婚生活の維持というのは、まさに非単純労働系ですよね。家族との人間関係もそうだし、育児もそうだし、介護もそうだと思います。これらを高水準にやろうと思ったら、生半可な努力ではダメですし、まず思ったとおりになった試しがないというくらい(笑)、難しいです。でもやる価値はすごくあります。だから、普通の人間の体力気力だったら、これらをやるだけで、もう力尽きてしまうかもしれませんね。仕事なんぞにエネルギー廻している余裕はないかもしれない。

月型と太陽型の自己実現

最近はさらに考えが進んで、自己実現なんか本当に必要か?みたいなことも考えます。
つか、自己実現にも太陽型と月型があるんじゃないか?という妙なことを考えるのです。

月型の場合

太陽とか月というのは、言葉の綾ですけど、本質は、自ら光を発する(太陽)か、他の光によって照らされるか(月)です。これでもわからんよね。

これまで自己実現、あるいは自己確認というのは、月型が多いのです。例えば、難関大学に合格したとか、なんかで優勝したとか、少なからぬお金をゲットしたとか、自分以外の外界の反応をもって自分の確認をする。壁打ちテニスのように、壁にボールを打ち付けて、バウンドしてボールが返ってくる、そのボールの存在によって自分を確認する。あるいは鏡(世間)に自分を写してみて、それで自分を確認する。

これは単純仕事系でも同じことで、草むしりやペンキ塗りをやって、これだけ出来た!という、外界の変化をもって自分(の行為)を確認するわけです。

いずれにせよ自己実現・確認のためには外界が必要だということに変わりはないです。外界に自分を投射してみて、その投射像をもって自己として認識する構造です。

月は自ら光を発しませんから、もし太陽など他の光源がなく、それに照らされなかったら真っ暗なまんまで見えません。それを認識するには他の存在(光)が必要だということで便宜上「月型」と名付けました。

自己実現と呼ばれる行為の多くは、この月型(外部投射によって確認する)です。非単純系が自己実現感や達成感に乏しいのも、外界の変化(投射像)がわかりにくいからです。

太陽型の場合

しかしですね、よく考え見てると、自分なんかもうどうしようもなくココに居るじゃないですか。我思う故に我ありじゃないですけど、少なくともココでぶつくさ考えてる自分は実在します。別に外界に写してそれで確認するとかいう作業なんか要らないんじゃないか?と素朴に思ったりもします。自己実現って、実現もなにも、ここに居るじゃん、自分。それじゃダメなの?

外界の光を借りて、映し出して視覚化して、それで確認とか面倒臭いことやらなくたって、自分がいることは確かなんだからそれで良いだろう。あるいはあまりにも真っ暗だったら自分がいるかどうかもわからないから視認化したいんだったら、自分で光を発すればいい。ホタルのように、チョウチンアンコウのように、あるいは全身から光を発したら見えるだろう。そういう形の自己実現もあるだろうし、その方がより本質的じゃないのか。

なぜなら外界ってときとして歪んでるんだもん。それが鏡だとしたら凹凸があったり、傷があったり、ちゃんと評価してくれるとは限らない。てか大体がどっかしら歪んだ評価だったりもするし、振り回されもするし、必ずしも確認装置としては優秀なツールではない気がするのですよ。

純粋行為による満足と欲望

光だの月だのはアナロジーに過ぎないので、この比喩を逆に現実に落とし込んでいけば、自分が光を発するとはどういうことか?です。

それは思うに、結果なんかどうでもよく、行為だけで満ち足りてしまうことです。実は多いですけど。デスクワークばっかりで、血が鬱屈してきて、あーむちゃくちゃ動きたい!でフィールドでだーっと走ったりするとき、行為だけで満足するでしょう。早く走れたか、昨日よりもタイムが上がったかとか、誰に勝ったかとかどうでもいい。ひたすら純粋に欲望を発散してるときは、結果はいらないです。

これは自己実現なのか?といえば、これはもう言葉の問題だと思います。そういうのは自己実現とは言わないって人もいるでしょう。それはそれでわかりますよ、わかるんだけど、でもね-----

アーチストが会心を作品を作り上げたとき、大きな満足感と自己実現感を得るでしょうけど、その満足を緻密にみると、

(1)まず一心不乱に制作に没頭していること自体が満足、
(2)それが作品という形で結実し、それを見るたびの自分の行為を再認識して満足、
(3)第三者に評価されて(入賞とか売れるとか)で満足

という三層構造になってると思うのですよ。

でね、一番大事なのは(1)の「やってるだけで満足」ではないのかって思うのですよ。それがアーチストの本懐じゃないのか、思う存分に自分の才能を発揮してなにかを創ること、です。これはアーチストに限らず、なんでもそうだと思いますが、これまで培った技術とともに、ありったけの自分をぶつけて、全身全霊でなにかに打ち込んでる瞬間が楽しい。武道家だったら真剣に立ち会ってるとき、バイク乗りだったら無心にかっ飛ばしているとき。受験だってある意味では本番は「楽しい」ですからね。やってる最中は楽しいという感覚はないけど、でもヒリヒリする真剣勝負の瞬間はやっぱ燃焼感があります。

ま、そんな才能+技術×全身全霊なんてことじゃなくても、単なる生理的欲求を満たしてるときでもそうです。喉が乾いて死にそうなときに、蛇口に口をつけるようにしてごっくんごっくん飲んでるときの快感はすごいものがありますし、眠くて眠くてもうダメ我慢できないって柔らかい布団にぶっ倒れるときに快感はもう圧倒的です。

そのときの自分は、なにかをしたいという欲望とイコールになり、自分=欲望になります。この強烈な欲望こそが自分であり、それが満たされていく瞬間に強烈に自分を感じるわけで、それが自己実現のもっともピュアな形ではないかと思うのです。

だから、作品ができあがった後、また眺めて「これを俺が作ったんだよな、ふふふ」とかニンマリするのは、それからしたら、再放送みたいな「思い出しハッピー」であって、本質からは一歩離れる。ましてや、(3)外界の評価なんか、それはむしろ承認欲求とか仲間欲求とか、虚栄心とかそっち系に近く、本来の自己実現とは違ってくると思う。

だとしたら、もう外界はいらないじゃないか。
出来た結果を目で見て確認してってことも不要でしょう。
極論してしまえば、作品なんか完成する必要すらなく、創作意欲が湧いてきてムズムズしてる段階ですでに自己実現は始まってるとも言えます。だから他の光源はいらない。照らしてもらう必要もない。自らのピュアな欲求という強烈な実在で十分であり、だとすれば既にそのとき自ら光を放っている太陽と同じではないか。


これをもう少しわかりやすい表現に変えるなら、
自分のピュアな欲望について敏感であること、そして忠実であることでしょうか。

さらに核(コア)まで削ぎ落としていけば、
激しく希求する(自分を自覚する)こと
が、自己実現の本体であるとも言えます。


激しく求めるからこそ、その主体である「自己」の存在が強烈に浮かび上がってくる。
激しく求めるからこそ、その欲望を叶えようとする=この世に現実化(リアライズ)しようとする、それが「実現」であると。

こういった究極の本質部分に目を向けてしまうとですね、単純/非単純の自己実現がどうとかいうのも、段々どーでもよくなってきますね(笑)。その種の外界投射月型系って、煎じ詰めれば、「どうせやるなら楽しいほうがいいよね」くらいのことじゃないのか、と思えてきてしまうのです。また、天職のようにその仕事(家事、育児)で充実されている方は、外界投射という月型プロセスではなく、純粋のその行為によって満たされている太陽型なのだろうと思います。

なお、おーし、わかったぞ!といっても、話はそう簡単ではない。なぜなら自分のピュアな希求を認識するということが、意外とめちゃくちゃ難しいからです。「やりたいように生きなさい」とか言われても、はて?と立ちすくんでしまうのは、わかりますよ。何がやりたいのか、考えるほどにわからない。

よく"Don't think, Feel"だとブルース・リーの名言を引用して言われたりするんだけど、「感じよう」とすること自体がもう「考えて」るわけで、あまり解決になってなかったりもしますよね(笑)。

ここから先はまた別の話なので、このあたりで筆を擱(お)きますが、欲望ビギナーの方に申し上げるならば、、、って高いところから言うようで恐縮なのですが、僕の経験でいうならば、欲望というのは「〜したい」というクリアでポジティブな形で出てくる場合よりも、最初の頃は「それだけは絶対イヤだ」という強烈なNOという形で出てくる場合が多いと思います。

そんなの絶対イヤ!という物事は沢山あると思いますが、その中からさらに物色鑑定します。単に不慣れだからビビってるだけとか、ただの怠け心だけだったりとか、そのあたりのニセモノを弾いていきます。そのうち、それだけは絶対譲れない、そこを譲るくらいだったら本気で殺されたほうがマシだと思えるような事柄があるなら、なんでそこまで思うの?何がイヤなのと突き詰めていくといいと思いますよ。結局あなた(自分)は何を求めているの?と。




↓反対側はこんな感じで壮麗な朝焼け
文責:田村


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