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Essay 915:「メンタル」とか「自己肯定感」とかいう便利な心理ワードについて


2020年01月06日

写真は、Ashfieldです。先日訪れた際にこの壁画が増えていることに気づきました。「おお!」てな感じでなかなかの出来栄えで、場所柄(昔から上海系中国人が多い)もあって「アジア人とはなにか」的なものを感じさせます。
 路上からはあまり見えず、ショピングセンターの屋上駐車場からよく見えます(そこで発見してそこから撮った)


 自己肯定感、あるいはセルフ・エスティーム、あるいは単に「自信」というものがあります。細かく議論すれば、それぞれに定義は違うとは思うけど、まずは大雑把にいきます。

 一方で、「メンタルが強い/弱い」というのもあります。

 自己肯定感とメンタルというのは、最近(といってもここ10年スパンの話だけど)よく聞きますよね。だいたい両者が手をつないで登場するパターンが多いように思います。「私は、自己肯定感が低く、(だから)メンタルも弱い」とか、そういう言い方。

 ふむふむ、なるほどねーとか聞いてしまうんだけど、よくよく考えてみたら、あれ?自己肯定感が低いとメンタルはむしろ強くなるんじゃないかな?とか思ったりして。今回はそのあたりの話をちょっと。


精神の野蛮人の救い

 なんで矛盾するように思ったのか?ですが、自己肯定感が低い=自分なんか大した人間じゃないという認識がベースにあれば、他人から多少ディスられても、そんなに傷つかないような気もするのですよね。つまり自分でもバカだと思ってたら、他人から「バカだな」と言われても、「いや、実はそうなんですよ」って流せるし、メンタルはそんなに動揺しないんじゃないか。

 古典落語に「与太郎」という元祖ゆるキャラのような存在があり、年中「馬鹿だね、おまえさんは」「だって、おいら馬鹿だもん」みたいなやりとりをしているのですが、自己肯定感が低かったら大抵のことは受け流せるんじゃない?と。

 いや、これ冗談で言ってるんじゃなくて、昔の日本ってわりとそういうところはあったと思うのです。放送禁止用語なんて概念が出てくる前、特に僕がいたような東京のド下町のド庶民のエリアでは、皆さん普通に口が悪かったし、二人称YOUも「君」なんてお綺麗な言い方ではなく、普通に「おめー」「てめー」でしたし、バカだの死ねだのいう罵倒は一日百回は言ってました、他人からヒドい言われてもそれで傷つくとかいうことはなかったです。そんな環境におれば、自己肯定感なんて「高い/低い」以前に有るんだか/無いんだかで、なにそれ?食べられるの?みたいな世界でした。

 実際、大学入ってからですか、「心が傷つく」とかいう言い方にライブで触れて、それも女の子がいうならともかく、男が言うから、「あ、ほんとにそんなこと言う人いるんだー」ってちょっとカルチャーショックなくらいでした。

 もっとも心が傷つく=メンタルが傷つくというべき事実はありましたよ。他人に不愉快なことを言われたりやられたりして、その不快感情がなかなか消えなかったり、うじうじ尾を引いたりって現象は勿論あった。あったけど、それを「心が傷つく」という表現では思わなかった。単に「イヤな気分になってる」だけのことで。だって「心」なんか目に見えないしカタチも無いし、あんなもんがどうやって傷つくんだ?って感じでした。

 今の時代からすれば、原始人レベルの素朴、というよりも「粗野」「粗雑」な感覚ですけど、こと自分自身に関していうなら、その頃と殆ど変わってないです。自分の心が〜メンタルが〜とか、自分については思わないです。そこにはただ「感情」があるだけで、それ以上深く考えない。自分がポジティブかネガティブかなんてことも考えないし、ポジティブですねとか言われても「そうかなあ?」とピンとこない。セルフ・エスティームやら自己肯定感やらも、あまり興味がないというか、そんなこたあどーでもいいんじゃない?というのが自分については正直なところです。与太郎みたいなものね。

 そんな僕らのような原始人からしたら、最近誰も彼もがプチ心理学者みたいになってしまってて、ご苦労なことだなあというか、そんなに大したものなんだろうかというか、ちょっと違和感あります。身体に不具合があってネットで調べてると、あれやこれや聞いたこともない複雑な病気がぞろぞろ出てきて、全部自分にあてはまるような気がして、気が滅入ってきますけど、最初からそういうフォーマットで店を広げていると、なんでもそう見えてくるって部分はあると思うのですよ。

基本のスリーピース

 じゃあ、僕はどういう具合に自己認識をしてるかといえば、わりと身も蓋もない実体で、肉体+感情(情緒)+思考(知性)の3ピースですね。ドラム+ベース+ギターみたいな。それでいいじゃん、てかそれしかないだろうと。

 その3ピースでなにをやるかといえば、「いい演奏をする(いい生き方をする)」だけの話でしょう。そのために身体を健やかにしたりとか、思考力や知識を増やしたりとか、感情を豊かにしたりコントロールする術を学んだりとかはありますけど、それは手段としてのテクニックですよね。テーマはあくまで、培ったテクニックを駆使してどういう音を鳴らすか?でしょう。やりたいカッコいい曲があるんだけど、下手くそだから弾けないという場合もあります(てか常にそうだね)。そういうときは何をするかといえば、練習でしょう?それしかないじゃん。

 もちろんお話するときは、世間で一般で使われている概念で話すし、エッセイでも書きますけど、あれはこういう概念が世間ではあってとあとから学んで、その文法に合わせて使ってるだけのことです。英語を習って、英語を喋ってるのとちょっと似てる。それなりに奥行きも含蓄もある概念ですから、学んでおいて損はないし、有用だし。事実、僕も中高生の頃は人並みに心理学などに興味をもち、岩波新書レベルだったら片端から読み漁ってましたが、それもあとから学んだ知識やテクニックレベルのものでしかない。

 それらを自分に当てはめようとは思わない。なんでかな?うーん、わりと自分自身に関しては極力シンプルにしておきたいって気持が強いのでしょうね。だって難しいこと考えても、そんな頭良くもないんだから疲れちゃうし、それでいい結果になるような気もしないし。

 さきの「体+頭+感情」の3ピースですが、「感情」はあるけど「心」はカウントしてません。感情と心は違うのか?といえば違うでしょう。僕のいう感情は、そのときどきにスクリーンに映し出される「面白い」「ムカつく」という一過性のもので、お天気みたいな「現象」に近いです。一般に「心」というのは自意識(+無意識)の総体を指すのでしょうが、それはあまり考えない。なぜか、心理学とか聞きかじりの読みかじりでやったけど、膨大な無意識の領域とか出てきちゃって、結局「わからん」というのが結論でしたから。目で見えて、手で触れるサブスタンシャルな物体ではないし、どこまでもっともらしくても、「おはなし」「仮説」の域を出ない。トラウマにせよ、インナーチャイルドにせよ、共依存にせよ、なんにせよ確認作業はできない。これらは「説明原理」であって、実体そのものではない。また説明原理でいえば、不愉快な過去記憶(トラウマ)というか、大脳生理学の海馬の機能(記憶の管理を司る器官)というかで、表現方法もいろいろある。

 自分で把握できるのはいわゆる自意識だけで、非常に限られた飛行機の丸い窓みたいなスペースに過ぎない。そこにその時点での感情が流れていくということだけは把握できるので、もうそれでいいや、というかそれを出発点にしてやっていくしかないと。自分が把握できないものを基礎ピースに含めるのは良くないと思った。そのうえで、ときどきに移り変わる感情が、自分にとって好ましいものになるように頑張るしかない。そして、なぜそんな感情になるの?という説明原理として、不安や嫉妬や防衛機制とか投射とか一般的な原理は参考になりましたよ。でもそれもテクニックという補助的なものに過ぎず、基本ではない。だから基本3ピースから「心」は外して、敢えて一過性の感情にだけ絞ったって感じです。それがリアルに一番近いと。

 まあ、15-6歳の自分がそこまで明確に方針決定みたいに考えてたわけではないけど、直感的に、心とか深入りし始めるとヤバいなとは感じたのですよ。感情のコントロール技法として心的ダイナミズムみたいなものは学ぶけど、それはもうギターのチューニングと同じことでテクニックだと。割り切っちゃった方がいいと。自分でモニターしきれない要素を、自分を構成する基本ピースにはするのはマズイと。

 実際、それで別にそんなに困らなかった。いや、困ってはいるんですよ。「もう少し○○であるべき(思いやりを持つべきなど)」とかそういう課題は死ぬほどあります。でもそれは、あれこれ考え込むよりも、動いて改善していくしかないし。要するにヘタクソなんだから、練習して上手になるしかないし、考えてても上手くなるもんでもないしって処理したほうが話は前に進みますしね。

 あと、どんなスポーツでも仕事でも夢中になって、良い感じで出来たなーってときは、無我の境地というか、自分がなくなっていくものです。だから自分というものは極力減らす方向、薄く透明にしていった方がいいと思ってます。自分についてあれこれ考えてると、自分が肥大化して、自意識過剰になったりして、鎧で重装備しているとか十二単を着ているみたいで動きにくくなって、それも良い結果を産まない気がするのでね。

 でもこのあたりは後付の理屈であって、基本にあるのは、粗雑で原始的でシンプルな心の構造です。あんまり余計な雑音概念が入ってこなかったので、シンプルに処理できたことです。

心の概念ツール

 しかし、なんですね、世代的に後になればなるほど大変なのかなーって気もしますね。自我が芽生えて思春期ですったもんだやってる頃に、お手頃サイズの概念がすでに沢山あるわけで、微妙に自分にハマっちゃったりするから、それに振り回されてるかのような気もします。

 僕ら昭和中期世代は、もっと野蛮な原始人だから、悩んだり落ち込んだりする概念ツールが無かったのです。だいたい「鬱」なんて、「憂鬱な気分」という一般用語しかなく、それも漢字が面倒くさいし書けないから誰も使わなかった(昔は手書きだったんだよー)。その手の領域は全部まとめてノイローゼで終わりだし、ノイローゼってなによ?っていうと深くは誰も考えてなかった。

 メンタルが傷つくような局面でも、考えてみれば、それが何であろうが「ちくしょー!」って言葉で済ませてたような気がしますね。試験に落ちたら「ちくしょー」、フラれたら「ちくしょー」、クビになったら、、って、なんでも同じ。ボキャ貧もここに極まれリって感じですけど。でも「ちくしょー!」って言ってりゃ概ね済んだのも事実です。

 この種の swear word って、あまりお行儀は良くないんだけど、心に対しては有効性もあります。なにか不愉快な気分になったとき、それで自我を侵蝕させるのではなく、外界(or 情けない自分)への強烈な反発感情に水路付けるからです。どっかの誰かに嘲笑されたときに、落ち込むか or ムカつくかの分岐点でムカつく方向にいくわけです。そして一般に落ち込むんだったらムカついてた方がいいです。なぜかといえば、ムカつきという外界反発は、ウェットな感情ではなくドライな客観面が強く、対処のしようはあるからです。「ちっくしょー」でも「くっそー」でも対象があるわけで、その対象をどうにかすればいい。相手が問題だったら、「今に見ていろ」「見返してやる」になるし、ダメな自分が対象だったら「今日から特訓だ」という話になるわけで、いずれにせよ自分がより良い状態になる方向での解決になり、それで大体合ってます。

 また、もっと大きな世の中の仕組みが悪く、それに対してムカついているときは、「なんでこの世はこんなにクソなんだよ?」「本来どうあるべき」って話に向かい、それが社会の仕組への興味関心を促し、広く学んでいく契機にもなります。

 まあそれが手前勝手な逆恨みやルサンチマンを産んで、最終的には罪もない人々への通り魔になってしまう可能性もあるんだけど、それはまた別のレベルの問題です。多くの場合は、いっそう激しい自己研鑽に向かい、社会や理想についての深い考究につながるとは思います。

 実際僕自身、思春期の「くっそお!」が原動力で今まで生きてるようなもんです。その強烈な反発感情がロックにつながるわけだし、社会やら政治やらの反発はそのままその構造の解明や権力奪取やらに向かい、弁護士になる原点になったし、どんなキツい練習でも勉強でも、あの悔しさに比べたら屁でもねえやって気持ちにもなったし。でも、大体誰だって似たようなルートを通ってくるんじゃないですかね?

 ということで、シンプルすぎる「ちくしょー」ボキャ貧は、だからこそ得体のしれない(もっともらしい)言葉や概念に引っ張り回されるという弊害もなかったとも言えます。メンタルに関して言えば、要は気分がいいか、悪いか、それだけだろ?という。そして気分が悪いから、良くするためにあれこれ頑張るという。

 で、実際にもそれだけなんですよ。色々小難しい理屈や議論をして、考えて、煮詰めていっても、結局は気分がいいか悪いかってことに帰結するように思うのです。またそう考えたほうが解決しやすい。もっともこれは通常のレベルに限っての話で、これがややこしく、こじれてしまってると自ずと別ですけど、ただ、時代が下るほどに、とかく深刻になりがちなのも、これらの概念ツールに引っ張られ過ぎている気もするのです。

 

何とでも言える

 で、冒頭の自己肯定感に戻りますが、自分を(力強く)肯定できない、なんか自分ってダメダメな気がする、こんなダメな人間が世の中わたっていけるんだろうかって不安だ〜とか、そもそも自分みたいなダメ人間が存在してていいんでしょうか?みたいな気分はあるとは思います。

 そこまで自分はクソだと思ってるなら、他人からクソだと言われてもいいでしょう?さきに書いたように与太郎方式で受け流せばいい。仮に自己肯定感ゼロ、自分なんかゼロだ、無だと思ってたら、メンタル的には最強じゃないの?だってこれ以上失ったり落ちたりしないんだもん。誰かからキツイことを言われようがなんだろうが、自身のゼロ評価以上にキツイのはありえないから、「ふ、甘いな」「まだ買いかぶられているな」って思うでしょうに。

 だもんで、自己肯定感が低いとか言ってるんだけど、ほんとは低くないんじゃないの?って気もします。「今の自分はダメだけど、ほんとはあそこまでいけるはず」って理想の自分と現実の自分のギャップがあって、そこが問題だってパターンは多いでしょう。むしろ万人がそうだと言ってもいい。理想の俺=現実の俺って人がいたら、人間そこまで自惚れられるものなのか?って不思議でもあるし、その方がむしろヤバい気もする。

 このギャップパターンの場合、自己肯定感って高いの?低いの?理想を高く、ハードルを高くして、自分はあそこまでいける筈、例えば「俺は釈迦やキリストレベルにいける筈」って思っているなら、それってめちゃくちゃ自己肯定感は高いですよね。でも現状の自分のダメさ加減を、自虐的なまでに「ほら、私なんかこんなにダメなんだ、卑怯で醜くて嘘つきで死んだ方がいいんだ」と思い、そこにフォーカスをあてるなら自己肯定感は低いでしょう。

 何が言いたいかといえば、こんなの「なんとでも言える」わけですよ。

 どこにフォーカスをあてるか、どの時点の自分を切り取ってくるかでいくらでも結論が違ってくる。

 そして、一般的にいって、人間というのはお天気みたいに常に変化します。ピーカン青空だったのが、ちょっと目を離したすきにドヨヨン曇天やら雷雨になってみたり。わりと立派に振る舞ってる自分のときもあれば、それは無いだろうってくらいクソ卑劣な自分もいるし、だから自分=一個の人間を静止的なものとして捉えること自体がナンセンスだと思いまーす。一生を通じてまるで菩薩の生まれ変わりのように慈悲深い人が、そのときだけは嫉妬に狂って人を殺したりもするわけでしょう?それが人間でしょう?そのくらい振り幅が巨大な現象(人間)を、いいとか悪いとか、肯定感が高いとか低いとか、そんな静的に捉えてはいけないと思います。

 でも、それじゃあ、「人それぞれ」×「時と場合によりけり」で、何も言ってないに等しいわけで、面白くないんですよね。いや客観的な事実は、多分、面白くない、何も言ってない、何も言えないくらいにバラエティーに富んでるんだと思うんだけど、それじゃその種の話で盛り上がるってことができない。

 だから何とでも言えるから、なんとでも言うって話になるのでしょう。
 実際なんとでも言えるから、この種の本とか山程出てるわけでしょう。逆にいえば、この種の本が山程出てる時点で、もう正解なしってことでしょう。聖書みたいに、決定版!正解!ってのがあれば、それ一冊だけあればいいもん。
 もっとも山程出ているこれらの諸論は、知識経験造詣の深い方々が、それぞれに真剣に考えてお書きになっているものであろうし、それを一概に軽視するものではないですよ。それぞれに合理性はあるのだと思う。ただ決定版ではないし、もともと万能の方程式があるようなものではないんじゃないかってことです。
 
 実践的な処世術でいえば、山程出てる時点で、(もし可能ならば)この件にはタッチしないほうがいいです。正解がわからない世界に入っていってしまうから。「なんとでも言える」ことを考えるのは時間の浪費になりがちでし、できれば考えない方がいい。それは英語学習本とか恋愛本とかダイエット本もしかりです。そして正解がない=やたら考え過ぎない方がいい場合の対処法は、一番バカ正直な正攻法(そして一番ラク出来なくてしんどい方法)がだいたい正解に近いと思いますね。僕の経験ではそうです。

 「もし可能ならば」と条件を付したのは、あんまり深いこと考える前だったらって意味で、ある程度深入りしてしまったら、今更「考えないでおこう」といっても難しいでしょう。その場合はどうするかといえば、やっぱ丁寧に解きほぐしていくしかないでしょう。そしてそれは、人によりけり、時と場合によりけりで無限のパターンがあるのだから、雑誌や本レベルの一般解では難しい。専門のカウンセラーの人などと、自分だけの特殊解をみつけていくしかないとは思います。

 

発想を変える

 また長くなりそうなので、あとは駆け足でいきます。そもそも問題の立て方が違うんじゃないかってことだけど、、、、

表現を変える

 自己肯定感とか、ネガティブとか、落ち込むとか、トラウマとか、聞きかじりの心理学用語(らしき)が沢山出回ってるわけですけど、とりあえずそういう言葉を一切使わないで、同じことを表現してみるとけっこうわかりやすいです。単に流行ってるから、勝手な意味付けで便利使いしてるだけ、実はそんなに真剣に掘り下げてないって場合が多いような気がするからです。

 例えば「メンタルが弱い」も、「心がナイーブで傷つきやすい」みたいな言い方をすると、なんかカッコいいんでね。繊細な芸術家みたいな感じじゃん。それが妙にカッコいいんでお気に入りになってしまうかもしれないから、もっとカッコ悪い言葉にしてみる。たとえば「意気地なし」「勇気がない」とか、「考えてもしょうがないことを、いつまでも無駄にうじうじと考えている」とか。そういう身も蓋もない言い方をされると、カチンときて、「そんなことはないですよ」って思うかもしれないでしょ。でも「勇気が十分にあって、ぱきっと割り切りが出来ていながら、メンタルが弱い人」ってどんな人やねん?って。

 別にここで正解にたどり着く必要はないのだけど、とりあえず言い方を変えることで自分の思い込みを「揺すぶって」みるといいです。違う発想が見えてくるし。

緻密に分析してみる

 「メンタルが弱くて何が悪いの?」です。それでどういう実害が出てくるのか?です。例えばよくある例が、職場で叱責されて、それでもう凹んでしまって、ますますテンパってうまくいかないとか、やる気力が湧いてこないとか。

 まずここでどういう実害があるかですが、一つには単純に叱責されて「イヤな気分になる」というのが実害ですね。もうひとつは、心理的に圧迫されて上手に物事がこなせないという実務上の障害が実害の2つ目。そして、こんな実力じゃあ世の中でうまく働けない=お金が稼がなくて餓死してしまう危険が実害のその3。そういう現実を見せつけられて、自分のダメダメ感がますますひどくなるのが実害のその4。

 このように実害だらけのように見えるんだけど、新人がヘタクソでボロカス罵倒されるのは、まあ普通の話っちゃ普通ですよね。みんなそうやって叩かれて伸びていくわけで。それが問題化するのは、おそらく「イヤな気分になる」という部分だと思います。通常イヤな気分度10くらいなのが、100くらいに感じてしまう点。10倍イヤな気分になったのなら、その精神的衝撃も10倍激しいわけで、パニック度もきつくなるし、通常通り物事が動かせなくなるのも当然だし、そんな状態だったら将来も思いやられるわけで、実害の2以降は単に因果の流れです。自己肯定感(自分がこのままで良いとは思えない感じ)もそれにリンクするんだと思います。

 では、なんでそんなに不快に感じてしまうのだろうか?「バカだな」って軽く言われて、「さーせん」って軽く受ければいいものを、わっとその場で泣き崩れてしまうのであれば、なんでそんなに感受性が強いの、なんでそんなに深刻に受け止めるの?ということです。

 だから「メンタルが弱い」という問題は、還元すれば不愉快なことに関して感受性が高いってことじゃないかという仮説が出てくる。

 ではこの仮説は本当に正しいのか?です。まず自分はそんなに不快感情に弱いのか、他人が1不快になるところを常に10くらい不愉快になっているのか?です。僕が思うに、そんなことはないんじゃないか。生きてればいろいろ不愉快なことはありますよ。頼んだラーメンが不味かったとか、犬のウンコ踏んでしまったとか、みたい番組をミスってしまったとか、待ち合わせでえらく待たされたとか、バスがなかなか来なかったとか、いくらでもありますよね。その都度、わっとその場で泣き崩れてるのか?ていえば、そんなことはないと思うのですよ。

 だから不快感情が増幅するのは何か特定のパターンに限っての話ではないか?職場の例から逆算すれば、なにか自分の能力や存在価値に関することで否定的なことを言われる場合に特にそうなるのではないか?というさらなる仮説が出てきます。

 じゃまた検証です。学生時代に通信簿とか試験でひどい点を食らったとき、そりゃショックだっただろうけど、他人に比べて人一倍、人十倍泣き崩れてましたか?学期の終わりに通信簿をもらう度に教室で号泣していましたか?っていうと、別にそんなこともないと思うのですよ。おそらくは他人と同じ程度の感受性、「ちぇ!」とか言ってる程度じゃないの?

 また例を変えます。もとから自分が苦手な分野、女性だったら機械いじりがよくわからんとか、方向音痴だとか、男だったら料理が全然出来ないとか、裁縫なんかまるで無理とか。そういうことで他人から「なんだ、全然ダメじゃん」って言われて傷つきますか?あんまり傷つかないように思うのですよ。いちいち号泣してないんじゃない?

 さらに言いますけど、こういう人って意外と負けず嫌いじゃないですか?弟や妹となんかゲームやって負けたりしたら、もう一回!とか言ってないですか。ゲームであっという間に終わってしまったら、なんだよー、くそお燃えてきたとか言ってないですか?

 「緻密に検証」というのはそういうことを言うのですよ。単にメンタルが弱いで片付けないで、患部みたいなポイントをだんだん絞り込んでいくといいですよ。僕が実際に相談事とか受けて、やるのもこのパターンが多く、およそ本人が思いつかないような事例を沢山あげて検証していくのです。意外と真逆な結果になったりもするから面白いですよ。

 例えば、メンタルが弱いんじゃなくて、負けずきらいが激しいくらいにメンタルは強い。部活で対抗試合で惜敗したときなんか、よし次は絶対とかいって燃えてるくらいなんだから、メンタル弱くないよ。むしろ勝たないと気がすまない、なんでも上手にこなせないと気分が悪い、そのくらい私には出来るんだ!って思ってるわけで、なんことはない自己肯定感は高いし、メンタルも強いじゃないか。むしろそれが高すぎる、自惚れるくらいに自分を設定しているから、それがダメだったときにショックなんじゃないの?ダメな自分を受け入れるのに慣れてないから、パニックになるんじゃないの?って気もします。これも仮説ですけどね。

多角的に 

 職場で叱責されてヘロヘロになってしまうという現象ですが、それは自己能力への懐疑や否定、あるいは精神的な脆弱性(メンタル弱い)という点に起因しているのだろうか?です。

 もっと他の要因があるんじゃないか?例えば、あれこれキツいことを言ってくる上司先輩が、人間的に(生理的に)苦手だとか嫌いなんじゃない?同じことを、同じ厳しさで、自分の尊敬する人、好きな人から言われたら、こうはイヤな気分にならないんじゃない?

 それかそもそもその仕事が嫌いなんじゃない?なんで嫌いなのかは、いろいろあるとは思うんだけど、大抵は些細なことだったりすると思います。例えば、接客業でも、その店の土地柄かしらんけど、ぐちゃぐちゃ下らないことをガメつく言ってくる、人間的にあまり好感をもてない客が多くて、それでうんざりしてるとか。あるいは、事務所の雰囲気がなんか好きになれない。人的なものもあるけど、物質的になんかイヤだと。霊障ってほどではないけど、ぽつんと一人でオフィスにいるだけで、なにやら気分が沈んでくるというか。

 また全然別の視点で言えば、一生これでやっていくしかない、このパターンが終生続くんだって思ったら、どんな環境でもうんざりしますよ。そう思うだけで精神的に凄い負担がかかるし、心の消耗度が高くなる。もとから疲弊してるから、ちょっとしたことでもこたえるってことはあるでしょう。また、本来そうではないのに擬似的にそう思い込んでるとか。つまり、テンポラリーなバイトであるにも関わらず、「これが世間なんだ」と勝手に思い込んで、「どこにいってもこれと同じ」と決めつけて、全体に牢獄みたいに思い込んでいるってパターンです。この店でダメなら他に行ってもダメなんだと。ワーホリで来て、最初のジャパレス、最初のファームなどの体験で「どこも同じ」と思い込みがちで、その都度「とっとと他のところ行け〜」と言うんですけど。

 はたまた、推理小説的に「それで誰が得をするか?」です。人間が何かを思うのは、無意識的にもそう思ったほうが自分にとって得だから、都合が良いからって場合もあります。「私には英語は向いてない」とか「勉強が向いてない」とか自己規定するのは、その方がイヤな勉強をしない免罪符(いいわけ)になるとかセコい計算をしていないとも限らんわけですよ。「もうトシだから」で逃げてるのと一緒。じゃあ何から逃げているのか?

 またぜーんぜん角度が違ったことを言うなら、日本という社会風土そのものの問題もあります。封建的な身分的な気風をまだまだ引きずっているという。封建社会というのは人がみな平等であってはマズイ社会であり、問答無用でAはBよりもエラくなければならない。会社などでも部長や課長という役職的なことにとどまらず、人間的に、存在的にエラいという空気。それにフィットする人材を育成するなら、自己肯定感とかあまり持ってもらってたら困るわけですよ、「それ、おかしいですよ!」「納得できませんね!」とか自信満々に上司に逆らう奴が出てくるわけですから。上が白といったら黒いカラスも白と言う人が好まれるのだけど、自分の素直を感性(どう見ても黒じゃんという)を押し殺すためには、「お前はそこまで自分を押し出すことは許されないんだよ」「そんな偉そうなことできるほど価値ある人間じゃないんだよ」って子供の頃から教え込まないといけない。それに「ふざけんな」で反抗していると「落ちこぼれ」と排斥され、さらに手が込んでいて上が圧殺しなくても、下の連中を焚き付けて同調圧力で無力化するとか。そういう社会風土で育てば、そりゃ自己肯定感も下がるでしょうよ。そう教えられているわけですからね。

 ちなみに就職の「35歳の壁」なんかもそれでしょ?あまり年長者になってしまうと無理やり押さえつけられないし、年下上司だと舐められるとか、そんなヘタレな理由でしょ?この35歳制限って海外で説明するの苦労するんですよねー。なんでそうなの?どこに合理性があるの?一般に経験豊かな方が優遇されるんじゃないの?わざわざ未熟な人間を優先的に採用するのはなぜ?なんで日本はそうなの?馬鹿なの?って。それもこれも年上の部下を使いこなせるだけの人間力がないことに裏返しであり、ひいては国の特級エリートであるキャリア官僚が○年入省とかいう年次に異様にこだわり、同期でだれかが事務次官というあがりになったら一斉に退職する(年上部下をつからない)というヘタレメンタルに照応します。

 まあ、一番自己肯定感やら自信がないのは、日本の上の方だと思いますね。自信があったら批判だろうがなんだろうがドンと来い、受けて立つわ、返り討ちだわってなるけど、自信がないからディスられるのを極端に恐れる。しまいにはマスコミまで支配して忖度させてって、どんだけヘタレなんだって気もします。と、まあ、そういうモノの見方も出来ますね。

 あるいは、、、って、もう無限にあるんですよね。

 大体、それまでごく平均的に社会生活を送ってきた人が、あるときを境にダメダメになって、もとからダメな人間なんだってことはないです。そんなの単純に事実に反するじゃないですか。なにかしらダメ的な状況になったのなら、それには必ずそうなるだけの原因があるはずです。それも複数偶然に重なり合ってる場合が多い。そして、その要因は、往々にして思ってもいない突拍子もないこと、それも他愛のないことだったりします。

 だから、そこはメンタルとか自己肯定とかいう「便利なワード」で済ませてしまわないで、執拗なくらい探してみたほうがいいと思います。

 僕らのように世代的に上になるほど、メンタル的にタフで、その種の心の問題が比較的少ないかのように思われるのは、時代背景的に野蛮で、「そんなもんツバつけておけば治る!」みたいなムチャクチャな世界だったってこともあります。戦争経験のある方だったら、自分の家族や友人が目の前で顔面をスイカのように散らして死ぬなんてことが日常茶飯事にあったわけで、そういう日常をおくれば、そりゃあタフにはなるでしょう。そこで取り乱して足が止まったら、今度は自分が殺されるわけですし。

 だけど戦後生まれに関して言えば、そこまで凄い状況はなかったわけだし、人の心がそんな時代によって変わるわけもないから、なんかしらタフになってしまう理由はあったのでしょう。今回書いているように、一つには原型が3ピース的にシンプルなものだから、そこで便利なワードに落とし込んで行き止まり〜って話になりにくかった点もあるでしょう。「心の問題」として済ませるルートが無かったので、いま書いたようにあーでもない、こーでもないと色々な要因を幅広くチェックしていくしかなかった。少なくとも僕はそうでした。

 イヤな気分、不愉快な感情を見舞われるときは、逆に言えば現状になにか問題があることでもあり、「心に問題がある」という捉え方ではなく、「現状をいかに変革すべきか」という問題になっていったので、対処しやすかったということです。


 最後にちょっと観点は違うのだけど、心の諸問題って自転車に似てるなって思います。乗れないうちは、静止状態でバランスをとって、それから漕ぎ出すとか考えるから乗れないのですよね。まずペダルを漕いで推力をつけるからこそ、バランスが取れるようになるという事がカンドコロとして体得できたら「自転車に乗れる」という状況になるわけです。心もそれと同じで、静止的にバランスを取って、、というのは難しいと思います。逆に不安だろうがなんだろうが、とにかく動いてみて推力をつけたほうがバランスは取りやすいです。

 海外留学なんかでも、行く前はすごい不安でしょうけど、そんなの行く前だけです。いざ始まってしまって、動き始めたら、そんな不安とかいってられないし、推力がついてスピードが上がるにつれてバランスも良くなるし、しまいには「楽しー!」になりますよね。万人が絶対そうなるという保証はできないけど、殆どの場合そうなる。ただ現地に行っても、また足が止まって静止しかけてきたら、ヤバくなりますよ。

 とかくなんでもそうですけど、静止したままバランスを取るのはすごい難しいです。10分間歩き続けるのはたやすいけど、10分間立ったまま静止していろというのが難しいのと同じです。




通りからは半分くらいしか見えない↓
文責:田村


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