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Essay 911:自費出版と情報リテラシー
質は質によってのみ判断されるべき〜権威主義の凋落
2019年10月02日
写真は、Victoria Parkって名前は知られてないけど、シドニー大学の前にある三角地帯にある公園です。日毎陽射しが強くなってきて、中天から傾いてくると角度をつけて強烈に眩しいです。でも、それだけに芝生や翠がキラキラして、僕の中のオーストラリアの典型的なビジュアルイメージの一つはコレです。
BlOGに載せようかエッセイにしようか迷ったけど、エッセイにします。
いつも長すぎるので、たまには短いもいいかと。
自費出版の増加
現在出版されている本の「かなりの割合」が自費出版らしいです。「らしい」というだけで確定的な情報ではないです。
複数の機会から断片的に聞いたり読んだりしただけです。だから、肝心な「かなりの割合」というのが実際にはどの程度か?は分かりません。
この点、シャカリキになって検索してみたのだけど、全然わからなかった。探し方が悪いのか、そういう統計はないのか、或いは何らかの意図でわからなくしているのか、それも分からないのだけど。
うーん、「問題かも」、というか「ものの考え方をちょっと変えねば」と思ったので、そのあたりをちょこっと書きますね。
書籍というよりもただの広告
なぜなら、「100%広告でしかない本」という場合もありうるからです。綺麗に装丁され、本屋に並んでる本が、実は内容的にはただの商品や個人の広告でしかないケース、、、というのも自費出版だったら出来てしまう。
例えばですね、僕がそれをやろうとするなら、「ヤバい留学エージェントはこう騙す」とか、「誰も書かなかった永住権のとり方」とか、とにかくセンセーショナルなタイトルで原稿を書くわけです。そのへんの一般的なネタは業界だったら誰も知ってるような(でも業界外だったら誰も知らない)もの(そして知ったところで、よく考えたら大した意味もないもの)を散りばめておいて、こんなひどいケースがある、こんな悲惨な話もあるとか面白おかしくビビらせて書けばいいわけですよ。
で、最後の方に「良心的なエージェントの見分け方」とか章を作って、自分のところを大々的に持ち上げるか、あるいはそれとなく自分のところに誘導させるようにすればいいわけですよね。
それを自分の名前で自費出版してもいいし、もっと巧妙にやろうと思ったら自分の名前は一切出てこないように第三者名義を借りたり、「NPO消費情報研究会」とかでっちあげて(法人格を有する「NPO法人」は登録審査が難しいが、単にNPOを名乗るだけなら自由)その名義で出せばいい。
いかにも客観的な情報、世のため人のための啓蒙書のような体裁を取りながら、実は100%個人宣伝で、価値的にはチラシ広告でしかない本も、自費出版というカタチでなら成立しうるわけですね。
留学なんてパイが小さいし商売の旨味がないので、「痩身美容」「ガン克服」「金儲け」あたりの「大票田」で、「なんたらメソッド」とか画期的っぽく見える商品をフィーチャーして本にすればいいですし、そういうのはすでに沢山出てるでしょう。
論点
識別できない
問題は、本屋さんで本をパラパラとめくってみても、それが自費出版なのか、従来どおりの商業出版なのか、それを識別する方法がない、という点です。まあ、いかにも自費出版的な内容(「私の歴史」みたいな)とか、著者と内容がもろにリンクしてるとか、見るからに宣伝本とかだったらわかりますけど、上に書いたように巧妙にやられてしまったら、もう分からないだろうなーって思いますよ。
奥付の著者、編集、発行者を見ても確実にはわからない。名義を変えられたり、団体にしたり、あとに述べる共同出版という形式があるからです。
書籍の信頼性=商業出版
伝統的な商業出版と呼ばれる形式=出版社が出版してる=は、プロの編集者が企画や内容を世に出すべき価値があるかどうか吟味し、著述内容についてもあれこれ厳しく管理します。裏付けもないまま個人的な感情を垂れ流しているだけの部分はカットするとか、多角的に見ようとするとか、一定の水準に引き上げます。その上で、出版費用は出版社が全部持って、また本屋さんに並ぶ流通ルートにも乗せてくれますし、場合によっては広告も打ってくれます。それだけの資本投下をするだけの価値があるからやるのであり、またそれだけの価値があるように編集もする。
したがって「本を出している」「著作がある」となると、それなりに知的ステイタスがあったりして、「作家」「ジャーナリスト」なりの肩書もドヤ顔で使える、、、とかいうのが従来の観念でした。
この一般通念は今もあるし、自費出版は著作としてカウントしないとかあるわけですけど、しかし、書籍そのものからその識別が出来ないのがツライ。自費出版だったら「自費出版」って明確に書いてくれたらいいんだけど、それもしていない。
あるいは出来ない。
共同出版
なぜなら「共同出版」というパターンがあるからです。商業出版と自費出版の中間形態。これもいろんなケースがあるそうですが、自費出版なんだけど、あえて商業出版のカタチにしてもらいつつ、発行部数のうちの千部は自分で買い取るとか、広告費を折半するとか、最初からなにもかも一定比率で負担するとか。これだと出版社のリスクは減ります。印刷代や編集員の人件費、流通費のある程度著者から回収できますからね。
著者の方も、普通に自費出版するだけだったら日販・東版の大手流通に乗りませんから、一般の書店に出回ることはまずないです。自分で知り合いに配るだけです。でも共同スタイルなら、出版社がルートに乗せてくれるかもしれませんから旨味はあります。
そして、それがどの程度の割合でそうなるか(著者負担が1割か9割か、プロ編集がどこまで入るか、流通もやってくれるか)は、まさにケースバイケースで一概には言えないでしょう。
ということは、従来の折り紙つきの商業出版から→100%自費出版まで、無限のグラデーションがあるということです。実体がそうであるなら、形式的にこれは自費出版でこれは商業とか区別することは不可能であり、その旨奥付に書くことも出来ません。
だから問題なんですよね。わからないから。
わからないと何が問題か?といえば、「立派な書籍になってるから、正しい情報なのだろう」という推定(これまでの常識)が通用しなくなるからです。本になって書店に並んでいたとしたも、嘘八百かもしれないし、ただの個人的妄想が炸裂してるだけかもしれない。信じられない。
同時に「この人は本を何冊も書いてるからエライんだ」というのもアテにならないということですね。
背景〜出版不況
ネットに押されて本が売れてないことは周知のとおりであり、実際にも毎年コンスタントに下がってます(電子書籍は増えてるけど)。出版社も苦しい。リスクをとって新たな本を出版したけど、また売れないの不毛の繰り返しをするよりは、逆に手間賃を取れる自費出版の方が低リスクで確実な収入になります。だから、そちらに力を入れるとなっても、経営としては非難できないでしょう。
今では自費出版専門の出版社も多数出てきているようですし、これも時代の流れなのでしょうね。
また、そんな時代であるからこそ、原点に立ち返り、良質な書籍を世に出そうと頑張ってるプロ編集者も多数おられます。また良書を取り揃えて読者にわかりやすく訴求しようという本屋さんもあります。
これもまた一つの時代の流れでしょう。黒船・開国という流れになれば、尊皇攘夷もまた出てくるという。
従来型だって怪しい件
ところで、従来型の商業出版だって、その全てが品格と価値ある本ばかりではないです。売るためにはかなり下品というか、暴露本とかヘイト本(一定の限られた読者には確実に売れる)とか、内容的にかなり怪しい系もガンガン出してたりしますから、その意味でも一概には言えないですね。
これは固いはずの学術本にも言えて、どう考えてもさして学問的価値があるように思えない本も刊行されてたりします。某教授が自分の著書を講義の教科書として指定するからです。確実に売れますから。僕も大学にいたころ、なんでこんな本を何千円も出して買わないとならんのか?と釈然としなかったのを覚えています。
だからこの問題は、煎じ詰めれば「資本主義の功罪」論ですよね。売れるという高いハードルがあるがゆえに、質が向上するのだ、進歩があるのだという良い面と、金になりさえすればいいんだという点からどんどん下品に劣化していってしまう面です。
自費出版のほうが良書があったりもする
その点、自費出版は「売らねばならない」という制約がない分、自由に書けます。あまりにもしょーもなすぎたり、自慢話オンリーで売れそうもないことも書ける一方で、あまりにも真面目すぎて売れそうもないことも書けるわけです。その意味では自費出版にこそ隠れた良書があるとも言えます。
問題は一般の流通に乗らないので、本屋で探しててもなかなか会えないって点です。
結語
今回はあっさり終えます(ここから3倍くらいに膨らませるのも可能なんだけど、やめたほうがいいよね(笑)?)まあ、結局は、「質」次第って王道に回帰していくのでしょう。
今となっては、本を出しているのも、ネットでブログ等を持っているのも、情報リテラシー(発信&収集)という意味では、殆ど価値的には差がないのかもしれません。自費出版は少なくとも200万以上かかるので、殆ど無料でできてしまうブログに比べれば敷居は高いですけど、本人さえその気だったら出来てしまうという意味ではブログも出版も同じようなものかもしれません。もともと「情報の発信」という意味では同じなんですから。
質は、まあ(ものによるけど)一目瞭然でもありますよね。
とあるミュージシャンが、メジャーなところから出そうが、自費でCDを出そうが、その良し悪し(好き嫌い)は聞けばわかる。メジャーのほうが金かけていい機材で録音するから音はいいかもしれないけど、でも音質が全てでもないですからねー。貴重な音源とかあったら、マニアには垂涎モノでしょう。音楽ですらなくても、ビートルズのジョンとポールがスタジオでガチで喧嘩している生音源があったら、聞いてみたいですね。高く売れるんじゃないかな(笑)。
また、ありえないけど、村上春樹がなんか自費出版したりしたら、そっちの方をこそ読んでみたいですしねー。
質は質によってのみ判断されるべきで、「本になってるからスゴイ」という形式主義はだんだん当てはまらなくなるんだろうなってことです。それは別に悪いことでなく、むしろ好ましいことかと思います。問題はそういう流れを(自分も含めて)どれだけの人が理解しているかでしょうし、折に触れて、ああ、もう今までの常識フォーマットは更新せんといかんなとアップデートしていくことでしょう。
だけどこれって本に限ったことではないです。いまや統計すら捏造される昨今、政府が言ってるから正しいとか、NHKがそう報道してるからそうなんだとか、未だに信じ込んでるとしたら殆ど認知症レベルでしょう。アメリカが言ってるからというのも然り。
かくして、現代から未来にかけて、カタチに基づく内容推定というのがどんどん減っていくように思います。別の言い方をすれば、権威主義の凋落です。とある権威がAといえば、内容を吟味することなくAなんだと皆が思うという場面が減っていってる。そんなに盲信しなくなってる。
なぜかといえば、おそらくはネット社会で誰もが自由に批判出来るからでしょう。誰かが言ってるそばから、即座にファクトチェックも出来るし、過去の資料も参照できるし、それをアップすることもできる。誰もが発言者になれる。また、流通形式も、以前だったら権威系は大新聞の紙面とかテレビ放送で、個人レベルだとせいぜいがビラ配りくらいしか出来ず、質量ともに圧倒的に権威系が有利だったんですけど、いざネットの世界になってしまえば、流通はただのネット回線で同じだし、容れ物もただのサイトという意味で同格ですから、もうガチで質の勝負にならざるを得ない。
質の良し悪しは、質によってのみ判断されるべきだという正しい本道に戻ってきてるわけで、良いことなんですけど、だがしかし、それだけにカタチに頼れなくなっている、○さんが言ってるからそうなんだろうは通用しないし、その程度の情報リテラシーでは騙されるわ、搾取されるわ、いいことないですからね。その意味ではけっこうキツい時代でもあります。なんでも自分で質を判断しないといけないわけですから。
文責:田村
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