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今週の一枚(2018/10/01)



Essay 895:とりあえず来れば?

〜動くことと「視界」の話

 写真は、平日のお昼頃のBronte Beach。誰かが気持ちよさげにお昼寝してました。
 オーストラリアに来られる方〜将来的なキャリアアップや移住も視野に入れたり、そこは様々なんですけど、そういった方々と仕事柄コンスタントにお話をしてます。なんだかんだもう20年以上そんな話ばっかしていますね。

 相談内容は多岐にわたるのですが、将来への射程レンジが長くなればなるほどよく僕がいうアドバイスがあります。なにかというと、

 とりあえず来てみたら?

 という、なんも考えてな〜いっぽいアドバイスなんですけど、もちろん何も考えてないわけではなく、それどころかメチャクチャ考えまくって出てきたアドバイスです。じゃあ、何をどう考えているのか?今週はそのあたりの話をします。


視野とはなにか?

現場の感覚と知識

 考える〜作戦を立案する〜ためには、まず全体の状況がよく見えてなければなりません。なにもかもわからないままだったら考えようもないです。

 じゃあ、どういう状況が「見える」のか?というと、まず単純にやってみての現場の知識と感覚です。これらが増えてパースペクティブ(見通し)が良くなった方が「よく見える」ようにはなるでしょう。

 仕事だって、最初は右も左もわからずアタフタしていたのが、だんだん全体の構造が見えてくる。また実践的なキモ=「○○さんがうるさいからココは注意して」とか、「これは下らない風習なのだけど現状では変えられないから」とか、「ここでムキになっても殆ど評価されないから」とか、「なぜここでそうするのか?」がわかるにしたがって、視界が広がるし、より効率的に動けるようになる。楽にもなる。

 これをオーストラリアに当てはめれば、例えば英語ひとつとっても、「聞き取れない」というのはこういうことか!と打ちのめされたり、こう言うと通じるけどこう言うと全く通じない、どこに分岐点があるのか?とか、何言ってるのかこんなにわからなくても、この程度のことだったら現実にできてしまうもんだ、とか。

 そのあたりのカンドコロがめちゃくちゃ大事なんです。
 一括パックでシェア探しが目玉になるのも、現場にいって、英語の難しさとか、地元に人の優しさとかに実際に触れることで、英語は難しいな、だけど人間的な交流があれば英語がダメでもここまで出来るんだな、やっていいんだなというカンドコロがわかる点に意味あります。この現場感覚がわからないと、英語わからん→何も出来ない→日本人村直行→ずっとそのままというパターンにはまりがち。

 ただし、英語できないのに一歩踏み込むというのは、泳げないのに海に飛び込むかのように、かなり勇気がいります。だから、それを後押しする。ちょうど自転車習い覚える過程で、後ろで荷台を支えているみたいに、「はい、じゃあペダルこいで〜」ってやって、「ほらほら、いけてるじゃん」ってやる部分ですね。最初の導入部ですね。最初は「マジかよ?」と思いつつも、「あれ、出来てるじゃん」「嘘?乗れてる?」みたいな心の変化です。これが値千金に大事で、もうほんとメンタル一つですから。

 他にも、周囲が外人ばっかという窒息しそうなアウェイ感も、「慣れたら当たり前になるなー」「どってことないな」「むしろ外人ばっかの方が楽かも」って変わってきますので、そのあたりも結構大事です。思い切ってやってみたら「意外とそうでもなかった」って部分が、現場のカンドコロです。

 反面、生活を動かす感覚でも、アバウト×いい加減×想定外攻撃を受けますから、こっちもそのくらいの心持ちにしておくとか。もっともアバウトだからって、やらないわけではないのですよ。最後にはなんだかんだ帳尻が合ってたりする。そうでなければ、これだけ透明性の高い政治形態や高い社会保障を備えた社会が構築できるわけがない。ただ、そのスパンとプロセスが日本とちょっと違う。そこらへんのアジャスト(調整)はいる。

 こういった事柄は、自転車に乗るとか水泳を覚えるなどの現場技術や肉体感覚に近く、考えているだけでは解決しません。実際にやってみないと話にならない。

視界とは自己認識によって決まる

 で、「視野」の話に関係するならば、実際に自分が体験して出来るようになる/ならないで世の中の見え方が全然違うのです。

 出来るようになったら、だったら「あれも出来るかも」「これもやりたい」って自然と視野(そして意欲)が広がります。知らない外人達の中にどーんと飛び込んでいっても、意外となんとかなるもんだ、結構楽しいわってことが、実体験としてわかっていたら、これは見え方もかなり変わってきますよ。ここが体験的に得られてないなら、そんなの無理無理絶対無理!って思いがちだし。

 これは何を意味しているのか?
 今、僕は、すごいこと書いてるんですよー。
 もうコペルニクス的転回というか(笑)。

 「視野が広がる」ということの意味ですけど、単純に知識が増えて世間がよく見えるようになるという客観部分が増大するというだけではなく(それも大いにあるけど)、でも、リアルに大事なのは、自分がどうかという主観面(自己認識)も大きな意味を持つ、という点です。

 もっと言えば、外界がどう見えるかは、自分のありかたによって規定されるってことです。単に視力やビジュアルの問題じゃないのよ、自信とか自己査定によって「見え方」は変わるし、そっちの方がデカいです。

 例えば、あなたが水泳に自信があるのだったら、ちょい波が高いビーチを見ても「わあ、楽しそう」と思うでしょう。サーファーだったら荒波であってくれた方がより盛り上がる。でも、あなたが水泳に全然自信がなくて、それどころか過去に溺れかけたトラウマ抱えて水が怖かったら、波が高い海なんか恐怖の光景以外のなにものでもないでしょう。

 世間がどう見えるかも、自分の自信の裏返しや反射鏡像みたいなものです。自分がそれなりにやってきた、結構できるもんだなって自信がつけば、世間の人の背丈が小さく見える。でも自信がなかったら、誰も彼もが雲をつくような大巨人に見えるから怖くてしょうがない。世間の背丈なんか自分との相対で決まるから、仮に世間の人がみな幼稚園児くらいだったら、ちょろいじゃんって思えるだろうし、逆に全員が2メートル超えてたら恐い。

 つまり見る人によって見え方が全然違うということで、考えてみれば当たり前の話であり、よく聞く話でもあります。そして「見る人」というのは自分もそうだし、自分もまた時期によって変わる。

 これを渡豪のケースに応用すれば、オーストラリア(海外)にいってどういう展望がひらけそうか?は、あなたが自分をどう思っているのか?によって決まるとも言えます。

 「自分をどう思うか」は、抽象的に思ってても仕方なくて、実際の現場に自分を置いて、そこでどう感じるか、です。

 だから、とりあえず来れば?と言ってるわけです。

 実際に現場に立って、そこで自分はどんなもんと感じられるのか、その反射鏡像としてのオーストラリア社会はどう見えるのか、それが今のあなたが必要とする基本的な「視野」になるでしょう。それを得ずして、あーだこーだ脳内空想であれこれ考えてみても、時間の無駄とまで言っては可哀想だけど、あまり生産性は高くないだろう。

 では、現地で永住権取れたり、バリバリやってそうな人(日本人に限らずですが)って、自己査定が高くてオレオレ系の自信過剰なタイプばっかりなのか?といえば、さにあらず。むしう逆の方が多いかな。控えめだったり、内気だったり、おっとりしてたりってタイプの方が多いかも。

 「現場でやっていけそうな感覚」っていっても、別に「力でねじ伏せろ」「制覇せよ」とかいうわけではなく、周囲から自分の存在を素直に認めてもらえて、「あ、なんか呼吸しやすい」「存在しやすいなー」って感覚でもいいし、むしろそっちの方が大事なことだったりします。

 ただ、そのあたりの感覚は本当に人それぞれで、こればっかりは自分で感じてみる以外に方法はないです。だからとりあえず来て、見て、感じることだと。

動くことによる問題解決

動いた途端にそれまでの問題は消える

 なにか行動を起こす場合、(1)現状変更と(2)新規開拓の2つの側面があります。スクラップ&ビルドですね。

 そして、僕の過去の経験やら他の人の話やらを総合すれば、実は(2)よりも(1)の方がずっと難関に感じられるものです。特にコトを起こす前においては。

 現状を変えるというのは、どんなことであれ、ものすごいエネルギーを必要とします。物理的な労力もさることながら、精神的なエネルギーが半端ないでしょう。例えば、オーストラリアに移住の道を模索するとか、仕事やめてワーホリに行くとかいう場合、こっちに来てからどうするかも大いに不安で問題なんだけど、それよりも、それを親や家族、上司に告げる勇気が半端なく要るというのがリアルなところじゃないでしょうか。また、単純に、住まいを引っ越すなり、引き払うだけでかなりの労力がかかります。ええ、それはもう、ここんとこ続けて引っ越してる僕も痛感しています。

 はっきり言って、現状変革の壁があまりにも高すぎて、そのあと(来た後)の話まで中々考える余裕がないというか、考えるには考えるんだけどどっかしら上の空だったり。

 逆に言えば、現状を少しでも変えられたなら、それに相応して問題は解決出来るとも言えます。親や恋人に言えた、賛同はされなかったとしても、とりあえず「言えた」だけでもかなり前進します。

 つかね、やってしまったら問題は消えるのです。一度でも話をしてしまえば、「どうやって切り出そう」「どういう話の流れで言おうか」とか、それまでさんざん頭を悩ましていた問題は、「済」マークをパンと押されて霧のように消えます。引っ越しだって、どうやってダンドリを、、とか、ウンウン唸って悩んでたのが、いざ実行してしまえば、きれいさっぱり消えます。残務処理は残るだろうけど、それはただそれだけのこと。

 だからオーストラリアに来てしまうところまでやってしまえば、頭を悩ましていた問題の80%くらいは既に解決してしまっているようなものです。でもってあとの20%がこれからは100%になるのですが、その時点ではもう「来ちゃった以上は、やるっきゃない!」と肚も括れているでしょう。

 辛いパターンとしては、あまりにも(1)の現状変革の壁が高すぎるから、それをなしうるだけのパワーを(2)を求めることです。つまりオーストラリアに行けば、確実に永住権取れるのさ、そして極楽浄土で贅沢三昧できるのさーって確実な保障が欲しい、そこまで極楽確実!であれば(1)現状変革が出来るって思考パターンです。でも、どう考えても(2)がそこまで確実なわけはない。ありていにいえば、不安だらけ、無理目だらけ。何をどうやっても(1)>(2)の不等式は崩せないから、結局やらずじまい、という。

 でもそれって、(2)の問題というよりも、(1)の問題じゃないの?って気がしますね。封建社会に生きてるわけでもあるまいし、これだけ自由な日本で、なんでそこまで自分の人生が不自由なの?不自由に思い込んでるの?という部分ですね。これは問題が違ってくるので深くは書きませんが、そっちの問題のような気がします。

パラレルワールドの悩み 

 当たり前の話を何を得々と書いてるんだ?と思われるかもしれないけど、これって大きな意味があります。なにかというと、いろいろ頭を悩ます問題があるのですが、問題というのは、やる前には実際の3倍くらいに感じられる、ということです。3倍というのはテキトーな数字なんだけど、実行する前にはあれこれ色んなパターンをシュミレートしたり、悪い想像をしたり、その悪い想像でまた自分が打ちのめされたりとか、そのあたりの心理的な葛藤というのが、ものすごくキツイもんです。

 やる前には、(1)すごく上手くいった場合、(2)そこそこ上手くいった場合、(3)普通、(4)ちょいヤバくなった場合、(5)破滅的な場合、、とか、いろいろ考えるでしょう?でも、現実には一つしか起きない。パラレルワールドみたいに無限に考えられるんだけど、実際には一つ。それも大体あんまり思ってなかったパターンになる場合が多いんだけど、いずれにせよ、コトを起こす前は、実際の数倍くらいの感覚であれこれ考えるのですよ。

 だから、3倍くらい問題がデカく思える。
 そしてそのデカさに自分が打ちのめされる。

 それを解消するには、実際にやってみるのが一番です。複数のパラレルワールド可能性が、しゅるしゅるとたった一つに収斂してしまいますからね。そして、実際にそうなってみたら、「もし〜だったらどうしよう」的な悩みは、一切消えます。これだけで結構楽ですよ。

 長いこと生きてると、だんだんそのあたりが分かってきて、なんか辛いなーとか思ったら、もう生煮えでもいいからやっちゃえ、と。もちろん最小限のダンドリは調べるし、用意もするけど、それ以上に、「もしこうなったらどうしよう」的な悩みがあれば、もうやっちゃう。少なくとも「やるぞ」と宣言しちゃう。この種の悩みの辛さは、未来の不確定性に基づくのだから、もう未来を一つに決めちゃう。一つに決めれば、あとの世界(悩み)は消えます。

動くことで視界が変わる

ちょっとでも動くと見え方が変わる

 ほんの1歩でもいいから動くと、見え方がかなり変わります。数メートルでもう「別世界」って感じ。

 学校のクラスで授業受けてるとき、皆と同じく机についてるときの見え方と、教壇まで出てって、クラス全員と向いあうときとでは見え方は180度違うし、別世界的に違うでしょう?でも、距離でいえばせいぜい数メートルの話です。ほんのちょっとの動きで見え方が変わる。

 仕事探しだって、履歴書送りまくっても何の返事もなし、、、って辛い時期がありますが、そのときの感情=世界の見え方と、仮に一本でも「面接に来て欲しい」という返事があったときの見え方は違います。

 一括パックで最初にあれこれ教えますけど、電車やバスの制覇は大事なことなんですけど、これをやると「どこにも行けない自分」という世界が、「どこにでも行ける自分」になるので、かーなり見え方が変わります。視界が変わる。

 渡豪にあたって、引っ越しをするにしても、家を引き払うにしても、手持ちの家具を売り払うリサイクルショップを検索してみたり、引越し料金を調べてみたりするだけでも違う。話が具体的になってくるので、とっつき易くなるからです。抽象的に「出来るか?出来ないか」で考えていても、とっかかりがないから、結局は「私と世界(私はこの世界においてどれほどのものか)」みたいな哲学的な深い谷に落ちるだけで、つらいです。このように動くことで、抽象的な問題が小さく細分化され具体化するからやりやすくなる

 いや、もう、動かないで考えてる段階が一番つらくて、将棋で言えば「長考」のように長いあいだ迷宮をさまよい続ける。それはもう、月下の棋士における「猖獗」であったり、ハチワンダイバーのダイブであったり、非人間的なまでの集中力と忍耐力がいる。

「出来る」想像はしにくい

 というか、考えれば考える程「できない」「無理」という結論になりがちです。

 なぜそうなるか?はハッキリと理由があって、未経験な段階では、出来ないというシュミレーションは比較的容易に想像がつくけど、「出来る」という想像はしにくいからです。だって、やったことないんだもん、どうやったら出来るかなんかわかりっこないですからね。だからシリアスに想像するほど、想像しやすいネガティブな映像の方がどんどん精密になっていって、想像しにくいポジティブなパターンが相対的に弱くなる。だから何もかもがダメなような気がしてくる。

 でも動けば、そして動いて経験積んだり、出来るようになれば、問題がひとつづつ消えていきます。どんどん荷が軽くなっていく。

 でもって、ここが笑えるところなんだけど、なんで出来たのか?どうすれば出来るのか?っていうのは、出来てしまった後でも、実はあんまりよくわからないのですよね。あれあれ?とか思ってるうちに出来てしまったみたいな感じ。自転車が乗れない理屈は分かるんだけど、乗れるようになるカンドコロは、乗れるようになった後でもわからない、言葉にしにくい。

 ということで、やる前には無理無理に感じられてたことでも、やってしまえば、意外と「なんとなく」「しらないうちに」「やってたら自然と」みたいな曖昧なプロセスでクリアできたりするのです。もちろん全部がそうだとは言いませんよ。逆に想定外の難関もあったりします。しかし、それでも大雑把な感覚でいえば、半分くらいは、なんだかわからないうちにクリアしたりするもんです。そう思いませんか?飛行機で飛ぶときも、関税とか検疫審査で聞かれたらどうしよう?わかんなーい!とか不安に思ってたりするけど、いざ飛んでみたら、え、検疫ってあったっけ?どこで?みたいな感じでしょ。でもねー、そんなことはやる前に想像したりシュミレートできませんからねー。

 だからとりあえず動いてみ、というわけです。
 

漸次前進

 オーストラリアに永住できるか、する価値はあるか、出来るのか、どうやって生計を立てたらいいか、老後の親の面倒とかどうするのか、自分の老後をどうするのか、、、そんなもん、やる前にわかるわけがないですよ。永住権取って20年以上住んでる僕でも未だによくわからないですもん。

 それは、「オーストラリア」を「日本」に替えてみたらわかると思います。日本に永住する気?その価値あるの?出来るの?どうやって生計たてるの?とか言われても、よくわからんでしょう。ただ現状がそうだから、なんとなく現状の延長でなんとかなるんじゃないのー?くらいの感じでしょ?

 出来るか、出来ないかのレベルの話になったら、結局、「ベストを尽くす」「全力で頑張る」しか答はないのですわ。そんなに未来のことがわかるわけがないではないか。しかも、この不確実性の時代に未来はこうなる!と断言レベルで言えてしまって、しかもそれらがことごとくドンピシャと当たるんだったら、今日にでも本を書いて出版したらいいです。ベストセラーになりますから。てか、僕に教えてくださいよ。

 結局のところ、誰もかれも、僕もあなたも、分からないながらも、良かれと思う方向に、自分が望む方向に行くしかない。どの道をいこうが、地球のどこで過ごそうが、やっぱり日々の糧を稼いで、家賃やローンの支払に追われていることにそんなに差はないと思いますよー。英語でストラッグル(struggle)といいますが、あがく、もがく、努力するという意味で、どこで何をしようが、それなりにストラッグルするっきゃないです。それはもうモンシロ蝶もタツノオトシゴも地球上の生物はみんなそう。やれやれ今日も終わった、明日もがんばろーです。それっきゃないし、それでいいじゃん。

 ただ、人には趣味というのものがあり、同じ人生生活ストラッグルをするにしても、どこでストラッグルしたいか?の好みはあるでしょう。海辺の街でストラッグルしたいか、刺激的な都会でストラッグルしたいか、あるいは誰とストラッグルしたいか、どういうペース配分でストラッグルしたいか。

 それを考えるために、とりあえず来たら、と言います。

 日常生活のどっぷり浸ってたら、賞味期限数時間から数日の近視眼的な物事に忙しく追われて、それをこなすだけで終わってしまうから、なかなかそんな視座で物事考えられないでしょう?それを考えるためには、一回、その「日常」ってのがウザいから消しておいたほうがいい。

 そして、オーストラリアなり、海外なり、どこでもいいから行きたいところに、非日常的に身をおいてみて考えたらいいです。また非日常が日常になっていく中でも考えたらいいです。

 多分、現地にいって現地に風に吹かれ、現地のメシを食って、現地の人と接していると、「こんな感じ」というのが見えてくるでしょうし、それに慣れてくるにしたがって、先に述べたような自己査定(このくらいは出来る)も変わってくるし、そうやって実践的な現場情報が豊かになってきてから、「さて、どうしようかな」って考えたらいいと思う。

 それは数日の観光旅行で十分な人もいれば、半年から1年スパンで暮らしてみてジワジワと広がっていく人もいるし、そこは人によりけり。

 いずれにせよ、最初から何もかも決めまくって、最後の最後のゴールまでクリアに見えて、しかもその全てについて現実的な保障がないと動けないとか思ってたら、一生無理だと思います。てか、太陽が赤色巨星化し、56億7000万年して弥勒菩薩が復活する頃になっても無理だと思います。だって「未来の不確定性を確定する」という絶対不可能なことを条件にしてるからです。

ハーフウェイの折衷案

 現実的な提案でいえば、僕がそうしたように、ハーフウェイ戦術というか、一塁ランナーが二塁に盗塁するかどうか、一塁を離れてリードを広げるくらいの感じがいいと思います。

 僕も最初来たときは、半年の留学でしたけど、ちょうど弁護士として独立開業するかどうかって時期で、HPにも書いてるけど他の人生の可能性はどんなのか知りたい、裏番組はなにをやってるのかちょっとチャンネルを替えて見てみたいって感じで、半年で「なるほどわかった、もういいや」って納得できたら日本に帰って独立開業しましょ、面白からもっといようとなれば、いればいいって、それ以上は分からんって感じで来ました。

 ま、今の日本で半年くらいのブランクだったらどうにでもなるし、会社によっては休職扱いにしてくれるところもあるだろうし、期間が短かかったり、良好な関係だったらもとに戻るって選択もありでしょう。

 何が言いたいかというと、わかりもしない段階で先まで考えて決断〜!とか考えてたら、もうしんどくて潰れてしまいますよってことです。

 まーね、エージェント営業的にいえば、永住権となれば、大学とか院を勧めて、卒業生ビザで滞在できるからその間にチャンスを〜とかいう定形答案みたいなものがあります。なんかキャリアありげ、意味ありげで受けはいいし、エージェント的にはコミッション大きいから美味しいですし。ほんでも、オーストラリアの大学ってクソ高いし、それほどの価値があるとも思えないし、学歴よりも職歴の方が何倍も大事だし、でも現地職歴は永住権前提が多いから難しいし。

 でも、そんなレベルの話ではなく、カッチリ先まで見えてないと動かないというそもそもの姿勢を考え直したら?というのが大きいです。そんな「カッチリ先まで」なんて、未だかつて見えたことなど無いだろうし、見えたと思ってもその通りになった試しなんか無いでしょうに。その通りになってたら、そもそも海外に行こうとか思わんでしょう。また、そんなところでいつもの日常を送っていたら、「先の先」どころか、「一寸先」すら見えないでしょう。視界が悪すぎる。

 もし本当になにかを見たいんだったら、良い「視界」を得るべきです。見えなきゃ考えられないよ。そして視界とは何か?ですが、これまで書いてきたように身体的な現場感覚であり、そこに自分をおいたときの自己査定です。まずはそれを得た方が物事は考えやすいだろう。

 ちょい話はそれるんだけど、そもそも「出来るからやる」のではなく、「やりたいからやる」ってパラダイム転換する方が大事であり、それが出来たら、もうそれでいいと思います。あとはどこで何をしようが「全力で頑張る」路線でいくっきゃないんだから。でも「全力」を出したくなるフォーマットと、無理に出さされてるフォーマットがあるのであり、そのフォーマット設定の方がはるかに大事だと。「やりたいから」系は自然に全力が出ますから、やってても無理がないしね。

 そして、あなたがそうやって動く一歩一歩、あるいは一挙手一投足によって、見え方は常に変わっていくし、視界も変わる。その変わりゆく視界、少しづつクリアに、シンプルになっていく視界のなかで、何が自分にとってベストなのか、ゆっくり考えたらいいと思います。場合によっては10年、20年考え続けてもいいし、一生考えて続けて終わってもいいと思います。人生ってそういうもんだとも思うし。

 ある意味、「視界」というのは、テストの問題文みたいなものだと思います。「○○と○○という現状において、何がベストなのか論ぜよ」みたいな感じ。そして、自分が動いていくにつれて「○○という現状」という前提条件が変わっていく。動けば動くほど、刻一刻と変わっていく。それもちゃんと動けば動くほど、良い方向に変わる。問題文はどんどん易しくなっていく。

 最初の段階では、「英語力ゼロ、海外経験(旅行以外)ゼロ、現地のコネなし、現地で使えそうなスキルも特になし」という前提条件で、「オーストラリアに移住するにはどうしたらいいか?」という、途方もない問題文になるわけですよね。超難関な感じ。それが実際に動いて経験を積み重ねていくと、「英語はまだまだだけど、とりあえずはIELTSでも6点は取れたし、ローカルのカフェ程度だったら働いたこともあるし、現地の生活費くらいだったら余裕で稼ぐ自信もあるし、スポンサーも2−3話はあるけど本格的にはこれからです、また最近シンガポールやタイで働いている人たちに話を聞いたりする機会が多くて、あっちもいいなあって思ったりして今調べてます」って感じに前提条件(問題文)が変わるのですよね。最初の頃の「視界と、現在の「視界」とでは全然違ってきているはずです。

 逆に言えば、見えもしないのにウンウン唸ってても埒は開かないのであって、「解答を出す」ことを直の目的とはせず、「解答を出しやすい程度に視界を良くする」ことを暫定的な目標にした方がやりやすいと思いますよ。

 以上、視界」の話でした。



文責:田村


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