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Essay 902:「仕事(職業)」と「しごと(生きる本質)」

 〜ごく自然にやりたいと思い、なんの目的性も持たないことが最上位にくる


2019年02月03日

写真は、かつてのヤバい街だった面影も徐々に薄れ、普通の街になりつつあるRedfern



「しごと」とは「生きる」こと

 あれこれ仕事をしている毎日なのですが、しかし、本当の「しごと」をしたいな〜、と思う今日このごろです。

 本当の「しごと」(いわゆる一般の「職業」と区別するために平仮名で書きます)とは、

 谷に水を汲みに行ったり、
 食糧を調達して、メシを食ったり、
 家の修理をしたり、草むしりをしたり
 大切な人の笑顔を見たり
 子供達が寝付くまで童話を読み聞かせてあげたり、
 古い友だちに手紙を書いたり

 することをいうのだと思います。

 いわば「生きる」ことに本質的な行為がそれであって、そういう「しごと」こそしたいと思うわけです。

 は?何言ってるの?と思われるでしょうから、さらに「しごと」と思われることがらを羅列すると、

 好きな人の笑顔を見たい一心であれこれイジこい努力をするとか
 我が子の幸せのために敢えて心を鬼にして叱ったりとか
 でも、そのあとで本当にあれで良かったのかと不安になって手のひら返したように妙に優しくなってみたりとか
 遠方より訪ねてくれた友と酒を酌み交わしたいとか
 自分が誰かの役に立つのであれば、頑張って動いて力になりたいとか
 あの山の向こうはどうなってるのか知りたいとか
 自分がどれほどのものか試してみたいとか
 そうは思いつつも、思い切りがつかず、時間ばかりが無為に過ぎて、そういうビビリな自分にうんざりしたりとか
 自分のなかに潜在的ななにかがあるなら、それを引き出してより良い自分になりたいとか
 でも思ってたほど凄い自分じゃなかったのが判明して凹んだり、ヘタレたりするとか

 いくらでもあります。

 こういったことは、人として生まれたからには、ごく自然とやりたくなったりするし、ほっといてもやるだろうし、またすべきことでもあります。

 そういう事柄を「しごと」というのではないか?
 よく「赤ちゃんの仕事は泣くことだ」とかいいますし、「子供の仕事は遊ぶことだ」とか。
 生まれてから死ぬまで、一個の生物として、普通そうするよね、大体やるよね、なんだかんだ言ってもやっておいた方がいいよねって一連のものごとです。

 わかります?まだ分からんよね(笑)。
 ま、いろいろな次元のものごとをごちゃ混ぜに書いてるから、統一的なカテゴリーがよくわからないのかもしれないです。

 上に列挙した事柄をいくつかのカテゴリーに分類するならば、
 (1)生命維持という直接の必要によって生じるあれこれ(衣食住など)
 (2)社会(他者)とのふれあいのなかで生じるあれこれ(友、愛情、家族など)
 (3)自分に関するあれこれ(自己実現、存在意義、自己可能性の探求)

 などに分類できるかと思います。
 これで多少はわかりやすくなったかもしれませんね。

 でもね、こんなの全然分類になってないです。
 だって同時にいくつも重なり合うもん。例えば、食糧調達とか調理は(1)なんだけど、そこに美味しいものを恋人に食べさせたいと思えば(2)が重なるし、調理の腕を奮って皆に喜んで貰えれば、自分の存在を確認するという満足感が得られて(3)も兼ねる。一つの事例が3カテゴリー同時に重なるのであれば、それはカテゴリーじゃないよね。こういう観点から見れば〜という、単なる視点設定です。

 僕が何をもって「しごと」といっているのかといえば、そういう局面別とか効果別ではなく、生きてれば自然にやりたくなることです。ここで小難しく、モチベーションの内発性とか、動機の自然性とかスポンテニアスな感じとか説明するほどややこしくなるので、それはやめて、要は「生きてりゃやりたくなるでしょ」って部分です。

 生きてればごく自然にやりたくなること=それをすること=それが「生きる」ってことなんだろうなって思うわけですよね。だって、「生物の仕事」は「生きる」ことですから。その直接性とか、生きる本能に近い感じ、ダイレクトな感じが強ければ強いほど「しごと」という感じがするのです。

なんのために?がない

 別の言い方をすれば、「なんのために」が無い欲求です。自分の子供の笑顔が見たいのも、自分がどれだけ強いか試したいのも、ごく自然に発生するものであり、何かを成し遂げるためのワンステップとしてやりたいわけではない。欲求の最高位であり、終着駅である。「何かのために」という関係がない。

 男の子がバイクでカッ飛ばしたいのも、女の子が美味しいケーキを食べたいのも、好きな人に明日も会いたいと思うのも、別に何かの目的あってのことではない。ただただ純粋にそれがしたいだけ。

 そこを、わからず屋の大人(出来の悪いの教師とか親とか上司とか)が、なぜやりたいのか?なぜそんなことをしなければならないのか?をしつこく問い続けていけば、単に「やりたいから」「気持いいから」というアホみたいな答になってしまう。そのアホさをもって、未熟な大人は、鬼の首を取ったように勝ち誇り、いつまでもそんなコドモじみたこと言ってんじゃないと説教垂れるという構造になる。

 しかし、馬鹿な大人にはわからないかもしれないが、賢い大人なら皆知っている。このアホアホさ、この論理性の無さこそが、それが至高の願望であることの証明なのだ。理屈で説明出来てるうちは、大した願望でもないわね。

いわゆる仕事(職業)とお金の関係

お金は関係ないし 

 こういった「しごと」は、ごく自然にやりたくなるので=何のために?とか小理屈抜きでやりたくなるので、えてして強烈な欲求になります。その欲求が強烈であるから、「しごと」とかいいながら全然儲からなくてもやる。てかお金を払ってでもやりたいと思う。

 ここで誤解してほしくないのは、本来の「しごと」は常にお金が必要だとか言ってるわけではないですよ。お金なんか必要ない場合も多々あります。人間関係を豊かにするのは、相手の立場や苦悩に対する深い理解であり、必要があれば「ごめんなさい」と言える素直さだったりするわけで、別に金の有無は関係ない。

 言いたいのは、本来の「しごと」においては、お金は基軸にならないという点です。それをすることでお金が出ていくこともあろうし、逆にお金が入ってくることもあろうし、増えも減りもしないこともあろうし、要は特に関係ない、ということです。

 でも、ここが結構ネックになって、あれこれ迷うのですよね。特に職業という意味での「仕事」との関係で混乱します。以下、それらの点を。

職業=金銭獲得活動

 「しごと」は、お金を払ってでもやりたいと思うので、往々にしてお金が必要になり、だから金を稼ぐ/稼がねばならないという状況になる。

 稼がねばならないから、多くの場合、誰でも「仕事」(職業)をします。せざるを得ない。ただし、何が目的で何が手段かでいえば、目的は「しごと」であり、お金は目的を達成するための手段であり、さらにそのお金の「獲得活動」というのは手段の手段に過ぎない。「しごと」に比べて「仕事(職業)」は2段階以上下位にランクされるべき末端です。

 世間でいういわゆる「仕事」は、煎じ詰めればただの金銭獲得活動であって、本来の「しごと」を容易ならしめるための環境整備に過ぎないと思います。いつも言ってることだけど。

手段の価値倒錯

 ただ、お金があったら、本来の「しごと」も簡単に済みます。
 必死こいて食糧を探さなくてもお金を払えば容易に調達できるし、自分でわざわざ調理する必要もない。家事もヘルパーさんを雇えば済む。

 そんなこんなで、「生きること(人生)の本質」とも言うべき=「しごと」が単なる金銭消費活動に置き換えられ、そのために猛烈に金が必要になり、手段であるはずの金銭獲得活動に全精力が注がれるようになったりもする。

 なにかが本質的にズレていないか?

 本質的にズレているから、本来得られるべき満ち足りた感じ(生きがいとか)もまた浅くなる。それはそうでしょう。手段ばっかりやってて、肝心な目的は金で済ませているのだから、そりゃ満足感が薄くなるのも理の当然。

お金洗脳と快楽道

 ココ、すげー大事なことだと思うから、重複を恐れずもう一度書きます。

 「しごと」(ごく自然にやりたくなる至高の願望)をするために有効な道具や環境をお金で買うことが出来ます。「おいしいものが食べたい」とは誰もが思いますが、そのためには食糧を(合法的に)調達して、調理するという過程が必要。自分で農地買って、農作物を栽培するとか、釣りにいくとか、料理するとか膨大な手間ひまがかかる。でも、お金を払ったらプロが調理した美味しいものが食べられる。一般にお金を払えば払うほど、美味しいものが食べられる。だからお金が欲しいし、お金がなければ食べられないという気になる。

 ちょちょちょ、、、ちょっと待って、
 うぇいうぇいうぇい、wait a moment、上伊那木綿

 そこ、飛躍してるって。
 確かにお金があるほど美味しいものが食べられますけど、でもそれは数ある解決の道筋の一つでしかない。ずっと昔のエッセイで「お金がなければ不幸になっちゃう病」って書いたことがあるけど、それトリックというか、洗脳というか、知らないうちに思考の道筋を型にはめられてますよ。

 「おいしいものを食べたい」というのは、実は「アートとはなにか?」「いい音楽とはなにか?」というくらい奥が深く、間口も広いものですよ。人はどうなると気持良くなるか?どうすれば快楽を得られるか?という「快楽道」みたいなものがあるとしたら、それはそれは厳しいも楽しい巨大ワールドなのだ。

 その証拠というか、いくつか指摘しますが、そもそもですね「おいしい」と感じるのも、実は無数の要素が複雑に入り混じっているのですよ。空腹は最高の調味料というけど、まず自分が健康に空腹であるというコンディションを作るべしです。気分悪かったらなんぼ金使っても快楽には至らない。また、「おいしい」という感情は非常に主観的で曖昧だから、誰と一緒に食べるか、どういうスチュで食べるかによっても全然違う。緊張したり不安だったり、不愉快だったら、味なんか全然わからんこともありうる。だからそこらへんの調整は実務上めちゃくちゃ大事なのだ。

 さらに、同じ「おいしい」に混入される主観感情でも、達成感が入る場合もある。自分が苦労して釣り上げた魚、自分が丹精込めてつくった野菜の美味さは、高級料亭のそれをはるかに超える場合もあるのだ。さらに料理に工夫を凝らして、思い通りの味になったときなど。これらは、おいしさ×喜びという複雑な二重奏になるのであり、その快感度は、単に金で得られる快感などの比較にならない。

 また同じ金払って食べに行くにしても鑑賞能力がある。ある程度自分で出来る(料理でもなんでも)方が、鑑賞能力は高まる。また経営的な観点もある。何を言ってるかというと、これだけの店をかまえるのにどれだけランニングコストがいるか、そしてこれだけの一品を作るためには、どんだけ睡眠時間を削って前の晩から仕込みをしなければならないか、これだけ忙しいにも関わらずここまで丁寧な仕事できるとはとか、それをこの値段で提供するというのは、よっぽど好きでないと出来ないよとか。おいしいお店は、シェフと対話できる店だと思いますが、そのあたりが感動を誘うのですよね。ああ、このシェフ(経営者)は、本気で美味しいものをみんなに食べてもらいたいんだなーって、その心がなんとなく伝わって、こちらの胸を打つ(違ってるかもしれないし、単にこちらの思い込みなのだが)、その快感度は、単なる味覚を超えてはるかに大きいです。

 さらに、観点を変えて、都心で高い金だして料理を買うよりも、自分から自然の豊かな田舎にでかけていって、漁港の近くの普通のローカルのお店で、さっき取れたばかりの魚を食べるのが一番いいとも言える。その電車賃がかかるから結局金の問題だろって言うかもしれないけど、最初からそこに住めばいいし、定期的にそういったところに出張するような職業を選ぶなり作るなりするなど、そういう工夫の仕方もある。今でも覚えてるけど、その昔、皆で海にいったときに、スキューバやってるやつが取ってきてくれて、その場でダイバーナイフで調理してくれたサザエがあって、後にも先にもあんな美味い海鮮物食ったことがないってくらいでした。また、仕事で舞鶴にいったとき、1時間に一本もこない列車待ちのためにローカルの小さな食堂に入って食ったブリの塩焼きは感動レベルの美味しさで、いまでも又食いたいと思う。総じていえば、うまいもん食いたいなら足で稼げです。「足で稼げ」はなんでもそうだけど。

 さらに、恋女房の味とか、おふくろの味とか、貧乏学生にコロッケ一つおまけしてくれた学食のおばちゃんの人情の味とか、「おいしいもの」って簡単にいうけど、その世界はまさに宇宙のように広いのだ。快楽道を舐めんじゃねえって感じ。

 そして、それらに出会ったり、思わず出くわしたり、スカ食らったりしているのが、生きていく楽しみであり、それこそが人生の醍醐味ではないのか?と思う。

 それをやね、単に金払って美味しいものを得るというワンパターンな思考水路に収斂させてしまうのってアホちゃう?ってか、めちゃくちゃ勿体無いことしとんでー、自分?って感じよね。ま、資本主義の毒牙にかかるとか、高度消費社会の陥穽とか、それっぽい(しゃらくさい)言葉で語れもするけど、どーして、そんなに簡単に洗脳されちゃうの?

 まあ、なぜか?でいえば、まだ本当の快楽をそんなに知らないからなのでしょうね。一回知ってしまったら、病みつきになるし、そうは騙されなくなるよね。一般的にいえば、快楽道を進むほど、お金との適正距離が保てるようになるとは思います。お金の有効な使い方というか、お金が無ければ無いなりも幾らでも楽しいやりかたを思いつけるとか。

 あー、書いてて思ったけど、高度消費社会(とにかく皆に金を使わせてなんぼ社会)の弊害の一つに、自由うな創造力を阻害する点もあるのでしょう。幸福へのなりかたなんか無限にあります。別にそれが「道」である必要もない。大草原のなかの一軒家に向かうようなもので、草原をどう歩こうが勝手なんだわ。でも、お金=購入/消費という道筋を作ることで、その自由な幸福創造力を壊してしまうって部分はあるかな。今の日本でいえば、全ての日常の幸福はコンビニの棚にあるみたいな感じで、売ってなかったらもう終わり。

 しっかし、自分で起業してみたら(反対側から見たら)わかると思うけど、この世の中に楽しいこと、面白いことは星の数ほどあるんだけど、それで「稼ぐ」となると極端に限定されるのですよ。ツアーでもそうだけど、それぞれの地元で楽しい物事とか場所とか結構あるんだけど、その楽しさってやってみないと分からないし、やったことない人には伝わらない。だから商品化しにくい。また手間暇考えて、1日つききりでアテンドするなら、最低でも一人1万円くらいもらわないと割に合わなかったりするんだけど、1万円も出してやるほどのことか?って気もするしね。

 だから世の中、商品化できない楽しいこと、大したことなんだけどやってみたら面白い、意外といい気分になれる、いろいろ考えさせられるってことは多いのですよ。そのうちで、いろいろな諸条件がたまたま重なり合ったほんの一部だけが商品化されてるだけのことで、逆に言えば、商品化されていることだけで(お金を使って)快楽を得ようとしても、不毛というか、おっそろしく効率の悪いことしてると思います。

 だけど、お金使わなくてもこんなに面白いってのがわかってしまったら、誰もお金使わなくなって、経済が停滞するから、それではまずいので洗脳されていただきたいってことなんでしょう。ブームとか流行りとかいうのもそうだし。まあ、それはそれでわかりますし、批判する気もないです。それで皆メシ食ってたりするわけだから、ある程度はいいよ。だけど、それしかないって思うのは、どう考えても損だと思いますよ。

 考えてみれば、サーフィンにせよ、バードウォッチングにせよ、裏町散歩にせよ、旅行にせよ、その種の行動を示す「名前」がつく前に、面白いからやってる人はやってたと思うのですよ。芝スキーとか、ピンポンダッシュとか(そんな名前も俺らの頃にはついてなかったが)、人間の感性というのは実に柔軟で面白いもので、何もなくてもすぐ面白いこと、興が乗るようなことを考えるわけですよ。それを名前がついてないとダメとか、雑誌とかブログで読まないとわからないとか、要は自分でゼロから作れないとなると、これは重症だにゃあって気もしますね。なんで自分で思いつかないのか、僕にとっては、その方が不思議だけど。

 いずれにせよ言いたいのは、お金は必要だけど、手段として必要なだけで、その手段に洗脳されていたらしょーもないよってことです。

 それがさっきから書いてる「本質的にズレている」ってことです。
 手段で盛り上がっても、しょせんは手段であって本丸に切り込んでないから満足感が浅いのは当然だと、それが一つ。もう一つは、一つの手段に振り回されて、目的を見失い、他の手段も思いつかないという自由思考の退化というのもあると思います。

「しごと」をしよう 

 冒頭に帰って、「しごと」ですけど、生きてれば自然にやりたくなったり、その過程で自然に出てきてしまう感情であったり、そのあたりひっくるめて「しごと」と呼んでるわけですし、そのあたりをひっくるめて「生きる」ってそういうことだろ?って思うわけです。

 冒頭の羅列で、特に幸福感を抱かない「うじうじ悩む」なんてことも「しごと」に入れてますけど、生きてりゃ自然にそういう感情も湧いてきますし、そういう部分をスルーしていきなりゴールなんてことは不可能でしょ。それもこれもひっくるめて、だと思います。

 だもんで、英語がぜんぜん伸びなくて悩んでいるとか、ワーホリさんがやっとの思いでジャパレスの仕事をゲットしたはいいけど、今度は毎日毎日ラーメン運びばっかで、そんなことやりにオーストラリアに来たのかって激しく悩んだりするのも「しごと」だと僕は思う。いやー、「いいしごと」してんなー、Good Jobだなーって。

 結婚してるのに他の人を好きになってしまいましたとか、意図してなかったんだけど結果的に二股状態になってしまって、しかも最悪の形で破局を迎えましたとかいうのも、グッジョブですね〜。いやあ、やってるなあ〜、しごとしてるな〜って(笑)。

 だから、何度も言うように、自然にやりたいとか、自然にそうなってしまったというのが「しごと」であるわけだし、何の目的もなくやってること自体が、実は至高の目的だったりするんだってことです。しつこくて悪いけど、ここはわかりにくいと思うので。

職業(仕事)でもあり「しごと」でもあること


 ちなみに一般の職業はどうなんだ、あれは全然「しごと」じゃないのか?っていえば、そんなことないですよ。大きなフレームとしては、金銭獲得活動であり、大事なのはカネを得ることであり、そのための「手続」として(イヤイヤでも)やるのが職業であり、「仕事」ですよ。

 でもね、個々の局面においては、ごく自然にやりたくなったりすることも多いのですよ。「もうちょっと何とかなるんじゃないか」「こうした方がお客さんが喜ぶんじゃないか」とかと思って工夫したくなったり、ときには本題の金儲け(雇用者企業の利潤&自分の給料)という点から離れてやりたくなったりすることもある。あるいは、お金稼ぎとやりたい「しごと」が調和する美しい瞬間もあります。

 ゼニカネのために始めたんだけど、途中でゼニカネの問題じゃなくなってしまうことは多々ありますし、ゼニカネ路線は逸脱してないのだけど、ゼニカネ以上のなにかが上乗せされる場合もあるでしょう。

 てかね、多くの職業倫理であるとか、仕事してると偉いと言われている本質は、「稼いでいるから」では「ない」ですよ。それが何らかの形で世のため人のためになってるという実質部分こそが称賛と評価の中核でしょ?あるいはステイタスとか、自己承認願望なんかとリンクするからだったりね。

 一般の職業(仕事)が混乱を招きがちなのは、
 (1)純粋に金銭ゲットという要素
 (2)「しごと」としての要素  この二つがごちゃ混ぜになってるのが、世間でいう職業・仕事ですよね。

 それは、本当にケースバイケースで、給料がいいからやってるだけで、「しごと」的な要素(自然にやりたくなるかどうか)でいえば、ゼロかマイナスだって場合もあるでしょう。お年寄りを騙したり、脅したりして無理やり法外なお金をふんだくる悪徳リフォーム業者とか、「しごと」的にはマイナスでしょう。でもお金にはなるとか。

 人間欲張りだから、(1)も(2)もマックスで満たされたいとか思うのだけど(給料もいいし、やりがいもある)、それは二兎を追う者は一兎をも得ずというか、虻蜂取らずというか、無いことはないけどマレだと考えた方がいいでしょうね。仕事は金って割り切ったほうが早いです。

 じゃあ「しごと」(やり甲斐や楽しさ)はどうすんだっていえば、だから生きてる全てがその対象になるんだから、別に困りはしないでしょうが。転職すべきか悩むこと、それ自体がもう立派に「しごと」なんだと思えばいいです。

 だって実際そうじゃん。人生なんか、そういうことの連続と集積で出来てるもんさ。

 あと、仕事(職業)に自己実現出来ないなら、趣味の世界に生きるかってニ分法があります。釣りバカ日誌的な。でも、これもハマる人にはハマるけど、ハマらない人にはハマらない。給料安くてもいいよ、ゼロでもいいよ、俺にはコレがあるもんって言える人ばかりじゃないですからね。でもって無理やり趣味とか始めたりするんだけど、そういうときに限って、何やってもなかなかハマらないのよね。そのうち楽しくなるだろうと思って我慢してやってても、全然楽しくならない。だから辛くなるという。

 なんかいつも思うけど、なんでそんなに他人が作った思考パターンに縛られるんかな?と。仕事 or 趣味とかさ。仕事=金=ステイタスとかさ。

 世界の実相というのは、僕が思うに、もっとなんかナマコみたいな、アメフラシみたいな、イソギンチャクみたいな、磯に住んでるウニャウニャした生き物みたいな感じで、そんな直線でパンパン割り切れるものじゃないと思う。そのウニャ〜に、どこにどう線を引いて、どういう分割をして、どういうパターン付をするかは、それはあなたの自由にやればいい。

 今回「しごと」という、あまり聞き慣れない概念を持ち出したのも、自分のなかでなんとなく感じてるものを言語化・概念化したらそうなったというだけのことです。自然にやりたいってこと、何の目的性ももたないもの、それらこそが最上位にくるのであり、それが「生きる」という本質に一番近いので、すなわち「しごと」だろ?ってことです。そう考えると、わりとスッキリ頭が整理されるかもって。それだけのことです。


文責:田村


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