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Essay 897:
 エッセイの模様替えについてのあれこれ

2018年10月24日初掲

 2週ほどおやすみしてました。
 理由はトップページに書いたけど、ここにも書きます。(1)多忙&体調、(2)抜本的にやり方を考え直したいです。

 「多忙」というのは、仕事関係では、本業が二週連続であってシェアリスト作りに追われつつ、他の2つのバイト仕事も同時並行で入ってること。
 それに加えて、今月末までに確定申告。毎年憂鬱なのだが、今年は特に例年の数倍難しいことが判明。なんせ、これまでと収入や経費構造が変わるのでかなり面倒くさいことになってます。どのくらい面倒臭いのかは、いやもう考えたくもないわって感じ。考えないといけないんだけど。迫るタイムリミット!あーうざ。

 さらに、ここんとこクソしつこい風邪ひいてて、全然そんなシビアではないんだけど、ほんとしつこくてうんざりです。

惰性のようにやってもね〜

 しかし、より抜本的には、このままダラダラ書いててもつまらん、というのがあります。

 これまでは「続けることに意味がある」と思ってたんだけど、だんだんそれはもう卒業って感じ。20年以上やってたんだから、もうええやろ?と。多分、続けるだけなら無限に出来てしまいそうだし、そうなれば、もはやそれほどチャレンジングではない。せっかく900回近く書いたんだから「目指せ千回!」とかいうアニバーサリー的な感覚もない。前にも書いたが、僕はもともとこの種のアニバーサリー感が薄く、自分の誕生日であっても殆どなんとも思わない。

 そうなると、むしろ「敢えて続けないことに意味がある」というか、「長年の習慣を意志の力で変える」方がより難しくて、チャレンジングで、クリエイティブかもしれないなって気分になってます。

 同じパターンを繰り返しやってるのって楽なんですよね。定形書類の使い回しみたいに、名前と生年月日だけ替えておけばOKみたいな。でも、そんなことやっても、それこそ時間の無駄だと思うし。


興味のジレンマ

 また、書く内容にも関わってきて、今の自分が興味があって書きたいことをそのまま書いたらマニアックになりすぎて「もう誰も理解できない」という気がします。

 直近に書いた奴隷支配論でも、長いから割愛したという末尾の対策部分こそがポイントで、結構リキ入れて書いたんですよね。ただ、自分でも模索しながら書いてるから整理されてない。読んでもスッキリ一読了解にならない。また、直感的飛躍やら仮説やらバンバン使うから、客観的に意味が通らない部分も出てくるのですよね。それを説明しだすともう泥沼になるし。

 でもね、ここは敢えて言いたいのだけど、本当にクリエイティブなものって、暗中模索しながら必死にやっていて、そこでは直感的飛躍やらワイルドな連想が一番の武器になるので、本来他人に説明しにくいのですよ。それは真っ暗な深海のトンネルを掘ってる最前線みたいなもので、無秩序に土砂や岩石が転がってて全然整理されていない。

 最先端になればなるほど、それは顕著になって、もう「うわ言を口走ってる」みたいな感じ。「あ、そっか。いや違うか、あれちょっと待って、ああ、なるほどそうなるんか、いや、ならないか。あ、もしかして、、」とか、そんな感じで、「何を言ってるんだお前は?」って。

 逆に、最初から最後までスッキリ読めるようなのは、もうその種の知的な熱は冷めてて、死火山のようなトピックです。こういうのは何度も考えて、また他人に喋ったりして、かなり鉄板になってるから、それはそれは論理的に繋がりがいいし、わかりやすい比喩もバンバン使える。とても安定的。「商品」や「作品」としては手堅い。

 だが致命的な欠陥があって、書いてる本人がつまらない。「またこの話かよ」みたいな。だって、最寄りの駅から自分の家までの道順を丁寧に述べているだけみたいなもので、そんなもん何が面白いんじゃ?って感じです。

 つまりですね、誰もがわかるようなポップな話題は、皆のウケも良く、面白がってくれるけど、自分が飽きてて面白くない。逆に、僕が面白いネタは、クリエイティブ的に支離滅裂だから皆が面白くない。ここに根本的なジレンマがあるわけですね。

 まあ、こんなの僕に限らず、エッセイに限らず、なんだってそうなんだけど、どうしたもんか?ってのはあります。

 思えばオーストラリアに来たばっかの頃の「シドニー雑記帳」は、読者と自分とで感覚距離が近いから、自分が興味があることは皆にも興味があるわけで、それはそれは楽だったんですよね。でも、20年以上やってたら、一応僕にも学習能力ってのがあるわけですから、そんな20年前の感動や見識を毎週毎週「今気づいた!」みたいに書けやしないです。そんなの端的に嘘だしね。

 一方、一括パックの作業においては、自分自身を20年前の着いたばかりの頃の感覚に巻き戻して、来たばかりの人との接点世界を増やします。「ここで戸惑うんだよね」「それって最初にやるときはめちゃビビるよね」みたいな感覚こそがイノチなので。それはいいんです。ただエッセイでもそれをやるのか?っていうと、そうなんかなー、それでいいんかなーってのはある。

 まあ、そうはいいつつも、これまでは「騙し騙し」というか、すごい基礎的な、誰にでも受けるような古い(飽きた)ネタではありつつも、それまでの蓄積経験とか、最新の時事情報やら、現時点での到達点なども織り交ぜて、過去に「この話前に読んだよ」って人にもまた新鮮に読めるように工夫したり、自分でも面白く書けるようにしたりって折衷点を模索してきました。

 それもやってりゃ上手になるし、「はい、一丁あがり」みたいな感じに出来る。むしろ気合入れない方が世間受けはいいものが出来るというのもカンドコロとして分かってきました。テクニックオンリーで書いた方が安定的。でも、その職業的に手慣れた感じってのが、また、自分でもイヤになるのですよね。マーケティング主体で作ってるJ-POPの曲みたいで、俺は何をやってるんだ?という気もしたりして。

断片と全体〜統合失調症的アプローチ

 ここで今の自分が面白いと思うテーマを、試しにちょっと書いてみます。今ずっと頭にひっかかっていて、自分のなかではホットな争点というのは、「断片と全体の関係の再構築」ともいうべき想念で、断片があったら全体はいらないんじゃないか、もっと言えば統合失調症でいいんじゃないか、とかいうことです。

 音楽が輝くためには「曲」という形式は必要か?とか、幸福であるためにはストーリーとか全体性は必要か?とか、個人の人生に社会は必要か?とか、美は刹那にしか宿らないんじゃないかとか、そのあたり非常に興味が尽きないテーマだし、 また、これが前回書いた奴隷システムへの一つの解法にもなるんじゃないか?という視点もあるのですけど、そんなこと言われてもわからないですよねー。「なんのこっちゃ」でしょう?

 なんで断片にこだわるのか?というと、真実とか、感動とか、美とか、そういった生きていて価値あるものというのは、およそ断片なのですよ。前後の文脈とかどうでもいい。

 あなたが過去を振り返って、「良かったな」と思う光景とか感覚とかあると思います。「ワーホリ時代」「学生時代」「青春時代」とかなんでも。死ぬ前の走馬灯に出てきそうなダイジェスト版の名場面集ですね。あのときにみた夕陽が忘れられないとか、あの夜の公園のことを今でも覚えてるとか、仲間と馬鹿やってた夜道が楽しくて、、とか。

 でもそういうのって大体が断片でしょう?そこに至るまでにどういうダンドリをふんで、予算はいくらかかって、何がどう問題で、あとでこれに苦労したとか、そういう前後の文脈とかは一切省略されている。そもそも、いつそれを思ったのかすら正確に思い出せないってことも多いです。

 だとしたら、自分の人生にとって本当に意味があって必要なのは、キラキラ光る断片みたいなものだけであって、その前後の文脈とか、計画性とか、整合性とか、首尾一貫性とか、システム的統合性とか、どーでもいいじゃないの?と。

 旅先で見た光景が、国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」的に感銘に残ったとしても、その旅行の予算やら行程を創る苦労とかいうのと、その感動はあんまり関係ない。全然関係ないといってもいいくらい。そのキラキラ輝く断片は、あるとき突然天から降ってくるようなもので、何をどうしたら降ってくるというものでもない、法則性もない。美しい海を見たくて、苦労して休みをとって、高い旅費払ってそこにいっても、意外と海は感動しなくて、「いやー来たわー」というだけのことに過ぎない。だけど、その帰り道になかなか来ないバスを待ってた田舎のバス停の光景だけはやたらよく覚えているとか、そのときぼんやり見ていたポッカリ浮かんだ雲の形になんらかの人生のヒントを教えてもらったり、うらびれた田舎のよろずやみたいなところで食べたかき氷が妙に郷愁をそそって良かったとか、そんなことが多い。

 また、僕らが寝ている間にみる「夢」の世界も、全体の法則性なんか無茶苦茶で、時系列も因果関係も、見当識も、ひいてもアイデンティティすらも狂ってます。シドニーの通い慣れたバスを乗ってBroadwayの坂を上っていくと、JR大阪駅の大丸前に出たりして。小学校の頃の友人と職場時代の友人とが同じ部屋で談笑してたり、いつのまにか自分の視点が変わってて、自分を見ている第三者が自分になってたり。

 でも夢の世界がそうだということは、つまり僕らの脳内世界はそうだということですよね。
 原データーはとっ散らかったおもちゃ部屋みたいになっている。そこに理性的な脈絡を付けたり、時間感覚やら、同一性や連続性を認識させるのは、たぶん脳内の海馬とかそのあたりの機能なんだろうけど、本来の姿としてはかなり野放図で狂気じみた世界。それは精神分裂病〜統合失調症の世界みたいなものです。

 とても狂っているんだけど、実はあれがノーマルなんじゃないかなーって。だから死ぬ前の走馬灯もそうなるし、自分が大事に感じてる物事の秩序オーダーもそうなっている。

 ならば、この統合失調症的な狂った世界を基準にして、それで人生設計やらなんやらやったほうがむしろ理に叶っているのかもしれないなと。まあ、いきなり全部そっち路線でやったら本当に気が狂ってしまうから無理だけど、そういう要素を大胆に取り入れたほうが道が開けるような気がする。


 つまりこれだけ頑張ったから、これだけ成功しました、合格しました、お金儲かりましたとかいうストーリーとか、因果関係とか、整合性とか、すごーく大事なようでいて、実は僕らの幸福=キラキラ断片とは、ほとんどなんの関係もないのかもしれないなーってことです。だったら、そんなにムキになってやらなくてもいいのかもね、それが人生の「解」であるかのように考えるから、間違えるんじゃないかって。

 もちろんそういうことも大事なんだろうけど、そういう「アリとキリギリス」的な因果関係ストーリーって、事実上お金儲け活動につながってて、それは要するに衣食住の確保という文脈でのみ意味がある。それはもちろん大事なんだけど、でもそれは「不愉快にならないための防衛活動」(寒いとかひもじい思いをしないため)であって、積極的に幸福キラキラとは実はまったく別次元の話だろうと。いくらエリート的現場で、数万円の懐石料理を食べさせてもらったとしても、パワ&セクハラ野郎にじろじろ舐め回すように身体を見られたり、小姑みたいなウザい奴からいちいち箸の上げ下ろしにいちゃもんつけられながらメシ食ってたら、それは幸福なのか?ですよ。カロリー的、経済的には満点なのかもしれないけど、関係ないんじゃないのー?って。

 でね、前回の奴隷システムも安定志向も何にかも、この不快防衛システムでしかなく、そこをいくら一所懸命やったとしても、不快にはならないかもしれないけど、積極的に幸福になれるというものではない。むしろ全然違った脈絡で幸福になったり不幸になったりするもんだと思うわけですよ。そんなことは70年代の金属バット事件以来、日本人の共通認識じゃなかったのかよ?って気もする。

 それを自覚的に考え、実践することが、奴隷システムに落ち込むことへの回避策になるかもしれない。なぜなら、奴隷システムというのは、因果律的成功と精神的幸福とを直結させている誤謬、つまりアリは常に絶対的に幸福であり、キリギリスは常に不幸であるという間違った仮定=によって成立している洗脳陥穽なのだから。

 わかります?
 まあ、わからんよねー(笑)。

 わからんままさらに置いてけぼりにするけど、なんでそんなに美は刹那に宿る的な、刹那にしか宿らない的な、断片という形式をとって、因果律的な形式を踏まないのか?その根本的なメカニズムはなにか?ですが、おそらく人間の主観的な認識サイドの問題だと思う。美も幸福も実は普遍的に世界に満ち満ちている。もう酸素や炭素のようにいくらでもある。この世の全ては本来美くして当たり前、感動的で当たり前なのだろう。だけど、それをそうだと認識するためには、僕らの認知レベルをありえないくらい高度に研ぎ澄ませないとならない。いや、「研ぎ澄ませる」というと語弊があるな。そんな積み上げていく感じというよりは、分厚い雲の切れ間に青空が覗いているというように、邪念だらけの日常において、ふとなんかの偶然で邪念が薄れて、素のまま感じられるようなミラクルに偶然な瞬間があって、そのときに感動ということが起きるんじゃないか。

 だから幸福や大事なキラキラが断片のように感じられるのは、僕らの幸福感知システムがそういう特質をもっている、意識というよりも、無意識にこその本来の舞台がある。だから頑張って意識を集中すればするほど遠ざかるというか、頑張って眠ろうと思うと却って眼が冴えて眠れなくなるみたいな感じで、厄介なんですよね。でも、なんかの偶然で、いい感じにぽっかり意識が薄れるときがあって、そのときに世界のほんとうの姿がダイレクトに入ってきて、そこで感動する、幸福を感じる、そうなってんじゃないか?だから、なんでこんなどうでもいいシーンを覚えているのか、なんでこんなどうでもいいシーンが心に響くのか自分でも不思議みたいな現象が起きる。

 ならばこの仮説に基づいて、どのようなエブリディの行動戦略や戦術が導き出せるか?もともとがかなり無茶苦茶な話なので、こんなの統合できるのか?って気もしますよね。要は「因果律的幸福観からの逃走と闘争」みたいな話で、つきつめれば、人生設計や計画なんか破綻してていいのだ、社会的に不適合であってもOKなんだよってすごいことになる。マジにそうなったら、それはそれで大問題なので、そのあたりのバランスを取らないとならないわけなんだけど、さて、なにをどうバランスを取るのか、いやそもそもバランスなんか取る必要あるのか、逆に意識しなくても自然と取れてしまうものなのか、人によるのか、人によるならそのメルクマールはどこにあるのか、そのあたりからして実証的にはわからない。だから、うーんと考えてて、それが最先端のトンネル現場だったりするわけですね。

 だけどね、前回のエッセイの後半部分にコレをダイレクトにくっつけても、ダメでしょ?なんか読み物として成立してないというか、「木に竹を接ぐ」というか、次元もレベルも違ってきちゃう。そのあたりの感覚で、あー、このエッセイの形式でやってても不毛かもしれないなっーて感じたのですね。


形式の変更

 ということで、そのあたりもどうしたもんだかです。もっとフレキシブルにやれるようにエッセイの形式も多少はモディファイしないとならんと思ったわけです。

 週一とかのこの形式(長さとか周期とか写真つけるとか)すらも邪魔くさく感じられてる部分もあります。あー、縛られてるなーって。

 とりあえず、これまでの無意識的な、あるいは慣習的な「こういう感じ」というのは壊していきます。自分で縛らないようにする。イエローモンキーの"Four Seasons"って曲の歌詞に、「まず僕は壊す、全部足りないから。まず僕は壊す、全部欲しいから」ってのがありますが、そんな感じ。

 つまり、
(1)定期連載にしない。不定期にする。興が乗らなかったら1年でも2年でも書かないし、なんか書きたかったら1日に5本も6本も書く。週に1本とか、毎週月曜とかいうのも無し。だから「今週の」ではもうない。タイトル替えたり、また別にコーナーを設けるのも面倒だからこのままにしておくけど。

 毎週月曜更新というのも、やってる側としては毎週週末に締切が来るので、週末を思い切り楽しめないということでもあります。まあ、自分で決めたことだからいいし、自由業にはそのくらいの苦い制約があったほうが背骨がシャンとするだろうという思惑もありました。だけど、「もうええやろ?」という気もするし、これからずっと週末が半曇りみたいな状態で死んでいくんか〜?とか思うと、それもちょっとヤダなって思った。実際この2週間、月曜日をすっ飛ばしただけでもかなり時間の自由度がきいて快適だったりする。

(2)必ずしも写真とセットにしない。「一枚(の画像)」というコンセプトは、その昔、オーストラリア現地の写真が極端に少なかったネット黎明期に、「こんな風景もシドニーなんだよ」ってその当時は情報価値も大きかったからやってたものです。今はネットでいくらでもあるし、Google Viewで見れるし、写真をセットにする意味はもはや無い。逆に写真だけで終わりというのがあってもいい。

(3)分量も決めない。もともと長いのだけど、リミッター外して、死ぬほど長いのを書くこともあるかもしれない。かと思うと、「ここで一句」とか俳句一つ書いて終わりという3行くらいのやつでもいいし。

(4)完成度にこだわない。特に商品的な完成度は意識的に低くするくらいの心持ちで、その分実験的で野心的な感覚を優先させる。最終的にまとまらずに、ぶつっと変なところで終わってもいい、あとで補充してもいいし、一回書いたものに後々補充し続けるのもいい。要するに決めたくない。


 感じで言えば、初期の「シドニー雑記帳」の原点に戻るということですね。
 思えばあの頃の方が自由奔放に書いてましたし、文芸的なものとか、ただの写真だけとか、ギャグみたいなものだけとか。それがだんだん自由度が減ってきて、なんだかなってのはありました。

 自由度が減るのは、「期待に応えよう」という意識と表裏一体なんです。定期的に読んでくださる方もそこそこおられるし、読者歴”20年モノ”という人もそこそこおられる。メールをくださったり、オフをやると出てきてくださったり。

 また、(オーストラリアで)現役やら卒業生の連中やらと付き合いが多いので、「たぶんこのあたりでドツボにはまってるだろうな」とか、「ここでひっかかってるだろうな」とかなんとなく分かるし、それはさらに「こういうことを言ってほしいんだろうな」というのも分かるような気がする。

 そうなるとコテコテ大阪的サービス精神でやろうとしたりするんだけど、でもそれって「迎合」でもあるし、「媚び」でもあるし、ウケ狙いでもあるし、あんまり健康なことではないなって気もする。だから、そういうニーズは踏まえつつも、平然と無視するというか(笑)、多分全然興味はないだろうけど、俺が興味があるんだよってことをやってかないとダメなんだろうなって気もする。

 でもそうやって全体のバランスを取りながらやってると、各見地からベクトルの制約を受けるので、一定の最適解的なものに収斂されていく。最適解といえば聞こえはいいけど、要はワンパターン化していくし、自由度が減っていくということであります。で、だんだんテクニックだけでこなすようになるという。

実は狂気の断片が書きたい

 また個人的に今でも読み返したくなるのは論説的なエッセイよりも、文芸的なものが多いです。それも初期の方、もっといえばオーストラリアに来る前に、日本でパソコン通信やってた頃に、「ぐわ〜、こんなととろにおったら死ぬわ」みたいな切羽詰まってた頃に、夢にうなされて書いてたような散文とも詩ともつかないものがいいです。

 「国境まであと少し」なんて、当時の心象風景そのまんまだったし、それは今でも続いてる。真っ暗な高速道路を一人でぶっ飛ばして、前照灯に照らされるセンターラインがものすごい勢いで白黒マダラの蛇になって、やがて夜が白んでくるころ見たこともないような広大な平原がひろがってきて、助手席に座ってるもうひとりの自分がサナギ化し、そしてサナギに亀裂が走って羽化が始まるという。エンジンの轟音しか聞こえない漆黒の高速道路というメタファーが、生きるってそういうことだろ、的に今でもピンときます。上でいえば、キラキラ断片を描いたもの。

 あと「俺の日は全ての日」も好きですね。こうやって生きていきたいという一つの理想。西部劇みたいな舞台で、へろへろ流されているだけの人生なんだけど、自分の誕生日なんか「生まれたときのことなんか覚えてるわけねえだろ」って興味がないし、自分の名前にすら興味がない男。人生に意味を求めない、もう徹底的に意味を求めない生き方。「なんの意味もなく俺は行くぜ、すこぶる快調、タバコもうめえし」で、見渡す限りの地平線の大荒野で、大瀑布のようなスコールを浴びて、天然の巨大なシャワーの下、両手を広げて狂ったように踊るラストシーンが好き。死ぬほどだだっぴろいところに一人ぼっちという情景が好きなんだろうな。

 それと、アニマ(自分の中にある女性人格)を取り出して語らせるのも好きですね。人の人格なんかいくつもあると思うし、一人が統一したひとつの人格ってのは無理があるだろ?って常々思うのですよ。いっそバンドとかユニットみたいに何人かがまとまって演奏してるのが個々人の人格なんだって思ったほうが、実体に近いんじゃないかと。数ある自分の中のひとりにソロを取らせてあげるのは面白いです。アニマものは好きで、他人を癒やしたり、助けたりするのはアニマ的な自分のなかの女性性だと思うし、エッセイで書くとかいう文章表現よりも、普通の一般業務で一番活躍してるエッセンスかもしれない。いくつか書いてるけど、無理して頑張ってもうダメぽって人に、手を離して落ちてきなさい、抱きとめてあげるからって呼びかけるやつが好き。「早くもとの姿に戻れるといいね」というのが合言葉で、日本を出るときもそう思ってた。早く「もとの姿」に戻りたかったんだよ、俺は。

 他にももっと支離滅裂で、あまりにも断片すぎるのでボツにしてるのが沢山あるんだけど、個人的には意味不明で、気違いじみたものが好きです。「仏作って魂入れず」って言葉があるけど、「魂」ってなにか?といえば「狂気」だと思うのですよ。いくら完璧な計画をたてて、価値観的にも、実行可能性も、そして達成感もバリバリあるようななにかをやったとしても、その核心には狂気がなければならない。恋愛も事業も海外渡航もなんでもそうだと思うけど、その1%の狂気の純度を保つために、99%の緻密で論理的な実務作業をするのだ。実務がヘタレだと狂気も死ぬからねー。なにしに海外に来たの?とか、なんでそれやりたいの?ってきいて、その答えの中にどっかしら狂気が宿ってる人はうまくいくと思いますし、実際うまくいってるような気がする。「理屈じゃない」ものを持ってる人は強いよ。でも、そのなかに狂気がない人、すべて計算づくの人はどっかで壁がくると思う。

 、、、で、だから、なんだ?って脈絡がつかなくなってきたけど、唐突に終わろう。
 まあ、うまいこと締めのフレーズで大団円的にまとめることもできるんだけど、なんかもう、そのあたりの「賢しげ」なテクニックがうんざりなんで。





文責:田村


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