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Essay 899:
 「しがらみ」と「お金」

2018年11月16日

 思いついたので書きとめておきます。「しがらみ」と「お金」について。

しがらみフリー

 今日も今日とて、朝も早よからブーンと車を乗り回してデリバリーやってたりするんですけど、面白いです。ガソリン代自腹とか考えたらそんなにペイが良いわけでもないし、そもそも稼いだそばから事故でぶっ飛んでるんだから「何やってんだか」ってアホらしさ炸裂なんだけど、それでもやっている。

 いろいろ理由はあります。基本外回り100%という開放感が良いとか、ドライブのさなかに素晴らしい景色を見ることが出来るとか、製造者やカフェの人たちと接するのが楽しいとか(顔見知りも増えてきたし)。

 でもね、一番大きいのは「しがらみが少ない」という点でしょう。もう「ない」と言ってもいいくらい。この点は多くのマックジョブに共通する特徴なんだけど、クリーニング、コールズとやってきて、これが一番しがらみが無い。なんせ会社の人に会いませんから。電話とメールだけ。あとは完全に自分一人で気楽なもんです。また望めば週7とか詰め込める割には、「明日は午前9時までしか動けない」とか細かな要求も出来るし(通るかどうかは別問題〜通らないときはシフトなし)、辞めたくなったら別に意を決して「辞めます」とかいう必要もなく、「ここんところ忙しいからunavailableだよー」と連絡すれば足りる。要はやりたいときに、やりたいだけやればいいってフレキシブルな部分がいいです(ただしそれが逆に仕事の不安定さにつながるのはまた別の機会に述べます)。

辞めるに辞められない

 これが日本時代の前職である弁護士(イソ弁時代)の場合、手持ち案件がどれも長いということもありつつ、「辞める」というのが言いにくかったですね(一つも事件を引き継がないでフリーになるって条件で)。あまりにも言いにくいので、言い出すまで1年くらいかかったような気がする。辞められるように、長い時間かけて状況を良くしていくという前提作業からやっていかないと、とても言えるような感じではなかったですから(例えば新件はできるだけ避けて、どんどん事件を減らしていくとか)。

 弁護士のように比較的独立性の高い専門職ですらこれだけ苦労するんだから、サラリーマンでもなんでも、ある程度責任ある立場になった人が辞める場合の苦労は想像に難くないです。大変だろうなー。辞められたら困る場合、あれこれ遺留するだろうし。こちらに来る皆さんからも、「今日、ついに上司に辞めることを伝えました!」とかメールを頂いたりするのですが、そういうことが大きなトピックになるのですよね。

 なんでこっちに来たの?という理由のなかでは、もし自分で独立開業してしまったら最後、もう一生抜けられなくなるぞという点が一番大きかったかもしれない。イソ弁で同時並行に自分の個人事件もやる程度ならまだしも身軽ですが(それでもこれだけ苦労するけど)、自分の名前で看板掲げてしまったら最後、もう事件が落ちる(終わる)まで責任もってやり遂げないといけない。そして、事件は長い。民事平均3年というけど、公害事件や再審30年闘争とかやってしまったら、30年やらないといけない。それに、だんだん減らしていけばいいっていっても減らしたら収入も減るわけだから容易なことではない。てか事実上、無理です。だから独立開業=一生確定!ってことなので、「え、ちょっと待って、こ、心の準備が〜」って気になって、「なんか、もっと、他の生き方とかあるんじゃないの?」「チラ見だけでもさせてくれよ」と思ってこっちに来た、と。

 あのとき来なかったらもう来れなかったでしょうね。今でも日本で弁護士やっているでしょう。てか死んでるかも。だって、既にその時点でストレス性疾患(消化器系の潰瘍とか)ヤバかったし。あれから二十数年、オーストラリアの青い空で若い連中相手にきゃっきゃやってる太平楽な20数年の日々というパラレルワールドAと、あのまま大阪で弁護士やり続けてたパラレルワールドBを比べてみたら、Bの方が健康状態やら老化やらは今よりも格段にシビアなことになってたでしょう。死なないまでも成人病の一つや2つは飼っているでしょう。

 その意味でいえば、あの時点でこっちに来たことに後悔は1ミクロンもないです。むしろ「九死に一生を得た」くらいの感じ。

 ただし、稼ぐ力でいえば、こっちで細々とAPLaCやったり、こんなマックジョブよりは稼げます。ま、今となってはオーストラリアの方が全然賃金が高いので、デリバリーだけでもそこそこ(日本人の平均勤務時間くらい)やれば月50万くらいはいくから、絶対値的にはあんまり変わらないけど、弁護士業には一発長距離砲があります。僕も最高で一件で3000万円報酬もらったことあります。たしか5億か10億くらい余計にふんだくってあげた筈で、そのくらい貰ってもバチは当たらんでしょ。あ、残念ながらこれは事務所の事件なので僕には一銭も入らず。余談ながら、事務所も右から左に借金の返済に当てたので、三千万という物体(キャッシュでもらった)が事務所にあったのはわずか2時間だけ。結局、どっかの銀行から三千万という物体(冊束3つ)が出てきて、それが祇園祭の山鉾巡業にようにコンチキチンと僕らの目の前を練り歩いて、またどっかの銀行に帰っていくという。ははは、何という虚しさ!でも大きなお金が動くときって大体そんなもんよ。

 いずれにせよマックジョブは時給積算だから「一発ドカン」はありえない。しかし、それが見込める職業もある。それが今回のお題です。どこが違うのか。何がどうなると「ドカン」があるのか。

ドカンと稼ぐ構造 

 結論からいうと、ドカンと稼ぐためには、それ相応の「しがらみ」を覚悟しないといけない。「しがらみなくしてドカンなし」の法則です(笑)。

 大きく稼ぎたいならば、大きく稼げる場所(ポジション)に居なければならず、そしてそのポジションには通例「しがらみ」という強大な引力圏に支配されています。

 ところで「しがらみ」ってなに?というと、語義でいえば、本来は「柵」と書いて、水流を和らげるために川に杭を沢山打って、そこに枝やら竹やらを並べる設備のことをいうらしいです。簡単に言えば「フェンス」(柵)であり、防風林・防砂林的な「堰き止め」効果がポイントみたいです。角度を変えて見れば、自由に流れるのを阻害するわけだから、人間関係などで自由意志で動くことを抑制するモロモロの状況(義理とか)が「しがらみ」って呼ばれるようになったのでしょう。

 僕なりの定義でいえば、良い意味にも悪い意味にも、ある程度、自分の意思を拘束する粘着性や強制性のある人間関係や社会的立場を「しがらみ」というって感じかな。もっとこなれた言葉でいえば「しがらみ=浮世の義理」です。それがどういう現実的な意味を持つかは、これから書きます。

 まず抽象的に言っててもはじまらないので例を挙げます。極端な例の方がわかりやすいから、ヤクザの大組織の大幹部というポジションにしましょう。大幹部、いいですよー。まずお金には不自由しない。金庫から札束鷲掴みで飲みにいける、てか、それすら要らず、「おう、払っとけや」と命令すればいい。権力にあやかろうとする人々が、あれこれ付け届けをするし、お祝いとかいってピカピカの外車をプレゼントしてくれたり。いいよね。最近のヤクザはそこまで羽振りよくないだろうけど、まあものの例えとして。

 だけど、そのポジションを得るためには、「私(プライベート)」なんか微塵もありえないくらいの滅私奉公がいるし、その立場になったところで、さらに上の命令は絶対だし、ここまで引き立ててくれた先輩や兄貴分など頭が上がらない人も沢山いるし、仕事柄無理を聞かざるを得ない先もたくさんある。ここまでプライベートを潰されてしまっては「飽きたからやめるわ」なんて絶対言えない。「本当は、海のそばの静かな街に住んでパン屋さんとかやるのが夢なんだよね」「なんかもっと違う人生もあるような気がして」とか、今更言っても許されない。末端のチンピラだったら指一本くらいで許してもらえるかしらんけど、上に行くほど抜き差しならなくなっていく。なんせあまりにも企業秘密を知りすぎているし、これまで権力あってこその人々とのつながりだったのに、それを途中放棄するということは、皆の期待を裏切ることになり、どんな報復をされるかわからん。そうでなくても年がら年中生命を狙われている身であり、組織の庇護を離れたら即殺されるかもしれない。もう一生ヤクザで生きていくしかない。それだけの雁字搦めのシガラミがある。

 あ、もっと極端な例があった。皇室や王室です。あれなんかシガラミのかたまりで、シガラミを通り越していっそ「宿命」「運命」と呼ぶべきくらいですけど、まあ自由意志なんかほとんどない。国によってその自由度は違うが、日本などの場合まず無いといってもいい。来年は、今の皇太子が即位するらしいですが、彼は僕よりも学年で一個上(4ヶ月早い)から、来年で59歳でしょ。普通定年退職してもいいくらいなのに、その年から仕事が始まるってのも辛いですよ。でも「冗談じゃねえよ、俺はやんねーぞ」「もう身体しんどいし、休ませてくれよ」とも言えない。その程度の当たり前のことを言う自由すらない。可哀想すぎ。

 大企業のエリート社員も、医者も弁護士などの専門業もそうですけど、そのポジションに就くまで、そしてそれを維持するために、気を使い、時間を使い、金も使わねばならない人間関係がめちゃくちゃ多い。大体稼いでるやつは、死ぬほど忙しいから、日常業務を廻しているだけでも相当多数の人達と連絡とって、うまい関係をキープしなければならない。上司には取り入り、取引先や仲間内でも信頼され、部下にも慕われるなんて超人的なことをやろうとしたら、どれだけプライベートを犠牲にしなければならないか。それ以上に、組織内のエリートは、組織における立場というのがイノチになりますから、よく働き、実績と実力をつけるのは当然としても、それをちゃんと理解してもらうための努力も必要です。アピールするべきところは、さりげなく、しっかりとアピールしなきゃ。だけど公正に評価されるとも限らないし、それどころか理不尽にとばっちりを食らったり、煮え湯を飲まされることも多々ある。でもそうすることで「貸し」と「借り」を増やしていき、それが資産になる。途中でブチ切れたら、これまで営々と積み重ねてきたものが一巻の終わりになる。

 自由業や専門職だって、業界内部の立ち位置というのがある。弁護士でいえば、弁護士会での委員会の仕事もやったり、ボランティアもやったり、同期の連中が力強いブレーンになるからそっち方面のつながりも維持したり、もちろん顧問会社やら顧客層へのお愛想や営業もすごい大事。弁護士なりたて2−3年くらいのぺーぺーだった僕ですら、12月には忘年会が十数個も詰まって、年末進行でクソ忙しい中、半死半生で飲み歩くことになってました。もういろんな義理がでてきてしまうのよ。これが弁護士会長とかになると、いくつとかいってたかな、忘年会だけで300あるとか?まあ全部出るわけではないだろうけど、相当なものです。僕の同期の友人は、将来会長になるんだって野望を明らかにしてて、せっせとロータリークラブの下働きをしたり頑張ってましたけど、12月は忘年会系の予算(飲み代)だけで100万円は用意するとか言ってましたね。たかが弁護士会長ごときでコレですからね、政治家とかになったらもっとすごいですよ。

 つまり大きなお金をゲットするには、それが出来るだけの大きなパワーをゲットしなければならず、それは多くの、本当に数多くの人たちの力を借りなければならない。「みなさまの日々のご厚情のたまもの」というのは謙遜ではなく本当にそうなのですよ。ラオウや範馬勇次郎のように腕っぷし一本でやってのける例はレアというか、まずありえない。それだけあちこちに恩義を受けていたら、それを返す必要=「しがらみ」が強大になっていく。常に常に誰かに何かを返してないといけない。その数が多くなり、一定レベルを超えてしまうと、もうプライベートライフなんかあるんだか、ないんだか、です。

 さきの3000万円稼いだ事件は、とある熟年離婚事件だったのですが、じゃあ、僕が今から日本に帰って、また弁護士やるとして(資格はあるから登録すれば出来る)、稼げるか?といえば、無理です。あれと同じことをもう一回やれといっても能力的には可能だと思う。ブランクはあるけど、人間力とか洞察力はあの頃とは段違いについてるから出来るとは思います。でも、そういう問題じゃない。仕事がこないです。

 大きな事件がやってくるのは(この件はボスが引っ張ってきたのだが)、それはボスの人柄の賜物というか、これまでの努力の集積です。「あの先生はすごい」と他人に紹介してくれる人が、最低でも数百人、普通に数千人、欲を言えば数万人単位でほしい。それが専門自営業者の「畑」になります。会った全員がファンになるとは限らないから(無理だよ、そんなの)、1000人のファンを作ろうと思ったら、会う(自らの魅力をアピールする)だけでも数千単位で日々頑張らないといけない。とある会合に顔をだし、ボランティアでもなんでも参加し、師匠筋、兄弟子スジからも「あいつはすごい」と思われるように精進すべし。もちろん一番の源泉は過去にやった自分の仕事です。その事件処理が良い、一生懸命やってくれた、依頼者の思いをちゃんと理解してくれた、素晴らしい人だと思われるのが一番だけど、それだけの過去の実績が「信用」を産む。僕は、金融資産も不動産も貴金属も「資産」になるとは思ってないけど、信用だけは資産になりうると思ってます。

しがらみの構造

 いずれにせよ、「しがらみ」というのは「生きるためのすべ」でもあります。植物でいえば、根っこから吸い上げる地中の養分であったり、太陽光や雨だったり、それがないと生存が成り立たない存在です。だからこそ強い支配力がある。大きな利益をもたらしてくれるからこそ、大きくそれに拘束される。表裏一体です。

 大企業のエリート社員にせよ、玉の輿の専業主婦にせよ、そこでの組織や家というのは、自分へ生計の資をもたらしてくれる生命線です。だからこそその意向は絶対であり、それに逆らっておっぽり出されたら路頭に迷う。独立起業してお役所とか大企業からの下請けをゲットできたら、それは大きな飛躍なチャンスですし(信用がつくし)、安定堅実な収入源にもなります。すごく重要なことなんだけど、それが重要であればあるほど、逆に「足元見られる」ことになる。取引先は専制君主のような絶対権力を得てしまい、彼らがどんな理不尽な要求をしてきてもじっと我慢するしかない。それが日本の大企業の下請けイジメに通じる土壌になってもいる。だから目端の効いた経営者は、大口が取れても満足も安心もせず、さらに取引先をできるだけ複数に散らそうとする。仮になにかがダメになっても、それでもやっていけるようにする。それは力関係を対等化して公正な取引を続けるコツでもあるでしょう。

 これはなんにでも言える原理で、一つ何かを「生存の原資」のようなモノを得たら、それに安住せず、同時にそれが無くなってもやっていける体制を構築すべき。大企業に入ったら、それを辞めてもやっていけるように、お金持ちと結婚して一生安泰だとしても、いつ離婚しても一人でやっていけるように、弁護士や医者等になったらそれをいつ辞めてもやっていけるように。でないと、なにかを絶対生命線にしてしまえば、それの絶対支配を受けることになるから。個々人では弱っちー存在である僕らが、対等性を獲得し、個人の尊厳をキープするためには、何かを絶対生命線にしないこと、なにかに絶対依存しないこと、いくらでもオルタナティブ(代替手段)があること、そういう体制を作っておくことだと思います。

 まあ、早い話が、いつでもどこでも「ふざけんな、やってられっか」「ばっきゃろー、やめてやらあ」って喧嘩してバックレられるようにしておくと(笑)。インディペンデント(独立、自立)ってそういうことだと僕は思う。

 人にもよるだろうけど、小さな子供の頃、あるいは思春期の頃、親になんだかんだ言われてムカついても、かといって家出してやってく自信もない頃、何を言われても結局は依存するしかない無力感と屈辱があった。基本構造はあの頃と同じです。

 一括パックでのシェア探しやバイト探し、ファーム探しなどで、とにかくめちゃくちゃ数打って探せ、探せ、探しまくれって僕が言うのも同じ理由です。弱い個人がこの理不尽な世界でやっていくためには、この「探す力」が強力な武器になるからです。

しらがみの功罪

 さて、話を戻して、このように「それなりの立場」に就こうとすると、それなりに「浮世の義理=しがらみ」が出てきます。逆にいえば、しがらみ(利害につながる人間関係)あってこその「稼げるポジション」である。もっとシンプルに言ってしまえば、しがらみ=お金(のもと)です。

 だけど、僕はコレ(しがらみ)がキライなんですよね。しがらみを拒否ってると、お金をも拒否ることになる=効率の悪い稼ぎ方になるから一生お金に苦労するってことだけど、それでもええわ、と。

 なぜかというと、、、

プライベートが侵食される

 よく、政治家やら、芸能人(石原軍団とかたけし軍団とか)の元旦新年会のシーンなどがありますよね。、大ボスの私邸の豪華な大広間かなんかに、一族郎党の子分や家来が集まってたりするでしょ?あれも辛いよなーって思っちゃうんですよね。

 だって元旦( or その近辺)ですよ。家来っつてもかなり実力のある年配の人も多いし、当然奥さん子供もいる人も多々ある。正月休みくらいはのんびり自宅で家族水入らずに過ごしたいとか、独身だったら素敵な人と海外でゴージャスな新年をとか思うでしょう。でも駄目。主君の新年会があるとなったら、何を犠牲にしても参加しないといけない。

 別に新年会だけの話ではなく、どんなに大事なプライベートがあっても、それをあっさり上書きする強制的な人間関係がある以上、そこに自分の選択権はない。いくら恋人と大事な話があろうとも、いくらパートナーや家族と大事な時間があろうとも、「そんなこと言ってらんない」「いざ鎌倉」的な強烈な関係性があったりします。

 そこまで鉄の戒律ではなかったとしても、プライベートタイムを犠牲にして参加しないとあとあと面倒なことなることは誰しも心当たりがあるでしょう。まあ実際には恐れるほど面倒なことにならなかったとしても、なんとなく引け目を感じたり、心の負担になったりする。それが既にストレス。職場の飲み会でも、慰安旅行でも、レクレーションでも、同僚の引っ越しでも、あるいは「お付き合い残業」であっても、「お先に」とはちょっと言いにくい局面があったりもする。真剣に帰って寝たいくらい疲れているんだけど、あるいは駅で恋人がイライラしながら待ってるんだけど、自分だけ先に帰るのは気が引けるから、頑張ってしまい疲労は加速する。

 よく「今の若い人はつきあいが悪い」とか言いますけど、僕としてはいい傾向だと思いますよ。本音をいえば、誰だってつきあいは悪いんだと思いますよ。誰だって面白くないことはやりたくないはずだ。より個人的に価値がある物事を選びたいはずだ。若いも年よりも関係なく。ただ、長年そこを曲げて義理を果たしていると、そういうもんだって感覚になっちゃうし、また「俺だって我慢してるのに、ずるいぞ」という気にもなる。でもねー、もし参加してほしかったら、彼らに面白いと思わせるだけの内容にすべきでしょう。そこを「親睦を深める」とか抽象的なお題目のまま、十年一日のごとく進歩しないから魅力がないのだと思うぞ。

 この特徴は日本社会(アジア社会)にわりと際立ってるような気がする。西洋、特に英米系はわりと少ないんじゃないかなー。ま、その比較文化話をしだすと長くなるから、今回はやめます。

 ま、簡単に言ってしまえば、しがらみが多くなればなるほど、やりたくないことをやらされることが多くなるということで、それがまず単純にイヤなんです。

人格とアイデンティティが侵食される

 これが一番僕のなかでは大きいです。

 先に述べたプラベート侵食は、実は弁護士職ではそんなに感じてなかったです。もともと働き方もフレキシブルだったし、やることやってたら文句はあんまり言われなかったし、24時間働き詰めであると同時に、24時間自由時間とも言えるわけで、やり方次第でスキがあったらプライベートを押し込んだりすることも可能。出張やらシンポジウムやらでどっか遠くにいったら、その日の夜はその土地の友達と飲むとか、うまいこと入れ子にしていったりすればいい。今、帰省するたびにオフやったりするのもその延長で、「この機会に」って重畳的に組み込むことに慣れますから。

 組織的な拘束についても、実はそんなに強くないです。弁護士というのは、もともとが僕と同族の一匹狼で我の強い連中の集団ですから、その種の組織的拘束性や強制を嫌う人がマジョリティだったりもするのです。「○のために個を犠牲にしろ」という考え自体がそんなに「正義」ではないのですよね。割とワガママ言えたし、ウチの事務所もそんな感じでした。そこにそんなに苦痛はなかったです。

 では何が苦痛かといえば、将来的な予測として、自分自身が「そういう人」になっていってしまうんだろうなーという点です。アイデンティティが塗り替えられていくこと、それがなんか抵抗がありました。

 人のパーソナリティというのは、どんな職業、どんな社会的地位をもってきても、それでは間に合わないくらい広い、と僕は思ってます。仮にあなたが日本の天皇になろうが、アメリカの大統領になろうが、それでもあなたの人間性はそういったポジションで語り尽くされるほど狭くはないぞと。「立場が人を創る」というし、ある程度それは本当だと思う。特殊な立場で特殊な経験をつめば、それなりに人格も変わってくる。学習能力ってもんがあるんだから、それはそう。だけど、それでその人の人格がすべて決まってしまうわけではない。「素の自分」というのがあるのであり、そいつが社会的なペルソナ(仮面)をかぶって演じてるだけでしょう。

 もちろん社会的ステイタスを得ようが、どんな重職につこうが、それで全てが塗りつぶされるわけではないし、それをこなしつつも、豊かなパーソナルライフを営んでいる方々はたくさんいますよ。でもね、そうでない人(塗りつぶされちゃう人)もいるし、むしろ喜々として塗りつぶされている人(俺はエリートなんだ、金持ちなんだというアイデンティティ)もいます。それに、パーソナルライフを充実といっても、実際にそれは客観的な時空間の割合では非常に限られているし、どうしても従属的なものになったりもします。

 それがねー、なんかねー、抵抗あるんですよ。
 もし、社会的活動と自分が融合するのであったら、その社会的活動は、限りなく100%素の自分を反映していてほしいものです。本当は違うんだけどなーとか思いながら、心ならずも立場上あれこれ言ったりやったりすることはあるんだけど、それが積み重なると本当にそういう人になっちゃうって怖さはあるのですよね。ずっと学級委員長ばっかやらされていたら、「学級委員長的な」人になってしまうとか、なんかイヤでしょ。割り切って演じるならともかく。

 だもんで、俺は俺で、それ以外のなにものでもないわって原点は常にスッキリさせておきたいのです。これは、思想や主義としてそうだと思ってるのではなく、むしろそれが一番客観的事実に近いと思うからです。いや「思う」もなにも、事実そうじゃん。

 これは何も、素のパーソナリティは、社会的ペルソナよりもエラいとか凄いとか格上とかいってるんじゃないですよ。むしろ逆で、リアルな自分は、そんないいもんじゃなくて、適当にヘタレだし、卑怯だったり嫉妬深かったり、妙にセコかったり、ヒマになっても立派なことなんかあまりせずに、ネットでエッチ系ばっか見てたり(笑)、要するに「しょーもない奴」なんだわ。別にそれを前面に出す必要はないんだけど、言いたいのはリアルな人間、素の自分というのは、「型にハマらない」ってことです。

 その型にハマらない、ウニャウニャした端切れ部分というか、海苔巻きの両端の具がはみ出してるような部分みたいな、それがパーソナリティってもんだし、そこが美味しいし、それは(涙がでるくらいしょーもなかったりするんだけど、でも)大事にしなきゃって思うのですよ。

 まあ、いろいろ書いてますけど、核心にあるのは、生理的にキライってのがあるのでしょう。

 映画のマトリクスのイメージみたいな感じ。大きな組織体のなかに個人がすっぽり埋め込まれ、そこから養分とか貰ってのんびり生きていけるんだけど、でも生かされているだけというか、だんだん個が消滅していって、ただの部分、ただの細胞になっていってしまうようなイメージです。強大な組織やらなにかの中にいるのは気が楽だし、文字通り「大船に乗ったような」安心感はあるんだけど、気がついたら、自分の手足がだんだん周囲の組織に融合していって、どこまでが自分の手足なんだかわからなくなって、最後には薄ぼんやりと自分の顔だけが浮き上がってるみたいなのって、なんか気持ち悪いんですよ。気持ち悪くないですか?

 だから僕は「しがらみ」フリーでいたいのですね。それに伴う対価があるなら、それは払おう。金銭的に億単位で損をするというなら損しましょう。てかもう損してますし。あくせく馬車馬のように働いて、最後は野垂れ死にだったとしても、それでもいいです。文句ねーよ。なんかもう、生理的にダメなんですよ、自分が自分じゃなくなっていくのって。

 それがどんなにしょーもない自分であろうとも、というか自分でもうんざりするようなダメな自分なんだけど、それでもオーガニックでいたいですね。いくらキレイで、いくら社会的に押し出しがきくとかいっても、勝手に遺伝子組換えみたいなことはされたくない。人にあれこれ世話されて大輪の花を咲かせてチヤホヤされるよりは、そこらへんの野生のフリーな雑草でいたいですね。

 いい年コイて何青臭いこと言ってるんだって思われるでしょうが、いや、いい年こいた奴こそがそれを言うべきだ、言うべき義務があるくらいに思ってるんですけど。


文責:田村


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