★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
879 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次
このエントリーをはてなブックマークに追加

今週の一枚(2018/05/28)



Essay 879:「生き方さがし」〜欠落から活用へ

 〜6月セミナーの基調講演みたいな

 写真は、先週金曜日(25日)から始まったVivid Sydneyの展示から。これ、折り紙のツルみたいな(正確には違うが)カタチしてて。

 いよいよ今週末に迫った6月ツアー。「あら、そうなの?」って自分でもあんま実感ないんですけど、あわわ、準備しなきゃ。

 今回は、今までのように単に「集まる」というのに加えて、各回にテーマ性を設けています。2日の中野は高橋さんをお招きして(てか、位置的にいえばこっちが招かれるのかな)、ご専門の経済についての話を少々。9−10は塾経営の渡辺氏の主催もあって教育関係、京都では実際に存在している空き家(その意味では9-10の稲垣亭もそうだが)で空き家問題など。

 もちろんAPLaC=オーストラリアって要素はあります。どんなテーマであれ、そこは自然とにじみ出てくるでしょう。将来渡豪を考えておられる方、テーマがなんであれ、どんどんその種の話(オーストラリアでは〜はどうなってますか?的な)を振っていただいて結構です。テーマにそんなに縛られるつもりもないです。テーマはラーメンの小袋のような「切り口」に過ぎず、その心は、もっと掘り下げた話、もっと(それが荒涼としたものであっても)未来志向の話をしようぜってことです。

 個々のテーマは、一見すると無関係に思われるかも知れないけど、僕からみたら、どれもつながってます。どのくらい上まで遡って、どんだけ大きな包括概念で括ればつながるか?といえば、直近未来30年くらいの時代認識と生き方という意味でつながる。

 今、世界各地でいろいろな現象が起きてますけど、あれはなんでそうなってるのか?というと、「そういう時代だから」であり、人類の生き方のスタイルというものが、ものすごい根本的なところで変わろうとしているんじゃないの?という気が僕にはするのです。だけど、それにこれまでの体制がついていかないから、矛盾は日に日に激しくなっていって、だから悩むと。

総論 窮乏を前提としてシステムからの離脱

すぐ死ぬ+食えない

 石器時代や縄文時代あたりから長いスパンで考えると、人類はその殆どの時代、食うや食わずで頑張っていたのだと思います。その昔は平均寿命なんか20とか25歳くらいで、すぐ死んじゃう。すぐ死ぬから小学生高学年くらいでもう結婚して子供を産まないと間に合わない。そのくらい栄養状態も悪かったし、生存環境も過酷であった。かなり生産力があがった江戸時代ですら飢饉ですぐに死んでた。「餓鬼」って言葉が現在まで生き残っている意味は深いと思いますよ。中学くらいでもう元服、子供を生んでたりした。その名残で、民法上の女性の婚姻年齢は16歳です(今、18歳にして成人に合わせようという動きがあるらしいですな)。現行法制にまだ名残があるくらい、「早く産まないと間に合わない」感覚は強かったわけでしょう。てか、もともと自然の摂理からすればミドルティーン出産というのが適齢期なのでしょう。なんせ初潮=READYなのだから。

 そういう「所与の前提」あってこその人類の歴史であり、社会システムや規範だったのでしょう。終戦時においてすら平均寿命は50歳でしたもんね。「食えない」「すぐ死ぬ」というのは人類社会を設計する場合の揺るがせない前提条件です。野球は9回で3アウトでチェンジとか、サッカーは足だけで蹴って90分とかいうのと同じようなもの。

 なかなか食えないから、奪ってでも飢えをしのごうとするから紛争が起き、戦乱が起きる。また生産力を維持し、収奪するための強力な暴力システムとして豪族→荘園→地頭・大名→国家という形で残っていった。「生産地」と「農奴」をたくさん持ってるやつが飢えないし、豊かで強力だからです。それもこれも「飢え」というのがけっこう差し迫った問題としてあったのでしょう。今の僕らにはピンとこないけど。それが19世紀頃から食糧からエネルギーに転化した。たくさんエネルギー(石油資源)を持ってる→人力よりも効率の良い生産設備や兵器を稼働できる→富国強兵ってわけで、第一次、二次大戦は石油争奪戦。さらに資源エネルギーはより抽象化してマネーや資本になっていき経済戦争になっていくのだけど、だんだん金融資本が国家を追い抜かして勝手にやりだし、国家はその後始末というか、存在感をなくしていく。

 一方で「すぐ死ぬ」から老後問題も大したことがなかった。せいぜい姥捨て山くらいで、だいたいは稼働期間をすぎると、ちょこっと隠居めいたことをやって、すぐに死んでた。大家族とか村落共同体が多かったし(江戸時代の長屋も共同体という意味では似たようなもん)、国家が福祉とかやらんでも民間レベルでなんとでもなっていた。

 そういった千年スパンの歴史的経過のなかで、一瞬のアダ花のように日本の戦後の高度経済成長があったんですけど、長い日本史をみても、あれはかなり特殊な一過性の出来事だと思います。比較的原始的な形での資本主義成長であり、それは「たまたま」の条件が何重にも重なっただけで、もう一回あれをやれというのは前提条件的に無理でしょう。あれはいかなる意味でもスタンダードにはならないと思いますよ。人類史レベルでいえば、どこの国でもV字回復する過程では一瞬そうなる時期があるというくらいだし、そもそも「事務職サラリーマン」みたいな生産効率の低い労働力を大量に必要としたのは、コンピューターが本格的に実用化する前だからこその話でしょ。

 さて、前提が変わって、すぐ死ぬ→なかなか死なないになり、飢え→そんな苦労しなくても食い物はあるって感じに変わっていったらどうか?野球が9回ではなく30回くらいまでやるとか、サッカーで手をつかっても良くなるとか、そうなると話も違ってくるし、システムも組み直さないとならんでしょう。

豊かになった

 とりわけピックアップしたいのは「豊かになった」ことだと思います。経済成長期やバブルを引き合いにだして貧困化したとか思いがちだけど、総体的な生産力そのものは上がってるでしょう。ここでいう生産力というのは、農業とか食べ物系の意味で。

 細かな統計数値や農業のロボット化、バイオの最先端とかやりだしたらキリないですけど、簡単な例証をします。今世界の新興国はこぞって工業化(さらにサービス産業化、IT化)を進めてますが、なぜそうなのか?です。当たり前過ぎてピンとこないかもしれないけど、もし本当に世界的に食糧が枯渇して、飢えが支配してたら、食糧作ったほうが一番儲かるじゃん。ITやってるよりも米や小麦作ってるほうが何倍も儲かるんだったらやるでしょ。それがそうなってないのは、あんま儲からないからでしょう?

 食料自給率の高いオーストラリア(統計によりマチマチだが198%(出典)とか223%(出典)ですら、自国民の労働者だけでは産業が成り立たない。そのくらい人気がない。やむなくワーホリという外国人労働者を「二回目が取れるよ」と甘い餌で誘って集めて廻しているのが実情でしょ。なんでそうなの?です。

 役に立つのかわからんが、卑近な例でいえば、僕が学生の頃のバイトの時給は500円いかなかったです。でも牛丼4-500円しました。ほぼ時給かそれ以上。今、時給の半額くらいで食べられるでしょ?カロリー補給そのものは、昔に比べれば確実に楽になってると言えます。

 それに今のほうがいいもの食べてますよー。そりゃ生産地偽装や放射能なんたらとか、食の安全って問題はあるけど、その昔は「安全」もクソもそういう概念すらなく、公害まみれ、添加物まみれ、農薬まみれのメシ食ってたもん。標準価格米ってのがあって、学生時代、自炊の鬼の僕だった僕は買ってましたが、今でも覚えているけど10キロで3480円でした。コシヒカリでもなんでもないノーブランドのスタンダード米。それでも結構高かったのですよ。

 オーストラリアだって、食い物は安いですよ。そりゃお店でランチ食べたら今平均で13-15ドルとかけっこうしますけど、自炊したら安い安い。パン一斤(日本の2倍くらい量がある)でも安いのであれば100円切る値段だし、ミルクも2リットルで180円くらい。お店が高いのは、一つは不動産価格(テナント家賃)、もう一つは人件費(賃金)が高いからです。食い物それ自体は安い。

 さて、「飢え」がキーワードだった人類の歴史において、ここまで状況が変化したなら、話は違うじゃないかってことです。

 そして、「食えるんだったら別にそれでいいじゃん」って発想があります。そして、それはだんだん広まってるような気がするぞ。

 人類は基本的に豊かになってるし、確実によい方向に向かってると思いますよ。過去にも何度も話したように、「楽」をしたいから科学技術を開発した、100人が写経みたいに写してるよりもコピー一台あればいいし、今ではパチっと写メってクラウドにあげておいて、好きな人がダウンロードすればいい。何をするにも超絶的に楽チンになってます。もともと楽をするために創意工夫をしてきた人類です。テコの原理の発見から、ピラミッドの石はこびに丸太をコロに使うと楽だとか、動物に引っ張って貰おうとか。それが進んで、ロボット化し、オートメ化し、IT化、さらにAI化が進み、いよいよ人類の悲願である「遊んでいても食える時代」に近づいている。

 ただし!生産力向上の過程でいらん中間搾取団体が入ってきた。豪族や朝廷、国家のような暴力収奪組織が入った。さらに産業革命と資本主義勃興時期に資本家や企業というのがまた入った。そのため、頑張って工夫→皆らくらくライフってルートが、工夫→国家・資本家だけが肥えるる→重税と労働者搾取で悲惨って形になってしまっているから、本来喜ぶべき事態になっても、それが失業問題やら、生活不安や、貧困問題になってしまう。なんという滑稽さ。

 だもんで本来今から将来に求められる政治、国家、経済は、皆が遊んで暮らすためにはどうしたらいいか?論で組みたてるべきであって、「経済発展」とかいう過去の遺物は捨てたらいいんですよねー。てか皆が働かないで食っていけることこそ、経済の究極理念でしょうが。

 でも一足飛びにそうなるわけではない。なんといってもこれまでのシステムがひっくり返るわけですからね。過去のシステムは、それがオブソリート(時代遅れ)になってゆくがゆえに、日に日に維持が厳しくなっていく。それはそのシステム内にいる人々にとっては、日々生存環境がハードになっていくことを意味する。悲観的にもなる。また、日に日にパイが減ってくるから、壮絶な奪い合いが激化し、持てるものはより一層しがみつき、より激しく強奪しようとする。絶頂期の日本企業のトップの収入よりも、今の方がどうかすると10倍くらいもらっているとか。あるいは、従来のルールからしたら完全アウトでもそれでも強引に居座ろうとする人が増えるとか。結構あるでしょ、そういう現象。沈みゆく船の中でのバトルロワイヤル。遅かれ早かれ全部沈んじゃうのにね。

 そのあたりの新旧せめぎあいが、昨今の世界の現象の基調になるんじゃないかなーというのが僕の意見です。

各論

 以下、「だからこうなってるんじゃないの?」的な断片を。それが個々のテーマにもなるんだけど。

生き方探し〜海外留学やWH、中年期鬱の乗り越え

 こっちで皆のお世話を20年以上やって思うのは、日本人が海外にやってくるのは「留学」とか「研鑽」とかいうけど、違うと思います。本気で「勉強」なんかしたいと思ってないよ。第一そんなに勉強が好きなら小学生の頃からやってて今頃は一流の学者先生になってるでしょ。それは大義名分というか、「仮主語」みたいな仮想命題でしかない。本当に本気でそんなこと(学習や技芸の上達)を考えているのは、おそらく音楽家やサッカー選手が「本場で揉まれる」ような場合だけだと思う。

 じゃあ何しに来るの?といえば、今思いつきの造語でいえば「生き方探し」だと思う。僕もそうだったし。「もっと違った生き方があるんじゃないのか?」ということで来ている。

 日本で生まれ育って「人生とはこういうもの」と思い込まされたこと、それに得心がいかない。いや、実際そうなんだろうなー、皆やってるしなー、それはそれでわかるし、そう悪いことでもないのもわかるんだけど、「しかないの?」となると違うだろうと。もっとなんかあるんじゃないの?って。そういう漠たる感覚に引き寄せられるように海外に出てくるのだと思います。僕もそうでしたし、その予感は正しいです。もっと他の生き方は「ある」と。「ある」なんて生易しいレベルではなく、ある/ないなんてチャチなレベルですらなく、何やってもいいんだってレベルで。

 でも、これだけ自由で豊かな日本で、なんでそんなことが気になるのか?です。
 そこが総論と関連するところですが、大きな部分で社会全体でずれてきてるから、個々人のレベルでも足元の地面が動いて股裂きみたいになってる感じはあるからでしょう。

 例えば、日本で頑張って勉強して偏差値高いガッコでて、有名大企業でサラリーマンやって一生OKさって「定食」があったわけですけど、ここ数十年来凋落していってます。終身雇用?は?って感じだし、銀行ですらオワコン化がささやかれている。安定の公務員ですら、新規は派遣ばっかで、どこが安定じゃ?だし。もともとサラリーマンが絶滅危惧種と言われつつ、労働人口の激減で一人あたりの加重負担が半端なくなり、さらに働き方改革で過労死ルートまで整備されているという。もう、定食食べてたら毒殺されてちゃいました〜みたいな。

 ま、多分にカリカチュア(戯画化)した言い方ですけど、そういう経済的得失よりもなによりも、精神的な部分がデカいと思います。生涯年収がどうのとか、老後の企業年金がどうのとかいっても、リアルな問題としてはピンとこないでしょ?まだ20-30代の人間に数十年後とかいってもリアルには感じないはずです。それまで生きてるかどうかもわからん、自分がジジババになった姿なんか考えたくもないし。

 それよりも、そういうルートに乗ってると、社会に「お前は合格!」って認められているような気がして、それが一番のご褒美だと思われます。「俺の人生、これでいいんだ」って思わせてもらえた。それがデカい。

 そして、それが揺らいできたら、当然のことながら「ほんとにコレでいいの?」と思うようになった。いや、実際「良くない」からこそ、そう思うのであって、その懸念は正しい。まあ、もともとがそんな「合格!」みたいなのってカラ手形のカラ約束であって、ちょっと冷静に考えたら、この激動の時代、そんなもんあるわけねーだろ?って分かるんだけど、でも、これといった人生海図を持たないならば、それがやっぱり大きな支えになるでしょう。それに人間心理の常として、自分をいい気分にさせてくれるものは、何が何でも手放したくないだろうしね。

 かくして受験や進学の段階で「本当にこれで、、」と悩み、就活で悩み、就職直後のギャップで悩み、数年したら悩み、アラサー前後で悩み、アラフォーで、、と、人生の節目節目で悩むという。「もっと他の生き方ってないのかしら?」と。もしワーホリが30歳までって年齢制限がなく、一生いつでも、何度でも来れるとするなら、おそらく30以上の方が多くなると思うぞ。いつかどっかの国がそれに気付いて(なんせ国家収入的にはおいしいので)やるかもしれんなー。

 でも、かといって、じゃあ「これでいってみよー!」ってほど、他の生き方がみつかるもんでもない。生き方なんか人の数だけ無限にあるんだけど、そんな一般論を言われてもクソの役にも立たないし、自分のやりたいようにとか言われても自分が何をやりたいのかもわからん、てか考える習慣がなかったのでにわかには思いつかない。

 「おっし、こうしよっ!」って自分で思えて得心がいくためには、それ相応の人生哲学や価値哲学を鍛えないとダメでしょう。それが経済的社会的に成り立っていくのかという点について、自分で判断していかないといけない。ここの部分がやたら難しい。でも、このままサイズの合わない靴を一生履き続けるのものなー、てかそもそも一生続けられるかどうかすら分からんという。

受験とか大学とか

 一番の「股裂き」は多分ここでしょうねー。旧システムがだんだん縮減していくなか、旧来的に美味しい思いをしようと思ったら、以前以上のエリートになるしかない。単に有名大学を出ましたなんてレベルではダメで、その中でもとびきり優秀な一握りになるしかないぞと。でも、そんなのプロのサッカー選手になるみたいなレベルであって、誰でも出来るものでもない。だから普通の能力程度だったら、もはや大学にいく意味など殆どないでしょう。旧来の一等席に座るためって意味だけでいえば。

 しかも、またそのとびきり優秀な人材というのは、人件費が一番嵩むわけだし、頭の良さではもう人間はAIに勝てなくなっている以上、優秀であればあるほどリストラされるリスクも高いという逆説的な問題もあります。前門の虎、後門の狼。

 ただし、それは原理的な話であって、皆が間違ってるなー、終わってるなーとか思いつつも、なんとなくそれを正すキッカケのないまま昔の慣習でずっと続けているというのはたくさんあります。old customs die hard(古い習慣はなかなか廃れない)。

 股裂き的にキツイは、本来的に意味ないな、賞味期限もけっこうヤバいんだけどなって思いつつも、それでも社会全体がそれで動いている以上、一応それに合わせてやっていないといけないという点です。その昔の、刻苦勉励→立身出世!とかいってた阿呆みたいなシンプルさが羨ましいよね。

 このあたり、時代遅れの世間のタイム感に合わせていくって馬鹿馬鹿しい作業が、昨今の受験の辛いところだと思いますね、僕は。そろそろ日本の学校では衣替えの時期ですが、衣替えみたいに「せーの」で号令かけてくれたらいいんですけど、社会のリアルはそんな号令なんか無いです。だから6月になっても、7月の梅雨明け祇園祭でセミがわんわん鳴いてても、夏の甲子園やってても、それでも汗だらだら垂らして、詰め襟着てないといけないみたいな感じ。で、熱中症(過労死)で死ぬ。何やってんだかです。でもって、皮肉というか、たまに季節外れに寒い日とかありますから、ああ冬服でよかった、やっぱこれでいいんだよなーとか思ったりするから、逡巡し、決断は鈍り、茹でガエルはさらに茹でられ続ける。

 これを受験生を持つ親御さんはいかに指導すべきか?っつても、無理でしょ。親世代自体が知らんもん。てか、世界の誰もわかってないもん。そうなってくると、「時代がどう転んでもやっていけるような」「基礎的な人間力と知的能力」とかいう一般論になってしまう。それで合ってるんだけど、今度は一般論過ぎてよくわからん、やってても不安だという。

 子供にどういう教育を施すべきかは、どういう時代になるかを的確に予知しなければならない。一切の希望的観測を排除して、冷血なまでに客観的に予想しないとならない。しかし、それが出来るくらいなら誰も苦労してないわけで、悩ましいでしよね。でもさ、勉強→大学→金儲けって端的に「邪道」じゃん。そんなことが当たり前になってること自体、その国の文化レベルがいかに低劣か、いかに民度が低いかを証明してるようなもので、それが是正されるのはいいことだと思うよ。学問が本来もってるエキサイティングな面白さと「知の豊穣」に立ち返ればいいだけ。

 10日のセミナーはそのあたりを前提にしつつ、もし受験生世代の人が来てるなら、そういう人生安泰的なご褒美が仮にゼロになったとしても、なおも受験なり勉強なりには大きな果実があることを言いたいと思います。

自分の時間とフリーランスの時代

 今いちばん欲しいものはなに?と問うてみて、多くの答えは「自分の時間」だと思います。これは、ある程度仕事も収入もある人ほどそうだと思う。

 もっと欲しいのは「将来の展望」「自分の展望」なんだろうけど、それなりに難しく、また時間的にひろがってしまうので、今この瞬間に欲しいものといえば、それは物欲ではなく、精神欲だと思う。だってもう別に「欲しい物体(商品)」なんか無いでしょう?昔の僕のように、レッドサンバーストのレスポール(ギターね)が欲しくて欲しくて恋焦がれて夢にまで出てきたくらいのがあったら幸福ですよ。そこそこ(物質的に)快適に生きるだけなら、それほど難しくはない。そこは生産力あがってますから、平安時代のように「畳の上にあがれるのは高貴な身分の人だけ」で、庶民は地面に寝転がってたなんてことはない。昭和の貧困みたいに二畳一間のアパートで、窓をあけると腐った川で工場の廃液と犬の死骸が流れてて、耐え難い臭気が、、なんてほど、すごい家は今の日本にはそうそうないでしょう。ゴミ屋敷とかあるけど、あれは自分で汚してるだけの話で、物質の問題ではなく精神の問題でしょう?

 物欲というのは、あれは一種の宗教であり、神話であり、フェティシズムだと思います。なんらかの物体をゲットすると、なんかしらんけど精神的な充足するという。昭和世代の僕には馴染みの感覚で、小学校では自転車のテールランプが電子フラシャーだったらそれだけでうっとりして(笑)、「マニア垂涎」のオーディオ機器が欲しくてたまらず、ギターに至っては、フィンガーボードはメイプル材で、ピックアップはディマジオ社製のとか細部にわたって物欲爆裂でした。でもね、だんだん呪縛が解けてきた。別になんでもええわとまで思わないけど、大事なのは心のほうだろって自然にシフトしてきた。オーディオも、それ自体は魅力的だけど、大事なのは何を聴くかであり、それでどれだけ豊かな感動を得られるかだろ?楽器だって、それをどれだけ弾きこなせるか、それを奏でることでどれだけハッピーになれるかだろ?って自然に変わっていった。これは僕だけではないと思うよ。

 そこで総論とからむんだけど、やっぱそこそこ豊かになったからだと思う。そんなに窮乏感や渇望感がなくなってきて、飢餓感がすべてのモチベーションと世界観の原点になったという感じではなくなった。戦前世代が、極限まで飢えていた戦時中の心象風景が原点になって、より多く豊かになることが人生の目的になっていたのと好対照です。もうそんな日本人もあんまりいない。世界的にもそうなってきている。

 そういう物質から精神への回帰のようなトレンドが世界的になってくると、人生の組み立てもやっぱり変わってくる。朝から晩まで激務とストレス過多で社畜的に24時間管理されるような生活は、いかに経済的に良かろうが、いかに将来的に保障が厚そうに見えようが、しかし、魅力的ではない。

 経済的には低くなろうが、のびのびとした自分の自由な時間が貴重に思えてくる。そこで台頭してきているのがフリーランスで、オーストラリアでもフリーランスはとても多いです。フリーランサーって言葉も普通にあるし、さらにはソロプレナー(solopreneur=、アントレプレナー=起業家からの造語)なんて言葉もある。フリーランスを成功させるためのサポート産業(例えばFreelance Australiaとか)も出てきている。

 オーストラリアは労働法が厳しく、また遵法率は日本とは雲泥の差で守られており、9-5時ワークでも、年休4週間あったり、有給消化率がほぼ100%だったり、日本からみたら「外国」というよりも、「他の惑星」の出来事のようにすら感じます。それであっても、人々はなおもフリーランスを志すし、より自分の時間を多く持ちたいと思う。AirbnbとかUberなどのシェアリング経済の創始者が慧眼だったのは、単に産業構造が革命的だと言う以上に人々の潜在欲求(もっと自分主体に生きたい)を察知してた点でしょう。この点で、Airbnbを民泊などと訳し、既得権との調整に四苦八苦している政治は、もう絶望的に遅れているといってもいいし、その種の新旧の板挟みになって玉虫色の案を出してはボコられるのが、これからの政治の役目なのかもしれません。旧システムの介護役というか。

 このフリーランス化は、経済界からしても望むところで、派遣だって言うならばフリーランスの一種ですからね。ビジネスモデルを徹底的に効率化していけばいくほど、余計な労働者を自社に抱え込むリスクと経費は馬鹿にできない。ビジネスというのは、煎じ詰めれば「儲かるシステム=ビジネスモデル」の創造・実践・維持に尽きるところ、そのすべてを自社の労働者で行うべき論理必然性はない。極論すれば一人も雇う必要すらない。社長などは、海外において(そして資本主義の本質からも)典型的だがフリーランスでいいのだ。プロチームの雇われ監督と同じなのだから、一件(四半期)いくらの成果報酬でいいし、実際に海外ではそうだし、株主総会は日本のようなシャンシャン内輪万歳大会ではなく、投資家(株主)への投資セミナーのようなもの。

 豊かになったがゆえの個々人の精神的欲求の増大がひとつ、ビジネスモデルの洗練によるトレンドが一つ、かくしてフリーランスが流行ってきているのは、二重の意味でうなづけます。

 さて、ここで日本はどうか?ですが、季節外れ詰め襟JAPANの場合、日本の組織エリート層の精神的歪みという問題があると個人的には思う。僕のみるところ、日本社会でえらくなればなるほどガキっぽくなるよね。子供じみた感情に支配される。仲間内だけでやりたいとか、好きなやつだけえこひいきするとか、およそ冷徹なビジネスやポリティクスぽくない。

 それは日本社会の場合、職業的格付け=人格的上下になり、上になると殿様化しワガママが言えるという、阿呆みたいな封建社会がそのまま温存されていることに起因するのでしょう。日本社会の一番クソな部分は、エラくなること=「人格低劣であっても許される範囲が広がる」ことだと言う点です。普通は逆なんだけどね。この一点を是正するだけで、日本は格段に住みやすくなると思うぞ。

 余談ながら、それはなぜか?を遡れば、今の上層部は、世代的にいってもう家父長的な戦中派はなくなってるから、「勉強さえ出来れば人格的に未熟でも許される」というケッタイな教育があったのかもしれませんねー。でもって、そういう彼らがえらくなってやることといえば、人格的に未熟な「おとなげない」振る舞いであり、端的にでてくるのは下劣で淫靡なセクハラとかその種の話。金をどーんと儲けて財団作って理想を実現するんだとか、大農場を経営するんだという話にならない。なんでかな?と思うと、性的に禁欲的な(てかモテない)ガリ勉やってたからじゃないの?って気もしますね。「枕営業」とかその種の接待があったりすること自体、いかに若いときにモテなかったか、そのルサンチマンがきついかってことで、みっともないと思うんですけど。自分本来のオスフェロモン以外の要素(金とか権力とか)でメスをゲットするというのは、オスとしては恥辱の極みだという美意識がないんかね。なんかねー、そんな愚劣なとっちゃん坊やと童貞こじらせ親父で日本経済が停滞してるかと思うと、とほほですよね。すげえ国になったもんだぜ。


空き家の問題

 空き家というのは象徴的で、これまで日本的サクセスの象徴だった不動産が、今は重荷になっている。マイナス金利みたいなもので、お金を持ってるだけで罰金食らうみたいな。

 ただ僕が思うもっと象徴的な意味は、これまでの戦後の欠乏や窮乏、「欠けているもの満たす」というパラダイムで日本社会は出来ていたと思うのですが、もうそれは一段落して、もう欠けてはいない。物質的には欠けてない、少なくともその欠落がメインの原動力になるほど欠けてはいない。ではどうなるかといえば、「今あるものをいかに利用するか」というパラダイムになると思うのですよ。空き家はその象徴。

 これをどう利用するの?という部分で、上の「生き方探し」にからんでいくのだろうと思います。
 あのー、「生き方=経済的に成立する」ってドグマをいかに打ち破れるかどうかだと思うのです。別に全然経済的に成立しなくてもいいのよ。釣りバカ日誌のように、釣りやってるのが「生き方」であって、交友関係もなにもかも釣りを基軸に成立してて、でもそれでは一銭も儲からない。だからハマちゃんもサラリーマンやってるわけだけど、あれ、別にサラリーマンである必要もないのですよね、本質的には。たまたまやってるだけで、別に家業の駐車場管理をやってても、税理士やっててもいいわけです。だから、生き方と経済(生計)とは分離可能。いや「可能」とかいう以前に、最初っから全然別物でしょう。それは中高生の頃の部活の青春と、教室でのお勉強が、表面的には関連するけど(あちらを立てればこちらが立たずとか)、本質的には全然別物なのと同じこと。

 空家(利用)の場合、これまでの不動産のパラダイム=資産価値(交換価値)ではなく、純粋に使用価値になります。あくまでの旧来の資産価値的に利用するならば、賃貸に出すとか、売却するとかだけど、3軒に一軒なんてレベルで増えたらそれも限界あるでしょう?また、そこそこ立地も使い勝手もいい空き家が毎年どっと賃貸市場に流れ込むことから、既存の賃貸だって影響を受けるでしょう。逆に言えば、日本の住居費は安くなる一方だとも言えます。算数的にそうなる。算数に勝る真理は滅多にないので、もしそうならないなら、なんか「気の流れが滞ってる」ことになります。そっちの方が問題だが。

 そうなるといかに儲かるかではなく、いかに遊ぶかでしょ?資産・取得ではなく、既存・利用ですから。交換価値は自分で決められない(市場がきめる)けど、使用価値は自分で決められる。てか、自分以外に決める人はいない。Aという視点からみたら、全く無用の長物だし、場合によっては廃物同然であるけど、Bという視点でみたら宝の山にもなる。住んで通勤するんだったらボロいし、遠いけど、趣味のアジトとして安く借りるなら悪い話ではない。例えば、マンション暮らしの自宅では絶対できない8畳まるまるの巨大なジオラマを何年がかりで作るとか、自分のアトリエで思う存分絵を描きたいとか、楽器打ち鳴らしてストレス発散だったらクソ辺鄙で周囲に誰もいないほうが好都合でしょう。

仕事と生計

 片やそれでどうやって生計を?といえば、それはフリーランスであったり(儲からないけどね)、マックジョブでいいじゃんって話です。多分、経済の進展からいえば正社員とかフルタイムとかどんどん減るような気もします。減らしてもやっていけるくらい技術やシステムが進化してきてるし、そのための進化なんだし。なんつっても人類の目標は「全員遊んで食える=完全失業率100%」ですからね。でも、その分、AIとかIT化しにくい(出来るけどコスト的にメリットがない)細かな作業は当面しばらくは残る。

 とりあえず日本に関して言えば、人口構成が極端にいびつなだけに、これから未曾有の時期に入るでしょう。今も大概きついけど、こんなもん序の口で、これから20年、30年、どんどん坂がきつくなっていく。前のエッセイにも書いたけど、去年1年で生産人口が60万かそこら減っただけで今日の人手不足と過重労働ですよ。それが、この10年後には生産人口が500万人減る、2040年には1500万人減るっていうんでしょ?(「社会保障費、2040年度に190兆円 介護の負担重く」(日経:2018/5/21))。どうなると思う?それに歩調を合わせて医療、介護、まあ破綻は必然でしょう。まあ「破綻してない」と強弁するためにカタチは残すだろうが、およそまあ「使える」感じではなかろう。

 とりあえずこんだけ人手不足だったら、経済バランスをよくするために、労働者はもっとワガママいうべき。給料倍にしないと辞めちゃうぞくらいに。足りなくなったスタッフの穴埋めで、責任感の権化のようになっって馬車馬になるくらいなら、「やってられまへんわ」で辞めたらいい。そうやって皆で賃金水準上げていったほうがいいよね。それに人手不足とかいってる割には初任給も1万かそこらしか上がってなくて、フーウェイみたいに40万くらい払えよ、史上空前の利益とか言ってんだからって思うよ。てかね、そこで日本の労働者が、我慢は美徳みたいな感じで悪慣れしているから、無能な経営者がゾンビみたいに生き残ってしまい、結局は皆にとって良くない。あんたが(自分が)我慢してると皆が迷惑すんだよ、くらいに思ったらいいべ。

 そんな感じで、仕事に関してはおっかなびっくりワガママ言い放題をやって、それでどこまで食えるかやってみたらいいです。絶対残業しないとか、するなら手当を倍出せくらいにやって自分の時間を確保する。そして、意外と何やってても食えるわって自信をつけたほうがいいとは思う。そんな「一命を賭してもこれだけは成し遂げたい」「(志半ばでやめてしまっては)死んでも死にきれませぬ」ってほど気合入った仕事してるわけじゃないでしょ?

 無茶言ってるようですけど、オーストラリアの経営者はそれだけハードな労務管理をこなしてやってるんだよ?年休4週もつけて、繁忙期だろうがなんだろうが平気の平左でガシガシ休まれて、残業になったら超勤手当たっぷりつけて、僕のColesのように祝日にトロリーごろごろ転がすという体育の授業の用具当番みたいなことやってても時給6000円近く払わないとならないんだよー。それで利益を出してるんだよ。どんだけの経営手腕か。

 それに比べたら日本の労務管理は(雇用者に)甘すぎ。オーストラリアに来て何がびっくりしたかといえば、上にいくほど本当に優秀な奴が出てくることです。日本ではどっかでどうしようもない阿呆が出てくるんだけど。ほんと上を甘やかしたらあかんよ、つけあがるから。実際つけあがって残業代ゼロ法案とかやってるし。どんだけ時代に逆行してるんだか。あんなのに付き合ってたら馬鹿が伝染りますよ。

 ま、そんな大きな話はそれはそれで、個々人レベルでは、腹くくって遊べと言いたいです。本当の意味での創造的で、自分らしい遊びね。これが私の生き方(の重要な一部)ですって言えるくらい。

 そして、それを見出すには、それ相応の知識や教養や技術がいるし、それを学ぶために勉強があるわけだし、それを学んで有効に活用するために仕事があるわけっしょ。まずどんなことが面白いかを知らなアカンわけだから、せっせと勉強しろ、見聞をひろめろ、海外にも出て行け、どひゃーという体験をしろです。知らなかったら欲望もクソも湧かないよ。うわーっと思う経験をするからこそ、ああなりたいと思って頑張るわけですもん。もっともっと「いい思い」をしろ、です。それが人生の原資エネルギーになるんだから。せめてもう一度だけあのジェラートを食べてからでないと、死んでも死にきれませぬって。

 そのうえで、これがやりたいとなっても、何をどこから手を付けていけばいいか分からん、そのあたりのビジネスの基本は知らなきゃいけないし、世間を渡っていくにしても、仁義の切り方あるし、スジの通し方はあるし、他人をして信頼される自分にならなきゃ何も始まらないわけで、そこを学ぶために仕事もしたらいい。外国の人と人間レベルでつきあえる経験もまた必要。

 というわけで、全然語り足りないけど、どんな切り口、どんなテーマにしても、全部が関連していると僕は思います。だって「生き方」なんだもん、関連しないわけがない。

実は第二部もあったりして

 なお、これらは第一部で本当はセーフハウスにつながる第二部があるんだけど、今回は無理かなー。もっとお尻に火がつかないとピンとこないかと。老後も介護も経済も、マジにやばいですから。今のシステムが残るとして、それを維持しようとしたら、本気で国民みんなの虎の子資産を根こそぎもっていかれるくらいの話になるでしょう。そうしないともたない。またそれをしてももたない。じゃあ、もたくなくなったらどうなるの?ですが、それは戦時中や昭和20代をリアルに知ってないとピンとこないかも。僕も30年代だしなー、想像力を引き伸ばして「あんな感じかな?」と薄ぼんやりわかるくらい。

 なんでそんなに思えるかっていうと、僕はオーストラリアの永住権持ってて、あとしばらくしたらこっちでもペンション(年金、大した額ではないが)もらえるし、こっちのマックジョブだけでもやっていけるようにしてるから、いわば対岸の火事であり、希望的観測ゼロにして見れるからです。「まさかね」とは全然思わない。今ですら税収50兆に予算100兆、GDP500兆なのに借金1000兆(ヤバさでは堂々の世界一位=てか健全比率ランキング世界191カ国中191位)これがどっかアフリカの国だったら「こりゃあダメだ」ってあなただって思うはずだよ。そしておそらく税収は先細りするのに、社会保障予算だけで190兆とか言ってんだから(試算が多少ずれようが、大局は変わらず)。繰り返すが、算数に勝る真理は、そうそうないよ。

 ただし、国や経済がコケようがなんだろうが、民衆というのは非常にタフであり、人というは些細な要素がちょっぴりあるだけでたやすく幸せになれる。それは日本に比べればはるかにハードな母国環境からオーストラリアに来てる連中の明るさやたくましさをみてて常々そう感じる。個人の記憶をたどっても日本はビンボーだった頃の方が明るくタフだったし、毎日けっこう楽しかったしね。うざい「管理」もなかったし。

 だもんで、とりあえずいいたいのは、国家とか経済とか社会とか金とかいうのと、自分の人生を「切り離せ」と。そんなもんと一蓮托生に抱き合い心中する義理はないし、本当のところは、そういうメカニズムにもなってない。「生き方」はまだわからないかも知れないが、とりあえず切り離せと。本当に切り離さくてもいいけど、心の中では切り離せ。そしてちょっとづつワガママ言ったり、冒険したり、海外出たり、「実験」をしたらいい。だんだんと「あんま、関係ないかも」ってのが実感になっていくでしょう。それが第一部ってことで。





文責:田村


このエントリーをはてなブックマークに追加

★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのBLOG
★→APLACのFacebook Page
★→漫画や音楽など趣味全開の別館Annexはてなブログ