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今週の一枚(2018/09/24)



Essay 894:仕事と「おまけ」

〜何が楽しくてそれをやっているの?

 写真は、シドニーの北の方、Hornsbyのさらに奥のHornsby Heights、Galston Rd沿いのあるグランドの風景。

 配達の仕事の際、一服休憩で降りたところで、なんとオーストラリアには珍しい野球のグラウンドがあるではないか。バックネット越しに野球のダイヤモンドを見てると、子供の頃によく遊んでいた(ヘタだったけど)野球の感覚が久しぶりに、本当に久しぶりに湧いてきました。おお、やっぱ燃えるぜ、みたいな。
 僕らの子供の頃は「グリコのおまけ」というのがありまして、グリコのキャラメルよりもそれに付いてくるオマケがほしいからそれを買うという、おまけと本体が本末転倒しているという状況がありました。そは世代を経ても延々続いているでしょう。僕の弟の頃は仮面ライダースナックで、そのあとビックリマンチョコですか、だんだんフォローしきれなくなるのですが。

 この種の「おまけ商法」というのは、古くは江戸時代の富山の薬売りまで遡るそうで、いつの時代も考えることは一緒なのですね。

 「おまけ」はうれしいものですが、おまけの価値が強すぎちゃって、「どっちが本体なのか分からん」という状況はいろいろあるように思います。いい意味にも、悪い意味にも。

デリバリー仕事のおまけ

 いまムキになってデリバリーのバイトに励んでます。ちょっと物入りだということもありつつ、60歳前のおっちゃんが、これまでのキャリアと関係なく、誰にでも出来るマックジョブやったら、どれだけ稼げるもんか試してみたいという実験的な好奇心もあります。先々週は週7がっちりやって週で1580ドルくらいいって、先週は週6で1500ちょいいきました。ガス代自腹なので額面通りにはいかない(均して15%引きくらいかな)ですけど、それでも2週間で3000ドルで、「まあ、そんなもんか」&「けっこういくもんだな」という感じです。副業バイトでざっと月収換算40-50万円位入ってくるなら、悪くはないか。

 時給30なので、1500というと週50時間です。早いときは朝2時起きで、きついっちゃきついです。別に言えば11時始まりに組んでもくれるけど、早朝の方が動きやすい。10時間以上ぶっとーしで運転するしね。これも毎日ごとに自分でリクエストできるし、現に今朝は3時間であがり。朝の7時前にはもう家に戻ってきてエッセイの最終チェックをしてます。ただ普通に金に目がくらんで(笑)、オファーがあったらパックンとダボハゼのように。それでも午後早くには大体フリーになるのだけど、今度は就寝時間が8時とか早くなるので、うちに帰ったらバタンキューって感じですね。FBもネタはあっても中々書けない。メールとエッセイが精一杯。それでこんなもん。ふうむ。

 ま、でも、月給50万って、日本で弁護士やってた頃の給料と同じなんだけど、あの頃の労働時間やストレスはこんなもんじゃなかったです。帯状疱疹は出来るわ、胃は絶えずキリキリするわ、十二指腸もヤバいと言われたし。あれに比べたら遊んでるようなもの。もっとも時代も違うし、お金の面でも、あの頃は他にも個人事件の報酬はまるまる別に入ってきたので一概に比較は出来ません。あー、でも、30年前から日本の給料って殆ど上がってないし、また今だって本業は本業で別に入ってくるわけですから、結局は同じことか。なんかちょっと考えさせられますねー。

 直近でいえば、WEBサイトのドメインやSSL化に関してタグやらURLをシコシコやり直してたり、断捨離で1600冊自炊してた方がよっぽどストレスフルな長時間労働でありました。完全引きこもり作業だし、1日16時間くらいやってたんじゃないかな。長時間×長期間は受験時代にスタミナ鍛えてあるので出来てしまうのだけど、なまじ出来てしまうから問題意識も湧かないのかもしれないです。あれだけ長〜い期間かけてやってたなら、そうか、あの分を普通にバイトしてたら300万円くらい稼げたんじゃないかって気もしますね。なるほどねー。いやあ、何でもやってみるもので、お金とか時間とか中々多角的に見えるようになりました。それが収穫。

 そのあたりの仕事のノウハウやお金感覚はまた別に話すとして、ここでは、中高年でノースキルだといっても、あるいは誰にでも出来るマックジョブであっても、オーストラリアでは、このくらいは稼げる実例がありますよということを示すにとどめます。人によっては、多少は希望が出たのではないかしらん。現場で会うドライバー仲間も増えてきたけど、フィリピンからきた家族持ちっぽいおっちゃんもいれば、まだハタチ前後っぽい気のいいあんちゃん風もいれば、若い女の子も二人ばかり見かけました。ほんと、誰にでも出来るのよね。

 で、朝もはよからハンドル握って思ったのが今回のテーマ、「おまけ」です。

素敵な風景

 この仕事、半日でシドニー中駆け回り、1日平均200キロ、多いときで300キロ走ったりしますが、そこで色々な風景を見ることが出来ます。

 単純にドライブとして楽しいという部分も大きいです。夜明け前からやってるから、だんだん夜明けになっていく澄明な大気と空の美しいグラデーションを楽しめます。夜明けの全てのブルーに染まっている世界というのは、いつ見てもいいもんです。いつだったから、ハーバーブリッジ渡りながら朝焼けに燃えるオペラハウス見たときとか、写真撮りたかったくらいです。20年以上住んでるけど、今まで見たオペラハウスであれが一番きれいだったかも(普通はそんな時間帯に行かないし)。夜明けのシティのカフェに届ける仕事もあれば、かなり離れたエリア、ほとんどオーストラリア旅行みたいなカントリーサイドまでいきます。シーサイド・ドライブもすれば、20トントレーラー車に囲まながら工業地帯を走り抜けることもある。いつも、わーとか思いながら走ってます。車停めて写真撮りたくなるような(なかなかそんな暇ないけど)。

 せんだっては、未明のM5という高速道路を、時速百キロで爆走しながら、真正面に地表に降りてくる巨大な半月を見てました(月って地表に近づくにつれてありえないくらい巨大化するし)。オーストラリアって区間によっては全然街灯がないエリアもあり、そこでは本当に真っ暗で、自分の前照灯だけで走るのですが、周囲の樹木等のシルエットが押し包むように迫ってきて、まるで魔物の山みたいに感じられて、そこに巨大な月が降りていくさまは、なかなかに幻想的でした。絵にしたいくらいで、やあ、すげえモン見ちゃったなーと。

 今週の写真もそのうちの一つで、GalstonからHornsbyに抜ける物凄いいろは坂を越えて、ほとんどツーリング気分で通ったところです。こんなのホリデードライブでもないと来ないですよ。最後に来たのが5年前以上ですしねー。でも、良かったです。

社会見学

 人も面白いです。忙しげ&陽気に働いているカフェの連中は気持ちいいです。でもこれも微妙に個性があるのがわかってきて、バイトの子(アジア人めちゃ多いよ)とか陽気でやってていいですけど、バイト頭くらいになると経験が長いぶん貫禄も出てきて、でも多少仕事に疲れてる感がある。カフェのオーナーでも、これから開店とか始めたばっかのところはピキピキしててイキがいいんだけど、長いことやってる店ではどことなく生活に疲れてる感のあるところもある。ときどき女将のようなオバちゃんが、オーストラリアには珍しくクッソ無愛想(grumpy〜グランピー〜不機嫌というのだが)で、やたら細かいことを言う。そういう店は、バイトのオージーの子も怯えているのか、ビクビクして働いてましたねー。笑顔がぎこちないというか。あー、働く店は選ぶべきだなーと思ったですね。

 一般のオフィスとかもあって、結構いきました。フットボールだったかの連盟のちょいハイソっぽいところとか、上場企業のオフイスとか(仲間のバースデーケーキを発注したりね)、マスコミ系もいったし、メーカー系、金融系。意外と結構デスクとかがしょぼくて、普通に机並べてるだけで、外国の一流企業のオフィスだからもっと「外国のオフィス」っぽいのかなと思ったら、田舎の学校の職員室みたいで、「なんだこんなもんか」と思ったり。一方では、パディントンのいかにもクリエイティブなスタジオで、そこらへんにギターとかポスターとか散乱している陽気なオフィスにもいきました。さすがに皆も陽気で、ケーキが来たとかいうと、周囲の連中が仕事の手をとめて集まってきたもんな。そーゆーのが社会見学的に面白いです。普段見れないものが見れるし。

 一方、ピックアップするメーカーでは、ベーカリーなどの食品工場の感じがわかります。大体は移民系や留学生のバイト君が、夜勤で作ってますよね。どこで仕事みつけてくんだろ。JAMSみたいに民族別にあるのかしらね。ちょうど彼らが夜勤明けで帰る頃に、こっちがピックアップする感じ。あと実直な中小企業的なところとか。いつも車で抜け道ように通り過ぎるところ、殺風景で、壁に落書きはあるわ、最初にこっちに来たばかりの人が夜に通ったら治安悪そうとかビビリそうなところ。この建物はなんのためにあるのかな〜とか思ってたところで、意外と真面目にマフィンとか作ってるんですよね。また、ホームクッカー、素人なんだけどケーキ作りが趣味でプロはだしだから、この際自分で売ってしまおうというところ(それがこの会社のメインでもあるのだが)で、ほんと自宅のガレージでやってる所も多いです。ただし、ピックアップする方としては、看板もなにも出てないから、めちゃくちゃ迷うのですよね。あれ?どこだ?と探し回る。腕に自信のある方は、ご自分でケーキなり何なり作って売ってみたらいいですよ。サンプルとか飛び交ってますから(運ぶのは僕)。

 これらが面白いからやってるようなものです。お金云々よりもこちらのほうが大きい。

 それがつまり「おまけ」なんです。

 仕事に伴う「役得」、とまでいっては大げさかもしれないけど、ごく自然にその仕事にくっついてくる楽しさとかメリットです。

意外と多い自然系

 外の仕事は自然に触れるのがいいです。オーストラリア、シドニーだからかもしれないけど、空が青い日はほんと気持ちいいし、Gladesville Bridgeという大きな太鼓橋があるのですが、そこを登っていくときの視界は、道路と青空と雲しか見えないわけで、そのまま空に飛んでいく飛行機のような感じです。閑静な住宅街の落ち着いた感じ、こんなところがあったんだ?といういい感じの広い公園とか。特に朝の空気が気持ちいいです(すぐに朝のラッシュの不愉快な時間帯になるのだが)。

 でも深夜早朝に外でやる仕事だったら、この朝の爽快さは等しく感じられるでしょう。別に朝に限らず、抜けるような青空でもいいし、壮麗な夕焼けでもいいし、満天の星空でもいいし。建築現場であろうが、漁師さんであろうが、新聞配達であろうが、青果市場であろうが、ポジションにもよるだろうけど、「うわあ」という景色の一つや2つは見るんじゃないかな。

 典型的なのは、リゾートでのバイトやら、ワーホリさんのファーム仕事などです。
 よく皆に言ったりもするのですが、観光地のホテルのベッド・メイキングであれ、キャンプ地近くのファームであれ、お金がどうとかいうよりも、そこにいるだけでメリットがあるんじゃないかって。

 ともすれば、優雅なホリデーを楽しむ顧客と、そのベッドメイキングやら下働きをする労働者ってことで、おお、格差だ、階級社会だ、殿上人と地下人だ(お前は清盛か)とか思いがちなんだけど、そんな風に思う必要はないよと。

 なぜなら、彼ら貴族的な人々やら、あなたにしても、そこで高い宿代払ってホリデーを楽しむには、それ相応の労働をしてるだろう。彼らだって地元に戻ればゴミの回収やってたり、上司にディスられたりしてるだろうしね。でも、なによりも、そこで安くもないお金を投じて何を体験したいのか?といえば、豊かで心安らぐ自然を感じたいからでしょう?ホテルの室内やらレストランなんか、別に都会にいたって味わえるし、都会のほうが選択肢は広い。わざわざ片田舎までやってくるのは、いつにかかって自然、でしょう。

 でもって、その豊かな自然は誰に対しても平等。華麗な夕焼けも、金持ってない連中にはくすんで見えたりするわけではない。おいしい空気も、目に鮮やかな緑も、のんびりした空気感や時間感も、全部同じ。大体ですね、この世で大切なものは殆どが無料です(他にも愛とか友情とか生き甲斐とか)。プライスレス(値段がつけられない)っていうくらいなんだから。つまり高い金払って来てる人も、そこで働いている人も、味わってる本質は同じなのですよ。同じ「いいもの」をゲットしながら、片やお金を払い、片やお金を得ているという。どっちが得かよく考えてみよ〜ってことです。

 僕のデリバリーだって、しっかり金を稼いで、そのお金で、よーし次のホリデーは楽しむぞー、遠くにのんびりドライブして、いつもと違う風景を見るぞーって思ったら、それって結局いつも仕事で走ってるところだったりするわけですよ。金を稼ぎながら、ホリデー楽しんでるのと同じことだという。

 そういうことって沢山あると思うのです。
 全ての仕事とは言わないけど、大抵の仕事やアクティビィティには、どっかしら心をなぐさめるような何かいいものを得られたりするんじゃないかな。それは「おまけ」みたいな、いやオマケとすら意識されないような、ささいな心の慰謝かもしれないけど、でも、それって実はとても大きなことなんじゃないか。

 これが今週のテーマです。

ほかにもたくさん過去例が

 過去を振り返ってみると、そういうことって結構いろいろあるんですよね。
 僕が小学校の頃、なんかしらんけど一定期間耳鼻科に通ってた頃があります。毎週○曜日とかいって、学校終わったら、住宅街の中にひっそりとある耳鼻科の医院。そこには初老の女医さんがいて、診てくださるんだけど、そこがなんか好きでした。ガランとして、いい感じでほの暗い待合室(いつも誰もいないけど、妙に待たされた)。待合室には、楳図かずおの恐怖漫画「おろち」が置いてあって(なぜ?って感じだが)、それを読むのが楽しみで。また女医さんの知的でおっとりした物腰も好ましかった。それはまるで親戚のおばさんちに行くような、誰も知らないサンクチュアリに行くような、どこかしら不思議な時間で、それが僕は好きでした。

 今から思うと、メイン目的は「治療」なんだろうけど、それはあんまり意識もせず(してもよく分からんかったし)、そういうちょっと非日常の不思議な場所に行くのが「おまけ」的に良かったです。それがあるからちゃんと通った気がする。とすれば、それは「おまけ」以上に大事なことなのかもしれない。

 高校の部活(柔道部)のときも、部活の内容がどうとかいうよりも、練習が終わった後、体育館から見えるグランドに沈む夕日をきつい練習を終えた達成感で眺めたり、ヤロー同士でくだんねーことくっちゃべりながら、帰り道の商店街で買い食いしたりするって時間が好きでしたねー。それがあったからこそ続いたような気がする。

 中高生の頃の通学にしたって、誰でも似たような経験があるかとは思うが、いつものホームやバス停に「気になる人」がいたりして、淡い恋情を抱きながら、その人を見かけるのを楽しみに通ったり。見かけないとひどく落胆して、わざわざ列車一本見送っても待ってみたりとか。あれがなかったらかったるくて学校なんか通ってなかったかもとか。

 ああ、書いてて思い出した。高校の下校時、電車のなかで毎週(隔週だったかな)決まった雑誌を読むのが楽しみだったわ。駅までにいく書店でその雑誌を買って、逆方向だからガラッガラの電車のなかでパラパラと読む至福の時間。

 そういえば中学の頃、近所の図書館通いをしてて、いつも友達といったりするんだけど、夏場は図書館から出てきたところにある自販機でチェリオを飲むのが儀式になってたなー。あれちょっと量が多くて持て余すくらいの感じで、それが良かった。

 大学時代の司法試験受験中は、この種の「おまけ快楽」の宝庫でしたね。特に一般学生がいなくなる休暇中がいいんですよね。キャンパスが森閑としててさ。夏場は、炎天下の中、狂ったように千本ノックとかやってて、吐きそうになるまでど根性でやってて(笑)、阿呆か?って思うけど、そのくらい身体使わないと気狂いそうだし。でもそれが楽しくて、それを楽しみに通ってたところはあるな。そろそろかな〜って時間になると。仲間が「おし、やるで」とか合図してきて「おっしゃあ!」とか。なにが「おっしゃあ」だよ、勉強しろ勉強って感じだけど、そういう馬鹿やってないと持たないですよ。

 ガラーンとした夜の地下生協の食堂とか、勉強仲間の奴がぽつんとボソボソ飯食ってると、そこにいって「おう」とか話しかけて、「なあ、177条の物権変動んとこ、自分、何説で答案書く?」「ああ、それなー、決めてへんわ。てか問題によって書きやすい説でいくかなー」という勉強の雑談をしたり、「○○さー、あいつまたバイト、クビになったらしいで」「またかよー」みたいな話をしたりするのが、いい息抜きでしたよねー。あんなもん一人でシコシコやってたら発狂しますよ。

本当に「おまけ」=従属物なのか?

 何の話かというと、人はどんなことからも些細な喜びを見出すことが出来るし、それは本体からしたら「おまけ」的なものに過ぎないかもしれないけど、でもリアルにやってる本人にしてみれば、それがあるからやっているというところはある。

 つまり、僕は何がいいたいか?というと、モノの考え方なんですけど、Aを得るためにBをやる(お金を得るために労働をする)というフォーマットは王道基本としては確かにあるんだけど、リアルにはそう動いていないんじゃないかって。

 もっともっとぜーんぜん違った視点で、喜び、慰め、快楽を得るために、それをやってるだけだったりするじゃないかと。それがリアルに近いんじゃないか。

 だとすれば、将来の設計なんぞにおいても、○をやって基礎を固めて、将来のキャリアに生かしてとかもっともらしいことを考えたり、○に行って○を修めるのだとか考えたりするのだけど、実際に始まってしまえば、それとは全く違う原理でものごとが進むと考えておいたほういいんじゃないか。

 と同時に、あらかじめその種の「楽しいおまけ」がある程度得られそうかどうかなんてことも、将来のことを考えるときに視点に入れておいてもいいかもしれないなーってことです。

おまけ基準説

 僕の高校時代の友人の話ですが、東京の都立高校だったにもかかわらず金沢大学を受験するとか言ってて、なんでまた?というと、これが他愛なくて、どっかで「金沢大学のキャンパスはいいぞー、お城に学校があるからなー、春は桜が満開で、そこの石段をのぼっていくんだ」とかいう話を聞いたらしいのですね。本当にそうなのかどうか、僕は未だにわからんのですが、それを聞いた友人は、「いいじゃん、それ」って、それで金沢大学に行こうかと。

 めっちゃいい加減なんだけど、でも、ある意味、正しいモノ決め方なのかもしれないなーって思います。おまけ基準説というか(笑)。

 司法試験に受かると、司法修習地というが決まるわけで、大体東京や大阪の大都会は希望者多くて激戦区なんだけど、田舎は少ない。東京の最高裁に集められて、そこで修習地決定の面接を受けるのだけど(こんなの電話でいいじゃんって気もするが)、そんななか、僕の先輩は、やたら田舎の修習地ばっかり指名してて(8つくらい希望できたはず)、理由が全部同じ「同地在住の先輩の指導を受けるため」とか。でも同地在住の先輩なんか居なくて。なんでですか?と聞いたら、「いやあ、こんなことでもないと一生住まないだろうなー、でも一度くらいは住んでみたいなー」ってところを上げただけだよって。これもある意味、正しい決め方だと思います。結局、その人は、函館になったのかな。

 ああ、そうだ、先日、卒業生のヘジンさんとお話してて、日本に帰るとしたらどこに住みたいか?って話をしてました。僕も、函館と長崎は住みたいんだよーって。なぜか?といえば、どちらも坂が多いので有名な街なんだけど、坂はきつくて嫌なんだけど、そのかわり、坂があるってことは眺めも良いってことでしょう?平べったかったら高いビルに昇るしか眺望とかないし。でも、坂を登って振り返ると、港が広がってて(どちらも港町だし)、そこに夕日が沈んでいってって、いい感じじゃない?って。夏の夕暮れとか、涼しくなってきたら、サンダルつっかけて、缶ビールもって、近所の坂の階段のてっぺんあたりに腰掛けて、街を見下ろしながら、海風に髪をなびかせて、ぷはーとかビール飲んで、ぷはーっとタバコ吸いたいわ。気持ちいいだろうなー。そんな場所があるのかどうか知らんけど。

 あとね、日本海側とか冬が陰鬱なところもいいよねって。むかし、遠距離恋愛の相手が福井で、2年ばかり京都から福井にせっせと通ったことがありました。冬場も行ったんだけど、冬の日本海とか東映映画みたいにカッコいいし、それ以上にね、暗くて寒い環境って、それだけ人情の暖かさが鮮明にわかるので、それがいいんですよ。恋人とどっか食べにいくにしても、こたつに入っているだけにしても、バックグラウンドは暗い方がコントラストが強くてわかりやすい。なんというか集中できる感じ、心を傾けて「いいもの」に出来るような気もして。

 実際、冬には冬の良さがあるじゃん。う〜、さぶ!とか手をこすり合わせて街角を歩いて、目当ての居酒屋にはいって、熱燗でキュッとやって、五臓六腑に染み渡る〜的な幸福ってさ。

 また、この話は何度も書いたけど、過去の卒業生の方で、2年間みっちりラウンドやらファーム仕事をやって得た結論が、「景色がいいと気持ちがいい」というシンプルで揺るぎないものであり、帰国後の就職や身の振り方も、「景色がいいか」「気持ちがいいか」を基軸に決めていったという話。今も大自然のフトコロでやっておられると思いますが、それも十分にアリですよね。そこまで確信レベルに肚を括れたのだったら、本当にいいワーホリをなさったと思います。

 ということで、この「おまけ基準説」でいくと、やることなんか何でもいいんですよ。金もそんなに目くじらたてることでもない。そこで確かな楽しさやら、幸せを感じられたら、それでいい。逆にストレスフルで気分悪かったらとっとと辞めればいい。

 だって、お金って楽しさを得るための手段に過ぎないんだもん。手段よりも目的が直に手に入るなら、そちらを取るのが合目的的でしょう?キャリアなんてのも、金を得るためのそのまた手段に過ぎない。いわば手段の手段でしかない。それに職能経験って時代が変わったら嘘のように無価値になったりもするけど、生理的な気持ちよさというのはどんな時代になっても確かに実在するもん。ならば目的ダイレクトの方がいい。これは哲学的な、ちょい老荘思想的な話として言ってるのではなく、ドライな利害打算の算盤勘定として、詰めに詰めきった費用対効果の話として言っているのです。

 

オマケの本末転倒 

 もう一つ。これはちょっと視点が違うんだけど、この世のことって、建前ではAを目的としていながら、実はBが欲しいってことは良くあります。ほとんど全てのことが何らかの意味でそうかもしれない。

 例えば大学だって、端的に就職のためでしょう?真剣に勉強をしたくて進学する人なんか、何パーセントいるというのだ?もし大学いっても就職にはまったく無影響、それどころか有害だったりするなら(学歴=前科くらいの扱いだったら)、進学する人ってどのくらいになるだろうね。もし本気で学びたかったら禁じられても、隠れキリシタンのようになってでも行くでしょうけど、そこまで向学心に燃えてる人がどれだけいるのか。

 でも建前では、大学は研究&教授機関であって、就活機関ではないですよ。勉強をする場所だからこそ、それを修めるに足りる基礎学力があるかどうかが問題になり、だから入試がある。もし完全に就活機関だったら入試はいらない。あるいは入試の出来のよしあしこそが就職に意味あるんだったら(実際にはそうなのだが)、全国統一試験だけやればよく、大学は全部潰したらいい。

 グリコのオマケ(就職)さえ手にはいればキャラメル(授業)は要らないのと同じですわね。

仕事の本体ってなんだ?

 そもそも仕事や就職って何のためにするのか?と改まって聞かれたら、よく分からんってところがありますよ。「みんながやるから」「人に後ろ指をさされたくないから」という、本体でもなく、「おまけ」的快楽とすら言いにくい、よくわからないコンニャクみたいな理由だったりしますよね。

 というかね、仕事の「本体」って何なのかが分からないのですよ。
 世のため人のために意義のあることをする、ってのが本来の定義だとは思いますし、僕なりの定義もそうです。「他者の幸福を増進するための行動」は、それがなんであれ一定の肯定的な評価はなされるべき。それだけだとボランティアや善行と区別がつかなくなるから、それを恒常的、体系的にやり、その質も十分に上質であるがゆえに一定の対価が支払われ、その対価によって生計を立てられるような継続的な行為体系とかでもいうのかな?無理矢理に定義づければ、の話です。

 そこでの成立要件は2つ、(1)社会(他者の幸福)に対する有用性、(2)対価性を持つに足りる質と継続性、ですか。でも、実際こんなのどれだけ意識してやってるのか、疑問です。

 仕事を志す原点みたいなものがあります。
 自分で病気になったときに病院の看護師さんやお医者さんに良くしてもらったのに感動して、自分も医療関係になるんだとか、子供の頃親が倒産して苦労したので自分が弁護士になるんだとか、子供が好きだから保育士さんとか、自然の動物が好きだから鳥獣保護の公務員になるんだとか、その種のことです。でも、そんな誰も彼もが仕事に対する「意欲原点」みたいなものがあるとは限らない。てかある方が少ない。世の中には実にいろんな仕事があるわけで、例えば、水道管や鋼管のジョイント部分の部品を売ってる会社でサラリーマンをやる場合、配管のジョイントが子供の頃から好きでしたって人はそうはいないでしょう。てか、実際に職について、職場にでるまで、具体的に自分が何をするかよく分からないのが多数ではないか。

 自分がやることもわからないのに、「他者の幸福を〜」とも考えにくい。実際、あんまり世の中の為になってるのかどうか疑問の会社も多数あります。いざとなったら色んな細かい条項を使って、降りるべき保険金が降りませんみたいな、そんな騙しみたいなテクニックを毎日開発してるような仕事は、本当に仕事なのですか。

 他者の幸福を増やすのではなく、減らすような行為は、普通は「仕事」とはいわずに、「犯罪」というと思うのだけど、実際問題、そのあたりがよう分からんグレーなことも結構あります。都合の悪い統計数値はわざとわかりにくくする政府資料の編纂とかさ、消費者への大事な注意書きはなるべく気づきにくいところに書くようにアレンジするWEBデザインとか、あれは仕事ですか、犯罪ですか?詐欺の実行共同正犯じゃないの。

 かくして第一要件(他人の幸福向上)がムニャムニャになるのだとしたら、あとは単純に生計を立てる、=金を稼ぐというだけです。それは確かに大事なことです。食わないと死んじゃうもんね。でも、だったら金さえ入ればそれでいいってことになります。だから働く代わりにパチンコや投資で稼ぐんだってのもアリでしょう。それはそれでわかる。

 でもそれだけじゃないでしょう?なんかハイステイタスっぽい仕事をして、自己実現とか自己承認とか、ちやほやされたいとか、そういう精神的欲求もあるでしょう。もっと無邪気に漠然と「立派な人になりたい」とか「故郷に錦を飾りたい」とかもあるでしょう。

 でも、それって、その仕事が例えば何かを売るとか、道路を作るにしても、キミは自分が他人からチヤホヤされたいからそれを売っているのか、道路を作っているのか?要は、自分がいい気持ちになりたいから、その道具というかダシとしてその仕事をしてるわけ?とか、問い詰められたら、それも困るでしょう。なんかちょっと違う気もするし。僕が思うに、本当に「立派な人」だったら、他者からのチヤホヤなどに心奪われたりしないし、取り繕って背伸びするのが「立派」なのではなく、むしろダメダメな自分を真正面から受け止められるのが「立派」の内容だとも思います。いずれにせよ、その種の自己精神の欲求をからめていくと、おおきなブーメランがぶーんと飛んで来て、ぐさっと刺さるような気もしますね。

 かといって、別に僕は非難する気はないのです。僕らが当たり前のようにやってることって、当たり前だと思い込まされて、特にあんまり考えずにやってたりするもんです。時代がちょっと変わって、システムや常識が変わったら、なんであんなバカなことを?と言われたりするもんですしね。それはそれでツッコミどころは満載ではあるのだけど、そこを突っ込むことは今回はしない。

 ここでは、仕事って、確固たるもののようでありながら、意外と曖昧なものなんじゃないかって事を言いたいのです。

 でも、そんな曖昧な仕事日常において、どんな仕事であれ、どんな営為であれ、やってれば自然と「ああ、いいな」と思うことはあるでしょう。それが本来の業務に近いところに位置してる場合もあれば、関係性は薄くたまたま遭遇するものもある。でもその距離の遠近はさして本質的ではない。

 何が楽しくてその仕事をしてるのですか?と聞くと、半分冗談、半分真剣にいろんな答えが返ってきます。一仕事終えたあとの帰りのビールが極楽で、このビールのために日中働いてるようなもんですよ、とかね。イベントとかでも真剣に徹夜してでもやってるのは、打ち上げの「お疲れ〜!わ〜」って、あの開放感と達成感のためですよとか。

 それがリアルな日常のリアルなモチベーションになってるんじゃないかと。

自分の場合

 僕が弁護士時代は、やたら出張が多くて、でもそれが楽しかったです。ほんと色んなところにいったので。別に出張がしたいから弁護士になったわけじゃないんだけど、そんなの「おまけ」的な快楽なのかもしれないけど、JRで頬杖ついて車窓を流れる風景をぼーっと見てるのは結構好きでしたね。冬の鳥取とかいくと、帰りにカニ買って帰ったりとか(駅で売ってるのね)。

 今のAPLaCの仕事にせよ、弁護士時代にせよ、おまけなのか本体なのかわからないけど、結局コレがいいんだろうなって思う部分は、日本を出て海外に出てくる人の最初の一歩にせよ、弁護士沙汰になって相談にくる人にせよ、人生の岐路に立って、ある程度ガチに真剣じゃないですか。そういう人って、奥深い山の渓流のような、独特の清冽な純度があるのですよ。もう生きるか死ぬかみたいな、人生に対して真正面に向き合ってる凛冽なオーラがあって、それは「いつも同じ」とかホリデーとかの人肌並みのぬる〜い感じではなくく、手が切れるくらい冷たいせせらぎのような感じ。それに触れるのがイイのです。我が身を省みれるしね。この人に比べて自分はどんだけ真剣に生きてるんだ?って、常にブーメランのように問いかけられてる気もするし。

 それがおまけなのか本体なのかわからないんだけど、もう、ここまでくれば「おまけ」だろうがなんだろうが、どちらでもいいって気がします。

 ここまで考えてきて思うのは、それが「おまけ」っぽく見えようが、本体部分からかけ離れているように感じられようが、その行為をする理由付け、これが楽しいからやってるんですよ、って部分は、かなりの部分、その人の自由なのだろう。その自由度は無限といえるくらい広いのだろう。そこでは、それは邪道だとか、おかしいとか、そんな正邪はあんまり関係ない。知らないうちに、人はどんなことにも自分なりの解釈や意味付けや動機づけをするのだと思うし、それがリアルなんだと。

 そのおまけ的なリアルを、もうちょっと柔軟に捉えて、ちゃんと認めていけばいいじゃないか、そうした方が、ものの考え方もかなり楽になると思います。カタチに囚われていると本質は見えにくくなるので。

 「え、そんな理由でやってるわけ?」とか他人から呆れられたりしたとしても、それでいいんだって。でもって、実はけっこう誰だってそんなもんだと思いますよ、正味のところでは。



やっぱバックネット越しの方が燃えるかな

こんな感じののどかなエリア

あー、これ、コンクリ生乾きのときに犬が通ったなー、というあるある状態。でもかなり大きな犬ですね

文責:田村


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