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Essay 909:今から50年の人生設計
2019年09月04日
写真は、The Rocksにて。ハーバーブリッジの真下の砲台。ルネサンスの絵画みたい。
難化する人生設計
確信とすら思わない確信
ここんとこ「人生設計」というのが異様に難しくなっていると思います。「異様に」です。いい大学いって、固いところに就職して、テキトーな時機に結婚して、子供設けて、マイホーム買って、定年になってリタイアして、孫と遊びながら悠々自適でお迎えを待つ、、、てな感じのが、昭和時代の「人生設計」でありました。
僕は昭和35年(1960)の生まれ(小学校で高度成長を実感し、中学生でオイルショック、20代後半でバブル、30代前半で破裂)なので、そのあたりの感覚がリアリティをもっていた時代を知っています。もう当然「そういうもんだ」という、凄まじいリアリティ。世代が違うとわからないと思うのですが、それはもう、夢とか、願望とか、戦略立案とか、そんな改まって思うようなレベルではなく、「冬になると寒くなるよねー」ってくらい、ごく当たり前の感覚でした。
「そういうもんだリアリティ」というのは、そのくらいの強度のことをいいます。それは確信なんだけど、「確信」という言葉にしてしまうと違和感があるくらいのもの。あなたは、もしかしたら今年の冬は寒くならないかもしれない、それも「暖冬」「温暖化」とかいうぬるいレベルではなく、夏と同等かそれ以上に暑い、年末や正月になっても毎日40度の炎天下になったらどうしよう、なんて悩まないでしょう?ということは、今のあなたは「冬になれば確実に夏よりも寒くなる」と確信してるわけですけど、それを改まって「確信」とは思わない、そのくらいの話です。
そのくらいの強度で、学校・会社・結婚・育児・住宅・退職・老後が一連のセットメニューとしてまあまあ「確信」(とすら思わないくらい)できたわけですので、今から思えばお気楽な時代だったんですよね。
あー、逆にいえば、そんな鉄板の時代背景で、やれロックミュージシャンになるんだとか、司法試験やるんだとか、実現したら実現したで全部おっぽらかしてポンとオーストラリアに行ってしまった僕はなんなんだ?って話ですよね。語れば語るほど、自分の異常性が浮き彫りなってしまうという、はは、どうしたもんか(笑)。
かといって、僕がこういう鉄板設計に懐疑的で、もしかしたら冬の方が暑くなるかもとか思ってたわけじゃないですよ。「こういう時代になるからこうしよう」というのは常にありますけど、ベースになる原理はもっと別にありました。そこまで鉄板にそうだというなら、逆に違うことやってみたくなるとか、他人と同じことをするのがとにかくキライだとかいう資質や心情もあります。でも、やりたくないこと無理にやってるのが人生だとは思えなかったというのが大きいですね。人生設計とかいうけど、そもそもそれ「人生」じゃないしって。やりたいことをやってこそ初めて自分の人生と呼べるのであって、さてそれをどうやって成り立たせていくか?が人生設計だろ、と思う。
外部基準説と内部基準説
この感覚を抽象理論化すると、いわば外部基準説と内部基準説があるようなものですかね。外部基準説というのは、時代/皆がそうするからそうする、それが一番難易度も低いし、成功率も高かろうという外部環境を基準にして設計している方向です。
これに対する内部基準説というのは、自分はこういう人間だからという自分の個性をベースにして設計していく方向です。曹操や信長のように自分が大将になって時代を創世するのが好きって人もいるだろうし、逆にスナフキンや雲のジュウザのようにちょっと世捨て人的な立ち位置で自由を謳歌するのが好きって人もいるだろう。全てにおいて中庸円満を良しとする人もいるだろうし、狷介なほど突出した個性エッジを大事にする人もいるでしょう。それは好き好きで、そこをベースにする発想です。
昭和中期の鉄板時代の良さは、それが鉄板安定で楽だからではなく、それが鉄板だからこそ、外部基準と内部基準が鋭く対立して見えやすかったってところにあると思います。あまりにも鉄板なルートって、考えなくてもいい分楽ではあるけど、同時に詰まらなくもある。
それに鉄板多数であったがゆえに、それはめちゃくちゃ高飛車で権威的でもあって、強烈な反発を生むわけです。今から思うと毎日がNGワードで、「女のくせに」なんてエブリディ会話でしたもん。その種の男尊女卑的、性差絶対主義みたいなのもあった。僕の上の世代(団塊)なんかもっとキツくて、家父長絶対で、親が神のように子供の人生を支配してて、「絶対許さん!」とかやってたわけです。気分は封建主義。それだけ「弾圧」されると人は逆に燃えるもので、親子取っ組み合いの喧嘩やって、襖を蹴り倒したり、障子の桟がバキバキ折れたりやっていた。陰にこもらないで、多くの問題が表面化してドンパチやってたんだから、まあ、いい時代だったんでしょう。井上陽水の初期の「断絶」なんかそのあたりのムカつきがよく表現されてます。ちなみにオイルショック以降くらいかおかしくなって、陰にこもってきて金属バット殺人事件がおきたり、ひいては酒鬼薔薇事件がおきたり、ただの明るいドンパチだったのが、精神病棟の薄暗い廊下みたいになっていった。あのあたりから狂ってきた。
それに問答無用に強制されるほど、当時の社会や大人達が清浄で高潔だったかというと、今と同じようにクソだったと思う。それが証拠に、その当時の常識的価値観は今になったらほとんどひっくり返されてますからね。女の人生は主婦&母以外には存在しないなんて命題、どうよ?です。身障者に対して平気で片端呼ばわりする価値観とかさ、親(上の人間)に対して意見をいうだけでもう犯罪者扱いで絶対服従以外に選択肢がないとか、結婚しないだけで(女24歳、男30歳までに)もう人間としてすごい欠陥がある下級市民扱いされるとか、やっぱ間違ってたんだよね。だから反発した。
反発できるから、内部基準説が強烈に意識されるわけです。親父や大人はクソだけど、じゃあ俺はどうすんの?という問いかけが常にあったし、それを表明することを良しとされたし、てか表明しない方がダメなくらいだし、社会の圧力が不当に強かった分、自我の自立もしやすかったという皮肉な構造があったと思います。実際、あの頃は、ギター一本抱えて東京に出てきたって青年(長渕剛みたいな)はありふれた存在だったし、メインカルチャーが強烈な分、サブカルチャーも対抗的に栄えたし、結構誰の居場所もあちこちにあったわけです。
現在の難しさ〜外部と内部がゴッチャ
これに対して今が難しいのは、まず鉄板が無くなった点です。これさえやってりゃ大丈夫というのが消えたか、あるいは心細げに点滅してるような状態。だから死ぬまでサバイブするだけでもう大事業になってしまっている。なにもかもがアテにならない時代だからこそ、「自分のやりたいこと」って発想がメインストリームにすら出てきている。進路指導なんかも、高級官僚や大企業に入れば一生安泰だぜって自信をもって太鼓判押せなくなってるわけでしょ。じゃあどうすんの?というと、明確な処方箋を書けなくなっているから、自分の好きな〜的な内部基準が出てきていると。でも、外部基準的世界で、「自分の好きな」とか言われても、質問の丸投げというか、答になってない。だから皆さん悩むのでしょう。
つまり、僕がいいたいのは、現在において何が難しいのか?といえば、過去のように外部基準と内部基準が明確に対立してるのではなく、外部と内部が渾然一体となってグチャグチャになっているところが難しい。
もう将来不安だから、世間様の言うようにやりたいですって言っても、世間様は「君の好きなようにやればいいよ」って答えるわけで、世間様もひどいですよね。答えてくれない、てか答える能力がない。じゃあどうすんの?好きなこととか振られたって、そんなもん分かるかい!ってことでしょう。人間心理の不思議というか、面白いもので、自分のやりたいことって肯定されるとわからなくなっちゃうもんで、むしろ頭ごなしに否定された方がバカヤロー的に自覚しやすいです。
ということで、その昔は、世間に屈服して家畜になるか?自己を貫いて野垂れ死にするか?というマンガ的に分かりやすい二項対立のなか、人生設計もわりと分かりやすかった。そして当時の人々の「あるある」パターンでいえば、十代から二十代に反発して強烈な内部基準で突っ走って、30代前半くらいに疲れて、外部鉄板に合流ってのが多かったと思います。まあ、時期はそれぞれだろうけど(就活時屈服も多いし)、それでも「俺の青春は終わった」(「いちご白書をもう一度」的な)とか、苦い挫折を味わうんだけど、その人なりに「反抗と燃焼と闘争の季節」を過ごし、それがある意味では誇りや支えになったりもした。
かつての糸井重里の名喝破「日本のお父さんは、みんな昔ワルだった」というのがありますが、内部基準で突っ走った「反抗期」みたい時期は、やはりそれなりに人生のモニュメントや金字塔になっていった。そして、そんなことができるくらい鉄板外部は強くて、エリートにはなれないまでも、メシ食うくらいだったらいくらでも就職できたしね。ある意味、そこが安泰だったからこそ(滑り止めが強力だったからこそ)、思う存分暴れられたってのはあったのかもしれないです。
評論してる場合ではない件
などと、評論家みたいなことを言ってる場合でもないのですよ。APLaCの仕事柄、「この先どうやっていけばいいの?」的な会話は年がら年中ありますし、はた見てて、「あなた、一番大事なことから目を背けているでしょ?」ってのがわかる場合もあります。考えたくないこと、考えてもツライこと、答が見えないこと、でも考えないとヤバいこと、、に対して、無かったことみたいにする心理ってあるけど、30歳過ぎてくるとそうも言ってられないでしょ?って。全部見えてて、その悲惨かもしれない結末も見据えて、その上で腹括ってるんだったら全然OKだけど、わからないから無かったことにするのはまずい。時は残酷で、着々と不利になるし、手遅れにもなる。
でも、正面から対峙したとしても「じゃあどうすればいいの?→わからない」でいきなり詰まってしまう。走らなきゃいけないのはわかるんだけど、じゃ東西南北どっちに向かって走ればいいの?というとわからない。そこが問題。
ここで、「それは君次第だろ?」って振ってしまえば簡単なんだけど、それもなんかズルい気もするんですよね。結局何も言ってないに等しいっていうか、「逃げたらあかん」的な問題点の指摘なんか、どんな馬鹿にでも出来るのであって、それだけ言い放って終わりにしてしまっても生産性がないよって気がします。
ということで、以下は、そういう文脈のなかで実際の相談案件で、FBのメッセンジャーで僕がばーっと書いたものです。あなたはこうすべき!とか特定の何かを言うほどの根拠も資料もないからそれは言わないけど、それでも「僕だったらこうするけどね」って大まかな案は示します。ある程度は具体的な話をしないと、先に進まないもんね。
これは実際にも自分自身が(過去&現在)でもそう考えて、日々実行しようと思ってることでもあります。同じ時代、同じ未来を共有しているんだから、戦略も似てくるでしょうし、パクれるものはパクってもらって構わないし。
これから50年の戦略
2つの座標軸
上に書いたことともろに重複するけど、この先死ぬまで自分はどうやって生きていけばいいのか立案する場合、(1)外部環境の未来予想:この先50年後の日本や世界の展望が必要。未来にこうなるだろうから、だから今のうちにこうしておくって戦略が出てくる。ここがいい加減だと、必死こいて努力してたどり着いても何にもならないって悲惨な話になる。具体的には日本の年金システム、それ以上に医療や介護システムの疲弊の方がより切実だと思われるけど、それがどこまで続くか。続かなくなっていったらどいう世の中になっていくのか?またコスパのよい稼ぎ方として、高学歴&正社員システムの賞味期限や適用範囲は正確にあと何年くらいか(業種によって違うだろうけど)?そのあたり正確な認識なくして正確な対応もできませんから、外部環境の査定は生死に関わるくらい大事だと思います。
(2)自分認識:自分はどういう人なの、どんな感じでやっていきたいの?という自分論。自分の資質、特性は、ポテンシャル(潜在的)な伸びしろや引き出しも含めて、徹底的に把握すべき。マトリクス的に大きなシステムに抱かれて夢見るように安心していたいというタイプなのか、それとも自由を尊び、例え路傍で野垂れ死にしようとも鎖で繋がれるのはイヤだというタイプなのか。
そして、外部環境予想× 自己特性が、基本コンセプトになっていくと思われます。こういうタイプの人間が、こういう時代に生きるなら、こうすべきって感じね。
僕の場合は1(環境査定)はけっこうヤバい派で、2(自己査定)は自由野垂れ死に派だったから、バブルの後始末もろくすっぽできない日本に早々に見切りをつけて、国外に活路を見出した。また海外でやっていけるだけのノウハウの蓄積は、そのまま国内でも通用するだろうと思ったし、今でも思ってる。さらに、どういう世の中になってもいいように体力はつけないとと思うし、メンタル的にもどんな環境にも適応できるように強くあらねばと思う。また何が役に立つかわからんのでどんな雑学、端切れ知識でも得ようと思う。
要するに全てのスキルと人間力を底上げしないとダメ。真剣に実行に移そうとすればするほど、全方向の底上げが必要だと痛感させられます。だけど、そういう一般論にしちゃうと、じゃあ今何をするの?というブレイクダウンでが出来ない。
そこで遠距離目的(超長期目標)と抽象戦略を、「では今日何をなすべきか」の具体的な戦術に落とし込んでいく部分がいる。大きなゴロンとした肉のカタマリみたいなものを、ここはロース、ここはもも肉みたいにスパスパと切っていって、さらに薄切り肉にしたりステーキ用に切り分けたりという、小さなタスクに分化させていく発想とスキルが必要になるでしょう。
一方では、並行して多くのタスクを同時に処理する技術も出てきます。独立自営するときのための布石は着々と打ちつつ、さらに長期視点での投資もしつつ(健康とか、語学とか、護身術とか、教養や審美眼とか)、直近的には稼げるときにしっかり稼ぐためのサラリーマン雇用ノウハウ、、などなど。最低でも2つ3つ、多いときは10以上のプロジェクトを同時に走らせること。
では、ゴロンとした大きなカタマリをいかに細かく腑分けしていくかです。
外部環境
日本もそうだし、他の先進国も基本似たようなものだが、ぱっとしないでしょう。必死で誤魔化しているけど、もう誤魔化しきれなくなってる。今の時点でそうなら、今から30年、50年後はどうなってるか?考えたくないことだから「大問題だ」というだけで、皆詰めてあんまり語ってないような気がするんだけど、こんな調子で行けば、年金も医療費もろくすっぽ出ないって話になるでしょう。
もっかい「おさらい」しますと、国税庁のページによると、今日本の国家予算は100兆超えてます。どんどん増えて来年は104兆?うち税収は60兆ちょい、その他の収入を含めて70兆にも満たない。あとは国債(借金)で、30兆以上。100兆強の使いみちは、まず「借金の返済(国債費)」で24兆くらい。30兆以上借りて24兆返している(利払いとか)で、借金はどんどん増える。ま、それはさておき、その他の使途で一番大きいのが社会保障費(医療、介護、年金など)で35兆もある。その他の使途は、防衛費、公共事業、文教費などいずれも5-7兆規模であり、もう圧倒的に社会保障費が多い。借金ではない歳入70兆のうち35兆円は社会保障関係に回してるとするなら、もう半分は医療費その他に消えている勘定になる。
あと地方交付税交付金ってのがドーンと16兆くらいあって、これが防衛+公共事業+教育の合算くらいあるのだが、こういう仕分けをしてしまうとわかりにくい。地方自治体に対してヘルプ仕送りをしてるようなものなんだけど、じゃあ、地方自治体はそれを何に使っているのかってのがわからないと全体の社会福祉関係がいくらかかるのが見えない。ただ、まあ地方においても社会保障費の圧迫は厳しいだろうから、同じような比率(約半分)で使ってるとすれば、8兆くらいは地方自治体の医療費その他に使われているとします(正確には個々の自治体によって違うけど)。合算するなら70兆のうちの43兆くらいが医療年金その他だとします。
もうこの時点でハッキリ見えてきますよね。日本国がどうなってるかというと、まず借金漬けになっている。借りては返すけど毎年積み残しが増える。これが一つ。もう一つは、圧倒的大部分が医療などの社会保障関係です。半分以上これ。つまり借金まみれになりながら、必死に医療とか年金とか回しているのが今の国家の実像でしょう。少なくとも数字的なそうでしょ。
兆とかいうからピンとこないけど、これを月収レベルに置き換えれば、月収70万円の家庭で、43万円を治療費とか介護費に使ってるわけですよ。なんか、そんな家計ちょっと想像できないくらいなんだけど、国家レベルではそう。これに比べれば教育費5.5万、光熱や生活整備(公共事業)7万、家のセキュリティ(防衛費、セコム代とか)5万(ちょい高い気がするけど)程度に過ぎない。
単純に予算だけで言うなら、日本国の実体はなにか?と言われれば「老人と病人のサポート団体」でしょう。この数値がリアリティを持つのは、国民が政府に求めることも上位には福祉保障関係が来ている点。経済対策よりも上位にくる。憲法だの戦争だのはずっと下。生活庶民の皆にとっては、そんな話はどうでもいいんですわ。リアルに生きていれば、徐々にのしかかってくる親の介護や医療費や老後資金が最大の関心事になって不思議ではないでしょ?だから政治のニュースでもなんでも、朝から晩までこれ(医療介護年金)ばっかやっててもいいくらいで、どっかの国と険悪になってますとか、僕にはどうでもいい話題そらしにしか見えないんですけどね。
さてこれが将来的にどうなるのか?といえば、「今後50年」の1年目にして既にコレですからね(笑)。この先「いいこと」があるかといえば、少子高齢化はもっとひどくなるだろうし、税収がどかんと上がるほどウハウハ儲かるという見込みも乏しい。人口構成でいえば、70歳前後が人口ピーク(人数的に一番多い)にきてるから、介護その他で真剣に金がかかるエリアに突入するのにあと5-10年くらいで、それから20年くらいして大体その世代が鬼籍に入って、人口曲線がちょいマトモになるのに20-30年くらいかな。ただその頃でも少子化の影響は大きいから、上の世代が下の世代よりも多いという状況がなくなる(大体どの年齢も似たような数になる)には、そうだなー今の25歳が75歳になるくらいだから、やっぱあと50年くらいは人口的にしんどい時代が続くってことですかね。
ということはですね、あと10年内外で、国の金勘定の大部分を占める医療介護その他がかなりヤバい感じになり、その後20年くらい続く。その後も一段落はするけど、それでも基本しんどい時期が続く。50年設計で見る場合、まあ、普通に思うのは、どっかで結構ムチャクチャになるだろうなーってことです。それがドカーンと破綻するか、じわじわと背中から血を抜かれてミイラ化するのか、そのパターンはわからないけど、ある時点から先は正常に機能しにくくなるだろうなーってのは、当然予想しておくべきではないでしょうか。
ならば、今、巷で言ってるような2000万足りないとかいうレベルではなく(あれはちゃんと年金が出る=それも結構多く=という前提だから)、もうどうしようもなく足りないってことでしょう。これをリアルに翻訳すれば、その人の資産や人間関係にもよりますが、医療機関で治療を受けられず、ほったらかしで死んでしまうとか、アテにしてた年金が出ず、あるいはかなり減らされ、あるいは出ていてもなお生活に困窮し、その挙げ句に自殺するとか、餓死同然の栄養失調の孤独死とか、そういう話が増えてくるということでしょう。
ではそうなった場合、どうサバイブするのか、どういう世の中になっていくのか?といえば、餓死とかいうはるか手前の段階で、社会そのものが秩序を失っていく可能性はある。前回のエッセイで書いたように、とりあえず沈みゆく船で醜い争いをするように権力層がなりふりかまわず私欲を追求し、それが社会のスタンダードみたいになって、貧富の格差は広がり、固定化される。これは歴史や現在の第三世界などを見ればわかるように、異様に貧富の格差が広がり、汚職や不正義が蔓延するから、皆もやってらんなくなって生産性も下がり、その日暮らしに追われ、先行投資もなにもしないから経済回復する見込みが減り、貧困層(90%以上の大多数)にはそれなりの秩序(地元のマフィア的な)が出来て、そこで必死に暮らすって感じ?まあ、日本がそこまでいくかどうかはシリアスなシュミレが必要だと思うけど(僕は別種の新秩序ができると思うけど)。
さて、個人レベルでこれをどう乗り切るか?ですが、誰もが思いつくのが、金でクリア、権力でクリアです。めちゃくちゃお金を貯めて資産を蓄えればいいんだとか、権力をゲットして支配層にいくんだとか、いうことです。しかし、50年スパンで考えると、これも結構成功率が低い。そもそもちょっとやそっと儲けたくらいではダメですし、資産(預貯金、不動産)にしたって、向こう半世紀に一回も恐慌レベルの出来事が起きないとも言えない。起きたらドボンですよね。それに権力持ってないと、世が乱れたら平気で国にむしられます。没収とかさ。本気で権力濫用したら神のように何でも出来ます。脱税冤罪かけて資産差し押さえて、膨大な重加算税をかければいいだけですしねー。冤罪OKだったら、痴漢だろうが、殺人だろうが勝手にでっち上げて逮捕して一生刑務所も、死刑にすらできます。事実世界史をみれば、どの国でもそのくらいやってますから。「世が乱れる」ってそういうことです。付言すれば、日本で権力っていっても、突き詰めればアメリカの植民地の番頭やら、虎の威を借る狐になるのは誰か?レベルで、まあ情けないっちゃ情けない話です。
精密な観察と情報収集
それがどの時点にどれだけそうなっているかは、注意深く観察を続けるしかない。観察っつっても、ダメメディアの忖度(ビビリ)報道やらスピン(話題そらし)報道なんか見てても意味ないです。見てると騙されるので、一切見ないくらいで丁度いいです。読むなら、その問題を自分のライフワーク的に追いかけているフリーライターの記事やNPOのサイトなどを見たほうがいい。こういうのって横断的に浅く読んでも基礎知識がないから全然残らない。ある程度のボリュームでしっかり掘り下げて書いてもらったほうが理解が深いし記憶に残る。それと、自分で幾つも観測視点を設定することでしょう。だーれも話題にしてない地味な事実が役に立ちます。例えば、自分が住んでる市町村の過去からの人口数がどれだけ減ってるのか、減り方のカーブはどうか、年齢構成はどう変化しているか。そしてそれが行政に反映されるとして、地方税や健康保険料の値上がりカーブはどうなってるか?ですね。このあたりの地味に取られる生活負担、地方税(特に年収関係なく取られる均等割の額)、健康保険の掛け金、国民年金、介護保険、その他の値上がり率を過去からずっと眺めてみると将来どうなるかもまた見える。同時に細かな改訂(わかりにくくカムフラージュされているけど実損になるようなものが多い)。あるいは薬価基準や医療点数の改訂がよく行われるけど、その度にどうなっているのかチェックするとか。
ここもいい出したら一本書けるくらいあるけど、大事なのは結論部分は他人に委ねないこと。「今○○という事態が進行中」とかいう結論は自分で出すことです。この部分はいわば書いてる人の主観で、多くの場合は、同じ数字をもとに真逆の結論だって言うことができるもんです。つまりは、観測するにあたっては、自分独自の視点で自分なりに考えることです。他人の言うこと聞いてると(特にメディアは売るために誇張するから)、大体失敗します。
僕がオーストラリアを考えたのも、オーストラリアの年金システムは掛け金システムではなく、且つ永住権取得だけで(市民権=国籍を得なくても)年金受給権があるから、永住権を取っただけで、あとは何も払わなくても日本の国民年金程度はもらえるって部分がわりと大きかったです。これだけで1億くらいは得するんじゃない?って。だけど、そのことに触れていたメディアは僕の知る限り一つもなかったですよ(もっと掘り下げた書籍で知った)。
これら「現在のヤバ度」を自分なりに正確に査定し、将来がどうなるかを考えていくと、そこそこ対策も出てくるでしょう。もういっそのこと国を変える、もっと安定的な環境で人生後半を過ごすというのがあって、それならば石にかじりついても永住権を取る。あるいは永住権ではないけど、どっか国外拠点を得ること、一時避難であれ、なんらかのビジネス拠点にするとか。はたまた、国内でも、そういうヤバい度が低いエリアはどこか、そこに拠点を設けられないか。
まあ、何をやるにせよ、一昔前の「勉強さえしていれば」「会社に服従していれば」というワンポイント戦略でどうなるもんでもないです。いずれにしても並大抵の努力ではクリアできないんだけど、でもやるっきゃないっしょ?ってことで、じゃあ何をすべきか、です。
20〜30歳のWH、留学生の場合
そこは人それぞれではあるんだけど、例えばいま30歳前後くらいでワーホリに来ている人に対して言うならば、★ジャパレスをある程度やりこなしておく
とりあえず卑近なレベルで。寿司ロールが巻けるとか、天ぷら揚げられるとか、店舗マネージできるとか。ある程度の経験スキルがあると職も見つけやすい。オーストラリアで、あるいは世界中にジャパレスはあるので、将来オーストラリア・世界を舞台にする場合、金がなくなったときジャパレスはATM的な予備手段になりうる。だから一定レベルに達するまでやっておくのは、当座の資金稼ぎとは別に長期的な貯金にもなる。★せっかく英語圏に来てるんだから英語を真剣にモノにする。
国際的な仕事をする場合、最低でもIELTS7以上、ほんとは8以上の実力がないと話にならないという現実があるので、それはやっておいて損はない。このレベルになると2年以上根詰めてやらないと出来ないけど、でもやっておくと将来への先行投資になる。と同時に、日本に帰った場合も、ますます外国人のお金頼みになっていく将来で言語力が高いのはサバイバル的にはポイントが高い(場合もある)。あるいは英語の教授職という道もある(例えば意欲的な高齢者層へのマンツーマン個人レッスンとか)。就職機会のみならず、日本にいる外国人から情報を得たり、起業機会をゲットしたりするには、最低限不自由なく英語が出来ないと話にならん。★バッパー環境に慣れる
ユースホステルなどのバッパー(Backpakcers Accommodation)的な環境で楽しくやれるようになるまでもっていくのは、将来的な投資にもなる。なぜなら、見知らぬ国や環境に行った場合、もっともカジュアルにその国に来てる外国人(先輩)と知り合う拠点がバッパーであるから。彼らから教えてもらったり、仕事のゲット方法を知ったり、その環境の良し悪しをリアルに事ができる。ホテルだと他の客との接点がないから、情報を得にくい。また異民族環境に慣れておくのは、将来の国際職場は当然そうなっているだろうから、その意味でも有効である。
★帰国方面
日本がヤバいといっても、いきなりめちゃくちゃになるわけないし、昭和鉄板方程式の賞味期限は業界によって違う。また最近では、超保守的な伝統企業においても内部カルチャーがだいぶ風通しが良くなってきているという直近の内部情報も頂いてます。金とスキル・経験はあって困ることはないので、年齢や立場から逆算してもっとも効率的に稼げる方向。つまり日本で給与の高い安定的な仕事をゲットして、稼げるうちに稼いでおくという方法論はありうる。このためには、例えばTOEICでも950くらいとっておいて就活有利にしておこうとか、業界分析とか細かくやって潜り込めるエリアを探すとか。これから就活って人によく言うけど、もし将来的にフリーランスや起業をしようと思ったら、世間的には「どこの馬の骨?」「胡散臭い人」というのが出発点になり、潜在顧客から厳しく前歴をチェックされるのは覚悟すべき。その際、金看板的なものを持っていると導入部は楽ではある。これからの時代(既にそうなっているとは思うが)、金看板的な職歴は、一生安泰になるためではなく、先に看板だけゲットしておくという「腰掛け」「行きがけの駄賃」的な捉え方も出来ると思います。
例えば将来的に仲間と自給自足村をやるんだという野心があるとして、そのときに自作農産物や加工品を流通に乗せてもらったり、メディアで取材してもらうためだけに、先に三井物産に入っておくとか、そういう感じね。
★海外方面
と同時に、オーストラリアあるいは他国に永住する方法を調べ、あるいは他国で職歴をつけてステップボードにする可能性はあるかどうかを調べてみる。もっともどこであれ最終的には「運」の要素がモノをいう。だが、しかし、それは何をするにおいても同じこと。運を引き寄せる正当な努力とその継続でしかない。どこの国であれ、そんなに簡単に永住資格が取れるわけがないし、簡単に取れてしまったらむしろその後で苦労する。挫折の連続で七転び八起きくらいの方がちょうどよい。なぜなら、その間にその国で生計を立てていく難しさや楽しさ、ノウハウを学ぶから。これはどの時点で永住権を取るかに関わりなく、必ず履修しなければならないステップ。「永住権10年戦争」と僕はよくいうけど、何によらず10年スパンで攻略するくらいでないと一定以上のレベルの山を落とせない。10年といっても、50年あったら5回は戦える(遊べる)わけだし、そんなに簡単に達成してしまったら、40代以降にやることが無くなってしまって、中年期(更年期)鬱になるぞ。何歳になっても、ぶんぶん刀振り回して戦場を駆け巡ってるくらいの方が飽きが来なくて良いのだ。WH世代には想像つかないかもしれないが、40代以降になると、生活がどうのとかいう以上に「ネタ切れ地獄」が待ってますので。
それだけ腰を落ち着けて攻略するのだから、基本的にその国やその町が大好きでないと続かない。最終的にダメだったとしても数年間にわたってそこで生活出来たことが一生の宝物になるくらい好きかどうかは大事なこと。
そのためにも、世界のどこが自分にとってナイスな感じなのかを取材するために、数年かけて各国WHをやったり、世界一周やったりするのもアリでしょう。
タンポポの種みたいに風に吹かれて飛んでいったら、どっかで恋に落ちて、そこに永住ってことも無いわけではない(てかよくある)。
★国内→海外
オーストラリアで永住権を取っている人々を見ても、日本国内である程度の学歴・スキル・キャリアを積上げそれがベースになっている人が多い。僕の場合は、時期が早くて楽だったこともあるが(94年)、弁護士経験6年をネタにして一番最初に来てから半年以内に申請できている。他にも、歯科医、看護師、一級建築士、薬剤師、一部上場の大企業(東芝とか)勤務、現場手に職系では、建築内装系、ガス配管系、調理系など。また、最終的には結婚永住の形になっているけど、出会えるところに行くためにそのスキルが役に立ってるケースも多い。これらはそれだけ出来たら日本で不自由なくやっていけるだけの職歴資産であり、それを修行している時期には別に海外とか夢にも思っていなかった場合も多い(僕もそう)。ある程度カタチになるだけのスキル資産があると、それなりに「ツブシがきく」という一例とも言える。
★海外→海外→海外
各国渡り歩くパターンであるが、最初は旅行者やWH・留学生として行くうちに、徐々に現地の仕事を得てキャリアをつけていく。そしてその職歴をもとにまた他国で働き、、とやっていくうちに、今度は海外転職的に渡り歩くようになり、どっかでパーマネントの機会を得るというパターン。ゼネラル〜生活力や人間力の底上げ
WHなどに限定せず誰にでも適用しうる対策としては、まあ無限にあるのだけど、例えば、、、、自分の生息領域の拡大
例えば、どんな環境でもハッピーになれるように、今までの自分だったらNGだった環境にちょっとづつトライして、自分の「生息エリア」を広げる。例えばあまり馴染みのないヤンキー的現場に行ってみるとか、肉体労働系をやってみるとか、逆にエリート系、書斎系、オタク系もやってみるとか。超都会の非人間的な環境にも慣れ、超ド田舎の環境にも慣れ、同一民族のウザさにも慣れ、異民族の喧騒にも慣れ、年功序列の封建社会にも慣れ、血で血を洗うような実力主義にも慣れ、、ってこと。どんな環境でもやっていける自分にすること。
僕自身も振り返れば領土拡大闘争みたいなもので、中高時代は読書の鬼でもあり音楽リスナーという書斎派的だったから、逆に柔道部に入って段位取ったり。バリバリのヘヴィメタルのギター弾きながらも司法試験やって、合格して弁護士になったら、今度は「日本の全業種制覇」みたいな感じで業界外部の連中とせっせとつきあって、それがすごい肥やしになってます。オーストラリアに来たのは、これまで海外など全く興味がなく、自分のなかでは暗黒大陸になっていたから。ここを制覇したら一気に自分の領土が倍増するなーと、そこが原点です。できるだけ馴染みのないことに挑戦しないと領土は広がらないですから。
50代後半になって、思い立ったように、若いワーホリさん達と一緒にクリーングの仕事をしたり、コールズでネパール人達とトロリー転がしたり、今はデリバリーやってるのも、一種の領土拡大とテコ入れです。オーストラリアだって年金出るけど(67歳だったかな)、大した額でもないし、死ぬまで働くのは当然の前提(やるなと言われても働きたいしね)。また日本の場合は、もう既成事実化しつつあるけど、これも死ぬまで働く方向にいきつつあるし、またその年になったら現場仕事(交通誘導員とか)がメインになる。体力仕事になる。いよいよとなってからやるのはしんどいし、そもそも未経験すぎて採用されないかもしれないし。だったら先取りしてガンガンやって慣れておく。こちらの場合、職歴は履歴書で大きな意味をもつからポイントにもなる。だったらやるべ、ってことでやってます。
それはメンタル的にも意味あって、年取るにしたがって自分のなかのくだらないプライドが自分の行動を制限する(仮にも○○までいった俺がそんなこと出来るか的な)。それで行き詰まって自殺とかも多いし(詐欺にひっかかるのもこの手合い)、もうそんなクソプライド、早めに木っ端微塵にぶっ壊しておいた方がいいです。もともと自分にはそういう要素は少ないとは思っていたけど、ゼロではないだろうから、この際徹底的に潰して地ならししておく。ま、「大した人間でもないくせに、何カッコつけてんだ、てめえ」って常に自分に言うべし、です。なんでもやりまっせ〜、ええ仕事しまっせ〜です。それにやってみたら、これがかなり新鮮だし、面白いし、意外とストレスかからないし。
ほんと、年を取るほどアグレッシブに、攻撃的になるべき。その方が楽しいし、人生経験増えてるんだから若いときよりも上手に攻撃的になれるのも事実。「もうトシだからとか」本気でそう思ってなくても、それを口にするだけで、本当に老けるのが早くなるような気もする。ヤバいんですよ、死ぬまで働くなら身体が資本なんだから、老けてる場合じゃないんですよ。80になっても、元気があり余って、シュッシュ!とかいってシャドーボクシングするくらいでなきゃ。「トシ」をなにかの言い訳にしたら死刑ね(笑)。
★快楽資産
これはもう事あるごとに言ってますけど、「これをやると楽しい」「死ぬ前にもう一度○をしないと死んでも死にきれない」くらいに好きなことを出来るだけたくさん増やしておくこと。なぜって生き甲斐とかハッピーというのは、快楽記憶の質量に比例すると思うもん。楽しいことが一個しかなかったら(競馬で万馬券当てるとか)、もうそれにしがみつくしかないんだけど、あれも好き、これも楽しいってぞろぞろ山程あったら、そうそうは不幸にならんです。
その意味で、新しい味覚というか、新しい楽しさの発見、あるいは忘れかけていた楽しさの再発見(小学生の頃に基地を作ってた楽しさとか)は、かなり重要な部分であり、将来の幸福にダイレクトに直結する大きな資産になるでしょう。
これも雑誌とかテレビとかに教えてもらってやってたらダメっす。自分で発見するところに意味がある。そして自分で発見するためには、「あ、俺、今けっこう楽しいかも」って自分の感覚に鋭敏になる必要があります。けっこう自分の感覚ってわからないですからね。本当は妙にウキウキしてて楽しんだけど、なんとなく「つまらない」と自分で思い込んでる場合とかあるんですよ。
ほんの数秒なんだけど、この時間が好きとか、耳を澄ませて(心を研ぎ澄ませて)みると、意外と好きな時間とかスチュとかありますよ。僕は小学校の頃、数ヶ月くらい耳鼻科に通ってたときがあって、住宅街のなかにある古いお家の耳鼻科で、心地よく薄暗くて、まずその薄暗さが心安らぐ感じで良かった。いつも誰もいなくて、初老の女医さんが診てくれて、古いお家でおばあちゃんと二人きり状況。身近におばあちゃんがいなかったんで、なんかおばあちゃんちに遊びにいくような、甘酸っぱい感じが好きでしたね。最後にカウンターのところで、お薬ねっていって、シートになってる錠薬をハサミで丁寧に切ってくれるんだけど、そのハサミで切ってくれる時間がなんかすごい好きで、なにがそんなに好きなのか当時も今もわからないんだけど、でも心にしっとり染み込むような心地よさがありました。
そんなのいっぱいあるでしょ?温泉いったときに、深夜に誰もいない夜風呂入るときとか、脱衣場の大きなガラス戸をガラガラって開けるときのちょっと湿った音とか、風呂場にコーンと絶妙にエコーがかかった桶の音の心地よさとか、うっとりするよ。そういう気持ちいいなって思う瞬間をピックアップして、記憶にとどめておくのは割と子供の頃から得意だったのかもしれません。
僕が、わりとメンタル的に強い、のかな、あんまり落ち込んだり悩んだりしないのは、そういう快楽ストックがたくさんあるからだと思う。普通に生きてるだけで、「あ、これ、いいよね」っていい気持ちになれるポイントが沢山あるので、その都度、ほんのちょっとだけど癒やされるし、勇気づけられるし、小刻みに回復するからだと思います。
ということで、快楽ストックを沢山見つけて貯めておくのは、お金を稼いで貯めておく以上に人生レベルで価値があると思います。だってお金は使えばなくなるけど、快楽ストックはなんぼ味わっても減らないし、繰り返されることでさらに増強されたりするから、結局は得でしょ?
ワーホリでもラウンドでも、海外一般でも、バイトでもなんでも、そういう「あ、いい!」って思うポイントの取材活動だと思ってたらいいと思います。実際、日本に住んでるんだけど、ことあるごとに昔住んでたシドニーに旅行する人はけっこういて、だからそういう人は「快楽資産」を持ってるんですよね。あそこに行けば元気になれる、いい気分になれるって場所を持ってる。それは大きいですよ。その意味では永住権なんか取らなくても、ときどきつまみ食いに帰ればいいやってのもアリです。
以上は直近生活でのポイントですが、もっと長期的に考えるならば、、、
超長期視点
★国家システムの機能不全
超未来的にめっちゃくちゃ環境になった場合(国がほとんど破綻して機能しなくなって、北斗の拳の世界や、戦国時代みたいになっちゃったとか)、この場合、現在のシステムがほぼ全く頼れなくなるので、場合によっては自給自足的にやっていかねばならないケースもありうる。あるいは国システムは一応あるのだけど、過酷な重税と取り立ててで、「生かさず殺さず」的に苦しめられるだけって場合もありうる。その場合は、そういう侵襲的なシステムから国内逃避するという観点もあるでしょう。
場所的に避難するのと同時に、法的制度的にクリアする方法もあるので、面倒くさい規制を徹底的に調べ抜いて、どういう申請をすると良いかなど知識的に武装する必要もありますな。その観点から、これといってやりたい就職がなかったら、将来における国家収奪への闘争準備として、総務部とか年金や保険計算をする部局を志望したり、暇な時間に勉強するなら社会保険労務士にチャレンジしたり、後日の備えにするのと同時に、あわよくば起業の基礎にするとか。法学部出てたら(最低限の素養があれば)比較的簡単に取れる行政書士とか。
★自給自足ライフスタイルの下調べ
何が必要かといえば、まず生きていくスキルで、生活インフラの構築補修をする技術知識。例えば飲める水にするとか配水、発電や配電、放置空家を安く借り受けて破損箇所の補修など基礎の建築スキル、オンボロ自動車を直して使うことや、衛星回線でネットするための基礎技術、どっかで耕作するための基礎土壌知識やら栽培知識、集団でやっていくための人間関係ノウハウ、また昔の野盗のように荒らし回る連中も出てくるだろうから、そのための自衛手段。★地方へ注目
より緻密に考えれば、一足飛びに全国的にそんなにムチャクチャになるわけないので、まだ正常に機能しているエリア、かなり危なくなってるエリア、もうダメエリアなどグラデーションがあるはずで、早い段階(すでに現在)でもダメっぽくなってるエリアは、そこの市町村など自治体がかなり真剣に対策を講じるだろうし、必要に迫られて従来の枠にとらわれずにフレキシブルに頑張ってるところもある。例えば、京都府京丹後市、北海道中頓別町、兵庫県養父市、鹿児島県与論町などではUberシステムを採用し、住民のボランティアでタクシーやバス代わりに住民相互の乗り合いを実施しています。ライドシェアは過疎地を救う? 税金投入できない中で何をすべきか(ビジネスIT誌、2018年7月31日、高田泰氏の記事)。これなんか典型的な例だけど、今までの概念だと、地方交付税をもらって赤字路線バスを必死に継続するとかそのくらいしかできない。タクシー会社を誘致しても過疎すぎて儲からないからどこも来ないし、高い。じゃあ、点在する住民(特にお年寄り)は交通手段もないまま孤立するのか?金がなかったら死ぬしか無いのか?という切羽詰まった状況で、ウーバー的なライドシェアシステム(アプリも利用)で、有料ではあるがタクシーよりも遥かに安い価格で、住民ボランティアが車を出すという試みです。
これは日本の未来図の一つのカタチだと思います。従来の国家システムでは回らなくなったらどうするのか?、だからといって座して死を待つばかりではなく、必要があれば新しいシステムをどんどん開発するところもあるわけです。そのあたりは注目すべきだと思いますね。
経済危機でワヤクチャになっていたギリシャでは、追い詰められたギリシアの地方(Volo市)で、ギリシアの通貨(ドラクマ)ではなく、その地域だけで通じる新しい貨幣を作ったというニュースがありました。その後どうなったのかな?というと、継続し、広がっているようです。New Money Meets the Cost of Change: How Local Currencies Save Economies and Communities, and Help them Flourish。確かに地域生活の現実性を考えれば、国際取引されるようなメジャー通貨よりも、自分らの通貨の方が合理性あるんですよね。だって、どっかのヘッジファンドがどうしたこうしたで通貨価値が上がったり下がったり、同じ労働をしてても大損したりしてたら、いい加減にしろっていいたくなるでしょう。When Elorza And Other Cities Introduced Their Local Currency To The Worldによると、この動きは世界に広がっていて、ベネズエラのエロザ、イギリスのブリストル、カナダのカルグーリー、メキシコのエスピナル、アメリカのデトロイトでも同じような試みがなされているとか。
このようにピンチはチャンスじゃないけど、追い詰められたエリアから、新時代を予感させるような新しい試みがどんどん出てきてる。人類、しぶといですからね。なんかかんかサバイバル方法を考えたりもするのでしょう。そのあたりは要注意かと。
その意味では東京とか大都市の方が危機感がない分、旧態依然たる昭和経済幻想にどっぷり浸かっているわけで、一番遅れているとも言える。現在(旧来)のシステムの最先端というのは、新システムでは一転して一番鈍臭くて遅れていることになりがち。幕末期の江戸城内部は旧システムでは最先端のエリアかもしれないが、新時代はむしろ薩摩の錦江湾やら、長州の馬関海峡やら、土佐の桂浜で息吹いていたわけですから。
というわけで一足飛びにどこもかしこもマッドマックス的に無法状態になるわけでもなく、全国的に無限のグラデーションで対応がされたり、なされなかったりってなってるわけだから、そこらへんは機敏に見ていく必要があると思います。何もかも自給自足というのはしんどすぎるのだけど、とりあえず電気と水道のインフラがあれば、あとは順番に仲間が都会に出稼ぎにいって仕送りをするというのでもいいし、何らかの現金収入を得る道を模索するとか(ネットによるフリーランス受注とか)。畑くらいは自作するとしても、稲作はほんと素人には難しいので買ったほうが現実的だったりもする。
★仲間と人間関係の構築
こういったことは一人で出来ないから、助けてもらうために広範な、そしてここが重要なのだが損得抜きで付き合える、人として素顔で対等に付き合える友達を沢山得ること。そのためには,その友達と知り合い易い環境の構築とそのメンテナンスが必要だし、さらにそのためにはその場を貫く一種の人生哲学の確立とブレの無さなどがいる。僕がA僑とかいってるのもそれ。★企画構想力
一番大事なのは、おそらくはすべての情報が不足し、未確認になるだろうから、不確定な情報を前提に、ああも考えられる、こうも考えられるといって複数の大きな絵図面を描く能力、変数が絞られたり変わったりするたびに、それらのビジョンを修正していく力。もっぱら脳内の企画構想力だけど、それが一番大事かなって気もする。とまあ、このように意味付けをしていけば、およそ何をやっても役に立たないことはないので、何をやっても正解とも言えます(笑)
繰り返しになりますが、昔のような鉄板の外部基準説が崩壊しつつある昨今、結局自分しか頼りにならないのであれば、自分を底上げしていくしかない。そして、それは全方向的になるから、なにか一つに特化してもダメで、まんべんなくやる。だから何をやっても正解なんだけど、それ以上に「まんべんなく」って部分が大事だと思います。好きな物事に偏るのは楽なんだけど、ときとして致命的でもあるしね。
もっと実戦的にいうなら、そんなに何もかも目的志向で物事をやるわけではないし、成り行き上イヤイヤやってる場合もあろうし、降って湧いた災難の場合もある。しかしそれすら意味はあるし、栄養分もあるので、今やってることの意味、養分を深く理解することが大事なのかなって気がします。
段取りと方法論
何をやってもOKなんだけど、自分が今いる地点を考えて、何を優先してやって、何を後回しにすべきかは、結構頭を使うところだと思います。その際の判断基準は沢山あるんだけど、例えば----技術習得の峠
技術というのはある程度の峠を超えると定着するけど、そこを超えないで止めてしまうと元の木阿弥になる。自転車も乗れるところまでやると一生忘れないけど、乗れないままやめちゃうと、またゼロからになる。だから何かやりかけていることがあり、あとしばらくやると「峠」を超えそうだなってことがあったら、まずそれを優先させた方がいい論理的、あるいは事実上の先後関係があるもの
Aが出来ないとBが出来ない、或いはAを先にやったほうが遥かに効率的になるという先後関係があります。例えば、肉体労働系の仕事にチャレンジだといっても、ひよわだったらダメなので、先行して体力づくりをしておく。趣味のジョギングやWalking、WEBデザインの勉強、肉体労働系の経験値、語学習得など幾つかのタスクがあった場合、まず先にWalkingをやりつつWEBや語学をやって基礎体力を積んでおいてから、あとで肉体労働系にシフトした方が無理が少ない。先に肉体労働をやってしまうと、へばって挫折したり、帰宅しても精根尽き果てて何も勉強できない。ならば、先に体力づくりをし、あとでその体力を生かしたアクティビィティにした方が効率が良い。
はたまた、多くの人と知り合ってブレーンネットワークを構築するんだ、いろいろ参加して広げようとか思っても、「対人関係が不得意」とか人や環境についての好き嫌いが異様に激しかったら、まずそっから直していかないとやったところで実りは薄いし、効率が悪い。だからそこで躓いてるなら、集中的にカウンセリングを受けるなり、自分なりに技術を創意工夫するなりいした方がいい。対人関係は、素の人柄で勝負とかいってるとかなり難しくなるので、いっそのこと「技術」と割り切ったほうがいい。人柄や人徳的に上手くいってるように見える人でも、実際にはかなりの部分、技術で切り回してますからね。又つまらない偏見に囚われているなら、経験の幅を広げて偏見を潰しておくこと(多くの偏見は無知から来てるし、無知は未経験からくる)。
同じようにコミュ力がないとダメという意味でいえば、英語については最低限のレベルまでは是が非でももっていかないと話が始まらない。と同時に、母国語においても「社交的な言語使用術」なんかも必要だし、相手のハートに触れるような言葉選び、言うべきタイミング、そのときに自分がまとってるオーラの調整、そのへんの言語技術は「他人を動かせるか、動かせないか」に直結する物凄く重要なスキルなので、ことあるごとに修行すべし。
掛け算と足し算
上と似てるのだが、その関係が足し算か掛け算かです。A+BではなくA×Bになってるか。Aが出来るようになればなるほど掛け算式に収穫が期待できるのは大きい。Aが1だった場合、10のBチャンスを得たとして出てくる結果は10。でもAを2にすると10(B)チャンスで結果は20になり、Aが5だと50になる。この場合、足し算に考えてると11が12や15になるだけって思うけど、実は掛け算なのでその差は巨大。
掛け算になるのは、それ自体ではあまり意味がありそうではないゼネラルスキルです。だから軽視しがちなんだけど、実は重要
例えば、測量士のスキルをもってて、さらに土地家屋調査士とか不動産鑑定士までできるようになるのは一般には足し算です。まあシナジー効果もあろうから、1+1が2.3くらいにはなるかもしれないけど、その程度。でも「営業能力」「コミュ(言語)力」「人脈構築能力」「トラブル処理」というゼネラルがつくと、底上げした分だけ掛け算的に収穫が期待できるから、これは美味しい。
難点としては、資格みたいに目に見えないから伸びてるんだかよくわからない点。またそれだけでは就職や生計につながらないので、モチベーションが湧きにくい点でしょう。それだけに自分で注意していかないとならない。
ちなみに言語はこの意味でも掛け算になりうるのでお得だと思うし、APLaCがわりと英語学校中心にやってるのもそれ。確かに英語だけ出来ても永住権やビザはとれないんだけど、その代わりゼネラル技術だから、英語が出来るようになればすべての局面で底上げが出来るので、結局トータルでは一番コスパは高い。特定の専門スキルは、もしそこがダメだったらもうそれでゼロになってしまうから、博打的な怖さもあります。
えーと、それから、、ってまだまだ無限に続くんですけど、まあ、このくらいにしておきましょう。十分長いだろうし。
トビラの写真をロングに引くと、こんな感じ。
さらに反対側を向くと
文責:田村
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