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今週の一枚(2018/09/17)



Essay 893:「やること」がなくなった時代

〜確かなリターン

 写真は、画像がなんか千代紙みたいできれいだったので。
 ホワイトバランスを替えて青っぽくすると、童話や絵本みたいないい感じになるのが面白いです。
 撮影場所はNeutral Bayですが、場所は関係ないですね。

伊丹監督の話

 最近はバイトが忙しいこともあってエッセイも濃度を薄めて書いてますが、そのくらいの方がちょうどいいのかな〜とも思います。いやもっと薄めたほうがいいのかな、とか。

 てことで今回も薄めに書きますが(内容そのものは濃いけど)、今回のお題は、「やるべきことが無くなった」みたいな話。まあ、あるんだけど、昔のような鉄板で堅牢な感じではなくなったし、そういった状況に対する人々の対応も変わってきたよなーって話です。

 伊丹十三さんという映画監督がいます。すでに故人になられて久しいですが、「マルサの女」とか有名なヒット作が多いですからご存知かと思います。この人の作品のなかに「たんぽぽ」という料理ブームに先駆けになったようなラーメン物語映画があります。その昔、僕は、何の予備知識もなくレンタルビデオで見たんですけど、面白かったですねー。

 その伊丹監督がどっかの雑誌のインタビューに答えているなかに印象に残った部分があります。料理ブームをどうお考えですか?って質問に対して、「実に嘆かわしいですね」とネガティブなことを言っている。自分でブームの火付け役みたいなことしてながら、なんでそう思うの?というと---以下、僕なりに理解した言葉で書きます。

 要は「男のロマンがなくなったから」「他にやることがないから」だと。
 昔は、天下統一をするんだとか、頑張って勉強して天下国家のために大きな働きをするんだとか、野望やら野心やらが普通にあった。

 「坂の上の雲」という小説のタイトルの意味するように、頑張って坂を登っていけば、そこには雲があった。「良いもの」=命をかけ、一生を捧げてトライするに値する十分なリターン=があった、あるような気がしていた、それが明治という時代だったと。「朝にあっては国会議長、野にあっては大学教授」という個人的な立身出世と世のため人のための全体幸福がきれいに合致する=私益と公益がハーモナイズしていた幸福な時代。

 時代が下るにつれ、この感覚はだんだん薄らいではいたけど、戦後も高度成長くらいまでは、焦土と化した祖国を復興することと、自分が仕事を頑張って出世することが、きれいにつながってた時代もあって、まだまだ立身出世にロマンを感じることが出来た。まあ時と場合によりけり、人によりけりとは思うのだけど、まだその余地があった。だけど、それもだんだん頭打ちになってきて、そんなに無邪気に思えなくなってきた。

 その種の「天下国家で遊ぶ」という野望ロマンが薄らいでくると、スポーツとか趣味とかに打ち込むか、未だにそのあたりの「実力→覇権」が見えそうなアンダーグランドの世界にいくか、さもなくば「料理」のような奥の深そうなインナーワールドにいくようになる。

 だから料理ブームになる。特に男性がメシの良し悪しを言い出したりするということは、それだけ他にやることがなくなってきたからであり、だから「実に嘆かわしい」ことなんですよというのが伊丹監督のおっしゃる所以であると。

 まあね、確かに自分が本気で天下を取れるとか、自分の働きが天を回すのだということ(「回天」といいますが)が本当にリアリティをもって感じられたら、そりゃあ誰だって燃えますよ。メシなんか食ってる場合ではないかもしれない。

ほんとに「やること」がないのか

 従来の意味では「ない」と思いますね。
 血みどろの戦乱をくぐり抜けて、見事天下統一〜なんて信長や家康みたいな時代は500年前に終わってますし、明治維新後や大戦後のように、目の前に真っ白なキャンバスが無限に広がってるような「ゼロからスタート」もないです。

 あるとしたら、すでに定められたエリート路線に乗るかどうか〜エリート杯争奪みたいな部分はあります。受験戦争が過熱したのもそれでしょう。だけど、「ゼロからの創造」という黎明期の神話レベルのロマンに比べれば、やっぱ格段に面白さは落ちるでしょう。それであっても高度成長からバブルくらいまでは、未知の分野に参入とかフロンティア的に面白い仕事も多かったので、まだ良かった。

 しかし、バブル崩壊後の失われ続けている30年以降は、ほんとうにロマンも失われてきて、一応既定のエリート系な路線もあるにはあるけど、年々質も量もしょぼくなってきてる。それだけに競争は激化してるのかもしれないけど、でもリターンもしょぼいからあんまり燃えない。なんせ「正社員」ごときが「勝ち組」とかいう、往年の壮大なロマンを考えれば涙がチョチョ切れるようなレベルですから。これで燃えろというのは難しい。

 それどころか、既定路線(=これさえやれば人生OK的な)も、新興国の台頭とAI化その他で日に日に薄らいでいる。その昔、歯医者といえば医者以上に金持ちになれるルートだったのに、今ではコンビニ以上に乱立して青息吐息。絶対大丈夫の堅牢堅実の権化のような銀行員すら絶滅危惧種だし。弁護士だって、僕がやってた頃の司法試験は受験者数3万人で合格率1.6%という超狭き門だったのが、いっとき受験者数4.5万人まで伸びた(合格者も増やしたので合格率は3%くらい)。そして今は、受験者数が7000人弱という、最盛期の6分の1以下という凋落ぶり。人気がないから逆に合格率も高くなって今では23%という、僕からしたらありえない率(合格率が15倍も楽になってるんだもん)なんだけど、それだけリターンが減ってきたのでしょう。いまどき弁護士なんかになってどうするの?って感じなのかな。

 上はほんの一例であり、明日は我が身でどの業界のどの職種がどうなるかわからない。

無駄な仕事で雇用確保

 てかね、ほんとのこと言えば、かなりの業界のかなりの職種がもう要らないっちゃ要らないのだと思います。わわざ非生産的で無駄の多いやりかたをやってるから、それだけ雇用も確保されているだけのことで。

 前にも書きましたが、オーストラリアでは(ですら)、運転免許の更新なんか1分で出来ます。僕のときもそうだったけど、先日カミさんの更新につきあったときも順番が来たら本当に1分かからずに終わっていた。でも考えてみれば免許の更新なんか、そんな難しい作業じゃないのですよね。本人確認→データーベースで検索して更新OKの確認をすれば、あとは視力検査とかだけど、それはカウンターの後ろにあるスクリーンに一瞬視力表を表示させて読ませればいいから5-10秒で出来る。写真はこれまでの使い回しでいい(そんなに顔変わらないし、必要があればその場で撮影できる)。あとは支払いでクレジットカードやデビットカードをピ!とやればいいだけ。それも免許の条件に「眼鏡等」という条件のある人の場合であり、その条件もなければオンラインだけで出来る。出頭する必要すらない。

 それを日本の場合は、わざわざ辺鄙な場所にある運転試験場に行かせたり、申請書に顔写真はらせたり、いまどき印紙なんか買わせたり(なんでクレジットにしないの?)、半日作業になるのよ。無駄の極致でしょう。でも、そのムダがあるから、試験場の前の写真屋さんが生計がたったり、多くの公務員の人が仕事を得られるわけです。真剣にやったら、多分8−9割はクビに出来ると思いますよね。

 戸籍や住民票だって、そもそもそんな制度要らないし(世界中に戸籍のある国はほとんどない、オーストラリアには住民票もない)、やるとしてもオンラインで出来るでしょうがって思うし、わざわざ出かけて金払ってコピーを謄本だの抄本だの取る意味がわからん。住民票を提出する機関に照会事項限定で一回限りの閲覧用パスワードを発行すれば足りる。

 ちょっと前のエッセイで紹介した記事にもあったけど、世界から仕事が消えているはずなんだけど、逆に無駄な仕事、必要のない仕事、仕事のための仕事みたいなやつが、物凄い勢いで増えているという話。

 今は税収やら国債やらで廻ってるからいいものの(てか本当は廻ってないんだけど)、いつか、いよいよ年貢の納め時が来て、IMFでもどこでも入ってきて、徹底的に無駄削除ってなったら、多分公務員の7−8割は減らさせられるんじゃないかな。同じように一般デスクワークもかなり減らせるはずです。

大学もいらない

 ちなみに余談まじりに言えば、大学って仕組みそのものが要らないでしょう。今はオンライン講座で済ませられるわけだし、別にそこに行く必要がないんだもん。大学という建物がいらない。

 そのかわり世界で「この講義と単位認定作業をしてもよし」という資格を得た講師が、それぞれにオンライン講座を持ち、それを有料で受講し、認定証をもらい、決まった種類の決まった単位を取得できれば、それに応じた学位を認定すればいい。受講生は世界中の教授からよりどりみどりで受講できるし、興味があれば他の教授からも聞けばいい。いまは、大学別に教授がバラバラだから、A大学にはいったらB大学の教授の講義が(テンプラ聴講をするのでなければ)聞けないという重大な欠陥がある。

 これをちゃんと合理化したら、多分学費は今の10分の1以下で済むだろうし、通学時間に伴う膨大なロスもなくなるし、消費者の選択も飛躍的に広がる。

 オンライン講座って、そういえばこっちのスーパーのColesでも社内教育用にあったけど、会場と講師を用意し、人を集めて講座を開くという無駄を省いて、自分のアカウントでログインして、そこで宿題になってる社内研修用のビデオを見ろと指示がきます。でもってリンクを飛んで見るんだけど、これが良く出来てて、途中でシークして早送りしたら見なかったことにされてしまう(何度も同じところを見るのは出来る)。それが終わると試験があって規定点を取れるまで延々と問題が出てくるから、嫌でも覚えてしまうという。これを暇な時にやればいい。バス待ってるときでも、いつでも。

 だもんで、もし本気でやる気があるなら、日本中の大学全部潰せます。大学が無いんだから当然のことながら大学受験も要らない。あとは聴講しても理解できないなら意味ないので、自分で基礎レベルの勉強するしかないし、それはそれ用の補講講座を作ればいい。そうなると残るのはディスカッションなどの授業だけど、こんなのZOOMなどのテレビ電話で今だったら余裕で出来る。

 最後に残るのは、解剖実習とか実験とか現場に居ないとどうしようもないものです。これは日本各地にそういうセンターを使って、それ用の講座を定期的に有料で開催し、参加して単位認定を受ければいい。それだけの設備でいいんだから、大都会のオフィスビルでも、田舎の農協会館でも、マンションの一室でもどこでもいい。

 要は、専門知識技能を修める手段が、より豊富な選択肢で、よりリーズナブルな値段であればいいんだし、また修了認定と証明書発行事務さえちゃんとしてたらそれでいいんでしょ?

 ただこれをやってしまうと、大学の職員、教授も含めて大量に失業するでしょうねー。オンライン講座もPPV方式にして、受講料の○%が講師の収入になるにしても、国内の一流どころの教授の講義がライバルになるわけですから(それも同時代だけではなく過去の往年の名講義もライバルになる)、よほど面白くて分かりやすい講義をしないと客がつかない。生計が立たないから教授職はガタ減りになるでしょう。

 でもこれって過酷なようでいて、ミュージシャンや作家にとっては当たり前の話でしょう?彼らは過去の名作や名演の全てを競争相手としつつ、なおもお金を払って鑑賞してもらえるだけの作品を作らないといけないという条件でやってるんだから。個別の大学に消費者を囲い込んで、否応なくこの教授の講義を聞かねばならないってカタチに仕向けている方がズルいというか、恵まれすぎでしょう。実際十年一日のように退屈な講義を延々やってるだけみたいなパフォーマンスに、お金が取れるだけのプロフェッショナルな質が伴ってるかどうかは一考の余地があると思います。

 あと大学入試が要らなくなるので、受験関係の業界はほぼ即死に近いでしょう。もっとも、オンライン受講をサポートするとか、キャリアプランを組む相談とか、受講をさらに補助する「大学の塾」みたいな感じで生き残る道はたくさんあると思いますけど。

 では余った大学の建物や人材はどうするかといえば、アカデミックな地域センターかなんかにしたらいいです。そこでもオンライン受講できるし、サークルもあるし、イベントもあるし、知的生産性の高い雑談ができるサロンもあるし、教授陣や企業現場とかで常にフランクにお話ができる場を設けたり、そういう知的に楽しい場にすればいいじゃないか。それだけだったらそんなに設備費もかからんし、あんなにキャンパス広くなくてもいい。体育会系サークルは、そのまま地域のフィットネスクラブとして運営するなかの有志のサークルとして存続すればいいし。面白いことやってたら、面白い奴は自然に集まるし、それでいいでしょうに。

 長々書いてますけど、何の話か?といえば、「やることがなくなる」という話でした。

なんで仕事がまだあるのか不思議 

 むしろ、今日のような技術力やら生産力がありながら、なんで皆あんなに長時間仕事をしているのか、それが不思議だという気すらします。

 この間の日本帰省・ドバイ/スイス旅行で、何が一番びっくりしたかというと、日本の夜の通勤電車です。最初は、成田から栃木の宇都宮の手前にいくまでの往路で、もう夜もいい時間になっているのに準満員電車状態が続いてびっくりしました。スイスから戻ってきた日は、夜の10時過ぎに羽田について、それから品川のホテルまで移動したのですが、11時過ぎた品川駅のホームが長蛇の列になっていて、それもびっくりしました。ある意味、スイスやドバイよりも衝撃的だったかもしれない。

 なんでそんなに働くの?という以上に、なんでそんなにやることがあるの?という方が不思議で。

 それぞれに理由はあるのでしょうけど、もっと本気で省力化をすれば、個々人の労働量なんか半減出来ると思いますよ。まあ、そうすると残業代が減るとか、クビになるとか、そういう問題は生じるのでしょうけど。でも、前のエッセイで書いたように、わざわざ非効率な仕事を沢山作って、わざわざ無駄に手間暇かかるようなシステムにして、それで忙しくているような気もします。

アプリジョブ

 オーストラリアには、アプリジョブのサイトがあります。appjobsというサイトがあるのですが、シェアリング経済の仕事版で、スマホのアプリでやる仕事、カジュアルなあまり時間で小銭を稼ぎましょうって仕事のリンク集です。

 デリバリーとかクリーニングとか、家事関係(引っ越し手伝いとか犬の散歩とか)沢山の起業が載ってます。

 僕がちょっとやってたハウスクリーニングなんかもこういうカタチになっていくかもなーって思いますね。あの経営も大変そうで、現場でいちから教えていって、徐々に一人前にして、毎日いろいろシフトを組んで、また皆の要求に公平に応えるように仕事を組んで、うるさいクライアントには注意してって感じです。でも、このビジネスモデルは、そこがもっと簡単で、最初からある程度キャリアのある人しか使わない。それも雇用という雇うカタチではなく、単発のコントラクター(下請け)というカタチにする。そして、従業員(ではなくて契約下請け個人)は自分の開いてる時間をアプリで表示し、仕事の方は入ったらアプリで見えるようにしておいて、取ってもらう。まあ、きれいに全部発注できるものではないから、個別交渉とか面倒な局面はあるとは思いますが、基本構造はシンプル。相互に横のつながりはないから、誰それさんがエコヒイキされてるどうのって話にもならない。

 で、ここは想像なんだけど、合理的にやろうと思ったら、あまりにも注文が多くてうるさいクライアントは切り捨てたほうがいい。てか勝手に向こうからもう頼まなくなるからいいんだろうけど、「信頼関係を構築して〜」とか、そういうウェットなことはあんまり考えない。完成度100が理想だったら80程度で納得してくれるクライアントと料金設定にしておいて、それで数多くした方がいい。仕事の完成度100にこだわってると、最後の95-100あたりに、それまでと同じくらいの労力がかかります。個々人のスキルもそれだけ高めないといけないし、あれこれ気を使って指導しないといけない。すごい負担。だったら、大雑把な完成度でもOKなクライアントとだけ商売してたほうが、個々の契約労働者のスキルの高さもそこそこでいいことになるから取替もききやすい。

仕事に対するこだわりを殺す 

 ここが日本人の一番の苦手とするところだと思うけど、仕事の完成度をあえて下げるというのがポイントです。そんなに仕事に感情移入しない。人間なんかミスをする生き物なんだから、そこはとやかく言わない。80点取れたらそれで良いくらいにするだけで、全体の効率性や労働生産性はむしろ高まりますよ。

 僕が今やってるデリバリーのバイト(これもアプリジョブですけど)は、めちゃ大らかで、現場にいったけど全然目的の場所がわからず無駄に時間つかっても別に怒られることはないし、ちゃんとその分の時給は出る。デリバリーを間違えて取りに戻って、、という無駄なことをしていても、ちゃんと時給は出る。結果オーライだったら、OK!でおわり。クライアントが遅いといって怒ってるみたいだけどって言っても、"No Worries!"と明るく返ってくる。あはは、気にすんなよ、怒らせておきゃいいよってノリで。高速道路の入口を間違って逆方向に行ってしまい、また戻ってきてという無駄な高速料金も時間も全部出る。

 これが日本の会社だったら、何やってるんだ、たるんでるとか、めちゃ怒られそうなんですけど、全然そういうことはない。実際、一回も怒られたことがない。それはColesのときもそう。基本怒るってことをそんなにしないのだけど、要は「理解できたのかどうか(次は大丈夫なのか)」が大事で、understandかどうかだけです。

 なんとなく思うのだけど、日本人的な感覚だったら、一番うるさいお客さんに合わせて仕事の完成度を決めて、そこに達するようにやろうとするんだけど、彼らは最初から上位(だか下位だか)10%くらいの客は切り捨てる覚悟というか、そんな心持があるような気がします。最も確率の高い、中間層のボリュームの多いところを、ゆるやかに、無理なく、誰でも出来るレベルで掴んでおけばそれでいい、それが一番効率的だと。ここで僕ら日本人は、顧客満足を100%充足できなかった、仕事がきちんとできなかったという後悔とか慚愧の念とかが出てきたりするんだけど、そこはもうあっけらかんとしてる。

 だから日本人的にいえば仕事はダメダメに見えるんだけど、でも合理的っちゃ合理的なんですよ。背景にある哲学は、たかが仕事(金稼ぎ)くらいにムキになるなよ、完全な人間なんかいないよってことだし、さらに本当にムキになるべきこと、絶対に手を抜いてはいけないことは他にあるのであって(家族を愛すること、自分の生き方を常に真剣に考えること、地球や社会のことを考えること)、仕事「ごとき」にそんな精力を使う必要なんかないんじゃない?って感じ。もっといえば、仕事ごときに精力を使い果たすのは「人としてどうよ?」くらいにすら思ってるフシもある。

 だからこそ、なんだけど、だからビジネスモデルを瞬速でちゃっちゃ替えていけるし、必要ないと思ったらどんどんクビにもするし、融通無碍に合理的な方法を使っていける。社会全体にそういう大きなカルチャーの枠組があるから免許の更新も1分で出来るのでしょう。

 逆にそれが出来ないのは、仕事に対してなんらかの趣味的な(あえてそう言う)感情移入をしてるとか、無駄な仕事を妙にありがたがってるとか、合理化が進むと困る人達が大量にいるので、それへの配慮して無駄なことをやり続けている、かのように思います。

 僕も思うのだけど、仕事に感情移入とか趣味性を絡ませていいのは、自分が創業者や中核メンバーでやってる場合、金儲けというよりは自己実現とか自己表現とか、もう仕事なんだか趣味なんだかわからんくらいのことをやってるとき(僕におけるAPLaCのような)でしょう。「他人の金儲けの軒先借りてるだけ」のことに、そこまでムキになる必要はないと思いますね。またムキになろうとして、それだけの裁量権も与えてもらってないのだから、悔しい思いをするのが関の山だというか。

 

やることがなくなった

神事のような

 そして最初の命題に戻るのだけど、かつての信長や幕末の志士、ラオウや曹操のように、天下国家で遊ぶようなロマンは既になく、高度成長やバブルの頃のようにハードなんだけど自由闊達でもあった仕事環境でもなく、肥沃なフロンティアが見渡す限り広がってるわけでもない現在において、「やること」ってなんだろう?って。

 そんな天に昇る龍のようにならなくてもいいから、安心して一生すごせるだけの堅実な仕事があればいいってことになるかもしれないけど、それすらも危うい。職種、業種、これなら大丈夫ってジャンルがないです。ウチは大丈夫とか言ってる人は多そうだけど、深層心理では結構冷やっこいものを感じてるとは思いますよ。もしかしたら、と。

 それもあるのかどうか、過去のしきたりにしがみつくように、あえて非生産的なダンドリを伝統芸能のように守ることで、職の安心を感じていたい、そんな深層心理があるような気もしますね。僕の感覚でいえば、日本の役所の手続やら、古い組織の仕事のやりかたやら、「神事」というか宗教上の儀式のようにすら感じる。はい、ここで柏手打って、ここで二歩下がって、北を向いてお辞儀して〜みたいな。

じゃあ、今の時代に「やること」は

 だったら今の時代の「やること」って何よ?といえば、それは自分で考えろ、ですよね。自分のことは自分でやれ、です。

 逆に言えば、「やるべきこと」が外部から与えられる時代ではないのでしょう。武士として生まれたら武士として○○するべきみたいな時代ではなく、サラリーマンにさえなっておけばなんとかなるという時代でもない。外から、あれしろこれしろって教えてくれることはないし、仮に教えられたり強制されたりしても、それが合ってるという保証もない。

 ならば自分で決めるしかない。

 でも、考えてみれば、自分の人生どう生きるかなんか自分で決める以外ないわけだし、当たり前といえばこのくらい当たり前のことはないです。むしろ他人に指示される方がおかしいです。

 そして伊丹監督の話に戻るのですが、そんななにもかもがあやふやな中、頼れるのは自分の五感だけってなったときに、とりあえず確かな感じでわかりやすいのが「味」であり、食べ物や料理なんだろうなーって思います。特に自分で作るときは、確かなリターンがあったりしますから、面白いし。

 僕自身、時とともに料理や食べ物の比重が増えてる気がします。最初は、自分自身の人生的変化やら、多国籍文化のオーストラリアにいるからこそだと思ったんだけど、時代の移り変わりもあるかもしれませんね。若い人といつも付き合ってるわけですけど、やっぱり年とともに味覚は鋭くなってる、、、のかどうかわからないけど、美味しいものを食べる幸せというポイントは、年々上がってるような気がします。あなたもそうではないですか?

 これは料理が正解って言ってるわけではなく(不正解というつもりもない)、やることが外在的に与えられる時代から、自分で決める時代に移ってきてることの一つの現れではないかということです。

 別に味に限らず、旅行の感動にせよ、イベントや出会いの素晴らしさを今まで以上にきちんと評価しようとか、体調管理やら、「気持ちいい」って感覚を大事にしようとか、そういう一連の流れがあると思うのですよ。

 自分で決めようとすれば、まずは自分で確かに感じられるものが対象になるでしょうし、それで間違ってないと思いますもん。そんなどっかの誰かに洗脳されたかのような抽象的なモデルよりも、まず自分が感じること、その感じる過程の素直さや、感性のピュア度みたいなものを大事にしようってことでしょうか。

 その意味でいえば、冒頭の伊丹監督の「実に嘆かわしい」という意見には賛同しにくく、いいことじゃないの?って思います。というか、伊丹監督もやや反語的に、独特の切り口でああいう言い方をしただけであって、本当に嘆かわしいって思ってたら「たんぽぽ」みたいな作品は作らなかったと思います。あの作品は「確かなリターンのある世界」、それが市井の片隅のラーメン屋であろうがなんであろうが、そのリターンの確かさに惹かれて、人々がムキになってる姿をオムニバスのように描いていますから。


似たような写真ですが、構図をちょっと替えて

文責:田村


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