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今週の一枚(2018/04/23)
Essay 876:感情化学と感情工学〜「やり方」産業
写真は、Mosmanの高台(Spit JCあたり)からBalmoral Beachに向けて長い坂の始まりあたり。遠くに見えるのがManlyのNorth Head。
前回のような近況報告は、既に数日前にブログで書きましたのでご参照を。
今日は、それと関連するんだけど、もっと蒸留抽出した抽象的なことを書きます。
ワーホリや留学でやってきた場合、特になにかなければ(就労ビザ狙いの特殊技能があって、時間が切迫してるとか、自分のテーマがあるとか)、ジャパレスは早い時点でやっておくといいよと言ってます。なぜならもっとも職を得やすいから。電話まとめてかければ30分〜1時間で面接アポの2-3件は取れるし、うち一件くらいはすぐ決まる。その職場が良いかどうかはこの際問わない。大事なのは、「現地で働いた、金稼いだ」という経験であって、これが値千金の重みをもつからです。
何が値千金か?といえば、自信であり、ものの見え方が変わること。有と無の差は、天と地ほど違う。いかに耳年増でジャパレスバイトの話を聞いていようが、自分がやるのとやらないのとでは全然違う。やれば、「なるほど」とわかる。そして、「なるほど、これをやればお金は入るんだな」というのが実感として分かる。海外生活なんて、ある意味海底都市みたいなもので、酸素がなくなったら窒息して死ぬしかない。ここでいう「酸素」は日本からもってきた資金です。だけどこれは日に日に減っていく。貴重な酸素がただ一方的に減るのを見るだけの日々というのは、精神的に結構こたえる。
酸素を増やす=稼ぐという攻撃手段を身につけるか/つけないかでは、日々のマインドセットが全然違う。稼いだことがないと、とにかく支出を減らす以外に有効手段がないから、いきおい押入れで息を潜めて過ごすという超消極的な日々になったりして、そもそも何しに来たの?という方向にいきがち。しかし「自分は稼げた」という「事実」が一本があるとガラリと変わる。金が無い→もうダメだではなく、金が無い→また稼げばいいやって思える。積極的解決の選択肢、そのリアリティがあるか/無いかは、日々の意識や行動のすべてを支配する。
ジャパレスはATMみたいなものだから、現地に着いたら、とりあえず一回「ATMの使い方」は習熟しておくといい。ATM使うときに、カード入れて、暗証番号入力してという「一連の儀式」が、「A地点からB地点にラーメンを運ぶ」というやや複雑な手順に置き換わっただけで、「お金を引き出すための一連の手順」という価値的にはATMと同じである。その(引き出せるという)自信が得られたらもう辞めていいよと。先に一回やっておけば、その後旅先でお金がなくなり、気の利いた仕事がないようなときにジャパレス仕事が出来る。ジャパレスはどこにいってもあるし。そしてここがミソなんだけど、既に「現地職歴」を持っているので採用されやすい。実際、現地のレストラン専門用語やシステム、現地のビールの銘柄とかも知っている。「この種の仕事、やったことありますか?」って絶対聞かれるけど、その際「はい、シドニーで、キッチンハンドをやってまして〜」とか言える。
これは単なるWHや留学のノウハウに尽きるものではない。
断崖絶壁まで追い詰められてから初めてのことをやると、「後がない」プレッシャーは相当なものだし、気分的に圧迫してるからミスも増える、成功率も低くなる。しかし、どんなに辛くてもやり続けるという一択しかないから、精神的にはかなりキツイ。一旦世の中がそう見え始めると、何もかもがブルー一色に染まり、感性の瑞々しさが枯渇し、やがて彩度が落ちて灰色になる。つらいだけではなく、視野狭窄も起きてくるから他の解決チャンスをミスるし、発想の飛躍もない。
起業なんかも、クビになってからやるのは典型的な「士族の商法」になりがちで、余裕があるうちに興味本位や遊び感覚でやって、初動過程につきものの失敗&学習を履修しておいた方がいい。
ま、パチンコと同じですよね。絶対勝たねばってときに限って負ける。列車の時間までの暇つぶしにやってると馬鹿勝ちして列車に乗り遅れるという(笑)。
「なんでもそう」と言えるのは、多分、共通項が沢山あるからでしょう。上の感性枯渇や視野狭窄もそうですが、「切羽詰まってると希望的観測でしかモノをみなくなる」という人間の習性があるからだと思います。「そうなったらいいな」と思うのはいいんだけど、そうなってくれないと死ぬしかないってなるから、フラットに物事見えなくなる。そうなってくれないと困る!絶対そうなる!そうなるはずだ!って。それって、運転してて、次の交差点では絶対信号青で進める筈だ!と思い込んで、赤信号無視して突っ込んでいってしまうようなものです。余裕のないときに勝負かけるな、です。競馬→ハマる→会社の金使い込み→破産 or 背任横領で逮捕/自殺パターンが後をたたないのは多分そういうこと。
ちなみに、リスク管理の意味で保険とかに入るんだろうけど、でもその保険会社が倒産してパーって可能性もリアルにはある。そこまでは考えない人が多いんだけど、日本の保険会社で倒産した会社は、ここ20年でも、日産生命、東邦生命、千代田生命、第百生命、協栄生命、大正生命、東京生命、大和生命がある。いずれも外資系のカタカナ保険会社に事業承継されているけど、意外と多いのだ(出典)。また、事業承継するから大丈夫ってもんでもない。破綻を避けるために事前にあれこれやるからです。つまり加入時の予定利率を勝手にどんどん下げられて、「こんなリターンだったら最初から入らなかったよ」って形にされちゃうのもリスクの一つ。その昔(80年台)は日本国債の運用も8%とか、マイナス金利の今から思うと信じられなような時代もあって、その前提での予想利回りですからねー。ちなみに僕も日本にいる頃に勧められて、自分で電卓叩いて利回り計算して、「向う30年以上金利5%以上が続いたら」という前提の話で、その可能性はまず無いだろと判断しました。
リスク管理って、「安心したい人」には向いてないと思います。「安心したい」という心理目標がある限り、どっかしら希望的観測が入り、「そういうことにしておきたい」という意識が入る。この意識がクールな計算の邪魔をする。何をどうやっても絶対安心なんかできないよ、それが普通、諦めろって大前提で、でも危険係数を減らすことは可能という観点でやらねば。
なぜなら、お金って、お金それ自体に価値があるわけじゃないです。ただの紙だし。お金を使って得られる「効用」に価値がある。じゃあ、その効用ってなにか?をどんどん抽象化していくと、結局「気持ち良くなるかどうか」に行き着く。沢山お金があったら?フェラーリを買う、なんで買うの?と言えば、持ってると「むふふ」といい気持ちになれたり、乗ってると「おお」といい気持ちになれるからでしょ。美味しいものを食べるでも、旅行に行くでも、豪邸に住むでも、なんでもいいけど、要は気持ちよくなれるという点にポイントがある。
逆に支払いに追われないとか、破産やホームレスにならないで済むとかいうのもあるけど、それはその気持ち悪さをお金が軽減してくれるという意味で、マイナス100をマイナス20くらいにまでしてくれるというプラス80が価値本体であり、だとしたら同じことでしょう。
考えてみれば当然すぎるほど当然の話です。なぜって、最終的に価値判断するのは僕ら個々人であり、僕らは何をどう思って判断するか?でいえば、結局脳味噌でやってるわけなんだから、要は気持いいか/悪いかに尽きる。「気持いい」って表現が気に食わないなら、快適さとか、充実とか、幸福感とか、なんでもいいですけど、言わんとするのは同じ。脳内がぱっと or ほわーんと明るくなるかどうかでしょ、究極的には。
ただ自分の感情に値付けをするのって難しいから、このあたりの判断がしにくいんだけど、でも意識的に慣れておくといいですよ。「いくら払うとこのくらいの気持よさ」という。だってここがわからなかったら、トータルでの損得勘定が出来ないわけでしょ?意味ないじゃん。下手すれば、お金は死ぬほどあるけど全然楽しくない、じゃあそれまでの苦労はなんだったんだ?「人生まるで無駄」みたいな頭の悪い話になっちゃうよ。
それにここを考えていると、意外にお金の数値と楽しい感情は正比例しないのもわかる。10倍払ったら10倍楽しいか?というと、そういうもんでもない。でも2倍払うと2倍楽しいくらいの実感があるなら、どこでマックスポイントがくるか、どこで最適化するかです。
もちろんモノにもよりますし、時と場合にもよります。2倍払うと5倍楽しいってこともあるかしらん、てかあります。ここでケチるとまるで無駄なんだけど、もうちょい払うと天国にいけるという。1000円だったら金をドブに捨てるようなものだけど、1400円払うとめちゃ楽しいってこともある。でも1800円払うなら1400円の方がマシだという逆転現象もある。
「楽しい感情」というのは、ナマモノですので、ある意味では料理に似ていて、いろんな要素が重なって成立する。単純な足し算というよりも、「一滴垂らすと世界が変わる」的な掛け算割り算の化学反応みたいな妙味も強い。感情「化学」です。
ここは本当にセンスの問題で、茶道でも茶室というクソ狭い、まるで監獄のような建屋で「宇宙を表現する」という「趣向」というマジックをかける。そうかと思うと、ピクニックのような野点もやる。それがボロいだけなのか、骨董品的な味わいがあるのか、アウトドア快感があるのかホームレスなのか、「感情化学」といのはかなり玄妙で、難しい。
そこで思うんだけど、お金を稼ぐためにエネルギー100%使うんだったら、金稼ぎを50%にして、楽しいセンスや方法論を磨くのに50%使ったほうがいいですよ。トータルではそっちの方が効率いいんじゃないかな。それが21世紀の人類の(無意識的ではあろうが)方向性だと僕は思うよ。金で買うような楽しみには、もう皆、飽きてきてるし、物足りなく思ってる。もっと先にある素敵なところに行きたいと思ってるんじゃないかな。
ということで、最終的なコスパ計算の天秤の皿に乗るのは、純然たる自分の感情でしょう。気持ちよさを金で買っているのだ。そのものズバリではなく、気持ちよくなれそうな道具(眺望抜群の部屋とか、面白い小説とか)、環境整備(エコノミーではなくビジネスクラスにするとか)を買ってるんだけど、最終評価部分はあくまで感情。
だとしたら、2ドル分余計に稼いでも、それでなんかイヤな気持になり、それが2ドルくらいではきかないくらいだったらどうか?「すべての給料は慰謝料である」という名言がありますが、例えば、自動車事故で全盲になったとして、慰謝料2000万円もらったらチャラにできるか?というと、まあできんでしょ?1億でも2億でもダメだろうな。
何がいいたいかというと、お金で気持良くなること、お金で不快感を減らすことって、意外と難しいですよってことです。職場を比較する場合、大抵の場合だったら、気持いいかどうかで決めるといいかと思います。給料いいほうがいいだろうけど、そんな10倍とか100倍ってことは普通ないし、コンマ何倍くらいでしょう?そのくらいだったら、気持いい方がいいですよ。その方が結局得だから。
だって職場でもなんでも不快感って中々払拭されないですから。ちょっとお酒飲んだり、美味い飯食ったくらいではおさまらない。むしろ改めて思い出してしまって、あー又だんだん腹たってきた!ってなったり、夜も寝れなくなったり。それを根絶するにはいくら掛かるの?どんなことすれば忘れられる?かなりドラスティックなこと(隣が火事になって必死に逃げたり、スカイツリーからスカイダイビングしたり)しないと消えないよ。
仕事選びでも、何か将来的な目的があるとかいうなら別ですよ。どんなイヤでもやったほうがいい場合も確かにあります。だけど、それとて「将来の目的に進んでいる」という「気持ちよさ」に還元されるわけでしょう?目先の不快よりも大きな快感があるからやるわけで。
そのあたりは直感的にわかるだろうし、その「直感しっくり」に従ったほうがいいと思います。これもセンスの問題で、本当に滑らかにすっと感情が通ってる場合と、どっかしら引っかかりはあるんだけど、無理やり上から舗装工事をしてなかったことにしてるかとか。
21世紀のビジネスモデルにシェアリング経済があるのですが、「シェアリング経済」という概念でわかった気になってていいんだろうか?という疑問が前々からありました。そういうことじゃないのかも?という。
そのへんバイトやりながらつらつら考えてて。肉体労働っていいですよね。慣れたら身体が勝手に動くから、頭は自由思索にふけれるので時間をダブルで使える。で、考えてて、シェアリングっていうのは一つの具体的な解法なりやり方に過ぎず、根っこにあるのはもっと違う概念じゃないか。それは何かというと旨く表現できないんだけど、「やり方産業」みたいなものではないか。
地元の新聞に、Uber Eatsの苦情が出てました。シェアリング経済の出前版で、オーストラリアではすっごい伸びてます。Deliverooなんかもそう。レストラン産業という業態そのものが変わるくらいで。で、問題として報じられているのは、デリバリーミスその他のトラブルを、Uberは全部店側の負担にしている部分です。その言い分は、うち(Uber)は、デリバリー業をやってるのではなく、ソフトウェア業をやってるんだという。でも、誰が見てもデリバリー業だろ、逃げるなよって批判が(レストラン側から)起きてる。
その問題はさておき、そうなのですよ、多くのシェアリング産業の本業形態は、Airbnbにせよ、Uberにせよ「ソフト会社」なのですね。ああいうアプリを開発して使用させているIT産業なのだと。まあ、実際そうではあります。
ただ、思ったのはITとかアプリやソフトというのも違うだろう。まず「こうしたらいいじゃん」という素晴らしいアイディアがある。シェアすれば安く済むじゃん、皆でやればもっと効率的じゃんという発想があり、それを具体化させていくためのあれこれの知的付加価値部分こそが本体だろう。
今回の引っ越しで、はじめてGo-Getというオーストラリアのカーシェアを使ったんだけど、なるほどよく出来ています。会員証がカードキーになるのがミソです。PCやらスマホアプリで、とある場所にあるシェア車を、とある時間にブッキングします。その時間にその車のある場所に行って、車に設置されているスキャナー(カードリーダー)機器にむけて、フロントガラス越しにカードをかざすと、かちゃっと音がして車のロックが解除されて中に入れる。中には車のキーがある(縛り付けられて外せないようになっている)。利用中に車の施錠をする場合も、カードをかざせばロック・アンロックが出来る。つまり会員カードが車のドアのカードキーになる。
これは技術的にIoTなのかな。オンラインでブッキングしたら、その人の会員番号などのデーターと予約データーを、車本体のカードリーダーに遠隔操作(ネット経由)で新たに入力して上書きするのでしょう。この技術が、このビジネスの根幹技術であり、最初にこれを思いついたやつはエライなーと思った。
で、最初に技術ありきでそこから着想を膨らませたのか、あるいは着想が先にあってそれに見合う技術を探した(開発した)かは知りませんが、やっぱ本体になるのは着想、「やり方」だと思います。IT部分、つまりそれなりにアプリで表現する工程(ロゴやらデザインやらユーザーインターフェイスも含めて)は、それほど上位に来るわけでもない。場合によっては外注でもいい。
ITってめちゃくちゃ地味な技術で、かなり幼稚なレベルのHTMLでもそう感じるのですが、もうひたすら地味にコツコツやるしかない。ITって農業だなってやる度に感じる。でもって、ITが花形とか言われるけど、技術そのものはどうでもよくて(外注でいくらでもできる)、その技術をつかってどういう「やり方」を開発するかの方が遥かに重要なんだろう。現場の手作業仕事をやるのは、ほんと誰でもよく、いわば農夫か炭鉱夫みたいなもんだなと。
そして、キモが「やり方」だとしたら、別にITでなければならない必然性もないです。大福帳の方が効率的だったらそれでもいいし、顔認証システムとか頑張らなくても、小集団内部だったら昔ながらの「顔パス」で全然出来てしまう。
だからあくまで「やり方」なんだ、この「新しいやり方」を開発〜実用化させる部分こそが21世紀のビジネス形態なんだろうと思った次第です。
まあ、やり方論は、どんな時代でも出てきますよ。江戸時代の飛脚というデリバリーシステムという「やり方」、大量生産という「やり方」、スーパーマーケットという発想、寿司が廻るという着想、いずれの時代もそういうのは大事。だけど、21世型と敢えていうのは、外部環境がそれ以前に比べてかなり変わっているからです。世界の標準化(先進国が落ち目で新興国があがる)やらグローバリゼーションやら、IT技術や、素材産業の著しい進展やら、高齢化少子化もそうだし、国家社会の役割や機能劣化と新しいモデルの模索にしてもそう、なにもかもが急速に変わってきている。
ということは、昨日までできるわけないじゃんってことも、明日には出来るようになるかもしれない。逆に昨日まで出来てたことが、明日にはできなくなるかも知れない。
例えば、サッカーでは(キーパー以外)手を使うことは禁止というのがルールだけど、これを変えたらどうなるか?仮に、キーパー以外の選手10人のうち一人だけ手を使ってもいいことにしたらどうか?そして、その一人が誰なのかは予め登録するのだけど、相手に示さなくても良いとなるとどうか?また、随時変えられたらどうか?これ、戦略がガラリと変わるはずですよ。なんせ相手チームの誰か一人が手を使えるかもしれないわけですよ。空中プレイなんかでもヘッディングではなく手を使えたら、ぱっと取って、ドッジボールみたいに即座にパスできるわけですもん。しかし、それが誰かはわからない。だから、想定としては誰もがその可能性があるということで守備陣形を作らないといけない。逆に、自分サイドも一人手を使えるわけだから、それを誰にして、どういう局面で使うかです。なるべくバレないようにして、最後の最後に手を使うとか(笑)、もう根本的に「やり方」が変わってくるでしょう。
時代が変わる、環境が変わるということはそういうことで、今の先端ビジネスってそういうものだろう。先端って、行くところまで行ってしまえば、あまりにも新しすぎて、まだネーミングが出来てないし、そもそも認知もされてない。あるいはビジネスの形にならないと思います。でも、あると。
セーフハウスだ、身軽断捨離だ、空き家活用だ、ノマドシステムの普遍化だとか言ってますけど、なんで自分がこんなに興味を惹かれるのかな?と思うと、やっぱり大前提がかなり変わってきているから、「新しいやり方」がいくらでも転がってるように感じるからだと思います。それは25年以上前のバブルの頃に、もう頭打ちでこれからは海外かな、オーストラリアかなと漠然と考え始めたころの嗅覚に似ています。ここを掘っていくと楽しいことありそうだぞ、ここ掘れワンワンみたいな(笑)。
実際、空き家一つとっても天地逆になるくらいの変わりようです。なんせ地上げ時代にヤクザ風味の連中と顔つき合わせて交渉してた身からすれば、「土一升金一升」と言われた日本の狂乱不動産価格(日本全部の地価でアメリカが2個買えると言われた)、なんだこりゃ!?ってくらいの激変です。その辺の粗大ゴミにフェラーリやギブソンのギターが捨てられているようなものです。そういえばギブソン社倒産したとか聞いたけど(ギターは作り続けるらしいけど)。
まだ名前もついていない、てかそういう一つの現象なり活動なりとして誰も認識もしてないような段階が面白いです。いま適当に「やり方産業」とか言ってるけど、自分で考えて自分でネーミングするしかないくらいの感じ、他人に言っても誰にもわかってもらえないくらいがよろしい。
シェアリング経済の自家製版とか、ネットワークビジネスのなんたらとか言ってるのも、わかりやすく一昔前の概念を借りてるだけで、ほんとは違うんだけどなー、でも言葉がないなーって。それは丁度、インターネットの概念を説明するときに、「電話みたいなもん」とか説明してるくらいの感じ。ほんとは違うんだけどなー、でもドンピシャの言葉がないなー、てかそれがどんなもんか自分でも見えてないしなーって感じです。
文責:田村
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今日は、それと関連するんだけど、もっと蒸留抽出した抽象的なことを書きます。
「資」本主義ではなく快」本主義と感情化学
これは皆のバイト選びなどでアドバイスしたときに言ったことですけど、時給18ドルと16ドルのバイトがあったら、そりゃ時給が高いほうがいいけど、でもそれだけが比較のポイントではない。そこで働く気持ちよさ・悪さに還元したトータルな収支勘定が必要。ATM機能
常に言ってることで重複しまくりだけど、敢えて書きます。初めて読む人もいるだろうし、忘れている人もいるだろうし。ワーホリや留学でやってきた場合、特になにかなければ(就労ビザ狙いの特殊技能があって、時間が切迫してるとか、自分のテーマがあるとか)、ジャパレスは早い時点でやっておくといいよと言ってます。なぜならもっとも職を得やすいから。電話まとめてかければ30分〜1時間で面接アポの2-3件は取れるし、うち一件くらいはすぐ決まる。その職場が良いかどうかはこの際問わない。大事なのは、「現地で働いた、金稼いだ」という経験であって、これが値千金の重みをもつからです。
何が値千金か?といえば、自信であり、ものの見え方が変わること。有と無の差は、天と地ほど違う。いかに耳年増でジャパレスバイトの話を聞いていようが、自分がやるのとやらないのとでは全然違う。やれば、「なるほど」とわかる。そして、「なるほど、これをやればお金は入るんだな」というのが実感として分かる。海外生活なんて、ある意味海底都市みたいなもので、酸素がなくなったら窒息して死ぬしかない。ここでいう「酸素」は日本からもってきた資金です。だけどこれは日に日に減っていく。貴重な酸素がただ一方的に減るのを見るだけの日々というのは、精神的に結構こたえる。
酸素を増やす=稼ぐという攻撃手段を身につけるか/つけないかでは、日々のマインドセットが全然違う。稼いだことがないと、とにかく支出を減らす以外に有効手段がないから、いきおい押入れで息を潜めて過ごすという超消極的な日々になったりして、そもそも何しに来たの?という方向にいきがち。しかし「自分は稼げた」という「事実」が一本があるとガラリと変わる。金が無い→もうダメだではなく、金が無い→また稼げばいいやって思える。積極的解決の選択肢、そのリアリティがあるか/無いかは、日々の意識や行動のすべてを支配する。
ジャパレスはATMみたいなものだから、現地に着いたら、とりあえず一回「ATMの使い方」は習熟しておくといい。ATM使うときに、カード入れて、暗証番号入力してという「一連の儀式」が、「A地点からB地点にラーメンを運ぶ」というやや複雑な手順に置き換わっただけで、「お金を引き出すための一連の手順」という価値的にはATMと同じである。その(引き出せるという)自信が得られたらもう辞めていいよと。先に一回やっておけば、その後旅先でお金がなくなり、気の利いた仕事がないようなときにジャパレス仕事が出来る。ジャパレスはどこにいってもあるし。そしてここがミソなんだけど、既に「現地職歴」を持っているので採用されやすい。実際、現地のレストラン専門用語やシステム、現地のビールの銘柄とかも知っている。「この種の仕事、やったことありますか?」って絶対聞かれるけど、その際「はい、シドニーで、キッチンハンドをやってまして〜」とか言える。
これは単なるWHや留学のノウハウに尽きるものではない。
切羽詰まってから「初めて」をやるリスク
なんでもそうだが、いよいよ切羽詰ったときに「生まれて初めて」のことをやるのは出来れば避けたほうがいい。僕がバイトやってるように、プランB、プランC、、といろいろなシナリオを想定して、可能性として想定できるなら、まだ余裕のあるうちに「初めて」は潰しておくといい。「まさかの時の備え」というのはそういうものでしょう。断崖絶壁まで追い詰められてから初めてのことをやると、「後がない」プレッシャーは相当なものだし、気分的に圧迫してるからミスも増える、成功率も低くなる。しかし、どんなに辛くてもやり続けるという一択しかないから、精神的にはかなりキツイ。一旦世の中がそう見え始めると、何もかもがブルー一色に染まり、感性の瑞々しさが枯渇し、やがて彩度が落ちて灰色になる。つらいだけではなく、視野狭窄も起きてくるから他の解決チャンスをミスるし、発想の飛躍もない。
起業なんかも、クビになってからやるのは典型的な「士族の商法」になりがちで、余裕があるうちに興味本位や遊び感覚でやって、初動過程につきものの失敗&学習を履修しておいた方がいい。
ま、パチンコと同じですよね。絶対勝たねばってときに限って負ける。列車の時間までの暇つぶしにやってると馬鹿勝ちして列車に乗り遅れるという(笑)。
「なんでもそう」と言えるのは、多分、共通項が沢山あるからでしょう。上の感性枯渇や視野狭窄もそうですが、「切羽詰まってると希望的観測でしかモノをみなくなる」という人間の習性があるからだと思います。「そうなったらいいな」と思うのはいいんだけど、そうなってくれないと死ぬしかないってなるから、フラットに物事見えなくなる。そうなってくれないと困る!絶対そうなる!そうなるはずだ!って。それって、運転してて、次の交差点では絶対信号青で進める筈だ!と思い込んで、赤信号無視して突っ込んでいってしまうようなものです。余裕のないときに勝負かけるな、です。競馬→ハマる→会社の金使い込み→破産 or 背任横領で逮捕/自殺パターンが後をたたないのは多分そういうこと。
リスク管理はメンタル
僕がセーフハウスとかでやいやい言ってるのも、数ある想定シナリオの中に入ってくるからです。絶対そうなるってもんではなくても、そうなる可能性が少しでもあれば対処はすべき。人の心理として、「イヤなことは考えたくない」ものだけど、リスク管理は「イヤなこと」をどれだけ考えられるかに尽きます。プランBも、Aが失敗したら?という想定のもとにやるわけだし。でも縁起でもないことを冷静に考えるのは、相当な精神的なタフネスが要ります。ずーんと暗くなって鬱になったら元も子もない。これでもかというくらい縁起でもないことを想定しつつも、けろっと明るくやらねば。その意味でリスク管理の上手さはメンタルの強さに比例すると言えます。メンタル弱い人はリスク管理も上手ではない傾向があり、それは弁護士時代の案件見ててもそう思った。人によっては自殺行為レベルのことを3回連続くらいでやってたりするから、そりゃあ破綻もするよと。ちなみに、リスク管理の意味で保険とかに入るんだろうけど、でもその保険会社が倒産してパーって可能性もリアルにはある。そこまでは考えない人が多いんだけど、日本の保険会社で倒産した会社は、ここ20年でも、日産生命、東邦生命、千代田生命、第百生命、協栄生命、大正生命、東京生命、大和生命がある。いずれも外資系のカタカナ保険会社に事業承継されているけど、意外と多いのだ(出典)。また、事業承継するから大丈夫ってもんでもない。破綻を避けるために事前にあれこれやるからです。つまり加入時の予定利率を勝手にどんどん下げられて、「こんなリターンだったら最初から入らなかったよ」って形にされちゃうのもリスクの一つ。その昔(80年台)は日本国債の運用も8%とか、マイナス金利の今から思うと信じられなような時代もあって、その前提での予想利回りですからねー。ちなみに僕も日本にいる頃に勧められて、自分で電卓叩いて利回り計算して、「向う30年以上金利5%以上が続いたら」という前提の話で、その可能性はまず無いだろと判断しました。
リスク管理って、「安心したい人」には向いてないと思います。「安心したい」という心理目標がある限り、どっかしら希望的観測が入り、「そういうことにしておきたい」という意識が入る。この意識がクールな計算の邪魔をする。何をどうやっても絶対安心なんかできないよ、それが普通、諦めろって大前提で、でも危険係数を減らすことは可能という観点でやらねば。
お金は感情のための道具にすぎない
さて、本題に戻って、とりあえずの金稼ぎ体験としてのジャパレスですが、一件働き始めたあとに次に出てくる問題は「店を変えるかどうか」です。その際の比較ポイントで当然出てくるのが時給です。お金のためのやってるんだから、お金がいいかどうかは大事な基準です。それっきゃないだろ?って思うかしらんけど、意外とそうでもない。働いてて楽しいか、あるいは後に尾を引くようなイヤな気分になるかも大きい。てか、そっちの方(気分の問題)がお金以上に大きい。なぜなら、お金って、お金それ自体に価値があるわけじゃないです。ただの紙だし。お金を使って得られる「効用」に価値がある。じゃあ、その効用ってなにか?をどんどん抽象化していくと、結局「気持ち良くなるかどうか」に行き着く。沢山お金があったら?フェラーリを買う、なんで買うの?と言えば、持ってると「むふふ」といい気持ちになれたり、乗ってると「おお」といい気持ちになれるからでしょ。美味しいものを食べるでも、旅行に行くでも、豪邸に住むでも、なんでもいいけど、要は気持ちよくなれるという点にポイントがある。
逆に支払いに追われないとか、破産やホームレスにならないで済むとかいうのもあるけど、それはその気持ち悪さをお金が軽減してくれるという意味で、マイナス100をマイナス20くらいにまでしてくれるというプラス80が価値本体であり、だとしたら同じことでしょう。
考えてみれば当然すぎるほど当然の話です。なぜって、最終的に価値判断するのは僕ら個々人であり、僕らは何をどう思って判断するか?でいえば、結局脳味噌でやってるわけなんだから、要は気持いいか/悪いかに尽きる。「気持いい」って表現が気に食わないなら、快適さとか、充実とか、幸福感とか、なんでもいいですけど、言わんとするのは同じ。脳内がぱっと or ほわーんと明るくなるかどうかでしょ、究極的には。
感情化学
この脳内快楽基準説みたいなものは昔っから書いてますけど、でも、ほんと、そうとしか思えないんですけどね。でね、バイト(仕事でもなんでも)するときに、時給が2ドル高かったとしても、2ドルで得られる快楽よりも大きな不快を得ていたら、トータルでは損です。純然たる損得勘定でいえばそうだし、事実もそうでしょう。一時間に1杯ジュース無料でくれたら、これまでの1時間分の不快差分が消えて、お釣りがくるか?です。ただ自分の感情に値付けをするのって難しいから、このあたりの判断がしにくいんだけど、でも意識的に慣れておくといいですよ。「いくら払うとこのくらいの気持よさ」という。だってここがわからなかったら、トータルでの損得勘定が出来ないわけでしょ?意味ないじゃん。下手すれば、お金は死ぬほどあるけど全然楽しくない、じゃあそれまでの苦労はなんだったんだ?「人生まるで無駄」みたいな頭の悪い話になっちゃうよ。
それにここを考えていると、意外にお金の数値と楽しい感情は正比例しないのもわかる。10倍払ったら10倍楽しいか?というと、そういうもんでもない。でも2倍払うと2倍楽しいくらいの実感があるなら、どこでマックスポイントがくるか、どこで最適化するかです。
もちろんモノにもよりますし、時と場合にもよります。2倍払うと5倍楽しいってこともあるかしらん、てかあります。ここでケチるとまるで無駄なんだけど、もうちょい払うと天国にいけるという。1000円だったら金をドブに捨てるようなものだけど、1400円払うとめちゃ楽しいってこともある。でも1800円払うなら1400円の方がマシだという逆転現象もある。
「楽しい感情」というのは、ナマモノですので、ある意味では料理に似ていて、いろんな要素が重なって成立する。単純な足し算というよりも、「一滴垂らすと世界が変わる」的な掛け算割り算の化学反応みたいな妙味も強い。感情「化学」です。
ここは本当にセンスの問題で、茶道でも茶室というクソ狭い、まるで監獄のような建屋で「宇宙を表現する」という「趣向」というマジックをかける。そうかと思うと、ピクニックのような野点もやる。それがボロいだけなのか、骨董品的な味わいがあるのか、アウトドア快感があるのかホームレスなのか、「感情化学」といのはかなり玄妙で、難しい。
感情工学
これらは感情という化学反応を見極めようとするものですが、より一歩進んで、不快な感情を減らして、楽しい!という感情を増やすには「どうしたらいいか?」という実践的な方法論に進むべきで、ここから先は「工学」的な発想になるでしょう。また、その反応を得るための投下資本(金、労力、時間)の効率性や法則性を極めるという感情「経済」学もまたある筈です。そこで思うんだけど、お金を稼ぐためにエネルギー100%使うんだったら、金稼ぎを50%にして、楽しいセンスや方法論を磨くのに50%使ったほうがいいですよ。トータルではそっちの方が効率いいんじゃないかな。それが21世紀の人類の(無意識的ではあろうが)方向性だと僕は思うよ。金で買うような楽しみには、もう皆、飽きてきてるし、物足りなく思ってる。もっと先にある素敵なところに行きたいと思ってるんじゃないかな。
ということで、最終的なコスパ計算の天秤の皿に乗るのは、純然たる自分の感情でしょう。気持ちよさを金で買っているのだ。そのものズバリではなく、気持ちよくなれそうな道具(眺望抜群の部屋とか、面白い小説とか)、環境整備(エコノミーではなくビジネスクラスにするとか)を買ってるんだけど、最終評価部分はあくまで感情。
だとしたら、2ドル分余計に稼いでも、それでなんかイヤな気持になり、それが2ドルくらいではきかないくらいだったらどうか?「すべての給料は慰謝料である」という名言がありますが、例えば、自動車事故で全盲になったとして、慰謝料2000万円もらったらチャラにできるか?というと、まあできんでしょ?1億でも2億でもダメだろうな。
何がいいたいかというと、お金で気持良くなること、お金で不快感を減らすことって、意外と難しいですよってことです。職場を比較する場合、大抵の場合だったら、気持いいかどうかで決めるといいかと思います。給料いいほうがいいだろうけど、そんな10倍とか100倍ってことは普通ないし、コンマ何倍くらいでしょう?そのくらいだったら、気持いい方がいいですよ。その方が結局得だから。
だって職場でもなんでも不快感って中々払拭されないですから。ちょっとお酒飲んだり、美味い飯食ったくらいではおさまらない。むしろ改めて思い出してしまって、あー又だんだん腹たってきた!ってなったり、夜も寝れなくなったり。それを根絶するにはいくら掛かるの?どんなことすれば忘れられる?かなりドラスティックなこと(隣が火事になって必死に逃げたり、スカイツリーからスカイダイビングしたり)しないと消えないよ。
仕事選びでも、何か将来的な目的があるとかいうなら別ですよ。どんなイヤでもやったほうがいい場合も確かにあります。だけど、それとて「将来の目的に進んでいる」という「気持ちよさ」に還元されるわけでしょう?目先の不快よりも大きな快感があるからやるわけで。
そのあたりは直感的にわかるだろうし、その「直感しっくり」に従ったほうがいいと思います。これもセンスの問題で、本当に滑らかにすっと感情が通ってる場合と、どっかしら引っかかりはあるんだけど、無理やり上から舗装工事をしてなかったことにしてるかとか。
やりかた産業
シェアリングは本体ではない点
ついでにもう一点。21世紀のビジネスモデルにシェアリング経済があるのですが、「シェアリング経済」という概念でわかった気になってていいんだろうか?という疑問が前々からありました。そういうことじゃないのかも?という。
そのへんバイトやりながらつらつら考えてて。肉体労働っていいですよね。慣れたら身体が勝手に動くから、頭は自由思索にふけれるので時間をダブルで使える。で、考えてて、シェアリングっていうのは一つの具体的な解法なりやり方に過ぎず、根っこにあるのはもっと違う概念じゃないか。それは何かというと旨く表現できないんだけど、「やり方産業」みたいなものではないか。
地元の新聞に、Uber Eatsの苦情が出てました。シェアリング経済の出前版で、オーストラリアではすっごい伸びてます。Deliverooなんかもそう。レストラン産業という業態そのものが変わるくらいで。で、問題として報じられているのは、デリバリーミスその他のトラブルを、Uberは全部店側の負担にしている部分です。その言い分は、うち(Uber)は、デリバリー業をやってるのではなく、ソフトウェア業をやってるんだという。でも、誰が見てもデリバリー業だろ、逃げるなよって批判が(レストラン側から)起きてる。
その問題はさておき、そうなのですよ、多くのシェアリング産業の本業形態は、Airbnbにせよ、Uberにせよ「ソフト会社」なのですね。ああいうアプリを開発して使用させているIT産業なのだと。まあ、実際そうではあります。
ただ、思ったのはITとかアプリやソフトというのも違うだろう。まず「こうしたらいいじゃん」という素晴らしいアイディアがある。シェアすれば安く済むじゃん、皆でやればもっと効率的じゃんという発想があり、それを具体化させていくためのあれこれの知的付加価値部分こそが本体だろう。
今回の引っ越しで、はじめてGo-Getというオーストラリアのカーシェアを使ったんだけど、なるほどよく出来ています。会員証がカードキーになるのがミソです。PCやらスマホアプリで、とある場所にあるシェア車を、とある時間にブッキングします。その時間にその車のある場所に行って、車に設置されているスキャナー(カードリーダー)機器にむけて、フロントガラス越しにカードをかざすと、かちゃっと音がして車のロックが解除されて中に入れる。中には車のキーがある(縛り付けられて外せないようになっている)。利用中に車の施錠をする場合も、カードをかざせばロック・アンロックが出来る。つまり会員カードが車のドアのカードキーになる。
これは技術的にIoTなのかな。オンラインでブッキングしたら、その人の会員番号などのデーターと予約データーを、車本体のカードリーダーに遠隔操作(ネット経由)で新たに入力して上書きするのでしょう。この技術が、このビジネスの根幹技術であり、最初にこれを思いついたやつはエライなーと思った。
で、最初に技術ありきでそこから着想を膨らませたのか、あるいは着想が先にあってそれに見合う技術を探した(開発した)かは知りませんが、やっぱ本体になるのは着想、「やり方」だと思います。IT部分、つまりそれなりにアプリで表現する工程(ロゴやらデザインやらユーザーインターフェイスも含めて)は、それほど上位に来るわけでもない。場合によっては外注でもいい。
ITってめちゃくちゃ地味な技術で、かなり幼稚なレベルのHTMLでもそう感じるのですが、もうひたすら地味にコツコツやるしかない。ITって農業だなってやる度に感じる。でもって、ITが花形とか言われるけど、技術そのものはどうでもよくて(外注でいくらでもできる)、その技術をつかってどういう「やり方」を開発するかの方が遥かに重要なんだろう。現場の手作業仕事をやるのは、ほんと誰でもよく、いわば農夫か炭鉱夫みたいなもんだなと。
そして、キモが「やり方」だとしたら、別にITでなければならない必然性もないです。大福帳の方が効率的だったらそれでもいいし、顔認証システムとか頑張らなくても、小集団内部だったら昔ながらの「顔パス」で全然出来てしまう。
だからあくまで「やり方」なんだ、この「新しいやり方」を開発〜実用化させる部分こそが21世紀のビジネス形態なんだろうと思った次第です。
まあ、やり方論は、どんな時代でも出てきますよ。江戸時代の飛脚というデリバリーシステムという「やり方」、大量生産という「やり方」、スーパーマーケットという発想、寿司が廻るという着想、いずれの時代もそういうのは大事。だけど、21世型と敢えていうのは、外部環境がそれ以前に比べてかなり変わっているからです。世界の標準化(先進国が落ち目で新興国があがる)やらグローバリゼーションやら、IT技術や、素材産業の著しい進展やら、高齢化少子化もそうだし、国家社会の役割や機能劣化と新しいモデルの模索にしてもそう、なにもかもが急速に変わってきている。
ということは、昨日までできるわけないじゃんってことも、明日には出来るようになるかもしれない。逆に昨日まで出来てたことが、明日にはできなくなるかも知れない。
前提が変わるとやり方も変わる
前提が変わるということは、スポーツで言えばルールが変わることに近い。そしてルールが変わると、戦略や戦術も変わる。例えば、サッカーでは(キーパー以外)手を使うことは禁止というのがルールだけど、これを変えたらどうなるか?仮に、キーパー以外の選手10人のうち一人だけ手を使ってもいいことにしたらどうか?そして、その一人が誰なのかは予め登録するのだけど、相手に示さなくても良いとなるとどうか?また、随時変えられたらどうか?これ、戦略がガラリと変わるはずですよ。なんせ相手チームの誰か一人が手を使えるかもしれないわけですよ。空中プレイなんかでもヘッディングではなく手を使えたら、ぱっと取って、ドッジボールみたいに即座にパスできるわけですもん。しかし、それが誰かはわからない。だから、想定としては誰もがその可能性があるということで守備陣形を作らないといけない。逆に、自分サイドも一人手を使えるわけだから、それを誰にして、どういう局面で使うかです。なるべくバレないようにして、最後の最後に手を使うとか(笑)、もう根本的に「やり方」が変わってくるでしょう。
時代が変わる、環境が変わるということはそういうことで、今の先端ビジネスってそういうものだろう。先端って、行くところまで行ってしまえば、あまりにも新しすぎて、まだネーミングが出来てないし、そもそも認知もされてない。あるいはビジネスの形にならないと思います。でも、あると。
セーフハウスだ、身軽断捨離だ、空き家活用だ、ノマドシステムの普遍化だとか言ってますけど、なんで自分がこんなに興味を惹かれるのかな?と思うと、やっぱり大前提がかなり変わってきているから、「新しいやり方」がいくらでも転がってるように感じるからだと思います。それは25年以上前のバブルの頃に、もう頭打ちでこれからは海外かな、オーストラリアかなと漠然と考え始めたころの嗅覚に似ています。ここを掘っていくと楽しいことありそうだぞ、ここ掘れワンワンみたいな(笑)。
実際、空き家一つとっても天地逆になるくらいの変わりようです。なんせ地上げ時代にヤクザ風味の連中と顔つき合わせて交渉してた身からすれば、「土一升金一升」と言われた日本の狂乱不動産価格(日本全部の地価でアメリカが2個買えると言われた)、なんだこりゃ!?ってくらいの激変です。その辺の粗大ゴミにフェラーリやギブソンのギターが捨てられているようなものです。そういえばギブソン社倒産したとか聞いたけど(ギターは作り続けるらしいけど)。
名前がついたらもう手遅れ
それでどうなるか分からんし、ましてやビジネスになるかどうかも全然わかりません。てかね、そのコンセプトが雑誌に載ったり、分かるように解説されたり、ネーミングされるようになったら、もう「手遅れ」だと思います。まだ名前もついていない、てかそういう一つの現象なり活動なりとして誰も認識もしてないような段階が面白いです。いま適当に「やり方産業」とか言ってるけど、自分で考えて自分でネーミングするしかないくらいの感じ、他人に言っても誰にもわかってもらえないくらいがよろしい。
シェアリング経済の自家製版とか、ネットワークビジネスのなんたらとか言ってるのも、わかりやすく一昔前の概念を借りてるだけで、ほんとは違うんだけどなー、でも言葉がないなーって。それは丁度、インターネットの概念を説明するときに、「電話みたいなもん」とか説明してるくらいの感じ。ほんとは違うんだけどなー、でもドンピシャの言葉がないなー、てかそれがどんなもんか自分でも見えてないしなーって感じです。
文責:田村
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