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今週の一枚(2018/08/20)



Essay 889:一手詰じゃないよ〜Life is not so simple


 写真は、Crowsnest。先週の土曜日に撮ったのですが、もうかなり春めいてきました。先週はかなり暖かくなって、枯れ木に新緑が息吹きだしているのも見かけました。
 今週はまた寒くなるのですが、今週がこの冬の最後かな〜という気もします。
 ここから数週がみもので、マジックのように、みるみるうちに緑が増えてきますよ。

一手詰めじゃないよ

 常々相談カウンセリングなどをやっていて思うのですが、人生をものすごーくシンプルに考え過ぎている人が多いような気がします。「いい学校→人生成功」みたいな、(詰)将棋でいえば「一手詰(め)」のような、双六でいえば一マスしかないような、麻雀でいえば最初のツモで終わるかのような。

 あのですね、僕も自分が年をとるに連れて身に染みてわかりつつあるのですけど、人生長いっす。もううんざりするくらい長いです。今20代とかこれから就活とかいう段階の人が何となく考えている人生の長さ、おそらくはその4倍くらいは長いのではないかと。

 詰将棋でいえば一手詰めではなく、49手詰とか、どうかしたら119手詰くらいで、終わるまでの手順がやたら長くて複雑です。あらかじめ読み切れるものではないという点を考えれば、詰将棋ではなく、普通の本将棋ですね。「これで人生ゴールだ!」or「俺の人生詰んだ」とかいうのも、長い棋譜のなかの一手に過ぎない。若い時点での進学やら就活というのは、将棋でいえば初手で「7六歩」で角道あけましたとか、「2六歩」で飛車の頭をあけましたとか、そのくらいの話であって、そこからまだ延々と続きます。

 いい学校、いい会社入れたら、それで人生上がり、やったー!なんてことはないよと。まあ絶対と言っても良いくらいそんなことは無いです。僕もまだ死んでないのではっきりしたことは言えないけど、途中経過の感想ですら、めちゃくちゃ時間と手数がかかるというのはわかります。これでゴールだと思ったら、そこが地獄の一丁目でしたって話だし、もう終わりだと思ったとき人生最良の出会いがあったりするもんで、本当にわからんすよ。

 将棋がそうであるように、定石通りに王を囲って飛車を振ってとかやってても、いつしか定石から離れて個別の展開になっていく。もともと「定石」というのは序盤戦の駒組のダンドリであって、最後の勝利までの道筋でないです。もしそんなものがあるなら、将棋はただの暗記競争になり下がり、ゲームとして成立しません、ある程度の駒組みが出来るころから、情勢は千変万化しはじめ、数万から数億通りの可能性のパラレルワールドに突入する。そしてくんずほぐれず、すったもんだして終盤になだれ込んでいく。だから、別に定石どおり角道をあけなくたって、俺の人生は終わったとかいうもんじゃないです。「人生詰んだ」とかよく言うけど、幸か不幸か、そんなに簡単に詰みません。だから面白いし、だから難しい。

数億通りのパラレルワード

 なんでこんなことを思うのかというと、例えばオーストラリアでワーホリやりました、留学して語学やりました、じゃあその後どうする?という「次の一手」があり、そのあたりを以前お世話した方々とよくお話するわけですが、そこでいろいろ話しているエッセンスの一つがこれです。

 「しっかりしたキャリアを身に着けて」とかいういつもの話になるのですが、それはそれで間違ってはいないですよ。でも全体のパースペクティブ(全体の見通し)がややもすると狭く、なんか「一手詰みたいに考えてませんか?」と思うのですね。「しっかりしたキャリア→人生の基軸になる」っていうのも同じ一手詰じゃんって。

 リアルに言えば、どの方向に進むのか視察をするだけで5手くらいかけてもいいし、なんとなくこれは必要になりそうだから今のうちに身に着けておいた方がいいなという下準備の技術獲得だけでも10手くらいかけてもいいと思います。

 もう少し具体的に言えば、
 ・ここらで一回サラリーマンというのを経験しておくのもいいよなとか、
 ・地方に暮らしてみてどんな感じなのかを体得するのもいい布石になるだろうとか、
 ・全方位で付き合える接客慣れもいっちょ鍛えておいたほうがいいとか、
 ・アウェイ環境をいかにクリアするかとか、
 ・とりあえず海外慣れして将来にむけて地ならししておいた方がいいとか、
 ・何をするにしても肉体的な強靭さは必要だから徹底的に鍛える時期を設けるとか
 ・将来の親の介護に備えて現在の仕事を複数化させて弾力性や柔軟性を増やすとか
 ・長い人生で何度かは訪れるだろう金銭的窮乏をクリアするために金欠時期の乗り切り方を学んでおくとか、
 ・交友関係がややもすると偏りがちでタコツボ化しがちなので、接点のなかった人達とつきあう機会を積極的に設けるとか、
 ・将来的に日本を脱出しなきゃいけない局面にも備えて3年くらいかけて世界を見て回るとか
 ・自分が苦手で避けたいような分野こそを早いうちに徹底的に克服しておいて将来の自由度をキープするとか

 …などなど、その行動だけでは到底ゴールには達しなくても、それが具体的にどう役に立つのかわからなくても、また、それだけでは一銭も儲からなくても、それでもやっておいた方が良い、全人生スパンでいえば何倍にもなって返ってくるという営みは枚挙に暇がないです。例えば、現在ホームレスをやってる人とかでも、もとはエリートサラリーマンだったという人も結構いると言われてます。それだけ優秀なのになんで為す術もなくホームレスになるかといえば、「金がないときのしのぎ方」「見栄やプライドの捨て方」「イヤなことこそ手数を踏んで丁寧にやるのが最短になる」とか、それまで学ぶべきことを学んでなかったからかもしれないです。

 僕が一括パックというサービスの中であれこれ教えているのも、実はこういった部分が大きいのですよ。学校の選び方とか、英語の勉強の仕方とか、シェアや仕事の探し方とか、一見 How toを教えているかのように受け取られがちだけど、本当の目的はその過程で得られる数々の気付きと学びです。「急いては事を仕損じる」という実体験を積むとか、焦ってしまうとこんなにも下らない失敗をするものだと経験するとか(英語であうあう言ってるうちに携帯を無くしてしまうとか)、よしこれだ!と決めようとした後に本命がやってくるという偶然のイタズラを体験しておくとか。もっと言えば、普通に日常生活をするだけで、こんなにも学べる、こんなにも栄養分があるんだということです。それがどれだけ通じているのか心許ないのですが、それでも話が抽象的で間接的になればなるほど、実は栄養価が高いもんです。それを意識レベルはもちろん、無意識のレベルにまで少しでも植え付けてあげられたら、その人の将来の成功確率は飛躍的に上がると思いますからね。

 そもそもいい大学に入るとか、ステイタスの高い資格をとるとか、英語が上手になるとかいうのも、そのこと自体では一銭にもなりません。それでもやりたがるのは、「皆そうしているから」「定石だから」とかそのくらいの理由でしょう。マジに数億通りくらいある可能性の組み合わせのうち、たまたま有名な組み合わせだからというに過ぎない。しかしですね、大体において誰でも知ってるようになった段階で、ほぼ陳腐化して賞味期限も近くなってるから、それは近道でも黄金のルートでもなくなっているケースが多い。なのにそれを絶対無二・金科玉条のように思いこむなんてヤバすぎるでしょう。

 これらはいずれも手段の獲得でしかない。およそ手段というのは目的との関連性こそが重要なのであって、問題はゲットしたものをどう活用するかであり、そこの戦略が見えてなかったら殆ど意味がない。また、その手段を獲得するだけでも多くの代償を支払わねばならず、それがどれだけの犠牲と機会損失を招くのかについても冷静に分析をしなければならない。さもないと、カジッては三日坊主、またカジっては三日坊主の繰り返しになり、やみくもに挫折感だけを積み重ねながら老いさらばえていくだけという悲しいハナシにもなる。

 いずれにせよ非常に多くの手数がかかる。それを一足飛びに一手だけで詰ませよう、詰まないまでも一気にドーンと駒を進めようというのは、セッカチすぎるし、甘すぎもする。

 でも、なんでそんなに簡単に考えてしまうのか?
 それは若くて経験不足だからとか、日本人だからとかいう点もあるんだけど、それ以上にこれまでの人類のスタンダードからいってそう考えがちなんだろうなーという大きな話にまで遡ります。ちょい語りおこさないと言い切れないので、今回それを書きます。

一手詰めがありえないわけ〜人生百年時代

 今、人生百年とか語られています。

 本当に全員が全員百年生きるってものではないけど、急速に長寿化している。今、百歳以上の日本人って珍しい存在じゃないです。去年の統計で全国で6万7824人もいる。最長寿で117歳。ちょっと前まで「きんさん、ぎんさん」がお茶の間の人気者になってましたけど「今は昔」です。今どき百歳くらいでお茶の間の人気者になれるほど甘くはない。これまで百歳こえると政府から純銀製の銀杯が贈られることになってて、2015年にはその費用だけでも2億3000万円かかったことから、以後銀メッキ製になったそうです。そのうち何も贈られなくなるでしょう。

 しかも伸び率が半端ない。きんさん・ぎんさんが流行ったのは1992年なのですが、その時点で百歳以上は絶対数で4000人ちょい、人口10万人あたり3.33人。それが2012年には51,376人/40.29人にもなっている。6年前(2012)の統計でもそれだけ伸びているということは、現在も、そしてこれから先も伸びるでしょう。

 しかし、「人生50年」(終戦直後の平均寿命がそう)→人生100年ですから2倍ですよ。これって強調して強調しすぎることはないです。もっと真剣に考えるべき。ここまでくると、単に「老後が延長された」とかいうレベルを越えて、本質的にゲームの種類が違ってきていると思うべきでしょう。戦略の根本的な組み換えが必要かと。

 いっそのこと「人生が2回ある」くらいに考えた方が実体に即しているかもしれない。大昔、井上陽水の「人生が二度あれば」って曲がありましたが、本当にあるんだわ、二回目。二回目ワーホリみたいに。この曲の頃は、64−65歳くらいでもう人生終わった感バリバリで、あとは死ぬだけって世界だったけど、今どきの65歳って、あと35年も生きるのですよ。終わってる場合じゃないですし、終わることなんか許されないです。

実感スパン〜4倍

 何度も何度も書いてますが、僕が17歳とかそのあたりに考えた計画では40歳で死ぬことになってました。それはそれ以上長いスパンでモノを考えようとしても、リアリティが感じられないし、不確定要素が多くなりすぎて意味がないと思ったからです。とりあえず何となく射程距離にあるような気がする40歳までで区切って、そこで死んでも満足できるくらいやりたいことをやっておこうと思ったわけですね。

 その頃は僕も、当時最難関といわれた司法試験に受かりさえすれば詰み(あがり)だと思ってました。ところが実務についてみれば、受験中がお遊戯に思えるくらいの過酷な激務であり、それでもなんとかこなして独立ってときに、いきなり身一つで外国にいって(34歳)、ゼロから自分の起業たちあげて、なんだかんだ地道に20年以上続けて、それでもまだ58歳ですよ。あと40年もあるのかと思うと、すうっと気が遠くなります。

 50歳時点でのリアルな触感でいえば、若い時なんとなく思っていたライフスパンの2倍くらいあります。「難関資格をゲットしてキャリア・ライフ」と「海外脱出して起業ライフ」の二本立て同時上映やってもまだ時間が余るという。APLaCでメシが食えるようになったのは40歳前ですからね、10年くらいあったら一本上映してしまえるのですよね。50以前の段階ですら、何となく思ってた長さの二倍あります。それでもまだ折り返し点だというなら、実際には4倍くらいあるんだろうと。だから、若い人が漠然と思っている長さの4倍はあるんじゃないの?という冒頭の書き方になるわけです。一応根拠はあるのですよ。

 

人生50歳二分論

 先週ちょっと触れた人生50年折返し論(50を境に下級生と上級生にわける)もここから来ていて、実際に全員百歳生きるわけではないにせよ、単純に前半後半的な発想で言えば、50歳を境に前後トントンくらいだと思います。

 というのは、前半(ゼロ歳〜50歳)の場合、最初の15年(中学卒業)くらいまでは、自分で人生コントロールできません。ある程度操縦桿を握らせてもらえるのが高校受験くらいからだとしたら、実質35年くらい(16-50歳)だと思うのですよ。でもって、後半(51歳〜100歳)の場合、最後の15年(85-100歳)は同じようにヘタれるか死ぬかしてるから、実質35年くらい(51-85)だろうと。だから、前半後半トントンくらいじゃないのか?と。

 これって別に自然科学や社会科学的な所見を延べているのではなく、単純にパーティーや宴会の企画のように、全体のコンセプトをどうしたらいいか?という思考実験で書いてます。実稼働期間が70年もあるなら、一つのコンセプトで全部やるってのはあまりにも長すぎる。無理がある。前半後半でコンセプトを分けた方が企画しやすいよねって、そのくらいの意味です。

ゲームが変わる

 前提条件が激変ってくらい違ってきていますので、これまでの発想やシステムが通用しなくなる。

 誰もが指摘することですが、今出回ってる老後モデルは、人生65〜70年時代のモデルが基本になっています。55歳か60歳で定年になって、あと10年で死ぬであれば、それまでの勢いとか「余熱」で乗り切れるでしょう。終身雇用とか言ってられたのも、企業そのものが永遠に右肩上がりでパワーアップするという前提で、且つ皆すぐ死ぬという前提(”終身”が短い)あってのことです。それが右肩上がりどころかポシャる可能性もあるわ、なかなか死なないわでは、全ての前提が崩れている。

 じゃあどうなるの?といえば誰もわからないでしょう。今の経済体制だって、アメリカをはじめ世界中の資産バブルで実際よりも膨張してるからなんとか廻ってるわけで、これだっていつポシャるかわかったものではない。コケ方にもよるけど、下手をすれば今のシステムが根本的に瓦解する可能性もある。今、ベネズエラでインフレ率百万パーセントとか凄いことになってます。百万円貯金してても1円になっちゃう。でも世界史をみると2兆パーセントとかもっと凄いのもある(86-95年のブラジル)、国家経済って一歩間違えたらそうなるんでしょう。昨今話題のトルコリラにしてもしかり。

 また目に見える形で崩壊しなくても、その歪みエネルギーはあるのだから、目に見えない形でいろいろ軋みが生じる。例えば年金制度を崩壊させないために、掛金支払は年間100万円だけど、受給は年間10万円だけとかムチャクチャな話になるとか。カタチが壊れるか、カタチを維持するために実質が崩壊するかだけの違いでしょう。いずれにせよ、前提が変わる以上システムはどこかで破綻するし、その破綻を避けるためにはどっかで全面リセットレベルのオーバーホールは要る。そしてその時点でこれまでの計画は一旦ご破算になるか、大幅に変更せざるをえなくなる。そうなる可能性は高いと思うし、少なくとも無視はできない。

 一般に企業の寿命30年説とかいうけど、そんなもんだと思います。30年以上続けている企業は、常にシビアに戦略の修正をおこなって、場合によっては大転換をしている。花札カルタを作ってた任天堂は、途中行き詰まってラブホテル経営まで手を出して四苦八苦し、ついにTVゲームという突破口を見つけた。フィルム感光素材を売っていた富士フィルムは、デジカメやスマホの流れで破滅を予感し(コダックはコケたけど)、医療や化粧品に活路を見出していった。これが個人起業になってくると、ずっと起業ばっかやってた僕の親父の話によれば「儲かるのはせいぜい3年くらい」で、その間に次の手を打たないと破綻するし、実際見てたらそうですね。

 僕の率直な意見でいえば、「寄らば大樹の陰」というのも怪しいものです。確かに入社から同じ企業で続けておられる方々は多数おられるでしょう。だけど、その企業が存続するためには絶えざる改革やら、試行錯誤やらをやってきたはずですし、個々の社員にもそれは波及したはずです。本業とは全然違う仕事をやらされたり、片道切符の「行って来い」出向でサヨナラになったり、「生産性向上」の美名のもとブラック化が激しくなったり。「同じ会社にいる」という形式的な意味では戦略どおりかもしれないけど、実質的な意味では「こんな筈ではなかった」ということはママあります。それを社外で体験するか、社内で体験するかだけの違いでしょう。「大樹の陰もまた修羅場」であり、どうかすると大樹の陰こそ一番暴風雨が吹き荒れている場合もある。

 シンプルなショートスパン→複雑で予測不可能なロングスパンに変わっていくということは、それに対応するやり方(戦略)もまた変わることを意味します。百メートル走や400くらい全体のスパンが短かったら、最初のスタートダッシュでいい位置をキープしたら、そのまま先行逃げ切りが出来る。だからダッシュ力のあるスプリンタータイプが有利だし、初動でどれだけ有利な位置を占めるかが(いい大学を出るとか)ポイントになる。しかし、スパンが長くなってマラソンのようになってきたら、全体のペース配分とかも考えないといけない。

 それ以上に、長期化することで予測できない不確定要素が増えてくるから、「途中でどんでん返しがある」ということを最初から織り込んで戦略を立てないといけない。つまり単に距離が長くなるというだけではなく質が変わる。不確定要素の増加によって、ただの徒競走が障害物競走になり、ひいては登山や冒険の旅のような感じに変わっていくでしょう。

 だから何度も言うわけです。一手詰的な思考では全然足りないし、一手詰で考えようとしても正解は浮かばない。

 それは百メートル走のような感覚で槍・穂高縦走をやろうとしたり南極探検をやろうとしているようなもんだと。「成功の決め手!」「これで勝ち組」とかいうのも、将棋の7六歩のようなもので、それはそれで確かに成功者が通るルートではあろうが、しかし7六歩を打てば絶対勝てるかといえば、そんなことは全くない。そこから延々と長い旅が始まる。

じゃあどうするの?

 ということは、一手詰とか詰将棋ではなく、本将棋を指すような感じでやれば良いのですよね。

 普通の将棋を最初の一手で詰めろというのは絶対に不可能です。ルール的に無理。逆に言えば一手で詰ませるアイディアが浮かばなくても、そんなことを気に病む必要もない。もしそんなアイディアがあったとしたら(これさえ出来れば人生OK的な)、それは何かをとてつもなくカンチガイしているか、騙されているかです。

 ではどうやって本将棋を指していくのか。
 最初から構想がはっきり見えているなら、それに伴う合理的な手順もわかるでしょう。王様は穴熊でガッチガチの囲んでから、飛車の2筋に攻撃を集中させるとか、中飛車とか振り飛車での展開をはかるとか。それはそれで定石もあるでしょう。

 何が何でも高級官僚になって老後は利権で甘い汁を吸うんだ!というビジョンが見えていれば、とにかく東大法学部絶対であり、さらに学部内でも首席クラス必須、国家試験も首席クラスにいく。ここまでのパッケージで「7六歩」一手分くらいですかねー。そのあとが加速度的にしんどくなって、周囲は全員同じレベルかそれ以上の猛者だらけで、そいつら相手に勝ち抜いていかないといけない。さらに、たまたま自分がキャリア所長とかやってるときに、自分の所管でなんかスキャンダラスな不祥事が起きたら致命的なダメージを受けるから「運の要素」が非常に強くなる。最終局面になると省内派閥やら政局の動きと連動して、詰め腹切らされたり、因果を含められて自殺させられたり、あとちょっとというところで偽証やら偽造をさせられたり、煮え湯を飲んで言うこと聞いたのにあっさり切り捨てられたり。それはそれで一つのゲームとして面白いです。かなりマゾゲーではあるけど。

 でも、そこまで最初から明確なビジョンが見えているわけでもないのが大方のところでしょう。いや見えるかどうか以前に、周囲をキョロキョロして、皆がやってるのと同じような感じで、「こ、こうか?」みたいに真似してやってるだけってのも多いでしょう。そりゃあ無理ないですよ、人生は一回限りで、20歳やるのは20歳の一回だけですからね。常に生まれてはじめてのことやってるわけで、キョドっても不思議ではない。

 で、まあ、一応皆と同じような感じでやってみて、動かしてみて、なんとなく落ち着いてきたところで、だんだん自我が芽生えてきて(笑)、なんのためにコレやってるの?一生これなの?これっきゃないわけ?ハンドルとかブレーキとかどこにあるの?というカスタマイズ願望が芽生える。まあ、大体話はそこからってパターンが多いでしょう。

 でも、それまで進学一択、就活一択みたいに一手詰めばっかやってきたから、長期スパンでフレキシブルな戦略を組み上げることに慣れてない。ましてや先が見えないままとりあえず進んでみて、見えてきた風景をその都度解析して徐々に全体像を理解し、こまめに戦略を修正していくということなんか考えたこともないって感じかもしれない。しかし、知らないなら実際にやって覚えていくしかないですし、大体みんなそうしているし。

 ここで、アナロジーとして将棋が非常に有用だと思うのは、将棋というのは半分は相手の番です。自分が指したら、今度は相手が指す。相手がとんでもない想定外の手を打ってきたら、「むむむ、なんだそれ?」と悩みまくるし、自分の思惑もガラガラと崩れてしまったりする。つまり、この先どうするといっても、将来を決める半分は自分の預かり知らない外部要因によって決まってしまうということです。

 だから臨機応変にパッチワーク的に処理する技術もいるし、多少の居所的改変があっても全体の構成が揺るがないフレキシブル柔構造にしておく必要もある。さらには、突然、雷に打たれたような天啓を受けて、これまでとは全然違った方向に進むこともありうる(ガビーンと一目惚れとか)。

要は将棋が強ければいいんだろ?

 ただし、これは言えると思うのは、要は「将棋が強くなればいい」ということです。そして強くなるというのはどういうことか?といえば、「何手先まで読めるか」という力でしょう。「こーやって、あーやって、こうして、ああする」という先の展開まで読んでいけること、少なくとも読もうとする意思でしょう。

 また、どんだけ頑張っても100%読み切るのはプロ棋士でも無理であり、何がどう立案できたところで、絶対にそれに安心しないというメンタルの強さはいるでしょう。つまり、これをゲットしたら人生あがりだ!とか思って励むのはいいんだけど、心のどこかでは、そもそもゲット出来るの?冷静に考えて成功率どのくらい?もしダメだった場合の第二、第三のプランは?を周到に考えること。次に、成功したところで、それがゴールでは無かったという可能性も多々ある。多々あるどころか、まず大体ゴールはゴールではなく、単に新たな苦難のスタートだったりするわけですけど、もうそういうもんだと思うしかないよね。

 まあ、言ってしまえば「出たとこ勝負」ってことですよね。

 それはもう世界の不確定性から考えて不可避的にそうなる。そうならざるをえない。それはもう現代が「不確実性の時代」であると1978年にジョン・ケネス・ガルブレイスが喝破しているとおりです。ちなみにハイゼンベルグの「不確定性の原理」とは全然違いますよ、あっちは量子力学。これも1928年だから90年前の話で、文系では50年前、理系では100年前に天才が解を出しているのに、それを世界がまだ理解咀嚼できていないというのも凄い話ですね。

 まあ、不確実性の時代とか言うまでもなく、勇気を奮い起こしてコクったところで、それが成就するかどうかは相手サン次第だよ、不確実だよねーってことですぐ分かると思います。(1)自分の人生の半分は他人が決めている、(2)相手がどう思うか自分はわからない、(3)ゆえに自分の人生の半分は予想がつかず、不確実であるという簡単な三段論法ですね。半分が予想不可能なら、出たとこ勝負の要素がふんだんに入ってくるわけです。

 ただ、同じ出たとこ勝負をするにしても、そこに大きな価値観やらグランドデザインがあるのと無いのとでは全然違ってくるだろうし、全体の構造が柔らかだったら、多少の変動は吸収できる。つまりは、高度な技術とメンタルに支えられた出たとこ勝負なのでしょう。あるいはいかに出たとこ勝負を展開させるかの技術こそが必要なのだと。

 というわけで、一手詰的に考えてたら、そこで終わってしまうし途方に暮れてしまうよって話でした。
 もう少し平たい言葉で簡単にいえば、何か一つで全てを満たそうなんて、ゆめゆめ考えてはいけないってことです。

 以上で本論は終わり。以下余談です。

一手詰め思考になるわけ 

 なんでこう一手詰め思考に陥りがちなのか?ですが、考えてみたらいくつか理由はあるように思います。

直近のたまたま幻想

 直近の理由は、先後の高度成長がわりと決まりきったワンパターンであるかように印象が強いことです。いい学校→いい会社→素敵な老後と人生という、まるで南無阿弥陀→極楽浄土のように宗教的ですらあるワンパターン。

 でもね、ホワイトカラーが現場のブルーカラーよりも高給で〜というのも意外と事実に反する。ケースバイケースでしょ。その昔の日本だって、今現在だって、現場の熟練労働者の方が、普通のサラリーマンよりも稼いでたりもするし、誰が一番金を持ってるの?といえば、田舎の農家とか土地持ちだったわけでしょ。人にもよるけど、桁違いに持ってる人は持ってますからね。都会の給与所得者なんか、所得が丸裸にされてるから根こそぎ税金やらなにやらでもっていかれるわ、政治権力とつながってないから(農協とか医師会とか)利害を代弁してくれる勢力もなくてむしられっぱなしだし、一番可哀想な階層だと言えなくもない。

 それにホワイトカラーのデスクワークが求められたのは、高度成長で大量の事務処理が必要とされ、さらにOA機器もコンピューターも進化してなかった時代の話でしょう。メールの「CC」で名残が残ってますが、その昔はコピー機もなかったから、カーボン複写でやってたのよね。いちいち伝票書いて、ハンコ押して、帳簿の記入して、算盤はじいて(やがて電卓になるが)検算してって、今から思えばおっそろしく生産性の低い環境だったからこそ大量のホワイトカラーが必要とされたという事情があるわけですよ。今だったらほとんど全員非正規か入力事務バイトで済むような。大学進学なんてのも、その供給源として求められているに過ぎない。今では神話のように語られる「高度成長」ってそういう時代(労働生産性)の話ですよー。それを一般化するのは無理があります。

 また、実際にそういううまくいったパターンや成功例も過去には沢山ありますよ。だけどね、そんなの本当に一部なのですよ。まずそれなりの大学(Aランク)でないとダメだし、それなりの大企業でないとダメだということで、この時点で同年代100人のうちの数人以下です。そして、数十年にわたって、リストラ、過労死、鬱、不祥事、派閥負け、その他の苦難をサバイブしてきた人だけです。それも始めたのが1980年代よりも前というくらいね。だから、こんなのを見本パターンにするには絶対数も絶対比率も少なすぎる。どうしてこんなレアケースをお手本にするのか?

 ちなみに、この種のミス(レアケースの一般化)を人はよく犯しますよね。「FXで儲けて家を建てた」というレアケースの成功例で、大体の場合は失敗して追証払って終わりじゃん。これがね、アイドルになるとか、ロックスターになるとか、チャンピオンになるとかいうのはいいですよ。それがどれだけリアリティのない夢なのかやってる本人もかなりわかってますし、何よりも、それが好きでやっているという部分が強い。イヤな思いをして満員電車乗って頭下げてって事柄ではないですから。ダメでも納得度が違う。でも、イヤなこと、やりたくないことをするんだったら、せめて成功率は高くあって欲しくないですかね?

 以上、直近の高度成長がたまたまそうであったという一過性の現象を、しかも非常に率が少ないレアな成功事例を過大にクローズアップすることでパターン化・ドグマ化(南無阿弥陀化)しているだけのように思います。そういう発想で言えば、なるほど、そこでは先行逃げ切りオンリーですから、最初にいい大学・いい会社を入るかどうかが勝負の分かれ目になるだろうし、それだけだと。だから一手詰め的な発想になるんじゃないか。

もっと古くからの理由

 これもいくつもあるのですが、まず封建制度や身分制度が長いこと続いて、僕らの深層心理にべったり刻まれているというところはあるでしょう。つまり武士になるか、百姓になるかで一生が決まってしまうと。その昔は、生まれついて決まっていたから努力の余地もなく、一手詰どころか、生まれた瞬間にもう決まっているというゼロ手詰めです。

 その名残というか、この受験で勝てば武士になれて、負ければ下級民になるしかないという発想がまだ残っている。笑っちゃうようなメルヘンなんですけど、もうそんなことないよ。封建制度が封建制度として成立するのは、いくつかの条件があると思います。そのなかでも大事なのは、物資や情報の移動が極端に少なく、人々の人生の可能性が非常に狭かったという条件だと思う。つまりイヤだろうがなんだろうが、それをやる以外に生きていく術がない、客観的にも生存方法がないって場合です。生存の自由度がきわめて低いから否応なくそうせざるをえないし、それに従えばとりあえず生きられるという状況です。

 また封建時代には情報も全然出回っておらず、江戸時代の侍のように、客観的に考えてみたら、社会的にまったく必要のない無産階級であり、やってる仕事も番頭丁稚と同じように帳簿つけたりってことだけだし、意味ないんじゃない?って当然の評論もあるべきです。実際、全然必要のない階級であったからこそ、明治維新で武士階級を全廃しても全然困らなかったわけだしね。でも、そういう意見や情報はまったく出てなかった。それが情報として出回ってしまったら、さすがに百姓町民もムカつくし、実は全国で5000回はあったと言われる反乱(一揆)も、もっと苛烈になって、江戸時代も50年くらいで終わったかもしれないです。

 高度成長の走りの頃だって、まあ似たようなメンタルで日本は廻っていて、「人生が二度あれば」と同じころの名曲「22歳の別れ」も、22歳で女は結婚するのが当たり前だという、どこの国の話じゃい?って世界だったわけですよ、この日本で。25歳で行かず後家呼ばわりされたし、30歳でもうお局老婆扱いですよね。そんな時代の名残がまだ続いていて(ほとんど伝統芸能だよな)、その種の身分的なものの考え方というのがあるわけで、それが一手詰的な思考の背景にあると思います。勝ち組・負け組なんてのも、一種の身分的な発想ですから、その意味でいえば、かなりカビ臭くて古い発想だと思いますよ。

仕事=人生という誤解がまだある

 長くなったので手短に。日本の世間には、自分の人生なりアイデンティティの柱になるのが仕事であるという「誤解」があると思います。いや、実際そういう方も沢山いらっしゃるから一概に誤解というのは違うのでしょうが、全員がそういうわけではないし、また、全員がそうでなければならないものではない。

 最近よく僕が書いているように、「本業」はライフワークのようなもので、そこに精力を傾注すれば足り、あとの生計とかランニングコスト稼ぎのジョブはそれはそれって切り分けるのも一つの生き方でしょう。でね、「本業」といっても、別にそれがビジネスである必要はないと思います。世直しのようなNPO的な活動でもいいし、執念の訴訟活動(公害訴訟とか)でもいいし、趣味のあれこれであってもいい。

 でも、実際のところ一番人々に広くいきわたってる「本業」というのは家族関係だと思います。真剣に恋をして結ばれた方ならおわかりでしょうが、「この人をしあわせにする」というのが自分の人生のメインテーマになったりするでしょう?そして、子供が生まれて目に入れても痛くなくなってきたら、「この子をちゃんと幸せに育てる」というのが一世一代の大事業に思えたりもする。仕事はそのための資金稼ぎに過ぎないという優先順位がちゃんとつく。

 なんでもかんでも「仕事(金銭対価の伴う活動)」と狭く限定する必要は全くないと思います。

洗脳脅迫

 洗脳というか、ビビらせというか、イノシシ狩りとかで、村人が大勢で鉦や太鼓をカンカン叩いてイノシシを罠のある方向に追い込もうとしますよね。「勢子(せこ)」って言ったっけ。あれに近いものがメディアや世間にはありますね。

 学校いかないと人生終わりだ〜、○○やってないとかありえない〜とか、○○してない奴は人非人だ〜的な感じで、政府やらメディア(電通的に)言われて、脅されて、踊らされてってところはあると思います。

 それに封建社会的な風味がいろいろな形で残っている日本社会では、そういった洗脳というか恫喝は結構キくと思います。封建社会が成り立つための条件として「生存条件が過酷である」ことって書きましたけど、封建的なノリが残ってるというのはその意味でもあります。実際の現実以上にこの世が怖いものだと思わされているし、言うとおりにやらないと地獄に落ちるしかないみたいな、そういう脅迫に慣れてしまっていて疑問も持たないって部分もあるでしょう。やたら海外=怖いという刷り込み→だから保険は必須みたいなね。

 オーストラリアで暮らしていると、日本人が「安心」を求める強さ(ほとんど渇望感のような)に、一種の異様さを感じるのですが、でも、最初から世界を黒い地獄に描いているなら、そりゃあ安心や安全がなによりも大事でしょう。周囲の現状認識というか世界観というか、今自分はどういうところにいるか?という認識において、優しい日だまりの公園にいると思うか、血に飢えた殺人鬼がうようよしているダンジョンにいるかと思うかで、求めるものもまた違うでしょう。その点、ちょっとばかり恐く描き過ぎてるんじゃないのか?と思います。それがそもそもの戦略ミスのような気もしますね。状況認識を誤っているという。

 僕の感覚でいえば、実際よりもかなり暗く描いているし、そこまで絶望せんでもいいんじゃない?と思います。と同時に、だからこそすがるように安心を求めるのですが、それってそんなに「安心」でもないよとも思います。あくまで個人的な感覚での話ですけど、絶望しすぎ&安心しすぎ(危機感なさすぎ)って思います。正しいかどうかっていうよりも、感覚的にちょっと違うなーという。僕はそれほど絶望してないから、それほど強く安心を求める気もないし、また手にしている安心らしきものも実はそんなに信じてないです。アテにならないよね〜って。だって世界は不確定だもん。





文責:田村


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