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今週の一枚(2018/09/03)



Essay 891:全ての一滴は等価値

〜見えない進展

 写真は、近所のGlebeの公園(Wentworh Park)。家からトコトコ歩いてチャイナタウンまで買い物に行く途中に綺麗だったので撮ったものですが、なんかこうしてみると生命保険のパンフレットみたいですねー。
 最近立て込んで入るので、今回は簡単にしましょう。

 「全然英語が伸びないんですけど」「全然仕事がみつからない」「勢い込んで新天地で頑張ろうとしたけど鳴かず飛ばずで辛い」なんでも良いのですが、ちゃんと進んでいる筈なんだけど、その効果がほとんど見えない、わからない、信じられないというつらい初動〜中盤段階が、どんな物事にもあります。

 先日もその種のテーマでメールを書いてて、書いてるうちに自分でも改めて「そうだよな」と思ったことがあるのでそれを書きます。

カメの水

 その前に、その昔語学学校で書いた作文のことを書きます。
 当時は、毎週一本なんかジャーナル書けと言われてて、まあ今の今週の一枚の拙い英語版みたいなもので、いろいろ書いてたことがあります。英作文はいい勉強になりますよね。じっくり自分の言いたいことを調べて書けますから。この「じっくり調べて考える」という部分で伸びます。

 その中で「なかなか英語が伸びたという実感がない」「やればやるほど、いかに出来ないかを思い知らされるだけ」「前に進んでいるというよりも、ゴールがどんどん遠ざかってるような感じ」について書きました。

 「しかし」と文章は続きます。
 過去にやった学習、それは法律でも、ギターでもなんでもそうだったけど、初期の蓄積期においては、やればやるほどダメダメ感が募ってしんどいと思った。だけど、そこを乗り切らないとどうしようもない。そのしんどい時期の心構えとしている表現があり(どこかで読んだのか、なにかのヒントから自分で思ったのか今となっては定かではないが)、それを支えにして頑張っている。

 それはこういう感じの表現でした。

 ここに大きな甕(かめ)がある。
 水を貯めるカメであり、人がすっぽり入るくらい大きい。
 そこに一滴、また一滴と水が溜まっていく。
 一滴水が増えても全体からしたら何も変わらない。
 一滴、一滴、気が遠くなるような繰り返しによって、カメの中には満々と水が貯まっていく。
 しかし、外側からはなんの変化も感じられない。
 全ては徒労のようにさえ見える。

 そしてカメの上辺にまで水が満ち、
 やがて表面張力で水面が膨らみ、
 さらには最後の一滴で表面張力が破れて、水が溢れだす。

 そのとき初めて、人は自分のやってきたことが無駄ではなかったと知る。
 そこに何事かが生まれたことを知る。

 ただ忘れてはならないことは、最後の一滴も最初の一滴も、同じ一滴なのだ。
 最後の一滴は、たまたま変化を目に見えて実感させてくれるキッカケではあるが、
 その一滴が全てを成し遂げたわけではない。
 それは最初の一滴から連綿とつづく全ての一滴の集積であり、
 全ての一滴は等しい価値を持つ

 こんなに格調高く英語で言えたわけではないのだけど、そういった意味のことを英語で書き、書きながら自分で納得していたのを思い出します。

 それと同じ話は、いつも折りに触れ自分に言い聞かせ、また人にもいいます。
 最初の一滴も、857滴目の一滴も、1万2450滴目の一滴も、そして最後の一滴も、同じ一滴に違いはないのだけど、なかなかそうは思えない。どうしても最後の一滴が注目を浴びるし、そこにフォーカスが合ってしまうんだけど、そこにいくまでは延々と超々地味な積み重ねがある。司法試験やってたときなんか、まさにそうでした。合格するまでは、ただの社会の落語者的な位置に甘んずるしかないし。それは全ての成功者が通る道でもあるのでしょう。

 そういえば有名な裁判などで判決が出ると、「勝訴」と書いた紙を持って裁判所から走りでてくる人がいます。業界内輪話でいえば、あれをやるのは大体若手の弁護士です。この手の著名事件は、一人でやることはまず無く、たいてい大きな弁護団を組みます。基本、手弁当のボランティアです。記者会見とか、お役所との折衝とか対外的な「顔」になるのは、もと日弁連会長とかそのあたりの年嵩の人がなって(舐められないためにも)、地味な実働は若手が頑張る。で、これまでの苦労の慰謝の意味もこめて、若手に花をもたせてあげる=勝訴をもって走るという「最後の一滴」役が回ってくるという。若くないと走れないしね(笑)。もっとも、常に勝つわけではなく内容によって書く内容も変えます。「不当判決(敗訴とは書かないのね)」とか「一部勝訴」とか。

 なんの話か?というと、「勝訴」で走ってくる人だけが全ての実働をやったわけではないし、そうやって走り出てくることが弁護活動の全てではない(てか殆ど内容に関係ない付帯事務にすぎない)。

 同じように、マラソンのゴールテープを切る最後のトラック一周がマラソンの全てではないし、合格発表で胴上げしてもらうことが受験勉強の全てではない。

 と、頭ではわかってはいるものの、中々そうは思えない。最初の一滴から、いきなりどーんとワープして最後の栄冠の一滴につながってて欲しいように人は思う。僕もそう思う。でもそんな都合のいい展開、「そして1年後」みたいなストーリーの端折りをしてくれることはない。


さらに辛い確率・運的な進展 

過程が見えない

 でもね、地味な英単語の記憶やら、毎日庭での素振りやら、早朝の走り込みやら、ピアノの練習やら、ダイエットやボディビルやら、なんでも良いのですが、これらは「正統派の一滴」系です。まだしも楽です。

 ものすごーく微細なんだけど、昨日と今日、先週と今週とでは違いがある。以前、「官兵衛メソッド」というエッセイでも書いたけど、息をこらし、目を凝らしていけば、そこには確実になにかの変化があるのがわかるし、わかるようになりたいから感覚も鋭敏になる。そうやって鋭敏になった変化感知によって、日々の喜びを知る。ほんの少し体重が減った、前はすぐ死んでた心臓破りの坂も今日はわりと登れた、出来なかったパッセージが弾けるようになった、、、そこにわずかな違いを感じ、喜びを感じる。

 でも、それは変化あってこその喜びです。対象によっては全く変化がない、微細とかそういう問題ではなく、客観的に変化ゼロってことがあります。

 それはなにかといえば確率的なイトナミです。
 100回に一回あたりクジがあるとして、百回ひけば一回は当たる。どんどん引いていくのですが、運が良ければ最初の一回目にあたりがくるけど、運が悪ければ100回目まで当たりがこない、もしかしたら300回目になるかもしれない。それが確率とか運とかいうものです。

 これは辛いですよー!
 なんといっても、ハズレはハズレであって、これだけ筋肉が増えたとか、痩せたとか、上手くなったとかいう手応えが無いのですから。

 しかし、この場合だって、一滴論は有効です。
 100回目にあたりを引くとしても、それが百回目であるためには、先に99回の失敗がなければならない。99回の失敗あってこその100回目です。だから一回目も百回目も価値的には同じだというのは、さきの一滴論と全く同じでしょう。

 ただ、しんどさが違う。
 なんせ客観的にはまーったく進展してないのですから。

センミツ

 こういった物事は多いです。
 求職活動なんかもそうだし、オーディションなんかもそう、ブログやネットでビジネスなんてのもそうかもしれない。

 センミツという言葉があります。もっぱら不動産業界で言われることが多いけど、千回(案内とか商談を)やって当たりが3つもあれば御の字だという意味です。確率でいえば333分の1で、332回は無駄骨。朝早く起きて、見学希望者を車に乗せて、おべんちゃら言って座をなごませて、物件をみせても、332回は無駄、無駄、無駄、無駄あ〜ってJoJo的な感じ。でも333.3回くらいやれば、一回くらいは成約になって、それでお金が稼げますよ、そういう商売ですよって意味です。

 もっとすごい(確率低い)のが街頭でのビラ配りとかティッシュ配りであり、さらに僕らが毎日受け取っているスパムメールや広告メールです。センミツなんてものじゃないもんね。マンミツとかオクミツくらいかもしれない。

 僕がまだ学生時代、起業や転職数えきれないくらいの親父が、何を思ったか占い師を始めて、僕が学校に行く通学路(原チャリ)界隈で、マンションなどに広告をポスティングしてました。数カ月後、本当に打診があって、お客さんがつきました。後日(学生から弁護士になって)その人から別件で遺産分割の相談があってこっちに回ってきて、それで100万くらい稼いだことがあります。そのときの歩合でいえば、センミツ以下ですねえ。だいたい3000枚くらい配った記憶あります。ひとくちに3000枚っていうけど、大変ですよー。ポスティングお断りってマンションも多いし、多人数世帯の大口マンションでも、はけて百枚とか二百枚ですもん。アパートくらいだったら全部6枚とかそんな。数ヶ月かかって配ってそんなもん。それで大体の成功確率がわかります。いい経験でしたけど。

当たるまでが大変

 この種類のものごとは、微細だけど着実な進歩らしきものが無いだけに、当たりに至るまでどうやってメンタルを保つのかがポイントになります。

 なんせやってもやってもダメダメな日々。仕事探しでも、履歴書を送っても送っても梨の礫か、合掌メールがくるだけ。100通送ってもダメ、200通送ってもダメってなってくると、心が折れてきても不思議ではない。

 もちろんそこにはダメになる理由もあるのでしょう。書き方が悪いとか、キャリアが足りないとか、そういう部分での問題はあるでしょう。だけど、単純に「運の問題」というのも大きいです。

 だいたいの場合、実質そのものの問題と、運の問題がゴチャ混ぜになっているでしょう。確かに実質にも問題がある、改善の可能性はあるのでそこはやるべし。だけど、カンチガイすべきではないのは、実質が整ってもそれでも運的にダメということはよくある。てか、まず絶対ある。だからあまりにも実質論だけで考えすぎると、変えなくてもいいもの、変えてはいけないものまでもいじくりだして墓穴を掘るから、そこらへんは程々にしないと。その加減が難しいですね。これはあとで書きます。

 僕はロック村にいたので、知人とか真剣にプロを目指してバンドやってた人もいます。本気でそれで食えるようになるのは、まずかなりの実力も要りますし、そういうメンバーに出会えるという運もあります。それ以上にメジャーなレコード会社との契約話がくるかこないかって運の問題もあります。

 でもね、ロックはまだいいですよ。ライブハウスでデビューといっても見に来たのはメンバーの彼女だけ、なかには彼女すらこないトホホなスタートで、徐々に観客動員数があがっていったりするので、正統派の一滴系の喜びがあります。

 だけど、漫画家とか小説家とか画家とか、オーディエンスが目の前にいない場合はもっと辛いでしょうね。○○賞などに応募→落選、応募→落選で、バンドだったらその過程で見えるものが(これだけ客が増えたとか)がわからない。強いて言えば、最終選考に残ったとか、佳作になったとか、そのくらいの途中経過ですから。

 これ本当に辛いと思いますよ。太宰治も、芥川賞を取りたくて取りたくて、川端康成だか佐藤春夫だかに「取らせて〜」って恥も外聞もなく手紙を出してるくらいですから。あの太宰ですら(てか、太宰だからとも言えるが)そうなんですからね。今では太宰治賞という自分の賞ができてるくらいなのだが、それでも取れないときは取れない。

 しかし、そういう運の問題は(ほぼ絶対に)避けて通れません。
 なにかを志す以上、なにか「いいもの」をゲットしようとする以上、そんなに百発百中ってことはありえない。百発百中だったら、当たり前過ぎて「いいもの」だとも思えないでしょう(自販機に百円入れたらコーラが出てくるとか)。

 のぞみの職に就くこと、起業でお客さんがつくこと、大好きなパートナーに巡り会えること、なんでもそうですけど運の問題はつきまとう。出来てしまうときもあれば、出来ないときもある。出来ないときは、これほどか?と打ちのめされるくらい全然ダメダメだし。出来るときは、え?と思ってるうちに、あれよあれよと話が進んで、気持ちがついていけなかったり。もうオンとオフが激しすぎ。

メンタル管理 

 そこで大事なのは、ダメでもめげないメンタル管理なのでしょうが、その一番目のポイントは、最初からそーゆーものだと思うことでしょう。

 何もかもちゃんとやってるのにそれでもダメ結果が出てくる、なぜだあ!とか、ふざけんな!とかヤケにならないことですね。運の物事ってそういうものですから。宝くじで当たる人と、外れる人とで、やってることがなにか違うか?というと同じですもん。料金はらって宝くじ買ってるだけですから、やるべきことは誰もがちゃんとやってる。だけどダメなときはダメだと。

 いつも話すことですが、「運」と「確率」は違います。確率2分の1でも、実際にはそのとおりにならない。丁半博打でも機械のように代わりばんこに出るわけではない。丁が続いたり半が続いたり不均一なことが起きる。ミクロでみれば確率などないも同じで、それは「運」。だけど、スパンを長くしていけば、だんだん均されていって、平均値(確率)に近づく。長いことやってりゃ大体確率通りになるよと。統計学でいう平均値への回帰ですね。

 だもんで運の問題であるならば、ダメ元で回数稼ぐしかないです。100回に一回確率だったら、早く100回やっちゃえばいいです。ロングスパンにすれば平均的なリターンになっていくのだから、どんどん回数を重ねて運の要素を消していけばいい。うじうじ悩んでるのが一番よくない。

 結局、何がどうであろうが、一球一球全力投球することに変わりはないです。ただ淡々と続けること。漫画家の応募でも、どうだあ!という自分の最高傑作を叩きつけるように問い続けるしかない。近視眼的な結果にそんなに一喜一憂しないことですね。運ばかりはどうしよもないのだから。

それでも一滴は一滴

 上に「「百回目」をやろうと思ったら先に99回やらなければならない」と書きましたが、無駄球になってるような99回も、あれはあれでちゃんと意味があるのですよ。その一回をやることによって、次の確率が高まっているのですから(「期待値」ですね)。

 ちょっとづつ、ちょっとづつゴールに向かっていることに変わりはない。それは王道の一滴系と同じことであり、おなじく一滴なのだと。

 ただし、何度も言うように、痩せたとか、単語が増えたとか、筋肉ついたとか目に見える変化が全くなく、非常に観念的な話なので、それを実感することはまず無理です。それだけに頭のなかでしっかり理解してないと、虚しくなってやめてしまうってことになるでしょう。

 まったく実感もないし、それらしき客観的変化もないんだけど、それでもその一回をやることで、着実に進んでいる。そう思うしかないです。見えないけど進展はあるのだと。

実質面の改善と迷走の怖さ

 というわけで、ほとんど信仰心のように心に刻みながら、淡々と投げ込んでいくしかないのですが、上に述べたように全然変化も進展もないときは、同時に実質を点検し直したり、戦略や戦術を変えてみるジタバタ行為をするチャンスでもあります。

 自分にとってベストなものを世に問うているつもりだけど、冷静に見直してみれば、まだまだ改善の余地はたくさんあるから、それはそれでやる。と同時にもう少し芸域を広げたらどうかとか、角度を変えてみたらどうかとか、やり方にも一工夫あるんじゃないかという観点もある。それもやればいい。

 ただし、注意すべきは、それはサブとしてやるのであって、メインを変えるわけではないという点です。単にAをやってるから失敗続きであり、これをBに変えたら成功するってものではない。それの何が間違ってるかといえば、「○をすれば必ず成功(失敗)する」という思考に陥っていて、運の要素を無視している点です。

 さきに実質の問題と運の問題がごっちゃになってて難しいと書きました。ほんとそうで、実質面でも改良点はあるんだけど、だけど良いものが必ず売れるわけではない。成功に至るまでには数多くのめぐり合わせや幸運が必要であり、質と結果が常にストレートに結びつくわけではない。だから今までの自分のコンテンツがクソだから失敗しているわけではない。そうかもしれないけど、運の要素もあるんだ。だから、ココを変えたらいきなり成功ってもんでもないぞと。

売れセン狙いのトチ狂い

 なにを分かりにくいことを力説してるかといえば、鳴かず飛ばずのときって本当に迷うんですよ。ココを変えたらどうかとか、なにか根本的なカンチガイをしてるんじゃないかとか、自分のやってることが全然信じられなくなる。その挙げ句に、いじくり過ぎて本来の自分の良さを自分で壊してしまうことって、すごーくありがちなのです。

 いわゆる「売れセン狙い」とかやりだしたら、外す場合の方が多い。マニアックな描写が持ち味のクリエーターが、あまりにもマニアック過ぎるので、もっと一般受けしなければとか、もっとトレンドに合わせなければとかマーティング臭いことを考え出すと、「虻蜂取らず」というか中途半端なものになって、よりダメダメになる。

 ラーメン屋さんでも、そんなにメチャクチャ美味いわけではないが、庶民的な立地と値段でずっしり食った感のある味と量を出しているところが、こんなんじゃいつまでたっても底辺ラーメンで、もっと俺は上昇志向でいくぞとかいって、なんかやり始めるとヤバいですよね。トチ狂ってくるというか、迷走し始めます。

 ロック村にいててよかったなー、人生や世間を学べたなーと思うのは、あそこの村ではそれが永遠のテーマになって皆苦しんでいるからです。音楽なんか自分の趣味を極めて、自分の本当にやりたい音楽をやろうとすればするほどマイナーにマイナーになっていくもんです。そのマイナーさにその人の良さがあるんだけど、でも一般受けはしない。メシも食えない。そこでなんとか一般受けを目指して、ポップになろうとするのだけど、ちょっと歌謡曲っぽくとか、J-POPっぽくすればいいんだろ的な安易なことをやるから、古いファンも離れるし、新しいファンはつかないし。

 だいたい、マニアック系の人って(本気でやってる人はだいたいそうだが)、一般ポップを馬鹿にして、舐めてるところがありますよね。あれはあれで大変だし、マーケティング的に成功するには、マニアックでやるよりもはるかに作業量が多い。営業戦略もいるし。金もいるし。ちょっと芸風を変えたくらいで成功するほど甘いもんじゃないですよね。

 そもそも売れるということを第一目的にするということは、「自分のやりたいことをやる」というこれまでの第一目的を変えることを意味します。「なんのために音楽をやるの?」という根本的な原点が変わり、価値観が変わる。こんな曲をやるくらいなら死んだほうがマシと思うくらいのクソなことをやってなんぼという腹括りは必要でしょう。だいたいアイドルの世界なんか「枕営業」とかまことしやかに言われているくらいで、真剣に売ろうとしてる奴らはそのくらいの根性でやってるわけでしょ。そこで勝ち抜いていくわけなんだから。でも、普通そこまで徹底できない。あくまで自分の趣味の「妥協の範囲内で」とかいいとこどりをしようとするから、どっちつかずで中途半端になって、本当に駄作になってしまうという。

開き直りつつも、細かな改善を

 だからもう売れなくてもいいやくらいに開き直った方がいいですよね。僕のAPLaCにしても、一般受けしなくてもいいやって思ってるし、ポップにしようとか思いませんもん。したら多分メチャクチャになって終わるでしょう。常識はずれに長いエッセイだって、読んでくれる人はいるわけだし。

 大体において、自分が最初にやってたのが、やっぱり一番良かったりします。本質はそちらにある。なんだかんだ言って自分は自分だし、そうそう変わるもんじゃなし。

 だけど、運の問題で鳴かず飛ばずの辛い時期もあるから、そのときにサブとして、内容面でのチェックや向上をすればいい。本質は変わらないけど、あまりにも敷居が無駄に高いぞとか、ユーザーインターフェイスが悪すぎるぞとか、ここはカッコつけなくてもいいんじゃないかとか、コアでない部分は普通にわかりやすくした方がいいとか、多少のくすぐりは入れた方がいいかもとか、改善点は多々ありますから。

 また、もうちょっと芸風を変えるとか、芸域を広げるとかいうのもアリです。バンドでもアーチストでもありますが、昔のレコードでいえば、B面の4曲目とか一番目立たないところに違ったアプローチの曲をいれたり。なんでこの人がこんな曲をやってるの?というような実験的な、あるいは趣味的すぎるもの。そういうものを増やしていくのはいいと思います。

 ただし、何度もいうようにそれは微調整に過ぎない。なにか魔法の杖の一振りで全てがうまくいくなんてことはない。いや、実際あるんだけど、それは「運」がめぐってきたときだけです。どういう脈絡か、過去にやってきたあんなこと、こんなこと、出会った人々、そういった無数の点と点が、あるとき夜空に星座ができるように繋がってきてピピッと電流が走るときがある、、みたいな話。これは実際にあります。誰でもある。あなたにもある。大体の出会いとかブレイクスルーってそのパターンですもん。

 ということで、鳴かず飛ばずのときは、どうせヒマなんだし(笑)、あれこれ足腰を鍛えたらいいです。ただし、くどいようだが、これをやったら大成功とか甘い夢をみて、自分の持ち味を殺したら何にもならないってことです。そこは、あくまで運の問題なんだから、やってりゃそのうちって思っていくしかないでしょう。



 上の写真の木を別方面から撮ったもの。実はこんなに大きい。もう、なんだこれ?って笑っちゃうくらい大きいですよね。


文責:田村


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