★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
910 ★背景デカ画像


  1.  Home
  2. Essay目次
このエントリーをはてなブックマークに追加


Essay 910:まかり間違っても「普通」になろうと思うな

2019年09月24日

写真は、ウチの裏手にある誰も知らないGlebeのタウンホール。いい建物なんだけど立地が悪いのか全然知られていないという。


 なかなか挑発的なタイトルですけど、いや、本当にそう思う。昔っからそう思ってたけど、年輪を重ねて(馬齢だが)、いよいよそう思う。いろんな観点からそう思う。

査定ミス〜願望は半分くらいしか実現しない

 何から話そうか。まず簡単なところから。

 何でもそうだが、100を狙ってやったところで、結果的にはいいとこ50くらいです。そのために死にもの狂いの努力を続け、脳漿振り絞って戦略を立て、これ以上ないくらいベストを尽くしても、結果的には半分くらいかなーって感じ。

 「世界最強」を目指して命に関わるくらいの猛修行しても、いいとこ「そこそこ強い」くらいでしょう。全国大会優勝や世界レベルを射程に入れられるくらいになっても、暴力団の用心棒レベル。幼い頃から神童と呼ばれ続け、この世に俺より頭のキレるやつはいないとか思って、それなりに上の世界にあがっていっても、どっかで「上には上がいる」という凄まじいエリアに突入し、「あ、俺って凡人だったのね」みたいな感じになり、しだいに角も取れて、平々凡々な日々になる。

 そりゃ中には金メダルとったり、チャンプになったりする人もいますよ。でも確率的に言えば無視してもいいくらいの少なさだし、またそういう連中は多分そこ(メダル)が終着点ではないはずです。もっと上のものを目指していたけど、力及ばずメダル『程度』で終わったという。

 なぜそうなるか?ですが、大きな原因として考えられるのが、上の世界の査定が甘いってことだと思います。

 下界にいる我々にとって雲は高いところにある存在であり、雲=空=天くらいの感覚でいますけど、リアルにいえば、雲なんか地表にへばりついてるようなものです(1000メートルから1万メートル程度)。雲の上、5万メートルくらいまで成層圏があって、その上8万メートルまで中間圏があって、その上80万メートルまで熱圏があって、さらにケタが2つ違う8000万メートルまで外気圏があり、そこから先がようやく宇宙空間です。宇宙との境目(空全体)からすれば、雲などは下から数えて1万分の1かそれ以下というお話にもならない低さです。なんたら圏を「空」、宇宙を「天」とするなら、雲はほとんど「地表のおまけ」ないし「地表そのもの」みたいなものだといっていい。

 でも下にいると雲の高さがよくわからないから、雲=空くらいの大雑把な認識でいる。「上の世界の査定が甘い」というのはそのことで、勉強でも校内一位になったらとか、難関大学に入ったらとか、首席で卒業したらとか「この世は思いのままじゃあ〜!」とか思うんだけど、全然。東大だって年間3000人くらい居るんですよ?同年代にいる三千人に入ったってどってことないです。スポーツや芸術のランキングで3000位なんか意味ないでしょ?意味あるのは上位1%くらいですよ。Googleの検索だって自分のサイトが30位以下だったら殆ど意味ないもんね。で、年間で東大卒がそれだけいるなら、実際の社会においては過去の卒業生がいるんだから、10年分で3万人、65歳までの労働期間40年なら12万人、75歳までなら15万人も東大卒がいるわけです。東大だけでですよ。これに京大とか他の帝大系、私立系をいれたら、軽く100万人を超えます。100万人の中に入ったところで、そんなもん「エリート」でもなんでもないよ。

 つまりですね、上の世界の査定が甘すぎるから、あまりにも低いハードルを、すごーく高いゴールだとカンチガイするわけですよね。だから、思ってたのの半分くらいいけたら御の字です。

 これを体感的に意訳するなら、「エリートになろうと激しく努力して、エリートになれたぞ!と思ったら、実は「普通」の人だった」という感じですね。東京の地下鉄で、今日も疲れきった顔で吊革握ってるおっちゃんとかいるわけですけど、実は高校の頃は校内一位でスポーツも出来たというスターだったりするわけですね。それでその程度。世間は甘くないのよ。ちなみに中国なんか14億人もいるんだから、競争率も半端ないよね。どうなってるんだろうね、あっちは。

 ということで、最初から「普通」なんか目指してたら、いいとこ「普通の半分」どまりです。だから普通を目指したかったら、その倍くらいの高さを最初から目指せと。最終局面になればなるほどガンガン体感高度が落ちてきて、半分くらいで止まってくれたら御の字です。

普通だから楽なわけではない件

 あと、よく「普通でいいですよ」「人並みでいい」とかいうけど、これも傲慢なフレーズで、なにやら力を抜いて、腹八分目くらいの努力で、流しておけばいいってゆるい感じでいうなら、多くの場合は間違ってます(意識的にそうすべき局面もあるけど、それはまた別の話)。

 なんとなく思ってる「普通」「人並み」「世間なみ」とかいうのは、実はけっこうハードな話で、かなりガチで努力して、あんなコトやこんなコトがあって、泣いたり笑ったり、すべったり転んだり、しまいには泥だらけの大地にビッタンとバンザイ・グリコアタックをして、汗と涙と鼻水がごっちゃになって、ようやくたどり着けるくらいのポジションでしょう。ハンパな根性では「普通」になれないよ。もっといえば、あんな難しいものを「普通」という表現をするのが間違っていると思うくらいです。

 もし本当にリアルに偏差値50的に「普通」を観念するなら、世間がまだまだ自分の目線の上に見えてて、そこに至らない自分の無力さやら、コンプレックスやら、大いなる欠落感やら、人生の不完全性を抱きかかえている状態、それこそが「普通」なんだと思う。でも、一般にはそういう不完全な感じで「普通」は語られない。「普通」とかいいながら、実際のレベルは結構高いですよ。そこに無理がある。

普通の無理イメージ〜メディアの罪

 ちなみに、なぜこんなに上の査定が甘いのか、そしてイメージの「普通」が馬鹿高いのか?ですけど、多くはマスメディアやドラマ、マンガなどの影響でしょう。バブルの昔に流行ったドラマで「金曜日の妻たちへ」とかそのあたりの(今となっては口に出すのも恥ずかしい)トレンディドラマというジャンルがありました。僕はバカバカしくて殆ど見てなかった(てかティーンエイジャー以降殆どテレビは見てない)ので細部はわからないけど、全体にオシャレなんですよね。そこでは、20代OLとかいいながら、すっごいマンションに住んでるわけですよ、自由が丘とかの。家賃百万以上するんじゃないのってくらいカッチョいいやつ。で、大した仕事なんかしてないわけだし、年中デートなりパーティなりやってるわけで、まあ手取り18万4300円くらいでしょ?って感じ。どこの大金持ちの令嬢かといえば「普通のOL」という設定なんですよね。そんなOL、いねーよ。パパ活やってんのか?って。

 つまりは「普通」のレベルが荒唐無稽に馬鹿高い。それは画面映えするからであり、視聴者をぽわーんといい気分にさせるためであり、またその頃から出てきたあざといメディアミックスで、何かを売り込みたい某企業(西武とか)が某代理店(電通とか)を通じて、ドラマのシナリオにさりげに登場させて需要換気を図るとか、そんな事情もあったのでしょう。全体にゴージャスに作る。

 オーストラリアがちょっと出てくる映画だったかドラマだったかも、駐在員だったかのマンションが、部屋の窓からどーんとオペラハウスが見えるところで、位置的にいってKirribilliあたりの豪華マンションでしょうが、家賃いくらするんだよ?って世界で、あんなところに住んでる駐在員なんかいねーよって。それもあってドラマとか見る気がしないんですよね。ある程度リアルを知ってると馬鹿馬鹿しくてさ。

 弁護士が出てくるドラマでも、あんだけ一件に時間使えたらそりゃ楽ですよ。でもそんな時間配分で仕事してたら毎月の事務所の家賃も出ないで、遠からず破産しますよ。僕のようなペーペーですら常時30件、多いときで50件以上やってて、ボスとか地方の弁護士の場合200件とかやってる人からしたら、1ヶ月の間に一件に注げるエネルギーなんかしれてます。そうでないと廻っていかない。もしあの一件だけでペイしようと思ったら、その事件の報酬だけで300万くらい取らないと計算にあわないんだけど、どうもそういうシーンはない。てかどうかしたらボランティアでやってるっぽい場合もある。いい加減にしろ、です。まあ、童話みたいなお話だから目くじらたてるのも何ですけど。でも、「バイトばかりやってる苦学生」という設定なのに、バイト先までフェラーリで通ってるシーンがあると白けるでしょ。

 これらをリアルにやってしまうとドラマにならない。あの程度の能力あの程度の仕事で月給手取り18万くらいだったら、自由が丘ではなく、松戸の先の馬橋(住んでた)とか、池袋から橋渡った西川口とか、駅から徒歩20分くらいの築18年くらいの1LDKとは名ばかりのほとんどワンルームみたいなところでしょ。男友達と飲むんだって、ゴージャスなところではなく、ファミレスとか安い居酒屋でしょ。でもそれじゃトレインディドラマにならない。

 一事が万事でそのあたりのデフォルメがあるから、普通のレベルが実体から乖離して高くなっているという点はあると思います。と同時に、上の世界のシビアをリアルに書いていったら、その殆どが途中でポシャっていくわけだから、話が成立しない。だからちょこっと努力したら、すごーく成功するようなストーリー展開になっていくのでしょう。リアルを極めていくと、ストーリーにならないんですよね。

 その名残は未だに蔓延してるみたいで、やれ「猫も杓子も大卒」で、Fラン大学が乱立してどーのとかいうけど、2019年の日本の大学進学率は54.67%でしかない。男子の方は51.63%(女子57.77%で女子の方が大学進学率が高い)でほとんど半分です(出典)。猫も杓子もじゃないよ。猫は大卒でも、杓子は高卒だよ。なんでこうリアルな事実に基づいてイメージが作れないの?馬鹿なの?って感じで、良くないっすよ。なにが良くないかというと、無意味どころか有害な焦りや劣等感を人々に与えるところがです。日本人鬱化計画でも進行してんのか?って。

 真にリアルに偏差値50的な立ち位置においては、「世間」は自分の目線と全く同じ水平でなければならないはず。

 これをプラクティカルに意訳するなら、世間が自分の頭上に見えてて、自分はなんてイケてないんだというコンプレックスや欠落感に苛まれて、膝をかかえて体育館座りをしいるあなたは全くもって「普通」であると「画像修正」することです。いや世間は頭上にないし、自分のレベルにあるし。イケてないことないし、大体みんなそんなもんだし、欠落感もコンプレックスも感じるこたあねーよってことです。

「普通」では市場価値がない

   就活、転職、起業など生活戦略でいっても、「普通」というのは「他にいくらでも替えがいる」「キミでなくても別にいい」「一山なんぼ」ということであって、言ってみれば「誰にでも出来る仕事」であり、もっと露骨に言えば「別にお前、いらんやん」です。

 いくらでも替えがきいて、誰にでも出来るんだから、賃金は概して安いし、いつクビを切られるかわからない、いつシフトがはいるかの保証もない。そんな「普通」を目指してどうする?です。

 職というのは世界の分業で、魚を穫る人、大根を作る人、それらを運ぶ人、売る人、調理する人、、っていろんな作業を世界中で分担してやってることです。そこでは職業別に深い経験値とスキルがあり、なかには鬼のような、○○馬鹿みたいに一心不乱にそれを極めようとする人達もいる。

 そこでは「人ができないことが出来る」のが売りになる。一般人からみたら「超人」ですよね。なんでそんなことが出来るのか不思議ってレベルの。僕ら弁護士だったら、話を聞いて、そこらへんのチラシの裏に下書きなしにいきなり契約書を書き出せる程度のことは出来ます(簡単なものだったらね)。電気関係のエンジニアだったら、チラシの裏にある程度の回路だったらゼロから書けるだろうし、薬学関係だったらサラサラと化学式とか書けるだろうし、建築関係だったら初見でみた家の大雑把な構造計算くらいは出来るだろうし、シェフだったら市場で食材をみても、たちどころに幾つもの料理プランが思いつくだろうし、どんな職業でも、それ以外の人からみたら魔法としか思えないような事ができます。

 そして、それらのスキルを身につける過程は、まったくもって「普通」ではない。特殊職業エリアに踏み込んだ時点で、もう気分的には「普通」じゃなくなってるわけですよ。飲食店関係とかやれば、夜遅くまで働くし、土日は書き入れ時だし、世間の人が休んでるときに働いてるわけで、もう「普通」って気がしない。「世間の人は楽しそうだなー」って指をくわえて見る感じ。そもそも日本料理のド正統派でいえば中卒で現場に入るくらいが王道ですから、その時点でもう「普通」じゃないよ。僕ら司法試験組だって、キャンパスの一般学生からしたら別世界の、闇の世界の生き物で、僕らの研究室は「隔離病棟」呼ばわりだし、僕ら自身が「早く人間になりたい〜」とか自虐ギャグを飛ばしてたくらい、ほとんど島流し俊寛レベルのアウェイ感です。どんな仕事もそうよ。全力で「普通」の正反対の方角に走り出しているって感じ。

 だけどそれらが出来たところで、それで人生安泰さって感じにはならないのが現代という世界で、技術的には問題なくても、それでも職探しに苦労したり、入ったところで人間関係に苦労したり、搾取されたり、自分で店やったら経営に四苦八苦したり、ヒーハーやってるもんです。でもって、休日に私服で商店街歩いているときに「普通の人」的になるわけ。

 何を言ってるかといえば、そんだけさんざん「非普通」の生き方をしまくって、極めて、ようやくなれるのが「普通の人」なんだわ。仕事を離れた局面では、普通のおっさんおばさんで、普通のお父さんお母さんなのだ。みんな普通の人を目指して、普通になってるわけではないのよ。

 もっと言えば、職というものが本質的に「非普通」なのだ。非普通なればこそ、それが職として成り立つのだ。そこを最初から「普通の〜」とか言っててどうする?です。

 なお、職に関してはものすごく沢山の問題があって、オーストラリアでも若い人ならダブルジョブ、トリプルジョブは当たり前みたいになってるし、世界的にオールインワン的な職が減っている。もともと伝統的に数年したら転職するのが当たり前のこの国だから下地はあるけど、それですら苦戦する。それは雇う側がより効率的な雇用体制、オンディマンド的な時給仕事や、世界的なフリーランスへのアウトソーシングや、AIにせよ何にせよ、とにかく人件費を効率的に下げる方法がどんどん開発され、べったと雇う形態が減ってきてるというのがあります。

 日本の場合は、人口構成のアンバランスさが仇になって、今、ものすごい数の労働者が定年で減ってるから、現象的には「人手不足」になって物事の本質が捉えにくく、それだけ危機感も抱きにくくなってますけど、一つの職で全て満たせる、家族全員食わせられるってパターンは減ってますし、これからも減り続けるでしょう。

 その意味でこれからはどんどんダブルジョブ体制が必要だと思うし、僕の経験でいっても、起業は絶対しろと言いたい。仕事そのものが時給仕事的にグレードダウンしたり、セキュリティ(安定性)が欠けてくるだろうし、今が良くても将来的にどうなるかはわからない(てか、常識的に予想すればダメでしょ)から、補完的に自分の世界を作って自己実現まがいの場が欲しいのと、切実に別収入が欲しいこと。僕だって、APLaCやってなかったら、随分つまらない人生になってたかもしれないし、生計的にも成り立ってないかもしんない。でも、その起業だって、非普通の極致みたいなものですよ。ある程度人に読ませるブログを書くにしても、人と同じことを書いてたら超つまんないですもん。「うわ、こいつ、すげー発想するな」って特異点がないと。

 以上の次第で、生計とか職とかいうレベルで考えるにしても、「普通」というのは結果的にそうなるのであって、最初からそれを目標にしない方がいいと思いますよ、あらゆる意味からも。

普通の反対は異常ではなく「自分」

 じゃあ、これからは特殊スキルだ資格だとか早とちりしないでね。そんなもん時代が変わったらゴミ同然になるかもしれないし。第一、人の世の中でいかにすべきかという社会・人文科学の世界においては、自然科学におけるピタゴラスの定理みたいなフォーミュラ(公式)があるわけでもないのですよ。それは「こうすれば必ずモテる」という公式がありそうで無いのと同じです。そういう言説やらテクニックらしき話は山程あるんだけど、「山ほどある」という事実がそれら全てが不正解である証拠でしょ?確定的なのが一つあったら別に山程語られないよ。てか誰も語らないよ。「爪が伸びたら、爪切りで切るといい」なんてことを皆は語らないでしょう?

 僕がここで言いたいのは、いわゆる普通ではない部分、非普通の部分が、なにをするにおいてもエッセンスになっていくんだよなー、だから普通を目指してると外すよってことだけです。

 じゃあどうすればいいの、非普通ってなんなの?異常になれってことなの?といえば、異常というとニュアンス違うんだけど、「自分になれ」ってことだと思います。そういう形では思わない、そういう言語化はしないんだけど、でも結局そういうことなんかな、って。

 あんね、なんで人は特殊職業とかアートとか趣味とか「非普通の森」に分け入っていくか?です。別に非普通になりたいわけでもないんだよね。そういう問題じゃない。他者との比較とかポジショニングでやってるわけではない。

 それは非常にパーソナルなキッカケが多いでしょう。だいたい現象的には、なんか「たまたま」の偶然があって、その偶然事象によって自分の中でなんかの化学反応が起きて、ガゼンとして、あるいはジワジワと興味が芽生えてきて、、、って感じじゃないかな。

 あなた好きなもの、趣味にせよマンガにせよなんでもいいけど、なんで好きなの?なんでそれやってるの?といえば、キッカケは他愛のないことだと思いますよ。それが徐々にウィルスに罹患して病気になるみたいに、自分の中でなんかしら化学反応が起きて、連鎖していったという感じでしょう?

 思い出したけど、僕らが小学生の頃に切手収集が流行ったんですよ。僕もやってて、新宿の郵趣会館なんてところに足を運んで、小学生のくせにかなりマニアックな(笑)。でもキッカケは、別に流行ってるからでもなんでもなくて、マンガ雑誌の裏表紙だったんです。今でもよく覚えているけど、あの頃(今もか)よく細かい活字、ルーペで見ないと見えないくらいの、日本の印刷技術を誇るかのような細かな広告とかよくあって、裏表紙まるまる一枚、いろんな切手セットがばーと載ってた。まあいつも見てる広告だったんで普段は読みもしなかったんだけど、その日はヒマだったのか、なんの気まぐれか、ちょい細かいところまで見たのです。すると、一枚一枚の切手が綺麗なことに気づいて。そりゃ世界の名画とか、その道のプロが心血注いだデザインとかですからね、綺麗で当たり前なんだけど、それに気づいて。そして、なんだったかなー、日本の国定公園シリーズとかいうやつだったかな、発行枚数が多かったので廉価で、何枚かセットで数百円という感じで、お小遣いでも手が届くレベルで。「あ、なんだ、買えるじゃん」とか思って、当時だから切手同封か郵便振替で送れとかあって、生まれてはじめて郵便振替なんてものを郵便局で手続して送って(超新鮮でドキドキ冒険だったね)、そしてついに現物が送ってきて「わー!」という、この一連の「めくるめく」ような面白い体験があって、そっからですね。

 だからキッカケなんかくっだらないことで、それを育てるのもパーソナルな「わー」という感覚で、一回ドアを開けたら、次から次へとイベントが起きて、それでハマっていったという。大体がそんな構造ですよ。ギターやり始めたのも、司法試験を目指したのも、オーストラリアに来たのも、きっかけはすんごいパーソナルなことです。サイズ的には3センチ四方の手のひらに乗るくらいの、些細な日常のなにかがあって、それをホタルを捕まえるみたいに両手で抱えていたら、やがてAKIRAみたいに超爆発的な話になって、、って感じです。

 で、言いたいのは、別に、非普通になりたいとか、人と違ってないと差別化ができないとか、そんなことは1ミクロンも思ってなかったってことです。ただただ自分内部の自分オーガニックな感覚で芽生えただけのことだと。

 その意味で、普通の反対は異常ではなく、「自分」だろうと。改まって「自分」とか意識もしないんだけど、ポイントは他者との相対的な関係とか、世間での立ち位置とかそんなポジションニング的なものは全く「無い」ってことです。

普通になってもつまらない

 これが一番大きいですね。
 「普通でいいです」とか、およそこのくらい目標として盛り下がるものはないですよ。で、上でみたように、普通になりたいんだったら非普通の森を通らないといけないし、普通だけを目指したら半普通以下になるのが関の山だから戦略論としても下策だし。

 逆に非普通やってる人達はどうかといえば、別に非普通を目指してるわけでもないし、それどころか非普通な状況にアウェイ感すら抱いたりする。パーソナルななりゆきでそうなってるだけ。また、「エリートになりたい」的なそれだって、司法試験やってた頃の自分を思い出せば、別にエリートがどうのって真剣に思ってたわけではなく、本音部分でいえば、「異常に難しいことに挑戦する」という、ややもすると破滅志向的な「ヤバいこと」をやってるところに麻薬的な快感があったのですよ。実際、当時は苦節十数年やってもまだ諦めない人がやまほどいたので「麻薬的」って言葉がよく使われた。つまりはね、「面白いから」やってたわけです。異常に難しいことを、自分の力だけ、コネもなにもなく完全100%自分だけの条件で勝負できるものなんか、この世にそうそうないですからね、だから燃えたわけです。つまり、最高のゲームとして成立したからやったのだと思う。オーストラリアに来るのも、自分の中ではゲームとして成立したわけですね。おもしれーって。

 要は面白いからやってただけの話で、別にエリートになりたいとか、グローバルな人材になりたいとか、全然思わなかったよ。で、実際にもそれで難関突破してくる奴らって、だいたいそんなこと考えてないですよね。もっとパーソナルな欲望に忠実で、それがパーソナルだからこそ持続できたし、成功もできたんだと思います。これが、そこそこ社会的ステイタスもあって、「お手頃かと」みたいなヌルいモチベーションだったら、まあ続いてないよね。

 あ、脇道それるけど、コンピューターとかネットのゲームとか、僕はやらないんだけど、でもやる人の気持は分かるよ。よくできているもんね。でもやらない方がいいよとも思う。なぜなら、第一に、所詮は他人が作ったものなので、どこまでいっても他人の掌のうえで孫悟空みたいにやってるのがムカつくのが一つ。第二に、純粋に面白さでいえば現実社会の方が圧倒的に面白い。どれだけ面白いかといえば、それがゲームとして成立するかどうかもわからない、てかゲームとして成立させることすら自分の力量次第ってところが面白い。これに比べたら最初からゲームとして設定されているものなんか簡単すぎて、バカバカしくてって感じです。第三にこれが現実的に一番大きな理由ですが、相当の努力と時間とカネをつかってそこそこの成功を成し遂げたとしても、ゲームの世界でそれをやっても現実世界にはほぼ100%何の影響もない。無駄っていえばこのくらい無駄はない。しかし、現実のゲームで成功して億万長者になれたら、実際にも億万長者になれるわけですよ。どこが違うかといえば、生計のためにShit jobやって、Bullshitな連中に、F**kin'な事を言われても、じっとガマンで泣きながら皿洗いなんかしなくても良くなるというご利益があります。このご利益はでかいですよ。またゲームでどれだけキャリアをつもうが履歴書には書けないから、より楽ちんな仕事でより高額な報酬をもらえる可能性もゼロになる。それじゃつまらないし、てか大損じゃん。

 話もとに戻すけど、「普通」というはすっごい目標になりにくいんですよ。ある意味、目標を放棄することと同義でもある。それってどういうことかといえば「面白いから生きている」というフォーマットを捨てることであり、それは同時に「自分の人生は一生つまらないものだと確定する」ことでもあります。違いますかー?

 でも、そんなコトする必要あんの?意味あんのかって。最初から自分で詰まらないものという初期設定をしてしまえば、そりゃあ詰まらないですよ。あったりまえですよ。

 ほんでもって、その普通とやらを目指すとどうなるかというと、、、、本気出さずに、適当に流してそこそに〜っていけるか?っていえば、全然そうはならない。どういう動機であれ、そのポジションに立たされたら世間がそれに要求する水準は満たさないとならない。イヤイヤやろうが、好きでやろうが、やらなきゃいけない仕事その他(育児でもなんでも)の絶対量と絶対質は変わらない。だから適当に流して〜なんて余裕ある感じはならない。もしそこで仕事量を減らしたりしていけば今度は経済的に余裕ある感じにはならない。

 だいたいが、「普通で〜」くらいの幼稚な戦略性でいくから、あらゆる局面で割を食ったり、損をしたりする。労働に対する換金率は低くなりがちで、そうなると注ぎ込んでる労力の絶対量は、非普通の連中と遜色ないくらいにハードで過酷だったりするんだけど、リターンが全然違う。非普通の内発的な動機、好きでやってる連中は、やってるだけでリターンあるから精神的な満足度は高いけど、イヤイヤやってたらひたすら疲れるだけだし、最初から展望もなにも考えてないから将来の不安は増えるばかりで鬱になる。天地の差がある。そして、経済的リターンでもおおよそ2倍以上の差がつくでしょう。

 で、そんなに努力しまくって、最高に成功できたとしても、それは「普通」どまりなんですよ。もうトホホじゃないですか。同じやるなら、もうちょい楽しくて、もうちょい割のいいことやんなよ、って思いますよ。何度もいいますが、普通と言ったからといって、楽になれるわけでは全然ないよ。むしろ普通というのは、この世で一番ハードな人生を歩みたいですって言ってるのと同じですよ。

 あのさ、言葉に騙されてはいけませんよ。デートしてて、どこか行きたいとこある?なにか食べたいものある?って女の子に聞くと「どこでもいい」「なんでもいい」って答えるけど、あれを額面通り受け取ったらダメっすよ。その意味するところは「最高に素敵な体験をさせろ」ってことなんだから。弁護士のときも先輩に言われたけど、依頼者が「先生のよろしいようにやってください」って言うのは、「百パーセント勝て」って意味だからなと。同じように「普通でいいです」というのは、いかにも抜いてリラックスした語感があるけど、実体は最悪に悲惨なことになるという意味ですからね。騙されてはいけないよ

 さて、普通を目指して、それだけ多大な苦労をしながらも、死ぬ間際になって「自分の人生だった」という感慨すら持てないわけで、もうどんだけマゾゲーなんだって。

 それにさ、「普通でいいんですよ」ってセリフは、さんざん極道カマしてきた老任侠が言うならサマになるけど、まだ何も始めてないガキンチョが言ってもサマになりませんよ。「女性はね、見て愛でるというか、その美しさを鑑賞するくらいの距離感が一番いいんですよ」とか童貞小僧がノベているくらいの滑稽さがあるよ。

根本構造〜「普通」は自己否定につながる

普通なんか存在しない

 「普通」というのは相対概念です。全体のこのくらいクラスター(集団)があって、そのなかでこの真中の密集してるあたりが「普通」でしょうみたいな感じで、全体があって、他との相対関係で「普通」という概念が出てくる。

 もーね、この時点で、ちょっと頭のいい奴だったら普通なんか目指すべきではないってわかるはず。だって観念的な存在で実体がないんだもん。社会統計学的に示される概念でしかない。つまりこの世に存在しない。仮にそこまで行き着けたとしても、そこには何もない。

 では、観点を変えて「選択肢においては常にマジョリティに従う」という方法ではどうか?これも破綻しますよ。「遠足の帰り道」と僕がよく表現する事柄ですが、帰り道を10人一緒に歩いてて、どっかの角で「ぼくんち、こっちだから」で一人去る。残りの9人は居残りだから9人に従う。次の角でまた一人去けど、居残る。これを続けていくと、最後の角で最後の一人が去って、ひとりぼっちになるだけです。中学出て、一人中卒で板前修行にいったけどマジョリティは高校進学だから高校行きました、大学進学しました、就職しましたっていくんだけど、もう就職くらいの段階でひとりぼっちね。会社選びの段階でバラバラになってるし、入った会社は自分以外は全員40代以上でさらにひとりぼっちとか。そこではマジョリティも、普通も、影も形もないよ。

 普通を目指すってのはそういうことでしょう。ある意味、普通なんか目指せない、目指してやってるうちに、いつの間にか溶けて消えてしまっているようなことです。

パーソナル

 一方、非普通=自分オーガニックなものって、そういう相対関係で出てくるものではないです。他人がどうこうしよう(言おう)が気にしないわけだし、「気にしない」とすら思わない。

 今まで延々書いてきたように、なんによらず切り口やら、起爆剤やらのエッセンスになるのは、非普通の自分パーソナルですけど、「普通」という概念が入ってきた時点で自分性は消えます。なぜなら他者との関係性とか、外部的に自己設定しようとするからです。○君ほどモテるわけでもないし、○さんほど頭良くないし、○さんほど喧嘩が強いわけでもない私は、だからこのあたりかな、みたいな自己規定をするじゃん。そんなことやってたら、自分は出てこないよ。

 「普通」という概念は「自己」を殺す作用があるのだ、と思います。

 なんだかんだこれまで生きてて、これだけ膨大な記憶の蓄積があって、そこに好悪のパターンが生じないわけはないし、ド偏見であろうがなんであろうが好き嫌いが生じないわけはない。別に長いこと生きる必要すらない。3歳児だって好きキライはあるし、「○ちゃんのお気に入り」みたいなものは幼児にだってある。過去の快楽経験記憶というのは、それほどまでに強烈なのだ。それが十数年、何十年と蓄積されていけば、あたかも年月を経た醸造酒のような複雑な味わいを持って当然です。それが自分。

 その多くは無意識領域に押し込められているので自分(意識野)でもわからない。それがこのゲームの味噌ですよね。自分が何に興味を持つのか、自分が何を面白がるのか、燃えるのか、それが自分でも予想できないってところが面白い。いろんな偶然で、山火事の自然発火のように火が着いて、隠された興味や動機が顕在化していく。それは眠れる獅子が起きるような、沼の底に伏している龍が覚醒して天に昇っていくかのような、それはそれはダイナミックで楽しい話です。

 その楽しいプロセスにおいては、「他人」とか「普通」なんて、まるで入る余地はない。というか、そういうものを入れてしまうと一気にぶち壊しになるんですよー。自分が発火する瞬間って、けっこう神秘的なもので、神楽に火をくべて神を降臨させたり、魔法陣をつくって悪魔を召喚するような作業みたいなもので、それをやってる最中に、「普通」とか考えたら、映画館の上映中にいきなり電灯をつけるようなもので、どっチラけてしまう。

 「普通」を考えるのは、その獅子なり龍なりが覚醒したあとの話です。自分の願望なり野望なりが出てきて、さてそれを現実世間で実現しようと思ったら、何をどうすればいいか?という戦略と戦術の立案になり、そのときに世間と自分との距離感や立ち位置を正確に測って、「いきなり○から入ると、ドン引きされるよなー」とか、その段階で「普通」を考えればいいです。

 よし、オーストラリアにいって冒険だあ!って「龍」が目覚めてからです。でも、それをいつ家族に言うんだ?どうやって説明するんだ、会社にはいつ言えばいいんだ?とかね、「普通」との距離感を測定して、うんうん悩むという。


 ということで、まかり間違っても「普通」を目標にしない方がいいと思いますよ。

 「普通」というのは結果概念であって、さんざん暴れて、思いっきりエッジ切って、やりたい放題やりましたってあとに自然と思うもの。自分ではえらい非凡なことをやってるつもりでも、世間は広く、世界はもっと広く、甘ちゃんの自分なんかには想像もつかないような凄絶な半生を過ごしてきた人とかゴロゴロいるのに気づいて、またその人らがいたって普通の市民としてニコニコ暮らしているの見て、だんだん悟ってきて、自分なんか平凡だよなー、全然普通じゃんって心から思えて、人に聴かれても「はは、まあ、普通ですよ」っていう感じ。でも、それは不快でも、後悔でもない。そこにあるのは、「まあ、(自分)らしいわ」って思えるかどうかでしょ。

 だからどこまでいってもパーソナルなんですよね。だって最初からパーソナルな事柄なんだから、パーソナルに終始するのは当然ですよね。

 あるいはこうも言える。リアルに「普通の人」はどうしてるの?といえば、パーソナルな決断と実行をどっかの時点でやるのだと。遠足帰り道の事例でいえば、どっかの角になったら、「じゃあ、僕はこっち行くし」って、敢えて一人ぼっちで皆と違う方向、非普通を選ぶ。それこそが普通であり、10人中9人はそれをやってる。それをやらないと最後に一人取り残されて、10人中の一人だけという、とても普通ではない状態になるってことでしょう。自分で決めて一人になるのと、自分で決めきれないで取り残されて一人になるのと、どっちがいいか?です。


 
そして当然というか、平然というか何というか、時計台の時間が間違っているという。

文責:田村


このエントリーをはてなブックマークに追加

★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのBLOG
★→APLACのFacebook Page
★→漫画や音楽など趣味全開の別館Annexはてなブログ