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今週の一枚(2018/10/08)



Essay 896:他人を奴隷支配する方法

〜選択肢をつぶすこと

 写真は、Parramatta。
 本文と全然関係ないし、撮ったのも2年くらい前ですが、12月の初夏くらいの感じ。初夏といっても、この日は結構暑かったですけど、強い日差しとカラフルな感じでなんかラテンっぽいです。

国家解体

 なんでこんなに日本では物事が動かないのだろう?と、外から見てるとイライラを通り超えて、感心するくらいです。「茹で蛙」とかいいますが、クソ熱い風呂にやせ我慢で入ってる江戸っ子みたいに我慢してる。

 隣の韓国ですら民衆が怒って前大統領を刑務所に入れてるんだけど、日本ではその気配もない。なぜ?と思うよね。30年前の僕が居た頃の日本の感覚だったら普通に収賄罪だし、オモテに出てる事情だけでも十分に立件、公判維持できるでしょう。判決も、たぶん執行猶予なしの実刑になる可能性も高い。それが何も無し?スルー?いやあ、シュールだわ。

 そんな個別なことよりも、秘密保護法あたりからの一連の行為は、単なる事件や改正立法レベルを超えて、法治国家として成り立たせるコアな部分を解体していく作業だと思う。

 僕はここで、よくある9条がどうの戦争がどうのってレベルの話をしてるわけではない。それ以前のレベルです。国の政策として、個々の局面で戦争をするかどうかはその時どきの判断でしょう。憲法改正にせよ、宣戦布告にせよ、それがルールに則ってやっているなら、その賛否両論はあれども、違法とか解体とかいう話ではない。

 「それ以前の問題」というのは、1+1が2にならない点。国法体系というのは精密で膨大な論理プログラムのようなものですが、そこには根本的でコアになる演算法則があります。1+1を2にするときに、「+」か加算を意味するとかそんなレベル。そこが崩れている。

 秘密保護法のときに詳しく書いたけど、国家権力を行使するには法律上明確なルールが必要だというのが大原則です。どのくらい「大」原則かといえば、モンテスキューとかジョン・ロックとかそのくらいの昔からで、ここ数百年の人類の常識。なんせ国家権力というのは、いとも簡単にひとりの人生を破滅させたり、殺したりも出来るわけで、いわば地上最強の凶器です。ゆえに取扱注意。そのルールは可能な限り明確でなければならず、とにかく「気まぐれ」とか「曖昧」な条件で作動させてはならない。「なんとなく死刑」とかは許されないわけですね。当たり前だけど。

 このクソ当たり前のことを世界中の皆が数百年もギャーギャーいい続けているのは理由があります。「人間は感情の動物」だからです。いくら普段は常識的な人でも、ムカついたり、追い詰められたり、都合が悪くなったりしたらズルいことやヒドイことをする可能性がある。自分の都合のいいように立場を利用して変なことをするかもしれない。実際およそ人間集団には、だいたい漏れなくコレがついてくる。エコヒイキにせよ、パワハラにせよ。これを難しくいえば「権力の(恣意的な)濫用」とかいう。それをいかに未然に防止するか?近代法や近代国家論の本質はこの一点に尽きるといってもいい。

 ところが、あの秘密保護法が超がつくくらい画期的なのは、「乱用してはならない」という大原則を解体して、「乱用しても良い」に書き換えてしまった点です。乱用防止→出来るだけ「明確に」を変えて、かなり「曖昧でもOK」にしてしまった。

 つまり秘密保護法にはどうなったら罰せられるかちゃんと書いてない。「秘密を漏らしたら」って条件になってるけど、じゃあ「秘密」とはなにか?というと、これがとても曖昧。てか究極的には「それはヒミツです」という冗談みたいな構造になってる。すごいわ。これって「後出しジャンケン」が出来るってことですよ。「こいつ、気に食わないな」と思ったら、後付けで「お前秘密を漏らしただろう?」って難癖をつけて息の根をとめることが出来る。この一点を突破されたら、あとはもう防波堤がないから、究極的には、日本は国家にいつ殺されても文句は言えない国になってしまったってことです。それが不当だと幾ら主張しても負けてしまうというフォーマットになったんだもん。

 まあ、今だって別件逮捕だの、証拠捏造だのなんだので警察権力は個々人の息の根を止めることが出来ますよ。それでもフォーマット自体はまだマトモだから、嵌められた個人はまだ戦う余地も、救済される余地もある。でも、この秘密保護法はその余地すらない。

 この違いがわかりますか?天地の差があるのですよ。「反則だけど、バレなきゃいい」というのと、「そもそも反則ではない」との違いです。これはもう悪用しようと思ったら無限に出来るし、歯止めがない(そもそも”悪用”とすらされない)。今はしてないみたいだけど、将来的にされないという保障はない。なんつっても戦前の治安維持法のように過去に悪用しまくった前科もあるし、今だって社会の裏ではいろいろあるでしょう。

 しっかし、こんなギャグみたいな法律が未だに存在すること自体が信じられない。僕に言わせれば、こんな法律が通った時点で日本は近代的な法治国家ではなくなったと思ってます。パトリオット法がのさばってるアメリカもまたしかり。今では悪慣れして話題にもならない、問題意識もない。今の日本はなんなのだろう?と思うと、戦国時代やヤマト朝廷あたりの豪族とか、なんとなく人が集まってるだけというか。ま、世界史的にいえば、植民地政治に近いです。宗主国に媚びまくった地元の小悪党ボスが、虎の威を借りる狐状態でやりたい放題やってる状態で世界各地に「よくある話」です。歴史を見ると、こういう状態の社会ってかーなりヤバくて暗い状態になりますよね。社会全体が恐怖のイジメ教室みたいになって、皆ビビって下向いて暮らすしかしないし、そこで上手くやっていくヤツというのは誰よりも卑劣で嘘つきだったりして、社会の基本モラルが壊れる。

 別の事例でいいますと、例えば公文書の偽造変造なんでもアリってくらいやっておきながら、結局責任取るべき奴が取ってない。とばっちりで可哀想な官僚が「自殺」させられているという、いつもの話になっている。しかし、ここまで堂々と公文書の信用が壊された、壊していいんだよ、お咎めナシだよってなったのは、歴史的には大事件です。なんつっても、「文書は真実を書かなくてもいい」「あとで捏造してもいい」ってことでしょ。これ以上ないくらい最高レベルの国会審議レベルで嘘を押し通す、まかり通るってことは、それ以下の重要性しかない物事はなおのことです。

 だったら、もう文書なんか作る意味ないじゃん。文書というのは、タイムマシンがない以上、過去に何が起きたか分からない、だからその時点で正確に記録しましょう、そして記録したものは改ざんできなくしましょうって証明手段として作られるものでしょ。それを後から書き直しOKだったら、それはもう「文書」ではないよ。そんなのがまかり通るなら、文書なんか作るのやめたらいい。戸籍も、登記簿も、結婚届も、日本全国津々浦々で今日も何百万ページと作成されている文書、あれ、全部やめたらいいです。だって最終的には意味ないことに決定したんだもん。もうスマホの動画で自撮りしてFBにアップして、そのリンクを貼っておいた方がまだ確実だよね。いつ偽造・変造されるかわかったもんじゃないんだから。ま、文書一切廃止にすれば森林資源も助かるし、公務員の大多数はクビにできるし、そのへんの人件費がどーんと浮いたら、皆の税金も年金もガーンと安くできる。

 というわけですが、上記はほんの一例で、他にも「統計数値を信用できないものにした」等多数ありますが、いずれにせよ「法律とはこういうもの」「文書とはこういうもの」という今の社会の根本ドグマみたいなものを壊していると言う意味で、国家解体罪(そんな犯罪ないけど)みたいな感じです。いやあ刑法も、まさかそんなことする奴が出てくるとは予想してなかったもんな。盲点突かれたって感じ?

 まあ、ここまではいいです。良くはないけど、「笑かしよんな〜」っていうか、「恐るべし、日本のギャグセンス」ってキャハハと笑いのめしてもいい。法律はあとで変えられるし、まだまだ公訴時効まで時間はあるので、あとで矯正することも不可能ではない。

 考えさせられるのは、これだけ無茶苦茶になっていながら、日本では暴動も抗議もろくすっぽ起きてない点であり、(うさんくさい集計ながらも)支持率も結構高い点です。

 なぜそうなのか?そこが今回のテーマであり、ああ、こうやって誰も何も抗(あらが)えないまま蹂躙されていくのねーという構造分析です。人はどうやったら隷属させられていくのかのメカニズム。

他者を絶対支配する方法

 ブラックとか、過労死とか、過労自殺とか、DVされまくりの夫婦とか、人が人を一方的に支配する状況があります。戦時中の日本なんか、「死ね」と言われて「はい」って大人しく死んでたくらいですからね。「そういう国なんだよ」って言ってしまったらそれまでなんですけど。

 でも、なんでそこまで我慢するかなー?死んじゃったら意味ないじゃんって思うんだけど、そういう現実がある以上、そこにはそれなりの理由と構造があるのでしょう。「根性なしだから」「馬鹿だから」という個人の特性論で済ませてしまってはいけないと思う。誰でもそうなるメカニズムがあるんじゃないか。

 これは逆に、僕が他人を絶対的に支配しようと思ったらどうしたらいいか?という問題に置き換えられるし、そう考えた方がわかりやすい。

 一番簡単なのは銃をつきつけるとか、そういったわかりやすい脅迫です。でも、これも大変ですよ。ずっと銃をつきつけてなきゃいけないから、腕が疲れるし、こっちがトイレいってる間に逃げられたら終わりですからね。次にもう少し悪賢い方法でいえば「人質」があります。子供も奥さんでも人質にとって、逆らったら殺すよというやり方。でも、これも手間暇かかる。一人や二人だったらいいけど、国民全員を俺の支配下にするんだという野望があった場合、あまりにも効率が悪すぎる。

 ここから先が「高度」な統治手段になるのですが、なにも馬鹿正直に脅迫的な行為をする必要はない、「そう思わせる」だけで目的を達成できる。心理操作や洗脳で十分である。


 じゃあどうやって洗脳するかといえば、結局、僕に服従しているのがベストな選択だと思ってもらったらいいわけですよ。これが一番スマートだし、大量処理できるし、大量処理したほうがより成功率が高まる。

 ならば、どうすれば奴隷化が「ベスト」だと思わせられるか?クソを掴ませておきながら、それは黄金なんだとカンチガイしてもらうか。

 いろいろな方法があるのだろうけど、ポイントは相手の選択肢を減らすことだと思います。
 冗談じゃねーよ、なんであんな奴(僕)に隷属しなきゃいけないんだよって普通思うよね。思うのだけど、じゃあAは?といえば、これこれの事情で無理、Bもほぼ無理、Cにいたっては自殺行為、Dは論外って、ほかの選択肢をひとつづつ潰していけば、結局、いくらムカついていようが現状が最善ではないかって気分になる。詰将棋みたいなもので、そこに逃げても角がきいてる、そこも桂馬にとられる、あそこに逃げても頭に金打たれて終わり、、って。だからこうするしかないんだよ、それが「ベストな選択」なんだよって。

 皆が不満をもっているのに支持率だけ妙に高いとか、やたら現状保身的、「保守」という言葉がなんか良いことでもあるかのような風潮(一昔前だったら保守=馬鹿みたいなニュアンスだったのにね)は、これじゃないかと思いますね。

 かといって、どうしようもないじゃん

 って感覚です。

 状況が画期的に良くなる方向性や方策が見えない、何をやっても今よりもマズくなるような気がする、よく検証してみたわけではないけど「こうすればいいじゃん!」って「解」を自分自身が持っていない、見えない、わからない、ならばジタバタ動かして悪化するなら、まだしも人間らしい生活ができる現状がいいんじゃないか、、って感じじゃないでしょうかね。違う?

 あー、もう騙されてるわ(笑)
典型的な「選択肢を奪われてる」という心理状態だと思いますよ。

 それに選択肢は、現実に奪う必要もないのですね。「無い」ように思わせたらいい。「可能性が低い」と思ってもらえたらいい。

そういう人にさせられる

 じゃあ、どうやってそう思ってもらうか?ですが、これはもう「そういう人」になってもらうのが一番てっとり早いです。つまり、視野が狭くて、なんでもネガっぽく思ってしまう人になってもらうといい。ひいては、成長していく過程で自然とそうなるような情報環境にしておくといい。そうすれば、自然とそういう人が増えるから、現状権力握っておけばあとは勝手についてきてくれる、ほんと楽ちんですよね。

 DV我慢してるのも、ブラック我慢してるのも、選択肢を潰されているって面も大きいと思う。今の日本で、30代以降の女性ひとりで生きていけるわけがない、マイルド貧困からさらに本格貧困になり、最後はホームレスか、老後破産か、やっていけるわけがないって思われている。また、それを裏付けるような週刊誌やTVの記事とかも多い。それに、一旦そういうことが気になりだしたら、その種の「恐怖のストーリー」に敏感になり、割合比率的にも情報的にネガ超過になる。自分でそうしている。さらにそれが、「我慢の正当化」にもつながる。ほっといても自分でなんだかんだ理由をみつけて奴隷になってくれる。あー、なんて楽なんだ(笑)。

 「視野が狭い」ってのは、例えば女性ひとりで〜とか、大企業やめても〜とか、単身で海外にいっても〜→結局地獄に落ちるだけって部分です。ここが視野が広かったら、「え、そんな奴、なんぼでもいるぞ」「結構楽しそうだぞ」ってのがわかるからビビらない。APLaC界隈なんか殆ど一人残らず「海外へ〜」系で、そっちが圧倒的なマジョリティだから、そんなクソ洗脳は通用しない。それに前回の話と重複するけど、自分でやればカンドコロもわかる。「意外となんとかなるもんだ」「なんともならんでも、不思議と後悔はないし、充実感もある」とかね。「別に大したことじゃないよ」って実体がわかる。

 その人の意見や価値観なんか、日頃摂取している情報によって自然と形成されますから、TVでも新聞でもマスメディアを受け身で食べてたら自然と「そういう人」になります。また、周囲にそういう人が多かったら、それがそこでの「動かしがたい現実」になって感じられるから、そういうもんかと思うし、そう思う人になってしまう。

 対抗策でいえば、意図的に情報摂取を散らすことですねー。できるだけ色んな領域、いろんな立場の人と付き合って話をきくとか。いま世間で話題になって「ない」テーマを毎日ひとつでいいから検索して追いかけてみるとか。かなりランダムに散らすことです。意識的に雑食になる。話題になってないテーマを見つけるのは難しいと思うならば、3年前くらいの話題を検索して、「あれは結局どうなったの?」を調べてみるのも面白いです。

 てか、ココが自覚的な人はそう簡単には騙されないと思います。でも最初からそういう問題意識もなかったら、こりゃ簡単でしょう。スプレーでシュッと一吹き〜、あなたの色に染めてくださいって感じ?

怠惰と依存心

 舌足らずのページ足らずで一気に核心まで述べてしまうと、この問題の本質にあるのは、弱者という自己規定だと思います。これは昔の「弱さの罪」というエッセイで書いたことなんですけど、とにかく自分を弱いものだという認識が中核にある。あるいはそう思い込まされてきた。それが一番のガンだと思います。

 私なんかに出来るはずがない、難しいことを理解できるほど頭が良くない、そんなしんどいこと耐えられないという認識は、謙譲の美徳としては意味あります。俺様天国みたいに思い上がってる奴よりは人間的に好ましい感じはする。あんなに凄いことしているのに「いやあ、僕なんかまだまだですよ」という人はカッコいいしね。

 それはそれでわかるのだけど、でもね、このダメ自分意識ってガン細胞みたいなもので、どんどん周辺に転移していく。

 アルコールを飲むと体内で分解されますが、その過程でアセトアルデヒドという毒素を出し、これが頭痛や二日酔いの原因になるといいます。同じように、あまりにも自己ダメ意識を脳内に抱えていると、また他の毒素を作っていくようにも思います。一つは怠惰、もう一つは依存心です。

 「いや、機械は苦手で」「最新のスマホとかもう、、」とかいって最初からやろうとしない人がいます。若い人にもいるし、中高年にもいる。メールで済ませればいいのに、「メールとかわかんねーよ」とか未だに言ってて、いちいちプリントアウトすることを求めるおっちゃんとか、政治や経済の話になると「わかんなーい」の一言で済ませようとする人とか。やたら「もう年だから」を連発する人。

 これ、謙譲の美徳でもなんでもないです。怠慢コイてるだけ。一見自分がダメなんですよ、浅学非才の凡人なのですよと耳障りのいいダメ宣言をしながらも、その本質は、面倒くさいからやりたくない、ラクをしたいってことでしょ。

 何がいいたいかというと、自分がダメだという認識は、苦くて辛いものだと思うかもしれないけど、現実は意外と甘くて、楽ちんなのですよね。だからやめらんない、って部分はあるだろうなーと。

 もう一つの依存心は、これはかなり根深いです。自分ひとりではダメだと思うから、誰か or なにかに助けて貰おうとする。溺れる者は藁をも掴むというけど、自分ひとりでは溺れるという地点から出発してるから、一所懸命「藁」を探すし、頼りになりそうな藁の言うことに従う。多少おかしいなと思っても、一人でゼロから考えてやるよりはずっとラクだから、そうする。かくして、なにかに依存していないと生きていけないような人になる。

 

安心願望は隷属願望

 ここからさらに派生すると、日本では「安全」とか「安心」が宗教のように信奉されていますが、日本の場合はやや特殊な感じがします。オーストラリアにも安全(safe)や安心(peace of mind)はあるんだけど、もっとメカニカルに現実的で、具体的にこういうリスクがあるから対策としてこうしようとか、衛生リスクがあるから寿司を握るときも手袋をして握れとか、リスク=対策が対応関係になっているし、検証されている。安心にいたっては、メディテーション(瞑想)とかそっちの領域で言われることで、政治や経済や商品で言われることは少ない(保険などで多少言われるくらい)。

 でも日本の「安心」はパッケージで、なにからなにまでひっくるめて「おまかせ〜」みたいな感じがする。強くて大きななにかにすっぽり包まれて安心〜みたいな感じ。カンガルーの子供がお母さんの袋の中にはいって安心だという胎内回帰願望にニアリーな感じ。

 それは難しい大学に受かれば安心、潰れる心配のない役所や大企業に入れれば一生安心、生活力のある伴侶をゲットしたら安心ってな感じで、全部まとめてパッケージ。そこには個別のリスクを予め摘出し、緻密にリスクを分析し、それへの対応策を十数プラン考え、ひとつひとつ綿密に検証し、選択するという理知的なニュアンスはない。きわめて感覚的、感情的。

 このおまかせ願望は、さきの自己ダメ意識〜怠慢・依存心から延長線ででてくるものだと思います。自分みたいなアホが何を考えてもうまいやり方なんか思いつかない and/or そんな面倒くさいことなんかしたくない、どっかに出来合いのいい「人生セット」でもないかなー、あるじゃないか、もうこれにしておけばいいじゃん、難しいこと考えなくてもいいし、楽だし、安心だし。

 怠惰と依存心は表裏一体だけど、ほんとうにラクなんですよね、これ。そして何かも任せきって、委ねてしまえたら、すごーく楽だし、ココロは平安になります。もう麻薬的なくらい。

 で、どうなるか?というと、ほかの選択肢がなくなる

 こんな圧倒的に楽チンなものから離れるなんてありえない、どんなに先行き不透明だとか、そんなの思い込みだとか、騙されているんだとか言われても、じゃあ他にどうするの?といえば、そんなの考えたことないからわからない。なんで考えなかったの?っていえば、どっか楽な方(思考停止)に行っちゃったからであり、どうしてそこで楽な方にいったの?といえば、根っこにあるのは自分に対する自信のなさ、セルフエスティームの低さ、自分の人生を自分ひとりの力で切り開いていけるんだという確信がないことでしょう。遡ればそこまでいくと思う。

 じゃあどうしてそういう大人になったの?といえば、それは教育問題とか、親がそもそもその種の人間類型だからとかいろいろあるんだけど、今回はそこまでは述べません。

 ただ、ほんと、誰か(なにか)の奴隷として隷属するくらい甘美で満ち足りた感じがするものは無いかも。「隷属」って意識や表現では語られないかもしれないけど、自分の生殺与奪の権を与えるという意味ではそうだと思う。

 確かにこの世界は厳しくて、人がひとりで生きていくのはツラすぎるのかもしれませんね。だから昔っから神様に隷属したり、部族やシキタリに隷属したり、忠義の名のもとに主君に仕えたり、、、、「どうしてこんなに?」ってくらい、人類の歴史は支配/被支配の歴史でもある。それは、常に悪魔に魂を売った邪悪な者が出現して、無辜の大衆を支配して、、って文脈もあるのだろうけど、支配される側がそれを望んでいるという部分も同じくらいにあると思います。

悪魔の統治

 とまあ、以上延々と述べた背景事情があってこその高支持率、というか現状維持、というか現状「しがみつき」というか、そういう現象になってるんじゃないかなーって思ったりします。

 なお、話を現実に引き戻して、為政者や権力者がもっともっと私服を肥やしたい、やりたい放題したい、それに文句を言う連中を黙らせたいと思ったら、いま現状ではかなり効果的な方法があると思います。もっとどんどん追い詰めること、です。

 家康がいったように、生かさぬように殺さぬようにって、ギリギリ生きていけるって限界くらいまで生活しにくくしてやればいいです。税金だのなんだのバンバン上げて、賃金上げないで、とにかく生活が苦しい方向に持っていく。現状が苦しければ苦しいほど、現状にしがみつく以外の選択肢はないような気がしてきますしね。そこまで考えてる余裕もないだろうし、一世一代のチャレンジをする気力も、その準備をする資金もエネルギーもなくなる。

 民衆に好まれるような政策を実現して支持を増やすという王道に対して、悪魔的な統治の方法としては、民衆をいじめていじめていじめぬいて逆らえないようにするという方法があります。歴史的にみると、こっちの方が多いかもしれない。

 それにやりたい放題やって、無理が通れば道理が引っ込む的にやってると、それも一定レベルを超えると皆のなかに諦めムードが漂ってきて、かえって許されるという妙な心理もあります。中途半端に物分りのよい上司がたまにパワハラめいたことをすると、すごく叩かれる。でも、理解を絶するくらい超絶的な暴君がむちゃくちゃやってると、逆にだれも文句を言わない、言う気力も失い、ただただ目の前に現実に適応しようとする。


 ただし、農工業、その他の生産力が圧倒的に低く、ほっておいても生きるか死ぬかみたいな状況だった昔ならまだそれもやりやすかったけど、あらゆる意味で生産力が高まった現在、それも限度あるから、結局はマインドコントロールに尽きると思います。

 現代人が「生きていけない」「死んだ方がマシ」と思う最低限の生活水準って実は結構高いですからね。生活水準の絶対レベルにせよ、一日の摂取カロリーにせよ、平安時代の貴族の方がもっと悲惨だったと思う。衛生や医療なんかゼロに等しかったし、盲腸になっただけで死ぬしかないし(加持祈祷とかやってるだけだし)。

 生命維持のための絶対カロリーをゲットする労働量でいえば、自然状態の原始時代が100だとしたら、今は10とか5とかそのくらいで済んでいるでしょう。悲惨だと思わされているだけで、人類史上いまだかつて現代ほど楽ちんでチョロい時代は無かったと思います。


 以下、じゃあどうしたらいいの?という対抗策を延々書いたのですが、長くなりすぎたのでバッサリ割愛します。また機会があれば載せます。



文責:田村


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