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今週の一枚(2018/07/23)



Essay 885:あらためて思う「国際共通語としての英語」のリアル
 〜ネィティブ絶対主義のゆらぎ
 

 

 写真は、チューリッヒの「チューリッヒホルン」とかいうとこ。フェリーに乗ってテキトーに行ったところなんだけど、観光地ではなく、ローカルの人の憩いの場みたいな感じ。シドニーで言えば、マンリーとモスマンを足したような。

 そこにドーンと置かれていたオブジェ。アート作品らしいのだが、なんかジブリに出てきそうな。この人達ってほんと機械が好きなんだなー、スイス時計も好きが昂じてそうなったのかな?と思わせてくれます。

 ドバイ/スイス旅行で思ったこと(その4)なのですが、単なる旅行記から離陸していくので、タイトルも一般的なものにします。

 今回旅行をして思ったのは、ああ英語やってて良かった、オーストラリアで海外慣れしておいて良かったということです。

 当たり前のことなんだけど、「こうも違うか」というくらい鮮烈に感じたし、ひるがえっていえば「オーストラリアの使い方」がより分かった気がします。そのなかで今週は特に「英語」について思ったことを書きます。

英語のありがたみ

 面白いものですが、オーストラリアのように英語圏で生活してると、日々思うのは「英語ができない」「まだまだじゃあ!」ってことで、比較するものが母国語(日本語)と英語なので、そりゃどうしてもそう思いますよね。

 でも一歩英語圏ではない国にいくと、日・英語のほかに、もっと壊滅的に出来ない言語がメインに登場するので、相対的に英語と日本語の差なんか「微差」になって、「英語が出来ない」なんて思わなくなります。そんなこと考えてる余裕もないというか。「英語が通じる」と、もう「日本語が通じる」ってくらいほっとしますね。

 別の言い方をすれば、英語圏ではなかなか分からなかった「英語の本当のありがたみ」が逆によくわかったということでもあります。

ほぼ通じた、助かった

 ドバイやアブダビなんか100%アラビア語でこられたらどうしようもないです。もう一句半句わからん。書かれたらもっと分からん。でも、もと英国統治だったせいもあり、(ほとんど例外なく)全ての文字に英語表記が並んでるから、まず困ることはなかったです。また、英語で話しかければ(観光エリアに限るのかもしれないが)経験した範囲で言えば100%通じた。ローカル利用率が殆どという地元バスのチケット売り場だろうが、バスターミナルで駄弁ってた運転手さんだろうが、ドバイ空港で現場仕事で働いてる人だろうが、全部通じた。通じなかったという経験はない。どんだけありがたいか。

 
アブダビのスーパーで貰ったレシート。全部英語にしてくれている。

暗号解読

 スイスでは殆どの文字やアナウンスがドイツ語・フランス語・イタリア語で(エリアによってメインが違うみたいだが)で往生こきました。頑張って分かる部分もあるのだが、わからんときは全然わからん。独仏と英語とでは「似ても似つかない」言葉になるときもあって、そうなったらもうダメ。

 ↑これはスイスの山岳列車の車窓から撮ったもの(駅のホームにレストランがあるという)で、このくらいだったら根性いれたら理解できそうです。
 暗号解読みたいだけど、一行目はたぶん「温かいキッシュあります」とかそんなんちゃう?SALATってサラダじゃないの?、シュニッツエルはまんまそうだし、よく見ると「ラビオリ」ってあるし、Tagliratelleってパスタの一種だったし、ボスカイオラもソースの種類だったかな(このあたりはシドニーのイタリア料理屋で多少鍛えられてる)。ディッシュの名前はイタリア語なんだけど、全体にドイツ語なのかな。Guten Appetitって、ドイツ語だよね。Tagesmenuは、tageってグーテンターグ(good day)だから「日」、メニューはメニューだから、「今日のメニュー」「本日のランチ」みたいなもの?


 でもね、スイスでも、話す分にはほぼ英語は通じました。これでかなり助かりました。

 ちなみに、通じたんだけどカツカツって感じのところ、つまり相手の英語がけっこうシドロモドロで、微妙にやばかったのは二回だけです。

 一つは、ジュネーブに着いた晩に、コーヒーが飲みたくなって、割と都心で夜までやってるレストラン(カフェ)に入ったときです。料金を払う段になって、20CHF以上でないとカードは使えないんだってのがなんとなくわかって、店の中で一番英語ができるらしきおじさんがやってきて(あとはパートのおばさんとかで戦力外って感じだった)、じゃあこうしようと。20ドルでカードを使ってもらって、差分は現金を返すからそれでどうだ?ってナイスな案を出してくれたときです。でも、スムースに喋れなくて、「トウェインティ、ユーー、ペイ、ディスマシーン、アンド、ギブバック、マネー、オーケー?」みたいな感じで、「ははあ、なるほど」と通じたという。

 
↓現場写真(笑)。事件はここで起きました。

 もうひとつは、モントルーでランチを食べたレストランです。
 モントルーはですね、なんか「箱根」だなーって思ったですね。箱根=芦ノ湖=富士山が、モントルー=レマン湖=モンブランって感じで、遊覧船とか浮かんでて。

↓箱根な感じのモントルー
 でもって湖畔にいかにも観光客用の店が並んでるんだけど、どうにもなかなか食指がわかず。なんかもっとローカルな人がいくような美味しい店とかないのかなで探して、それらしき店に入りました。観光客御用達ではなくて、地元民ばっかで、なんかフランス語らしきものが飛び交ってました。いいじゃんって思ったんだけど、メシそのものはいまいち。で、ご夫婦らしきオーナーがサーブしてくれたんだけど、それもかなりカタコトでしたねー。まあ通じましたけど。

 
ちょっとローカルっぽくて良いと思ったのだが、ローカルっぽいのは英語が微妙な点だけでした


 でも、その2例以外のスイスは、もう皆さんかなり上手に英語を喋ってくれるので(ネィティブの人もいたと思うが)、楽ちんでした。これで、全部フランス語かドイツ語でやれっていわれたら玉砕でしたねー。

 英語が通じるとなると、すごい気楽になります。困ったら聞けばいいんだ、トラブったら話し合えばいいんだって、要するに「ごく普通に」にやっていけるわけですから。

話し合った例

 そういえば、モントルーの宿に早めにチェックインしようとしたとき、3時までダメだと言われて、それは良いとしても(バッグは預かってもらえたし)、スイスって街によっては観光客用に滞在期間分の無料交通券をくれて、モントルーにもあるんだけど、それをくれなかった。フロントの、ムーミンに出てくるスノークみたいなおっちゃんが「そんな券はない」「なんでもお金はかかるんだよ」とかうそぶきやがって。要は、チェックインの入力するのが面倒だったんじゃないのかな?大人しそうなアジア人カップル(新婚旅行らしき)が多かったし、そう言えば引き下がるだろうって横着な感じ。んでも、こっちはそこまでウブでもないので、ニコニコ笑いながら、「あー、そうなんですかー?おっかしいな。いやね、昨日ジュネーブに泊まったときに、ホテルのフロントで無料券くれて、明日モントルーに行くんだよっていったらモントルーにもあるから使うといいよって教えてくれたんですけどね、聞き間違いですかねー、ははは」とか、言ったら、敵もさるもので、「あー、そのことね」みたいな顔して、ちゃっちゃと入力初めて、無料券出てきました。ほら、あるじゃん、嘘つくんじゃねーよって思ったけど、ニコニコしながら貰ってってことがありました。

 そのときですね、これで英語喋れなかったら「なんかわからないけどダメみたいよ」で終わってただろうなー、やっててよかったと思ったです。

 ↓これが交通券カードの表裏。ちゃんと発行したホテル名と客の個人名も出てくる。

 ↓そのときに渡されたパンフ。結構安くなる。このあとのシヨン城もこれを使って無料で往復したし(てか、検札も全然こないし、なくても乗れたかも、ですけど)。
 ちなみに、その種の交渉慣れというか、こういうのって(ケースバイケースだけど)ニコニコ笑いながら、「あれ、おっかしーなー」くらいに友好的な雰囲気を崩さず、「ちょっとした思い違い」くらいで済ませられる「相手の逃げ道」を作ってあげるのがコツですよね。ガチで敵対するときもあるけど、この程度のことだったら、おんどりゃ〜!みたいにやらない方がスムースにいく場合が多い。でも、これはまた別の話。

バスタブがない

 ほかにも、これはBooking.COM話という別の話題になるのだけど、今回宿を取って、「バスタブがあるから取ったのに、ついてなかった」という例が、ジュネーブでしょ、グリンデンワルドでしょ、チューリッヒでしょって、半分以上がそうでした。日本人の女性はシャワーだけではなくバスタブを重視する傾向があり、カミさんもその例にもれないので、ブッキングするときにかなり念入りに確認したのですよ。でもね、行ってみたら違った!というのが、スイスの5ホテル中3ホテルもあり、全7泊中4泊もそうだったのですよ。

 「話がちがうやないけ!」ってことで、どこのホテルのフロントでもクレームをいって、ジュネーブでは他の部屋に代えてもらいましたが、グリンデンワルドもチューリッヒもダメでした。チューリッヒの場合はかなり好意的に、他の代替の部屋を3つ4つ見せてくれたんですけど、結局これといったのは無かったです。グリンデンワルドでは、全部屋の見取り図まで見せてくれて、バスタブがあるのは4部屋しかなくて(スィートみたいなところだけ)、どうしようもないんだよと恐縮してくれました。

 ブッキングコムで問題だなと思ったのは、予約したあとに、どういう条件の部屋を予約したのが見えなくなっちゃうことです。ちゃんと、「バスタブ or シャワー」なのか「バスタブ」って明記してるか、それはそれは何度もチェックして予約したはずなのに、あとでそれが残らなくなるという。これは問題だなーと思った。また、ホテル側も自分の出した情報が、各国の言語に翻訳されているわけだけど、全言語をチェックはしていないというのが実情。だから日本語で情報見て取るのはやめた方がいいなってのも今回の収穫。てか、そもそもですね良い部屋は大手旅行代理店が先に押さえちゃったりしてるし、ブッキングコムとか、そのあたりの「全業界での立ち位置」みたいなものも、その程度のものかってのもわかります。

 それはともかく、こういった例でフロントであれこれ説明したり、代替案を一緒に考えたりするときも、英語ができなきゃ話にならないってのはあります。


UAEのみなさん

 一回目に書いたけど、ドバイ・アブダビ旅行で一番印象的で収穫だったのは、エチオピアとかキルギスタンとか世界各国から来て働いている人々との会話でした。あとは夜のグランドモスクくらいなもんで、やっぱり人との会話が一番面白かったです。

 でもって、コレ(会話)がなかったらどうか?というと、「ああ、なるほど、そういうことか」と一回目に書いたような理解のきっかけはつかめなかっただろうし、かーなり平板な印象になっていたでしょう。今感じている手応えとか充実感の30%くらいしか得てないかも。

英語の本当の効用〜国際共通語としてのリアルな感覚

 思ったのは、英語圏でない国に行って英語が出来ないのと、英語圏の国で英語が出来ないのとでは違うなーということ。

 このあたりの感覚が、ちょっと不思議に入り組んでいますので、しっかり書きます。

英語=現地語が微妙に引け目になる


 英語圏での英語って、要求水準が可変的というか、ものすごく要求水準が高い(ネイティブ同様)ときもあれば、ものすごく要求水準が低くなるときもあるのですよ。場合によりけり。そして、そして一般論としていえば、そんなに要求水準は高くないかもしれないな。

 なぜなら、英語圏では、英語=現地語なわけです。世界の言語(現地語)なんか、数え方にもよりますけど、数百、どうかしたら数千というオーダーであるとも言います(インドだけでも300言語あるというし、Colesの従業員の母国語だけでも300超える)。

 その全てについて喋れるわけないです。そんな超人的なやつはいないし、求めることすらアホらしい。だから、外国人やビジターに関して言えば、「現地語なんか出来るわけないだろ」ってのが世界市民の共通認識としてうっすらあるような気もします。だから、外国人としては、「コンニチワ!」とかお愛想が言えるくらいで拍手をもらえるという。

 一方、英語ネィティブというのは、ものすごく有利な反面、不利な部分もあります。なんせ、相手に英語を要求するということは、「俺に合わせろ」と自己中で無茶な欲求をしていることでもあるので、その人の知性や徳性が高ければ高いほど、そんな手前勝手なことは言えないなって気にもなる。

 ここでトランプ的に知性の低いやつだったら、世界の中心は俺らなんだから、俺に合わせろって堂々と言えちゃうんだろうけど、それってかなり恥ずかしい発言ですよね。馬鹿丸出しというか、一定レベル以上の人からは確実に軽蔑されるでしょう。同じように、日本に来たら日本語喋れみたいな、現地の唯我独尊主義を唱えるのも、「おまえ、どこの田舎モンだ?」って馬鹿にされるでしょう。

 完全に閉鎖的なローカル社会で、特に外からの来訪客を予定してない場であるなら、現地語オンリーでもいいかもしれない。でも、外からのお客さんを想定している、それどころかその恩恵でメシを食ってるなり、間接的にでも何らかのベネフィットを得ている、あるいは門戸を外に開こうと言うなら、「俺に合わせろ」という傲慢なことは言えないはずだし、人としての礼節にも反する。

 だから何らかの「歩み寄り」はいるだろうし、現地語が出来なくて四苦八苦している人に辛抱強く付き合うとか、こっちも英語でコミュニケートしようとするとかする。でも、英語=現地語だと、こっちも英語を学ぶという歩み寄り方法は無いから、結局、下手な英語でも辛抱して聞く以外にない。これが、英語圏の方が意外と要求水準が低い(場合もある)ということの内実だと思います。

ノンネィティブの世界市民の仁義的な感覚

 ところが、ノンネィティブだったら結構、堂々と英語を要求できちゃうんですよね。「俺だって(英語喋れるように)努力したんだから、お前もやってくれよ」「お互いの母国語でコミュニケートするなんて無理だろ」「だから、せめてお互い歩み寄ろうよ」って大義名分があるのですよ。

 振り返って考えるに、オーストラリアに住んで23年間、英語もっとやったほうがいいよって言われたのはノンネィティブからが多かった。皆こっち来て英語ではさんざん苦労してきますから、「先輩のお言葉」としても素直に頷けたし、よかれと思って言ってくれてるのもわかるし。でも、ネィティブからそう言われたことって、実は殆どないかもしれない。

 僕自身、オーストラリアに来たのは、オーストラリア人に会いに来たというよりも、世界の舞台のようなオーストラリアにやってきた世界中の人々に会いに来たって意識が強かったです。また、ネィティブに対して英語でそんなに引け目や劣等感を抱くことも少なかったと思う。だって、ネィティブが出来るのは当たり前だし、えらくもなんともないですからね。でも第二言語として英語をきれいにしゃべる人は、素直に尊敬できた。ああ、あそこまで歩み寄ってくれてるんだ、こっちも当然の答礼として出来るようにならなきゃって思った。

 だから、なんというか、英語ノンネィティブの世界における英語というのは「世界の仁義」みたいなもので、相手がきちんと仁義切ってるなら、こっちもそれなりに対応しなきゃいけないって意識はあります。

 今回の旅を振り返っても、ドバイ・アブダビの人たちだって、5言語とかそれ以上の言語を習得して働いているわけで、彼らは僕以上に「やることやってる」から素直に尊敬できた。また、「生まれは日本だけど、オーストラリアに住んでるんだよ」とかいうと、「オーストラリアはビザが難しいよね」とか、世界市民的、仲間的なノリになって話が弾んだりして、それも面白かったです。

 スイスの人達も、彼らはスイスの四言語を普通に喋れて、その上でさらに英語まで習得してこちらに付き合ってくれているわけで、その「おもてなし」みたいな、歩み寄ってくれている感じがうれしかったです。単に通じるというだけではなく、手を差し伸べてくれている感、握り返してくれる感じが良かったのですよ。

 でもね、ここで英語が出来ないとなると、(出来ないからその感覚が理解できないかもしれないけど)結構キツイですよ。「まあ、しょうがないよね」って許してはくれるだろうけど、「おいおいしっかりしてくれよ」って感じはあるだろうなー。

 それは、例えば、日本に来た外国人観光客で、自分の母国語、何語でもいいんですけどインドネシアのジャワ語しか出来ないとか、スワヒリ語しか出来ない、英語は全然出来ないで日本に来てる人がいた場合を考えてみたらわかると思います。僕らが日本で道を教えたり、助けたりするときに、英語が全く通じなかったら、お手上げでしょう?「おいおいしっかりしてくれよ」って感じになると思う。せめてカタコトでいいから英語くらい出来るようになってから、村から出てきてくれよって。

 スイスなどでは、列車内とか他の外国人観光客と会話することもあったんですけど、英語できない人なんかおよそいなかったですね。ほぼ例外なく誰でも喋れた。白人であろうが、インド系であろうが、アジア系であろうが。そんな流暢ではないかもしれないけど、意思疎通には不自由しない程度。てか、考えてみると皆かなり上手かったなー。

 そういう感覚でいえば、普通の日本人レベルに英語が出来ないのに海外旅行するって、すごいことだなー、いや心臓強いなー、よくそんな度胸あるなーって思ったりもします。自分が出来なかった頃はあまりわからなかったんだけど、結構凄いことやってんだなって。

 出来るっつっても、そんな高いレベルでなくてもいいですよ。普通にそこそこ会話出来るくらい。だから、あんま目安にはならないけど、TOEICでいえば800くらい?IELTSでいえば5くらい?そのくらいでも世界に出たら幼稚園児レベルだと思うけど、まあ幼稚園児くらい喋れたらなんとかなりますから。

ネィティブどうでもいいし

   よく英語学習で「ネィティブ」絶対主義みたいなのがありますよね。「ネイティブからはこう聞こえる」みたいな。あれはあれで分かるんし、僕もそう思ってたところもあるけど、だんだん感覚が変わってきましたね。

 英語のネィティブっていっても、英米豪その他で全然違うし、英米ではさらにその中ですごい細分化されてるし、結局は「方言」だろ?って気もしてきた。オーストラリアに来たら、オーストラリアのスラングも覚えなくちゃ!とか思ったこともあったけど、シドニーみたいに国際都市になってくると、そんなローカル方言使ってる人も少ない。

 感じで言えば、東京における「標準語」と「東京弁(江戸弁)」くらいの感じで、いまどき「べらんめえ」とか言ってる人も少ないし、普通に標準語が喋れたらそれで事足りる。それ以上に現地ローカルに深く溶け込まなくてもいいし、そもそもそんなこてこてなローカルなんか実在としてあるんか?って気もする。

 で、英語でいえば、第二言語で学んでくる世界市民レベルの英語と、本当のネィティブの英語とではレベルが1ノッチか2ノッチくらい違う。純正ネィティブに世界になると、なんでこんなヘンテコな言い方すんの?という表現がてんこもりである。"You got me"が" I don't know"の意味だなんて、わかんねーよ、ちゃんと言えよって感じね。"a penny for your thought(何考えてるの?)"とか、"hair of dog(迎え酒)”とか、こんなの覚える必要あるんか?って気にもなるよね。普通にストレートに喋って普通にわかればそれでいいじゃないかって。

背景になるパワーシフトと世界の撹拌

 これだけで一章もうけてもいいくらい巨大な話なんだけど、英語がなんで国際共通語になってるのか?といえば、2つあると思います。一つは実質的に英国と米国が世界の経済・軍事の主導権を握っていて、その権力に近づくことが金儲けにせよなんにせよ有利であるという面、もう一つは共通語として第二言語話者の多い言語として英語であるという点。

 でも、だんだん前者の部分が薄れているように思います。パックス・ブリタニカ→パックス・アメリカーナときて、パックス・ジャポニカは残念ながら一瞬にして通り過ぎてしまい、世界の覇権構造は中国、ロシア、インドその他と多極化しつつあります。特にアメリカは、現在も、そしてこれからかなり凋落していくでしょう。このあたりは「国連が米国の貧困に関する衝撃的な事実を暴露」など最新のレポートなどをみても分かるのですが、白人層の貧困化が著しいし、国が国としての機能を失いつつある。まあ、オーバーホールの時期かな〜って気もします。日本もそうだけど。

 一方中国は確かに、IT(特にAI)とニューエネルギーという21世紀の基幹産業のような部分で世界のトップレベルを走ろうとしてていいんだけど、すぐにインドに追い越されるのも見えてるし、その先にも次々に来てます。21世紀の中盤以降はアフリカにシフトしていくだろうなってのも言われてますし、先駆的なヨーロッパなんかも部分的には強いし、もう一色塗りつぶしって時代ではないです。

 そうなると英米が凄いから英語をやるというよりも、単純に「意思疎通に便利だから」という共通語的な利便性が大きくなる。端的にいえば、別にネィティブが「違う」と言おうがなんだろうが、世界市民的に通じたらそれでいいんだって感じね。

世界の撹拌

 また、なんとなくの感覚なんだけど、今の世界はゆっくり「撹拌(かくはん)」してる感じがする。アイスコーヒーに白いフレッシュを入れて、ゆっくりかき回している感じ。南北問題とか国格差とかあるものの、先進国からはビジネスチャンスを求めて途上国に進出するわ、あるいはより人間らしいスローライフを求めて移り住むわ、途上国からはよりよりチャンスを求めて流動的な労働力が増えていくわで、ゆっくり廻っている。

 それと並行して、ちょっと前に書いたように世界の均質化と互換性が高まってきて、そんなマナジリを決するような覚悟をしなくても、結構自分の国と同じような生活環境が他の国にも出来てきた。ネットはあるし、スマホはあるし、ATMもあるし、Airbnb的なシェアリング経済も行き渡ってきてるしって、そんなに段差がなくなってきた。

 今、世界の国際観光客の数は伸びる一方です。日本にもたくさん外国人観光客が増えてきてますが、あれって別に日本が世界から突出して注目されているわけでもなんでもなく、世界レベルでどこもかしこも増えている。むしろ今までが人口比からして異様に少なかったら伸び率が多いように見えているだけで絶対レベルでいえばまだまだ。日本に「すら」これだけ来てるんだから、他はもっと来てると思うべきなのでしょう。

 今回、ドバイ空港とチューリッヒ空港で感じたのは、デカい!なんだこれは?というくらい巨大で、もうゲートまで歩くのに疲弊するくらい。でもって賑わっている。


 上の写真は帰りのドバイ空港で撮ったものですが、これ、朝の6時ですよ。まだ朝も早いのにどえらい混雑で、殷賑を極めるって感じです。「こんなに皆出歩いてるんか?」とちょっとびっくりした。あまりにも発着飛行機が多すぎて、僕らの乗る飛行機がゲートまで入ってこれなくて、しょうがないからバスに乗せられて延々滑走路の端っこまでいって、そこで乗り込みました。キャパオーバーしてる感じもする。でも、なんであんな位置にあるドバイがこんなに混んでるの?といえば、それだけ世界の人々が満遍なくあちらこらちに動いているのでしょう。

 考えてみればシドニー空港も年々キャパオーバーだ、もう限界だとか言われてるのですが、オーストラリアなんかねー「世界の果て」ですよ。世界地理とか世界系の書物でも、「オセアニア」なんか一番最後に出てくるという、世界のオマケみたいなエリアであって、そこにこんだけ来てるってことは、他のもっと地の利のいいところでは遥かに活発に人の移動があるってことなのでしょう。日本だって「極東」ですからね。Far East。「極」ですよ、「Far」ですよ。「こんなところにも人が住んでるんだねー」と感動されるような立ち位置ですよ。そして、僕のように日本からオーストラリアに来たというのは、日本内部でいえば、北海道の利尻島から沖縄の石垣島にやってきたようなもので、これが世界の標準だと思ってはいけないのでしょう。

世界うろうろ産業

 じゃなんでこんなに地球の皆さんは東奔西走してるのですか?ってことなんだけど、グローバリズムとかいうのが、巨大資本の大企業だけではなく、個々人レベルにまで降りてきている、使い勝手の良い環境になりつつあるんじゃないかな。

 そして、そういった人々の往来こそが、21世紀の一つの産業になりつつもあるのでしょう。人がひとり移動すると、それをお世話する人がいて、ビジネスが出来て、雇用もある。旅客業や観光だけではなく、海外進出や移住やステイをお世話するコンサルティングやら、その不動産やら、生活関連やら。モンゴルからアカプルコに行く人が増えれば、アカプルコ在住のモンゴル人がホームステイを手配したり、駐在員のためのオフィス探しやら現地ビジネスのセッティングやらをする産業が芽生える。インドネシア人がアイスランドに進出すれば、アイスランドにインドネシア人のビジネスが芽生えるみたいな感じで、世界中で順列組み合わせで数百数千という規模でなんかあるのでしょう。

 オーストラリアだって、先進国のなかでは比較的経済は良い方だけど(どんどん金利さがってるからヤバくはあるんだけど)、なんでいいの?というと、実は大した産業もないわけですよ。せいぜい鉄鉱石ブームとかあったけど、あれもピークアウトしたし。あとは観光と留学とかでしょう?これも人往来のビジネスですし、僕もそうだわね。でもそれ以上に、単純に移民や留学生がやってくるから、それで経済規模が広がって、それで栄えているという、一種の移民的な人口ボーナスで潤ってる気もします。どんどん人が増えるから、新しい商売も起きるし、単純に客数も増えるしって感じ。

 まだ考えが煮詰まってないのですが、人々や経済の方向性が縦から横になったような感じ。これまでは、やれ洗濯機だ、自家用車だ、クーラーだ、パソコンだ、スマホだってライフスタイルが機材的に縦に積み上がっていくような感じだったけど、それがだんだん横移動、A地点からB地点に行ってみました〜ということ自体が産業の流れになってるような気もするのですな。

 で、これが英語と何のつながりがあるのか?といえば、世界中が「うろうろ」しはじめると、あっちこっちでコミュニケーションがあり、そこで共通語となると英語になるだろう。世界70億人のうちで、純粋に英語ネィティブってのは、いいとこ4億もいかないと言われてます。アメリカだけで3億くらいいるけど、あとはイギリスとアイルランド、オーストラリアとかカナダとか寄せ集めて1億くらい?70億人中4億だから大した比率でもない。もっとも世界中の全員が英語使ってなんかやってるわけではないのだけど、いわゆる英語使ってる「英語人口」(留学生やワーホリさんも含めて)って、いくらいるのかといえば、17億とか30億とか論者によって違うみたいですけど、意外とけっこうな比率でいます。

 いずれにせよ英語喋ってる人のなかでのネィティブの割合なんか、相対的に小さくなる。これからもっともっと小さくなるでしょう。そうなると英語学習においても「第二言語として英語を喋る人に通用するような英語」を目指すべきであり、別にネィティブさんをそんなにありがたがる必要はないんじゃないの?って流れになるような気もします。

 これをもうちょい噛み砕いていえば、英語学習において、アメリカ英語がどうのとか、オーストラリア英語は訛ってるとか、そんなレベルで話をしててもしょうがないってことです。また、第二言語で英語しゃべる人と喋っても勉強にならず、ネィティブと話さないと意味がないってもんでもないだろう。ネィティブの英語はそれはそれとして大事であるし、やる必要はあるんだけど、それだけが本物であとは偽物みたいな、くだらないブランド意識みたいなものは意味がない。なぜなら、ネィティブなんか相対的に役割が減ってくるのだから。そんな時代遅れの発想でやってても実戦的には効率が悪く、より現場で使える英語技術で言えば、いかにインド訛りや中国訛りの英語を聞き取るか、いかに世界の誰でもわかるシンプルな単語と文法で意思疎通するか、じゃないかと思われます。

 ま、だからといって、一定レベル(これが高いのだが)までは、ネィティブも第二言語話者も共通しますから。多くの場合はそんなに今日から大変動があるわけじゃないです。ほとんどなんも変わらんでしょう。ただ上級者においては、ネィティブ独特の「修辞性」というか、ひねくったり、ユニークな言い回しにそんなに汲々とする必要はないかもしれないです。

 僕自身も、ドンピシャなんだけどあんまり知られてない英単語を使うくらいなら、多少大雑把でもシンプルな言葉選びの方がいいかなーという気もしてます。例えば、"perch"って単語があるんですけど、「ちょこんと腰掛ける」って意味で、昔練習用に読んでた小説なんかによく出てきました。正確な定義は”sit on something that is narrow or small, and usually high, especially for a short time”ということで、「狭かったり、小さかったり、通常は高い位置にあるところに、特に短時間だけ座ること」 ってなってます。小鳥が梢にとまったり、妖精が飛んできてソファの縁に腰掛けたりってイメージです。日本語でいえば「(どっかりと)座る」と「(ちょこっと)腰掛ける」の違いというか、結婚するまでのOLさんの就職を「腰掛け」とか言うけど、そんなニュアンス。でも、そんなマイナーな単語を使うくらいなら、'sit”でいいかなって、そんな感じです。

 
文責:田村


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