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今週の一枚(2018/06/04)



Essay 880:50歳という登山口

 

 写真は、羽田〜伊丹間のフライトで見えた夏富士。

 というわけで気がついたら日本にいます。

 日本に着いてから立て続けに宇賀神宅訪問、中野の高橋さんの経済セミナーとオフ、相模の古民家でのお泊り林間学校、そして羽田でのミニオフ(結局9人だったからミニでもないけど)。

 FB/ブログのネタがてんこ盛りなので、それらの写真や感想はおいおい書いていきます。

 今回やってて特徴的だと思ったのが、比較的年齢層が高く、50歳前後の参加者が目立ったことです。といっても、通じて言えば、高橋さんの息子さんの12歳は別格としても、20代のワーホリ留学志望者もいるし、60代もいるしでいい感じでバラけてて、いい感じで誰も気にしてない(年齢なんかただの個性の過ぎないし、人付き合いするにあたって別に大したファクターでもないと)のですが。

 それでも50歳ってことに、ちょっと感じたことがあるので、まずそれを書きます。

50歳、悪くないよ、てかいいよ

 あくまで僕ひとりの経験でしかないけど、50歳、いいですよー。言い切っちゃうけど。

 僕はちょうど今日(4日)が誕生日で58歳になるのだけど、50になってからが楽しくなってきました。40代はなんかしらん、更年期的な体質変化のブレやら、人生スパンと自分の置きどころがなかなかしっくりこないところがあって、どことなく肚が浮いてる感じだったけど、50過ぎたらストンと腑に落ちた感じがします。

 もちろん人によって状態や、年齢数値はバラバラだろうから一般化するつもりはなく、あくまで僕はそうだったと。だけど、自分だけが超絶的に孤立してる事例だとも思えず、多少のゆらぎはありつつも、他者とも通じる部分はあろうかと思います。

 実際に、APLACやってても内容が深化していった、、というか儲からないことに精を出して経営的に外れていった(笑)のも50歳からです。卒業生用の交流掲示板つくったり、A僑という起業を念頭においた概念をぶちあげたり、そして実際にオフとかやり始めたのもそうです。それらが今回につながっているわけですけど。

 そんな意識はしてなかったけど、、やっぱ変わってきてるなと。それまでもお世話した方々とのプライベートな交流はナチュラルにありましたけど、それらはあくまで本業の余暇みたいな感じでした。それがだんだん「それも本業のうち」になっていった。この意識変化の原動力は、単に「その方が面白そうだから」なんだけど、面白いならもっともっと前から全面にバーンと打ち出しても良かったはずです。でもそこまでは思い至らなかった。50過ぎてからどんどん遠慮がなくなるというか、こだわらなくなっていった。一般の「エージェント業」という範疇から、あからさまにはみ出していっても、「それがどうした?」と気にならなくなった。ここから先はもっと好き勝手に遊ぼう、みたいな(無)意識が強くなったきた。

 ではなぜそんな意識変化が起きるのか? よく「50歳過ぎてからが楽しくなるよー」とか人に言ってますけど、その心理の襞(ひだ)や陰影を考えてみたいです。

 いくつか仮説があるんですけど、、、

(1)吹っ切れと価値源泉の所在地

 50にもなりますとですね、もう何をどう頑張っても老けてるわけですよ。そうは見えないとか言われもするけど、やっぱ自分ではわかるし。でね、それが「あーあ」みたいに嘆く気持ちもありーのだけど、でもそんなこと言っててもしょうがないじゃん、老けたもんは老けたんだからしょーがないよねーって、吹っ切れた。

 40代まではねー(数字はそんなに大きな意味をもたないが目安でいえば)、「まだ俺は若いぞ」みたいな、そういう意識で頑張ってる部分があるんですよね。未練というか。でもそれって「若い(人生の最盛期)」は過去にあり、価値の源泉も遠い過去にあり、「そこからまだそんなに離れてないぞ」って意識なのですよ。やっぱ未練がましいよね。

 でも50くらいになってくると、別にそんな過去に価値の源泉を求めなくてもいいんじゃないの?むしろ価値の源泉は未来にあるような気もしてくるのですよ。人生の最盛期は、むしろもっと先にあるんじゃないのか?という気分になってくる。年取ること、老けることにビビらず、嫌がらなくなる。そこらへんを積極的に肯定できるようになる。

老けるんだけど老けてこない

 この先老いさらばえて枯れ木のように死ぬしかないのに、何をそんなにウキウキしてるんじゃ?って思うかもしれない。でも、わかってくるのは、「あれ、思ってたのと違うぞ」という。

 何が違うか?というと、老けるともっとしんどいもんかと思ってたわけですよ。階段ぜいぜいいいながら登って、新しいものを理解する気力も根気もなくなり、椅子から立ち上がるのも「よっこらしょ」と掛け声あげて、、って、そうなるもんだと思ってた。ところがぎっちょん、ならないじゃん、全然。これは僕だけなのかもしれないけど、なにかができなくて、「ああ、もうトシだ」と思ったことは一度もないです。誇張して言ってるじゃなくて、冷静に考えてもない。体力的に衰えたという実感がない。あったとしてもそれは「運動不足」「鍛錬不足」だからであって、ちゃんとやったらすぐに回復する。まあ唯一あるのは、目が見えにくくなってることですが、これはもともと目が異様に悪いので仕方ないにゃーと思ってるし、あんまトシに結びつけて考えてない。

 新しいものを嫌がって保守的に、、、ならない。新刊本を待ち望むように、世界の動きの先の先を知りたい。それどころか世間の動きのスローモーさが、もう苛立たしくて腹立たしくてジリジリしてます。そんな与えてもらうよりも、自分からも積極的に作っていきたいとも思う。まだこの世に存在しないものを作りたい。小さくてもちっぽけでも構わないし、対象はなんでもいいけど、未だ存在しなかったものを作りたい。絶対できるはずという確信めいたものはあるし、それを考えたり、実行したりするのが一番エキサイティングで面白い。老人にありがちな、既存の権威によりかかろうって意識は全く起きてこないし。

 だからねー、どう考えてもハタチの頃とそんなに違うとは思わないのですよ。ティーンの頃に聞いてたゴリゴリのハードロックも、今でも普通にいいなと思うし、いろいろ領域はひろがったけど、結局このゴッリゴリなのが好きなんだなとは思う。「ああいううるさいのは、もうねー」みたいには、ついぞならない。音楽にスリリングな「殺気」を求め、そのひりひりするような感覚が好き。ヒーリングとか癒やしのとか聞いてると退屈で寝てしまう。

 老けたのは事実なんだけど、老けるってのはこんなもんか?ってのもわかってきた。そうなってくると、老けようが、トシくおうが、別にどうでもええわって気にもなってくる。もともと40代の頃に長いこと1歳勘違いして多く勘定してた時期があったくらいで(次の誕生日がきてあれ?と気づいた)、歳はそんなに気にしない方なんだけど、実質的な意味でもあんま気にするほどのこともないなってのがわかった。老けたのは事実なんだけど、その「事実」が「なんだこの程度か?」という。

世間から自由になれる

 若いときは世間が雲みたいに頭上にあるわけです。反発、反抗するにせよ、上に対してやるような感じがある。でも、だんだん自分が歳をとってくると、山登りをしているように雲海がだんだん下がってくる。50歳過ぎてくると、もう世間は自分の足より下にあって、見下ろすように感じられる。

 そうなると世間を恐れる気分がなくなる。それまでの世間が「争えない威厳のある大人」って仰ぎ見るような感じだったのが、身長130センチくらいの小学生のガキンチョみたいに見えてくる。そうなると「ガキのゴキゲンとってどうするよ?」みたいな感じにもなる。

 本当に畏敬すべき存在、謙虚に努力して理解すべきは、一人ひとりの個人であって、その集合体である「世間」ではないのもわかるようになる。と同時に、世間なんか幻想、あんなもん無いよ、雲と同じで遠くから見るとあるけど、近くに寄ると無くなってしまうんだと。もともと若い頃からそういう傲慢なタチだったけど、実社会で経験積んでくるほどに「ほらね、やっぱ”世間”なんかねーよ」って思えてくる。

 そのご褒美が自由です。世間を気にしなくなる(反発すらしなくなる)のは、非常に楽チンであり、なんでも自由にできるようになる。あこれこ気を使い、ヘコヘコ右顧左眄することもないから、精神エネルギーの効率がよくなる。気疲れストレスがない分、やりたいことに精力を注げるから物事の進展も早い。まあ、もともとオーストラリアには「世間」なんかあってなきがごとし、「世間=人類の集合知と経験倫理則」くらいの環境に20年以上いたし、さらにその中でも外国人的存在、治外法権的な存在でもあったので尚更です。もう同調圧力なんかゼロに近い。

快楽が増強する 

 同じ漫画や音楽を聞いても理解や感動の度合いが桁違いに深くなってるから、若いときよりも楽しく感じる。これは全てにわたってそうで、中高時代に修学旅行で退屈だった社寺仏閣も、歴史を知り、美的センスが深まり、さらに海外に長いこと居て日本的な美について敏感になってることもあって、感動の度合いが全然違う、

 オフとか旅行とかの企画をするにしても、「○はこうするもの」という世間的なフォーマットに縛られないから、素直に自由に楽しいなって思う方向に企画できる。その種の楽しいってセンスが磨かれる。またそれらを実行実現するための社会的なノウハウも強くなってるから、昔に比べたらかなり融通無碍にやれる。交渉も上手になるし、歳とるとなんとなく押し出しがよくなるので向こうが引いてくれるとかいう特典もある。

 どんなものからでも楽しいエッセンスを引き出すのが日々上手になっていくから、世の中楽しいことだらけになる。Walkingにしたって、散歩にしたって、40代までは退屈でかったるくて、誰がやるかって感じだったけど、50過ぎたらできるようになったのは、町や自然の風景を解析できるだけの知識や洞察力がついたからだし、なんの変哲もないようなものに「美」や「妙味」を感じるようになるからです。飽きない。楽しい。

 この快楽発見力みたいのが強化されると、この先身体が本格的にガタがきても、それなりに楽しみは得られるんじゃないかという自信もついてくる。足腰弱まるんだったら、ゆっくり歩けばいいだけのこと。音楽や書物を鑑賞するだけだったら体力だってそんなに要らない。あのホーキング博士だって、あれだけの難病を抱えながらあれだけの業績を成し遂げているわけで、肉体の変化(劣化)と知的愉悦とは別にパラレルでもない。

もういいでしょ?リタイア感覚 

 若いときはなんか「立派な人」にならなきゃいけないって感覚があった。押し付けられもするし、自分でもそう思ったりもする。

 しかし、その内容たるや、「世間様にお出ししても恥ずかしくない」という、考えてみたら、やたら卑屈な、やたら曖昧な基準でしかない。さらにその具体的な中身になると、有名なガッコや会社で、「ほお、すごいですね」と他人から言われるような仕事をちゃんとしてるとか、結婚して身を固めて、子育てもやってとか、そういう社会「必修科目」の単位を取るのが「立派な」の内実だったりする。

 ま、それはそれでそれなりの合理性も価値もあるんかしらんけど、50にもなってくると、今までさんざんそれやってきたから(僕はそんなにやってない気もするが)、もういいだろ、もう十分やっただろ、義理は果たしただろ?お役御免でいいでしょ?って感じもなるんですよ。今生のノルマは終わったし、あとは自由にさせてくれよなって。「人生の放課後」といいますか。

 仕事をしてるか退職するかがリタイアの基準なのではなくて、そういう気分になるのがリタイアなんかもしれない。社会だか世間だか一般通念だか、目に見えないなにかに対して、義理は果たしたぞ、もういいだろ?お先に失礼しまーすって解脱気分。その意味でいえば、僕なんか34歳でオーストラリアに来たときに、最初のリタイアをやってるのかもしれませんし、50前後もまたその一つの節目的な意味があったような気がします。

 それにのんびりマイペースの放課後だったら、金かけて見栄張る必要もない。仮に生活が質素になろうが、別にそれを惨めだと思う必然性もない。なんせそれを恥じるべき世間なんか存在しないのがわかっているし、恥=見栄=虚栄=虚構の栄誉だというのも本当にわかってくる。

 余命が短くなることへの恐怖もあるかしらんが、もともとがボーナスのような放課後であるし、時間割があるわけでもない。原っぱで野球やってて、日が落ちてボールが見えなくなったら終わりという自然の終末タイム感でいいやって。また、やることはやったという意識があるほど、その終端はそれほど怖いとも思わないんじゃないかな。宴会がおひらきになるように、「お、もうそんな時間か」くらいの感じ。

 ここで前半部のように「これはやるべし」と塗り絵みたいな、ジグソーパズルのようなことをやってるなら、時間の連続性や蓄積が意味を持つけど、気楽な放課後は、その瞬間瞬間の鮮やかさがすべてであって、時間はそれほど大きな意味を持たない。ここは哲学的なのでわかりにくいかもしれないけど、えーと、漫画で名作かどうかってのは、巻数が多い大長編ほど名作だという関係がないのと同じ。ページ数とか巻数とかに関係なく、面白いか面白くないか、それがすべてで、それで十分。だから死ぬまでの期間が長かろうが短かろうが、あんま関係ないのかもねーって気分もうっすらしてくるのですよ。

 以上つらつら書きましたけど、かくあるべしという抑圧力が薄まって、歳相応の知識と経験と技術を蓄積することで、快楽に敏感になり、楽しいことを実行するノウハウ力が高まり、なんとなく義理を果たした放課後的な開放感があるわけで、そうなると、否が応でも「本格的に楽しむのはこれからだぜ」って気分にもなろうというもの。

 かくして、未練がましく過去の「若い栄光」をすがるような、価値源泉が過去にあって、過去からまだ遠ざかってないと言い張ることで自分のつっかえ棒にしていたかのような形から、本当に楽しいのはこれからだって価値源泉が未来にあるように思えてくるのですよ。

 だから50(くらい)を過ぎたら、ほんとに楽しくなるよーって。

社会的意義

ハッピーになる公的義務

 僕がこっち来たとき、ハッピーになるのが義務、というか自分が出来る社会貢献なのだと力んでた時期がありました。大昔のエッセイでも書いたことあるけど。日本で頑張って弁護士やってたのに、ある日突然全部投げ出してぽーんと外国に行っちゃって、そんな人生破壊みたいなことやっていいの?という問いかけに対し、「やっていいのだ」「めちゃ楽しい」と言いたかった。

 さらに、それをやった上で幸せに暮らしましたという事実、ハッピーぽく見せかけるのではなく真実そうなるのは、意味があるだろう。少しでも自分らしく生きていきたいって人に対して、なにかしらエンカレッジ(勇気づける)ことになろうし、背中を押すことにもなるだろう。それは百万言費やして論じるよりも、そういう「事実」が一つ転がっているという事の方が、はるかに雄弁に物語るだろう。

 いろんな生き方があっていいんじゃない?それは理論や理想で言ってるんじゃなくて、事実の問題としてそうだよ、というのは、APLACの本質「多元生活」でもあります。

 それと同じく、世の50歳前後、そしてアフター50歳の人は、同じようにハッピーになる義務があると思うのですね。若い世代から見て、「ああ、いいなあ、うらやましいなあ、ああなりたいなあ」って思ってもらえるような、歳をとることに怯えず、勇気づけられるような。単に年金逃げ切り世代の悠々自適だったら、「け」という反発と怨嗟を与えるだけかもしれないけど、そうではなく、心底楽しそうだなあ、別に金なんかそんなになくてもいいんだよなーって思わせるような、ユニークで楽しげな。

 オーストラリアではおじーちゃん、おばーちゃんがやたら幸せそうです。おばーちゃんは、お化粧は70過ぎてからが本番よって言わんばかりの気合入りまくり、ファンションユニークすぎの人もいるし、おじーちゃんは、子供がそのまま大きくなったかのような、いたずら盛りで茶目っ気満載だったりする。あれみてると、年取るのも悪いことではないなーって思うし、怖くもなくなる。

 だって、会社でも電車でもどこでも、その世代の人らが疲れ切って、ヘタレまくってたら、年を取ればとるほど地獄になっていくんだって暗い気分になるわね。またそんな恐怖心があるほどに、過去の若さにしがみつくようなことになって、なかなか価値観転換ができない。

 50歳という年齢数字は、手頃なんですよねー。これが70歳でハッピーになってたとしても、ちょっと先過ぎてしまって若い人にはあんまピンとこない。でも、50くらいだとまだ手に届く範囲であり、そこがハッピーだと、「あそこまでいけば楽になれる」という希望のブイ(浮標)みたいなもので、気分はかなり違うと思うのですよ。

質の差〜お金との付き合い方

 日本には、中高年には2つのモデルがあり、いわゆる高齢者=富裕層のモデル、もうひとつは貧困老人、老後格差、孤独死というモデル。要は金持ってるかもってないかで、天国にいけるか、地獄におちるかという、地獄の沙汰も金次第的な世界観。

 なに、その出来の悪い二元論は?って思うわ。

 中野のセミナーで高橋さんも言ってたけど、そして僕も過去に書いたけど「お金がないと不幸になっちゃう病」というのがあって、これが猛威を奮っている。なんでそうなるのか?といえば、思うに戦後の経済成長の負の遺産でしょう。電通メソッドのように「不安にさせろ」「ビビらせろ」「流行遅れにさせろ」「無駄遣いさせろ」「他人と比較させろ」という。なぜそういう洗脳電波を送りまくるかといえば、その方が「経済」が発達するからです。これを買わないと恥ずかしいとビビらせたら、みんな欲しくもないものを買うしね。

 ここで妙に大人の達観をされたら困るわけですよ。新機能、○○搭載!と言われて、おお素晴らしい!って思ってもらえなかったら、商品開発すべりますから。冷静に考えられて、「いるの?そんな機能?」「あ、俺、パスね」とかやられたら売れない。「皆さんそうしてますよ」と言われて、げげ!とビビるのではなく、「ふーん、そう?でも、ま、人は人だしねー」とクールに構えられたら売れない。

 まあ子供や若造の頃は、自分に自信も経験もないし、他人にとやかく言われただけで「え、そうなの?」とたやすく動揺するかしらんけど、50歳にもなって「え?」とかビビってたら阿呆でしょう。それまで何を学んできたのか?という。映画のファイトクラブで、ブラッド・ピット扮するテイラーダルトンが地下室で演説かますように、「いつの日か映画スターやロックスターになれるんだって吹き込まれて、そう思わされてきた」「だけどそうはならなかった」「We are buying a lots of SHIT which we don't need=必要ともしないクソみたいな商品を山程買わされてきた」、そして、We are really, really pissed off 今、俺たちはめっちゃくちゃムカついてんだよ!って。

 そんな無駄遣いと恐喝めいたことで成り立ってる経済なんかコケていいです。壮大なペテンじゃん。50過ぎて楽しくなってきたのは、そこらへんの呪縛から逃れられてきたからです。お金がなくてもハッピーになれる方法をいくつも学んできたし、その種の経済やマーケティングのメカニズムも学んできたし、目的地の設定を他人にやらせる愚かさも知っている。羞恥心の有り様を他人に指示されて、それに唯々諾々と従うほど人としての矜持は低くないし、酸いも甘いも噛み分けた一人の大人として、そんな「子供だまし」に乗ることはない。

 だもんで、老後に金がないとミジメだというドグマも、フカシこいてんじゃねーよって思える。で、大事なのは50代以降がそれを「実証」することだと思うし、よくみたら結構みなさん実証されている。やれ老後に金がないとこんなにミジメだとか、孤独死は人生の敗北であるかのように宣伝されてますけどね、本当かよ?って。

 孤独死についていえば、僕個人の趣味でいえば孤独死こそしたいですよ。象の墓場のように、誰もしらないところにいって終わりたいわ。人生映画のフィナーレのエンドロールが流れるなか、登場人物がずらずら出てくるときを、至福の満足感とともに一人で静かに味わいたいよ。うーとかあーとかいって死ぬところをずらりと取り囲まれて見られるのって、恥ずかしいじゃん。なんか用便しているところを周囲から見られているような恥ずかしさがあるぞ。看取られて死ぬことって、俺の趣味にあわん。

 日本に帰ってきて、ちらと見ただけど、でも素直に見てると、お年寄りって結構楽しそうだぞ。いい笑顔で笑ってたりするぞ。女子中学生がそのまま老けたような髪型とファッションで、でも気のあった友達と電車乗って買い物行ってって感じで、その楽しさは若い時とあんま変わらん。そして、その楽しさは、金あっての楽しさとはちょっと違う。

 じゃあ何をベースにした楽しさかといえば、それは人それぞれだろうけど、敢えて言うなら、自分の人生をやりきったという自信であり、達成感だと思う。それは確かにきらびやかなものではないかもしれない。他人に見せるとき「つまらないものですが」って言わなきゃいけないような内容かもしれない。それでも自分はやったんだって、何かと比較して何点とかいう通信簿的なものではなく、ひとつ一つ、人生のすべてのステップを全部自分でやりとげたという、身体に残っている満足げな疲労感、筋肉や時間の記憶、それらの集積が、老後を楽しくさせるのだと、僕は思いますね。自分でもそうだから。

 ただ、そうなるのには、それ相応の修行が必要ですよね。
 まず本気で金なかったときに、それでもうまく切り回すための世間知や実力は必要で、それはこれまでの半生で学んでくるしかない。また、周囲に振り回されないだけの自分の価値哲学を作るためには、それなりの道程を経てこなければならない。たくさん失敗して、たくさんいい思いをして、「ああ、なるほど、そういうことか」という気づきを沢山得てこなくてはならない。

 身体もあちこちガタがきたり、稼ぐ力も衰えて、それでも内面は充実の一途をたどるという、それが50以降の、「人生の上級生」たるものの課題だと思います。上級生だから難易度高いんだよね。だからこそやりがいがあるんだけど。

 人生の後半になると、どんどん下り坂的なビジュアルイメージがあるけど、あれは違うぞ。どんどん上り坂になるんだと思う。一人の人間としてどこまで完成度をあげていけるか。前にも書いたけど、ハッピーになるための前提条件をどんどん減らしていけること。別に他人にチヤホヤされんでもいいわって、別に金がなくてもええわ、別に健康でなくてもなくてもいいわ、そして最期には、ハッピーになるためには、別に生きてなくてもええわってレベルの寸前までもっていけて、次の扉が開いて、はい合格、通ってよし!になって「2面」が始まるとか。ま、最期はどうかわからんけど、そんな感じ。人生の最盛期は死ぬときじゃと。遙かなる高き頂きを目指して、shitはshitだと見極めること、それこそが「分別」というやつであり、そうやって本質的ではないものを削ぎ落として、純化させていく。

 その登山口が50歳だと思ったりもするわけです。
 だから、今回の集まりで50歳前後の方々の参加があったのは、ちょっとうれしかったなー。この世代がハッピーに、ワガママになることは、日本に光を差し込むことにもなると思うしね。

 でもって後輩連中に、「いいか、てめえら」って先輩面してセッキョーするなら、思いっきり行け!です。やりたいことやれ、遠慮すんなです。なぜなら、そうやって「やるだけのことはやったぞ」っていう意識、満足感こそが、老後の上級編の基盤になるからです。ここが足りてないと、やっぱ年食ってもビビると思う。で、いい年こいて、つまんねーペテンにひっかかるぞ。そうならないためのの「老後の資産」は、今を燃焼することでしょ。

 APLACの集まりは「海外」というキーワードが基軸になるんだけど、でも、別に距離的に海外であることに意味があるんじゃなくて、今の日本で海外に自発的に行くということが、「やりたいことをやった」という象徴的行為なんだと思うのです。実際、数十年前の海外滞在経験がその後の人生のバックボーンになっていたりして、もう原発の燃料棒みたいに長期間にエネルギーを発し続けるわけです。そんなに海外(というかどっかの国)がいいのか?といえば、それもあるけど、より本質的には、一世一代のワガママを貫いた、うひょーという現地での日々を通じて、激しく生きたって意識があるからだと思いますよ。

 ね、ほら、すごい資産になるでしょう?
 簡単じゃん。燃焼しろとは言ったけど、「成功」しろとは言ってないぞ。あれこれトライしたけど、全部だめでミジメな気持ちになったとしても、それでいいのだ。燃焼はするんだし。時を隔てれば、その方がいい資産にもなる。「くくく、よくやったよなあ、俺も」「いやあ、あんときは死ぬかと思っったなあ」って、誇らしげな気持ちになれるよ。そしてそれが自信になる。失敗しても自信はつくんだわねー。ただ成功したときに比べて、そう感じられるまでにタイムラグがあるだけ(自分がそれだけ成熟しないとそう評価できない)で、でも老後なんかタイムラグの固まりなんだから、それでいいのだ。長い年月かけて熟成するんだから。





文責:田村


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