Tweet
Essay 898:
トラブルの「ダマ」と「ほぐれ」
2018年11月03日初掲
このエッセイも(こちらの気分だけだが)リニューアルしたので、そのセンで書いてみます。つまりは、「かっちりした質量と形式が整わなくても良い」ってことで。
これまで「ネタとしては面白いんだけど、これで一本は無理だな」ってことでボツにした話が沢山あります。ちょっと誇張して言えば、エッセイ一本につきそういうネタが一つはあるって感じ。でも、これからは形に囚われないようにしようってことで、質量的に短かろうが、完成度的に生煮えだろうが、それでもアップしようと。
僕にとっては、ハードルを高くすることでネタが非常に絞られて書きにくくなるし、心理的負担も厳しい。一方、読み手からしたら、そんなに長々書かれても消化出来ないでしょう。これも大袈裟に言うならば、エッセイの量は10分の1くらいでもいいかしらんです。世間的にはそんなもんだし。人が「ふーん、なるほどー、いやいい話を聞いた」って思えるのは、やっぱ数行から十数行分くらいの情報量、言ってみれば「損して得取れ」などのコトワザ一本分の質量くらいじゃないか。これまでは一本のエッセイに十数個くらいブドウのように盛り込んでたわけで、そこまでやらんでもって気もします。
いやね、今だって、「人が一回に摂取できる情報量は〜」と一つネタが入ったので、もう今回はここで終わってもいいんですよねー。世間のブログでは、このくらいの情報量が普通でしょ?僕などは読んでて「え、それだけ!?」と愕然としたりするんですけど、世間的にはそんなもん。
あ、ここで注釈が必要なんですけど(これでまた一本できそうだけど)、ここでいうのは、TVや新聞などのメディアとか、ネットでの気軽なブログレベルでの話です。特にマスメディアの場合は、真剣に掘り下げたら不味いという「大人の事情」(てか「ジジーの事情」)があるからかしらんけど、やたら掘り下げが浅い。「え、それだけ?」「それしか言わないんだったら報道する意味ないじゃん」ってレベル。
また情報授受のスピードもあります。20年前の段階であっても、例えばTVのニュースのスピードが倍くらい違う。こっちのニュースってめちゃくちゃ早いんですよね。同じことをいうのに、日本では20秒くらいかけるのを10秒くらいでちゃっちゃと喋って、すぐ次のトピックにいく。英語が不慣れなのも相まって、最初は全然ついていけなかった。でもこれに慣れると気持ちいいです。逆に日本に帰ってたまーにテレビを見ると、これっぱかしのこと(それも殆ど何も言ってないに等しい)をいうのに、何をダラダラやってんだって、すごいイライラします。ビジネスの電話でも、日本でよくやる前後の社交儀礼など、セックスの前戯後戯みたいなダラダラがなくて、用件がクリアしたら、"OK? Thanks ByeBye"でガシャって電話を切られる。用件が済んだら1秒後には電話終了って感じ。これが日本なら「先日はどうも」「いえいえこちらこそ」で始まり、最後は「今後ともひとつよろしく」「こちらこそ」というのがあるんだけど、それが無い。情報伝達速度が早い。その速さで、しかも時間をかけてなんか言うなら、その分どんどん広く、深くなっていく。ちょっとしたアカデミックの論文くらいの質量になる。
日本でもそういう良質なメディア記事やブログなどはあるのですけど、でも読んでて、かなり遠慮して書いてるなーって感じもしますね。デスクあたりから、「そんなの詳しく突っ込んで書いても、誰も面倒くさがって読みやしないんだから」「もっと受けが良くて、わかりやすい、センセーショナルな事例とかタイトルにしろよ」とか言われてるんだろうなって気がする。この真面目な評論姿勢でありながら、なんでこんな扇情的で下品なタイトルをつけるの?って感じで、書いてる人からしたら、けっこう忸怩たるものがあるんじゃないか。
僕が知的レベルが低いというのはそういう文脈での話です。個々人が、真剣になにか知的作業に取り組んでるときのレベルは、それは人それぞれであって、国は関係ないと思います。日本はどうとか一概には言えない。
また職場の末端現場の労働者が、その場で考える質と量は今でも世界レベルでかなり高いと思いますね。「今回はこれで収まったとはいっても、この種の問題はこれから繰り返し出てくるだろうから、抜本的にシステム改善をするとかそういう対応が必要だろう」とか末端作業員レベルでも普通に考えるのが日本でしょ。マネージャークラスの思考レベルを末端ができると言う意味では稀有だと思う。そのレベルはいいんだけどね、なんでこんな知的レベルが高い人達が、メディアとかネットとでは、あんな幼稚なレベルで満足してるのか、そこがむしろ不思議な気がします。推測するに、日本の平均的な大人というのは、仕事以外については、あんまり本気・真面目にやってないんじゃないかしらねー。だからあんな子供レベルでも別にいいんじゃないの?あのレベルの受け答えを自分の職場でやられたらブチ切れるんじゃないのかな?
以上はネタフリの「枕」で、これから本題です。
ひとつは先月締切の税金の問題、なかなか治らない風邪の問題(しかも季節外れの寒気と大雨)、事故っちゃたんでその賠償支払とか後始末の問題、本業とバイト2つのジャグリングなどなどが一気にやってきて、ちょわ〜っ!ってなってたわけですが、徐々に「ほぐれて」きました。
ひとつひとつ書いていくだけでも結構面白いネタではあるのですが、それはまた別の機会にして、ココで書きたいのは、トラブルの集中豪雨とその解決過程です。
「トラブルはダマになってやってくる」というのは、アントニオ猪木の言葉とか読んだことがあります。孫引きを読んだだけで本当に猪木氏が言ったのかどうかは知らないけど、内容そのものは同意です。
以前にも「呪われた平穏な日々」というタイトルで書いたけど、そういう時期がある。そのときは13連発で「なんか」あって(やれタイヤがパンクしてたとか、洗濯機が修理不能に壊れたとか)、日替わり定食みたいに凹むことがらが2週間くらい連続してありました。まさに「ダマ」になってやってくる。
電気コードやケーブルがこんがらがって、固結びみたいになって、もうどうしようもない〜!って見えるときでも根気よくほどいていくと、結局はどこも結ばれてなくて、単に捻じくれて、グチャグチャになってるだけ。ゆっくりやっていくと嘘みたいにさらりとほどけていくのと同じ。
それがね、なんか個別的に「はい解決!次!」って、快刀乱麻を断つ的にちゃっちゃと解決するというよりは、川の中でグチャグチャに固く集中していた何か(糸ミミズでもロープでもなんでもいいけど)が、川の流れの力によって少しづつ方向を変え、徐々に大きく、ゆるやかに間隔がひろがり、だんだんユルユルになっていって、最後には自然にすっとほぐれていくって感覚に近いです。
トラブルがダマになって、もう絶対に解決不可能!もう終わりだ、死ぬしかない的に思えるようなことでも、ちょっと時間をおいたら、意外にも自然とゆるゆるになって解決するもんだってことです。どんより厚い雲がいつのまにか薄れていって日が射してくるように。なんでこんなにダマになってトラブルが起きるのが理解不可能であるのと同じくらいに、なんでこんなに自然に解決するのか理解不可能なのですね。
人生経験を積んでくると、そのあたりが何となく分かってくるので、若いときみたいに、もうダメぽ的に思いつめなくもなります。「そのうち、なんとかなるべ〜」って感じに。大体なんとかなるし。
それは例えば「時間がかかる問題」と「自分が動かないと絶対解決しない問題」です。
時間系の問題は、例えば風邪や天候なんかもそうですが、自分が張り切ってジタバタしても問題は解決しません。むしろ状況が悪化したりする(風邪がよりひどくなったり)。時間がかかるものは、時間をかけるしかないのですな。逆に言えば、時間さえかけたら自然に解決する、とも言えます。「心の傷」系のトラブルも、「日にち薬」という言葉があるように、時間が経っていくことで徐々に悲しい記憶も薄らぎ、漂白されていきます。すぐには無理でも、時間がかけたらそこそこはいく。だけどジタバタしちゃうと、逆にトラウマ化が激しくなって、時間をかけてもダメになる。
だもんで、時間がかかるものは、ある程度ほっておくしかないです。放置しかないと。でも放置ってことは、今日明日すぐの解決は諦めるってことでもあるし、当面この不愉快な状況を我慢するしかないってことでもあります。そこが辛いんだけど、そうやって我慢するために割り切る、ってのが解決の内容になるでしょう。
一方では、税金の確定申告のように、放置してときの流れに身を任せていたら、結局申告しないことになり、ペナルティを食らってしまい、状況はどんどん悪くなります。これは時間にまかせてはいけない。自分がせっせと動かないといけない。
だから、放置しておくべき問題と、せっせと動きまくる問題とが混在している。ある場合は動いてはダメであり、ある場合は動かないとダメ。そのあたりの見極めは、それ自体は簡単に区別できると思うのですが、ダマになってると、何がなんだかわからなくなるので、心を落ち着けて整理しないといけないでしょうね。
あとはそのミックス形態のようなもので、例えば事故賠償の場合、いくらの賠償額になるかは調査した上でお知らせしますと向こうの保険会社から通知がありました。通常6週間くらいかかると。これはもう待つしかない。ただ、賠償額がいくらになるのか全然わからないのだけど、少しでも稼いでためておくという実働が必要です。いくら貯めればいいのか全然わからないけど、多ければ多いほど良いという曖昧な感覚で日々頑張らないといけない。判決待ちみたいな宙ぶらりんのまま頑張る。これは時間をかけないと進展せず、基本待つしかないんだけど、その待ってる間にも別にやることがあるってことですね。
今回の場合は、ぱっと見た目の感じで、まあ「一本」(百万円、1万ドルくらい)かな、それ以下で済めば御の字だなって漠然と思ってたのですが、本当に6週間後(実際には7-8週間後)にきた通知をみたら、ピンポンでほぼ当ってました。でもっていきなり百万払うことになるのですが、しかしその間せっせと働いてシコシコ貯めてたのがちょうどそのくらいになって、ポンと即金で払うことが出来ました(この貯蓄モードの話はまた別にしよう)。
ただ額がいくらかわからないまま、毎日地味に働き続けるという時間がしんどかったといえばしんどいですね。やるべきことは見えているし、それが正しいのもわかる。この道を進めばいいのだと。しかしゴールがどこにあるのかが全然わからん。一本で済んだからいいようなものの、これが500万とか言われたらちょっと厳しいですからねー、でもそうなる可能性も否定はできなかったわけで、その宙ぶらりんを耐えるのが「解決」の内容にもなります。
こうして言葉にしてしまえば簡単なんだけど、実際にやってる感覚でいえば、真っ正直に一生懸命やるっきゃないよって感じですね。
そこで変に不安に負けてなんか変なことやりだしたり、逃げに走ったり、逃げを正当化しようとして変な理論武装してみたり、不愉快さに耐えきれなくてやるべきことをやらなかったり、とかし始めると話はドツボになっていくのだと思います。
要はね、そんな難しい話じゃないんだから、一本道をまっすぐ歩けばいいだけのことです。英語の勉強法の最初に「初期の量の砂漠を乗り越えろ」でも書きましたけど、まっすぐ一本道を歩けばいいものを、それをやらない、出来ない場合が多い。
一本道をまっすぐ歩き続けるのって、実は結構難しいのだと思います。
なんで?簡単じゃん?って思うかしらんけど、だったら歩いてみ?って。
まず感じるのは、「芸がない」ってことです。なんかクソ当たり前のことを、来る日も来る日も繰り返すだけのことで、飽きてもくるし、それが疑問にも不安にもなるのですよ。「こんなことやってていいのか」「なんかあんまり成果ないような気もするんだけど」「もっとうまいやり方があるんじゃないか」とかね。そう思っちゃうんですよねー。
なんせやることがハッキリしてるってのは、逆に言えば、ヒマなんですよ。肉体的には忙しいかしらんけど、情報的、戦略的にはヒマ。はい、毎日早起きして10キロ走って〜、メニューどおり基礎体力つけて〜みたいなことって、最初の新鮮なうちはいいんだけど、何週間も、何ヶ月も続けていくと、だんだん飽きるし、これでいいんか?的な不安や迷いが出てくるもんです。やること決まってるので、脳みそ的にはヒマなもんで、また暇だからろくでもないこと考えてしまうという。で、自滅する。
だから心構えで言えば、この種のしんどいときは「一生懸命に」という、馬鹿みたいに芸のない方法論が一番良い。
大体ですね、戦略的に簡単で一本道をいけばいいようなことを実行すること、つまりは「真っ直ぐ」進めって場合は、「直」という漢字が出てくる熟語的にやればいいんですよねー。
すなわち、実直、素直、(馬鹿)正直、愚直、直行などなど。ちなみに「剛直」って言葉もありますね、いいですね。「純直」ってのもあります。
その他、トラブル処理からは離れるけど、なんでも一生懸命やってりゃ間違いがない、というか、トータルでの成功率は一番高くなるような気がします。なぜって、一生懸命やってるときって人間的な魅力をまとうからです。マラソンの中継とか見だしたらついつい見続けてしまうのは、一生懸命やってる(走ってる)人って、もうそれだけですごい存在感やら吸引力があって、目が離せなくなるからだと思う。
あなただって、自分の部下やパートナーに誰かを選ぶ場合、ちょっと要領は悪いんだけど一所懸命にやってる人と、見た目はスマートかしらんけど根っこにあるのが不真面目だったり、楽をすることばっか考えてる人と、どっちがいいですか?
ということで、以前だったらもう一ひねりか2ひねり入れて完成度を上げてからUPするのですが、もうここであげちゃいます。文章校正とか、真剣にやってると、また時間が足りなくなって、日の目を見なくなる恐れがあるので、それはおいおい気が向いたらやろ。
文責:田村
Tweet
これまで「ネタとしては面白いんだけど、これで一本は無理だな」ってことでボツにした話が沢山あります。ちょっと誇張して言えば、エッセイ一本につきそういうネタが一つはあるって感じ。でも、これからは形に囚われないようにしようってことで、質量的に短かろうが、完成度的に生煮えだろうが、それでもアップしようと。
誰のためにもならない完成水準
よくよく考えてみればですね、これまでの一応の「完成水準」というのが、実は誰のためにもなってなかったという気もするのですよ。僕にとっては、ハードルを高くすることでネタが非常に絞られて書きにくくなるし、心理的負担も厳しい。一方、読み手からしたら、そんなに長々書かれても消化出来ないでしょう。これも大袈裟に言うならば、エッセイの量は10分の1くらいでもいいかしらんです。世間的にはそんなもんだし。人が「ふーん、なるほどー、いやいい話を聞いた」って思えるのは、やっぱ数行から十数行分くらいの情報量、言ってみれば「損して得取れ」などのコトワザ一本分の質量くらいじゃないか。これまでは一本のエッセイに十数個くらいブドウのように盛り込んでたわけで、そこまでやらんでもって気もします。
いやね、今だって、「人が一回に摂取できる情報量は〜」と一つネタが入ったので、もう今回はここで終わってもいいんですよねー。世間のブログでは、このくらいの情報量が普通でしょ?僕などは読んでて「え、それだけ!?」と愕然としたりするんですけど、世間的にはそんなもん。
日本の知的レベルが低いからこの程度でいいんじゃないの?
特に今の日本の一般的な知的水準は、先進国のレベルからしたらかなり低いと思うから、日本語で書くならこの程度でいいんじゃないの?って意識もあります。あ、ここで注釈が必要なんですけど(これでまた一本できそうだけど)、ここでいうのは、TVや新聞などのメディアとか、ネットでの気軽なブログレベルでの話です。特にマスメディアの場合は、真剣に掘り下げたら不味いという「大人の事情」(てか「ジジーの事情」)があるからかしらんけど、やたら掘り下げが浅い。「え、それだけ?」「それしか言わないんだったら報道する意味ないじゃん」ってレベル。
また情報授受のスピードもあります。20年前の段階であっても、例えばTVのニュースのスピードが倍くらい違う。こっちのニュースってめちゃくちゃ早いんですよね。同じことをいうのに、日本では20秒くらいかけるのを10秒くらいでちゃっちゃと喋って、すぐ次のトピックにいく。英語が不慣れなのも相まって、最初は全然ついていけなかった。でもこれに慣れると気持ちいいです。逆に日本に帰ってたまーにテレビを見ると、これっぱかしのこと(それも殆ど何も言ってないに等しい)をいうのに、何をダラダラやってんだって、すごいイライラします。ビジネスの電話でも、日本でよくやる前後の社交儀礼など、セックスの前戯後戯みたいなダラダラがなくて、用件がクリアしたら、"OK? Thanks ByeBye"でガシャって電話を切られる。用件が済んだら1秒後には電話終了って感じ。これが日本なら「先日はどうも」「いえいえこちらこそ」で始まり、最後は「今後ともひとつよろしく」「こちらこそ」というのがあるんだけど、それが無い。情報伝達速度が早い。その速さで、しかも時間をかけてなんか言うなら、その分どんどん広く、深くなっていく。ちょっとしたアカデミックの論文くらいの質量になる。
日本でもそういう良質なメディア記事やブログなどはあるのですけど、でも読んでて、かなり遠慮して書いてるなーって感じもしますね。デスクあたりから、「そんなの詳しく突っ込んで書いても、誰も面倒くさがって読みやしないんだから」「もっと受けが良くて、わかりやすい、センセーショナルな事例とかタイトルにしろよ」とか言われてるんだろうなって気がする。この真面目な評論姿勢でありながら、なんでこんな扇情的で下品なタイトルをつけるの?って感じで、書いてる人からしたら、けっこう忸怩たるものがあるんじゃないか。
僕が知的レベルが低いというのはそういう文脈での話です。個々人が、真剣になにか知的作業に取り組んでるときのレベルは、それは人それぞれであって、国は関係ないと思います。日本はどうとか一概には言えない。
また職場の末端現場の労働者が、その場で考える質と量は今でも世界レベルでかなり高いと思いますね。「今回はこれで収まったとはいっても、この種の問題はこれから繰り返し出てくるだろうから、抜本的にシステム改善をするとかそういう対応が必要だろう」とか末端作業員レベルでも普通に考えるのが日本でしょ。マネージャークラスの思考レベルを末端ができると言う意味では稀有だと思う。そのレベルはいいんだけどね、なんでこんな知的レベルが高い人達が、メディアとかネットとでは、あんな幼稚なレベルで満足してるのか、そこがむしろ不思議な気がします。推測するに、日本の平均的な大人というのは、仕事以外については、あんまり本気・真面目にやってないんじゃないかしらねー。だからあんな子供レベルでも別にいいんじゃないの?あのレベルの受け答えを自分の職場でやられたらブチ切れるんじゃないのかな?
以上はネタフリの「枕」で、これから本題です。
トラブルはダマになってやってくる
濁流のような多忙時期でしたけど、徐々に寛解してきています。ひとつは先月締切の税金の問題、なかなか治らない風邪の問題(しかも季節外れの寒気と大雨)、事故っちゃたんでその賠償支払とか後始末の問題、本業とバイト2つのジャグリングなどなどが一気にやってきて、ちょわ〜っ!ってなってたわけですが、徐々に「ほぐれて」きました。
ひとつひとつ書いていくだけでも結構面白いネタではあるのですが、それはまた別の機会にして、ココで書きたいのは、トラブルの集中豪雨とその解決過程です。
「トラブルはダマになってやってくる」というのは、アントニオ猪木の言葉とか読んだことがあります。孫引きを読んだだけで本当に猪木氏が言ったのかどうかは知らないけど、内容そのものは同意です。
以前にも「呪われた平穏な日々」というタイトルで書いたけど、そういう時期がある。そのときは13連発で「なんか」あって(やれタイヤがパンクしてたとか、洗濯機が修理不能に壊れたとか)、日替わり定食みたいに凹むことがらが2週間くらい連続してありました。まさに「ダマ」になってやってくる。
理解不能なくらい自然とほぐれる
でも、これ「ほぐれ」ます。電気コードやケーブルがこんがらがって、固結びみたいになって、もうどうしようもない〜!って見えるときでも根気よくほどいていくと、結局はどこも結ばれてなくて、単に捻じくれて、グチャグチャになってるだけ。ゆっくりやっていくと嘘みたいにさらりとほどけていくのと同じ。
それがね、なんか個別的に「はい解決!次!」って、快刀乱麻を断つ的にちゃっちゃと解決するというよりは、川の中でグチャグチャに固く集中していた何か(糸ミミズでもロープでもなんでもいいけど)が、川の流れの力によって少しづつ方向を変え、徐々に大きく、ゆるやかに間隔がひろがり、だんだんユルユルになっていって、最後には自然にすっとほぐれていくって感覚に近いです。
トラブルがダマになって、もう絶対に解決不可能!もう終わりだ、死ぬしかない的に思えるようなことでも、ちょっと時間をおいたら、意外にも自然とゆるゆるになって解決するもんだってことです。どんより厚い雲がいつのまにか薄れていって日が射してくるように。なんでこんなにダマになってトラブルが起きるのが理解不可能であるのと同じくらいに、なんでこんなに自然に解決するのか理解不可能なのですね。
人生経験を積んでくると、そのあたりが何となく分かってくるので、若いときみたいに、もうダメぽ的に思いつめなくもなります。「そのうち、なんとかなるべ〜」って感じに。大体なんとかなるし。
問題と解決の質の差
ただ、ちょいメカニカルになんでそうなるのか?を考えてみると、一つには問題・解決の「質」が違うものがたくさん混在しているのでわかりにくいでしょう。それは例えば「時間がかかる問題」と「自分が動かないと絶対解決しない問題」です。
時間系の問題は、例えば風邪や天候なんかもそうですが、自分が張り切ってジタバタしても問題は解決しません。むしろ状況が悪化したりする(風邪がよりひどくなったり)。時間がかかるものは、時間をかけるしかないのですな。逆に言えば、時間さえかけたら自然に解決する、とも言えます。「心の傷」系のトラブルも、「日にち薬」という言葉があるように、時間が経っていくことで徐々に悲しい記憶も薄らぎ、漂白されていきます。すぐには無理でも、時間がかけたらそこそこはいく。だけどジタバタしちゃうと、逆にトラウマ化が激しくなって、時間をかけてもダメになる。
だもんで、時間がかかるものは、ある程度ほっておくしかないです。放置しかないと。でも放置ってことは、今日明日すぐの解決は諦めるってことでもあるし、当面この不愉快な状況を我慢するしかないってことでもあります。そこが辛いんだけど、そうやって我慢するために割り切る、ってのが解決の内容になるでしょう。
一方では、税金の確定申告のように、放置してときの流れに身を任せていたら、結局申告しないことになり、ペナルティを食らってしまい、状況はどんどん悪くなります。これは時間にまかせてはいけない。自分がせっせと動かないといけない。
だから、放置しておくべき問題と、せっせと動きまくる問題とが混在している。ある場合は動いてはダメであり、ある場合は動かないとダメ。そのあたりの見極めは、それ自体は簡単に区別できると思うのですが、ダマになってると、何がなんだかわからなくなるので、心を落ち着けて整理しないといけないでしょうね。
あとはそのミックス形態のようなもので、例えば事故賠償の場合、いくらの賠償額になるかは調査した上でお知らせしますと向こうの保険会社から通知がありました。通常6週間くらいかかると。これはもう待つしかない。ただ、賠償額がいくらになるのか全然わからないのだけど、少しでも稼いでためておくという実働が必要です。いくら貯めればいいのか全然わからないけど、多ければ多いほど良いという曖昧な感覚で日々頑張らないといけない。判決待ちみたいな宙ぶらりんのまま頑張る。これは時間をかけないと進展せず、基本待つしかないんだけど、その待ってる間にも別にやることがあるってことですね。
今回の場合は、ぱっと見た目の感じで、まあ「一本」(百万円、1万ドルくらい)かな、それ以下で済めば御の字だなって漠然と思ってたのですが、本当に6週間後(実際には7-8週間後)にきた通知をみたら、ピンポンでほぼ当ってました。でもっていきなり百万払うことになるのですが、しかしその間せっせと働いてシコシコ貯めてたのがちょうどそのくらいになって、ポンと即金で払うことが出来ました(この貯蓄モードの話はまた別にしよう)。
ただ額がいくらかわからないまま、毎日地味に働き続けるという時間がしんどかったといえばしんどいですね。やるべきことは見えているし、それが正しいのもわかる。この道を進めばいいのだと。しかしゴールがどこにあるのかが全然わからん。一本で済んだからいいようなものの、これが500万とか言われたらちょっと厳しいですからねー、でもそうなる可能性も否定はできなかったわけで、その宙ぶらりんを耐えるのが「解決」の内容にもなります。
一生懸命やるっきゃないでしょ
こういうトラブル時期は、やるべきことはやる、やるべきではないことはやらない、不快でも我慢し、宙ぶらりんで不安でも我慢する、ただなすべきことを着実にやるだけってことになります。こうして言葉にしてしまえば簡単なんだけど、実際にやってる感覚でいえば、真っ正直に一生懸命やるっきゃないよって感じですね。
そこで変に不安に負けてなんか変なことやりだしたり、逃げに走ったり、逃げを正当化しようとして変な理論武装してみたり、不愉快さに耐えきれなくてやるべきことをやらなかったり、とかし始めると話はドツボになっていくのだと思います。
要はね、そんな難しい話じゃないんだから、一本道をまっすぐ歩けばいいだけのことです。英語の勉強法の最初に「初期の量の砂漠を乗り越えろ」でも書きましたけど、まっすぐ一本道を歩けばいいものを、それをやらない、出来ない場合が多い。
一本道をまっすぐ歩き続けるのって、実は結構難しいのだと思います。
なんで?簡単じゃん?って思うかしらんけど、だったら歩いてみ?って。
まず感じるのは、「芸がない」ってことです。なんかクソ当たり前のことを、来る日も来る日も繰り返すだけのことで、飽きてもくるし、それが疑問にも不安にもなるのですよ。「こんなことやってていいのか」「なんかあんまり成果ないような気もするんだけど」「もっとうまいやり方があるんじゃないか」とかね。そう思っちゃうんですよねー。
なんせやることがハッキリしてるってのは、逆に言えば、ヒマなんですよ。肉体的には忙しいかしらんけど、情報的、戦略的にはヒマ。はい、毎日早起きして10キロ走って〜、メニューどおり基礎体力つけて〜みたいなことって、最初の新鮮なうちはいいんだけど、何週間も、何ヶ月も続けていくと、だんだん飽きるし、これでいいんか?的な不安や迷いが出てくるもんです。やること決まってるので、脳みそ的にはヒマなもんで、また暇だからろくでもないこと考えてしまうという。で、自滅する。
だから心構えで言えば、この種のしんどいときは「一生懸命に」という、馬鹿みたいに芸のない方法論が一番良い。
大体ですね、戦略的に簡単で一本道をいけばいいようなことを実行すること、つまりは「真っ直ぐ」進めって場合は、「直」という漢字が出てくる熟語的にやればいいんですよねー。
すなわち、実直、素直、(馬鹿)正直、愚直、直行などなど。ちなみに「剛直」って言葉もありますね、いいですね。「純直」ってのもあります。
その他、トラブル処理からは離れるけど、なんでも一生懸命やってりゃ間違いがない、というか、トータルでの成功率は一番高くなるような気がします。なぜって、一生懸命やってるときって人間的な魅力をまとうからです。マラソンの中継とか見だしたらついつい見続けてしまうのは、一生懸命やってる(走ってる)人って、もうそれだけですごい存在感やら吸引力があって、目が離せなくなるからだと思う。
あなただって、自分の部下やパートナーに誰かを選ぶ場合、ちょっと要領は悪いんだけど一所懸命にやってる人と、見た目はスマートかしらんけど根っこにあるのが不真面目だったり、楽をすることばっか考えてる人と、どっちがいいですか?
ということで、以前だったらもう一ひねりか2ひねり入れて完成度を上げてからUPするのですが、もうここであげちゃいます。文章校正とか、真剣にやってると、また時間が足りなくなって、日の目を見なくなる恐れがあるので、それはおいおい気が向いたらやろ。
文責:田村
Tweet