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Essay 907:幸福とすり替え

 幸福とは変化する感情の一瞬のゆらめき
 ポジ感情はイベント・ドリブン的で一過性のものが多いのに
 持続性な感情はネガなものが多いのはなぜか?
 ゴール設定の魔法と便法
 

2019年06月18日

写真は、未明のCronulla Beach ポスターの写真みたいな。




しばらく間が空いてしまったけど、記号論のシメを書きます。記号と幸福です。
ここで「記号」と僕がいう概念の意味は、ステレオタイプのイメージであり、象徴的ななにかであり、あるいは「言葉」などです。

これまで3回やってきたので、もう大体何を言いたいかわかると思うのですが、一番「記号」が問題になり、記号に騙されやすいのが幸福論ではないか。

人生の目的とかゴールとか、○○になると「しあわせ(な人生)」であるとか。
典型的なところでは、やれ「勝ち組」「エライ人」になるのだとか、「お金持ち」になるのだとか、「正社員」になって、「結婚」して、「子供」も生んで、「家」を買って、子供を「私立」に入れて、とかです。昭和中期には「芝生の庭と白い家」とか。最近では「上級国民」になることだったり。

その種の「成功=幸福」みたいなイメージがまずあります。「上昇志向」なんてのも、その界隈から出てくる発想です。日本社会では、そういうステレオタイプの人生観を子供の頃から植え付ける場合が多いように思います。とにかく「勉強しろ」とか言われたり。

でも、そういった幸福のイメージ、「正しい」ぽい人生の記号って、子供のころから(遡れば小学校のの頃から)「なんか違うんじゃ?」って違和感を持ってました。「まあ、そうなんだろうけどさ、でも本当にそうなんかなあ?」というひっかかりは、僕一人の話ではなく、おそらくは誰しも抱いたのではないですか?

さて、僕自身、人生50年以上生きて思うのは、「やっぱ違(ち)げーよ」ってことです。

何がどう違うかは断片的にはわかるし、これまでも折りに触れて書いてました。過去のエッセイでは「567:幸福差分論(好ましい変化が生じている状態を幸福という)」とかね。ただトータルではなかなか言語化できない。

幸福ではなく「不幸の洗脳カタログ」


世間的に言語化されている幸福、それらしき記号(富裕とか権力とか名声とか)は、あれは幸福論ではなく、「不幸論」だと思う。「○○がないとこんなにミジメですよ、つらいですよ、悲しいですよ、不幸ですよ」しか言ってない。だから不幸のカタログみたいなものです。そして「そうならないためには○○が必要で、だから○を持ってると”幸福”だ」という「反対解釈」から幸福が出てくるというか、防衛的な発想というか、そういうものだと思います。そのものズバリは言ってない。

じゃあそのものズバリの幸福な状況ってどんなんよ?というと、これが老後における「悠々自適」とか、壮年期における「酒池肉林」「栄耀栄華」とか、なんか手垢のついた四字熟語ばっかで、非常に陳腐なイメージです。不幸のリアリティに比べてみると、幸福のリアリティってあんまり感じられない。

つまり幸福の内実に関しては、おっそろしいほど貧弱な認識しか一般化していない。そしてそこが貧弱だから、結果としてマンガみたいに子供じみたステレオタイプが蔓延する。お金をもってると幸福とかさ、その程度のレベル。およそ成熟した大人の発想ではない。もっと言えば自分にとってなにが幸福なのか?について、あんまり真剣に考えてないんじゃない?って気がします。周囲の雰囲気になんとなく同調してるだけ、わかった気になってるだけ。

洗脳刷り込み不幸論

さらに踏み込んでいえば、世間で不幸とされている状態が、本当に不幸なのかどうかは疑問ですね。一種の洗脳じゃないかってくらい。
例えば、老後の孤独死がいかにも不幸のように言われるけど、あれもピンとこない。いよいよ死ぬって瞬間になったら、象の墓場のように、あるいは猫がいつの間にか姿を消すように、僕は一人で静かに死にたいですけど。ベッドの周囲をぐるりと取り囲まれて死ぬのって、こっ恥ずかしいですよ。衆人環視のなかで排泄しているみたいに、いたたまれない気分になる。そして、死ぬときは、多分、次のステージに向かっているわけで(あの世なり来世なりとがあったり、死んだ人が迎えにきたり)、旅立ちの日のプラットホームに見送りにくる人が多いか、一人旅でいくか程度の差でしかない。そのときの気分はもう完全に次のステージに向かっているだろうし、そんなのどっちゃでもいいよな気がする。少なくとも一人で逝くのが絶対的に不幸で、多くの人に見送られるのが絶対的に幸福だと決めつけないでほしいですね。そこに何やら意図的なイメージ操作を感じる部分もあります。

高度成長をリアルに体験してる世代として次の世代に伝えるべき義務があるのかもしれないけど、昔もそんなんで、やれテレビがないと不幸、次にカラーテレビで色がついてないと不幸、マイカーがないと不幸、マイホームがないと不幸、、、みたいな感じで、やれ買え、これも買え、電通十則のように無駄遣いをさせよ、流行遅れに感じさせろ、とにかく消費者を不安に陥れろってマーケティング策略だとも思いますよね。なんせ「消費は美徳だ」とか大マジに言ってたんですよー、すごい露骨な表現だけど、そうだったのよね。

同じように大学いってないと不幸だとか、東京とか大都会に住んでないと不幸だとか、田舎者はそれだけで二級市民だとか、流行の曲を知らないとそれだけで準犯罪とか、25歳で結婚してない女性はもう犯罪者みたいなもので、、、とかそんな「煽り」ばっか。

昭和の頃から日本社会が描く「幸福」というのは、どれもこれもおしなべて「たくさんお金を使え」というただその一点にだけ集約されていくような気がします。消費者にバンバン金使ってもらわないと企業は儲からないし、税収もあがらないしね。

みなが皆、「足るを知る」「清貧の思想」を悟り、一汁一菜で十分ですよ、要は心のありようですよ、遠くまで出かけることはないですよ、近所の公園でも裏庭でも優れた洞察力があれば感動はいたるところに転がってますよ。惰性に流れず、日々感情を新鮮にリセットし、今手元にある幸福をちゃんと幸福だと認識するほうが大事ですよ、なにか豪奢な物品を買い求めるよりも、優しい老母の健在、健やかな子供の寝顔をちゃんと見つめる方がよほど価値がありますよ。自分がいまここに存在すること、自分が存在することを受け入れてくれる人がいること、あまつさえ自分の存在をうれしく思ってくれる人がいること、それ以上の幸福がどこにありますか?波立つ心を静めなさいな。平(たい)らかに、この大地に接していること、その大いなる安らぎを感じなさい。さすればもう何も欲しくはないはず

、、なあんて皆に悟って貰われたら、企業も国家も破産しちゃう。
だから、カンカンと鳴り物を打ち、勢子がイノシシを追い込むように、皆を半ば狂騒状態になるように追い込みかけて無駄遣いをしてもらうしかない。もう無理やり借金してでも金使えです。そのためには、徹底的に「○がないと不幸」「○をしてないと人間失格」という強迫観念を24時間せっせせっせと植え付けるべきだと。広報とは本質において洗脳であると。要は、(企業社会にとって)「都合のいい消費者」=幸福ってことでしょ?

貴族的でセンスのよい三代目(生活力はないけど)

さいわいなことに日本も成熟して、そんなもんに踊らされる人も少なくなってますよね。世代が若ければ若いほど、そのあたりはクールに見えてると思います。むしろ上の世代がまだ阿呆踊りやってたりするけど。まあ、若い世代は金を使いたくても決定的にお金が無いという事情もあるんでしょうけど、それ以上にもっと大きなことがあると思います。それは生まれながらに豊かな環境に育った者だけが有する貴族的な感覚です。

僕らの世代(60年前後の生まれ)は、人口構成でも人数が非常に少ない端境期の世代で、それゆえ旧来の価値観に根っから染まれない新人類の一番ハシリと言われた世代です。人数が少ないせいか、同世代の同調圧力が低いのが特徴だと思うし(個人主義的な人が多い)、上の世代の感覚も下の世代の感覚もわりと分かりやすい。上になればなるほど、圧倒的な物資不足の戦前戦後を経験してますから、とにかく物量=幸福だし、ゴージャス=幸福だし、わかりやすいんですよね。「デラックス」という言葉に陳腐さよりも魅力を感じてしまう。ワイルドで生命力溢れるんだけど、そのぶん下品でもあるし、意地汚くもある。

でも、豊かな環境に育つほどに、そのあたりの物的欠乏感が価値観の源泉になるという構造は薄れる。そのぶん趣味はより高尚になり、貴族化していきます。とにかく流行の最先端が〜とかいうのは、金ピカ80年代からバブルとかそのあたりの団塊ジュニアとかまでで、それ以降は徐々にパーソナルになっていきます。ファッションでも音楽でも皆とおなじものを誰よりも先に着るのがカッコいいとか思ってないでしょ?てか、そんなところ見栄張ってアクセクしてること自体が下品というか、ダサいと感じるんじゃない?よりパーソナルに、自分が良いと思うものでいいやって。その証拠に、音楽でもベストテンみたいな「とにかく、これを聴け」という押し付けるようなものは激減してきたし、ファッションでもこれが大流行ってものもない。

面白いもので、今の日本は高齢者のほうが所得は高いんだけど経済的な精神性では貧困で、下の世代のほうが所得は低いんだけど経済精神的には貴族的だという(人によるが)。まあ「三代目」なんかそんなもんです。「売家と唐様で書く三代目」って江戸の川柳があるけど、初代のような弱肉強食バイタリティや商才がないから三代目で家業は倒産するんだけど、生まれながらに不自由なく育ってるから三代目が趣味の高尚さやセンスではずば抜けていて、破産して家を売る羽目になるんだけど、その貼り紙を「唐様(高度な書道の書体)」で書いているという。今の日本ですね。日本から外に出てきたら分かると思うけど、今世界では新興国とかすごいですから、そこらじゅうに「初代」だらけなんですよ。もうバイタリティが桁外れで、これは勝てるわけないよ、ひ弱な二代目三代目じゃ太刀打ちできんだろうって。

もっとも、別に太刀打ちしなくてもいいと思いますけどね。三代目の役どころは、そのセンスを良さであり、滅びの時代にそのセンスの良さを次世代につなぐことです。どうせ第四世代には、荒廃した国土のあちこちに新しい「初代」が出てくるでしょうから。


70年代時における自分の場合

話を僕自身に戻すと、そんなこんなで、日本のマスコミや世間一般で言われているそういった「常識」「通説」みたいなものって、頭から信用してなかったです。黙殺とか敵視とまではいかないけど、「ふーん」「あーそうですか」って程度で、その感じはどういえばいいかな?たとえば全然信用してない、あるいは初めて聞いたような占いになんか言われてるようなものです。「カメハメハ大運法」によると(そんなのないけど)、あなたは今年不幸になりますとか予言されているようなもので、そんなのいきなり言われても直ちに信じるわけにもいかず、そのくらいの「あーそうですか」感です。

具体的にいえば、例えば高校から大学への進路についても、高偏差値で大企業や官僚が正解だとは僕には全く思ってなかった。どこであれ第三者(組織やら上司やら)に自分の生殺与奪の権利を握られるという構造的な弱点が、僕のなかでは絶対的でした。どんなに貧しかろうが、たとえ野垂れ死にしようとも、自分一人で立てるようにならなきゃ、結局はどっかで自分の意思を踏みにじられるだろうし、その時点で自分の人生じゃなくなる気がした。強大な支配者に首根っこ押さえつけられて、子分にさせられ、自らの尊厳もなにも否定され、飼われるように生かされる人生だけはゴメンだと思ったし、意に反した人生を強いられている人々の顔(のように見えた)は毎朝の地下鉄の中でうんざりするほど見てた。ああいう人間になりたいとは到底思えなかったし、それが立派なこと、素敵なこととは思えなかった。同じ意に反することをするにしても、経営がしんどいから、売れたいからとか状況に応じて最終的に自分で意思決定するならまだいいけど、その理由すら教えてもらえず、やりたくないことを、それをやったら人間終わりだろって(実直に生きてきて、それがゆえに世間知らずな老人を騙して金を使わせろとか)ことを強いられて、それが当たり前になっていった日には、これが俺の人生だとは到底言えなくなる気がして、それだけは嫌だった。なんとしても回避せねばと。

だもんで、世間で強烈に宣伝されていた「安定」というのは僕の中で全く無価値でした。自分が自分である方が比較するまでもなく価値が高かった。だけどそんな価値観は世間には出回ってなかった。なんで世間があんなに(僕からすれば)自殺行為とも思えるような「安定志向」に走るのか、当時でも今でも今ひとつよく分からん。ということで、高校のときには、すでに親とか世間とか常識とか教師とかの言うことは全く聞いてなかったです。もっとも向こうも諦めていたのか、その種のことを言われたという記憶すらないんですけど。

それもあって、日本で語られる「幸福」的な記号、高収入で、社会的地位地がどうのとかその種の「記号」にはほとんど影響されてないです。電気における絶縁体みたいな。だからこそ弁護士やめてポーンとオーストラリアにやってきたのだとは思うけど。僕の中では、世間であーだこーだと言われてることって、お手本でもマニュアルでもないし、「参考」ですらないかも。一応何を言われているかはチェックしますけど、それは「データー資料」としてって感じ。「室町時代の風俗」みたいなデーターとして、一応押さえておきますかってくらいです。

僕にとっての幸福とは、世俗的な記号ではないのだけど、じゃあ何か?といえば、ここで一気に結論を先取りするけど、何が幸福であるかは「その時の自分が決める」ことだと思ってます。
ポイントは2つ。あくまでも「自分」が決めることで、他人が決めることではないこと。
第二に、「その時の」という時期限定が入ることです。こちらのカフェの"soup of the day"とか、日本のランチの「本日の定食」みたいなもので、そのときになってみないとわからない。お寿司屋さんのカウンターで、「今日はなにがオススメ?」って聞くみたいなもので、そのときに何が幸福であるかは、事前に予想できない。また予想しては「ならない」。超直前、前日に至るまで予想できないし、予想しない。

だから僕が感じる幸福像は、ものすごくフレッシュなもので、鮮度が大事。鮮度を外したら意味がないくらいの。
老後のために60年前から着々と準備〜、小学校の頃から老後のために塾に通って〜とかいうのとは、およそ対極にあるような発想です。

以下そのことを書きます。



幸福という感情の特性

一瞬の感情なのか持続する客観状態なのか

何が幸福なのか?
よく使う概念、人生の究極目標といってもいい概念であるくせに、これがうまいこと言語化しにくい。もともと言語化や定義化することが非常に難しい概念なのではないか?

そもそも幸福というのが、一瞬の感情(主観)を意味するのか、それとも継続する客観的な状態を意味するのかすら定かではない。上に述べたように、誰かの都合のいいように、意図的に誤魔化されたり、すり替えられたりしている部分もあるし。

僕としては、幸福とは、本来は前者(主観感情)だと思います。「幸福”感”」というくらいなんだし、「しあわせ」と表現するにふさわしい、とてもポジティブな感情(うれしい!楽しい!とか)が本体でしょう。そんな不動産鑑定みたいに、現地で実測して「あなたの幸福は○○平米です」とか客観的静止的に捉えられるものではないでしょう。

じゃあ何をもって「しあわせに感じる」のか?といえば、人によりけり、時と場合によりけりで、客観的に定義できないです。なぜなら同じことをやっていても、あるときは幸福に感じるけど、あるときは全然そう思えないとかありますから。てか普通は変わりますよね。かつて最高にハッピーに感じたことでも、それが続くとマンネリになり、惰性になって、当初の感情の高揚は減衰し、やがて退屈に感じるにようになり、しまいには牢獄のような煮詰まりとして感じられたりもする。結婚から離婚に至るまでの感情の軌跡などもそうです。いくらすき焼きが大好物だといって、朝昼晩の三食すき焼きだったらイヤだろうし、それが死ぬまでずっとそうだと言われたら地獄でしょう。

だから幸福というのは静止 or 継続的な概念ではなく、変化していく状況での一瞬の感情の高まりではないかというのがかつて書いたことがある「幸福差分論」です。電車の車窓に流れゆく光景のように、踏切のカンカンという音が流れ去っていく時のドップラー効果の音程変化のように。

幸福に限らず感情というものは、本来そういう性質をもっている。一瞬の変化によって生じる。ずっと同じ状態が続けば、同じ感情がそのまま続くということは少ない。特に「うれしい!」などのポジティブな感情は瞬発的なものです。いや、瞬発的であるがゆえに、それは強烈であり、ときとして爆発的ですらある。

持続的な感情はネガティブが多い

一方、たしかに持続的な感情もあるけど、それって大体がネガティブなものです。倦怠感、不安感、憂鬱感、焦燥感、屈辱感、鬱屈、退屈、怨恨などなど。ちなみにネガティブでも瞬発的なものはあります。「一瞬、殺意を覚えた」とか激高とか、爆発的なネガもありますから、ネガの全てが持続的だってわけではない。しかし、持続的な感情はネガティブなものが多いのは事実のような気がします。持続的でポジティブな感情といえば、うーん、そうだな、「永遠のあこがれ」とかそんなものくらいかな。

不思議ですよね?
なんで持続的な感情はネガティブなものが多いのか?
なぜ、持続的にポジティブな感情が少ないのか?

これはもう、もともと人間というのは「そう作られているから」としか言いようがなく、文句があるなら神様とか遺伝子に言えって話なのでしょう。

生命とはそういうもの

100パー推測の話なんですけど、人間がどうという以前に、生命現象というのがそういうものなんじゃないかと。

荒ぶる自然界において、いや空虚な絶対死的な大宇宙においては、そもそも生命というものが奇跡みたいな存在でしょう。あれだけ高度に複雑な高分子の結合、さらにそれらの気が遠くなるくらい膨大な組み合わせで一個の組織をなし、しかも一瞬出来てすぐ消滅するわけではなく、摂取やら排泄やら自律的な一貫工程を備え、さらに次世代への複製機能まで備えているって、どんなんじゃ?なんでそんなもんが出来たのか?あまりにも荒唐無稽過ぎて、偶然とは思えない!って、「理系を極めると結局「神」の存在を措定せざるを得なくなる」って話を聞いたことがありますが、そのくらいのものなんでしょう。

そんな存在自体が奇跡レアな生命の本質は、激しい外部環境の変化に対して、必死に存在すること、存在し続けること、この奇跡を長続きさせることなのでしょう。全ての機能がそこに向かうとすれば、生命の基本活動において常時センサー的に起動するのは、環境リスクの早期発見と対応だと思います。なんらかの環境の変化(光や温度ect)があったら、より生存可能性の高い方向に動く。夏の虫が光に向かう走光性もその方が生存確率が高いからでしょう。日照時間を正確に測って開花したり落葉したり、渡り鳥が北や南を目指して飛び立つのもそうでしょう。草食動物が肉食獣の存在を早めに覚知するために首が長くなったり、足が早くなったり、耳が良くなったりするのも同じ。外界リスクの早期発見と対応こそがポイント。ぼけっとしてるとすぐ死んじゃうのが生命というもの。

僕らの感情というのは、そういったベーシックな生命活動が意識野において投影されたものだと言えると思う。身体がヤバいことになったら、アテンション!!ってことで痛覚神経を刺激して「痛い」と感じたり、このまま動き続けてエネルギーを消費するよりはじっとして回復に専念した方が生存確率が高いとなったら、「気分が悪い」と感じさせて動けなくしたり、ジタバタしてられると面倒だというときは、いっそのこと自意識回路をシャットアウトして失神させてみたり。

生命において24時間監視カメラのように常にオンになってるのは、危機対応であり、それらは本来的にネガティブな感情につながるものです。外界に注意をしなければならないと思うときは「危機」「不安」感をオンにするし、早急に行動体系の見直しをすべきときは「焦燥」として感じられたり。常に常にそれをやってるから、ネガ感情というのは常にオンになっていて当たり前なのかもしれないです。

そんなこんなで持続的な感情はネガティブなものが多いと。
や、信じないでくださいよー。こんなの仮説ともいえないくらいの思いつきですからね。でも、ありうるよなー、繋がってるんじゃないかなーとは感じます。とすれば、それは生命に標準装備されている危機対応能力であり、ことさらに「ネガティブ」というほどのこともないんじゃないか。

つまり、「これでいいのか」「何か間違ってるんじゃないか」「もっとうまいやり方があるんじゃないか」と思って、不安感やら焦燥感に苛まれたりするわけですけど、それが普通なんだと。それがあるからこそ、生命活動が維持できるのであるし、またそれがあるから絶えず向上し、進歩することができる。

さらに人類の歴史でいえば、直近数千年はその進歩が著しいですし(火やら道具やら)、特にこの数百年間は垂直上昇のロケットのような爆発的な進歩をしてます。昔のテンポだったら20世紀に電話ができたら、それが携帯電話になるのは23世紀くらいとかゆっくりしたペースだったのかもしれないけど、今は早い。もうガンガン進歩する。

一方、危機感にしても、ネアンデルタール人とかその頃に比べれば(平均寿命が20歳かそこら)、今は死ぬほど安心してても良い環境でしょう。そのくらい外界の脅威は激減している。だって、今の僕らでいえば、全裸でアフリカのサバンナに放置されて、あとは死ぬまでそこらへんの草を食って生き延びるか、いつかはライオンに襲われて死ぬかくらいなのが地球と人類のデフォルト設定ですからね。それに比べれば今は夢のように楽ちんな環境です。古代の王侯貴族よりも今のホームレスのほうが格段にいい暮らしをしてるでしょう。だから、今の時代にホモ・サピエンスのご先祖様たちがタイムトラベルしてきたら、あまりの安直さに腑抜けになってしまうかもしれない。少なくとも不安も危機感も感じないだろうし,ネガティブになる必要もないしでしょう。また、これだけ整ってしまえば、これ以上の進歩とかしなくてもいいんでしょう。

でも、直近数百年(ルネサンスや産業革命以降)からの弾みや勢いがついてしまっているから、もう止められない、止まらない。ほとんど「暴走」「強迫観念」化して、危機がないなら草の根わけても危機らしきものを発見して「不安がって安心する」(変な表現だけど)とか、とにかくどうでもいいようなことでも進歩とか改良したくてたまらない。もう進歩のために進歩、不安のための不安みたいな自己目的化してるようにすら感じます。つまり持続ネガこそがデフォルト設定なんだけど、今はもう暴走状態になっている。

一方、生命的にポジの状態というのは、食事とセックスでしょう。まあ最大にして日常のイベントは食事でしょうね。草食動物なんかいつ見てもなんか食ってるし、肉食動物の狩りは、あれも何時間もずっと潜んでってめちゃくちゃ忍耐強いことをしています。それが成功したらうれしいとか、ハッピーとか感じるでしょう。これが生殖になると、多くは1年に一回だし、なかには一生に一回という種族もある。年がら年中発情している「異常種」は人類くらいでしょう。

それはともかく、食事にせよセックスにせよ、持続的なものというよりは、単発的なイベントです。「イベント・ドリブン」って言葉があるけど(IT用語→金融用語)、今週はアメリカ連銀の利下げ発表があるから株価はこうなるとか、なにかイベントがあって値動きがある、はじめにイベントありきです。僕らのポジティブ感情は、このイベントドリブン的で、だから一過性であり、だから持続的ではないんじゃないかな。

ならば、幸福感のモトになりそうなポジティブな感情というのが、もともと一過性なもの、変化する環境における変化する感情ですから、持続性がないのは当然かもしれない。幸福と呼ばれる状況になっても、最初は幸福に感じても、持続するとその幸福感は薄れる。それが罰当たりで恩知らずと罵られようがなんだろうが、事実の問題として感銘力は逓減していってしまう。

ゆえに、幸福というのは、静止する状態概念(感情)ではなく、変化する一瞬の感情であると、僕は思うのですよね。

そしてどんな状況の変化、どんな感情の変化に面白さや喜びを見出すかは、その時点になってみないとわからないです。体調も影響するでしょうしね。それまでの経験もあるでしょう。来月の10日に封切り映画を見に行くんだ、幸福確定!とか思ってても、それまでにひょんなキッカケでその映画を見てしまったら、もう来月10日に同じ映画を見ても、初見のときのような興奮はないでしょう。

ということで、僕の考える幸福の定義は、「その時点になって僕がそう感じるもの」としか言えないし、それで十分であると。てか、それ以外に言いようがないもん。

環境整備と幸福のすりかえ

世間で広く言われている幸福は、幸福になりやすい環境の整備に関するものです。富裕であるとか、高収入であるとか、高収入が望めそうな難関資格であったり難関大学であったり。あるいは老後にも富裕になるための金融商品であったり、資産形成になりうる不動産投資であったり。はたまた、老いてから寂しくならないように結婚しておきましょう、子供もつくりましょうとか。

これらは環境整備としては分からんではないし、一理はあります。でも一理しかないな。
富裕であるのはいいんだけど、その維持には半端ないエネルギーが要ります。ぼけっとしてたら税金その他でがっぽり持っていかれるし、ヤバい連中からも狙われるし、普通の人からもなんだかんだでタカられる。エリートコースに乗ったら乗ったらで、そこから降りられなくなるという意味では牢獄でもあるし。不動産は負動産になりうるし、配偶者や子供こそが悩みの種になる可能性もある。

一理はあるけど一理しかないというのは、そういう局面もあろうが、そうでない局面もまたあるという不確定性が一つ。そして、何よりも、それは幸福になるための環境整備という補助的な活動であって、幸福そのものではない点、そこに「本質的なすり替え」がなされてることです。

その昔のエッセイで「確認の旅、なるほどの旅(464)」って書きましたけど、客観的な環境整備=幸福か思いきや、実はそうではない。超難関試験を受かるために地獄の修業をしてようやくよじ登り、登頂成功って瞬間だけは、やったー!とイベントドリブン的にものすごい幸福感が押し寄せてくれるけど、やがて、だんだんそれも薄らぐ。そのかわりに分かってくるのは、上に登れば極楽浄土が待ってるどころか、これまでの地獄がママゴトに思えるようなもっとハードな地獄が待ってるだけ。そりゃあ高収入かもしれないけど、背骨がへし折れそうな重責と、過呼吸になりそうなプレッシャーと、プライベートもクソもない過激な実務が待っている。結局何のために難関挑戦をするのか?といえば、上に登ってもなんにもないよ、てかもっと地獄だよってことを「なるほどね」と確認するためにやるようなものだと。

なんだってそうですよね。必死に受験やって難関医大に入って、さらに国家試験に受かっても、待ち受けてるのは現場ではペーペーの研修医であり、大学病院に残ろうとすうなら、そこからさらに超エリートどもの熾烈な競争があり、ああいうトップレベルの実力社会では、少しでも劣っているとものすごい馬鹿にされるし、本人も屈辱的な思いをするし、さらに政治的な動きもしなきゃいけないし。大学の研究室にのこってアカデミックな殿堂へとかいっても、封建社会さながらの教授絶対王政のパシリ奴隷を下積みで何年も、へたすら何十年もやらされるし、高齢化で上がつかえてるから全然あがれない。少子化で大学(職場)が減らされるからなおさらです。そのへんのコンビニで働いているネパール人の方が高収入だったりもする。なんたらチルドレン的に公募でエライ政治家になったとしても、現場にいけばペーペーだからえらい重鎮の議員達の前では米つきバッタのようにペコペコしなきゃいけんし、うるさ型の地元選挙本部ではまた爺さん連中にペコペコしなきゃいけんし、冠婚葬祭その他のイベントにはとにかく参加しなきゃいけないから、偏頭痛がしようが、生理痛だろうが、必死に髪をセットして満面の笑みでやらなきゃいけない。多少誰かにエラソげに振る舞えたとしても、トータルで勘定すれば卑屈にペコペコしてる回数の方が多いと思うよ。ま、そんなもんスよ。

でも、それって自分でやって、自分の眼で頂上を確認しないと気がすまないでしょ?だから、一回くらいは見ておくといいよと、それが「なるほどの旅」。苦節10年位必死にやって、成功して、「なーんだ」と思うと。10年間丸損みたいに感じるけど、たった10年でその後人生、そのへんの「騙し」にひっかからなくなるから、トータルではお得だと思いますけどね。


ゴール設定という魔法

単発的、一過性の幸福感を持続させる技があります。さきほど「永遠のあこがれ」のような感情はポジだけど持続性があると書きましたが、その応用です。

すごーい遠方になにかのゴール設定をするのです。「巨人の星になるんだ」とかさ、ノーベル賞を取るんだとか、ロックスターになるんだとか。もうちょい現実的なところで、難関資格をゲットするんだとか、永住権を取るんだとか。さらに近いところでは、ファームで88日頑張って二回目ワーホリの権利を取るんだ、とか。

こういうゴールをポンと一つ設定していくと、あら不思議、クソつまらない毎日が、不思議と充実したり幸福感を感じられたりするようになります。だって、毎日とにかく前進してるんだもん。その意味では、刑務所の出所の日を指折り数えるような、機械的でカレンダー的なものがいいですよね。内容的にはスカスカだろうが、とりあえず24時間経過したら1日は前に進む、また一歩野望に近づいた!って達成感ありますから。

その意味でゴール設定というのは魔法です。
二回目ワーホリ獲得に盲目的に頑張ってしまうワーホリさんの気持も分かるのは、それってすごい楽なんですよね。とりあえず充実している気がするし、日々なんかやってる感はある。

でも、ゴール設定は魔法だといいながらも、一皮むけばしょせんはゲーム化して誤魔化そうとする便法ですからね。日々の歩みを可視化し、達成感を得やすくするための心理的な補助ツール以上でも以下でもないです。僕も高校や大学のクソつまらない授業のときに、ノートの端に○を沢山書いて、1分経過するごとに●と黒く塗りつぶして、それで時の流れと達成感を得て暇つぶしをしていたことがありますが、それと似たり寄ったりです。小さな子供が湯船で茹でダコになって、もう出る〜ってときに、親に「よーし、じゃあ、あと十数えような」「いーち、にーい、、」とカウントしてるのと同じことです。そういうやり方をされると、まだしも我慢できると、その程度のもんだと。

それに、誰かにゴール設定してもらってるようでは、まだまだだと思いますよ。ゴール設定くらいはまず自力でやらんかいと。マラソンの「あの電柱まで走ろう」でいいですから。ましてやそのゴールに高収入とか「幸福らしきもの(幸福にすり替えられているもの)」を他人に囁かれたりする場合は、それはもう気をつけた方がいいですよね。いい年してまだそんなもんに騙されてるのか?って感じ。

40歳過ぎての大人の技としては、ゴールなどとという安直な補助ツールを使わなくても幸福になれなきゃあかんわ、と思いますね。どっかのアーチストが言ってたような気がしますが、自分の過去作とかもう興味ない。集中しているのは目の前の現在作成中の作品だけで、その完成度をいかに高めるか、いかに表現するか、もうそれだけ。それ以上に、それで賞を取ろうとか、それでこうやって出世しようとか、そういうのは全て邪念・雑念だから排除、、、というか、ごく自然にそんなこと考えないよ、考える必要ないよ、眼の前のことだけで十分面白いし、満足しちゃうからって。そんな感じでいいのかもねって気もしますね。

だけど、そんな誤魔化し可視化ツールとしてのゴールではなく、天然にやりたいことがあって、そこから自然にゴールが出てきたら、それはかなり幸福でしょう。日々その約束された幸福に近づいているんだから。それが「死ぬまでに一度は」というスパンの長いことであろうが、「来週のデート」という短いものであろうが、あるというだけでハッピー。

これらを総合するなら、持続的に幸福になろうと思うなら、まずはそういうゴールの設定能力でしょう。次に、なんらかの漠然とした目標があった場合、その達成までのおおざっぱな行程表を自分でつくり、要所要所に小ゴールを作る能力があるといいです。とりあえず今日はココまでやろう、今週中にここまでやろう、今月中にあそこまでいき、上半期であのあたりまでいき、1年後にはあそこまで行こうという。それがリアルに過不足なく実現可能なものであること。そのあたりのスケジューリングとか、難易度鑑定みたいな洞察力(このステップは運の要素が非常に強いから3年くらい時間をかけようとか)も必要です。

本当の意味での幸福環境整備

幸福そのものではないが、富裕や高学歴みたいに幸福になるための環境整備はあると思います。

ただそれは、金とか学歴よりも、もっと抽象的で、もっと現実的で、もっと役に立つことです。

それは、知識・経験、技術、自由という抽象的なことです。
やりたいこと、興味のあることを見つけるにしても、まずベースとなる絶対知識量があります。洋菓子職人になるんだー!とかいう願望は、まずガビーンとなるくらい美味しいものを食べた経験がなければ出てこないと思うし、どっかの国のどっかの地方にある16世紀から伝わっている伝統の○○が、この世のものとは思えないくらい美味で〜というのを知らないと、そういう欲求はでてこないでしょ?

これらは広範な雑学がなきゃダメでしょ。少なくともテレビや雑誌、ネットでちょろっと特集されているようなレベルではダメだと思います。もっと本格的にのめりこまないとだし、そのキッカケとなりうる広大な土壌がいります。だから、どんなことでもとりあえず頭のデーターベースにぶち込んでおくような日々の精神活動はいるよね。なんでもコマメに調べてみるとか。なんでもやってみると。やってみたら意外と面白かった(つまらなかった)というのはありますからね。だいたいピピッとはまる確率って、タイミングやそのときの気分によるけど、千のうち一回でもあったら御の字とか、そのくらいのレベルだと思いますよ。

次にそれを志したとしても、それを実現できるだけの実力はいります。そこではじめてお金が出てきたりもするし、語学力とかも出てくる。また根性とか、優れた戦略性とか、短期間に精密に調べる調査能力とか、誰にでも「やあ、どうも」と接していける社交性にせよ、多少うまくいかなくても全然メゲない鉄のメンタルとか、そういったものはあればあるだけいいですよね。

最後に自由。それを思い立っても、あっちこっちにシガラミだらけで全然動けない〜というのでは絵に描いた餅で悲しいですからね。でも、自由とかいっても、自分の割り切り決断一つって部分はあります。断捨離みたいなもので、なんとなく踏ん切りがつかないままダラダラと〜という程度の事柄も、あたかも神聖不可侵のシガラミのように思い込んでる場合も多いです。とりあえずは、将来の自由を束縛するような無駄なシガラミは作らないようにしておくこと、第二に、いざというときにバッサリ斬れるくらいのメンタルも養っておくことですねー。

でね、難関目指して、富裕を目指しても別にいいんですよね。それ自体は幸福の環境になるかどうか微妙だったりするけど、それを実行していく過程で、これらの知識経験技術は得られますから。けっこう効率よく得られるような気もするので、別に世俗的な成功を目指すこと自体は悪いことではないっす。あくまで割り切っておけば、って話だけど。ただ、世俗的な成功には強烈なシガラミが発生するし、またせっかく得た地位を手放すという切なさも襲ってきますから、そこも割り切れるように。

いずれにせよ、幸福というのはなにか象徴的な記号ではありえず、「変化する感情の一瞬にゆらめき」みたいなものに宿りますから、極論すれば一切の準備は不要で、今この瞬間にも味わえる。なにかを動かして、あるいは自分が動いて、あるは動かなくても考え方や見方をちょっとズラせば、「おお!」と思う心の動きはできますし、それが幸福なんだろうなって思うのですよ。

ただ、それがいともたやすくできるのは、かなり達人レベルであって、誰にでも出来るわけではない。てか、僕だっていうだけで全然出来ないし。だから、まあ、それをゴールにするのも一つの手ですよね。





文責:田村


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