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Essay 901:絶対価値と相対価値

 〜「他人に自己規定をしてもらう」ことをおかしいとは思わないのか?


2019年01月06日

写真はCronulla Beachの夜明け〜こういう風景をコンスタントに楽しめるのが早朝バイトの良さです



 体験談の校正やディープな補充質問のやりとりをしていたのですが、「あー、これは腰を据えて言った方がいいかな」って思ったことがあるので書きます。結構、ややこしい話ですし。

 世の中には、価値があるもの/ないもの、良いもの/悪いもの、好きなもの/キライなものがあります。

 これら価値の有無/程度を語る場合、なんとなく相互に比較してAはBよりも「価値がある(良い、好き)」とかいっているような気がするでしょう。英文法でいう比較級や最上級。"〜er than"とか"〜est"とか。

 あらゆるモノが比較の対象になります。Aさんの方がカッコいいとか、優秀だとか、才能があるとか、背が高いとか、喧嘩が強いとか、足が速いとか、年収が多いとか。こちらの店の方が美味しいとか、値段が高いとか、有名だとか、ステイタスが高いとか、いろいろ受賞しているとか、「格」が上だとか下だとか。

 では価値(≒好き)というのは比較をしないと生じない概念なのか?
 そんなことないよ、なんとなくそう思わされているだけで、本来、比較と価値とは関係ないというのが今回の主題です。

 そして比較と価値は関係ないことの最たる事例が自分自身であり、こと自分に関しては、間違っても比較して自己規定(アイデンティティ)を決めるようなことはしなさんな、というのも今回の主旨です。

 久々に長いの書いたので、じっくりお読み下さいまし。

使用価値と交換価値

 価値については、よく語られる使用価値交換価値があります。無ければ困る必需品は使用価値はすごく高い。だけど交換価値は全然高くなかったりします。例えば「空気」、例えば「水」。無いと非常に困ります。てかすぐ死にます。命の重さと同じくらい重大な価値をはらむんだけど、でも空気なんか無料同然だし、水にしたって交換価値は低い。

 逆になんの使用価値もなかったとしても交換価値だけ高いものもあります。貴金属などがそうです。ダイヤなんかあっても腹は膨れないし、船が難破したり山で遭難するなど、生きるか死ぬかの瀬戸際では、ダイヤなんかクソの役にも立たない。にもかかわらず交換価値は高い。だから資産になる。また「他人に見せびらしていい気分に浸る」「高価な宝石を身に着けている私は同じように高貴な人間なのだと虎の威を借る狐的な錯覚をしていい気分に浸れる」とか、幻覚ドラッグ的な使用価値もあります。

自然価値

 過去のエッセイでもしばしば書いてますが、使用価値でも交換価値でもない「自然(存在)価値」というのがあります。

 自分の子供や家族、恋人、親しい友だちとか人系が多いですが、まずこれらに交換価値はない。人身売買とか、それに近い政略結婚・閨閥政治をするのでなければ、ひとりの人間をなにかと「交換」するとかいうのはありえない。次に使用価値ですが、自分の子供が可愛いのは、ひとえに自分の子供だからでしょう。そりゃ自分の子供が優秀だから世間に「自慢できる」という「使用価値」もないわけではない。あるいは老後の面倒を見てもらおうという魂胆があるのかもしれない。はたまた「自分の」子供だからという自己愛の延長として可愛いというのもあるかもしれない。まあ、そういう部分も否定はしませんが、どっちかというと邪道、少なくとも王道ではないでしょう。世のお母さん・お父さんが我が子を可愛いと思うのは、そんな理由「だけ」ではないと思います。その子がただ「居る」というだけで価値を感じるでしょう。

 「出来の悪い子ほど可愛い」といいますが、好き嫌いと優秀無能とは必ずもリンクしない。友達だって、恋人だって、なんか欠点があったほうが愛嬌に感じる場合も多い。あまりにも完全無欠過ぎてしまうと、(尊敬はするけど)好きにはなりにくい。「またお前か!」と先生にいつも怒られている生徒が、クラスの人気者だったりもする。恋人でも容姿端麗のほうが良いというのは一般解に過ぎず、こと自分の個別解においては、お腹がぽよぽよしてるのがヌイグルミ的に可愛いとか、困ったような顔で笑うところが好きとか、世間の相場はあんまり関係ない。夫婦でも、年取ってお互いの容姿が劣化したとしても、だから醒めるというものでもない。ペットだって老齢になるにつれて愛情が醒めるということもないでしょ。


 また、自分の子供でなくても、およそ子供だったら可愛いと感じる人もいるでしょう。もっといえば、別に子供じゃなくたって、或いは自分の身内じゃなくたって、究極的には「そこに人がいる」というだけで無限の価値を見出すことが出来る。

存在価値こそが王道

 ちょい話は横道に逸れますが、「居るだけで価値がある」とする自然(存在)価値の発想は、僕のオリジナルでもなんでもなく、近代法はそこが原点です。この地上に「ひとりの人間」以上に価値あるものはなく、その究極価値を守るため、あるいは一人の人間がより十全たる価値実現をはたすためのインフラ整備として、国家があったり、法律があったり、経済があったりするわけです。これは近代法のイロハのイであり、国家のために個人があるという発想は、近代以前の中世の発想であり、数百年時代遅れです。これも僕の私見ではなく、あまりにも当たり前すぎる近代思想や近代社会科学の常識です。

 その近代法の精神でいえば、その人(あなたが)が価値があるのは、なにかに卓越してるからでもなく、優秀だからでもなく、高く売れるからでもなく(笑)、単にそこにあなたが「居る」からです。人がひとりそこに居るということは、とんでもなく凄いことなんだ、これを上回る価値はこの世にはないんだってことです。ただ、このことが感覚的にピンとくるかどうかは、人によりけり。ピンと来ない人も多いとは思うけど。

 ちなみに日本の明治憲法(1889年)は、ルソーやロックが啓蒙思想を広め(1762年)、実際にフランス革命(1789)など人権メインの政治システムが構築された百年ほど遅れて作られたものなんだけど、西欧列強からいったい何を学んでいたのか?と思うくらいそこらへんは無頓着で、新国家の基盤を増強するため(or 薩長の利権保護のため)ばかりにフォーカスされ、国民のために国家があるという大原則をガン無視してます。だから、日本の明治は世界の政治思想史的にいえば、まだ「中世」だと思います。江戸時代と大差ない。当時でも中江兆民とかが「こんなもんクソじゃあ」と悲憤してたそうだけど、ある程度モノが見えてる人らにとっては同胞の馬鹿さ加減が悲しかっただろうなー。

 戦後の新憲法にしても、憲法自体はよく出来ているんだけど、それをとりまく人々がついていけてなくて、依然として中世のまんまですよねー。はて日本はいつ「近代」になるのだろうか。「集団のために個人はある」「個人は集団の部品に過ぎない」という発想が完璧に無くなったら、ようやく始まるんだろうけど、22世紀くらいまで待たなきゃならんのですかね。ただ、この「母集団あってこその自分」というフォーマットが、アイデンティティに大きな悪影響を与えるし、それが本稿の主題でもあるのですが、おいおい述べます。

 閑話休題。自然価値の話でした。
 使用価値、交換価値、自然価値と並べてみましたが、また別のカテゴライズもできると思います。それが今回いう、絶対価値と相対価値です。これは僕独自の造語であって、一般的に語られているものではないです。「こういうことが言いたい」という概念・感覚がまずあって、それをネーミングするなら、例えば絶対・相対価値とでも呼んだらいいかな?という程度の意味です。

絶対価値と相対価値

 絶対価値は、自然価値とほとんどイコールだと思いますが、要するに「比べられない」ものです。まあ、比べようと思えばなんだって比べられますから、「比べること自体に違和感があるもの」「比べること自体に禁忌感をいだくもの(比較することに抵抗のあるもの)」と言い換えてもいいかと思います。

 あなたに二人の子供がいて、長男(女)と次男(女)とどっちが好きかといわれたら、答えられるでしょうか。そりゃ、顔立ちという意味ではこっちがいいけど、自分と波長が合うのはこっちでとか論評することは可能だとは思いますよ。でもそんなことを声高に語ること、ましてや当の子供達に言うことに抵抗を感じませんか?素朴に言えば、どっちも等しく価値があるし、どっちも好きだし、そんなの比べられないし、比べるべきではないし、比べることに抵抗感を抱くのではないですか?

 それが「絶対価値」です。

 一方、相対価値は、何かと比較することで初めて価値が生じるものです。
 金メダル(一等賞)は、二番や三番がいるからこそ価値が生じる。そういう比較対象をやって初めて価値が出る。相対比較の結果、何番目だったら何番目分の価値が生じる。

 この世に多く目にするもの相対価値でしょう。競争社会やら、偏差値社会やら、ランキングやら、ベスト10やら、クラス内カーストやら、年がら年中比較ばっかやってる。あまりにも比較ばっかやって育ってるから、価値=相対、比較して初めて価値が生じるかのごとく錯覚してしまう。

罪深い相対の錯覚 

 そのように錯覚させてしまう社会のありようというのは、僕はけっこう罪深いと思います。なんでもかんでも順番、比較。上だの下だの、勝っただの負けただの、そんなことばっかやってると、なんか大事なこと(=人類の近代の根本原理)を見落としてしまう、実際に見落としてしまっている人も多いでしょう。

 一番罪深いのは、相対比較=アイデンティティになる点です。

 例えば、校内の平均よりもなにかが優秀だったら「◯が優れている俺」というアイデンティティになる。逆に、周囲よりも劣っていたら、「ダメな私」になってしまう。

 アイデンティティ=自分が自分であることは、本来なら「証明不要の命題」であるはずです。何から何まで疑って、あそこに太陽が見えるけど、本当に太陽なんかあるのか?目の前にお母さんがいるけど、本当にこの人は自分の母親なのか?そもそも親子なんて存在がこの世にあるのか?と、精神病のように全てを疑って疑って疑いまくって、最後に残ったのは「自分」。でもここでこんなことを考えている自分の存在、自分がここにあり、なんか考えているという事実だけは、これは認めないとしょうがないよねーってなった。

 ご存知、哲学者デカルトの「我思う故に我あり」です。カッコつけてラテン語でいえば、「Cogito, ergo sum(コギト・エルゴ・スム)」です。別にそこまで疑わなくてもいいじゃん、ご苦労な人だなーとか思うのですが、でも、人間の認知作用や記憶なんてほんといい加減ですからね、今目の前に見えている現実が、本当に現実なのか、もしかして幻覚ではないのか、本当は死の床にいて、死ぬ間際に見てる走馬灯なのではないかとか、疑おうと思えば疑える。てか、これが現実だと証明する手段はないですからね。でも、走馬灯だろうがなんだろうが、それを考えている、それを見てる主体(自分)がいることだけは否定できない。

 だもんで、自分自身(が存在して、なんか感じたり、考えていること)については証明不要な命題であり、そこは神聖不可侵というか、そこを否定したら全部ぶっ壊れてしまう。だからもうお約束というか、当然の前提というか、自分は居ると。自分が居るからこそ、疑ったり考えたりするわけで、居なかったら最初から疑うとかいう話にもならない。

 つまり、自分にとって自分は別格の存在であり、それを他者と比べたり、相対評価してアイデンティティがどうのとか思うのはナンセンスです。

 それがどれだけナンセンスなのか、トコトン理解すべきだと思います。でないと、ほんと人生の無駄遣いというか、どうでもいいことにこだわって大事な時間を無駄にしたり、せっかくの幸福を台無しにしたりするもんね。

相対比較はしょせん他人の尺度

 以後あれこれ書きますが、本質的なことを先に書いておきます。
 学校の成績がどうのとか社会のステイタスがどうのとか、そんな相対比較って、しょせんはどっかの誰かが決めた尺度であって、自分が考えて決めたことではない。赤の他人の尺度がそんなに大事か?自分が何者であるかくらいは自分で決めろです。そこがズレてるからトータルでクソだと思うのですよ。

 たまたま親とか学校の先生とか上司に受けが悪く、劣等生だの生意気だの不良だの言われ、ダメ人間扱いされることはあるでしょう。だからといって「自分はダメ人間なんだ」って自己規定(アイデンティティ決定)してしまっていいのか?です。

 その他人の判断が正しいという保証がどこにあるんだ?という点もさることながら、「他人に自己規定をしてもらう」ということをおかしいとは思わないのか?その他人は神か?

 なぜこんなヘンテコリンなことが起きるかといえば、一つは、先程の本当の近代になってない点。集団あってこその自分、自分は集団の中の位置付けによって規定されるというフォーマットが抜け切れていないからでしょう。

 もう一つ、集団→自己決定というのは、鞭もあるけどアメもある。とある集団のなかで褒められたり、認められたりするといい気分になれるし、エリート意識も生まれるし、それがアイデンティティ(優れた俺)になる。でも、それは頭ごなしに馬鹿呼ばわりされているのと同じくらい根拠がないのだ。

 今でも覚えているけど、幼児の頃、大人たちの会話での「いい子」とかいう基準が「おとなしいから」だったりして、それって違うだろ?と漠然と思った。「◯ちゃん、おとなしくて、いい子ねえ」とか言われても、は?って感じ。「おとなしい」のが「良い」とする基準は、大人側の管理が楽だという、要するにてめーらの都合だろ?と。まだ5歳くらいだったと思うけど、そんなもんが「良い子」の基準なんかよ?ってすごい違和感あって今でも覚えてる。

 その頃からか、お前(大人ども)の都合によって、自分のことを規定されてたまるか、という意識はありました。だって今考えたっておかしいもん。

 でもこの世の相対評価なんか、おしなべてそんなもんですよ。国家のために有意な人材とか、坊主頭を「高校生らしく爽やかな」とかいうアナクロ親父の感傷とか、進学率が高くなって経営が楽になる学校サイドとか、醜聞(事実なのだが)を必死にもみ消そうとしたり内部で犯人探しをする企業とか、不正な行為を批判されるのがイヤだから「反日」呼ばわりして防衛しようとする当局とか、要するに「てめーらの都合」ばっかで、他人にレッテルを貼ろうとするクソみたいな現実がある。

 それだけでも大概ムカつくんだけど、そんな手前勝手な都合や尺度で、自分のアイデンティティまで決定されてしまう、影響を与えられてしまうというのだけは我慢できないですね。

 単に勉強がキライだというだけで、落ちこぼれて不良よばわりされて、それでも自らの尊厳を回復するためには粗暴な手段しか見つからなくてヤンキーやってた奴とか、生徒会やって学校とガチに対決してたような人だったら、この矛盾の最前線にいたから分かると思う。そうでなくても「け」という気持ちを抱いたことはあったと思う。薄汚ねえモン目の前に差し出されて、さあ食えとか言われたら、誰だって「ふざんけんじゃねえ」って思いますよ。

 ただし、そこで先にアメをもらっちゃうと話は微妙になる。いい子ねと褒められて、キミは優秀だから、エリートだからって言われていい気になって、舞い上がってしまうと、それがアイデンティティになりがちなんですよねー。最初からディスられていた方が気づきやすい。

 いずれにせよ、周囲や集団によってアイデンティティが作られるというヤバイ危機は、日本の場合、小中校とずっとあると思います。

相対の便宜性と無内容さ

 そうはいってもクラスの中で数学の成績が良かったとか悪かったとか、全校生徒中100番目だったとか、全受験生のなかで偏差値53の位置にいるとか、仲間のなかで一番モテないのは俺だとか、チームで一番下手くそで足引っ張ってるのは私だとか、そういう客観的な自分の立ち位置というのはありますよ。それはそれで知っておくべき、一般資料としてね。

 だけどね、相対評価なんかクソですよー。もうめっちゃ意味ない。以下、上に書いた「集団の都合」とは別に、相対評価の無内容ぶりを書きます。

 相対評価って母集団によっていくらでも変わります。ガリバー旅行記じゃないけど、巨人の国にいったら「チビの自分」であり、小人の国にいったら「巨人の私」になる。たまたま周囲が自分よりも◯◯について優れていたら、劣等感こそが自分のあり方になり、それが自己認識の中核になる。幼い頃からそれが日常環境であったなら(兄弟や家系の皆が優秀だとか)、ダメな自分が核になってしまい、以後どうなるか?打ちのめされて卑屈になっていくか、あるいは表面的に反発して妙にグレたり、あるいは異様に虚勢を張ったり、世間体を気にしたり、異常なくらい他人のあら捜ししてみたりする。

 でもさ、こんなたまたまの偶然、自分の預かり知らないガラガラポンのくじ引きみたいな偶然に、自分のアイデンティティをリンクさせていいのかよ?それって愚の骨頂じゃないの?話を削ぎ落としてシンプルにしていけば、自分が優れた人間だと自覚するか、死んだほうがいいダメ人間だと自覚するかは、サイコロ転がして決めよ〜って言ってるのと同じじゃないですか?

相対比較が適用される限られた局面

 相対比較は、それはそれで有用ですよ。
 それは
 (1)限られた母集団のなかで、
 (2)なにか特定の基準にしたがって
 (3)もっとも目的に適合したものを選ぶ必要がある
 場合には有用です。

 入社試験で誰を合格させるかとか、今度の試合に誰をスタメンで出場させるかとか、限られた予算でこの町で外食しようとするならどの店が一番良いかとか、一枚分しかお金がない中でどっちのCDを買うかとか、そういう機能的でプラクティカルな場面に相対比較は有用です。それはビジネスライクであればあるほどそうなる。

 でもね、そこまで相対比較をなすべき諸条件が揃っている場面なんかそんなに無いです。ましてや試験のように厳正なフォーマットと採点基準があるような場面というのは、実社会ではほとんどないと言ってもいい。

 だから相対比較なんか、言うほどする場面はないし、またする必要もないです。人事だって、ものすごく沢山の基準を考えて決めるものです。成績とか実績でいっても、過去のトータルで決めるか、それとも直近の伸びを基準にするかでもう違う。また、成績とか数字よりも内容そのものが大事だったりもする。あるいは、教育的観点もある。こいつは叩いて伸ばした方が伸びる奴だが、こいつは褒めて育てないとコケるし、こいつは有頂点になると自惚れてそこで失敗するクセがあるとか、そういった性格や将来性まで考えて決めるでしょうよ。そもそもこいつはもっと他の分野にいった方が大成するなと思えば、ここでは無慈悲にダメ出ししておいた方がいいと思う場合もある。さらに、昇進させるにしても、◯部長の下では波長が合わないから多分潰されるだろうな、逆にあいつの方がそこらへんはうまくやるだろうなとか相性の問題もある。それに加えて派閥の均衡とか、旧◯社出身者ばかり昇進させたら依怙贔屓だとか言われて社内の士気が下がるから、ここはバランスをとって、、とか、もうありとあらゆる「基準」がありえます。

 単に優秀だから昇進して、無能だから据え置きなのよってもんではない。ここまで変数が多くなったら、そしてそれが外からは見えずブラックボックスになっていたら、選抜される側からすれば、こんなのただの「運」ですよ。そう思ってた方が間違いがないくらいです。

 あるいは価格COMとかカタログ選びとかいろいろあり、相対評価する場面が多いように思うけど、あそこらへんのレビューだって、人それぞれですしね。第一、相対評価すら出来てないでしょ。たまたま自分が買った機種がいいですよ、悪いですよとそれだけであって、入手可能の全機種を利き酒のように冷静に比べているわけでもない。だから相対評価以下。星が多かったら高評価とかいうのも怪しいです。ああいうのって、一家言ある人とか、そういうレビューを書くのが好きな人とか、うるさ型とか、書くという時点で一定のフィルターがかかる。そういう連中に好まれそうな機種(マニアックっぽい)もあれば、そうでない機種もある。

学校時代の相対評価

 考えてみると、このように相対評価が日常的にやられているのは、小中校の学校時代だけです(大学になればもうかなり緩和されるし)。ただし多感な小中校時代にそればっかやってるので、世の中の真理や原理がそれじゃあ!って、そそっかしくも勘違いしてしまう、愛すべきオッチョコチョイ野郎が大量に輩出されるのもわかる。

 いつぞや通り魔とかイミフな殺人とかありましたけど、中学までは優秀だったけど、進学校に入ったらただの人になってしまって、それが「大きな挫折体験」になって、グレて、ひきこもって、、とか、ここまでくると「愛すべき」「オッチョコチョイ」とか笑ってられないです。

 たかがど田舎の秀才ごとき、リアルタイムの日本全国で何十万人といる。前にも書いたが、仮に「1万人に一人」レベルの超絶的に優秀だったとしても、母数が1億あったら全国で1万人もいるのだ。ましてや百人に一人(学年1位程度)だったら百万人もいる。その中に入ったら、ヒットチャート9000位とか、90万位になったりするわけですよ。それっぱかしの順位なんぞ、広い世間に出てみればほとんど無価値でしょ。さらにいえば、その秀才ランキング上位の猛者達であっても、一人の天才の前には「一山なんぼ」の使い捨ての消耗品でしかない。

 何がいいたいかというと、そんなクソ狭い世界での相対評価なんか、長い人生においては、いっときの座興以上のものではない、ということです。ビーチのアトラクションでスイカ割りをやりました、見事優勝したのは◯さんでーす、程度のことね。そこでやったー!ってつかの間浸ってりゃいい程度であり、間違っても「スイカ割りのうまい俺」というアイデンティティを持つべきではない。そのくらい滑稽なことだよ。

疑似相対価値 

 さんざん相対評価をクサしてるわけですけど、いや、もっとクサすべきだと思いますよね。世の中の相対評価のほとんどがクソだと思うもん。

 例えば、音楽のベストテンとか、映画の興行成績ベストテンとか、やる意味がわからん。まあ、「わかる」といえばわかりますよ。ああやれば、「このくらい見ておかないと」「遅れてるって笑われるかも」という「脅迫」効果はあるだろうし、「これだけ多くの人が見ているんだからきっと名作だろう」とカンチガイする人もいるかもしれないですからね。つまりは商業戦略的には意味がある。でもそれは配給側、サプライサイドの理由であって、消費者サイドの理由ではない。

 しかし、どんな曲が好きかとか、どんな映画が好きかなんかは、すぐれて個人的趣味であって、そんなんで人気投票する意味がわからん。他人と趣味が似通っていて、だからなんだと言うのだ?

 それに人数多くなれば、全体的に平均化されるから、鑑賞能力も低下するでしょ?そんな有象無象の人気投票なんかよりも、鑑賞能力を持つ知人のオススメを聴いたほうがよっぽど意味がある。

 今ではベストテンも寂れているんだと思いますが、それが普通だと思いますよ。だいたい皆して同じ曲を聴いているという情況自体が異常だし、気持ち悪いし。そういうことが生じるのは、とある母集団が生きるか死ぬかの存亡の危機にあり、全員が同じような環境で同じようなことを感じ、だからメンタルも似通っているという異常な情況には起こりうるでしょう(戦後日本と美空ひばりや力道山みたいな)。今の時代にそんなことが生じる必然性なんかないもんね。

 相対価値が意味を持つのは、前に書いたようにシビアなビジネス的局面など限られた分野だと思います。そんなに多くはないし、一般的に広まることもない(企業秘密も多かろうし、選考過程を明らかにすることもない)。

 世の中に出回ってる相対評価は、相対評価の名に値するかどうかも怪しいレベルであり、ありていにいえば「話のネタ」以上の真剣度は持たないでしょう。男子高校生がやってる「クラスで一番の美少女は誰か」的な。

 だから相対価値(相対評価することによって価値が生じるもの)って、意外とそんなにないです。話のネタとしては頻繁にでてくるけど、いざ自分の人生を組み立てるうえで重要なピースになったり、決定的なファクターになったりするか?というと、実はそんなことないですよ。

実は多い絶対価値

 最後に絶対評価を書きます。
 実は、ほとんどモノが絶対価値だと思います。

 さきほど、我が子が二人いたら比べられないという事例を書きましたが、別にそこまで究極の事例を持ち出すまでもなく、僕らが好きキライで言ってるものって、相対評価で出てきたのではなく、絶対評価出てきたものが多いです。

 例えば、音楽が好きな人が、ベスト1に好きな曲はどれですか?と聞かれても、答えられないでしょう。あれもいいし、これも捨てがたいし、あれは超名作だし、あれは人類の至宝ともいうべき曲であって、、とか能書きはいくらでも垂れられるけど、そこから一つだけ選べというのが無理。「好きな百曲を選べ」と言われたら出来るかもしれないけど、一つに絞れとか、1位から百位まで順位をつけろといわれたキレますよね。そんなの比べられるわけがないだろうと。

 大体、◯という曲が好きなのは、「◯よりもマシだから」という相対評価で決めているわけではないんだもん。ただ単純、「お、いい!」ってキたから好きなだけであって、それが全てであり、それが全てであるべきですよね。

 音楽でもアートでも食べ物でもなんでも、ああいう感性一発のものは、相対評価になじまないです。「寿司とラーメンとどっちが好き?」と聞くのが野暮なように、寿司は寿司でその良さがあるし、ラーメンもまたしかりであり、どちらかが優越するというものではない。

 そして、「好きキライ」「いい悪い」というのは、多くの場合は感情的、感性的なものですから、相対評価できないです。何度もいいますが、相対評価というのは、ビジネスや入試のように合目的的な場面に成立するものであって、そんな戦略的に音楽聴いたり、メシくったりしてるわけじゃないですから。

 逆に言えば戦略的にやる場合は相対評価できますよ。なにか作業をしているときに良いBGMになりうる音楽はどれかとか、心を癒やしてくれる音楽はとか、ちょっと小腹が減ってる程度のときに食べたいものはなにかとか、病み上がりでまだお腹がゆるいときに良いのはなにか、ダイエットに適当なのはどれかとか、いずれも合目的的な基準あってのものです。そういう基準ができれば相対評価はしやすい。うーん、これはちょっともたれそうだな、とか。二日酔いでフラフラのときに、焼肉いくぜ〜とか言われても、勘弁してくれよって思うし、「温かいにゅうめんに大根おろし。しらす干しをちんまりと乗っけて」とか言われると、あ、それいいかも、とか思うよ。

 そういう局限された場面も基準もなしに、ただゼネラルに好き、キライでいうなら、ただ単に個別に好き、キライがあるだけのことで、相対なんか関係ない。そんなの考えてない。

 だからほんと話のネタですよね。ロックギタリストのベスト10は?とかさ、その良さ、その凄さを語ることによって反芻し、また感動をあらたにしていい気持ちになりたいから語るだけのことで、大体、あれもいいよね、これもいいいよね、あ、この人を忘れたらバチが当たるとかなんとかいって、結局のところ、みんな凄い、みんな好きという他愛のない結論になだれ込んでいくでしょ。あんなん、本来無理なことを、無理やりやることによって波風をたてて、その波風で遊びましょうってだけのことだけだと思うよ。

 というわけで、何度もいいますが、僕らが好きだのキライだの言ってるものって、「冷静に比較検討した上で結論に達しました」みたいなプロセスで好きになってるわけじゃないですよ。そんなのほとんど無い、てかいっそ絶無といっていいです。

 

自分は別格

 最後に本論ですが、自分自身というのは、究極の絶対価値であり、断じて他者と比べてどうのと考えるべきではないです。まかり間違っても、相対評価の俎上に乗せるべきではない。

 なぜか?
 第一の理由として、自分にとって自分は一般的な存在だからです。生まれてから死ぬまで(もしかしたら死んだあとも)、24時間かたときも離れずに存在するのが自分。これ以上一般的な存在はない。一方、相対評価は「気持ちを癒やしてくれる音楽」「我社のミャンマーの新プロジェクトにふさわしい人材」とか基準があって初めて出てくるものですが、自分というものが一般的な存在である以上、そんな個別局面(個別基準)は意味がない。大体自分にどういう基準をあてはめるのかもよくわからん

 第二の理由は、「我思う故に我あり」で書きましたけど、最後に残るのが自分であり、自分があれこれ思ったり、喜んだり泣いたりしてるのが全ての原点であり、フォーマットです。価値というのは、価値ありと判断する(いいなと思う)あってこそ出てくるのですが、誰が判断するのといえば自分ですよね。自分にとって好きとか、イヤとか、いいとか悪いとか、、、、自分は審査員であり、最終決定権者であり、要するに全知全能の神みたいなものです。それを他と比較すること自体パラドックスというか、滑稽というか、想像できないというか。要するに、自分は別格なんですよね。

 だいたいですね〜、すべて「価値」というものは「評価者」あってこそのものです。誰も鑑賞しない、誰も味合わない、誰も見てなかったら、そこに価値はないです。

 美味しんぼだったか、相模湾の松輪サバ(黄金のサバ)が出てきたと記憶してますが、脂がのってメチャクチャ美味く、ゆえに市場価格も十倍くらいの「価値」があるそうです。だけど、そんなことは当のサバ君にとっては預かり知らぬところです。自分が殺されて、食われて、その味が良いとかいうことなんか、本人にとっては全く意味がない。それは僕ら自身が食われることを考えたらわかるでしょう。同じように、これは薬草になるとか、野菜として食えるとか、不味くて食えないとかいうのも人間どもの勝手な都合であり、それらの「価値」らしきものは、食べる(味わう)ものがいて初めて出てくるものです。

 そしてこの世界の全てのものの価値を決めるのは、他ならぬ自分自身です。自分にとって意味があるか、価値があるか、好きか、いいと思うか、それが全てでしょう。その自分がいなかったら、この世には価値は生じないのだ。つまり自分というのは、この世界の全ての価値の評価者である以上に、創造者でもある。自分自身の立ち位置というのは、まさにそこにあるのだと思う。

 無論、それは他の人も同じで、その他人の世界では、自分は救いようのない馬鹿に映ってるかもしれないし、好ましい存在に映ってるかもしれないけど、それはその他人サマの世界の話であって、自分の知ったこっちゃないです。それに他人の価値世界に干渉するのはお節介というか、マナー違反でもある。勝手にそれぞれが評価してればいいのだ。大事なのは「自分の持ち場」。


 第三に、選別したり評価したりする意味がない(結果や効果が生じない)点です。仮に自分を相対評価する基準があったとして、それに不合格になったからといってどうするのだ?そうですかと肩を落としてトボトボと発表会場から去っていくわけではない。自分は自分から離れてくれませんからね。選別したからといって排除することは出来ない。つまり選別する意味がないし、選別できない。俺は無能だ、無価値だ、もう生きている価値なんか無いんだって思って、じゃあ死ぬのか?といって、死ぬ人もいるかしらないけど、多くは死にませんよね。だからそんなこと考えても結果が生じるわけでもないし、結果が欲しいわけでもないし、要するに、あなたは何がしたいのよ?って話ですよ。

 第四に、これが一番本質的な理由ですが、あれこれ考えたり、悩んだりする主体としての自分が存在すること、今ここに自分という考え(想念)があること、人がひとり存在すること、これはもうとてつもないことです。他人にとってはいざしらず、こと自分に関していえば、自分が存在するかしないかは、全宇宙が存在するかしないかに等しい。全宇宙とタメ張れるくらいの存在が無価値なわけないでしょう。


補論〜それでもダメダメな自分に

 では、日夜自分を打ちのめしている、自分のダメダメ感はなんなんだ?ってことを最後に書きます。
 我が身を省みても思うのですが、いやあ、そりゃダメでしょう(笑)。◯をやらせたら三日坊主だわ、◯をやらせたら不器用だわ、◯にいたっては才能ないの丸わかりだわ、誰と比べてもダメよね、イケてないよね、クソだよね、ほんと、もうちょっとなんとかしろよって感じ、、、ってな具合に思うかもしれない。

 でもね、その比べてどうのって、どういう意味あるのか考えてみたらいいです。どっか入社試験に落ちました、就職できませんとかいっても、そこでの基準は、これまでさんざん書いてきたように、どっかの誰かの利害打算によって導き出された基準でしょ。なんで他人の基準にそこまでこだわる必要がある。A社の採用基準=A社をもっと儲けさせてくれる人はだれか?であり、そんな他人を儲けさせることに劣後したからといって、だからなんだと言うのだ。

 なかなか頭に浸透しないと思うからしつこく書くけど、ダメとかOKとかいうのはなにかの基準あってこそであり、その基準はどこから来るのか?といえば、ぜーんぶ赤の他人が作ったものですよ。そんな赤の他人の基準に一喜一憂する必要がどこにあるのか。


自己商品価値のマネジメントとして

 社会や世間における自分自身の市場価値はどのあたりにあるか、自分のウリはどうしたらいいかという客観的なマネジメントとして意味あります。それはアイデンティティとは又別の話ですよー。よくカンチガイする人いるけど、次元が違うって。

 いわば村おこしのプロジェクトに似てて、こんな交通の便の悪い、これといったアトラクションがあるわけでもない辺鄙な村に、いかに観光客を呼ぶか、いかに都会の人達を来させるか?です。ダメダメ要因を数えていけば、ありすぎるほどあって、もう気が滅入りそうだけど、でもだからといって郷土愛がなくなるわけじゃないでしょ?自分の故郷として厳然としてあって、ダメな田舎なのかもしれないけど、自分にとっては掛け替えのない故郷であり、その価値はいささかも揺るがないでしょ。ただ、マーケティングとか市場価値とか、売り込みとか、そういう話になると厳しいよねー、辛いよねー、なんとかならんもんかと腕くんで考えてるだけのこと。アイデンティティと市場価値は本来全然違うもの。

 それと同じじゃん。自分にいかなる市場価値があるか、どういうマーケ戦略で切り込んでいくかは悩ましいところではあるのだが、市場で売れてるから、売れてないからということと、自分が自分であることは全然関係ないでしょ?むしろ、自分のあり方とは全く違う架空のキャラが広まって、それがバカ売れしてしまって、自分の意に染まらないことを無理やり続けなきゃいけないスターの哀しみに比べたら、どっちもどっちですよ。

無限に生じる向上心とポテンシャル

 あと、試験とか市場とかではなく、もっとゼネラルに人間的にダメだとか思うこともあるでしょう。でも、それは自分のココがダメだという欠点認識作業であり、もっと良くなるためにはココを改善せねばという攻略点の発見でもある。

 自分自身がもっとより良い存在になりたいって思うのは自然なことです。誰でもそうでしょう。そして人の向上心とかは無限にあると思われるところ、常に今ある地点よりも「より良い存在」を観念できるでしょう。人間国宝とか、教祖とか言われて人が「まだまだ全然ダメ」とか自分にダメ出ししてたりするのは(釈迦もキリストも悩みっぱなしだし)、その地点に立ってみたら、またより高い場所を観念できるからでしょう。

 そしてより良い自分を観念できてしまう以上、それに達してない「ダメな自分」を認識できてしまうのは理の当然です。だから自分のダメさ加減を認識するというのは、ある意味全ての人がそうだとも言えるし、だからこそ生きていく意味があるとも言える。むしろ、俺ってサイコーって心の底から思えてしまう方がよっぽどヤバイと思いますよ。

 そしてそういう自己を高めたい、より良くなりたいという思いと、自分に価値があるとかないとかいうのは別の次元の話だと思います。仮に世間的に世界最高価値を授与されたといっても、それでも満足できないのが人間だと思うし。他人にチヤホヤされないときは、それで凹むが人間なんだけど、いざチヤホヤされたらされたで、「けっ」とか思うのも人間なんだよな。また、他人に比べてダメだと思うのも、相対価値が無いからダメだと思っているのではなく、こんなに伸びしろがあるはずなのに活かしきれていない自分のマネジメントについての悩みだと思います。

 それにですね、自分自身によりポテンシャルがあると思えば=自分はもっと良い存在になれるはずだという思いが強ければ強いほど、現状のダメさ加減がムカつくと思います。最初から諦めてたら、別に悔しくもないし、凹みもしないよ。なんで今年のノーベル賞は俺じゃないんだ?とムカつける人は、それ相応のところまでいってて、それなりに自分に価値があると思ってるからこそでしょ?

 つまり、そのムカつきやら凹みやら落ち込みは、そのまま自分の価値を表しているのですよね。最初から自分を無価値とか無理とか徹底的に思ってたら、なんも思うはずないもん。自分を価値あるものだと思ってるからこそ、それを体現できていない現実に凹むわけでしょ。

 ただこういったことは、自分の内面における理想像と現実のギャップであり、そのギャップを埋めていくための方法論やら、自分ポテンシャル開発であって、他人と相対比較して価値が付与されるという次元の話ではないです。




文責:田村


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